2007年 01月
まさに海賊行為
【シドニー/オーストラリア 30日 AFP】「捕鯨船への体当たりも辞さない」という攻撃的な活動手法で知られる反捕鯨団体「シー・シェパード(Sea Shepherd Conservation Society)」が、このほど、日本の捕鯨船の居場所に関する情報提供者に2万5000ドル(約300万円)を提供すると発表した。
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(c)AFP/Sea Shepherd Conservation Society
【シドニー/オーストラリア 30日 AFP】「捕鯨船への体当たりも辞さない」という攻撃的な活動手法で知られる反捕鯨団体「シー・シェパード(Sea Shepherd Conservation Society)」が、このほど、日本の捕鯨船の居場所に関する情報提供者に2万5000ドル(約300万円)を提供すると発表した】
ここまで来ると犯罪である。
これは「反捕鯨」を隠れ蓑にした、またグリーンピースという名を冠した海賊行為をするために賞金をかけるという思い上がりも甚だしい狂信的なテロ行為を宣言しているとも言える。
これだけの金銭と行動力を持つならば、何故地球環境を破壊しているー鯨の生死をも左右するー巨大で根強い問題に対しないのか。アメリカ、中国ののCO2排出問題、アマゾン流域の原生林破壊、飢餓地域の自給率アップと、いくらでも有意義で賛美される事柄があるではないか。
可愛い可愛い鯨を捕らえて喰う黄色人種の船を追いかけぶっつけるという行為にしか頭を向けない、狭い視野には本当に驚きだ。それも、何が根拠なのかよく分からない行動だ。
ノルウェイは商業捕鯨国なのに、ぶっつけるだの懸賞金といったニュースはない。また捕鯨国なのにフィリピンなどIWCに属さない国もある。どんなポリシーを持っているのか、ガキみたいな行動しかできないのか、情けない話である。
例えばミンク鯨一頭を捕らえて料理した場合,
何人の人たちが飢えから助かるのか、計算したことがあるのだろうか。懸賞金の300万円で貧しい子供たち何人が学校へ行けるだろうか。それよりもこれだけの信念に基づいた活力が、信じるに足りる科学的データ集積に向けたなら、どれくらい捕鯨社会に貢献するかを考えて欲しいものだ。
あまりにも金と時間をかけたお粗末な海賊行為である。
TITLE:日本の捕鯨船に約300万円の懸賞金 - オーストラリア AFP BB News - BETA -
DATE:2007/01/30 20:17
URL:http://www.afpbb.com/article/1282703
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登録日:2007年 01月 30日 21:15:21
老後の亭主寿命は?
【老後に夫と同居→妻の死亡確率2倍 - 暮らし
DATE:2007/01/29 07:58
URL:http://www.asahi.com/life/update/0129/001.html】
この中で『藤本医長は「夫の依存が妻に負担をかけている一方で、妻に先立たれると夫は身の回りのことを助けてくれる存在を失い、逆に死ぬ危険性が高まる。夫が家事などを覚えて自立することが大切だ」と話す』とあるが、「妻ひとりで長生き」をAとし、「亭主ひとりで短命」をBとした場合のAとBの相関関係の結論がこの統計の数字になるのだろうか。しかし本当に亭主の存在とはこんなものなのか疑問だ。
厚生労働省がまとめた「平成17年簡易生命表」によると、男性は78.53歳、女性は85.49歳となった。前年より縮まりはしたが世界一には変わりない。
そして、男女の平均寿命差は、昭和30年では、男 63.60、女 67.75で、その開きは4.15年だが、平成17年には男78.53、女85.49、開きは6.96才とどんどん広がっている。つまり、女性の長寿傾向は男性に比べて確実に伸びているのに、亭主持ちの奥さんは、不幸なことに独身女性より2倍の死亡率なんだという記事である。これと平均寿命との因果関係が分からない。
そして、「家に鎮座している亭主は家事一般に精通して、存在価値を高めないと、奥さんが早死にしてしまいますよ」と言っているのだが、これと女性の長い寿命との関係も分からない。
寿命の条件は、食べ物、医療にストレスも加わるようだが、男性にはストレスがなくノホホンと脳天気にカミさんに頼っているように言われ過ぎてはいないだろうか。では女性より早死にしている統計数字は何を表すのだろうか。正確な実生活の内容が果たして把握されているだろうか。
例えば私の場合、家事一般なんて屁でもない。自動洗濯機、電気釜、電子レンジ、冷凍食品やレトルトものなどは揃っている。洗い物もどうってことはない。だが今のところ朝食つくりと布団の上げ下げ、電器製品の管理と力仕事以外はカミさんから止められている。バスタブを洗うと「洗剤が落ちていない」、洗濯物を干すと「しわになっている」、布団を干すと「一時間ごとにひっくりかえさなきゃ」。つまり、自分の考えと結果が違うというだけの理由なのだ。自分の納得を得るために自分でやるという話だ。男女の適性を活かした仕組みになっている。
こういう亭主殿は決して珍しくない。無論、威張る人もおいでだろうが、家庭生活は♂と♀が徐々につくりあげていくもので、他人には判らない柱で支えている部分もある。このへんも学術的な分析条件に是非加えて欲しい。
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登録日:2007年 01月 29日 13:50:52
弔 とむらい
一片の雲もないとき
母は逝ったという
火葬場は
焼くためだけにある
煙突の上を
烏が飛んで
煙を乱しても
係りの人は
「いい天気だね」と呟く
生身が焼かれ
出てきたときは骨だけ
何故かとても悔しく
号泣した
天国にも地獄にも行かない
積み重ねた年輪分だけ
細胞が生成を繰り返し
骨にへばりついてきた肉が
猛烈な熱で吹き飛ばされた
それが
とても理不尽だった
特に弔いの心があったわけではない
アルツハイマー病で
表情が無くなり
筋力が無くなり
84才で心不全で
死ぬべくして逝った
すべてが淡々としていた
五才から継母だった人
戦前戦後と辛酸を舐め
栄養失調になりながら
肺結核に罹りながらも
三人の子を慈しみ育て
父亡き後
ひとり暮らしで
やっと平穏を得て
大正琴を習い始め
三輪自転車を乗り回し
パンを焼き
時折訪れると
嬉しそうに
ふざけた振りをして
チャールストンを踊り出した
起伏も淡々としていた
喪服の集団が
三々五々
焼却炉から立ちのぼる
一条の煙をみつめながら
小声の語らいを交わし
精進料理をつついては
近況を久しぶりに問う
生きてきた凸凹が
何故こうも平らになるんだろう
葬儀という一連のセレモニイは
きっとその為にある
弔いが凸凹していたら
参列者はいたたまれない
厳かな決まり事が
ひとつひとつ
生きていた者を亡き人にしていく
生きてきたことを歴史にしていく
これから泣くにしても
個々それぞれの想いで
嘘のない涙が出せる
だから弔いは淡々としている
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登録日:2007年 01月 28日 13:30:30
裏通り

昔の色はどんな色
古い手型がくっついて
古い吐息が蜘蛛の巣になって
絡んで
点滅しだした蛍光灯になって
くすんだ字に
どんな生活があったのだろう
見つめるうちに
時間が古い友だちになっていく
昔に色があるなら
白黒などと言わないで
淡いピンクになってくれ
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登録日:2007年 01月 25日 04:20:45
弁当
敗戦の日から56年経った。
当時5才のわたしにはその記憶はないが、食い物にに関しては生理として植え付けられている。
朝夕の食事は家庭内のことなので、みんな粗末であっても我慢できた。しかし弁当はそうはいかない。どうしても比較対照になる。だが自分の人生とはいえ、悲しいほどに記憶がない。唯一、名古屋にいたときの給食のパンは断片ながら思い出せる。学校では食べないで家まで持って帰らなければならない状態だった。いまでいうメロンパンの大きさと思う。下校時その匂いを嗅ぎ、皮をすこーしめくっては口に入れた。その美味はすぐ周囲に飛び散り、なんとも情けない気持ちだった。家に着く頃には4分の3はなくなっていた。岐阜にいた幼稚園児の頃は、おかずはともかく弁当箱一杯に御飯が詰まった昼食だった。
中学時代の静岡では、母は毎日苦労しながらも弁当を作ってくれた。アルミ製で、深さ4センチ、縦横およそ15×10センチだったろうか。同級生の中にはそれでも昼時になると二人は居なくなり、校庭の鉄棒にぶら下がっていた風景が思い出せる。「おれは幸せなんだ」と思いつつ新聞紙の包みを開けふたを取ると、メシは片方に寄って3分の2ぐらいになっていた。母には弁当を垂直に持っていく前提があったらしいが、カバンの構造からしてノート同様縦に入れざるを得ない。それが登校中の揺れでメシの位置が片寄ってしまうのだ。要するに詰めるときに密度が低く、この状態は予測は出来るが、せざるを得ない経済状態だったわけだ。左右の級友の箸運びを見て、ほとんどがオカカや海苔ですでに味付けした至極シンプルな内容だった。以来、小さめの弁当箱に御飯をギッシリ詰めてもらい、副食の容積は5分の3を通している。
わたしは弁当に固執する性癖を持ったのだろうか。新幹線で福岡から東京への間、例えば「のぞみ」では4個の駅弁を消化する。2時間弱でそれぞれ名目を付けて食い尽くす。朝9時に出たとして、先ず朝飯、退屈凌ぎ、昼飯、おやつーといった具合だ。その間に潤滑油と称してビールでのどを潤す。
しかし、どうだろう。単に個人の経過を語るだけのものだろうか。今でこそ「飽食」という。飢えの苦しみを知ってはいるが死にはしなかった。目の前に食べ物があれば盗むことが出来る。哀れみをアピールして食を乞うこともできる。豊かな自然があれば摘み取ることもできる。それらがない親子はどうするのだろう。
色とりどりの演出がほどこされた日本の子供たちの「ランチボックス」をみていると、ふとアフリカの目と腹ばかり大きくなった無表情な幼い子供たちの写真が次から次へと頭の中にプリントアウトされるのだ。
今の時代の子供たちは自分で選んで生まれたのではない。でも、世界の現実を、親は効果的に子供に伝える義務があると思う。週に一回は弁当なしにして、その意味を「喰う」という大切さを知らしめる気持ちがあっていいのではないか。イベントではなく生きる必然の中で教えて欲しいものだ。しかしこれも、腹一杯メシが喰えるいまだから言えるのかもしれず、「他山の石」を承知でカッコウつけているイヤらしい自分が浮き上がってくる。
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登録日:2007年 01月 23日 16:56:52
納豆騒動
カミさんはテレビで言うことを信じる。私が言っても無視するが、同じ内容をテレビが放映すると二もなく受け入れている。信用に足る身近な人間の言葉より、どんなふうに創られたか分からないテレビ番組の内容はチェックすらしないこの感覚が恐い。まさにメディアの盲点であり、操る方は新聞雑誌、インターネットを含めた方法をうまく使えば、多くの人が乗っかってくることを証明したのが「納豆ダイエット」事件だ。
今までにも散々あったが、有名で人気のあるタレントが、商売柄とはいえ一言も疑問視しない流れでしゃべれば「ああ、そうかそうか」と納得し、行動する。最もらしいデータを最もらしく伝えられたら、基本的な知識がない人は飛びついてしまう。特に健康やダイエットに関しては、みんななるべく手軽で実行可能な方法を求めている。
あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ - 暮らし
DATE:2007/01/21 05:09
URL:http://www.asahi.com/life/update/0120/013.html
さいわい私は昔からの納豆愛好家で、こんな唄もつくっている。
ネバネ バネバ ネバネ君
今朝もお早う ネバネ君
そもそも君の生い立ちは
腐った大豆が藁の中
蒸しに蒸されて菌ちゃんが
手足伸ばしてストレッチ
お風呂嫌いが功となり
多少匂いがついたけど
戦国時代が幸いか
喰ったお人が偉かった
君に出会って バネバ君
いまに至るも健康で
納豆菌と名付けられ
昔は西に嫌われた
次第はともかく現代は
全国区と相成った(ここで見得を切る)
ネバネ バネバネ ネババネバ
こうして今朝も練りに練り
カラシとネギで
いっただきまーす!】
栄養分や効能は調べれば簡単に分かるので、一冊の本だけ紹介する。
発酵学の権威で東農大教授の小泉武夫氏著の「納豆の快楽」である。
ダイエットの常識は、運動と適量かつバランスのとれた食事以外にはないと、私は信じている。今回、痩せる期待をはぐらされた方々は、納豆の素晴らしい効能を確認後、是非続けて摂って欲しいものだ。
注:私は納豆業界の人間ではありません。
しかし、企業モラルの低下はひどい。食べ物を作りながら、コスト意識が衛生観念より優ったり、多くの人が信じるであろう健康番組をつくりながらまったくチェックせず、他者に指摘されてから、「こうこうこうだった、スンマセン」と、またもやペコペコは見飽きた感じだ。
【お詫び http://www.ktv.co.jp/070120.html】
日本という樽のタガがどんどん弛んでいる。
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登録日:2007年 01月 21日 06:12:54
時計の悩み
【シカゴ/米国 17日 AFP】米国で核戦争による世界滅亡の日に向けて時を刻み続ける「世界終末時計(Doomsday Clock)」。
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(c)AFP/Scott OLSON
【核戦争で地球文明が滅亡するまでの時間を象徴的に示す「終末時計(Doomsday Clock)」の針が2分進み、「滅亡時刻」を表す午前0時まで「残り5分」となった】
URL:http://www.afpbb.com/article/1249805
時計は時を刻むことで存在価値がある。そしてこれほど無機質で無情なものはない。
楽しい弁当の時間はあっという間に過ぎて、午後の長い労働の時間は遅々と進まない。人間が自分で創って、落とし穴を覆い、誕生して成長して老化のパターンを編み出した。幸せの時はどんどん過ぎ去り、断末魔にはどんどん近づいていく。
偉い学者さんが終末時計をつくって、針は右回りに進んでいるという。これは原爆の脅威を示しており、スタートはナガサキ・ヒロシマだそうな。
私が思うに、本来なら米国人のオッペンハイマーが実用化した時点でネジを巻くべきだ。使いたくてうずうずしていたルーズベルトとトルーマンが使用名目を思いついたときには既に滅亡時刻は「残り2分」。使ったときに「あと1分」。保有国認知で30秒。パキスタン、インド時点で15秒で、イラン、北朝鮮の段階で残り10秒と言ったところだ。
一体核を持ったからその国や団体はどうだというのだろう。そんなに強いのだろうか。そんなに幸せなんだろうか。そんなに豊かなんだろうか。私には、馬鹿が気付かずに大馬鹿になるために「持った持った」と喚いているとしか思えない。私にとって核は、死神の鎌になっても畑を耕す鍬にはならない、死の灰になっても実りの種にはならない。これが分からない世の為政者たちは、チマチマと目先の「脅しの利益」を得るために今日も得意気に政治を弄んでいる。
もうひとつ時計を見つけた。
【「スロービジネススクール」設立趣意書
2003年9月17日、地球の環境悪化による人類存続の危機の度合い示す「環境危機時計」は昨年より10分進み、9時15分で、“滅亡時刻”の12時まで残り2時間45分の過去最悪になったと旭硝子財団が発表しました。0:01~3:00は「殆んど不安はない」3:01~6:00「少し不安」6:01~9:00「かなり不安」9:01~12:00は「極めて不安」を示しています。地球温暖化、森林破壊・砂漠化・生物多様性の減少、有害化学物質などに対する不安が極めて大きくなっています。
URL:http://www.windfarm.co.jp/sbs/03.html】
身近なところでは、「年金制度破綻時計」や「役人天国による亡国時計」、「モラル・ゼロ時計」といくらでもあちこちで、チクタクチクタク ボーンボンと聞こえている。
ジジババも応援するから、若者たちよ、破滅ばかりの時計は捨てて、新品の時計をつくってくれ。だれにも質屋に入れさせないから。
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登録日:2007年 01月 19日 13:19:33
筑豊ー変化の一端

市町村合併は政略結婚の典型だ。根底の損得を省くことが出来ない結婚である。
筑豊の田川市でも、周りの香春町、添田町、糸田町、川崎町などと合併すれば、国の施策に添え、覚えも目出度いのだが、赤字だったりギリギリだったりのどこも似たり寄ったりの財政状況で、旨味が見つからない。
金以外の旨味がないとすれば、だれも借金まみれの家の息子や娘とは一緒にならないだろう。政略の意味がない。そもそも損得計算に興味がない私としては、日々暮らす人たちの変化が面白い。
田川市では旧炭坑住宅がどんどん無くなり、懐かしい棟割り長屋は数えるほどになった。住む人にとっては生活を送る上での条件がアップして気持ちが良いに違いない。反面、遮っていた木の壁がコンクリートに代わり、同時に人との関わり合いも遮られて、味気なく感じている人もいるのではあるまいか。最近の元炭坑マンや奥さんたちは次第に個に切り分けられ、団地箱に引っ込んでいるようで、元気な姿が少なくなっている。
人間にとって、まわりがデジタルにやたら整然となっていくと悲しくなるときがある。少しはほこりが舞い、喰いカスがへばりついたカウンターのラーメンを「うまい」と云う人が減ってきたということだろうか。
霞ヶ丘から撮った昭和45年頃の大浦炭住の模様である。
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登録日:2007年 01月 18日 21:15:24
清貧とは?
「清貧が好きだ」と、以前書いた記憶がある。それを一部訂正したい気分に最近なってきた。特に「清」だ。本来貧乏に「清」などあるわけがない。こんなことを云っている間は真の貧乏ではなく、いってみりゃあ余裕があるから少しは貧乏の真似をしてやれと思うだけで、まやかしもいいところだと気づいた。
貧乏の基本は「金がない」から始まる。従って物がない。いま、一世帯の物品数はおよそ一万点以上らしいが、今の時代、なんたらかんたらノミのくしゃみからわたしの愛車ベンツ(本当は10年以上経つ軽自動車の中古で、カミさんはベンチと言っている)まで入れるとそれに達するだろうか。他の家庭も似たり寄ったりだと思う。いわゆる不要品があっちこっちに眠っている。本来、貧乏の本家は日々のメシも喰えないのがベースになっているはずだが、意識的に拒食してる人を除けばそういるはずがない。働きのない「パラサイト云々」は親が喰わせ、ホームレスは残飯とはいえ結構カロリーを摂取できる。ましてや衣服なんぞはみんな持て余し状態だ。ただ住むところはちょっと厳しいだろう。マンションなどと未だにボロアパートを呼ばせている大家は店賃をまけはしないし、都会になるほどシビアになる。
わたしが問題視しているのは、ダンボールを住まいとしながらも高邁な理想を持てないことだ。ヒトは簡単に状況判断で納得する、または「したい」人種が増えている。これは残念ながら年代を問わない傾向で、理解を前提にしないで判断したがる。企業が年令で人事を動かすバカさと同じで、クソガキなんぞは集団で襲ったり火を付けたりする。そういう人間こそ居なくていい存在なのだが、行政も楽をしたいのかほぼ同じ感覚なのだ。これでは清貧なぞ育つわけがない。
中学時代、わたしは「われわれは人間である」というテーマで弁論大会に参加した。人間は社会の一員でなければその存在が問われる、また社会は個を尊重してこそその意義があるなどといった憶えがある。それが損なわれつつあるとき、再度人間たちに問いたい気持ちでいっぱいだ
貧しさを侮って自分が豊かになれるはずがない。
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登録日:2007年 01月 18日 05:33:49
気難しさ
ある年令になると気難しくなるらしい。
若くてもそれなりの要素を持つ人はいるが、あまり褒められた精神状態ではないと思う。つまり「頑固」につながる硬直がいづれは「頑迷」にまで達し、私が最も忌み嫌う「観念的」考え方になるからだ。などと、人事のようにいっているが、、最近とみに自分が気難しくなっていることを認めざるを得ない現象が細々と、かつ頻繁に起こっている。
扁桃体が活発になって、好き嫌いで物事を決めていく。時間に特にうるさくなる。病気があるかないか神経質になり、それ自体病気のようだ。物の位置が変わっていたり歪んでいると直したがる。そのくせ、衣類は脱ぎっぱなし、喰いっぱなし、汚しっぱなしという「3放し」には平気である。社会の動き、特に最近の政治の動きには人並みに関心を持ち、ネチネチとカミさん相手に持論を展開し時事に反応している。この面は割に公平に観察しているつもりだ。政治屋や役人のエリート的頭の悪さを元に、自分に都合のいい行政を、集めた税金で出世や老後の保証を作られたんじゃたまったもんじゃない。利権の絡みのみで施行する愚を二転三転させて民を苦しめるなんざ、偉そうな顔をしているだけに腹が煮えくり返る。と、つい突っ込んでしまうのも気難しさの故なんだろう。
新世紀も年をとりすぎたのかも知れない。 一世紀を一才とするなら、今年は活力溢れた二十一才の若者である。仰げば空青く、地平線に目をやれば豊かな緑に溢れ、足元からはせせらぎが心地よくささやいている。そのはずが、以外に年とっていた。現実を見ることが出来るだろうか。一世紀を4才と考えた方がいい。あちこち病んでいる。緑は砂漠に侵され、高収入を求めて水は汚れ、エネルギー使い放題で空に穴が開き、人間たちはそこら中で相も変わらず争っている。人は増え続け食糧不足も間近に迫っている。
いろいろ勉強してきたはずなのにねー。
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登録日:2007年 01月 16日 06:10:16
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