ブラり散歩*映画談義

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コマに向かって左側の映画館に、ケビン・コスナーの看板が見えたので迷わず入場した。20年は越えている、久しぶりの映画館だ。タイトルは《守護神》。
沿岸警備隊の海難救命士物語。ベテランと新人の葛藤とヒューマニズムを描いている。米映画に珍しく最後は主人公が死んでしまうが、志は受け継がれるというもの。嵐の中の救助シーンはなかなかで、音響効果のすさまじさに驚いた。

西武新宿線へ向かう道の左角の映画館。ここは何故か昔の佇まいで味がある。
《武士の一分》
毒味役が貝にあたって盲目になり、お役ご免の憂き目にあうところを、妻に横恋慕する上役がそれを種に妻を犯す。自分の邪推で妻を追いだすが、事実を知った夫は上役と対決し、勝ったのち自害に追い込み、面目を保つ。
ここで言われる「一分」は、30石取りの下級武士が盲目という不利にもかかわらず、一刀流免許皆伝の切れ者で番頭の上級武士に1対1の決闘を望む心意気のことだ。
『ともに死するをもって、心となす。勝ちはそのなかにあり。必死、すなわち生くるなり』という師匠の教えは、相打ちの心(肉を切らせて骨を切る)とみた。これは「貞節」という刀を使った妻の心情も同じである。身を挺してでも夫(との生活も含む)を守る自己犠牲の心情からすると、タイトルを「妻の一分」としてもおかしくない。更に、敗れた相手が恥を知って腹を切ったことも「卑怯者の一分」といえる。
見終わったあと、ちょいと小腹が減ったので立ち食いでワカメ蕎麦(何故ワカメなのか記憶がない)をズルズルと喰いながら、自分になにか意地を押し通す「人間の一分」があるのか、考えてみた。よく「1寸の虫にも5分の魂」は使うが、これは人間全般に、特に社会的に体力的に弱い立場に置かれている場合で、武士の一分とは微妙な違いがある。庶民とサムライという違いだからなのかも知れない。
わたしが最も武士を感じる言葉はやはり「武士は喰わねど高楊枝」である。「葉隠れー死ぬことと見つけたり」ではない。先ずは必死に生き抜くことだ。潔さも含まれる。目の前の利益や法律に触れない虐めに組みすることなく、貧乏なりに満ち足りた生活を過ごす。一見マイホーム主義ではあるが、これがなかなか難しい。貧乏という条件はクリアーしていても、雑炊よりステーキになってしまう。向上心がなくなると言われるかも知れない。
グローバル化とやらで、現代では主に殉じるより自分を信じて従う人が増えている感じがする。経営者や上司に魅力や尊敬を抱けないシステムになりつつある。エゴではない「自分の一分」を持つことが出来れば藤沢周平氏の世界とサイクルが合うのかも知れない。

後で知った映画チケット代ーなになに、高校生3人で1000円?60歳以上だと1000円でいい?アー、損した。1800円×2回=3600円。1600円損したー。どうだい。こんなことを今更言うってことは、わたしが貧乏だという証拠だ。あとは、いちいち文句タラタラ言わないことだ。一分どころか0.2分くらいか。

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登録日:2007年 02月 28日 09:28:14

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