作品を所有すること



ヒットラーが画家に憧れ、美術学校に落ちたというエピソードは、ちょっとだけ知られている。このような作品は、上手い下手の問題ではなく、ヒットラーが描いたから、値段がつく。付加価値というよりは、不可分な価値でしょう。

これが誰か別の普通の人が描いたものなら、この値段はつかない。
モノそのもにに、歴史的な価値があるというわけです。

■芸術作品=所有可能なモノ

時代によって、芸術の表現の方法が変わってくる。ちょっと前の時代まで、芸術といえば、キャンバス状のものに二次元の絵を描いたり、石などを彫って彫刻を作ることだった。はっきりと、そこにはモノとしての作品があった。その作品の意味も価値も、そのモノと不可分だった。

最近のアートは少し違ってきている・・・なんか、違うな?と思っている人も多いと思う。実際、もう、モノを扱う手法では扱いきれない作品・作家が多くなってきているのじゃないだろうか。だから知的財産に関する事柄が、問題になってくるのだと思う。

オークション会社主導で芸術作品が取引されるようになったのは、1980年代といえる。それまでは、画商が中心だったといってもいいと思う。もちろん、今も画商がいるのだけど、オークションでの取引がよく話題になる。

■芸術作品=体験、アイディアの場合は?

考えてみたら、芸術作品が「取引」されるというのは、つまり金銭を対価として作品の「所有」が可能だということだ。つまり、芸術作品も煎じ詰めればモノであるということだ。しかし、最近の芸術作品は「モノ」ではなくなってきている。パフォーマンスアートだとか、インスタレーションだとか、コンセプトアートなど、モノそのものに価値があるというより、その体験・鑑賞そのものを味わうというスタイルの芸術作品が主流になってきているのだ。

例えば、オルデンバーグのように、日常にあるもの(洗濯ばさみとか、バドミントンのロケットとか)を巨大化させて公共の空間に置くような作品。これは、人が見て驚いている景観込みの作品だ。自分のビルを作って、その中に置いて一人でこっそり見ても正直楽しくないと思う。サイズのギャップを味わうものだ。こういう作品を仮にオークションに出すとして、誰かが買うとして、一体何をどう買うのか?場所まで買うのか?買ったことで、どういう所有感を感じたらいいのか?ぶっちゃけると、転売可能なのか?資産としての価値になるのか?

例えば、自分が整形手術をして変化するさまを見せたりする作家もいる。一体彼女の作品は、どうやって売り買いできるのか?人が驚いたりするサマが作品の一部なのに、それが売れるのか?そのように、20世紀後半の芸術は、より観念的、体験的、時間的なものになっていっている。そんな場合、モノそのものを買っても、とりたてて面白くなかったりする。作品の価値や意味が、モノから敷衍して、体験や他の人のリアクションまで広がっていっている。美術館なら美術館という空間で存在し、驚いている回りの観客ごと全部が作品の一部だったりする。だから完全に「所有」することが難しい。そもそも、技術的に難しいとは限らないことがあるので、レプリカを作ったとしてもそれなりに同じような感慨はもてそうなくらいだ。そういう名人芸的・職人的な作品が減ったのも20世紀後半の特徴だ。

■所有権から使用権へ

コンセプトを体現する作品が主流になるなら、そのコンセプトという無形のものを売り買いすることになる。つまり、二次使用料みたいなものだ。アイディア料だ。

また、今、ますます主流になりつつあるデジタルの作品の場合は、そもそも一点ものという感覚がない。版画なら、刷る枚数が決められる、元の版を壊すことで限定品になる。しかし、デジタルの場合は無限に複製可能だ。所有権ではなく、使用権になる。

そうなると、どうやって取引するのか?ほとんど、モノの価値よりアイディアやコンセプトの価値が主体なのだ。モノとしての作品はそれを伝えるための、土台に過ぎないという作品が増えているのだ。お金でモノとしての芸術作品をやりとりすることが、作品の性質上不可能な状況だ。

既存のオークション会社が、印象派の画家の作品を売るように、クリストの作品を売れるのか?クリストとは、なんでも包んでしまう作家だ。島をまるごと包んだりする。もちろん、一発終了の作品で、彼の作品を買うとしたら、つまり彼がアイディアをまとめた絵コンテを買うということになる(彼の資金源だ)。彼の「包んじゃう」というパフォーマンスそのものを所有することも、転売することも出来ない。また同じ手を使う、というアイディア使用料なら出来るかもしれない。TVでの放映権とか、DVD化の権利なら価値があるかもしれない。

しかし、それは既存の画商やオークション会社の仕事だろうか?

そこで、知的財産という無形の何か、コンセプトやアイディアを保護したり売り買いしたりするということになる。なんだか、弁理士や弁護士の仕事みたいになってきてる。


繰り返すが、現代美術はコンセプトという無形なものにこそ価値があることが多い。もう、モノを扱う手法では扱いきれない作品・作家が多くなってきている。パフォーマンスアートなど、どうやって売り買いするのか?パフォーマンスをする作家の時間でも買うのか?そのパフォーマンスをする権利を買うのか?このような性質のアートを、画商やオークション会社は今後どのように扱っていくのだろうか、そう思う。

これからは、名人的・職人的な技術を示したモノとしての価値があるようなものを(段ボールをたくみに使った作品だの、漆塗りだの、オートクチュールのドレスや、そういう一点ものだ)画商やオークション会社が扱い、コンセプトを売りにする複製可能な作品たちは別の市場で取引されるようになるだろうと思う。後者は、工業・広告・エンターテイメントさまざまな分野に広がっていくと思う。そして、実際にはもうすでに広がっていると思う。

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登録日:2012年 02月 13日 20:49:04

市場価値と美的価値~16億円もする絵~ウォーホルの場合



一枚の劣化コピーのような画像が16億円。
どうしてそんな値段なんだ?と思うのが普通だと私は思います。それとも「ウォーホルは有名だし、仕方ないよ、よく知らないけど」と諦念をもって眺めるのか。現代アートはよく分からない、酔狂な人間のやることはよく分からない、そう思って、いいや、と思う人が多いかもしれません。

20世紀後半の美術界を担ったというウォーホル。でも、どう担ったのか、ちっとも学校では教えてくれません。

今回は少し細かく追ってみていきましょう。

≪初心に戻って真っ白な頭で見た感想≫

この記事を見て、まず思うことはなんでしょう。美術史のクラスの一年生だった頃を思い出して、当時の私がどう思うか想像してみました。今ではそれなりに美術史も知り、年もとって、ある程度はこの作品を味わえるようになりましたが、当時の私は思っていました「こういうのがイイなんて、本当に訳が分からない。だからアメリカ人は・・・」と。

「写真の劣化コピーを集めたような絵だな、ウォーホルのマリリン・モンローとかもそんな感じだな。アメリカ人はこういうのが好きなんだ、何か日本人には理解しがたい軽薄さがあるんだ、きっと。」

「なんでそんな値段するの?もっといいもの沢山あるんじゃないの?例えば何かっていうのはよく分からないけど」

「本当に価値あるの?ぶっちゃけてしまうと裸の王様的なものじゃないの?でも、細かく攻撃する言葉は思いつかないから黙っておこう」

これが当時の私の、素直なリアクションでした。

≪一歩踏み込んで、湧いてくる疑問≫

そもそも、この作品は何を表しているのか?
ジャッキーとは誰か?この作品はいつ作られたものか?
何をしたかったのか?何がすごいのか?
どうしてそんなに高いのか?
どう思いますか?どんな疑問も馬鹿な疑問ではありません。聞いていけない質問は、アートに関しては、ないのではないでしょうか。ただし、答えがあるとは限りませんが。ちょっとそういう目で見てみると、いろいろ疑問がわいてくるものです。でも、きっとくだらない疑問だと、自分で勝手に決めてしまうことが多いと思います。

詳しく調べたい方は、ウォーホルのHPが解説なども充実しています。このHPやその他の情報から、この疑問に答えて、読み解いていきたいと思います。

≪記事とチラ見だけでは分からないこと~メッセージは「メディアが繰り返し繰り返し報道する悲劇にうんざり!」≫

*ジャッキーとは?

ジャクリーン・ケネディ、通称ジャッキーは暗殺された大統領の奥さんだった人。これは有名だから知っている人も多いかもしれません。政治的にも有名な人を扱っていることから、これは一種の「肖像画」「歴史画」の流れを汲むものだ、と解説がついています。そう捉えることもできるでしょう。でも、そういうと、何か大げさな気持ちにもなります。

*どうやって作った?

この作品の作り方はまず、最初に雑誌などからジャッキー写真を8枚切り出し、縦2列(一列4枚)に並べて、コントラストを目一杯にして(だから画質が悪い印象があるのですね)、高さ2mくらいになるように絹版画で印刷したようです。それをばらばらに切って、作品ごとに並べ替えるという手法をとっています。この作品では、うち7枚が使われている模様。

各々のジャッキーの写真をよく見ると、暗殺前のにこやかな表情のものと、暗殺後の悲痛な面持ちのものとが、ランダムに混ざっています。気づきましたか?

*メディアの加熱報道へのうんざり感を表現

この作品、作られたのは1964年。暗殺は前年1963年11月22日。超人気物の大統領の暗殺というまさに歴史的事件を扱っているわけです。しかも、大統領本人ではなく、同じく人気者だった奥さんのジャクリーンを使っているところがポイント。これは後で説明します。

夫人が悲嘆にくれる様が繰り返し、繰り返し報道されたわけです。ウォーホルはそれにうんざりしていたようで、それを述べた本人の言葉も残っています。その繰り返しのうんざり感、同じ画像が繰り返し現れる感、何度も見ていてイメージが劣化される感、などが、この写真のコピーのコラージュのようなもので表されているんですね。だから、悲しい顔も笑っている顔も、どっちも一見同じように見えて、気づかない人も多いのも仕方ないことです。そういう風に意図して作られているわけですから。

現代の私達も、そういうメディアの加熱報道などへのうんざり感は共感できると思います。特に、震災報道などとか、凶悪犯罪などの場合に思うことが多いでしょう。それを彼は50年くらい前に先取りでうんざりして、作品として表現し続けていた、それは「先駆者」なんだな、と言えるでしょう。そこがスゴイ、と言われている所以です。もちろん、その理由でこの値段が納得できるかどうかは別の話ですが。

*「死」というテーマ~マリリンからジャッキーへ

さて、ウォーホルの作品はマリリン・モンローを扱ったものが一番有名ではないでしょうか?彼女も悲劇的な死を遂げましたね?しかも、彼女はケネディ大統領の愛人疑惑があった人です。実は、ウォーホルは「死」や「惨劇」をテーマに数多くの作品を作っているというのを知っていますか?「電気椅子」もそうですし、ボツリヌス菌が入っていたツナ缶を食べてなくなった主婦2人とツナ缶をあしらった「ツナ・フィッシュ」、日本に投下された「原爆」など他にもたくさんあります。その「死と惨劇」シリーズの最初が「マリリン」だったのです。そして最後が「ジャッキー」シリーズなのです。

ウォーホルの「死と惨劇」シリーズは、華やかなアメリカを代表するケネディ大統領という人物の、愛人と妻、どちらも時代のアイコン的存在の女性で始まり、終わったということです。

しかも、ジャッキー・シリーズは最も多く作られた作品シリーズでもあります。何か思い入れの強さを感じますね。

ポップでキッチュなイメージのウォーホルですが、そういうシリアスなテーマを扱っていたんだな、その中でも代表作の一つなんだな、というのが分かってきます。

*印刷しただけなのに価値があるの?

確かに、コンセプトは面白いといえるでしょう。しかし、印刷です。しかも、そのシルクスクリーンの印刷は、工房の職人がやるわです。何か、釈然としない人も多いかと思います。コンサル料とか、デザイン料、みたいな感じですよね。

そもそも欧米の近代美術というのは「新しいコンセプト」とか「新しい表現」をどう提示するか?が評価の対象です。欧米の作品に対して、私達日本人が漠然と「本当にそれがいいの?」と違和感を抱くのは、そこの認識の相違だと思います。日本人はコンセプトが新しいだけでは「スゴイ!」とはなりにくいですよね。日本人にとっては、作家の職人技的な仕事ぶりが見えないと、どうしても認める気持ちになれないかもしれません。

もちろん、どちらが正しい、という問題ではなく、傾向の問題です。

≪残る疑問≫
16枚という数字に意味はあるんだろうか?
ジャッキー・シリーズは実は沢山あり、展示する場所の大きさなどに応じて、構成するピースの枚数を変えていたようです。単品の場合もあるし、最高で35枚のケースもあるようです。一つの写真をいくつも複製したものもあります。もしかしたら、16に思いを込めているかもしれませんが、勉強不足で私にはよく分かりません。

また、背景の青い色に意味はあるのか?
?はっきりしたことは分かりません。ウォーホルのほかの作品を見てみると、「電気椅子」は青と黒。比較するとしたら「原子爆弾」真っ赤な背景に黒で原子爆弾が爆発する様を転写しています。青に何か冷たい死を連想させているのかもしれません。これは想像の域を出ません。

そして、どうしてこんな値段なんだろう?という問い。確かに、メディア批判とか現代における死や惨劇というテーマの表現が素晴らしいのは認める。でも、だからってこの値段になるのか?欲しいと思うだろうか?などという疑問は一般人の心にはそのまま残ります。そう、そこまで高くなくても、と。ダヴィンチの作品が値が張るのはなんか理解できるけど、こういうのが?と思ってしまうのは、ある意味、私は正直な感想だと思っています。

最後に、クリスティーズのサイトの解説に「人間の尊厳を喚起させる」とありますが、それはどうなんでしょう。そこまで言わなくてもいいような気がやはりしてしまいます。あまり深刻な深読みをすると逆にウォーホルに「あぁ、勝手に深掘りしてる・・・勝手に付加価値つけてくれる」と笑われたりするのだろうか、とビクビクした気持ちになってしまいそうです。


以上が私がちらっと思ったことと、疑問をHPや本などでささっと調べたことで、解説にも何もなってません。が、お初にお目にかかる作品に対しては、大体こんなプロセスで進めていくものです。ぱっと見てすぐに「なるほど!」と分かるようなものばかりじゃないものです、色々調べて分かったり、謎が深まったりするものだ、と美術史の先生たちに教わりました。

今では、好きになれなくても、楽しめる、おもしろがれる、味わえる、ということってあるのじゃないかな?と思えます。

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登録日:2011年 06月 16日 15:24:13

アートをめぐる10の誤解


教育の在り方は、どう変わっていくのでしょうか?

アートを通した研究について毎日考えていて気づいたことは、アートに関しては誤解が沢山あるということ。
お笑い、映画、テレビ、漫画、だったらすんなり手に取る人も、「アート」だと「まぁ、いいや。」と敬遠されがちなのも、そういうところに所以があるのかもしれないと思った次第です。

「好きになったかもしれない、楽しめたかもしれない人」たちがいるに違いありません。
以下は私が思った、アートに興味を敬遠したくなる10の誤解・論点です。実は、私自身、学生時代にこういう疑問を持っていて、徐々にそれが解けていった経験に基づいています。

1.アートにはセンスが必要?

技術的に解決可能な面もあります。ではセンスってなんでしょう?

2.アートとは綺麗なものである?

間違いなく、綺麗じゃないものがあります。
私たちには綺麗に見えるけど、ある人には汚いものもあるかも。
そもそも、美は絶対的なのか、美は相対的なのか、という議論になります。

3.アートは難しい?

味わうのに知識や経験が必要ないものもあります。
もちろん、必要なものもあります。
難しい、というときは、ただの情報不足や誤解だったりすることが多々あるのは、何もアートに限ったことではないでしょう。マークがついてたらいいんですけどね。
オートマ、マニュアル、みたいなマークが。

4.アートって何なんだ?

これがアートなの?という議論がある。
アートである、と認めるのは価値がある、
と認めることになるから議論になるのだと思います。
それはアートが素晴らしいものだ、という前提があるからではないでしょうか?
アートも今は多様化していて、一概にコレとはいえなくなってきていますが、分かってくると、定義の中身はあまり重要ではないと分かってきます。

5.アートって外国のもの?

何を基準にするかにもよるが、日本にもアートはある。
でもアートというラベルを貼っていなかった。
逆に、外国のものでアートのラベルを貼っていないけど、
私たちには芸術的に見えるものだってある。
西洋のものの方が価値があるの?
欧米コンプレックスのシンボル的な扱いを受けるときがあるのではないでしょうか。

6.アートは役に立つ?

アートは役に立たないのか。アートを社会的に役に立つものである、有用なものである、という議論の枠組みが、アメリカの美術館の冬の時代に確率されました。
そもそも、役に立つ、立たない、という議論の仕方そのものが妥当な方法なのか?じゃあ役に立てばそれでいいのか、何の役に立てばいいのか?というアートよりもっと大きな枠組み、の実利主義の問題を考えないと、訳が分からなくなる問題です。

7.アートは値段が高いものほど素晴らしい?

先ほどの問題とも繋がっているかもしれません。市場価格が絶対的なのか?という、これまたアートだけ見ていても分からない問題です。

8.アートは学校で教えてくれない?

学校での美術教育の問題については、事の発端は明治維新に遡るようです。
岡倉天心を中心とした、スリリングな対立の物語がそこにはありました。
そして、戦後の教育問題。抑圧理論から、「子供には自由に自由に」と
基本的なことも教えない・・・美術教育はいち早く「ゆとり」教育を取り入れて、かえって現代美術などを理解できる層や、ヴィジュアル・リテラシーが育たなかったのでは?といえるかもしれません。

9.アートは受け手よりも作り手が偉い?

生みだす人の方がすごいのか?受け手は、ただそれをありがたく受け入れるのみなのか。
良いオーディエンス(客、観客)が、作家を育てる、ともいえるのではないでしょうか?

10.アートはありがたい?

美術館に行くと、よく分からないけど文化的で優雅な気持ちになれる、という人も多いかもしれない。どこか、神社仏閣巡りや、パワースポット巡りに似ているところもある。実際、ツアー観光の一部に美術館はよく組み込まれている。ミュージアムショップはまるでお札やお守りの販売所のようにも見える。
アートは触れるだけで、心を豊かにしてくれるのでしょうか?それはもはや、信仰の対象?
日本人は物事を呪術的に捉える傾向が強い、と言われています。日本美術の特性のひとつもアニミズムと言われています。そういう影響もあるかもしれません。

以上、10個の問いをあげてみました。
これは、一つの正しい答えがある問いではありません。
人によって違う。立場によって違い。それについて、お互いの見方を面白がって、対立する必要がないのが、アートの面白さだと思います。アート・リテラシーは識字率と並んで、文化の指標になるのでは?と思っています。そういう研究を、まとめていけたら・・・とひそかに悶々と今日も過ぎていく次第です。

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登録日:2011年 06月 15日 14:07:19

一つの問題に、一つの答え?



このブログのかなり初期の記事でモナリザを扱ってみました。

問い「モナリザのモデルは誰であるか?」

に対する答え探しなのでしょう。
そういうクエスチョンを出されたら、誰だろう?と考えるのが人ってものでしょうが・・・

そもそも、この問いの立て方は妥当なんでしょうか?

そもそも、モデルがいたからといって、画家はモデルそっくりに描くでしょうか?
それなりに、自分のイメージや癖なんかを載せて描いていくのではないでしょうか?

特に、フィレンツェ派の特徴を考えてみると、これは余計に意味がある話です。
写実性を重要視するボローニャ派の肖像画であれば、このような「似ている、似ていない」の議論で、モデルの特定も可能かもしれません。

ですが、新プラトン主義が盛んだったフィレンツェ。フィレンツェ派の絵の特徴はミケランジェロに顕著ですが、モデルというのは、あくまでも、どこかにある理想像というかイメージを作り出すための、足場のようなものです。

ダヴィンチが必ずしも、フィレンツェ的といえるかどうかは意見が分かれると思いますが、こういうモデルは誰?という問いに対する答え探しが、必ずしも妥当な問いの設定とはいえないのではないか?と思えます。

もちろん、そういう図式で見ると、面白い!というのは否めませんが。

何か、一つの問いに、一つの答えを探す、という手法は、発想を狭めてしまうのではないかと思います。多様性が共存したり、いくつかの意味や意義や解釈が二重性、多重性をもって同時に成立しうるのが人間の世界の本当のところではないでしょうか?一つの答えを探していくのは、それ以外を排除したり、二重性のある解釈の可能性を忘れさせてしまいます。

物事は、必ずしも対立項目でばかり説明がつかないのではないかな・・・美術の世界なんて、まさにそうではないのかな?美術という作品が果たす「触媒」的な働きを、美術史家が自ら捨てる必要はないのではないか、と思えてなりません。

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登録日:2011年 03月 04日 11:01:08

黄色い絵の具



教授と一緒に美術館に行った際、私が絵の具や技術史に限定して話をしたのを、いたく喜んで貰えました。たまたま、美術には興味がないけど、技術には興味のある人なので、では技術面の話をしたら面白がってくれるかな?という意図だったのですが、当たって良かったです。

例えば、ルネサンスの初期あたりだったら、油絵よりフレスコ画とかテンペラ画で、技法としてはどう違うのか、どういうところが難しくて、どういうところがよりやり易いのか、などなどです。

例えば、色のシンボリズムも時代によったり、カルチャーによっても違ったりしますよね。それも、具体的に○○時代は何色はこういう意味、とか、具体例をいちいち覚えておくよりは、「分化によって色の持つ意味は違うかもしれない」という『枠組み』の知識を一つもっておく方が、応用の幅は広かったりします。

そういう応用の幅が広い『枠組み』をいくつか提示しながら絵を一緒に見ると、教えられた側もどんどんその枠組みを使えるようになるので、積極的に参加する楽しみを味わえるので、なんか面白かった、という結論になるのかもしれません。

さて、ゴッホの黄色です。ゴッホって黄色のイメージありますよね。
全盲の方とゴッホの絵を見に行ったとき、ゴッホの絵ってどういうイメージですか?と聞くと
「赤いイメージがあるんだ」といいます。どうしてそう思ったかというと、ゴッホをテーマにした映画で「炎の画家」というような描き方をしていて、炎から連想して赤いイメージだったそうです。ゴッホのひまわりが、赤いイメージというのも、面白いですね。

そういう違いに気づくのは、とても味わい深いな、と思いますし、コミュニケーションの意義を改めて感じさせられます。私たちは何を伝え、何を求め、何を探し、どうしたくて、コミュニケーションをとっているんでしょうか?

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登録日:2011年 02月 17日 17:21:07

これが文字なのです



模様、となってますが、これがマヤ文字なんです~

マヤ文字は読み方がちょっぴり特殊。
この写真だと、横に4文字並んでます。

文字というか、塊が横に二つづつくっついてるのが分かるでしょうか。
こんなくっつけて書かないで、ちょっと隙間を空けて書くことも多いんですが
ここの地域?書いた人の趣味?なのかな。地域によって、時代によって、媒体によっても微妙に雰囲気が違います。


二列をひと固まりにして、左、右、一段下がって、左右、左右、とジグザグに読み下げていくんです。分かりにくい説明になってる気がしますが。

漢字と似ていて、部首がいくつかくっついて一文字を作っているんです。
篇にあたる部位、冠、足もあります。

なんと表音文字(音節文字)。
こんな絵っぽいのに、表音文字。絵の意味から理解しようとすると、ほとんど解読不能な文字でもあります。

表音文字であると分かってから解読が進んだようですね。時制もなくて、いわゆるアスペクトという、漢文も時制がないけど、分かりますよね、そういう感じで書かれています。

古代文字のイメージがあるかもしれませんが、最盛期は7世紀ころで、日本の奈良時代とかみたいな時代なんですねぇ。メソポタミアとかエジプトとかインドとか中国に比べたら、ずいぶん最近の文明の文字、という印象があります。

私はテキサス大学時代に、ニコライ・グルーバ博士にちょっとの間、マヤ文字を教えてもらったんですが、もう大変。ほとんど、あのマヤ暦です。ほぼ、マヤ暦のあのタコみたいな模様をひたすら暗記(全部忘れました、きっぱり覚えてません)したりするので悶絶。
太陽暦と農耕用の暦と併記していくんですが・・・日本でも考えてみたら、西暦と年号と使いますもんね。そんな感じで、読み進めていくと、最初の数行は日付だけだった、みたいなそんな文章を読んでみたりしてました。頑張って読んでも分かるのが日付、というのが悲しくなってくるんですが、パズルとか、そういうのが好きな方には楽しいと思います!

ちょっと気になったので、書いておきました。

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登録日:2010年 08月 10日 16:00:17

質と量



ニュースサイトでブログ、という話で始めたけれど
割と、アートのニュースは「ナンボで落札!」の話か、大きな展覧会の話だ。
なるほど、こういうのがニュースになるんだな、と思う。

きっと、当時のピカソが『アヴィニョンの娘達』を描いたときは
美術の歴史上の決定的瞬間でニュースだけど、現代のネットワークレベルのものがあったとしても、おそらくニュースには取り上げられなかったと思う。ほとんどの、大して重要でもないネタとの区別がつかないからだ。実際、友達でも「ピカソ、何かいてんの・・・」って感じだったというとかいわないとか。

とにかく、ニュースになるには、ニュースになる根拠が必要なんだと思う。
それは、ニュースの内容にではなくて、それがニュースだと人が認めるかどうかにあるんだろうかと思う。最大公約数というのか、最小公倍数というのか。いずれにせよ、なんかしらの客観的な基準。

このブログでは美術ニュースとほとんど同列に扱っている考古学関連もそう。大発見!でなければ、それは考古学者にとって大発見ではなく、世の中の人にとって大発見!でなければ、ニュースにはならない。ノアの箱舟とか、世界最大とか世界最小とか、世界初とか、そういうのだ。

そうすると、実は、わりと、アートなニュースって・・・パターンが決まってきてしまう。規模の大きいアート展か、すごい値段で売れた作品か、すごい珍しい表現の作品か。そもそも、アートの定義も微妙なところ。美術という言葉も、定義が定まらないまま、というか流動的なまま、一人歩きしている。

よく、分かり易い文章を心がけるなら、分かったつもりの単語を避けて、その代わりにそれを説明してみると、自分でもどれだけいい加減にその言葉を使っていたか分かる、という。アートもそう。

アートの定義というのは、いろいろあるけど、そもそも一つに決めたとしたら、別の時代のアートの定義には役に立たなくなる。どれをとっても帯に短し、襷に長し、になる。

では・・・美しいもの?綺麗なもの?すごく綺麗なもの?珍しいもの?またとないもの?希少価値のあるもの?面白いもの?すごく面白いもの?新しいもの?再現するのが技術的に難しいもの?高い技術を必要とするもの?完成度が高いもの?時を経てその価値が変わらないもの?人の考えを一瞬で、または徐々に大きく変える力があるもの?

たとえ、これが一定の基準だとしても、これらは定性的な基準だと思う。
誰が判断するんだ?どうやって?となると、曖昧なもの。

ニュースというのが客観的なものであるのだとしたら、もっと定量的な基準が必要になると思う。つまり「でかい」とか「高い」とか、数量などで誰にでもはかれて、示せて、共有できる基準だ。

ある意味、ニュースで扱われるアートや考古学のトピックというのは、定量的にはかれるジャンルが濾し取られた、と考えることも出来るんじゃないだろうか?ニュースが扱うトピックの限界をなじるよりも、よっぽど生産的な捉え方じゃないだろうか。少なくとも、アートを定量的にとらえたら、こうなる、という見本だと。

質的な、つまり定性的な価値を定量化できないか?という案が出るけれど、大抵は満足がいかないものになる。美観を保つために、基準を設ける。定量的なものでは、限界があるそうだ。最近、都市計画の人の話で聴いた。質的な基準、定性的な基準が必要だが、こちらは誰がどう判断するんだ?という問題が出てくると。誰からも文句が出ない解決策はない。

私はといえば、ニュースで扱われるような定量的な基準を満たすようなトピックは、そういうものとして捉える。後は、自分の質的な価値観で大事だと思ったトピックと、前者とを混同せずに両輪として眺めていく。ニュースが定性的ではない、となじるのは、オカドチガイじゃないかと思ってしまうからだ。自分の定性的な基準、それから、他の人の質的基準などを参照していくのも、より一層、見方としては楽しくなっていく。最近では、人がアートをどう見て、どう他人の意見を参照していくか?というのを調査中。私にとって一番面白いのは、人がどう見るのか、なのかもしれないです。

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登録日:2010年 06月 21日 12:47:13

記録技術の先祖がえり:iPhoneは古代メソポタミアの粘土版みたいなもんか?


記録技術の変遷が、表現に影響を与えるか?というのが、認知科学の授業でちらと話題に出た。それ以前に、記録技術はどう変遷したんだろう?

それがなんでiPhoneの話になるんだっていうのは、少しおつきあいください。

鉛筆から、ワードへ。フロッピーからUSBへ。手紙からメールへ。
そりゃ表現に影響を与えるだろう、という気はうすうすするけど、どのように?
最近、昔とった杵柄の石版画(リトグラフ)を制作している。石に絵を描いて、あれこれ処理して、版画を摺るという技法。これをアーティストの方に描いてもらって、私が処理して摺るという流れで行っているのです。これは19世紀に発明された技法だ。版画という技法そのものは、当然もっと古い。

そこで気づいた。私たちはペン書きとキーボード入力の違いには目を向けている。
でも、紙に書くのと、石に書くのとの違いに目を向けているか?あまり向けない。
今でも、どっか開発途上の国の学校なんかがうつったとき、石にチョークみたいなのでノートをとっているのを見たりする。

ペンを手で握って、ペンの先端を平面にこすって記録することから、10本の指でぽこぽこしたキーボードを叩いて画面に文字を登場させる記録方法への変遷はドラマティック。
だから、これは内容にも影響を与えうるな、って想像できると思う。例えば、漢字を最近忘れがちだな、手で書かないからだな、とか。

小さい違いかもしれないけど、石に書くのと紙に書くのはやっぱり手ごたえが違う。
そもそも筆圧が違うのだ。紙はスムーズで、ペンを軽くあてたら、その後は自由に走らせたらいい。でも、石の場合は、もっと強くあてないといけない。ちょうど、ピアノとエレクトーンの関係にも似ている。同じようなスタイルだし、同じような技量が必要だと思っていたら、どっこい。鍵盤の重さが全然違う。馴れたら平気でしょう?と思うかもしれないけど、馴れるって、それなりに時間と労力を必要とする。

ペンになれた人には、石の上に描くのは違和感を覚えるものだ。それに気をとられて、書くほうに集中できないかもしれない。

それに、紙は軽いけど、石は重い。びっくりするほど重い。Ipadが重いとかいうけど、そんな比じゃない。石版はノート大であれば、片手ではもう持ち上がらない。持ち上がるとしたら、相当に手首が強くなってるって事だ。持ち運びは、あまり考えたくなくなる。石板しかもってなかったら、引きこもりになりそうだ。

それに、石だと間違えたときに消すのが大変。チョークみたいなので書いてたらまぁ、手ではらえばいいかもしれないけど、ちょっと油分がある道具(石版画では脂性の道具で描きます)なら、なかなか落ちない。物理的にガリガリと削るしかない。実際、石版画の場合、磨石棒ってのでガリガリと削り落とす。

消しゴムって便利だ。

DELETEキーはもっと便利だ。消しゴムのカス出ないし。

簡単に消せない、と思うと人は相当に覚悟して書く。一体どれくらい、キーボードだと打ち易い消し易いから、無闇に長い文章をダラダラと書いてしまってるだろう?ノートは軽いし、ペンはスムーズだしで、思いついたままを力も使わずにスラスラと書き留めることが出来るようになっただろう。

授業を受けるにも、ノートがなければ、石を持っていくのは重くて諦めて、忘れまいと記憶に刻みながら聴いた可能性はあるだろうか?何かが可能になったせいで、便利になること、研ぎ澄まさなくてもよくなったこと、両方ある。物事は諸刃の剣なんだけど、便利さに走ったり、体勢にあわせていく。

■石とか木とかから、紙みたいなものから、パソコンみたいなものへ

紙の大量生産が可能になったノートを運んでいた頃は軽かったのに、パソコンの発明で、また石みたいに重いものをバッグに入れて運んだりするようになった現代は、なんか先祖帰りしている気がする。

研究室で、古代メソポタミアの粘土版の多くが手の平サイズで、左手にもって、右手に葦の先をとがらせたので突いて記録していた、という話をしていたら「iPhoneって粘土版に先祖帰りしてるのかな」という。たしかに、iPhoneも手のひらサイズの粘土版くらいの厚さ大きさ、それに指とか、楊枝みたいので突いたりすることもあるとかいう。間違えたら、粘土なら指でチョイチョイすれば消えるし・・・落としたらクラッシュしそうなのも似てるな・・・。

多分、同じとこに戻っていくのね、というような単純に円状に繰り返しているのではないと思う。むしろ、ラセンを描くように、人間はもとのところと似てるけど、少し位相が違うところを経由しながら、ぐるぐると回っていっているのかもなぁ・・・

こんな事に気づいたのが今回の石版画制作の成果の一つだった。もっと成果らしいのは、刷り上った版画のほうです、勿論。それについては、また。

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登録日:2010年 06月 18日 16:34:13

三位一体:父と子と聖霊・・・聖霊って?!



三位一体の聖霊ってなんだろうって思いませんか?

私はなんじゃろか、と思っていたんです。なんなんだろう。。。父が神様で、子がキリストだとしても・・・聖霊・・・ハト?上飛んでるハト?
疑問が解消されたのは、私の師匠の長年の友人であり
某旧約聖書の研究の池田先生のご本を拝読し
さらにお会いしてお話していたときでした。

旧約聖書で重要なキーワードの一つとしてルーアッハを上げられています。
ルーアッハ、息、空気などと訳されるヘブライ語。

父なる神が人間をお作りになったとき、息を吹き込み、人間が誕生した。
この息と訳される言葉が、ルーアッハであると。
命を吹き込む神の息。

このルーアッハは聖霊とも訳される。
かくして私の頭の中で聖霊という微妙に理解できない言葉の代わりに
三位一体は父と子とルーアッハになりました。

また、鈴木康広さんの『まばたきの葉』を見てきました。
手の平より少し小さいくらいの葉っぱの形の白い紙の裏表に、開いた目と閉じた目を描いて、ヒラヒラと落とすとまばたきをしているように見える。それを大量に上から飛ばす装置として、細長い筒状の装置が作られた。筒のスリットに葉っぱを入れると、筒の上側から噴出されて、ひらひらと散って落ちるという仕掛けの作品。

いくらか前に羽田空港で展示されたときに、
まばたきとヘブライ語のマバトのお話をしました。

人は動くものを見るのが好き。
動物園のトラが動かないとあまり嬉しくない。
でもトラが歩き回ってくれると嬉しい。咆えてくれたりしたらもっと嬉しい。
昔、動物園で目の前でトラさんが排泄なすったとき、妙に得した気分を味わったけど
やはり、剥製ではここまで嬉しくない。動く、というだけでなんだか嬉しくなるものだ。

鈴木康広さんのこの『まばたきの葉』という作品は
人が葉っぱを拾って、筒のスリットに入れないと動き始めない。
筒の横のスリットに入れると、葉っぱが噴出される。
それがひらひらと散って落ちるのを見て「あ、楽しい」と思う作品なんですね。

それだけといえば、それだけなんだけど、沢山の人が集まる。
理由が分からなくても、楽しくて人がいっぱい集まる。
それを見ていると、人は動くものを見るのが好きだけど、
自分がそれを動かすとなると尚更好きなんだと気づかされる。

ふと、葉っぱを飛ばすこの筒はルーアッハを出す装置じゃないかと。
人はここに入れることで、葉っぱにルーアッハを吹き込んでいる。
地面に落ちている死んでいる葉っぱを、あなたが拾って筒のスリットに入れれば
空気を吹き込んで空から散らすことができる。
動かない紙のかけらに、命を吹き込む。

自分が何かを動かす、自分が動かしている、ということを目の前で知るとき
人は嬉しくなる。

そして、それを見ている人は、あぁやって楽しむものなんだ、と言葉で言わなくても、気づく。

自分がどれだけ他に影響を与えられたか。
“他を動かす”とかまで行くとおこがましいし、なんか権力志向で感じ悪い気がしてくるけれど、自分がいる事に何かしら意義なり意味なり、居ていいんだと思う理由を見つけられたり、ほっとしたりするのは、他とのかかわりにあるんだと思うのですが、そういう関わりを感じさせてくれる。それを最小限で気づかせてくれるこの作品が、イスラエルに招待されるのは当然の流れなのかもしれないと、世の中の大きな流れの妙を感じたのでした。

毎日私達は呼吸をして、いつも何かに息を吹きかけている。気づかないけど、何かをいつも動かしているんでしょうね。当たり前すぎて、それに気づかないで日々を過ごしているのかもしれません。

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登録日:2010年 06月 16日 17:04:38

月と六ペンスとゴーギャン


ゴーギャンといえば、サマセット・モームの『月と六ペンス』のモデル。
読んだことなかったんですが。

勉強不足を毎日痛感する。
でも同時に、勉強して知識が増えて、武装というのか、武装だろうけど、本から得た根拠をつけて述べたり反論したり、それが出来ても、その場は凌げるだろうから、確かに知識が増えるのはいいんだろうけど、それでも何か違和感が残るのだから、毎日痛感するこの残念感の原因は勉強不足ではないんだろうと思う。

日々少しづつ感じる、微妙な残念感の原因を「勉強不足」「教養不足」「論理力不足」というところに求めたら、なんとなく腑に落ちたような気もするし、いつか挽回できるような(どうせしないんだけど)、とりあえず理屈をつけられた気になる。とりあえず納得したことにできる。だけど、多分、やっぱり違うんだろうと、素直に認めたら、思うわけだ。

そういうどうも残念な気分のときは、残念な自分の頭で考えてもたかがしれている。その上、残念な気分のときに周辺にいる人も残念な状態であることが、多いような気もする。こうなったら、直接ではなくても、残念じゃない人のご意見を伺いたくなる。間接的にでも。時間と人数に認められてる人、をとりあえず「すごい人」ということにして・・・この仮説すら、もはや日々を勉強不足のせいにしている自分が立てたのだから危ういといえば危ういのだけど、始点としては精一杯としておく。

そうだな、思いつく時間と人数に濾されてもすごい人なポジションを獲得してる人たち。レオナルド・ダヴィンチとかかな・・・見とこか・・・空海とかすごいんじゃなかろうか・・・南無大師遍照金剛・・・モーツァルトとりあえず聴いとこうかな・・・モーツァルトの短調の曲を聴くと背筋がモゾモゾしてくるんだけど、これも胎教に本当にいいんだろうか、妊娠してないからいいけど・・・

名作と言われている本などに手を伸ばすのもこういうときだと思う。思春期に一旦手を出すけれど、その時読まずじまいだったものを読むのがこういう時。深い期待もなく、とりあえず読み始めると、名作はやっぱり面白いことが多い。思春期だと退屈だったかもしれなくても、それなりに年を重ねてくるごとにそれに対応できるのが名作の懐の深いとこなのかもしれない。

思えば、思春期のときに読んだものと、読まずに過ごしたものとの差というのは、考えてみるに、偶然くらいしかないような気がする。たまたま読んだ、たまたま読んでなかった。私の場合、例えば『嵐が丘』は読んだけど、『高慢と偏見』は読んでなかったような。プーシキンはいくつか読んだけど、ドストエフスキーは手付かずとか。

サマセット・モームの『月と六ペンス』は読んでなかった。明らかに、あんまり心惹かれなかった。では、モームを読もうかと思ったのは、たまたま図書館で返却されたばっかりの本の棚のところに『高慢と偏見』があって、これを機会に読んでおくか、と思って読み始めたら、驚くほど面白いし、止められないし、気づいたら一日で暇を見つけては読んで読み終わってしまったからだった。これも人気作品だけど、それにはモームがこの作品を10大小説に入れていることが、この作品の名声というのか、人気を裏支えているところもあると思う。ということで、同じく10大小説に『嵐が丘』が入っているし、結局どちらも面白かったの一言につきるので、実は恥ずかしながらエッセイをちょっと英語の勉強で読んだくらい以外には一冊も読んだことがなかったモームだけど、これを機会に読んでみるか、残念な気分だし、と読んでみた。ここは奇をてらわず、有名どころドンピシャの『月と六ペンス』にしてみた。最初の20ページくらいは勘で飛ばし読みをしたけど、後で解説を読んで飛ばしてよさそうだったからほっとした。でもその先は、もう止まらない。結末が分かっているのに、止められない面白さがあった。やっぱりすごいんだ、文豪。

こういう時にほっとする。多くの人、時代をついでいいと言われるものが面白くないとき、なんだか自分が味覚異常なんじゃないかという気がしてくる。著しく能力が欠如しているんじゃないかと思う。これが同時代の一時の流行ものであれば、大して心配はいらないことが多い。実際、ぱっと流行って、ぱっと消えるものは沢山ある。同時代人が認めることもなく、後世の人にも認められないものが沢山あり、同時代の人が認めても、時が経たら全く顧みられないものもある、また同時代の人が絶賛し、また後世の人も絶賛し続けるものもある。

いろいろあっても、やっぱり自分が好きじゃなかったら、好きじゃないんだから、仕方ないなぁって思うのだけれど、『月と六ペンス』みたいな本が当時ベストセラーになった、と聞くと、世の中、なかなか捨てたもんじゃないのか、と思う。

本の中身は、ざっくり言うと、本で読むと味わい深い人物だけど、近所にいたら絶対にこの「私」のようには受け止めたりできなさそうな、避けたい、拒絶してしまいそうな人物を描きだしているといえます。それは受け止め方の作法を知らないからかもしれないんじゃないでしょうか。戸惑っているだけなのに、自分で認識できないから、避けてしまう。嫌いとかまで思ってしまう。

主人公は本当に社会性のない人だし、変な人とか、自由な人がいろいろ出てくるけれど、社会から逸脱しない立場の「私」が、通訳というのか、いろいろ言語化を試みていくl。それのどれが正しいのか、合ってるのか、「私」さえ知るよしもない。でも、いろいろあぁでもない、こうでもない、と受け止め方、捉え方、戸惑いそのものの言語化がなされている。読者もそれを追体験できる。うまいこと言うな、と。

こういう本が読み継がれるというのは、思ったより、世の中、奇人変人に対して、語る言葉、表現の仕方、受け止め方、というのを持たないだけで、そのために現実世界には軋轢が沢山生じているけれど、全くもって頭から心から切り捨てているわけではないのかもしれないと思えてくる。

この小説の中には、人の心の中の矛盾とか、愛と呼ばれている現象の中の沢山の自己愛や勘違いやさまざまな状況への分析と表現が散りばめてある。思い当たる節がある人には、こういう風に言うとしっくりくるな、という捉え方が、言語化が沢山みつかる。理屈というより、表現。自分の中でもうまく消化できなくて、かえって単純化して、余計に分からなくなっていたような事柄に、もっと理屈としては合わなくてもしっくり来る言葉が沢山みつかる。この本の中にも、人というのは孤独で、基本的に言葉が通じない異国にいるようなもので、心の中には沢山の複雑な思いがあっても、片言しか離せないから「傘を表に置いてあります」程度の内容しか告げられなくて、お互いに孤独になる、みたいな事が書かれていた。合図でしか分かり合えないのに、合図が分からないとき。実際、自分には理解しがたいような人が目の前にいて、でも全くもって拒絶しているのではなくても、触れ合う言語なり言語らしきものなりを持たなければ、多分拒絶しているような態度しかとれないだろうし、相手は拒絶されたと、嫌悪を誘っただけだ、と思うんだと思う。そうやってすれ違っていく。

そういう事が日々、起きているのかもしれない。残念な気持ちは、いろんなことを思って、感じて、ぴかぴかしたものを見つけたと思う、そんな時にも、「外に傘があります」程度のことしかいえなかったり、身振り手振りでほとんど何も伝わらないか「分かるよ、すごく分かる」という全然わかってなんかない言葉に触れてかえって何も伝わってなくて戸惑われるほうがマシだと思うような状況に陥るときじゃないかと思う。

やっぱりだとしたら、何か少しづつ溜めていけば、残念が減るのかもしれない。または、残念と思う必要もなく、いつかなんかどうにかなる、そういうすぐには分からないもことに焦って結論を出してしまっているかもしれないことにこそあるのかもしれない。

こうやって少しは視点を和らげてくれる、まんざら残念感だけに浸らなくても良さそうじゃないか、と思わせてくれる。やっぱり、すごいって言われる時間と人数をこなしてきた作品というのは、あてになるなぁと思ったわけでした。

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登録日:2010年 06月 14日 11:41:33

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プロフィール
秋田麻早子
■プロフィール:
アメリカはテキサスで西洋美術史を専攻。現在、博士課程で美術史・考古学なんかを面白がるコミュニケーションを鋭意研究中。
著書に『掘れ掘れ読本』(バジリコ 2007)。笑いのとれる考古学入門書を目指したもの。
連絡先:
mana_mana_chan@hotmail.com
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