2009年 04月

ロムルスとレムス2

古代ローマ建国2762年祝う市民の仮装パレード

【4月20日 AFP】イタリア、ローマ(Roma)で19日、古代ローマの建国から2762年を祝う記念パレードやライトアップが行われた。伝説によると古代ローマは、ロムルス(Romulus)とレムス(Remus)という双子の兄弟によって紀元前753年4月21日に建国された。(c)AFP

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下の記事の補足です。
これが、その牝狼。

さてさて、パロディはオリジナルをどの程度いじってると思いますか?

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登録日:2009年 04月 20日 22:30:49

ロムルスとレムス

ドイツ各地でクライマックスを迎えるカーニバル、経済危機を風刺する山車が続々

【2月24日 AFP】カーニバルシーズン中のドイツ各地では23日、クライマックスとなる「バラの月曜日」を迎え、百万人の観客が経済危機という暗雲を振り払うかのように熱狂した。
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女性首相を狼に仕立てて、その彼女が四つんばいで子供たちに乳をやる姿。このイメージの元ネタを知らなければ、何のことか分からない。ただ闇雲に下品な作品に映るかもしれない(元ネタに関係なく、その可能性も、あるにはある。)

◆メルケル首相のパロディの元ネタ~ローマ建国の英雄~

元ネタは、古代ローマのブロンズ像。それは古代ローマを建国したとされる英雄、双子のロムルスとレムスが、メスの狼に育てられたという伝説に基づいている。エトルリア時代と思われる古い狼の青銅像に、後から赤ちゃん姿のロムルスとレムスの像を付け足したもの。赤ちゃん二人に乳をやる狼の像として有名(世界史の教科書にも載っていた)。このメルケルの像は、それのパロディというわけ。

こういう元ネタというのは、知っている人にはすぐに分かるものだろうけど、知らない場合には、てんでよく分からないものになってしまう。

◆パロディが成立する条件~共通の予備知識~

知識がどこまで共有されているかと確かめるには、パロディを見せて意味が分かるかどうかみてみるといいかもしれない。分かる人は、自分と同じ前提の知識をもっているわけだ。ただし、どこでどのようにその知識を得たかまでは分からない。更にこれを広げると、同じ感覚かどうかは、同じお笑いを見て同じポイントで笑うかどうか、ということにも通じているといえるだろう。

「共通理解」とは共通の前提条件とでも言ったらいいか、共通の基盤と言ってもいいかもしれない。この言葉を使うのは簡単だけど、実際に共通の基盤を得るのは難しいとされる。例えば、「お笑い」というのは、大抵、何かの前提知識を必要としている。下ネタがおかしいのは、そういうことは口にするのが恥ずかしい、というのを皆が前提として持っているからだ。普段の生活で多用すると、顰蹙を買うという前提を共有しているから成り立つのだ。

だから、多くの人が笑う「笑い」というのは、多くの人が前提として共有する知識をアテにしないといけない。社会の階層が広がるほどに、多様性が広がるごとに、大勢で共有できるものが少なくなってくる。だから、多様性のある社会で、笑いというのが「下ネタ」に走ってしまうか「単純な動作」に走ってしまうのは、仕方ないのだ。そうでなければ、内輪ネタとか、身内ウケとか、そういうものになってしまうのだ。つい、笑いがとりたいあまり、苦し紛れに下ネタに走る人が多いのも、こういう理屈から理解できる。

写真のように、メルケル首相がローマ建国の英雄を育てたメス狼になぞらえられている、と分かるとそれなりに下ネタよりも少しは洗練された解釈もできてくる。しかし、分からなければ、なんだかとても下品な印象ばかり感じる。実際、造った人の意図も下品なだけかもしれないけれど。ドイツの人にとっては、この元ネタは一般的なものだろうか?日本人にとっては、そこまで一般的な素材ではないと思われる。

◆「お笑い」の好みを通して知る共通の知識の基盤

共通の基盤だと思っているものが、どこまで普遍的なのか?どこまで通じるものなのか?笑いとかパロディを軸にしてみてみると、割りと見えやすくなる。

どこまで人と共有できているか、確かめるには、まず自分が好きなお笑い芸人を述べてみるといい。おそらく、全部私も好きですわ!という方とは、共有するところが、いくらかあるのだと思われる。ただし、考え方が同じか、というのはまた別だ。あくまでも、前提として共有するものがある、というだけ。ついつい、共通の基盤があると、考えまで同じだと早合点してしまう。では同じ考え方かどうか知るには・・・この場合だと、○○だけは苦手、というのも共有しているか確認が必要なのだろう、きっと。まぁ、あまり批判的な話を話題に載せたくない人の場合は、この方法は得策じゃないかも。

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登録日:2009年 04月 20日 22:17:09

盛メシの民俗学

噴火警戒中、アラスカのリダウト山 

【2月10日 AFP】米地質調査所(US Geological SurveyUSGS)のアラスカ火山観測局(Alaska Volcano ObservatoryAVO)は、アラスカ(Alaska)州最大の都市アンカレジ(Anchorage)近郊に位置するリダウト山(Mt. Redoubt)の火山活動が活発化し、噴火が差し迫っているおそれがあると発表した。
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小さい頃、自分でご飯をよそう際にテンコ盛にしたら母に「それは死んだ人のご飯よ!」と叱られた。テンコ盛は死んだ人に備える飯の流儀だという。知りたいから聞いたのではないが、自分の非を認めたくないから思わず「どうして?」「なんで死んだ人のご飯はテンコ盛なの?」とたずね返した。すると「そういうものなのっ!!!ご飯は普通によそいなさいっ」と怒られて終わりだった。

その後、なんでお供えのご飯、私が育った地方では主に49日の間に供えるご飯、がテンコ盛なのかその意味を考えることはなかった。まして、その上になんで箸を直立に立てるのかも考えなかった。まぁ、そういうもんだろうと納得したのだ。こういうことは、考えはじめるとキリがない。しかし、こういう事は不意なときに「そういう意味だったのか!」と分かるときが来るものだ。そういう時は、なんだか胸がすっとするし、得した気分で嬉しい。

似たような例に、私が育った地方で「墓石は7年くらいは立てない」という事件?!があった。これまた、なんで?どうして?骨壷は埋めても7年くらいは墓石を立てないのが、習いだという。これには私は食い下がった。葬式、法事の際に、慣例に詳しそうなオジサン(おじいさん)、オバサン(おばあさん)を捕まえては尋ねる。「なんで七年は墓石を立てないの?」。大抵の人は、さぁ、なんでじゃろうなぁ、で終わり。しかし、待望のHオジサン!「昔はなぁ、土葬じゃったけぇ。七年くらいしたらな、こなれてくるんよ。そしたら墓石を立てても安定するんよ。今はそんなん気にせんでよかろう。」

やっと答えにたどり着いて、嬉しくて抱きつきそうだった。そう。昔は土葬だったから、その、表現を選ぶけれど・・・いろいろ・・棺おけや中身がバクテリアの力を借りて解体され、土に戻るのに7年くらいかかるという常識があったのだ。そうなのだ。そして、それより前に墓石を立てたら、ぐらぐらしてしまうのだ。棺おけの中の空気のかさだけは、土が沈むわけだから。

そのうち、この“墓石は7年立てない”という知識だけが一人歩きし、火葬の世の中になっても一部地域で残ったわけだ。もう、これに習う人は減ってきた。わりとすぐに墓石を立てる。そのうち、7年の知識も消えるんだろう。

墓石の件はHオジサンのおかげで片付いた(彼は他にもアリ地獄の生態であるとか、いろいろ教えてくれた貴重な存在だ)。盛メシはどうなったか?と。これは、身内ではなく、郡司正勝という中世の日本の芸能研究の大家の本で知った。『風流(ふりゅう)の図像学(イコノグラフィ)』だ。

彼によると、料理は「盛る」ということにある。実際、私がよくお手伝いする小料理屋のおかみさんも「盛るのよ、盛るの!そうすると見栄えがいいのよ」と言う。この盛る、というのが、いわゆる山に見立てるということではないか?と言うのだ。天正本『小笠原礼書』にも“山なりにすぎなりにたかくもるべし”と。ご飯を盛る場合にも、季節を表現して山のように盛れという。昔の絵巻ものなんか見ると、ご飯はテンコ盛だ。日光輪王寺の強飯式だってテンコ盛だ。あの時の母に見せたいくらいだ。礼儀にかなっていたらしいわよ、昔は、と(二重に怒られるに決まってる)。山のように、杉のように、というのが面白い。でもどうして、山のように、杉のようになの?これだけじゃ、まだ納得できない。

古来日本人は山に神が宿ると考えた。この点は、納得できなくても、飲み込んでほしい。そして、神様を平地にお迎えするには、山みたいなものを用意するのがいいと考えたらしい。これも飲み込んでください。その方法は二つ。山にあるものを一部取って来て山の代わりにするか、または、山みたいなミニチュアを作るか。そこに神様が宿ってくれると信じていたのだ。榊だとか、枝なんかを持ってきて拝むのが、前者。柱なんかもそうですね。木は山の中にあるものだから。ほら、おまじないとかで、好きな人の髪の毛(一部)を使うとかいう発想と同じ(なんて気持ちの悪い考えでしょうねぇ、古代から広い地域に見られるのですが)。そしてミニチュアを造る、築山だとか山盛りの飯なんかがコレにあたる。これもまた、おまじないとかで、小さな人形を好きな人に見立てたり、呪いの人形を作ったりするのが同系列の発想でしょう。

何もかも、枝とかミニチュアの山とかが、よりしろ(神様が一時的に宿る場所)になると信じられていた・いるから行われているのだ。実際、おまじないなんかの例からも、今もなんとなく信じられる発想。そして、お供えや儀式で使われるテンコ盛のご飯も、この延長で、つまり、山を造っていて、そこに何かが宿れるようにという信念と目的から成立していると。なるほど!やっとガッテンがいった。

郡司さんは特に、49日のお供えのご飯については言及していない。私が勝手にここから連想したのだが、遠くないはず。おそらく、この49日の間のテンコ盛のお供えご飯を、テンコ盛にする理由は、死んだ人が宿れるように、なのだろう。そして箸を垂直に立てるのは、ちょうど「はしご」みたいなものなのだろう。まるで、山に木がそそり立つようだから、おそらくそういう状態を模したものと思われる。実際、世俗的な仏教の考えでは死んだ人は須弥山に行くと信じられていた。その願いを、ご飯で表現したものと言えるのではないか。

日本人はなんでも、ただそのまま、というのが好きではないようす。何かしら趣向を凝らしたい。だから趣向を凝らさない男はモテない。あ、最後の一文は飛躍かもしれないですね。

付記:ちなみに、山の写真を探してこれにしました。意外にありません。山がニュースになるのは、噴火したときだ、という副産物のような情報を得られました。もしくは、遭難者が出たときでしょうか、今回は見つけられませんでしたが。

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登録日:2009年 04月 15日 15:11:29

脳内作業もアウトソーシングの時代

ジョルジオ アルマーニ、高級筆記具コレクションを発表

【6月27日 MODE PRESS】ジョルジオ アルマーニ(GIORGIO ARMANI)が26日、初の高級筆記具の限定コレクション「ジョルジオ アルマーニ ペン(Giorgio Armani Pens)」の導入を発表した。
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アルマーニの万年筆。
こういうのは実用品としての筆記具をこえて
ステイタス・シンボルとかもっと象徴的な意味を持っているといえます。

そういえば、人はいつごろから、筆記具を手に持って書くよりも、キーボードで書くほうが増えたのだろう?8割がたキーボード派の私は、ちゃんとした文章を書くのが本当に苦手だ、しかも下手。気づいたら、文章を書いて対価を頂くという機会を持つようになっていたのだから不思議。本を出す話も頂き、無事一冊が出たが、二冊目はずっと「ただいま執筆中」で進まないことといったら、何に喩えていいのか分からない。
あぁ、どうしてこんなに遅筆なの?

◆便利な道具

ワープロやパソコンがない時代、手書きの全盛の時代に生まれていたら、きっと一度もまともに書くことなく死んでいただろうと思うくらい、私は文章を書くのをひたすら避けて26歳くらいまで過ごしていたのです。

そんな私は現在、書くべき原稿を放ったらかして、妄想に走っている。
早く書けよ。と思いつつ、まとまったものを書くのは、書く以前に、情報の統合作業が大変。この統合作業からの現実逃避の過程を、ここに吐露したいと思う。

私は基本的にはパソコンのワードソフトの前で、ウンウン唸って文をひねり出す。
気に入らなければ、ファイルごと消したっていい。
順番を変えたければ、ちゃちゃっとコピペだ。
思いつくのと同じ速度で書ける素晴らしい道具。
鉛筆で原稿用紙に書き付けていたら、腱鞘炎になりそうだ、パソコンがあってあぁ良かった、と思う。

◆昔の人はどうやって書いたの?

しかし、こんな便利な道具がない時代、昔の人はいったいどうやって文章を書いていたのだろう?

ところで・・・
私が昔、という言葉を使うとき、大抵、すごく昔のことだ。
つまり、祖父母の時代などは基本的には昔の範囲に入っていない。
古代美術ばかりに心を奪われて20年以上も経過するうちに
ついに一般的な「昔」と自分にとっての「昔」が、とんでもなく離れてしまっていた。
それに気づいたのは、編集者のお姉さんが驚いて
「文中で数千年くらい前のこと述べるとき、わりと簡単にサクっとさかのぼるよね。普通の人はそんな簡単にサクっと昔に飛べない」と指摘したとき。

あ!そうか!
いけないいけない。私が文筆・筆記用具について「昔」というのは、紙も鉛筆もないような時代、下手をしたら紀元前とかの時代のことまで思いを馳せています。

ご存知のように(どれだけ一般的な話か私には分からない)古代メソポタミアの人は紙を知らない。この人たちは、粘土を丸めて左手に持ち、先をとがらせた葦のペンを右手で握って押し付けるようにして、クサビ模様の文字を書きつけた。筆記体なんて夢のまた夢だろう。(そういえば、左利きの人もいたと思うけど、粘土板における左利きの考察、なんて研究あったら面白いだろうな)。だけど、そんな面倒な道具を使っていたにもかかわらず、壮大で趣のある叙事詩なんかもちゃんと残されてる。握れる程度の粘土だから、文字を刻み付けられる面積も小さい。一文字一文字を極小にしないといけない。疲れる。しかも、せっかく刻んだのに、うっかりベチャってなったり、誰かに踏んづけられたりもしただろう(パソコンのクラッシュに似ている)。頭をかきむしりたくなりそう。私だったら、仮に物語を思いついても、そんな面倒な書き付け作業の途中で、というか数行くらいでイライラしてきて、粘土を壁にたたきつけてしまうだろうな。辛抱強いな、昔の人。

古代ローマの人なんかは、よっぽど大事な文章ならパピルスみたいなのとか、羊皮紙みたいな高級品に書き付けていたでしょうが、普段使いには蝋板を使っていたようです。板に蝋燭をぬりつけて、先がとがったもので削って字を書くのです。
ちなみに、インクらしいものは、ススとアラビアゴムなんかを混ぜて使っていたらしい。

中国の人は、紙が唐の時代にできるまでは、木とか竹の板に書き付けていたという。
じゃあ、あの中国のすごい古典も、孔子とかの本も、ガサガサさせながら書き記されたの?

すごくない?私、絶対無理。

そりゃあ、古代のエライ人と私なんかじゃ、比較にはならないけれど、私が今、竹と木の板と筆と墨を渡されても、多分、一生かかっても、次の本なんて仕上がらない自信がある。今、豊かな筆記具とパソコンに助けられても、メモと資料の山だけを眺めて、通り過ぎる日々だもの。

◆タイプライター

少し時代が下って・・・一般的に「昔は」と言われる時代のこと。
私の師匠の時代は、文筆の道具はタイプライターだった。内容の順番を変えたい場合などは、物理的にはさみで切ったり、ノリで貼ったりして、手直しをしていたらしい。その手直しをした、切り貼りの原稿をかかえて、清書のタイプをしてもらうため、両手に抱えて道を歩いているとき、風が吹いて原稿が吹き飛ばされそうになった・・・
という想像するだに恐ろしいエピソードを語ってくれた。

今でいうと、せっかく原稿を仕上げたと思ったら、パソコンがクラッシュしたような瞬間だと思う。

ここで思う。じゃ、タイプライターの時代の原稿は、今のワードソフト全盛の時代よりも
質が低いのか?

先ほども述べたけれど、紙も鉛筆もないような時代の文章は、けったくそなのか?

むしろ・・・逆じゃなかろうか。
すっきりと短く簡潔、なおかつ論点は鮮やか、なんてものが、わりと古代のものに多かったりする。
(マズイのはすっかり焼き払ったから、という考え方もできる。)
仮にマズイのが淘汰されたと考えた上でも、限られた資源・技術で、良品が仕上がっているのは事実。師匠の文章だって、簡潔だし論旨もユニーク。

◆ハサミも使いよう

なまじ思ったのと同じ速度で文章にできるために、私はかえってワードソフトでは文章を垂れ流してしまう傾向がある。手書きだったら、そもそも書く気が起きないのだから、中間がないのが問題。だから、文章を書く作業というのは、私の場合には主に「垂れ流しで書いた文章から、いらないものを消す」という作業といえる。
無駄に量は多いわりには、間延びしているし、大した意味もなければ、下手すれば買い物のメモまで混じっている。重複しまくっているし、文一つ一つが絞まりもなく、長いだけで、自分にさえもう意図が分からないものまで。

それらを、なんとかまとめて、意味が通じるものに仕立て直すのだ。
ほとんど、キレッ端によるパッチワークとよぶべきものかもしれない。

そこで、昔の人だったら、多分、この作業は頭の中で行って・・・決定したところで書き付けるんだろうな。と思う次第なのだ。そう、私は今、垂れ流すように書き付けたメモ書きの山を前に、あぁ、これを整理するところまで。頭の中でやっていたのかよ、昔の人は!と思うわけ。すごいなぁ。そりゃ、簡単には物書きが登場しないわけだ。

作業の煩雑さが、自動的に「モノを書く人」になるためのフィルターになってるのね。

書きつける作業そのものが簡単すぎて、ダラダラとやってしまう。ここを引き締めないとなぁ、長いだけで意味もなく、疲れるだけで、読んでも得るものもなく、パッとしない文章を人様に晒すことになってしまう。
それでは自分の頭の中が、ダラダラとだらしなく、さらにはそれが体型にまで影響している、という事がバレてしまう。

ほら、気づいたらもうこんなにダラダラと書いてしまってる!

そうそう。結論として:便利な道具に頼りすぎて、自分の能力を磨く手間を惜しんでいないだろうか?アウトソーシングしすぎて、気づいたら自社で何もやってない会社みたいなことに・・・なってないだろうか?人間は機械に依存することで、半ばサイボーグ化しているといわれる。

自分の垂れ流しの文章を見るとき、自分の脳内作業がワードソフトに垂れ流されていくようなものを私は感じている。

だからね、書いてないけどね、頭で考えてるの!
ホントだってば、考えてるの♪よくまとまったら書くから♪

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登録日:2009年 04月 06日 18:44:32

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プロフィール
秋田麻早子
■プロフィール:
アメリカはテキサスで西洋美術史を専攻。現在、博士課程で美術史・考古学なんかを面白がるコミュニケーションを鋭意研究中。
著書に『掘れ掘れ読本』(バジリコ 2007)。笑いのとれる考古学入門書を目指したもの。
連絡先:
mana_mana_chan@hotmail.com
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