2009年 04月 15日

盛メシの民俗学

噴火警戒中、アラスカのリダウト山 

【2月10日 AFP】米地質調査所(US Geological SurveyUSGS)のアラスカ火山観測局(Alaska Volcano ObservatoryAVO)は、アラスカ(Alaska)州最大の都市アンカレジ(Anchorage)近郊に位置するリダウト山(Mt. Redoubt)の火山活動が活発化し、噴火が差し迫っているおそれがあると発表した。
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(c)AFP

AFPBB News


小さい頃、自分でご飯をよそう際にテンコ盛にしたら母に「それは死んだ人のご飯よ!」と叱られた。テンコ盛は死んだ人に備える飯の流儀だという。知りたいから聞いたのではないが、自分の非を認めたくないから思わず「どうして?」「なんで死んだ人のご飯はテンコ盛なの?」とたずね返した。すると「そういうものなのっ!!!ご飯は普通によそいなさいっ」と怒られて終わりだった。

その後、なんでお供えのご飯、私が育った地方では主に49日の間に供えるご飯、がテンコ盛なのかその意味を考えることはなかった。まして、その上になんで箸を直立に立てるのかも考えなかった。まぁ、そういうもんだろうと納得したのだ。こういうことは、考えはじめるとキリがない。しかし、こういう事は不意なときに「そういう意味だったのか!」と分かるときが来るものだ。そういう時は、なんだか胸がすっとするし、得した気分で嬉しい。

似たような例に、私が育った地方で「墓石は7年くらいは立てない」という事件?!があった。これまた、なんで?どうして?骨壷は埋めても7年くらいは墓石を立てないのが、習いだという。これには私は食い下がった。葬式、法事の際に、慣例に詳しそうなオジサン(おじいさん)、オバサン(おばあさん)を捕まえては尋ねる。「なんで七年は墓石を立てないの?」。大抵の人は、さぁ、なんでじゃろうなぁ、で終わり。しかし、待望のHオジサン!「昔はなぁ、土葬じゃったけぇ。七年くらいしたらな、こなれてくるんよ。そしたら墓石を立てても安定するんよ。今はそんなん気にせんでよかろう。」

やっと答えにたどり着いて、嬉しくて抱きつきそうだった。そう。昔は土葬だったから、その、表現を選ぶけれど・・・いろいろ・・棺おけや中身がバクテリアの力を借りて解体され、土に戻るのに7年くらいかかるという常識があったのだ。そうなのだ。そして、それより前に墓石を立てたら、ぐらぐらしてしまうのだ。棺おけの中の空気のかさだけは、土が沈むわけだから。

そのうち、この“墓石は7年立てない”という知識だけが一人歩きし、火葬の世の中になっても一部地域で残ったわけだ。もう、これに習う人は減ってきた。わりとすぐに墓石を立てる。そのうち、7年の知識も消えるんだろう。

墓石の件はHオジサンのおかげで片付いた(彼は他にもアリ地獄の生態であるとか、いろいろ教えてくれた貴重な存在だ)。盛メシはどうなったか?と。これは、身内ではなく、郡司正勝という中世の日本の芸能研究の大家の本で知った。『風流(ふりゅう)の図像学(イコノグラフィ)』だ。

彼によると、料理は「盛る」ということにある。実際、私がよくお手伝いする小料理屋のおかみさんも「盛るのよ、盛るの!そうすると見栄えがいいのよ」と言う。この盛る、というのが、いわゆる山に見立てるということではないか?と言うのだ。天正本『小笠原礼書』にも“山なりにすぎなりにたかくもるべし”と。ご飯を盛る場合にも、季節を表現して山のように盛れという。昔の絵巻ものなんか見ると、ご飯はテンコ盛だ。日光輪王寺の強飯式だってテンコ盛だ。あの時の母に見せたいくらいだ。礼儀にかなっていたらしいわよ、昔は、と(二重に怒られるに決まってる)。山のように、杉のように、というのが面白い。でもどうして、山のように、杉のようになの?これだけじゃ、まだ納得できない。

古来日本人は山に神が宿ると考えた。この点は、納得できなくても、飲み込んでほしい。そして、神様を平地にお迎えするには、山みたいなものを用意するのがいいと考えたらしい。これも飲み込んでください。その方法は二つ。山にあるものを一部取って来て山の代わりにするか、または、山みたいなミニチュアを作るか。そこに神様が宿ってくれると信じていたのだ。榊だとか、枝なんかを持ってきて拝むのが、前者。柱なんかもそうですね。木は山の中にあるものだから。ほら、おまじないとかで、好きな人の髪の毛(一部)を使うとかいう発想と同じ(なんて気持ちの悪い考えでしょうねぇ、古代から広い地域に見られるのですが)。そしてミニチュアを造る、築山だとか山盛りの飯なんかがコレにあたる。これもまた、おまじないとかで、小さな人形を好きな人に見立てたり、呪いの人形を作ったりするのが同系列の発想でしょう。

何もかも、枝とかミニチュアの山とかが、よりしろ(神様が一時的に宿る場所)になると信じられていた・いるから行われているのだ。実際、おまじないなんかの例からも、今もなんとなく信じられる発想。そして、お供えや儀式で使われるテンコ盛のご飯も、この延長で、つまり、山を造っていて、そこに何かが宿れるようにという信念と目的から成立していると。なるほど!やっとガッテンがいった。

郡司さんは特に、49日のお供えのご飯については言及していない。私が勝手にここから連想したのだが、遠くないはず。おそらく、この49日の間のテンコ盛のお供えご飯を、テンコ盛にする理由は、死んだ人が宿れるように、なのだろう。そして箸を垂直に立てるのは、ちょうど「はしご」みたいなものなのだろう。まるで、山に木がそそり立つようだから、おそらくそういう状態を模したものと思われる。実際、世俗的な仏教の考えでは死んだ人は須弥山に行くと信じられていた。その願いを、ご飯で表現したものと言えるのではないか。

日本人はなんでも、ただそのまま、というのが好きではないようす。何かしら趣向を凝らしたい。だから趣向を凝らさない男はモテない。あ、最後の一文は飛躍かもしれないですね。

付記:ちなみに、山の写真を探してこれにしました。意外にありません。山がニュースになるのは、噴火したときだ、という副産物のような情報を得られました。もしくは、遭難者が出たときでしょうか、今回は見つけられませんでしたが。

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登録日:2009年 04月 15日 15:11:29

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プロフィール
秋田麻早子
■プロフィール:
アメリカはテキサスで西洋美術史を専攻。現在、博士課程で美術史・考古学なんかを面白がるコミュニケーションを鋭意研究中。
著書に『掘れ掘れ読本』(バジリコ 2007)。笑いのとれる考古学入門書を目指したもの。
連絡先:
mana_mana_chan@hotmail.com
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