脳内作業もアウトソーシングの時代

ジョルジオ アルマーニ、高級筆記具コレクションを発表

【6月27日 MODE PRESS】ジョルジオ アルマーニ(GIORGIO ARMANI)が26日、初の高級筆記具の限定コレクション「ジョルジオ アルマーニ ペン(Giorgio Armani Pens)」の導入を発表した。
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AFPBB News


アルマーニの万年筆。
こういうのは実用品としての筆記具をこえて
ステイタス・シンボルとかもっと象徴的な意味を持っているといえます。

そういえば、人はいつごろから、筆記具を手に持って書くよりも、キーボードで書くほうが増えたのだろう?8割がたキーボード派の私は、ちゃんとした文章を書くのが本当に苦手だ、しかも下手。気づいたら、文章を書いて対価を頂くという機会を持つようになっていたのだから不思議。本を出す話も頂き、無事一冊が出たが、二冊目はずっと「ただいま執筆中」で進まないことといったら、何に喩えていいのか分からない。
あぁ、どうしてこんなに遅筆なの?

◆便利な道具

ワープロやパソコンがない時代、手書きの全盛の時代に生まれていたら、きっと一度もまともに書くことなく死んでいただろうと思うくらい、私は文章を書くのをひたすら避けて26歳くらいまで過ごしていたのです。

そんな私は現在、書くべき原稿を放ったらかして、妄想に走っている。
早く書けよ。と思いつつ、まとまったものを書くのは、書く以前に、情報の統合作業が大変。この統合作業からの現実逃避の過程を、ここに吐露したいと思う。

私は基本的にはパソコンのワードソフトの前で、ウンウン唸って文をひねり出す。
気に入らなければ、ファイルごと消したっていい。
順番を変えたければ、ちゃちゃっとコピペだ。
思いつくのと同じ速度で書ける素晴らしい道具。
鉛筆で原稿用紙に書き付けていたら、腱鞘炎になりそうだ、パソコンがあってあぁ良かった、と思う。

◆昔の人はどうやって書いたの?

しかし、こんな便利な道具がない時代、昔の人はいったいどうやって文章を書いていたのだろう?

ところで・・・
私が昔、という言葉を使うとき、大抵、すごく昔のことだ。
つまり、祖父母の時代などは基本的には昔の範囲に入っていない。
古代美術ばかりに心を奪われて20年以上も経過するうちに
ついに一般的な「昔」と自分にとっての「昔」が、とんでもなく離れてしまっていた。
それに気づいたのは、編集者のお姉さんが驚いて
「文中で数千年くらい前のこと述べるとき、わりと簡単にサクっとさかのぼるよね。普通の人はそんな簡単にサクっと昔に飛べない」と指摘したとき。

あ!そうか!
いけないいけない。私が文筆・筆記用具について「昔」というのは、紙も鉛筆もないような時代、下手をしたら紀元前とかの時代のことまで思いを馳せています。

ご存知のように(どれだけ一般的な話か私には分からない)古代メソポタミアの人は紙を知らない。この人たちは、粘土を丸めて左手に持ち、先をとがらせた葦のペンを右手で握って押し付けるようにして、クサビ模様の文字を書きつけた。筆記体なんて夢のまた夢だろう。(そういえば、左利きの人もいたと思うけど、粘土板における左利きの考察、なんて研究あったら面白いだろうな)。だけど、そんな面倒な道具を使っていたにもかかわらず、壮大で趣のある叙事詩なんかもちゃんと残されてる。握れる程度の粘土だから、文字を刻み付けられる面積も小さい。一文字一文字を極小にしないといけない。疲れる。しかも、せっかく刻んだのに、うっかりベチャってなったり、誰かに踏んづけられたりもしただろう(パソコンのクラッシュに似ている)。頭をかきむしりたくなりそう。私だったら、仮に物語を思いついても、そんな面倒な書き付け作業の途中で、というか数行くらいでイライラしてきて、粘土を壁にたたきつけてしまうだろうな。辛抱強いな、昔の人。

古代ローマの人なんかは、よっぽど大事な文章ならパピルスみたいなのとか、羊皮紙みたいな高級品に書き付けていたでしょうが、普段使いには蝋板を使っていたようです。板に蝋燭をぬりつけて、先がとがったもので削って字を書くのです。
ちなみに、インクらしいものは、ススとアラビアゴムなんかを混ぜて使っていたらしい。

中国の人は、紙が唐の時代にできるまでは、木とか竹の板に書き付けていたという。
じゃあ、あの中国のすごい古典も、孔子とかの本も、ガサガサさせながら書き記されたの?

すごくない?私、絶対無理。

そりゃあ、古代のエライ人と私なんかじゃ、比較にはならないけれど、私が今、竹と木の板と筆と墨を渡されても、多分、一生かかっても、次の本なんて仕上がらない自信がある。今、豊かな筆記具とパソコンに助けられても、メモと資料の山だけを眺めて、通り過ぎる日々だもの。

◆タイプライター

少し時代が下って・・・一般的に「昔は」と言われる時代のこと。
私の師匠の時代は、文筆の道具はタイプライターだった。内容の順番を変えたい場合などは、物理的にはさみで切ったり、ノリで貼ったりして、手直しをしていたらしい。その手直しをした、切り貼りの原稿をかかえて、清書のタイプをしてもらうため、両手に抱えて道を歩いているとき、風が吹いて原稿が吹き飛ばされそうになった・・・
という想像するだに恐ろしいエピソードを語ってくれた。

今でいうと、せっかく原稿を仕上げたと思ったら、パソコンがクラッシュしたような瞬間だと思う。

ここで思う。じゃ、タイプライターの時代の原稿は、今のワードソフト全盛の時代よりも
質が低いのか?

先ほども述べたけれど、紙も鉛筆もないような時代の文章は、けったくそなのか?

むしろ・・・逆じゃなかろうか。
すっきりと短く簡潔、なおかつ論点は鮮やか、なんてものが、わりと古代のものに多かったりする。
(マズイのはすっかり焼き払ったから、という考え方もできる。)
仮にマズイのが淘汰されたと考えた上でも、限られた資源・技術で、良品が仕上がっているのは事実。師匠の文章だって、簡潔だし論旨もユニーク。

◆ハサミも使いよう

なまじ思ったのと同じ速度で文章にできるために、私はかえってワードソフトでは文章を垂れ流してしまう傾向がある。手書きだったら、そもそも書く気が起きないのだから、中間がないのが問題。だから、文章を書く作業というのは、私の場合には主に「垂れ流しで書いた文章から、いらないものを消す」という作業といえる。
無駄に量は多いわりには、間延びしているし、大した意味もなければ、下手すれば買い物のメモまで混じっている。重複しまくっているし、文一つ一つが絞まりもなく、長いだけで、自分にさえもう意図が分からないものまで。

それらを、なんとかまとめて、意味が通じるものに仕立て直すのだ。
ほとんど、キレッ端によるパッチワークとよぶべきものかもしれない。

そこで、昔の人だったら、多分、この作業は頭の中で行って・・・決定したところで書き付けるんだろうな。と思う次第なのだ。そう、私は今、垂れ流すように書き付けたメモ書きの山を前に、あぁ、これを整理するところまで。頭の中でやっていたのかよ、昔の人は!と思うわけ。すごいなぁ。そりゃ、簡単には物書きが登場しないわけだ。

作業の煩雑さが、自動的に「モノを書く人」になるためのフィルターになってるのね。

書きつける作業そのものが簡単すぎて、ダラダラとやってしまう。ここを引き締めないとなぁ、長いだけで意味もなく、疲れるだけで、読んでも得るものもなく、パッとしない文章を人様に晒すことになってしまう。
それでは自分の頭の中が、ダラダラとだらしなく、さらにはそれが体型にまで影響している、という事がバレてしまう。

ほら、気づいたらもうこんなにダラダラと書いてしまってる!

そうそう。結論として:便利な道具に頼りすぎて、自分の能力を磨く手間を惜しんでいないだろうか?アウトソーシングしすぎて、気づいたら自社で何もやってない会社みたいなことに・・・なってないだろうか?人間は機械に依存することで、半ばサイボーグ化しているといわれる。

自分の垂れ流しの文章を見るとき、自分の脳内作業がワードソフトに垂れ流されていくようなものを私は感じている。

だからね、書いてないけどね、頭で考えてるの!
ホントだってば、考えてるの♪よくまとまったら書くから♪

カテゴリー[ 歴史・考古学 ], コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2009年 04月 06日 18:44:32

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プロフィール
秋田麻早子
秋田麻早子
■プロフィール:
たぶん古代美術史研究、ときどき考古学。アメリカの僻地で西洋美術史を専攻。主に中東・地中海沿岸の古代美術。

美術史・考古学を軸に、幅広く学際的に文化史とか特に、アートや学問の世界の面白いとこをご紹介しちゃいましょう。

著書に『掘れ掘れ読本』(バジリコ 2007)。笑いのとれる考古学入門書を目指したもの。MA in Art History 2002, University of Texas at Austin
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