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作品を所有すること



ヒットラーが画家に憧れ、美術学校に落ちたというエピソードは、ちょっとだけ知られている。このような作品は、上手い下手の問題ではなく、ヒットラーが描いたから、値段がつく。付加価値というよりは、不可分な価値でしょう。

これが誰か別の普通の人が描いたものなら、この値段はつかない。
モノそのもにに、歴史的な価値があるというわけです。

■芸術作品=所有可能なモノ

時代によって、芸術の表現の方法が変わってくる。ちょっと前の時代まで、芸術といえば、キャンバス状のものに二次元の絵を描いたり、石などを彫って彫刻を作ることだった。はっきりと、そこにはモノとしての作品があった。その作品の意味も価値も、そのモノと不可分だった。

最近のアートは少し違ってきている・・・なんか、違うな?と思っている人も多いと思う。実際、もう、モノを扱う手法では扱いきれない作品・作家が多くなってきているのじゃないだろうか。だから知的財産に関する事柄が、問題になってくるのだと思う。

オークション会社主導で芸術作品が取引されるようになったのは、1980年代といえる。それまでは、画商が中心だったといってもいいと思う。もちろん、今も画商がいるのだけど、オークションでの取引がよく話題になる。

■芸術作品=体験、アイディアの場合は?

考えてみたら、芸術作品が「取引」されるというのは、つまり金銭を対価として作品の「所有」が可能だということだ。つまり、芸術作品も煎じ詰めればモノであるということだ。しかし、最近の芸術作品は「モノ」ではなくなってきている。パフォーマンスアートだとか、インスタレーションだとか、コンセプトアートなど、モノそのものに価値があるというより、その体験・鑑賞そのものを味わうというスタイルの芸術作品が主流になってきているのだ。

例えば、オルデンバーグのように、日常にあるもの(洗濯ばさみとか、バドミントンのロケットとか)を巨大化させて公共の空間に置くような作品。これは、人が見て驚いている景観込みの作品だ。自分のビルを作って、その中に置いて一人でこっそり見ても正直楽しくないと思う。サイズのギャップを味わうものだ。こういう作品を仮にオークションに出すとして、誰かが買うとして、一体何をどう買うのか?場所まで買うのか?買ったことで、どういう所有感を感じたらいいのか?ぶっちゃけると、転売可能なのか?資産としての価値になるのか?

例えば、自分が整形手術をして変化するさまを見せたりする作家もいる。一体彼女の作品は、どうやって売り買いできるのか?人が驚いたりするサマが作品の一部なのに、それが売れるのか?そのように、20世紀後半の芸術は、より観念的、体験的、時間的なものになっていっている。そんな場合、モノそのものを買っても、とりたてて面白くなかったりする。作品の価値や意味が、モノから敷衍して、体験や他の人のリアクションまで広がっていっている。美術館なら美術館という空間で存在し、驚いている回りの観客ごと全部が作品の一部だったりする。だから完全に「所有」することが難しい。そもそも、技術的に難しいとは限らないことがあるので、レプリカを作ったとしてもそれなりに同じような感慨はもてそうなくらいだ。そういう名人芸的・職人的な作品が減ったのも20世紀後半の特徴だ。

■所有権から使用権へ

コンセプトを体現する作品が主流になるなら、そのコンセプトという無形のものを売り買いすることになる。つまり、二次使用料みたいなものだ。アイディア料だ。

また、今、ますます主流になりつつあるデジタルの作品の場合は、そもそも一点ものという感覚がない。版画なら、刷る枚数が決められる、元の版を壊すことで限定品になる。しかし、デジタルの場合は無限に複製可能だ。所有権ではなく、使用権になる。

そうなると、どうやって取引するのか?ほとんど、モノの価値よりアイディアやコンセプトの価値が主体なのだ。モノとしての作品はそれを伝えるための、土台に過ぎないという作品が増えているのだ。お金でモノとしての芸術作品をやりとりすることが、作品の性質上不可能な状況だ。

既存のオークション会社が、印象派の画家の作品を売るように、クリストの作品を売れるのか?クリストとは、なんでも包んでしまう作家だ。島をまるごと包んだりする。もちろん、一発終了の作品で、彼の作品を買うとしたら、つまり彼がアイディアをまとめた絵コンテを買うということになる(彼の資金源だ)。彼の「包んじゃう」というパフォーマンスそのものを所有することも、転売することも出来ない。また同じ手を使う、というアイディア使用料なら出来るかもしれない。TVでの放映権とか、DVD化の権利なら価値があるかもしれない。

しかし、それは既存の画商やオークション会社の仕事だろうか?

そこで、知的財産という無形の何か、コンセプトやアイディアを保護したり売り買いしたりするということになる。なんだか、弁理士や弁護士の仕事みたいになってきてる。


繰り返すが、現代美術はコンセプトという無形なものにこそ価値があることが多い。もう、モノを扱う手法では扱いきれない作品・作家が多くなってきている。パフォーマンスアートなど、どうやって売り買いするのか?パフォーマンスをする作家の時間でも買うのか?そのパフォーマンスをする権利を買うのか?このような性質のアートを、画商やオークション会社は今後どのように扱っていくのだろうか、そう思う。

これからは、名人的・職人的な技術を示したモノとしての価値があるようなものを(段ボールをたくみに使った作品だの、漆塗りだの、オートクチュールのドレスや、そういう一点ものだ)画商やオークション会社が扱い、コンセプトを売りにする複製可能な作品たちは別の市場で取引されるようになるだろうと思う。後者は、工業・広告・エンターテイメントさまざまな分野に広がっていくと思う。そして、実際にはもうすでに広がっていると思う。

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登録日:2012年 02月 13日 20:49:04

市場価値と美的価値~16億円もする絵~ウォーホルの場合



一枚の劣化コピーのような画像が16億円。
どうしてそんな値段なんだ?と思うのが普通だと私は思います。それとも「ウォーホルは有名だし、仕方ないよ、よく知らないけど」と諦念をもって眺めるのか。現代アートはよく分からない、酔狂な人間のやることはよく分からない、そう思って、いいや、と思う人が多いかもしれません。

20世紀後半の美術界を担ったというウォーホル。でも、どう担ったのか、ちっとも学校では教えてくれません。

今回は少し細かく追ってみていきましょう。

≪初心に戻って真っ白な頭で見た感想≫

この記事を見て、まず思うことはなんでしょう。美術史のクラスの一年生だった頃を思い出して、当時の私がどう思うか想像してみました。今ではそれなりに美術史も知り、年もとって、ある程度はこの作品を味わえるようになりましたが、当時の私は思っていました「こういうのがイイなんて、本当に訳が分からない。だからアメリカ人は・・・」と。

「写真の劣化コピーを集めたような絵だな、ウォーホルのマリリン・モンローとかもそんな感じだな。アメリカ人はこういうのが好きなんだ、何か日本人には理解しがたい軽薄さがあるんだ、きっと。」

「なんでそんな値段するの?もっといいもの沢山あるんじゃないの?例えば何かっていうのはよく分からないけど」

「本当に価値あるの?ぶっちゃけてしまうと裸の王様的なものじゃないの?でも、細かく攻撃する言葉は思いつかないから黙っておこう」

これが当時の私の、素直なリアクションでした。

≪一歩踏み込んで、湧いてくる疑問≫

そもそも、この作品は何を表しているのか?
ジャッキーとは誰か?この作品はいつ作られたものか?
何をしたかったのか?何がすごいのか?
どうしてそんなに高いのか?
どう思いますか?どんな疑問も馬鹿な疑問ではありません。聞いていけない質問は、アートに関しては、ないのではないでしょうか。ただし、答えがあるとは限りませんが。ちょっとそういう目で見てみると、いろいろ疑問がわいてくるものです。でも、きっとくだらない疑問だと、自分で勝手に決めてしまうことが多いと思います。

詳しく調べたい方は、ウォーホルのHPが解説なども充実しています。このHPやその他の情報から、この疑問に答えて、読み解いていきたいと思います。

≪記事とチラ見だけでは分からないこと~メッセージは「メディアが繰り返し繰り返し報道する悲劇にうんざり!」≫

*ジャッキーとは?

ジャクリーン・ケネディ、通称ジャッキーは暗殺された大統領の奥さんだった人。これは有名だから知っている人も多いかもしれません。政治的にも有名な人を扱っていることから、これは一種の「肖像画」「歴史画」の流れを汲むものだ、と解説がついています。そう捉えることもできるでしょう。でも、そういうと、何か大げさな気持ちにもなります。

*どうやって作った?

この作品の作り方はまず、最初に雑誌などからジャッキー写真を8枚切り出し、縦2列(一列4枚)に並べて、コントラストを目一杯にして(だから画質が悪い印象があるのですね)、高さ2mくらいになるように絹版画で印刷したようです。それをばらばらに切って、作品ごとに並べ替えるという手法をとっています。この作品では、うち7枚が使われている模様。

各々のジャッキーの写真をよく見ると、暗殺前のにこやかな表情のものと、暗殺後の悲痛な面持ちのものとが、ランダムに混ざっています。気づきましたか?

*メディアの加熱報道へのうんざり感を表現

この作品、作られたのは1964年。暗殺は前年1963年11月22日。超人気物の大統領の暗殺というまさに歴史的事件を扱っているわけです。しかも、大統領本人ではなく、同じく人気者だった奥さんのジャクリーンを使っているところがポイント。これは後で説明します。

夫人が悲嘆にくれる様が繰り返し、繰り返し報道されたわけです。ウォーホルはそれにうんざりしていたようで、それを述べた本人の言葉も残っています。その繰り返しのうんざり感、同じ画像が繰り返し現れる感、何度も見ていてイメージが劣化される感、などが、この写真のコピーのコラージュのようなもので表されているんですね。だから、悲しい顔も笑っている顔も、どっちも一見同じように見えて、気づかない人も多いのも仕方ないことです。そういう風に意図して作られているわけですから。

現代の私達も、そういうメディアの加熱報道などへのうんざり感は共感できると思います。特に、震災報道などとか、凶悪犯罪などの場合に思うことが多いでしょう。それを彼は50年くらい前に先取りでうんざりして、作品として表現し続けていた、それは「先駆者」なんだな、と言えるでしょう。そこがスゴイ、と言われている所以です。もちろん、その理由でこの値段が納得できるかどうかは別の話ですが。

*「死」というテーマ~マリリンからジャッキーへ

さて、ウォーホルの作品はマリリン・モンローを扱ったものが一番有名ではないでしょうか?彼女も悲劇的な死を遂げましたね?しかも、彼女はケネディ大統領の愛人疑惑があった人です。実は、ウォーホルは「死」や「惨劇」をテーマに数多くの作品を作っているというのを知っていますか?「電気椅子」もそうですし、ボツリヌス菌が入っていたツナ缶を食べてなくなった主婦2人とツナ缶をあしらった「ツナ・フィッシュ」、日本に投下された「原爆」など他にもたくさんあります。その「死と惨劇」シリーズの最初が「マリリン」だったのです。そして最後が「ジャッキー」シリーズなのです。

ウォーホルの「死と惨劇」シリーズは、華やかなアメリカを代表するケネディ大統領という人物の、愛人と妻、どちらも時代のアイコン的存在の女性で始まり、終わったということです。

しかも、ジャッキー・シリーズは最も多く作られた作品シリーズでもあります。何か思い入れの強さを感じますね。

ポップでキッチュなイメージのウォーホルですが、そういうシリアスなテーマを扱っていたんだな、その中でも代表作の一つなんだな、というのが分かってきます。

*印刷しただけなのに価値があるの?

確かに、コンセプトは面白いといえるでしょう。しかし、印刷です。しかも、そのシルクスクリーンの印刷は、工房の職人がやるわです。何か、釈然としない人も多いかと思います。コンサル料とか、デザイン料、みたいな感じですよね。

そもそも欧米の近代美術というのは「新しいコンセプト」とか「新しい表現」をどう提示するか?が評価の対象です。欧米の作品に対して、私達日本人が漠然と「本当にそれがいいの?」と違和感を抱くのは、そこの認識の相違だと思います。日本人はコンセプトが新しいだけでは「スゴイ!」とはなりにくいですよね。日本人にとっては、作家の職人技的な仕事ぶりが見えないと、どうしても認める気持ちになれないかもしれません。

もちろん、どちらが正しい、という問題ではなく、傾向の問題です。

≪残る疑問≫
16枚という数字に意味はあるんだろうか?
ジャッキー・シリーズは実は沢山あり、展示する場所の大きさなどに応じて、構成するピースの枚数を変えていたようです。単品の場合もあるし、最高で35枚のケースもあるようです。一つの写真をいくつも複製したものもあります。もしかしたら、16に思いを込めているかもしれませんが、勉強不足で私にはよく分かりません。

また、背景の青い色に意味はあるのか?
?はっきりしたことは分かりません。ウォーホルのほかの作品を見てみると、「電気椅子」は青と黒。比較するとしたら「原子爆弾」真っ赤な背景に黒で原子爆弾が爆発する様を転写しています。青に何か冷たい死を連想させているのかもしれません。これは想像の域を出ません。

そして、どうしてこんな値段なんだろう?という問い。確かに、メディア批判とか現代における死や惨劇というテーマの表現が素晴らしいのは認める。でも、だからってこの値段になるのか?欲しいと思うだろうか?などという疑問は一般人の心にはそのまま残ります。そう、そこまで高くなくても、と。ダヴィンチの作品が値が張るのはなんか理解できるけど、こういうのが?と思ってしまうのは、ある意味、私は正直な感想だと思っています。

最後に、クリスティーズのサイトの解説に「人間の尊厳を喚起させる」とありますが、それはどうなんでしょう。そこまで言わなくてもいいような気がやはりしてしまいます。あまり深刻な深読みをすると逆にウォーホルに「あぁ、勝手に深掘りしてる・・・勝手に付加価値つけてくれる」と笑われたりするのだろうか、とビクビクした気持ちになってしまいそうです。


以上が私がちらっと思ったことと、疑問をHPや本などでささっと調べたことで、解説にも何もなってません。が、お初にお目にかかる作品に対しては、大体こんなプロセスで進めていくものです。ぱっと見てすぐに「なるほど!」と分かるようなものばかりじゃないものです、色々調べて分かったり、謎が深まったりするものだ、と美術史の先生たちに教わりました。

今では、好きになれなくても、楽しめる、おもしろがれる、味わえる、ということってあるのじゃないかな?と思えます。

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登録日:2011年 06月 16日 15:24:13

アートをめぐる10の誤解


教育の在り方は、どう変わっていくのでしょうか?

アートを通した研究について毎日考えていて気づいたことは、アートに関しては誤解が沢山あるということ。
お笑い、映画、テレビ、漫画、だったらすんなり手に取る人も、「アート」だと「まぁ、いいや。」と敬遠されがちなのも、そういうところに所以があるのかもしれないと思った次第です。

「好きになったかもしれない、楽しめたかもしれない人」たちがいるに違いありません。
以下は私が思った、アートに興味を敬遠したくなる10の誤解・論点です。実は、私自身、学生時代にこういう疑問を持っていて、徐々にそれが解けていった経験に基づいています。

1.アートにはセンスが必要?

技術的に解決可能な面もあります。ではセンスってなんでしょう?

2.アートとは綺麗なものである?

間違いなく、綺麗じゃないものがあります。
私たちには綺麗に見えるけど、ある人には汚いものもあるかも。
そもそも、美は絶対的なのか、美は相対的なのか、という議論になります。

3.アートは難しい?

味わうのに知識や経験が必要ないものもあります。
もちろん、必要なものもあります。
難しい、というときは、ただの情報不足や誤解だったりすることが多々あるのは、何もアートに限ったことではないでしょう。マークがついてたらいいんですけどね。
オートマ、マニュアル、みたいなマークが。

4.アートって何なんだ?

これがアートなの?という議論がある。
アートである、と認めるのは価値がある、
と認めることになるから議論になるのだと思います。
それはアートが素晴らしいものだ、という前提があるからではないでしょうか?
アートも今は多様化していて、一概にコレとはいえなくなってきていますが、分かってくると、定義の中身はあまり重要ではないと分かってきます。

5.アートって外国のもの?

何を基準にするかにもよるが、日本にもアートはある。
でもアートというラベルを貼っていなかった。
逆に、外国のものでアートのラベルを貼っていないけど、
私たちには芸術的に見えるものだってある。
西洋のものの方が価値があるの?
欧米コンプレックスのシンボル的な扱いを受けるときがあるのではないでしょうか。

6.アートは役に立つ?

アートは役に立たないのか。アートを社会的に役に立つものである、有用なものである、という議論の枠組みが、アメリカの美術館の冬の時代に確率されました。
そもそも、役に立つ、立たない、という議論の仕方そのものが妥当な方法なのか?じゃあ役に立てばそれでいいのか、何の役に立てばいいのか?というアートよりもっと大きな枠組み、の実利主義の問題を考えないと、訳が分からなくなる問題です。

7.アートは値段が高いものほど素晴らしい?

先ほどの問題とも繋がっているかもしれません。市場価格が絶対的なのか?という、これまたアートだけ見ていても分からない問題です。

8.アートは学校で教えてくれない?

学校での美術教育の問題については、事の発端は明治維新に遡るようです。
岡倉天心を中心とした、スリリングな対立の物語がそこにはありました。
そして、戦後の教育問題。抑圧理論から、「子供には自由に自由に」と
基本的なことも教えない・・・美術教育はいち早く「ゆとり」教育を取り入れて、かえって現代美術などを理解できる層や、ヴィジュアル・リテラシーが育たなかったのでは?といえるかもしれません。

9.アートは受け手よりも作り手が偉い?

生みだす人の方がすごいのか?受け手は、ただそれをありがたく受け入れるのみなのか。
良いオーディエンス(客、観客)が、作家を育てる、ともいえるのではないでしょうか?

10.アートはありがたい?

美術館に行くと、よく分からないけど文化的で優雅な気持ちになれる、という人も多いかもしれない。どこか、神社仏閣巡りや、パワースポット巡りに似ているところもある。実際、ツアー観光の一部に美術館はよく組み込まれている。ミュージアムショップはまるでお札やお守りの販売所のようにも見える。
アートは触れるだけで、心を豊かにしてくれるのでしょうか?それはもはや、信仰の対象?
日本人は物事を呪術的に捉える傾向が強い、と言われています。日本美術の特性のひとつもアニミズムと言われています。そういう影響もあるかもしれません。

以上、10個の問いをあげてみました。
これは、一つの正しい答えがある問いではありません。
人によって違う。立場によって違い。それについて、お互いの見方を面白がって、対立する必要がないのが、アートの面白さだと思います。アート・リテラシーは識字率と並んで、文化の指標になるのでは?と思っています。そういう研究を、まとめていけたら・・・とひそかに悶々と今日も過ぎていく次第です。

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登録日:2011年 06月 15日 14:07:19

黄色い絵の具



教授と一緒に美術館に行った際、私が絵の具や技術史に限定して話をしたのを、いたく喜んで貰えました。たまたま、美術には興味がないけど、技術には興味のある人なので、では技術面の話をしたら面白がってくれるかな?という意図だったのですが、当たって良かったです。

例えば、ルネサンスの初期あたりだったら、油絵よりフレスコ画とかテンペラ画で、技法としてはどう違うのか、どういうところが難しくて、どういうところがよりやり易いのか、などなどです。

例えば、色のシンボリズムも時代によったり、カルチャーによっても違ったりしますよね。それも、具体的に○○時代は何色はこういう意味、とか、具体例をいちいち覚えておくよりは、「分化によって色の持つ意味は違うかもしれない」という『枠組み』の知識を一つもっておく方が、応用の幅は広かったりします。

そういう応用の幅が広い『枠組み』をいくつか提示しながら絵を一緒に見ると、教えられた側もどんどんその枠組みを使えるようになるので、積極的に参加する楽しみを味わえるので、なんか面白かった、という結論になるのかもしれません。

さて、ゴッホの黄色です。ゴッホって黄色のイメージありますよね。
全盲の方とゴッホの絵を見に行ったとき、ゴッホの絵ってどういうイメージですか?と聞くと
「赤いイメージがあるんだ」といいます。どうしてそう思ったかというと、ゴッホをテーマにした映画で「炎の画家」というような描き方をしていて、炎から連想して赤いイメージだったそうです。ゴッホのひまわりが、赤いイメージというのも、面白いですね。

そういう違いに気づくのは、とても味わい深いな、と思いますし、コミュニケーションの意義を改めて感じさせられます。私たちは何を伝え、何を求め、何を探し、どうしたくて、コミュニケーションをとっているんでしょうか?

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登録日:2011年 02月 17日 17:21:07

美術系女子は肉食系?



こういう調査結果を見ると、ドキドキします。
私は、アメリカでの大学時代は実技で美術専攻で、油絵を描いたり版画刷ったりしてました。そして、修士は美術史専攻でした・・・

まさに、美術系女子!

肉食系なんでしょうか・・・草食でもないかもしれませんが
一体どういう項目で、どういう調査なのか(どうやら性病に関する意識調査?)
実感として、私が知る限り、美術系女子が奥手だという印象は薄いような気がします・・・

私の個人の感想という統計学的には全く微妙なサンプルをもとにした話なんですが
美術を専攻する、という時点で多少、すでに「就職のことなんぞ、考えとらんで」という
ような面もあります。そういう無頼な傾向が、異性との交遊においては、「後先考えるより、まず行動やろ」みたいなことになるのかしら・・・と考えたりもします。

そもそも、美術専攻の人間というのは、作品制作の技術を身につけなければいけないという点が一つと、もう一つ大事なのは「既存の視点からの脱却」だと思います。完全に逸脱するでもなく、上手に「その手があったか」という、なるほどぉ、そうきたかぁ、というような視点を表現することが技術・表現の両方で求められているのではないでしょうか。だとしたら、男女関係においても、あるいは、その、実験的というか、非常に奔放に・・・なる?

合理的な考え方だけでは、割り切れない、という発想なほうが、美術系だと評価されるかもしれません。もちろん、私は日本の美術大学に行っていないので、日本の場合にどうかは、まったく知らないのですが。

もうひとつ思ったのは、必ずしも活発だからといって性病、というのでもないなぁというのも思うところです。

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登録日:2010年 05月 29日 12:11:52

アートを美味しく味わう方法


アートを見るときには、作者の意図を見抜かないといけないのでは?

そのような強迫観念のような、ある種、多くの人が大前提として捉えているような見方があるのではないでしょうか。

大丈夫です、そうでもないです!
というのも、最近では見た人がその人なりに自由に連想をして気軽に楽しんで欲しい、という作品も多いからです。
ルノワールみたいに、見た人が心地いいなぁと思う絵を描きたい、と言うような作家の作品なら、「あぁ、綺麗な色やなぁ~」くらいでOKだと思います。

■徹底的に勉強するか?それとも無視するか?

確かに、作者の意図を知るという楽しみも勿論あるのですが
それが行き過ぎて、大人の意図を読み取ろうとびくびくする子供のように、卑屈な気持ちにならなくてもいいのでは?と思うこともあります。

それから、自由に、自分なりに、楽しく、勝手に、見るというのも勿論いいと思います。しかし、この世には、ちったぁ、意味を考えたり背景を知ったほうが良いんじゃないか、という作品があるのも事実です。

じゃあ、どうしたらいいの?一つに考えを絞りなさいよ!と言われるかもしれませんが、つまり、言ってみたら、絵やアートに対峙する、というのは「ちょっと無口な初対面の人に出会う」ようなものです。

■初対面の人とどう接しますか?
人相手には一つの万能なストラテジーなど望むべくもないように
いろんな時代の、いろんな人が作った、いろんなもの(アートって一括りに呼ばれてるけど)に、一つの枠組みなどありっこないわけです。ですから、初対面の人とであったときに、あなたが取るような姿勢でもって「あ、外国の方だな」とか「あ、このタイプの人は付き合いがあるけど、大体こうかな」なんて感じでやりくりしてるように、アートも楽しんだらいいんじゃないかと思います。

大して含蓄ないな、という意見みたいですが、実際のところ、そういうことを気にかけないために、アートに構えすぎたり、あんまり自由すぎて却って面白い背景情報を無視しちゃう、というもったいない味わい方をしてる場面にでくわすこともしばしば。(例をあげるとキリがないですが、そういうのをまた挙げていきたいです)

新鮮な鯛の刺身だけどから揚げにして、ソースかけて、なんか野菜とか肉とかと混ぜて食べました、って聞いたら、あ、もったいないな、って思いますよね?そんな感じです・・・

こういうペットボトルのアート、と聞くと、大抵の人は環境問題系をイメージするんじゃないでしょうか?それで動物を表現する、っていう、トロピカルな感じ・・・あ、ペットボトルの原料って石油だな、石油ってそういえば、古代のシダ植物とかなんだよな、とかそういう妄想を楽しんでみてください。原材料安そうだな、とか。あ、チェコのアーティストってそいえばあんまりイメージわかないな、そうか、とか。どんな疑問も馬鹿らしくありません。なんでだろ?そういうプチ疑問を心の中で遊ばせるのもアートの楽しみです。そういうことをちょっと調べたりすると、なおさら興味がましてきますよー!

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登録日:2010年 03月 10日 17:09:39

ヘブライ語と“まばたき”



オープニングに混じってきましたー!

なんといっても写真のまばたきの木はチビっこたちに大人気!
私は以前からこの作品の大ファンでした。
NHKのトップランナーでも紹介されたアーティスト鈴木さんの代表作の一つでもあるでしょう。

葉っぱの形をした紙の両面に開いた目と閉じた目が印刷されていて、それがヒラヒラ舞うとまるでマバタキをしているように見えるんです。つまり、パラパラ漫画の原理。

この葉っぱを中央の筒のスリットに入れると、空気でふわーーーーっと撒き散らしてくれて、それがまばたきする葉っぱが舞う木の枝と舞い落ちる木の葉に見えてくるんです。不思議な体験が楽しめるのですが、原理が単純なので安心です。

床に落ちた葉っぱを子供たちが必死で拾ってスリットに入れる姿は
『あぁ、アウトプットとインプットが明確なことに子供は参っっちまうんだな』と思わされます。

どこがデジタルなんだって?

葉っぱを筒に入れる。
筒に入れると吹き上げられると知ってる。
入れた葉っぱが吹き上げられる。
この単純なインプットとアウトプットの関係。
人と物とのインタラクション!デジタル技術の基本らしいです・・・

デジタルとかそういうことは分からないけれど
この作品がイスラエルで展示されたとき、まばたきはイスラエルの言葉でも目に関係した言葉だという話が出たとか。

早速ヘブライ語の先生に確認してみると
マバト、というらしいです、目のこと。
“まばたき”という言葉から意外にも日本人ユダヤ人説をとなえるトンデモに有利な情報が飛び出してきたという、楽しい作品なのでした!

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登録日:2009年 10月 19日 20:09:16

水浴びするディアナ


ピカソ云々よりも、この絵の元ネタはロココ時代の画家ブーシェの有名な
水浴びをするディアナ(ダイアナ、アルテミス)でしょう。

ポーズも青い布の位置もそのまま。
もちろんオリジナルの方がよっぽど可憐で可愛いですし
足だってちっちゃくってキュートです。
ブーシェの模写をした誰かの絵でしょう。
それか、ブーシェをもとにした二次創作?!っていうのでしょうか。

バロックの巨匠であるベラスケスのような画家を尊敬していたピカソが
その後の時代のロココ、美術史上ではあまり高い評価を得られない
スノッブな趣味といわれるロココの画家を好んで模写するかどうか
という嗜好の問題があるけれど、その前に出来そのものの問題がありますね。

興味がある人は、是非『ブーシェ・水浴び・ディアナ』で検索してみてください!
ソックリですから!
そしてどうぞ、オリジナルはとても愛らしいパステルカラーの絵ですから
お楽しみください。

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登録日:2009年 10月 19日 19:58:30

自分の決断が与える影響の大きさ・・・

都内で「ラロックの聖母」除幕式

【7月20日 AFP】都内のフジテレビ本社で18日、レオナルド・ダビンチ(Leonardo da Vinci)が描いたとされる『ラロックの聖母(Madonna of Laroque)』の除幕式が行われた。式典には、現在この絵画を所有している団体の代表者3人、フランソワ・ルクレー(Francois Leclerc )氏、ギー・ファダ(Guy Fadat)氏、ジャック・プルースト(Jacques Proust)氏も参加した。(c)AFP

AFPBB News


この絵がダヴィンチのものかどうか、私には分かりません。

なんとなく・・・ダヴィンチにしては、人物の手の形あたりが怪しい気もするし、左の赤ちゃんの顔なんかがダヴィンチっぽくないんじゃないかなぁ・・と思いもしますし・・聖母のポーズも、あまりダヴィンチの特徴的な顔と体の向きのねじれもないような・・・洋服の襞も、あれくらいの名人のダヴィンチにしては・・・なんか・・・習作と比べても・・・いや、それくらいで決めちゃだめですが、限りなく、違うんじゃないかなぁ・・・という気持ちがありつつ・・・というか、これがダヴィンチだったら、ずいぶん他の作品もダヴィンチということになってしまうんじゃないかなぁと。。。

そもそも、レオナルドの絵は
(あ、ちょっと気取った言い方をしてみました・・・美術史の本では、ルネサンス三大画家はファーストネームで呼ぶのが慣わしみたいです)真贋が、少なくとも、当人の絵なのか、模写なのか、弟子の絵なのか、同時代の似た感じの絵なのか、論争がすごいものなんです。有名な『受胎告知』ですら、レオナルドが関わっているのは部分だろう、いや、部分によっては弟子だろう、とか・・・なんなら、有名な自画像だって、真贋が問われているくらいです。

■科学は鑑定の決め手になるのか?!

では、一体全体、どうやってダヴィンチなのか、ダヴィンチであるのかと、専門家は見分けるっていうのでしょう?きっと想像されるのは、科学的な分析・・・絵の具の成分分析だとか
炭素同位体だとか、X線だとか、そういうものですよね?

だけど、炭素同位体に「ダヴィンチ」ってサインされてるわけでもなし、同時代の作品かどうかはわかっても、ご本人の筆になるものかまでは、証明することはできない・・・たとえ、ダヴィンチのDNAでも分かってて、彼の細胞のかけらでも、見つかったとしても、それが「彼が描いた」証明になるわけでもないですよね。

ことほど左様に、絵の真贋って、科学でもサポートする限界があるってことです。
もちろん、裏づけとして強い証拠力があるのも確かではあるのですが。

■ルネサンス美術の悩みどころ、困ったダヴィンチさん

では・・・どうやって分かるのよ!って思いますよね?
結局は、どういう経路で現代に伝わったか、確かな筋かどうか、という点が一つ。
茶道具でいったら、箱書きみたいなものでしょうか。
また、絵の具の成分も重要ですよね。画家には絵の具の使用する傾向というか、クセもあるわけだから、それと似通っていれば決め手の一つになるかもしれない。
しかし、絵の具が量産される時代以前には、画家は自分で絵の具を練っていたわけだから作品ごとに少しづつ違ったりするかもしれない。
またまた、雰囲気というかスタイルなんかも重要です。ポーズや表情、その描き方です。
これはとても特徴があるもので、特に何気ないところに出るといわれてます。
ルネサンスの有名な画家なら、判別のための『耳集』まであります。耳みたいなパーツに、意外にも個性が出るから、判定に役立つということで、出自が確かな絵の中の耳ばかりを集めた照合表なんかがあるんですね。

さらに、事が難しくなるのは、ルネサンスの時代は「工房制」だったこと。
つまり、師匠が大体の指示を出して、お弟子が仕上げたりするのは、当然の時代なのです。日本でもそうですよね?工房制、例えば漫画家さんならアシスタントさんを雇っていますよね。背景とか、人物でも重要ではない部分(洋服の襞とか)はアシスタントさんが担当する場合もあるでしょう。顔と手などの重要なパーツの線入れを先生が担当して、スミ入れ(黒く塗ったりする)はお弟子さんの場合もあるでしょう。

だからといって、作品が誰のものかというと、漫画家さんのもの、ということになるでしょう。
しかし、完全にその一人が作ったとは言い切れないところもあります。

絵といえば、一人の人間が最初から最後まで仕上げる、というのは割りと近代の発想。
絵の具ひとつとったって、チューブに入ったのは大量生産が可能になった19世紀半ばのこと!だから、絵の具の準備や、絵の支持体(キャンバスとか、板とか)の準備だって、一人じゃないのです。そうしたら、師匠のもとにいるときは、師匠の絵なんです。

ダヴィンチだって、師匠のもとにいるときは、端っこの人物を描くのを担当したって、その絵は師匠の絵なんです。

ダヴィンチさんは更に、困ったことに、割と描き方に実験的なところがある。際立った特徴もあるんだけど、やはり実験的なこともする人だから「レオナルドはこんな絵を描いた例がない!」という事実だけで、ある作品を彼の作品ではない!と言い切ることが難しかったりもします。レオナルドさんなら、これくらい飛躍する可能性はあるかもな・・・と専門家もちょっと深読みしちゃうみたいです。

■線引きが難しい

さぁ、真贋って難しいでしょう?何をもって、真贋というのか・・・
ルネサンス時代なら、同じ工房だったら、きっと偽物っていうのは、大げさすぎるなって思いますよね。そして、制作された時代がレオナルドとは全く違ったら、偽物!と思ってしまうけど、もしかしたら、専門家が勘違いして勝手に他人の作品をレオナルドだと決めてかかったのかもしれない。

偽物にもいろいろあるし、ホンモノだと決めるにも、いろんな基準点?!というのがあるというわけで、なかなか決めるのは難しいのです。

そして、さらに判断を難しくするのは・・・レオナルドの作品であるか、ないか、というのが『値段』に大きく響くということです。つまり、人の欲に大きく絡む、ということですね。

ここで質問。

もし、あなたが専門家で、明らかに偽物を目の前にしていたとする。
だけど、それが偽物だと分かるのは、自分を含めて、ごく少数だとする。
それをホンモノだといえば、とても儲けになるとする。あなたならどうしますか?

また逆に。それがホンモノだと確信できたとする。
間違いないと思ったとする。
でも、物事に絶対はないという良識があなたにはあったとする。
万に一つくらいは、違っているかもしれないが、99%本物だと思ったとする。
しかも、それには大金が絡んでいると知っている。
あなたは、それをホンモノだと主張できますか?
万が一、それが偽物だと後に分かったときには、あなたの専門家としての見識に大きな傷がつきます。
さて、どうするでしょう?

美術の鑑定というのは、なかなか、名誉といろんなものを賭けたものだと思いませんか?

ある意味、今の裁判員制度に対する感覚に近くないでしょうか。
自分が下す決断が、自分が関わる決断が他人に及ぼす影響の大きさが、自分の判断そのものに影響を及ぼす場合もあるでしょう。

そういう事は、必ずしも司法の現場だけではなく、いろんな分野のさまざまな場面に起こりうるんじゃないでしょうか。美術なら、他愛ない、無害だ、と思うとしたら・・・それは、ちょっと、美術の世界を性善説で捉えすぎかもしれません。そうあって欲しい気持ちも沢山ありますが。

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登録日:2009年 08月 03日 22:24:10

座る芸術

ポンピドーでフランス初のロン・アラッド展

【11月21日 AFP】フランス・パリ(Paris)のポンピドーセンター(Centre Pompidou)で20日、英国の工業デザイナーで建築家のロン・アラッド(Ron Arad)の作品展「No discipline」が開幕した。フランスでは初のアラッド展となる。会期は2009年3月16日まで。(c)AFP

AFPBB News


最近、お世話になっている研究室でフリッツ・ハンセンのアントという名前の椅子が増殖中です。
とっても可愛くて、色違いで黄色・白・赤などがぞくぞく登場中。

見た目だけでょ?フン!

って思ったでしょう?思ったでしょう?
ところがどっこい。座り心地抜群。
お尻のフィット、腰のサポート感、背もたれのしなり具合
長時間座ったままで書き物仕事をしても疲れません。
美人なだけかと思ったら、頭が良くて料理が上手で育ちも良かった。
そして性格も良かった、といったところです。

機能美という言葉があります。
まさにこのアントという椅子には機能美を感じます。
まず見た目がカワイイんですが、座り心地のよさが
素晴らしいのと相まって、感動の連続なんです。
カラーバリエにもグッときます。

この機能美という単語について、今までそんなには考えていませんでした。
古代人が使っていた石器の美についてオハナシしたとき以来です。
大抵の人の認識として「使い勝手が良いシンプルな素敵なデザイン」
くらいの意味で捉えていると思います。
私も大体そう思っています。
機能美という単語は、いわゆる芸術作品には使われることがないようです。
使われるのは日用品であるとか、そういう「道具」として「使う」ためのものに対してですね。

きっと「オシャレだけど使いにくいヤカン」などに対しては、使うことがない単語でしょう。

では、機能美というのはいわゆる純粋芸術の美とどう違うのでしょう?

純粋芸術というのは、芸術を作るぞ!と思って作っているものです。
鑑賞されることが目的で、使用されるのが目的ではありません。
(そいうい芸術が主流になったのは人類の歴史では最近です。
それまでは信仰の対象として礼拝するものだったり、お部屋の装飾品だったのです)
そもそも美しいと感じるかどうかは主観です。
その人の勝手で、他人が踏み込む領域ではありません。
でも美しいと感じることにおいて共通していると思われるのは
美しいと感じる対象に「愛着」「感心」「感動」
「興味」「魅力」などポジティブな要素を感じ取っていることではないでしょうか?

古代メソポタミアについては、神様とかかわりがあるもの、聖なるもの
キラキラしたもの、神々しいもの、などが一般的に美しいとされていたようです。

では、機能美は?
機能美というのは、使い心地の快適さから来る「満足」に由来しているのでは
と思っています。使い心地が良いものは、無駄な動きをさせず
労力を効率よく使い、最大限のアウトプットをもたらします。
道具、日用品として使う中で、ポジティブな結果をあちこちで生み出すわけですから
まさに美しいのでしょう。
そういう次元では、もしかして芸術の美しさと、本質レベルでは変わらないものなのかもしれません。

アインシュタインは、この世は神が作った美しい世界なので
その法則を表す物理の数式も美しいに決まっているというようなことを
言っていました。must be beautifulであると。
実際、E=mc(二乗)はシンプルですっきり。

目的と形がぴったりと一致するようなとき
神がかった美しさのようなものが
あるのかもしれません。

技術を重んじる日本人にとっては
どう良いのかよく分からない主観任せに思える純粋芸術よりも
機能美を持った「美しい日用品」「美しい道具」の方が
心に訴えるものが多いような気がします。
それも、森羅万象に神が宿ると考える日本人の精神性と
物の合理的なデザインに宿る神がかりな何かと
結びついているのかもしれません。
そう、車だとか、茶道具だとか、そういった世界です。

そうそう。
日本の美術の歴史は相当「道具の歴史」でもありますよね。
鑑賞目的の道具みたいなのもありますが・・・
西洋美術史の授業でも、工芸品の類も沢山扱うのですよー
20世紀にいたっては、家具・車・キッチン雑貨も一通り扱います。
生徒の中には、シンプルだけど高級なキッチンウェアーをお金持ちのバザーで発掘して
骨董屋に売って小銭を稼ぐ人もいたくらいです。

では私は、アントを我が家に導入するために「アント貯金」を始めたいと思います。
狙っている色は、ずばり「黄色」。

だって私の部屋、カーテンもシーツも黄色なんですもの。
TV台だって黄色です(笑)

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登録日:2009年 01月 21日 21:26:04

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プロフィール
秋田麻早子
■プロフィール:
アメリカはテキサスで西洋美術史を専攻。現在、博士課程で美術史・考古学なんかを面白がるコミュニケーションを鋭意研究中。
著書に『掘れ掘れ読本』(バジリコ 2007)。笑いのとれる考古学入門書を目指したもの。
連絡先:
mana_mana_chan@hotmail.com
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