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質と量
ニュースサイトでブログ、という話で始めたけれど
割と、アートのニュースは「ナンボで落札!」の話か、大きな展覧会の話だ。
なるほど、こういうのがニュースになるんだな、と思う。
きっと、当時のピカソが『アヴィニョンの娘達』を描いたときは
美術の歴史上の決定的瞬間でニュースだけど、現代のネットワークレベルのものがあったとしても、おそらくニュースには取り上げられなかったと思う。ほとんどの、大して重要でもないネタとの区別がつかないからだ。実際、友達でも「ピカソ、何かいてんの・・・」って感じだったというとかいわないとか。
とにかく、ニュースになるには、ニュースになる根拠が必要なんだと思う。
それは、ニュースの内容にではなくて、それがニュースだと人が認めるかどうかにあるんだろうかと思う。最大公約数というのか、最小公倍数というのか。いずれにせよ、なんかしらの客観的な基準。
このブログでは美術ニュースとほとんど同列に扱っている考古学関連もそう。大発見!でなければ、それは考古学者にとって大発見ではなく、世の中の人にとって大発見!でなければ、ニュースにはならない。ノアの箱舟とか、世界最大とか世界最小とか、世界初とか、そういうのだ。
そうすると、実は、わりと、アートなニュースって・・・パターンが決まってきてしまう。規模の大きいアート展か、すごい値段で売れた作品か、すごい珍しい表現の作品か。そもそも、アートの定義も微妙なところ。美術という言葉も、定義が定まらないまま、というか流動的なまま、一人歩きしている。
よく、分かり易い文章を心がけるなら、分かったつもりの単語を避けて、その代わりにそれを説明してみると、自分でもどれだけいい加減にその言葉を使っていたか分かる、という。アートもそう。
アートの定義というのは、いろいろあるけど、そもそも一つに決めたとしたら、別の時代のアートの定義には役に立たなくなる。どれをとっても帯に短し、襷に長し、になる。
では・・・美しいもの?綺麗なもの?すごく綺麗なもの?珍しいもの?またとないもの?希少価値のあるもの?面白いもの?すごく面白いもの?新しいもの?再現するのが技術的に難しいもの?高い技術を必要とするもの?完成度が高いもの?時を経てその価値が変わらないもの?人の考えを一瞬で、または徐々に大きく変える力があるもの?
たとえ、これが一定の基準だとしても、これらは定性的な基準だと思う。
誰が判断するんだ?どうやって?となると、曖昧なもの。
ニュースというのが客観的なものであるのだとしたら、もっと定量的な基準が必要になると思う。つまり「でかい」とか「高い」とか、数量などで誰にでもはかれて、示せて、共有できる基準だ。
ある意味、ニュースで扱われるアートや考古学のトピックというのは、定量的にはかれるジャンルが濾し取られた、と考えることも出来るんじゃないだろうか?ニュースが扱うトピックの限界をなじるよりも、よっぽど生産的な捉え方じゃないだろうか。少なくとも、アートを定量的にとらえたら、こうなる、という見本だと。
質的な、つまり定性的な価値を定量化できないか?という案が出るけれど、大抵は満足がいかないものになる。美観を保つために、基準を設ける。定量的なものでは、限界があるそうだ。最近、都市計画の人の話で聴いた。質的な基準、定性的な基準が必要だが、こちらは誰がどう判断するんだ?という問題が出てくると。誰からも文句が出ない解決策はない。
私はといえば、ニュースで扱われるような定量的な基準を満たすようなトピックは、そういうものとして捉える。後は、自分の質的な価値観で大事だと思ったトピックと、前者とを混同せずに両輪として眺めていく。ニュースが定性的ではない、となじるのは、オカドチガイじゃないかと思ってしまうからだ。自分の定性的な基準、それから、他の人の質的基準などを参照していくのも、より一層、見方としては楽しくなっていく。最近では、人がアートをどう見て、どう他人の意見を参照していくか?というのを調査中。私にとって一番面白いのは、人がどう見るのか、なのかもしれないです。
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登録日:2010年 06月 21日 12:47:13
月と六ペンスとゴーギャン
ゴーギャンといえば、サマセット・モームの『月と六ペンス』のモデル。
読んだことなかったんですが。
勉強不足を毎日痛感する。
でも同時に、勉強して知識が増えて、武装というのか、武装だろうけど、本から得た根拠をつけて述べたり反論したり、それが出来ても、その場は凌げるだろうから、確かに知識が増えるのはいいんだろうけど、それでも何か違和感が残るのだから、毎日痛感するこの残念感の原因は勉強不足ではないんだろうと思う。
日々少しづつ感じる、微妙な残念感の原因を「勉強不足」「教養不足」「論理力不足」というところに求めたら、なんとなく腑に落ちたような気もするし、いつか挽回できるような(どうせしないんだけど)、とりあえず理屈をつけられた気になる。とりあえず納得したことにできる。だけど、多分、やっぱり違うんだろうと、素直に認めたら、思うわけだ。
そういうどうも残念な気分のときは、残念な自分の頭で考えてもたかがしれている。その上、残念な気分のときに周辺にいる人も残念な状態であることが、多いような気もする。こうなったら、直接ではなくても、残念じゃない人のご意見を伺いたくなる。間接的にでも。時間と人数に認められてる人、をとりあえず「すごい人」ということにして・・・この仮説すら、もはや日々を勉強不足のせいにしている自分が立てたのだから危ういといえば危ういのだけど、始点としては精一杯としておく。
そうだな、思いつく時間と人数に濾されてもすごい人なポジションを獲得してる人たち。レオナルド・ダヴィンチとかかな・・・見とこか・・・空海とかすごいんじゃなかろうか・・・南無大師遍照金剛・・・モーツァルトとりあえず聴いとこうかな・・・モーツァルトの短調の曲を聴くと背筋がモゾモゾしてくるんだけど、これも胎教に本当にいいんだろうか、妊娠してないからいいけど・・・
名作と言われている本などに手を伸ばすのもこういうときだと思う。思春期に一旦手を出すけれど、その時読まずじまいだったものを読むのがこういう時。深い期待もなく、とりあえず読み始めると、名作はやっぱり面白いことが多い。思春期だと退屈だったかもしれなくても、それなりに年を重ねてくるごとにそれに対応できるのが名作の懐の深いとこなのかもしれない。
思えば、思春期のときに読んだものと、読まずに過ごしたものとの差というのは、考えてみるに、偶然くらいしかないような気がする。たまたま読んだ、たまたま読んでなかった。私の場合、例えば『嵐が丘』は読んだけど、『高慢と偏見』は読んでなかったような。プーシキンはいくつか読んだけど、ドストエフスキーは手付かずとか。
サマセット・モームの『月と六ペンス』は読んでなかった。明らかに、あんまり心惹かれなかった。では、モームを読もうかと思ったのは、たまたま図書館で返却されたばっかりの本の棚のところに『高慢と偏見』があって、これを機会に読んでおくか、と思って読み始めたら、驚くほど面白いし、止められないし、気づいたら一日で暇を見つけては読んで読み終わってしまったからだった。これも人気作品だけど、それにはモームがこの作品を10大小説に入れていることが、この作品の名声というのか、人気を裏支えているところもあると思う。ということで、同じく10大小説に『嵐が丘』が入っているし、結局どちらも面白かったの一言につきるので、実は恥ずかしながらエッセイをちょっと英語の勉強で読んだくらい以外には一冊も読んだことがなかったモームだけど、これを機会に読んでみるか、残念な気分だし、と読んでみた。ここは奇をてらわず、有名どころドンピシャの『月と六ペンス』にしてみた。最初の20ページくらいは勘で飛ばし読みをしたけど、後で解説を読んで飛ばしてよさそうだったからほっとした。でもその先は、もう止まらない。結末が分かっているのに、止められない面白さがあった。やっぱりすごいんだ、文豪。
こういう時にほっとする。多くの人、時代をついでいいと言われるものが面白くないとき、なんだか自分が味覚異常なんじゃないかという気がしてくる。著しく能力が欠如しているんじゃないかと思う。これが同時代の一時の流行ものであれば、大して心配はいらないことが多い。実際、ぱっと流行って、ぱっと消えるものは沢山ある。同時代人が認めることもなく、後世の人にも認められないものが沢山あり、同時代の人が認めても、時が経たら全く顧みられないものもある、また同時代の人が絶賛し、また後世の人も絶賛し続けるものもある。
いろいろあっても、やっぱり自分が好きじゃなかったら、好きじゃないんだから、仕方ないなぁって思うのだけれど、『月と六ペンス』みたいな本が当時ベストセラーになった、と聞くと、世の中、なかなか捨てたもんじゃないのか、と思う。
本の中身は、ざっくり言うと、本で読むと味わい深い人物だけど、近所にいたら絶対にこの「私」のようには受け止めたりできなさそうな、避けたい、拒絶してしまいそうな人物を描きだしているといえます。それは受け止め方の作法を知らないからかもしれないんじゃないでしょうか。戸惑っているだけなのに、自分で認識できないから、避けてしまう。嫌いとかまで思ってしまう。
主人公は本当に社会性のない人だし、変な人とか、自由な人がいろいろ出てくるけれど、社会から逸脱しない立場の「私」が、通訳というのか、いろいろ言語化を試みていくl。それのどれが正しいのか、合ってるのか、「私」さえ知るよしもない。でも、いろいろあぁでもない、こうでもない、と受け止め方、捉え方、戸惑いそのものの言語化がなされている。読者もそれを追体験できる。うまいこと言うな、と。
こういう本が読み継がれるというのは、思ったより、世の中、奇人変人に対して、語る言葉、表現の仕方、受け止め方、というのを持たないだけで、そのために現実世界には軋轢が沢山生じているけれど、全くもって頭から心から切り捨てているわけではないのかもしれないと思えてくる。
この小説の中には、人の心の中の矛盾とか、愛と呼ばれている現象の中の沢山の自己愛や勘違いやさまざまな状況への分析と表現が散りばめてある。思い当たる節がある人には、こういう風に言うとしっくりくるな、という捉え方が、言語化が沢山みつかる。理屈というより、表現。自分の中でもうまく消化できなくて、かえって単純化して、余計に分からなくなっていたような事柄に、もっと理屈としては合わなくてもしっくり来る言葉が沢山みつかる。この本の中にも、人というのは孤独で、基本的に言葉が通じない異国にいるようなもので、心の中には沢山の複雑な思いがあっても、片言しか離せないから「傘を表に置いてあります」程度の内容しか告げられなくて、お互いに孤独になる、みたいな事が書かれていた。合図でしか分かり合えないのに、合図が分からないとき。実際、自分には理解しがたいような人が目の前にいて、でも全くもって拒絶しているのではなくても、触れ合う言語なり言語らしきものなりを持たなければ、多分拒絶しているような態度しかとれないだろうし、相手は拒絶されたと、嫌悪を誘っただけだ、と思うんだと思う。そうやってすれ違っていく。
そういう事が日々、起きているのかもしれない。残念な気持ちは、いろんなことを思って、感じて、ぴかぴかしたものを見つけたと思う、そんな時にも、「外に傘があります」程度のことしかいえなかったり、身振り手振りでほとんど何も伝わらないか「分かるよ、すごく分かる」という全然わかってなんかない言葉に触れてかえって何も伝わってなくて戸惑われるほうがマシだと思うような状況に陥るときじゃないかと思う。
やっぱりだとしたら、何か少しづつ溜めていけば、残念が減るのかもしれない。または、残念と思う必要もなく、いつかなんかどうにかなる、そういうすぐには分からないもことに焦って結論を出してしまっているかもしれないことにこそあるのかもしれない。
こうやって少しは視点を和らげてくれる、まんざら残念感だけに浸らなくても良さそうじゃないか、と思わせてくれる。やっぱり、すごいって言われる時間と人数をこなしてきた作品というのは、あてになるなぁと思ったわけでした。
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登録日:2010年 06月 14日 11:41:33
「当たり前」の壁
【11月13日 AFP】新生銀行(Shinsei Bank)は12日、業績不振の責任を取ってティエリー・ポルテ(Thierry Porte)社長(51)が退任し、後任を05年まで社長を務めた八城政基(Masamoto Yashiro)会長(79)が兼務すると発表した。
新生銀行は、世界的な金融危機の影響で業績が悪化。米証券大手リーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)の破たんでも大きな損失を計上し、同日発表した2008年9月中間期の連結最終損益は、前年同期の231億円の黒字から192億円の赤字に転落した。(c)AFP
自分が当たり前!って思ってることって、どこまで通じるんだろう?
これ、結構、気になりますよね。
日本ではよく「外人には通用しねぇだろう」みたいな意識がありますよね。
外人に通用しちゃうと、逆にびっくりしたり。
「当たり前」って思うこと、どうして私には当たり前で、誰かにとっては驚くほど変なことで
信じられないことだったりするんでしょう?と考え始めたりするわけです・・・
美術史をやってると、「美」だって相対的だと気付くわけです。
美術史を語るとき、美しいという言葉は使いません。
だって、当たり前の共通の意味ってないんだもん!
普段は忘れてますけどね。
つくづくまた考えることになったキッカケというのが、
新生銀行で口座を持つことにして、説明を聞いているとき。
どこのATMでの出し入れも手数料がかからないというから
これは良い!と思って繰り出したわけです。
というのも、日本の銀行はどうして時間外とか週末になると
手数料を取るのだろう?他行のATMならまだしも・・・とずっと
ずっとずっとずっと不満だったのです!
アメリカに居たとき、バンク・オブ・アメリカのATMから出す限り
24時間いつでも手数料なんてかからなかったんです。
銀行窓口だって5時くらいまでは開いてるし、ドライブスルーだってあったし。
便利だったんだー!と日本に帰ってきて初めて気付きました。
「もー!日本の銀行、どうでも良いことで儲けすぎっ!!」
いつもブーブー言ってましたが、周囲の人は??って感じ。
「伝わってない感」は感じていたわけです。
そんな中、新生銀行。
説明を聞いていて、はっとしたことがありました。
「通帳がない」「印鑑はいらない」「ATMの手数料がいつでも無料」
説明によると、通帳を設けないことで、ATM等の手数料面
他行より色のついた利子で還元できるのだと。
この3つ、アメリカの銀行では当たり前のことだったんです。
(さすがに他行のATMは手数料がかかりました)
私は19歳から26歳までをアメリカで過ごしたので
銀行初体験もアメリカでした。
通帳がないのは当たり前、印鑑もなし(アメリカに印鑑の制度はない)。
それに馴れていたので、日本の制度をブーブー言ってたのです。
(断っておきます・・・新生銀行の回し者じゃないです・・・)
新生銀行では、もっと充実したサービスがありました。
他行のATMでも手数料が無料(翌月キャッシュバック)。
ネット上での送金なら、月一回振り込み手数料無料。
なんだか目からウロコ。
通帳なんて、別にそもそも使う習慣ついてなかったので
なくても全然困らないんです、私。
しかし・・・ここで思った。
私は通帳がなくて、明細が郵送されてくるアメリカ方式が原初銀行体験だったから
何の抵抗もなく、やった!手数料無いほうが絶対いい!ってもろ手を挙げて
選択できます。当然のこととして。
もしかすると、人によったら、「通帳がないの不便!」って思うのかな?
って思い始めたんです。通帳で管理してるのに慣れてる人たちにとって
それは馴れるまで、面倒だったりするのかな?って。手数料払ったほうがマシだって
時間外に使わなきゃいいんだよ、他行のATM使わなきゃいいだけだよ、って思うのかなって。
「当たり前」って、たまたま居合わせた環境の慣習から成り立ってる。
家族が麦茶に砂糖を入れる人たちだったら、それに馴れて当たり前だと思う。
だけど友達が来て「うわ!変なの!甘い麦茶?!」って、何人にも言われたら
当たり前じゃないみたいだ・・・と気付く。
私だけ?って。
そう。預けてる銀行のATMからお金を引き出すのに
いつでも手数料無料が当たり前だと思ってた私の心は
日本に帰ってきて打ち砕かれた(笑)
新生銀行に癒してもらったけど、他の皆にとっては
当たり前の銀行と違ってビックリなのかもしれない。
印鑑いらないし。
つくづく・・・当たり前と思ってることって
自分の小さな世界観が露呈してしまう穴だな、って思いました。
当たり前じゃん!って思うとき、私は相当に局所的なルールを暗黙裡に前提として
疑いもなく飲み込んでるんだって。
あぁ、もっと良い方法があるかもしれないのに!きーっ!
■「当たり前」=単なる慣れ?
ここで少し飛躍します。
さっき、通帳がないと不便かなぁって言いました。
アメリカ人は通帳使ったことないわけですが、不便だとは特にいってません。
もしかしたら、日本にきて通帳が便利と思った人もいるかもしれません。
○○がないと不便。そう思う考え方も、もしかして、当たり前だと思い込んでるだけ?
かもしれないんですよね。
当たり前と思ってるけど、本当はそうじゃないかもしれない。
私の経験を言います。良い実験でした。
冷蔵庫が壊れた事があって、二ヶ月くらいなしで生活してみようと思ったんです。
まぁ、なくてもいいかと。勿論、自炊生活です。
気付いたのは、基本的な調味料は常温で大丈夫ってこと。
納豆や卵も数日くらいなら常温でOK。
野菜も根菜なんて全然冷暗所で問題ないわけだし
大して不便なことなんて、実はなかったんです。
冷凍食品はもともと使ってなかったし
バターなんかはギブアップしましたが、なくても大丈夫です。
ものすごい贅沢を言わなければ、1日2度の自炊生活に
大して不便はありませんでした。
安心してください。冷蔵庫がなくても、泣くほど困ったり
食べるに窮したり、全外食になるわけでもありません。
せいぜい、出来合いのものを買い置きできないだけです。
しかし、それでも言います。
冷蔵庫がやってきました。
わたし・・・冷蔵庫があると、便利だと思いました。(笑)
アイスクリーム、買ってきて全部食べられなくても
冷やしておいておけるんですよ!
いやぁ、便利です、確かに!
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登録日:2009年 02月 10日 18:04:14
言葉にすると
【10月15日 AFP】ノルウェー南部ドランメン(Drammen)近郊を流れるドランメンセルバ(Drammenselva)川の水面(みなも)を鮮やかに彩る紅葉した木々。(c)AFP
宇多田ヒカルのファーストアルバムのB&Cという曲に
「言葉にすると魔法とけちゃう」というフレーズがあるんですが
とても感動したり、ものすごく深く思ったりするようなとき
それを言葉にしたら、白々しい気がしたり、思いが狭められる気がするようなときがあります。みんな、これだけ言葉に頼る生活をしながら、どこか言葉をバカにしていたり、軽んじたり、言葉を疑ったり、責めたり。まるで恋人の気持ちを試すような、そういう意地悪なスタンスで言葉と付き合っているように見えてきたりしています。
なるほど、言葉の限界を感じる、それは感動するようなときには、いつもあります。
言葉に頼ってコミュニケーションをとっている毎日、それでも言葉以外の情報だってとても多いのに、だけど言葉はその中で「優位」な立場であることにかわりないんです。
目は口ほどにモノを言う、というけれど、それは口があった上での目、ということが多いんじゃないかと、なんとなく思えます。言葉のチカラを過信しすぎた時代を過ぎて、言葉のチカラを軽んじすぎる時代になっているような気すらする。
今、お手伝いというか、なんとなく居座らせてもらっている研究室の先生が
「例えば海に落ちる夕日の綺麗さ。そういうのを、全盲の人にどうやって伝えるか。そのとき、ただ夕日が海に落ちていて、すごく綺麗で、と言っても伝わらないんだよ」
そんな話になりました。
例えば、この湖にうつる紅葉した木の綺麗さなんて、言葉を尽くしても伝わらないと思ってしまったら、そこで終わり。綺麗だと思う、どうして思う、なぜそう感じる、どうしてほかの木と違う、緑のときと何が違う、それ、言葉以外で伝える方法、何があるんだろう。沢山あると思う。ある、だけど言葉はそんなに無力じゃない、と思ったりするんです。
最近、全盲の方と楽しく話す機会に恵まれているのですが、その中でも鉄道の大ファン!という方と井の頭線の話になりました。果たして、見た目の話をするのは、どうだろうと思ったけれど、きっとそんな事に気を使うほうが失礼だと思えるくらいの人だったので、思いきって「井の頭線の車両は、七色七種類あるんですよね!」と話すと
「そうなんです!!!でも七色といっても、細い帯状のシールみたいなのが貼ってあるんですけどね!!」と大喜びで、そのあと、話も弾む、弾む・・・取り越し苦労するより、どんどん交換しなければと思いました。同じことを、全盲かつ全聾の方とお話しているときに思いました。
「情報が多すぎて大変な人に比べると、少なくて楽かもしれませんねー」とユーモアたっぷりに会話(発話が可能な方)していると、コミュニケーションの可能性と限界と、両方について、今ここで、とりとめのない形でしか書けないけれど、どうしても考えて、不思議な気持ちになっているといわざるを得ません。
例えば、赤い色。何を感じるのか?
温かいような、闘争心が湧くような、元気が出てくるような、だけど、何か過剰な気持ちにもなる、情熱だけが先走っていて人を傷つけてしまうような気持ちになる、威圧感を与えたり、血の色を想像して生きている実感を表現しやすいような、赤の中にもいろんなバリエーションがある中で、いろんな気持ちを伝えられる。
色って、目だけで見ているのかしら?
じゃぁ、どうして赤い下着が縁起がいいと言われるのか。
最近なかよくなった、とても感性豊かで知的な風俗勤務の女性が言っていました。「赤いボールと白いボールを箱に入れて、見ないで触る。そうするとね、赤いボールの方があったかいから、何度連続でも赤い方を選ぶことが出来るの」
目が見えない人にいろを伝えるのに、温度を使ったりすると聞いたことがあります。
形を見て数字が浮かぶ人と話したり、私のように数字に色がついている人間がいたり、味で音を感じる人もいる。誰しもが五感はある程度の互換性を持っていて、それを第六感と呼んでいるのかもしれないと感じる日々です。
どうやったら、言語至上主義の社会の中で言語そのものがさげすまれたりする中で、五感のほかの能力に長けた人を評価する「客観的な物差し」を作り出すことが出来るのか、そういうお題を先生から貰いましたが、それは素晴らしい能力を持ちながら不遇であったり「生き難い」「困難」を抱えている人との共同作業になりそうだなぁと感じています。
賛否両論、とっても危険な思想を言葉にしましたが、きっと伝わるかどうか微妙なテーマだと分かりつつも、書かないでいられないような、そんなもどかしい、どうしようもない、そんなテーマなんですね。
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登録日:2008年 10月 16日 05:48:03
はだかまつり②
キューピッドは「わいせつ」? 表紙に使用した書籍が出版禁止に
【7月20日 AFP】香港の検閲当局が、ローマ神話に登場するキューピッド(Cupid)の絵柄が印刷された書籍の表紙を「わいせつ」と判断し、出版禁止を決定。だが再検討の結果、決定を取り消した。同書は国内のブックフェアに出展されていた。(c)AFP/Samantha Sin
下記の裸祭りのポスターと連動して・・・私が思い出した中国で出版禁止になった本の表紙絵がコレ。
味わい深い対比に感じられるのは私だけでしょうか?
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登録日:2008年 01月 20日 05:28:53
はだかまつり
【1月9日 AFP】千年の歴史がある「裸祭り」の伝統が、時代の変化の壁に阻まれた。
≫続きを読む…
(c)AFP
お久しぶりです。
ながらく更新してませんでした、すみません!
諸事情により・・・こちらに手をつけていませんでしたが
ちょくちょく更新したいと思います。
先月、朝日新聞のインタビューを受けたのですが
そのとき、驚いたことにこのブログを褒めていただきました。
こういう、ニュースと連動させた?!コラムのようなものが
もっとあってもよいのかなぁと思った次第です。
だって、ニュースだけだと、毎日洪水みたいに流れてきて
どういう風につかみとったらいいか分からないですもんね。
流しそうめんに、大量のうどんやソバまで放り込まれたら
皆手当たり次第につかんで、何を食べてるのか分からなくなりそうです。
さて、このポスター。
この際、これがセクハラかどうかが、相当恣意的でもあるし個人差があることは
誰もが思うことでしょう。
私が面白いなぁと思ったのは・・・数ヶ月ほど前でしたでしょうか。
中国で、とある本の表紙の絵がワイセツだといって禁止されたことです。
表紙の絵は、18世紀末のフランソワ・ジェラールの描いた愛のキューピッドが恋人のプシュケの額にキスしているもの。
たしかに、彼らは裸体ですし・・・プシュケの衣装はスケスケ。
だけど、現代の西洋文明の人(日本人も含め)の多くが「美しい」でスルーしてきたような絵です。
善悪の問題でも、是非の問題として論じるつもりもなく
「あぁ、そういうことが問題になるんだ」という事実そのものを、心にとどめておこうと思った事件でした。
そういえば、19世紀イギリス、ヴィクトリア朝時代は、ワイセツに対して非常に厳格で・・・その、脚(leg)という単語がいやらしい連想をするから、四肢(limb)という単語を使ったとかいう話を聞いたことがありますが・・・かえって、意識しちゃってイヤらしい気分になりますが。ヴィクトリア朝時代なら、上の2つはどちらもNGだったろうなぁと思った次第です。
ちなみに、上記の3つの事柄に、相互関係はありません。
単なる私の連想です。
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登録日:2008年 01月 20日 05:13:55
ナンノタメニ
今の子供がうらやましい? 学校の授業にゲーム機活用の動きが活発化
【9月21日 AFP】子供を勉強から遠ざける最大の理由として親から敵視されてきたコンピュータゲーム機を、学校の授業で活用する動きが全国で活発化しているという。
≫続きを読む…
(c)AFP
勉強。
なんのためにするの?
子供から聞かれたらどう答えるべきだろう。
自分が子供のときにも同じ問いを、深く考えることもなく投げかけていたような気がします。
この問いは「なんのために生きるの?」「人はどうして生まれてくるの?」「人生って何?」「どうして恋をするの?」みたいな問いと同じジャンル。
答えを得ることが目的ではなくて、問いかけて、考えて、もがいていく過程そのものに何か意義があるのじゃないかと思える問いです。
勉強をする、という行為は、一般的には教科書を読んだり、先生に教わったりすること、となっています。だけど、本当にそんなものでしょうか?よく「勉強になった」という言い回しがありますが、これは授業や講演だけで使われるものではありません。人生勉強などという表現もあります。
例えば、私が今まで生きてきた時間の半分くらいは費やしてしまった美術の歴史とかだって、教科書だけで勉強できるものじゃありません。まして、先生からおそわるものでもありません。自分の五感や、悲しいことや、楽しいことや、辛いことや、嬉しいことや、そんな経験を全部ひっくるめて、キレイだとか美しいだとか大事だとか、そんなものに思いを馳せることができるわけです。
一問一答だったり、四角四面なモンダイのための勉強だったり、そういう味気ないものは人が生きていく意味を考えるのに役にたつとは思えません。子供が無意味で無味乾燥だと感じても、それは素直で、とても安心できる感想かもしれません。
でも、本当に自分の人生に向き合って勉強していくというのは、自分の人生ってナンだろう、どう生きるべきだろう、と真剣に悩みながら学び生きていくのは、とっても大変なことで。苦しいことで。大人にとっても、避けたいことだから、子供にもなかなか伝えられないような。「じゃぁ、オマエはどうなんだ」と小さい子供に言われたら、恥じるところが多い大人の方が多いかもしれません。でもそれが現実。それも現実。その上で、学ぶこと、勉強することは、自分の人生に華を添え、彩りを与え、意義を見つけるための手段だというのを伝えていけたらいいですね。
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登録日:2007年 09月 28日 00:57:02
トルコ風呂
【8月30日 AFP】イスタンブール(Istanbul)の蒸し暑い屋外、しかし蒸気に満ちた浴場は、マッサージ、垢すり、そしてトルコ伝統の公衆浴場「ハマム(hammam)」を求める汗だくの観光客を魅了し続けている。長い間、人々にとってストレス解消、解毒の役割を果たしてきたこの浴場は、温泉施設の起源ともされている。最も有名な「ハマム」の一つチェベルリタシュ(Cemberlitas)からレポートする。(c)AFP
トルコ風呂、という単語を、深読みされずに使える時代になりました。
日本人にとってお風呂というと、ざぶんと湯船に浸かる、あのお風呂。
でも、どこの国でも同じというわけではなく。
中東の方では、蒸し風呂を楽しむようです。
■私が入ったトルコ風呂
中東に行ったとき、やっぱり、試さないと・・・と思い。
友人レイチェルとお風呂に。
まず・・・蒸し風呂。
石で出来た風呂場で気持ちよくサウナを楽しむ感じ。
そう、この写真のようなところ。
次。
オッサン登場。
オッサン、歯が相当抜け落ちていて、腰に申し訳程度の布を巻いていますが、明らかにはみ出しています。
彼は変質者ではなく、これから私の体を洗ってくれるのです。
これくらいずば抜けてオッサンだと、逆に恥ずかしくないです。
彼もまったく女性に興味なさそうです。
いいんです、カッコいい人だったら困ります。
なんかタワシ?みたいなのでごしごしと洗ってくれるのですが
まぁ、貴婦人の気分になってみれば、どってことありません。
水をざっぱんざっぱんかけられて、はい仕上がり。
体を拭いてもらって、バスローブを着て、甘い紅茶を頂きながら涼みました。
■ローマの風呂もそういえば・・・
確か、ローマの風呂も同じようなもんで、蒸し風呂みたいな感じ。
公共浴場を作るときは、一番日当たりがいい部屋をサウナ室にしていたそうです。
もちろん、技術を駆使して、床から暖める装置なども。
一番涼しい場所に水風呂を用意していたそうです。
風呂桶にどっぷり浸かれるのって、もしかして水?!が豊富だから?!とか
そういうことが関係あるのか、ないのか、あまり分かりませんが。
実は、下の方にアルフォンス・ミュシャに関することを書いたのですが、ナゼだか消えてしまいました。ショックのあまり、今のところショックだけを述べています↓
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登録日:2007年 08月 31日 23:47:13
死んだら上に行くのか、下に行くのか
【ムンバイ/インド 2日 AFP】ムンバイ(Mumbai)のDhun Bariaさん(65)が同市内のゾロアスター教徒の家2000軒に送付した冊子が激しい論争を引き起こしている。
≫続きを読む…
(c)AFP
鳥葬という習慣は、日本人から見ると、びっくりするような埋葬?!法ですね。
■ナゼ鳥に食わせる?
衛生的だから、という理由がよく挙げられますが
火葬の習慣がある私達には「どうして焼かないの?どうして鳥?」と感じてしまいます。
■鳥葬と火葬
古代ペルシャにゾロアスター教というのがありまして(成立年代については論争中、紀元前6世紀頃と考える人も、紀元前1000年頃と考える人も)
鳥葬の習慣があるんですね(一般人が必ずやっていたかどうか分かりませんが、僧たちは確かに行っていたようです)。
このペルシャという地域ですが、インドの文化と非常に似ています。
どちらもインド=ヨーロッパ語族で、コーカサス地方から移動しながら途中で分化したと考えられます。
インドのヴェディック文化の流れでは火葬が生まれ、ペルシャのゾロアスター文化は鳥葬。
どちらも、土葬とは逆の発想ですよね。
■死んだら上?下?
大体むかしの文化での死者のイメージって薄暗い土の下の世界に行くもの、って感じだったそうです。日本なんかもそうですよね?黄泉の国。メソポタミアなんかもそうだけど。だから、まぁ、埋めちゃえ!ってなるんでしょうね。
エジプトはどうかというと・・・再生といいますが、それもダイブン時間が経っていつか、みたいなイメージみたいです。死んだ瞬間に、バーという魂は翼が生えていて、天に昇っていく、と考えられていたそう。
少し考えないといけないのが・・・大昔、空を自由に飛べるのは鳥だけでした。
飛行機なんてない時代。
死者の魂が天に昇っていきますように、と願うなら、鳥に託すという発想もまんざら残酷なものではないのです。確かに、火葬の方も、煙とともに天に立ち上っていくイメージと繋がりますよね。
■リユウを問う
こういうチガイの原因について、本当に正確なことなんてわかるわけがありません。
一つには、鳥への憧れ。一つには、ゾロアスター教は火を神聖視していたので、火で死体を焼くなんて、滅相もない!という発想があったからかもしれません。
ちなみに、ゾロアスター教はいまではインドのごく一部の信者しかのこっていないそうです。それがこの記事なんですね。
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登録日:2007年 08月 24日 11:21:52
「悪魔の詩」から日本に出来るコト
【6月22日 AFP】小説「悪魔の詩(The Satanic Verses)」の著者のサルマン・ラシュディ(Salman Rushdie)氏への英爵位授与の決定を受け、パキスタンのイスラマバード(Islamabad)の商業者協会は21日、同氏の首をはねた者に対し1000万ルピー(約2060万円)の報奨金を与えると発表した。(c)AFP
最近、ちょっとおしゃべりをしたイラク人の考古学者が「ぼく、宗教なんて持ってないよ」と笑いながら言ってました。
中東=過激な宗教、のイメージと、現実はズイブン違います。日本だって宗教活動に熱心な人と、宗教に敬意を払いつつ自分はそこまでファナティックじゃない人がいるように。
このラシュディに関する事件は、20年近く前のことなので、もう記憶にない人の方が多いかもしれないけど。
サルマン・ラシュディの本は、日本人の読者にとっては、こんな過激な事件に繋がったほどに、内容は過激ではありません。読んでみたら、きっと「何がそんなに問題なの?」と思うくらいでしょう。
各国で、翻訳した人までが事件に巻き込まれましたが、すべてが必ずしも過激なイスラム教徒によるものでもなく、どさくさ紛れの”便乗”もあったようです。それも、あまり語られないことでしょう。
■イラン革命
イラン革命(1979年)というのは、それまで王制で、比較的西洋寄りの改革を当時進めていたイランが、ホメイニという強力な宗教的指導者のもと保守的なイスラム教を軸にした国作りにしよう!と大きく軌道修正したものでした。
というのは、一応の流れを簡単に説明する表現。
実際にはですね、王政時代(パフレヴィー)の近代化政策で、大土地所有制に基づいたイスラム勢力(宗教勢力ですね)と結びついた勢力(地主、マーレキという)の権限を小さくしてしまった。それに対する反動で、イスラム勢力が動いたんですね。
地主のマーレキ(オムデマーレキ、ホルデ・マーレキ)と実際に耕作をするライーヤト達の間にたつキャドホダーという地位の人たちがいて、国王派はここと結びついた。
このイラン・イスラム革命は、欧米の目から見ると、時代を逆行するような革命ですが・・・果たしてイランの人にとって、そのまま欧米化するのが必ずしも良かったかどうかさえも、それはまだ判断できないのじゃないかと思います。
■上澄みがかわっただけ
マルキシズム的解釈とかだと、貧しい気の毒な農民たちを救うために、イスラム勢力が出てきた・・・と思うかもしれませんが。違うんです、国王(新欧米派)VS地主層(+宗教勢力)の権力争いです。
当時イランの農村に実際に住み込んで研究をされていた大野盛雄先生も書かれていますが「宗教界が厳しい立場におかれている農民のために、何の発言もしていない」という状況でした。
要するに、支配層が交代しただけで、土地を所有しない耕作権をもつだけの農民たちにとって、もしかしたら前以上に厳しい状況になった人も・・・いたかもしれません。そして、マーレキとキャドホダーがそれぞれ反対勢力になったのですから、それまでに作られていた農民同士の横のつながりというものが、一旦分断されてしまって、かえって貧しい層がよりいっそう途方にくれる事態にすらなったといえます。
でも・・・もし仮にね、そのまま欧米化しようとしたら、もしかしたら、それはそれで、イランの土着の文化との軋轢を生んで、別の形で混乱が起きていた可能性だってあったんじゃないでしょうか。
■日本以外の国の近代化・・・
地球全体を、資本主義国がリードするという時代で、イランという国が近代化する過程の物語でしょう。でも、それは、とっても難しいみたいで、いい方法を探し続けているようにも見えます。自分たちとは相容れないことが多い欧米に対する強い反発があるだけに、ますます難しくなるようです。
東京大学のイスラム学の権威、山内教授もおっしゃっていますが、日本だけが自国の文化を犠牲にせずに資本主義を導入するのに成功した国。だといえるんじゃないでしょうか。日本らしさを捨てずに、かつ、欧米諸国に負けない経済力を、欧米の土俵で成し遂げたわけです。
中東各国は、日本のモデルケースから何か学べないだろうか?というスタンスを持ち始めているようです。もう、中東の知識人は、冷戦時代のような「被害者」意識を脱却しつつあり、諦めモードから「何か自分たち独自の近代化の方法はないだろうか?欧米ともうまくやりつつ」という方向に向かっているようです。
日本人も、楽しい楽しいの毎日だけじゃなくて「どうして、日本はうまくやれたのだろう?」とか、逆に「日本はここまで欧米におもねる必要はないんじゃないだろうか?」など、歴史という時間軸、地球上という空間軸、両面において、成功の理由を謙虚に冷静に考えて、他の地域に還元していくという形での援助・交流を模索できたらステキだと思いますね。
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登録日:2007年 06月 23日 19:20:32
- プロフィール
- 秋田麻早子
- ■プロフィール:
アメリカはテキサスで西洋美術史を専攻。現在、博士課程で美術史・考古学なんかを面白がるコミュニケーションを鋭意研究中。
著書に『掘れ掘れ読本』(バジリコ 2007)。笑いのとれる考古学入門書を目指したもの。
連絡先:
mana_mana_chan@hotmail.com
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