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<title>ニュースの中のアートな断片</title>
<link>http://www.actiblog.com/asako/</link>
<description>芸術や学問の世界にググっと迫る裏話とホントノトコロを探る</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>作品を所有すること</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/249590</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
ヒットラーが画家に憧れ、美術学校に落ちたというエピソードは、ちょっとだけ知られている。このような作品は、上手い下手の問題ではなく、ヒットラーが描いたから、値段がつく。付加価値というよりは、不可分な価値でしょう。<br />
<br />
これが誰か別の普通の人が描いたものなら、この値段はつかない。<br />
モノそのもにに、歴史的な価値があるというわけです。<br />
<br />
■芸術作品＝所有可能なモノ<br />
<br />
時代によって、芸術の表現の方法が変わってくる。ちょっと前の時代まで、芸術といえば、キャンバス状のものに二次元の絵を描いたり、石などを彫って彫刻を作ることだった。はっきりと、そこにはモノとしての作品があった。その作品の意味も価値も、そのモノと不可分だった。<br />
<br />
最近のアートは少し違ってきている・・・なんか、違うな？と思っている人も多いと思う。実際、もう、モノを扱う手法では扱いきれない作品・作家が多くなってきているのじゃないだろうか。だから知的財産に関する事柄が、問題になってくるのだと思う。<br />
<br />
オークション会社主導で芸術作品が取引されるようになったのは、１９８０年代といえる。それまでは、画商が中心だったといってもいいと思う。もちろん、今も画商がいるのだけど、オークションでの取引がよく話題になる。<br />
<br />
■芸術作品＝体験、アイディアの場合は？<br />
<br />
考えてみたら、芸術作品が「取引」されるというのは、つまり金銭を対価として作品の「所有」が可能だということだ。つまり、芸術作品も煎じ詰めればモノであるということだ。しかし、最近の芸術作品は「モノ」ではなくなってきている。パフォーマンスアートだとか、インスタレーションだとか、コンセプトアートなど、モノそのものに価値があるというより、その体験・鑑賞そのものを味わうというスタイルの芸術作品が主流になってきているのだ。<br />
<br />
例えば、オルデンバーグのように、日常にあるもの（洗濯ばさみとか、バドミントンのロケットとか）を巨大化させて公共の空間に置くような作品。これは、人が見て驚いている景観込みの作品だ。自分のビルを作って、その中に置いて一人でこっそり見ても正直楽しくないと思う。サイズのギャップを味わうものだ。こういう作品を仮にオークションに出すとして、誰かが買うとして、一体何をどう買うのか？場所まで買うのか？買ったことで、どういう所有感を感じたらいいのか？ぶっちゃけると、転売可能なのか？資産としての価値になるのか？<br />
<br />
例えば、自分が整形手術をして変化するさまを見せたりする作家もいる。一体彼女の作品は、どうやって売り買いできるのか？人が驚いたりするサマが作品の一部なのに、それが売れるのか？そのように、２０世紀後半の芸術は、より観念的、体験的、時間的なものになっていっている。そんな場合、モノそのものを買っても、とりたてて面白くなかったりする。作品の価値や意味が、モノから敷衍して、体験や他の人のリアクションまで広がっていっている。美術館なら美術館という空間で存在し、驚いている回りの観客ごと全部が作品の一部だったりする。だから完全に「所有」することが難しい。そもそも、技術的に難しいとは限らないことがあるので、レプリカを作ったとしてもそれなりに同じような感慨はもてそうなくらいだ。そういう名人芸的・職人的な作品が減ったのも２０世紀後半の特徴だ。<br />
<br />
■所有権から使用権へ<br />
<br />
コンセプトを体現する作品が主流になるなら、そのコンセプトという無形のものを売り買いすることになる。つまり、二次使用料みたいなものだ。アイディア料だ。<br />
<br />
また、今、ますます主流になりつつあるデジタルの作品の場合は、そもそも一点ものという感覚がない。版画なら、刷る枚数が決められる、元の版を壊すことで限定品になる。しかし、デジタルの場合は無限に複製可能だ。所有権ではなく、使用権になる。<br />
<br />
そうなると、どうやって取引するのか？ほとんど、モノの価値よりアイディアやコンセプトの価値が主体なのだ。モノとしての作品はそれを伝えるための、土台に過ぎないという作品が増えているのだ。お金でモノとしての芸術作品をやりとりすることが、作品の性質上不可能な状況だ。<br />
<br />
既存のオークション会社が、印象派の画家の作品を売るように、クリストの作品を売れるのか？クリストとは、なんでも包んでしまう作家だ。島をまるごと包んだりする。もちろん、一発終了の作品で、彼の作品を買うとしたら、つまり彼がアイディアをまとめた絵コンテを買うということになる（彼の資金源だ）。彼の「包んじゃう」というパフォーマンスそのものを所有することも、転売することも出来ない。また同じ手を使う、というアイディア使用料なら出来るかもしれない。TVでの放映権とか、DVD化の権利なら価値があるかもしれない。<br />
<br />
しかし、それは既存の画商やオークション会社の仕事だろうか？<br />
<br />
そこで、知的財産という無形の何か、コンセプトやアイディアを保護したり売り買いしたりするということになる。なんだか、弁理士や弁護士の仕事みたいになってきてる。<br />
<br />
<br />
繰り返すが、現代美術はコンセプトという無形なものにこそ価値があることが多い。もう、モノを扱う手法では扱いきれない作品・作家が多くなってきている。パフォーマンスアートなど、どうやって売り買いするのか？パフォーマンスをする作家の時間でも買うのか？そのパフォーマンスをする権利を買うのか？このような性質のアートを、画商やオークション会社は今後どのように扱っていくのだろうか、そう思う。<br />
<br />
これからは、名人的・職人的な技術を示したモノとしての価値があるようなものを（段ボールをたくみに使った作品だの、漆塗りだの、オートクチュールのドレスや、そういう一点ものだ）画商やオークション会社が扱い、コンセプトを売りにする複製可能な作品たちは別の市場で取引されるようになるだろうと思う。後者は、工業・広告・エンターテイメントさまざまな分野に広がっていくと思う。そして、実際にはもうすでに広がっていると思う。</description>
<pubDate>Mon, 13 Feb 2012 20:49:04 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>市場価値と美的価値～16億円もする絵～ウォーホルの場合</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/204642</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
一枚の劣化コピーのような画像が16億円。<br />
どうしてそんな値段なんだ？と思うのが普通だと私は思います。それとも「ウォーホルは有名だし、仕方ないよ、よく知らないけど」と諦念をもって眺めるのか。現代アートはよく分からない、酔狂な人間のやることはよく分からない、そう思って、いいや、と思う人が多いかもしれません。<br />
<br />
20世紀後半の美術界を担ったというウォーホル。でも、どう担ったのか、ちっとも学校では教えてくれません。<br />
<br />
今回は少し細かく追ってみていきましょう。<br />
<br />
≪初心に戻って真っ白な頭で見た感想≫<br />
<br />
この記事を見て、まず思うことはなんでしょう。美術史のクラスの一年生だった頃を思い出して、当時の私がどう思うか想像してみました。今ではそれなりに美術史も知り、年もとって、ある程度はこの作品を味わえるようになりましたが、当時の私は思っていました「こういうのがイイなんて、本当に訳が分からない。だからアメリカ人は・・・」と。<br />
<br />
「写真の劣化コピーを集めたような絵だな、ウォーホルのマリリン・モンローとかもそんな感じだな。アメリカ人はこういうのが好きなんだ、何か日本人には理解しがたい軽薄さがあるんだ、きっと。」<br />
<br />
「なんでそんな値段するの？もっといいもの沢山あるんじゃないの？例えば何かっていうのはよく分からないけど」<br />
<br />
「本当に価値あるの？ぶっちゃけてしまうと裸の王様的なものじゃないの？でも、細かく攻撃する言葉は思いつかないから黙っておこう」<br />
<br />
これが当時の私の、素直なリアクションでした。<br />
<br />
≪一歩踏み込んで、湧いてくる疑問≫<br />
<br />
そもそも、この作品は何を表しているのか？<br />
ジャッキーとは誰か？この作品はいつ作られたものか？<br />
何をしたかったのか？何がすごいのか？<br />
どうしてそんなに高いのか？<br />
どう思いますか？どんな疑問も馬鹿な疑問ではありません。聞いていけない質問は、アートに関しては、ないのではないでしょうか。ただし、答えがあるとは限りませんが。ちょっとそういう目で見てみると、いろいろ疑問がわいてくるものです。でも、きっとくだらない疑問だと、自分で勝手に決めてしまうことが多いと思います。<br />
<br />
詳しく調べたい方は、ウォーホルのHPが解説なども充実しています。このHPやその他の情報から、この疑問に答えて、読み解いていきたいと思います。<br />
<br />
≪記事とチラ見だけでは分からないこと～メッセージは「メディアが繰り返し繰り返し報道する悲劇にうんざり！」≫<br />
<br />
＊ジャッキーとは？<br />
<br />
ジャクリーン・ケネディ、通称ジャッキーは暗殺された大統領の奥さんだった人。これは有名だから知っている人も多いかもしれません。政治的にも有名な人を扱っていることから、これは一種の「肖像画」「歴史画」の流れを汲むものだ、と解説がついています。そう捉えることもできるでしょう。でも、そういうと、何か大げさな気持ちにもなります。<br />
<br />
＊どうやって作った？<br />
<br />
この作品の作り方はまず、最初に雑誌などからジャッキー写真を８枚切り出し、縦２列（一列４枚）に並べて、コントラストを目一杯にして（だから画質が悪い印象があるのですね）、高さ２ｍくらいになるように絹版画で印刷したようです。それをばらばらに切って、作品ごとに並べ替えるという手法をとっています。この作品では、うち7枚が使われている模様。<br />
<br />
各々のジャッキーの写真をよく見ると、暗殺前のにこやかな表情のものと、暗殺後の悲痛な面持ちのものとが、ランダムに混ざっています。気づきましたか？<br />
<br />
＊メディアの加熱報道へのうんざり感を表現<br />
<br />
この作品、作られたのは1964年。暗殺は前年1963年11月22日。超人気物の大統領の暗殺というまさに歴史的事件を扱っているわけです。しかも、大統領本人ではなく、同じく人気者だった奥さんのジャクリーンを使っているところがポイント。これは後で説明します。<br />
<br />
夫人が悲嘆にくれる様が繰り返し、繰り返し報道されたわけです。ウォーホルはそれにうんざりしていたようで、それを述べた本人の言葉も残っています。その繰り返しのうんざり感、同じ画像が繰り返し現れる感、何度も見ていてイメージが劣化される感、などが、この写真のコピーのコラージュのようなもので表されているんですね。だから、悲しい顔も笑っている顔も、どっちも一見同じように見えて、気づかない人も多いのも仕方ないことです。そういう風に意図して作られているわけですから。<br />
<br />
現代の私達も、そういうメディアの加熱報道などへのうんざり感は共感できると思います。特に、震災報道などとか、凶悪犯罪などの場合に思うことが多いでしょう。それを彼は50年くらい前に先取りでうんざりして、作品として表現し続けていた、それは「先駆者」なんだな、と言えるでしょう。そこがスゴイ、と言われている所以です。もちろん、その理由でこの値段が納得できるかどうかは別の話ですが。<br />
<br />
＊「死」というテーマ～マリリンからジャッキーへ<br />
<br />
さて、ウォーホルの作品はマリリン・モンローを扱ったものが一番有名ではないでしょうか？彼女も悲劇的な死を遂げましたね？しかも、彼女はケネディ大統領の愛人疑惑があった人です。実は、ウォーホルは「死」や「惨劇」をテーマに数多くの作品を作っているというのを知っていますか？「電気椅子」もそうですし、ボツリヌス菌が入っていたツナ缶を食べてなくなった主婦２人とツナ缶をあしらった「ツナ・フィッシュ」、日本に投下された「原爆」など他にもたくさんあります。その「死と惨劇」シリーズの最初が「マリリン」だったのです。そして最後が「ジャッキー」シリーズなのです。<br />
<br />
ウォーホルの「死と惨劇」シリーズは、華やかなアメリカを代表するケネディ大統領という人物の、愛人と妻、どちらも時代のアイコン的存在の女性で始まり、終わったということです。<br />
<br />
しかも、ジャッキー・シリーズは最も多く作られた作品シリーズでもあります。何か思い入れの強さを感じますね。<br />
<br />
ポップでキッチュなイメージのウォーホルですが、そういうシリアスなテーマを扱っていたんだな、その中でも代表作の一つなんだな、というのが分かってきます。<br />
<br />
＊印刷しただけなのに価値があるの？<br />
<br />
確かに、コンセプトは面白いといえるでしょう。しかし、印刷です。しかも、そのシルクスクリーンの印刷は、工房の職人がやるわです。何か、釈然としない人も多いかと思います。コンサル料とか、デザイン料、みたいな感じですよね。<br />
<br />
そもそも欧米の近代美術というのは「新しいコンセプト」とか「新しい表現」をどう提示するか？が評価の対象です。欧米の作品に対して、私達日本人が漠然と「本当にそれがいいの？」と違和感を抱くのは、そこの認識の相違だと思います。日本人はコンセプトが新しいだけでは「スゴイ！」とはなりにくいですよね。日本人にとっては、作家の職人技的な仕事ぶりが見えないと、どうしても認める気持ちになれないかもしれません。<br />
<br />
もちろん、どちらが正しい、という問題ではなく、傾向の問題です。<br />
<br />
≪残る疑問≫<br />
16枚という数字に意味はあるんだろうか？<br />
ジャッキー・シリーズは実は沢山あり、展示する場所の大きさなどに応じて、構成するピースの枚数を変えていたようです。単品の場合もあるし、最高で35枚のケースもあるようです。一つの写真をいくつも複製したものもあります。もしかしたら、16に思いを込めているかもしれませんが、勉強不足で私にはよく分かりません。<br />
<br />
また、背景の青い色に意味はあるのか？<br />
？はっきりしたことは分かりません。ウォーホルのほかの作品を見てみると、「電気椅子」は青と黒。比較するとしたら「原子爆弾」真っ赤な背景に黒で原子爆弾が爆発する様を転写しています。青に何か冷たい死を連想させているのかもしれません。これは想像の域を出ません。<br />
<br />
そして、どうしてこんな値段なんだろう？という問い。確かに、メディア批判とか現代における死や惨劇というテーマの表現が素晴らしいのは認める。でも、だからってこの値段になるのか？欲しいと思うだろうか？などという疑問は一般人の心にはそのまま残ります。そう、そこまで高くなくても、と。ダヴィンチの作品が値が張るのはなんか理解できるけど、こういうのが？と思ってしまうのは、ある意味、私は正直な感想だと思っています。<br />
<br />
最後に、クリスティーズのサイトの解説に「人間の尊厳を喚起させる」とありますが、それはどうなんでしょう。そこまで言わなくてもいいような気がやはりしてしまいます。あまり深刻な深読みをすると逆にウォーホルに「あぁ、勝手に深掘りしてる・・・勝手に付加価値つけてくれる」と笑われたりするのだろうか、とビクビクした気持ちになってしまいそうです。<br />
<br />
<br />
以上が私がちらっと思ったことと、疑問をHPや本などでささっと調べたことで、解説にも何もなってません。が、お初にお目にかかる作品に対しては、大体こんなプロセスで進めていくものです。ぱっと見てすぐに「なるほど！」と分かるようなものばかりじゃないものです、色々調べて分かったり、謎が深まったりするものだ、と美術史の先生たちに教わりました。<br />
<br />
今では、好きになれなくても、楽しめる、おもしろがれる、味わえる、ということってあるのじゃないかな？と思えます。</description>
<pubDate>Thu, 16 Jun 2011 15:24:13 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>アートをめぐる10の誤解</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/204463</link>
<description>[転載記事位置]<br />
教育の在り方は、どう変わっていくのでしょうか？<br />
<br />
アートを通した研究について毎日考えていて気づいたことは、アートに関しては誤解が沢山あるということ。<br />
お笑い、映画、テレビ、漫画、だったらすんなり手に取る人も、「アート」だと「まぁ、いいや。」と敬遠されがちなのも、そういうところに所以があるのかもしれないと思った次第です。<br />
<br />
「好きになったかもしれない、楽しめたかもしれない人」たちがいるに違いありません。<br />
以下は私が思った、アートに興味を敬遠したくなる10の誤解・論点です。実は、私自身、学生時代にこういう疑問を持っていて、徐々にそれが解けていった経験に基づいています。<br />
<br />
１．アートにはセンスが必要？<br />
<br />
技術的に解決可能な面もあります。ではセンスってなんでしょう？<br />
<br />
２．アートとは綺麗なものである？<br />
<br />
間違いなく、綺麗じゃないものがあります。<br />
私たちには綺麗に見えるけど、ある人には汚いものもあるかも。<br />
そもそも、美は絶対的なのか、美は相対的なのか、という議論になります。<br />
<br />
３．アートは難しい？<br />
<br />
味わうのに知識や経験が必要ないものもあります。<br />
もちろん、必要なものもあります。<br />
難しい、というときは、ただの情報不足や誤解だったりすることが多々あるのは、何もアートに限ったことではないでしょう。マークがついてたらいいんですけどね。<br />
オートマ、マニュアル、みたいなマークが。<br />
<br />
４．アートって何なんだ？<br />
<br />
これがアートなの？という議論がある。<br />
アートである、と認めるのは価値がある、<br />
と認めることになるから議論になるのだと思います。<br />
それはアートが素晴らしいものだ、という前提があるからではないでしょうか？<br />
アートも今は多様化していて、一概にコレとはいえなくなってきていますが、分かってくると、定義の中身はあまり重要ではないと分かってきます。<br />
<br />
５．アートって外国のもの？<br />
<br />
何を基準にするかにもよるが、日本にもアートはある。<br />
でもアートというラベルを貼っていなかった。<br />
逆に、外国のものでアートのラベルを貼っていないけど、<br />
私たちには芸術的に見えるものだってある。<br />
西洋のものの方が価値があるの？<br />
欧米コンプレックスのシンボル的な扱いを受けるときがあるのではないでしょうか。<br />
<br />
６．アートは役に立つ？<br />
<br />
アートは役に立たないのか。アートを社会的に役に立つものである、有用なものである、という議論の枠組みが、アメリカの美術館の冬の時代に確率されました。<br />
そもそも、役に立つ、立たない、という議論の仕方そのものが妥当な方法なのか？じゃあ役に立てばそれでいいのか、何の役に立てばいいのか？というアートよりもっと大きな枠組み、の実利主義の問題を考えないと、訳が分からなくなる問題です。<br />
<br />
７．アートは値段が高いものほど素晴らしい？<br />
<br />
先ほどの問題とも繋がっているかもしれません。市場価格が絶対的なのか？という、これまたアートだけ見ていても分からない問題です。<br />
<br />
８．アートは学校で教えてくれない？<br />
<br />
学校での美術教育の問題については、事の発端は明治維新に遡るようです。<br />
岡倉天心を中心とした、スリリングな対立の物語がそこにはありました。<br />
そして、戦後の教育問題。抑圧理論から、「子供には自由に自由に」と<br />
基本的なことも教えない・・・美術教育はいち早く「ゆとり」教育を取り入れて、かえって現代美術などを理解できる層や、ヴィジュアル・リテラシーが育たなかったのでは？といえるかもしれません。<br />
<br />
９．アートは受け手よりも作り手が偉い？<br />
<br />
生みだす人の方がすごいのか？受け手は、ただそれをありがたく受け入れるのみなのか。<br />
良いオーディエンス（客、観客）が、作家を育てる、ともいえるのではないでしょうか？<br />
<br />
１０．アートはありがたい？<br />
<br />
美術館に行くと、よく分からないけど文化的で優雅な気持ちになれる、という人も多いかもしれない。どこか、神社仏閣巡りや、パワースポット巡りに似ているところもある。実際、ツアー観光の一部に美術館はよく組み込まれている。ミュージアムショップはまるでお札やお守りの販売所のようにも見える。<br />
アートは触れるだけで、心を豊かにしてくれるのでしょうか？それはもはや、信仰の対象？<br />
日本人は物事を呪術的に捉える傾向が強い、と言われています。日本美術の特性のひとつもアニミズムと言われています。そういう影響もあるかもしれません。<br />
<br />
以上、10個の問いをあげてみました。<br />
これは、一つの正しい答えがある問いではありません。<br />
人によって違う。立場によって違い。それについて、お互いの見方を面白がって、対立する必要がないのが、アートの面白さだと思います。アート・リテラシーは識字率と並んで、文化の指標になるのでは？と思っています。そういう研究を、まとめていけたら・・・とひそかに悶々と今日も過ぎていく次第です。</description>
<pubDate>Wed, 15 Jun 2011 14:07:19 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>一つの問題に、一つの答え？</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/191016</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
このブログのかなり初期の記事でモナリザを扱ってみました。<br />
<br />
問い「モナリザのモデルは誰であるか？」<br />
<br />
に対する答え探しなのでしょう。<br />
そういうクエスチョンを出されたら、誰だろう？と考えるのが人ってものでしょうが・・・<br />
<br />
そもそも、この問いの立て方は妥当なんでしょうか？<br />
<br />
そもそも、モデルがいたからといって、画家はモデルそっくりに描くでしょうか？<br />
それなりに、自分のイメージや癖なんかを載せて描いていくのではないでしょうか？<br />
<br />
特に、フィレンツェ派の特徴を考えてみると、これは余計に意味がある話です。<br />
写実性を重要視するボローニャ派の肖像画であれば、このような「似ている、似ていない」の議論で、モデルの特定も可能かもしれません。<br />
<br />
ですが、新プラトン主義が盛んだったフィレンツェ。フィレンツェ派の絵の特徴はミケランジェロに顕著ですが、モデルというのは、あくまでも、どこかにある理想像というかイメージを作り出すための、足場のようなものです。<br />
<br />
ダヴィンチが必ずしも、フィレンツェ的といえるかどうかは意見が分かれると思いますが、こういうモデルは誰？という問いに対する答え探しが、必ずしも妥当な問いの設定とはいえないのではないか？と思えます。<br />
<br />
もちろん、そういう図式で見ると、面白い！というのは否めませんが。<br />
<br />
何か、一つの問いに、一つの答えを探す、という手法は、発想を狭めてしまうのではないかと思います。多様性が共存したり、いくつかの意味や意義や解釈が二重性、多重性をもって同時に成立しうるのが人間の世界の本当のところではないでしょうか？一つの答えを探していくのは、それ以外を排除したり、二重性のある解釈の可能性を忘れさせてしまいます。<br />
<br />
物事は、必ずしも対立項目でばかり説明がつかないのではないかな・・・美術の世界なんて、まさにそうではないのかな？美術という作品が果たす「触媒」的な働きを、美術史家が自ら捨てる必要はないのではないか、と思えてなりません。</description>
<pubDate>Fri, 04 Mar 2011 11:01:08 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>黄色い絵の具</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/189326</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
教授と一緒に美術館に行った際、私が絵の具や技術史に限定して話をしたのを、いたく喜んで貰えました。たまたま、美術には興味がないけど、技術には興味のある人なので、では技術面の話をしたら面白がってくれるかな？という意図だったのですが、当たって良かったです。<br />
<br />
例えば、ルネサンスの初期あたりだったら、油絵よりフレスコ画とかテンペラ画で、技法としてはどう違うのか、どういうところが難しくて、どういうところがよりやり易いのか、などなどです。<br />
<br />
例えば、色のシンボリズムも時代によったり、カルチャーによっても違ったりしますよね。それも、具体的に○○時代は何色はこういう意味、とか、具体例をいちいち覚えておくよりは、「分化によって色の持つ意味は違うかもしれない」という『枠組み』の知識を一つもっておく方が、応用の幅は広かったりします。<br />
<br />
そういう応用の幅が広い『枠組み』をいくつか提示しながら絵を一緒に見ると、教えられた側もどんどんその枠組みを使えるようになるので、積極的に参加する楽しみを味わえるので、なんか面白かった、という結論になるのかもしれません。<br />
<br />
さて、ゴッホの黄色です。ゴッホって黄色のイメージありますよね。<br />
全盲の方とゴッホの絵を見に行ったとき、ゴッホの絵ってどういうイメージですか？と聞くと<br />
「赤いイメージがあるんだ」といいます。どうしてそう思ったかというと、ゴッホをテーマにした映画で「炎の画家」というような描き方をしていて、炎から連想して赤いイメージだったそうです。ゴッホのひまわりが、赤いイメージというのも、面白いですね。<br />
<br />
そういう違いに気づくのは、とても味わい深いな、と思いますし、コミュニケーションの意義を改めて感じさせられます。私たちは何を伝え、何を求め、何を探し、どうしたくて、コミュニケーションをとっているんでしょうか？</description>
<pubDate>Thu, 17 Feb 2011 17:21:07 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>これが文字なのです</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/163104</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
模様、となってますが、これがマヤ文字なんです～<br />
<br />
マヤ文字は読み方がちょっぴり特殊。<br />
この写真だと、横に４文字並んでます。<br />
<br />
文字というか、塊が横に二つづつくっついてるのが分かるでしょうか。<br />
こんなくっつけて書かないで、ちょっと隙間を空けて書くことも多いんですが<br />
ここの地域？書いた人の趣味？なのかな。地域によって、時代によって、媒体によっても微妙に雰囲気が違います。<br />
<br />
<br />
二列をひと固まりにして、左、右、一段下がって、左右、左右、とジグザグに読み下げていくんです。分かりにくい説明になってる気がしますが。<br />
<br />
漢字と似ていて、部首がいくつかくっついて一文字を作っているんです。<br />
篇にあたる部位、冠、足もあります。<br />
<br />
なんと表音文字（音節文字）。<br />
こんな絵っぽいのに、表音文字。絵の意味から理解しようとすると、ほとんど解読不能な文字でもあります。<br />
<br />
表音文字であると分かってから解読が進んだようですね。時制もなくて、いわゆるアスペクトという、漢文も時制がないけど、分かりますよね、そういう感じで書かれています。<br />
<br />
古代文字のイメージがあるかもしれませんが、最盛期は7世紀ころで、日本の奈良時代とかみたいな時代なんですねぇ。メソポタミアとかエジプトとかインドとか中国に比べたら、ずいぶん最近の文明の文字、という印象があります。<br />
<br />
私はテキサス大学時代に、ニコライ・グルーバ博士にちょっとの間、マヤ文字を教えてもらったんですが、もう大変。ほとんど、あのマヤ暦です。ほぼ、マヤ暦のあのタコみたいな模様をひたすら暗記（全部忘れました、きっぱり覚えてません）したりするので悶絶。<br />
太陽暦と農耕用の暦と併記していくんですが・・・日本でも考えてみたら、西暦と年号と使いますもんね。そんな感じで、読み進めていくと、最初の数行は日付だけだった、みたいなそんな文章を読んでみたりしてました。頑張って読んでも分かるのが日付、というのが悲しくなってくるんですが、パズルとか、そういうのが好きな方には楽しいと思います！<br />
<br />
ちょっと気になったので、書いておきました。</description>
<pubDate>Tue, 10 Aug 2010 16:00:17 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>質と量</title>
<category>カルチャー</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/155304</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
ニュースサイトでブログ、という話で始めたけれど<br />
割と、アートのニュースは「ナンボで落札！」の話か、大きな展覧会の話だ。<br />
なるほど、こういうのがニュースになるんだな、と思う。<br />
<br />
きっと、当時のピカソが『アヴィニョンの娘達』を描いたときは<br />
美術の歴史上の決定的瞬間でニュースだけど、現代のネットワークレベルのものがあったとしても、おそらくニュースには取り上げられなかったと思う。ほとんどの、大して重要でもないネタとの区別がつかないからだ。実際、友達でも「ピカソ、何かいてんの・・・」って感じだったというとかいわないとか。<br />
<br />
とにかく、ニュースになるには、ニュースになる根拠が必要なんだと思う。<br />
それは、ニュースの内容にではなくて、それがニュースだと人が認めるかどうかにあるんだろうかと思う。最大公約数というのか、最小公倍数というのか。いずれにせよ、なんかしらの客観的な基準。<br />
<br />
このブログでは美術ニュースとほとんど同列に扱っている考古学関連もそう。大発見！でなければ、それは考古学者にとって大発見ではなく、世の中の人にとって大発見！でなければ、ニュースにはならない。ノアの箱舟とか、世界最大とか世界最小とか、世界初とか、そういうのだ。<br />
<br />
そうすると、実は、わりと、アートなニュースって・・・パターンが決まってきてしまう。規模の大きいアート展か、すごい値段で売れた作品か、すごい珍しい表現の作品か。そもそも、アートの定義も微妙なところ。美術という言葉も、定義が定まらないまま、というか流動的なまま、一人歩きしている。<br />
<br />
よく、分かり易い文章を心がけるなら、分かったつもりの単語を避けて、その代わりにそれを説明してみると、自分でもどれだけいい加減にその言葉を使っていたか分かる、という。アートもそう。<br />
<br />
アートの定義というのは、いろいろあるけど、そもそも一つに決めたとしたら、別の時代のアートの定義には役に立たなくなる。どれをとっても帯に短し、襷に長し、になる。<br />
<br />
では・・・美しいもの？綺麗なもの？すごく綺麗なもの？珍しいもの？またとないもの？希少価値のあるもの？面白いもの？すごく面白いもの？新しいもの？再現するのが技術的に難しいもの？高い技術を必要とするもの？完成度が高いもの？時を経てその価値が変わらないもの？人の考えを一瞬で、または徐々に大きく変える力があるもの？<br />
<br />
たとえ、これが一定の基準だとしても、これらは定性的な基準だと思う。<br />
誰が判断するんだ？どうやって？となると、曖昧なもの。<br />
<br />
ニュースというのが客観的なものであるのだとしたら、もっと定量的な基準が必要になると思う。つまり「でかい」とか「高い」とか、数量などで誰にでもはかれて、示せて、共有できる基準だ。<br />
<br />
ある意味、ニュースで扱われるアートや考古学のトピックというのは、定量的にはかれるジャンルが濾し取られた、と考えることも出来るんじゃないだろうか？ニュースが扱うトピックの限界をなじるよりも、よっぽど生産的な捉え方じゃないだろうか。少なくとも、アートを定量的にとらえたら、こうなる、という見本だと。<br />
<br />
質的な、つまり定性的な価値を定量化できないか？という案が出るけれど、大抵は満足がいかないものになる。美観を保つために、基準を設ける。定量的なものでは、限界があるそうだ。最近、都市計画の人の話で聴いた。質的な基準、定性的な基準が必要だが、こちらは誰がどう判断するんだ？という問題が出てくると。誰からも文句が出ない解決策はない。<br />
<br />
私はといえば、ニュースで扱われるような定量的な基準を満たすようなトピックは、そういうものとして捉える。後は、自分の質的な価値観で大事だと思ったトピックと、前者とを混同せずに両輪として眺めていく。ニュースが定性的ではない、となじるのは、オカドチガイじゃないかと思ってしまうからだ。自分の定性的な基準、それから、他の人の質的基準などを参照していくのも、より一層、見方としては楽しくなっていく。最近では、人がアートをどう見て、どう他人の意見を参照していくか？というのを調査中。私にとって一番面白いのは、人がどう見るのか、なのかもしれないです。</description>
<pubDate>Mon, 21 Jun 2010 12:47:13 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>記録技術の先祖がえり：iPhoneは古代メソポタミアの粘土版みたいなもんか？</title>
<category>歴史・考古学</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/154899</link>
<description>[転載記事位置]<br />
記録技術の変遷が、表現に影響を与えるか？というのが、認知科学の授業でちらと話題に出た。それ以前に、記録技術はどう変遷したんだろう？<br />
<br />
それがなんでiPhoneの話になるんだっていうのは、少しおつきあいください。<br />
<br />
鉛筆から、ワードへ。フロッピーからUSBへ。手紙からメールへ。<br />
そりゃ表現に影響を与えるだろう、という気はうすうすするけど、どのように？<br />
最近、昔とった杵柄の石版画（リトグラフ）を制作している。石に絵を描いて、あれこれ処理して、版画を摺るという技法。これをアーティストの方に描いてもらって、私が処理して摺るという流れで行っているのです。これは１９世紀に発明された技法だ。版画という技法そのものは、当然もっと古い。<br />
<br />
そこで気づいた。私たちはペン書きとキーボード入力の違いには目を向けている。<br />
でも、紙に書くのと、石に書くのとの違いに目を向けているか？あまり向けない。<br />
今でも、どっか開発途上の国の学校なんかがうつったとき、石にチョークみたいなのでノートをとっているのを見たりする。<br />
<br />
ペンを手で握って、ペンの先端を平面にこすって記録することから、１０本の指でぽこぽこしたキーボードを叩いて画面に文字を登場させる記録方法への変遷はドラマティック。<br />
だから、これは内容にも影響を与えうるな、って想像できると思う。例えば、漢字を最近忘れがちだな、手で書かないからだな、とか。<br />
<br />
小さい違いかもしれないけど、石に書くのと紙に書くのはやっぱり手ごたえが違う。<br />
そもそも筆圧が違うのだ。紙はスムーズで、ペンを軽くあてたら、その後は自由に走らせたらいい。でも、石の場合は、もっと強くあてないといけない。ちょうど、ピアノとエレクトーンの関係にも似ている。同じようなスタイルだし、同じような技量が必要だと思っていたら、どっこい。鍵盤の重さが全然違う。馴れたら平気でしょう？と思うかもしれないけど、馴れるって、それなりに時間と労力を必要とする。<br />
<br />
ペンになれた人には、石の上に描くのは違和感を覚えるものだ。それに気をとられて、書くほうに集中できないかもしれない。<br />
<br />
それに、紙は軽いけど、石は重い。びっくりするほど重い。Ipadが重いとかいうけど、そんな比じゃない。石版はノート大であれば、片手ではもう持ち上がらない。持ち上がるとしたら、相当に手首が強くなってるって事だ。持ち運びは、あまり考えたくなくなる。石板しかもってなかったら、引きこもりになりそうだ。<br />
<br />
それに、石だと間違えたときに消すのが大変。チョークみたいなので書いてたらまぁ、手ではらえばいいかもしれないけど、ちょっと油分がある道具（石版画では脂性の道具で描きます）なら、なかなか落ちない。物理的にガリガリと削るしかない。実際、石版画の場合、磨石棒ってのでガリガリと削り落とす。<br />
<br />
消しゴムって便利だ。<br />
<br />
DELETEキーはもっと便利だ。消しゴムのカス出ないし。<br />
<br />
簡単に消せない、と思うと人は相当に覚悟して書く。一体どれくらい、キーボードだと打ち易い消し易いから、無闇に長い文章をダラダラと書いてしまってるだろう？ノートは軽いし、ペンはスムーズだしで、思いついたままを力も使わずにスラスラと書き留めることが出来るようになっただろう。<br />
<br />
授業を受けるにも、ノートがなければ、石を持っていくのは重くて諦めて、忘れまいと記憶に刻みながら聴いた可能性はあるだろうか？何かが可能になったせいで、便利になること、研ぎ澄まさなくてもよくなったこと、両方ある。物事は諸刃の剣なんだけど、便利さに走ったり、体勢にあわせていく。<br />
<br />
■石とか木とかから、紙みたいなものから、パソコンみたいなものへ<br />
<br />
紙の大量生産が可能になったノートを運んでいた頃は軽かったのに、パソコンの発明で、また石みたいに重いものをバッグに入れて運んだりするようになった現代は、なんか先祖帰りしている気がする。<br />
<br />
研究室で、古代メソポタミアの粘土版の多くが手の平サイズで、左手にもって、右手に葦の先をとがらせたので突いて記録していた、という話をしていたら「iPhoneって粘土版に先祖帰りしてるのかな」という。たしかに、iPhoneも手のひらサイズの粘土版くらいの厚さ大きさ、それに指とか、楊枝みたいので突いたりすることもあるとかいう。間違えたら、粘土なら指でチョイチョイすれば消えるし・・・落としたらクラッシュしそうなのも似てるな・・・。<br />
<br />
多分、同じとこに戻っていくのね、というような単純に円状に繰り返しているのではないと思う。むしろ、ラセンを描くように、人間はもとのところと似てるけど、少し位相が違うところを経由しながら、ぐるぐると回っていっているのかもなぁ・・・<br />
<br />
こんな事に気づいたのが今回の石版画制作の成果の一つだった。もっと成果らしいのは、刷り上った版画のほうです、勿論。それについては、また。</description>
<pubDate>Fri, 18 Jun 2010 16:34:13 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>三位一体：父と子と聖霊・・・聖霊って？！</title>
<category>歴史・考古学</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/154459</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
三位一体の聖霊ってなんだろうって思いませんか？<br />
<br />
私はなんじゃろか、と思っていたんです。なんなんだろう。。。父が神様で、子がキリストだとしても・・・聖霊・・・ハト？上飛んでるハト？<br />
疑問が解消されたのは、私の師匠の長年の友人であり<br />
某旧約聖書の研究の池田先生のご本を拝読し<br />
さらにお会いしてお話していたときでした。<br />
<br />
旧約聖書で重要なキーワードの一つとしてルーアッハを上げられています。<br />
ルーアッハ、息、空気などと訳されるヘブライ語。<br />
<br />
父なる神が人間をお作りになったとき、息を吹き込み、人間が誕生した。<br />
この息と訳される言葉が、ルーアッハであると。<br />
命を吹き込む神の息。<br />
<br />
このルーアッハは聖霊とも訳される。<br />
かくして私の頭の中で聖霊という微妙に理解できない言葉の代わりに<br />
三位一体は父と子とルーアッハになりました。<br />
<br />
また、鈴木康広さんの『まばたきの葉』を見てきました。<br />
手の平より少し小さいくらいの葉っぱの形の白い紙の裏表に、開いた目と閉じた目を描いて、ヒラヒラと落とすとまばたきをしているように見える。それを大量に上から飛ばす装置として、細長い筒状の装置が作られた。筒のスリットに葉っぱを入れると、筒の上側から噴出されて、ひらひらと散って落ちるという仕掛けの作品。<br />
<br />
いくらか前に羽田空港で展示されたときに、<br />
まばたきとヘブライ語のマバトのお話をしました。<br />
<br />
人は動くものを見るのが好き。<br />
動物園のトラが動かないとあまり嬉しくない。<br />
でもトラが歩き回ってくれると嬉しい。咆えてくれたりしたらもっと嬉しい。<br />
昔、動物園で目の前でトラさんが排泄なすったとき、妙に得した気分を味わったけど<br />
やはり、剥製ではここまで嬉しくない。動く、というだけでなんだか嬉しくなるものだ。<br />
<br />
鈴木康広さんのこの『まばたきの葉』という作品は<br />
人が葉っぱを拾って、筒のスリットに入れないと動き始めない。<br />
筒の横のスリットに入れると、葉っぱが噴出される。<br />
それがひらひらと散って落ちるのを見て「あ、楽しい」と思う作品なんですね。<br />
<br />
それだけといえば、それだけなんだけど、沢山の人が集まる。<br />
理由が分からなくても、楽しくて人がいっぱい集まる。<br />
それを見ていると、人は動くものを見るのが好きだけど、<br />
自分がそれを動かすとなると尚更好きなんだと気づかされる。<br />
<br />
ふと、葉っぱを飛ばすこの筒はルーアッハを出す装置じゃないかと。<br />
人はここに入れることで、葉っぱにルーアッハを吹き込んでいる。<br />
地面に落ちている死んでいる葉っぱを、あなたが拾って筒のスリットに入れれば<br />
空気を吹き込んで空から散らすことができる。<br />
動かない紙のかけらに、命を吹き込む。<br />
<br />
自分が何かを動かす、自分が動かしている、ということを目の前で知るとき<br />
人は嬉しくなる。<br />
<br />
そして、それを見ている人は、あぁやって楽しむものなんだ、と言葉で言わなくても、気づく。<br />
<br />
自分がどれだけ他に影響を与えられたか。<br />
“他を動かす”とかまで行くとおこがましいし、なんか権力志向で感じ悪い気がしてくるけれど、自分がいる事に何かしら意義なり意味なり、居ていいんだと思う理由を見つけられたり、ほっとしたりするのは、他とのかかわりにあるんだと思うのですが、そういう関わりを感じさせてくれる。それを最小限で気づかせてくれるこの作品が、イスラエルに招待されるのは当然の流れなのかもしれないと、世の中の大きな流れの妙を感じたのでした。<br />
<br />
毎日私達は呼吸をして、いつも何かに息を吹きかけている。気づかないけど、何かをいつも動かしているんでしょうね。当たり前すぎて、それに気づかないで日々を過ごしているのかもしれません。</description>
<pubDate>Wed, 16 Jun 2010 17:04:38 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>月と六ペンスとゴーギャン</title>
<category>カルチャー</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/153932</link>
<description>[転載記事位置]<br />
ゴーギャンといえば、サマセット・モームの『月と六ペンス』のモデル。<br />
読んだことなかったんですが。<br />
<br />
勉強不足を毎日痛感する。<br />
でも同時に、勉強して知識が増えて、武装というのか、武装だろうけど、本から得た根拠をつけて述べたり反論したり、それが出来ても、その場は凌げるだろうから、確かに知識が増えるのはいいんだろうけど、それでも何か違和感が残るのだから、毎日痛感するこの残念感の原因は勉強不足ではないんだろうと思う。<br />
<br />
日々少しづつ感じる、微妙な残念感の原因を「勉強不足」「教養不足」「論理力不足」というところに求めたら、なんとなく腑に落ちたような気もするし、いつか挽回できるような（どうせしないんだけど）、とりあえず理屈をつけられた気になる。とりあえず納得したことにできる。だけど、多分、やっぱり違うんだろうと、素直に認めたら、思うわけだ。<br />
<br />
そういうどうも残念な気分のときは、残念な自分の頭で考えてもたかがしれている。その上、残念な気分のときに周辺にいる人も残念な状態であることが、多いような気もする。こうなったら、直接ではなくても、残念じゃない人のご意見を伺いたくなる。間接的にでも。時間と人数に認められてる人、をとりあえず「すごい人」ということにして・・・この仮説すら、もはや日々を勉強不足のせいにしている自分が立てたのだから危ういといえば危ういのだけど、始点としては精一杯としておく。<br />
<br />
そうだな、思いつく時間と人数に濾されてもすごい人なポジションを獲得してる人たち。レオナルド・ダヴィンチとかかな・・・見とこか・・・空海とかすごいんじゃなかろうか・・・南無大師遍照金剛・・・モーツァルトとりあえず聴いとこうかな・・・モーツァルトの短調の曲を聴くと背筋がモゾモゾしてくるんだけど、これも胎教に本当にいいんだろうか、妊娠してないからいいけど・・・<br />
<br />
名作と言われている本などに手を伸ばすのもこういうときだと思う。思春期に一旦手を出すけれど、その時読まずじまいだったものを読むのがこういう時。深い期待もなく、とりあえず読み始めると、名作はやっぱり面白いことが多い。思春期だと退屈だったかもしれなくても、それなりに年を重ねてくるごとにそれに対応できるのが名作の懐の深いとこなのかもしれない。<br />
<br />
思えば、思春期のときに読んだものと、読まずに過ごしたものとの差というのは、考えてみるに、偶然くらいしかないような気がする。たまたま読んだ、たまたま読んでなかった。私の場合、例えば『嵐が丘』は読んだけど、『高慢と偏見』は読んでなかったような。プーシキンはいくつか読んだけど、ドストエフスキーは手付かずとか。<br />
<br />
サマセット・モームの『月と六ペンス』は読んでなかった。明らかに、あんまり心惹かれなかった。では、モームを読もうかと思ったのは、たまたま図書館で返却されたばっかりの本の棚のところに『高慢と偏見』があって、これを機会に読んでおくか、と思って読み始めたら、驚くほど面白いし、止められないし、気づいたら一日で暇を見つけては読んで読み終わってしまったからだった。これも人気作品だけど、それにはモームがこの作品を10大小説に入れていることが、この作品の名声というのか、人気を裏支えているところもあると思う。ということで、同じく10大小説に『嵐が丘』が入っているし、結局どちらも面白かったの一言につきるので、実は恥ずかしながらエッセイをちょっと英語の勉強で読んだくらい以外には一冊も読んだことがなかったモームだけど、これを機会に読んでみるか、残念な気分だし、と読んでみた。ここは奇をてらわず、有名どころドンピシャの『月と六ペンス』にしてみた。最初の20ページくらいは勘で飛ばし読みをしたけど、後で解説を読んで飛ばしてよさそうだったからほっとした。でもその先は、もう止まらない。結末が分かっているのに、止められない面白さがあった。やっぱりすごいんだ、文豪。<br />
<br />
こういう時にほっとする。多くの人、時代をついでいいと言われるものが面白くないとき、なんだか自分が味覚異常なんじゃないかという気がしてくる。著しく能力が欠如しているんじゃないかと思う。これが同時代の一時の流行ものであれば、大して心配はいらないことが多い。実際、ぱっと流行って、ぱっと消えるものは沢山ある。同時代人が認めることもなく、後世の人にも認められないものが沢山あり、同時代の人が認めても、時が経たら全く顧みられないものもある、また同時代の人が絶賛し、また後世の人も絶賛し続けるものもある。<br />
<br />
いろいろあっても、やっぱり自分が好きじゃなかったら、好きじゃないんだから、仕方ないなぁって思うのだけれど、『月と六ペンス』みたいな本が当時ベストセラーになった、と聞くと、世の中、なかなか捨てたもんじゃないのか、と思う。<br />
<br />
本の中身は、ざっくり言うと、本で読むと味わい深い人物だけど、近所にいたら絶対にこの「私」のようには受け止めたりできなさそうな、避けたい、拒絶してしまいそうな人物を描きだしているといえます。それは受け止め方の作法を知らないからかもしれないんじゃないでしょうか。戸惑っているだけなのに、自分で認識できないから、避けてしまう。嫌いとかまで思ってしまう。<br />
<br />
主人公は本当に社会性のない人だし、変な人とか、自由な人がいろいろ出てくるけれど、社会から逸脱しない立場の「私」が、通訳というのか、いろいろ言語化を試みていくｌ。それのどれが正しいのか、合ってるのか、「私」さえ知るよしもない。でも、いろいろあぁでもない、こうでもない、と受け止め方、捉え方、戸惑いそのものの言語化がなされている。読者もそれを追体験できる。うまいこと言うな、と。<br />
<br />
こういう本が読み継がれるというのは、思ったより、世の中、奇人変人に対して、語る言葉、表現の仕方、受け止め方、というのを持たないだけで、そのために現実世界には軋轢が沢山生じているけれど、全くもって頭から心から切り捨てているわけではないのかもしれないと思えてくる。<br />
<br />
この小説の中には、人の心の中の矛盾とか、愛と呼ばれている現象の中の沢山の自己愛や勘違いやさまざまな状況への分析と表現が散りばめてある。思い当たる節がある人には、こういう風に言うとしっくりくるな、という捉え方が、言語化が沢山みつかる。理屈というより、表現。自分の中でもうまく消化できなくて、かえって単純化して、余計に分からなくなっていたような事柄に、もっと理屈としては合わなくてもしっくり来る言葉が沢山みつかる。この本の中にも、人というのは孤独で、基本的に言葉が通じない異国にいるようなもので、心の中には沢山の複雑な思いがあっても、片言しか離せないから「傘を表に置いてあります」程度の内容しか告げられなくて、お互いに孤独になる、みたいな事が書かれていた。合図でしか分かり合えないのに、合図が分からないとき。実際、自分には理解しがたいような人が目の前にいて、でも全くもって拒絶しているのではなくても、触れ合う言語なり言語らしきものなりを持たなければ、多分拒絶しているような態度しかとれないだろうし、相手は拒絶されたと、嫌悪を誘っただけだ、と思うんだと思う。そうやってすれ違っていく。<br />
<br />
そういう事が日々、起きているのかもしれない。残念な気持ちは、いろんなことを思って、感じて、ぴかぴかしたものを見つけたと思う、そんな時にも、「外に傘があります」程度のことしかいえなかったり、身振り手振りでほとんど何も伝わらないか「分かるよ、すごく分かる」という全然わかってなんかない言葉に触れてかえって何も伝わってなくて戸惑われるほうがマシだと思うような状況に陥るときじゃないかと思う。<br />
<br />
やっぱりだとしたら、何か少しづつ溜めていけば、残念が減るのかもしれない。または、残念と思う必要もなく、いつかなんかどうにかなる、そういうすぐには分からないもことに焦って結論を出してしまっているかもしれないことにこそあるのかもしれない。<br />
<br />
こうやって少しは視点を和らげてくれる、まんざら残念感だけに浸らなくても良さそうじゃないか、と思わせてくれる。やっぱり、すごいって言われる時間と人数をこなしてきた作品というのは、あてになるなぁと思ったわけでした。</description>
<pubDate>Mon, 14 Jun 2010 11:41:33 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>美術系女子は肉食系？</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/151274</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
こういう調査結果を見ると、ドキドキします。<br />
私は、アメリカでの大学時代は実技で美術専攻で、油絵を描いたり版画刷ったりしてました。そして、修士は美術史専攻でした・・・<br />
<br />
まさに、美術系女子！<br />
<br />
肉食系なんでしょうか・・・草食でもないかもしれませんが<br />
一体どういう項目で、どういう調査なのか（どうやら性病に関する意識調査？）<br />
実感として、私が知る限り、美術系女子が奥手だという印象は薄いような気がします・・・<br />
<br />
私の個人の感想という統計学的には全く微妙なサンプルをもとにした話なんですが<br />
美術を専攻する、という時点で多少、すでに「就職のことなんぞ、考えとらんで」という<br />
ような面もあります。そういう無頼な傾向が、異性との交遊においては、「後先考えるより、まず行動やろ」みたいなことになるのかしら・・・と考えたりもします。<br />
<br />
そもそも、美術専攻の人間というのは、作品制作の技術を身につけなければいけないという点が一つと、もう一つ大事なのは「既存の視点からの脱却」だと思います。完全に逸脱するでもなく、上手に「その手があったか」という、なるほどぉ、そうきたかぁ、というような視点を表現することが技術・表現の両方で求められているのではないでしょうか。だとしたら、男女関係においても、あるいは、その、実験的というか、非常に奔放に・・・なる？<br />
<br />
合理的な考え方だけでは、割り切れない、という発想なほうが、美術系だと評価されるかもしれません。もちろん、私は日本の美術大学に行っていないので、日本の場合にどうかは、まったく知らないのですが。<br />
<br />
もうひとつ思ったのは、必ずしも活発だからといって性病、というのでもないなぁというのも思うところです。</description>
<pubDate>Sat, 29 May 2010 12:11:52 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>コロッサル　コロッセオ</title>
<category>歴史・考古学</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/151104</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
修復より愛。<br />
<br />
私がお邪魔もんさせてもらっている研究室では、みんなドリップでコーヒーを入れます。<br />
同じ手順でも、違う味になるんです。<br />
ある日、私が淹れたコーヒーが、マズイ。すごくまずい。<br />
おっしょさん曰く「愛が足りない」と。<br />
確かにですね、愛があれば、「こうやったら、もっと美味しくなるかな？どうやったら美味しく飲んでもらえるかな？」などと、いろんなことを思ったり、想像したり、シミュレーションしたり、工夫したりする原動力になります。<br />
<br />
たとえば、プレゼントなんかを選ぶのでも、愛が多いほど、慎重に、一生懸命相手が喜びそうなものを選びませんか？なんか渡さないとまずいから、というような義務で選んだときよりも、沢山努力したり、工夫したりすると思います。<br />
<br />
こういう現場の人が、注ぐべきもの、として愛というのも、私のまずいコーヒー体験からも納得がいきます。<br />
<br />
そう。豆をひいて、フィルタを用意して、お湯を沸かして・・・・いくつものインプットの中に、ちょっとずづ手抜きが含まれれば、アウトプット（＝コーヒー）の味も違ってくるでしょう。<br />
<br />
まぁ、つまり、美味しいコーヒー飲んでもらおうという意識もなく、適当に入れたからマズイ、というのを美しく表現したのが「愛が足りない」なわけです。<br />
<br />
歴史的な建造物も、それを取り囲む人たちの思いやりとか、愛だとか、思い入れ・・・もちろん、バランスのとれた・・・が重要なファクターになるという主張も、そういう流れで考えると頷けます。偏愛しろ、という意味ではないと思われます。<br />
<br />
<br />
ところで、コロシアムが建っているいた場所には、その前のJulio-Claudian王朝時代の最後の皇帝ネロの屋敷とか巨大像コロッサル（collosal）が建っていたそうです。そこを続くFlavian王朝の創始者ヴェスパシウス帝、続く息子のティトゥス帝ががとっぱらって、みんなが楽しめるコロシアムcolloseumと呼ばれる円形闘技場を建てた、ということだそうです。<br />
<br />
コロシアムはローマ建築の本などでは、Falvian（フラヴィアヌス朝の） Amphitheater（円形劇場）、一般にはコロシアム、という風に記述されたりしています。<br />
<br />
手元の美術史の教科書によると、50000人も収容できたそうです！すごいですねぇ。</description>
<pubDate>Fri, 28 May 2010 13:56:18 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>文化財は誰のもの？</title>
<category>歴史・考古学</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/147843</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
本の中でも、このテーマは取り上げたのですが、悩ましい問題です。<br />
<br />
古代の美術品の話はロマンだけではないようです。<br />
むしろ、そういうロマンではない部分が、私には面白いように思えます。<br />
<br />
おそらく、この記事を読んだ人はほとんど<br />
｢返してあげようよ・・・｣と思うことだと思います。<br />
私も、大体は・・・返還したほうがスジじゃないかなぁ・・って思ったりします。<br />
<br />
あ、でも鋭い方々や、この問題をご存じの方のブログなどでは｢そんな事いっても、保存・保管の問題もあるから、単順に返せって話でもないんじゃないか？｣という論調もあるようですね。<br />
<br />
何が問題あるんだよ！！って思いますよね。<br />
私は｢返してあげよーよー｣って思ったりする心情がなきにしもあらず・・・<br />
結論から言うと、白黒がつかない問題。どこで白黒つけても、絶対にどこかに抵触する、そういう問題だけど、白黒問題として語られる議題だ、ということです。<br />
<br />
日本にはそこまであまりない問題かもしれませんが<br />
国の国境って、歴史の上で伸び縮みするんですよね。<br />
<br />
日本の場合は、北方領土なんかが問題になります。<br />
本土は日本以外の国になったことはないですよね。<br />
でも、地域によっては、侵略されたり、したり、などで<br />
｢ギリシャ｣っていっても、時代によって、｢あ、そこもギリシャ?｣<br />
なんてなことになるし、パレスチナに至っては、誰のもんかで<br />
世界を巻き込んですったもんだです。<br />
<br />
この記事にもありますが<br />
ギリシャはパルテノンのレリーフ（エルギン・マーブル）を返還要求してますが・・・・<br />
ミロのヴィーナスとか、そういうのはいいの？って聞くと・・・<br />
<br />
いいよ・・・<br />
<br />
だそうです・・・<br />
理由もなんかよくわからないけど、独立してるから。<br />
まぁ、そうなんだ・・・いいなら、いいけど・・・<br />
<br />
基本的には、出土した場所に保管するのがいいよなぁって思うのですが<br />
必ずしも、出土した場所に所属していたとは限らない場合もあります。<br />
有名なハムラビ法典は、現在のペルシャで出土しました。<br />
古代のペルシャの王様（大体今のイラン、だけど時代によって国境は伸び縮み！！）が、バビロンからかっぱらってきたと言われています。では、これは、出土した場所に戻すべき？それともさらにオリジナルの場所に戻すべき？でも、ペルシャとバビロニア（今のイラクを中心とした古代の王国）って侵略したりされたりで、どの時代を基準にすべき？でも、どこで決めたとしても、現代の問題と通じています。<br />
<br />
アメリカの場合は1974年を境に、それ以前のことは不問でひとつよろしく！ということなんですが、納得しないむきがあるのは当然かもしれません・・・<br />
<br />
ほかにも、保存・保管の問題もあります。<br />
日本の保管保存技術は高いので、イラクなんかに技術援助したりしているようです。<br />
そういう貢献もしてたりするんですよね。<br />
<br />
古代の文明が栄えた地域は、えてしてよく、紛争地域だったりします。<br />
バグダッッドに残っていたら、えらいことになってたかもしれない<br />
というのは欧米のカッパライの言い訳には都合いいかもしれません。<br />
でも、一理あるのも事実・・・<br />
<br />
本にも書いたのですが、ではアボリジニと今住んでるオーストラリア人の問題。<br />
ネイティブアメリカンと、今のアメリカ人の問題。<br />
同じ場所を共有しています。でも文化は別です。<br />
文化財を扱うメンタリティも違います。<br />
現地に返還すればいいというものでもない・・・<br />
その先にもめごとがあるかもしれない。<br />
<br />
思うよりも簡単ではない問題なんですよね。<br />
わりと、根深い問題だな、解決する立場になりたくないな<br />
でも誰かが決めて、責任とらなきゃいけない問題なんだな<br />
と思いますよね。<br />
何を決めても、どこかから、そこはそれなりに正当な理由をもって<br />
文句が言えるようなことに陥るという、そういう問題に関するニュースだったんですね。<br />
<br />
それでも、どちらかに決着がついて、忘れ去られるのではなく<br />
たとえ全員が納得できなくても、活発で健全な議論を進めながら<br />
常に最善？最適化が行われていくのがいいのかなぁと思います。<br />
とにかく、決定権がある人たちにとっては、苦渋の選択かもしれません。<br />
<br />
すごいなぁ、決定権がある人たち！</description>
<pubDate>Mon, 10 May 2010 16:22:06 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>大好きです、こういう研究</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/146140</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
学生をやっていて、つくづく思うんですが<br />
研究の良しあしって、つまり｢問い｣の面白さにあるんですよね。<br />
なんで脳みそ、しわしわなんだろう？って疑問を持つとか・・・<br />
もちろん、どういう方法で調べるか、っていうのも次にとても大事なポイントですよね。<br />
<br />
でも、はじまりはとにかく、｢問い｣ではないでしょうか。<br />
例えば、友達と話してても、インタビューを受けていても<br />
質問の切り口が上手だったり、面白かったりしたら<br />
どんどん話せるし・・・逆に漠然と｢どう思う?｣なんて聞かれたら<br />
なんか、こっちもよく分からない答えをしてしまう。<br />
家族に不幸があった人に｢今のお気持ちは？｣なんて聞くのが<br />
典型的な、それ、聞いてどうするのさ、想像つくじゃん・・・広がらないし・・・<br />
というまずい問いかけじゃないかと思います。<br />
<br />
ということで、研究に限らず<br />
日常生活でも、仕事でも、友達との会話でもなんでも<br />
どこに疑問を持つか？どこに興味を持つか？<br />
それをどう投げかけるか？で<br />
さまざまな広がりを見るきっかけがあるんじゃないでしょうか。<br />
考えてみたら、お笑い芸人の人は、あ、そこを突くか！というポイントで<br />
なんでもないことなんかを、楽しく切ってくれたりするわけです。<br />
<br />
そういうわけで、研究の世界も<br />
問いの着眼点が良ければ<br />
調べた結果がどうであれ、なんだか面白いきっかけになるんだと思います。<br />
とにかくこういう研究はやってると楽しいですね。<br />
意外な別のジャンルの研究なんかともつながりそうですしね。<br />
<br />
・・・ちなみに、現代で最後の晩餐を描くとなると、逆に超質素な食事風景にするんじゃないでしょうか。世間の人のリテラシーが高くなってるから、穿った見方が出来る人も増えていて、あんまり豪華だと｢雰囲気が出ない｣というようなことを予測してしまうので・・・そういう加減も、塩梅も、なかなかどうして、世相を反映するんじゃないでしょうか。<br />
<br />
さらにちなみに、私自身は、最後に食べるのは、絶対に美味しい卵かけご飯です。<br />
普通の卵の、黄身だけでいいです、ちょっぴりのお醤油と。</description>
<pubDate>Wed, 28 Apr 2010 14:38:44 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>アートを美味しく味わう方法</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/137027</link>
<description>[転載記事位置]<br />
アートを見るときには、作者の意図を見抜かないといけないのでは？<br />
<br />
そのような強迫観念のような、ある種、多くの人が大前提として捉えているような見方があるのではないでしょうか。<br />
<br />
大丈夫です、そうでもないです！<br />
というのも、最近では見た人がその人なりに自由に連想をして気軽に楽しんで欲しい、という作品も多いからです。<br />
ルノワールみたいに、見た人が心地いいなぁと思う絵を描きたい、と言うような作家の作品なら、「あぁ、綺麗な色やなぁ～」くらいでOKだと思います。<br />
<br />
■徹底的に勉強するか？それとも無視するか？<br />
<br />
確かに、作者の意図を知るという楽しみも勿論あるのですが<br />
それが行き過ぎて、大人の意図を読み取ろうとびくびくする子供のように、卑屈な気持ちにならなくてもいいのでは？と思うこともあります。<br />
<br />
それから、自由に、自分なりに、楽しく、勝手に、見るというのも勿論いいと思います。しかし、この世には、ちったぁ、意味を考えたり背景を知ったほうが良いんじゃないか、という作品があるのも事実です。<br />
<br />
じゃあ、どうしたらいいの？一つに考えを絞りなさいよ！と言われるかもしれませんが、つまり、言ってみたら、絵やアートに対峙する、というのは「ちょっと無口な初対面の人に出会う」ようなものです。<br />
<br />
■初対面の人とどう接しますか？<br />
人相手には一つの万能なストラテジーなど望むべくもないように<br />
いろんな時代の、いろんな人が作った、いろんなもの（アートって一括りに呼ばれてるけど）に、一つの枠組みなどありっこないわけです。ですから、初対面の人とであったときに、あなたが取るような姿勢でもって「あ、外国の方だな」とか「あ、このタイプの人は付き合いがあるけど、大体こうかな」なんて感じでやりくりしてるように、アートも楽しんだらいいんじゃないかと思います。<br />
<br />
大して含蓄ないな、という意見みたいですが、実際のところ、そういうことを気にかけないために、アートに構えすぎたり、あんまり自由すぎて却って面白い背景情報を無視しちゃう、というもったいない味わい方をしてる場面にでくわすこともしばしば。（例をあげるとキリがないですが、そういうのをまた挙げていきたいです）<br />
<br />
新鮮な鯛の刺身だけどから揚げにして、ソースかけて、なんか野菜とか肉とかと混ぜて食べました、って聞いたら、あ、もったいないな、って思いますよね？そんな感じです・・・<br />
<br />
こういうペットボトルのアート、と聞くと、大抵の人は環境問題系をイメージするんじゃないでしょうか？それで動物を表現する、っていう、トロピカルな感じ・・・あ、ペットボトルの原料って石油だな、石油ってそういえば、古代のシダ植物とかなんだよな、とかそういう妄想を楽しんでみてください。原材料安そうだな、とか。あ、チェコのアーティストってそいえばあんまりイメージわかないな、そうか、とか。どんな疑問も馬鹿らしくありません。なんでだろ？そういうプチ疑問を心の中で遊ばせるのもアートの楽しみです。そういうことをちょっと調べたりすると、なおさら興味がましてきますよー！</description>
<pubDate>Wed, 10 Mar 2010 17:09:39 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>ヘブライ語と“まばたき”</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/109821</link>
<description>[転載記事位置]<br />
<br />
オープニングに混じってきましたー！<br />
<br />
なんといっても写真のまばたきの木はチビっこたちに大人気！<br />
私は以前からこの作品の大ファンでした。<br />
NHKのトップランナーでも紹介されたアーティスト鈴木さんの代表作の一つでもあるでしょう。<br />
<br />
葉っぱの形をした紙の両面に開いた目と閉じた目が印刷されていて、それがヒラヒラ舞うとまるでマバタキをしているように見えるんです。つまり、パラパラ漫画の原理。<br />
<br />
この葉っぱを中央の筒のスリットに入れると、空気でふわーーーーっと撒き散らしてくれて、それがまばたきする葉っぱが舞う木の枝と舞い落ちる木の葉に見えてくるんです。不思議な体験が楽しめるのですが、原理が単純なので安心です。<br />
<br />
床に落ちた葉っぱを子供たちが必死で拾ってスリットに入れる姿は<br />
『あぁ、アウトプットとインプットが明確なことに子供は参っっちまうんだな』と思わされます。<br />
<br />
どこがデジタルなんだって？<br />
<br />
葉っぱを筒に入れる。<br />
筒に入れると吹き上げられると知ってる。<br />
入れた葉っぱが吹き上げられる。<br />
この単純なインプットとアウトプットの関係。<br />
人と物とのインタラクション！デジタル技術の基本らしいです・・・<br />
<br />
デジタルとかそういうことは分からないけれど<br />
この作品がイスラエルで展示されたとき、まばたきはイスラエルの言葉でも目に関係した言葉だという話が出たとか。<br />
<br />
早速ヘブライ語の先生に確認してみると<br />
マバト、というらしいです、目のこと。<br />
“まばたき”という言葉から意外にも日本人ユダヤ人説をとなえるトンデモに有利な情報が飛び出してきたという、楽しい作品なのでした！</description>
<pubDate>Mon, 19 Oct 2009 20:09:16 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>水浴びするディアナ</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/109819</link>
<description>[転載記事位置]<br />
ピカソ云々よりも、この絵の元ネタはロココ時代の画家ブーシェの有名な<br />
水浴びをするディアナ（ダイアナ、アルテミス）でしょう。<br />
<br />
ポーズも青い布の位置もそのまま。<br />
もちろんオリジナルの方がよっぽど可憐で可愛いですし<br />
足だってちっちゃくってキュートです。<br />
ブーシェの模写をした誰かの絵でしょう。<br />
それか、ブーシェをもとにした二次創作？！っていうのでしょうか。<br />
<br />
バロックの巨匠であるベラスケスのような画家を尊敬していたピカソが<br />
その後の時代のロココ、美術史上ではあまり高い評価を得られない<br />
スノッブな趣味といわれるロココの画家を好んで模写するかどうか<br />
という嗜好の問題があるけれど、その前に出来そのものの問題がありますね。<br />
<br />
興味がある人は、是非『ブーシェ・水浴び・ディアナ』で検索してみてください！<br />
ソックリですから！<br />
そしてどうぞ、オリジナルはとても愛らしいパステルカラーの絵ですから<br />
お楽しみください。</description>
<pubDate>Mon, 19 Oct 2009 19:58:30 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>聖書</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/108222</link>
<description>[転載記事位置]<br />
こういう話題について、是非とも書くべきだと思うのですが、まだ書く内容がまとまりません。<br />
さて、どうぞお待ちください。<br />
まとまってませんが、考えがないわけでもないし、時間がないだけです。<br />
<br />
<br />
聖書、あまりに馴染みがない人には馴染みがないベストセラー。<br />
ある意味、信じてなくても読むのはおススメな本です。<br />
とにかく、素晴らしく面白い本であることに間違いはありません。<br />
<br />
信じる？信じない？<br />
それじゃ、エルキュール・ポワロと同じ思想でなくても、アガサ・クリスティの小説を楽しめますよね？同じことが、キリスト教を信じていなくても、聖書という素晴らしい文学を楽しむ根拠となります。私は本当に聖書は素晴らしい文学だと思います、信じていても、信じていなくても。<br />
<br />
ちなみに、我が家の葬式は真言宗です。そして、とりたてて信心はありませんが、禅宗のお寺で座禅はやりますが、特定の宗派にこだわりは当然ありません。不思議なものです。</description>
<pubDate>Fri, 09 Oct 2009 01:53:48 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>フセイン亡き後</title>
<category>歴史・考古学</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/100441</link>
<description>イラク戦争の影響の一つに、かつてのメソポタミア文明の中心部分を擁しているイラクという国の文化財・遺跡の破壊が挙げられている。<br />
<br />
そりゃぁ、戦争をしたんだから・・・無傷ってわけにはいかないのは、誰にも（納得いかなくても）当然の帰結だろうと思うと思います。<br />
<br />
もう一つには、亡きフセイン元大統領がこのネブカドネザル（紀元前600年頃の王様）と自分を重ねたメディア戦略を行っていたという事があるでしょう。ネブカドネザルがつまり、この偉大な古代な王を、うまく利用して自分のイメージも偉大に見せようとしていたわけです。ネブカドネザルにまつわる遺跡を派手に修復したり宣伝したり、自分のポスターにも描いてみたり。ネブカドネザルにしてみれば、寝耳に水でしょうし、当時想像したかどうかも分かりませんが、利用されたのは事実。<br />
<br />
よくも悪くも、ある意味フセインは保護者であったのは事実なので、そういう人物がいなくなれば、廃れてしまうのも時の流れなのかもしれません。<br />
<br />
よくも悪くも、独裁者というのは、過去の英雄と自分を意図的に重ねてメディア戦略をします。ナポレオンも自分の肖像画にハンニバルだとかアレキサンダーだとか（確かこういう人だったと思う）の名前を並べて描かせています。ムッソリーニも初代ローマ皇帝アウグストゥスの墓の整備をやっているところを写真に撮らせたりしています。<br />
<br />
しかし、そうすると、その独裁者がいなくなったとき、勝手に利用された元の過去の英雄も、多少とばっちりを食うのかもしれません。<br />
<br />
ただ、とばっちりが、過剰になりすぎないことを祈ります。<br />
<br />
また、遺跡としての価値に相当したはからいと処置が取られることを願うばかりです。<br />
<br />
そこでさらに。そこに今、現在、暮らす人々の利益・公共の福祉との兼ね合いの中でバランスが取られるのが理想的だといえるのではないでしょうか？ただ、このバランスは、なかなか取りにくいもののようです。しがらみと、兼ね合いと、過去の記憶と、これからと、すべてをバランスを取っていくのは、簡単ではないかもしれません。冷静な状況判断と、理性に基づいた決断がもっとも必要なのではないでしょうか。</description>
<pubDate>Sun, 09 Aug 2009 19:49:48 +0900</pubDate> 
</item>
<item>
<title>自分の決断が与える影響の大きさ・・・</title>
<category>アート</category>
<link>http://www.actiblog.com/asako/99644</link>
<description>この絵がダヴィンチのものかどうか、私には分かりません。<br />
<br />
なんとなく・・・ダヴィンチにしては、人物の手の形あたりが怪しい気もするし、左の赤ちゃんの顔なんかがダヴィンチっぽくないんじゃないかなぁ・・と思いもしますし・・聖母のポーズも、あまりダヴィンチの特徴的な顔と体の向きのねじれもないような・・・洋服の襞も、あれくらいの名人のダヴィンチにしては・・・なんか・・・習作と比べても・・・いや、それくらいで決めちゃだめですが、限りなく、違うんじゃないかなぁ・・・という気持ちがありつつ・・・というか、これがダヴィンチだったら、ずいぶん他の作品もダヴィンチということになってしまうんじゃないかなぁと。。。<br />
<br />
そもそも、レオナルドの絵は<br />
（あ、ちょっと気取った言い方をしてみました・・・美術史の本では、ルネサンス三大画家はファーストネームで呼ぶのが慣わしみたいです）真贋が、少なくとも、当人の絵なのか、模写なのか、弟子の絵なのか、同時代の似た感じの絵なのか、論争がすごいものなんです。有名な『受胎告知』ですら、レオナルドが関わっているのは部分だろう、いや、部分によっては弟子だろう、とか・・・なんなら、有名な自画像だって、真贋が問われているくらいです。<br />
<br />
■科学は鑑定の決め手になるのか？！<br />
<br />
では、一体全体、どうやってダヴィンチなのか、ダヴィンチであるのかと、専門家は見分けるっていうのでしょう？きっと想像されるのは、科学的な分析・・・絵の具の成分分析だとか<br />
炭素同位体だとか、Ｘ線だとか、そういうものですよね？<br />
<br />
だけど、炭素同位体に「ダヴィンチ」ってサインされてるわけでもなし、同時代の作品かどうかはわかっても、ご本人の筆になるものかまでは、証明することはできない・・・たとえ、ダヴィンチのＤＮＡでも分かってて、彼の細胞のかけらでも、見つかったとしても、それが「彼が描いた」証明になるわけでもないですよね。<br />
<br />
ことほど左様に、絵の真贋って、科学でもサポートする限界があるってことです。<br />
もちろん、裏づけとして強い証拠力があるのも確かではあるのですが。<br />
<br />
■ルネサンス美術の悩みどころ、困ったダヴィンチさん<br />
<br />
では・・・どうやって分かるのよ！って思いますよね？<br />
結局は、どういう経路で現代に伝わったか、確かな筋かどうか、という点が一つ。<br />
茶道具でいったら、箱書きみたいなものでしょうか。<br />
また、絵の具の成分も重要ですよね。画家には絵の具の使用する傾向というか、クセもあるわけだから、それと似通っていれば決め手の一つになるかもしれない。<br />
しかし、絵の具が量産される時代以前には、画家は自分で絵の具を練っていたわけだから作品ごとに少しづつ違ったりするかもしれない。<br />
またまた、雰囲気というかスタイルなんかも重要です。ポーズや表情、その描き方です。<br />
これはとても特徴があるもので、特に何気ないところに出るといわれてます。<br />
ルネサンスの有名な画家なら、判別のための『耳集』まであります。耳みたいなパーツに、意外にも個性が出るから、判定に役立つということで、出自が確かな絵の中の耳ばかりを集めた照合表なんかがあるんですね。<br />
<br />
さらに、事が難しくなるのは、ルネサンスの時代は「工房制」だったこと。<br />
つまり、師匠が大体の指示を出して、お弟子が仕上げたりするのは、当然の時代なのです。日本でもそうですよね？工房制、例えば漫画家さんならアシスタントさんを雇っていますよね。背景とか、人物でも重要ではない部分（洋服の襞とか）はアシスタントさんが担当する場合もあるでしょう。顔と手などの重要なパーツの線入れを先生が担当して、スミ入れ（黒く塗ったりする）はお弟子さんの場合もあるでしょう。<br />
<br />
だからといって、作品が誰のものかというと、漫画家さんのもの、ということになるでしょう。<br />
しかし、完全にその一人が作ったとは言い切れないところもあります。<br />
<br />
絵といえば、一人の人間が最初から最後まで仕上げる、というのは割りと近代の発想。<br />
絵の具ひとつとったって、チューブに入ったのは大量生産が可能になった19世紀半ばのこと！だから、絵の具の準備や、絵の支持体（キャンバスとか、板とか）の準備だって、一人じゃないのです。そうしたら、師匠のもとにいるときは、師匠の絵なんです。<br />
<br />
ダヴィンチだって、師匠のもとにいるときは、端っこの人物を描くのを担当したって、その絵は師匠の絵なんです。<br />
<br />
ダヴィンチさんは更に、困ったことに、割と描き方に実験的なところがある。際立った特徴もあるんだけど、やはり実験的なこともする人だから「レオナルドはこんな絵を描いた例がない！」という事実だけで、ある作品を彼の作品ではない！と言い切ることが難しかったりもします。レオナルドさんなら、これくらい飛躍する可能性はあるかもな・・・と専門家もちょっと深読みしちゃうみたいです。<br />
<br />
■線引きが難しい<br />
<br />
さぁ、真贋って難しいでしょう？何をもって、真贋というのか・・・<br />
ルネサンス時代なら、同じ工房だったら、きっと偽物っていうのは、大げさすぎるなって思いますよね。そして、制作された時代がレオナルドとは全く違ったら、偽物！と思ってしまうけど、もしかしたら、専門家が勘違いして勝手に他人の作品をレオナルドだと決めてかかったのかもしれない。<br />
<br />
偽物にもいろいろあるし、ホンモノだと決めるにも、いろんな基準点？！というのがあるというわけで、なかなか決めるのは難しいのです。<br />
<br />
そして、さらに判断を難しくするのは・・・レオナルドの作品であるか、ないか、というのが『値段』に大きく響くということです。つまり、人の欲に大きく絡む、ということですね。<br />
<br />
ここで質問。<br />
<br />
もし、あなたが専門家で、明らかに偽物を目の前にしていたとする。<br />
だけど、それが偽物だと分かるのは、自分を含めて、ごく少数だとする。<br />
それをホンモノだといえば、とても儲けになるとする。あなたならどうしますか？<br />
<br />
また逆に。それがホンモノだと確信できたとする。<br />
間違いないと思ったとする。<br />
でも、物事に絶対はないという良識があなたにはあったとする。<br />
万に一つくらいは、違っているかもしれないが、99％本物だと思ったとする。<br />
しかも、それには大金が絡んでいると知っている。<br />
あなたは、それをホンモノだと主張できますか？<br />
万が一、それが偽物だと後に分かったときには、あなたの専門家としての見識に大きな傷がつきます。<br />
さて、どうするでしょう？<br />
<br />
美術の鑑定というのは、なかなか、名誉といろんなものを賭けたものだと思いませんか？<br />
<br />
ある意味、今の裁判員制度に対する感覚に近くないでしょうか。<br />
自分が下す決断が、自分が関わる決断が他人に及ぼす影響の大きさが、自分の判断そのものに影響を及ぼす場合もあるでしょう。<br />
<br />
そういう事は、必ずしも司法の現場だけではなく、いろんな分野のさまざまな場面に起こりうるんじゃないでしょうか。美術なら、他愛ない、無害だ、と思うとしたら・・・それは、ちょっと、美術の世界を性善説で捉えすぎかもしれません。そうあって欲しい気持ちも沢山ありますが。</description>
<pubDate>Mon, 03 Aug 2009 22:24:10 +0900</pubDate> 
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