一物二価
当地には定価というものがない。探し捜せばあるところにはあるのだろう。しかしスーパーなどでも値段のシールが貼られていることはまずないし、スーパー自体が少なくて、街のよろず屋、八百屋、クリーニング屋あたりになってくると、言葉が分からなければ、完全に先方の「言い値」の世界になる。旅行者なら安い店を探したりするのも楽しみのうちだが、あいにくこちらは居住者で仕事もある。安い八百屋を捜して半日つぶす、なんてことはちょっとできない。
移動に使うタクシーにももちろんメーターなんてものはなく、事前に地元の人に値段を聞いてもらって電話で呼んだとして、結局降りるときに請求される値段は全然違ったりする。ついでにいえば領収書をもっているのは全体の四分の一くらいか、もちろん英語で書いてくれるなんてことはまずあり得ない。そもそも領収書という概念が、定価であるとか内訳とか、そういう明朗会計の概念を前提にしているのだとここに来て痛感する。私はこの国の言葉が分からないけれども、「お前どう考えても自分の名前書いているだけだろ、値段らしき数字がどこにもないじゃないか!」と突き返したいことがしばしば。
さらに言えば、釣り銭もない。こちらが1万円札を出しているわけではない。1000円の勘定で、せいぜい100円くらいの釣り銭がなかったりする。
いろいろ聞いてみると、諸事においてやはり外国人には高く吹っかけている。たとえ言葉が分かっていても、やっぱりタクシーは地元民よりも高いのだそうだ。
吹っかけられても「激安」ならよいのだが、30分乗ると1000円を超えることがしばしばだから、往復にすると、ばかにならない。しかも公共交通機関が使い物にならないのだから、たちが悪い。というわけで駐在している在留邦人は例外なく運転手を抱えることになる。なんのことはない、運転手は月給制だから、定価があるわけだ。
日本に八百屋や肉屋や魚屋というものが機能していた時代をかろうじて覚えている小生の世代から言えば、店にレジがない、というのはかつてはよくあった。何気ない商店街にあったそういう店は、外国人には恐ろしかったのだろうが、恐らく日本人は言葉の分からない人間に高く吹っかけたりはしなかったように思う。
たぶん、延々と交渉すれば安くなる(かもしれない)のだ。しかし、そのために費やされる取引費用はたぶん気の遠くなるようなレベルになる。確か三越の前身が正価販売を掲げて商売で大成功したのは江戸時代だから、2-300年遅れている。「そんなことをするくらいなら次の客拾った方がいいじゃん」とか「お客さんの信用で次につなげる」とか、そういうことははなから考えていないようだ。およそ近代産業に向かない社会である。
こちらに来てはたと膝を打った言葉は「この国はやる気になればそれなりのことを成し遂げる。しかし"Time is money"の概念はない」。人件費が上がってきているから、経営者にとっては時間かける人数が直接コストに跳ね返るようになってきているはずなのだが、国有企業だらけの国だしなぁ…。
やはり日本人が働き過ぎなだけなのだろうか。
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登録日:2008年 05月 28日 00:28:16
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