オールMADE IN Hondaへの憧憬

<F1・第13戦 ハンガリーGP>ホンダ 単独参戦では39年ぶりの優勝を果たす - ハンガリー

【ブダペスト/ハンガリー 6日 AFP】F1第13戦・ハンガリーGP(Hungarian Grand Prix)、決勝。14番グリッドからスタートしたホンダ(Honda)のジェンソン・バトン(Jenson Button)は、1時間52分20秒941をマークし、GP参戦7年目にして初優勝を果たした、また所属チームのホンダは、単独参戦では67年のイタリアGP以来、実に39年ぶりの優勝を果たした。表彰台に登ったバトンは満面の笑みでシャンパンファイトを行い喜びを爆発させた。(c)AFP/DAMIEN MEYER

AFPBB News


 感慨深いニュースが入ってきたのでちょっと。なんで感慨深いかというと、僕のプロフィールを見ていただくということでお察しください。

§フルHonda F1、ついに

 エンジンコンストラクターとしての勝利は、すでに何度も味わっているホンダですが、シャーシ、ボディにいたるまで全てMADE IN Hondaという、まさに同社の結晶とも言えるマシンがついに優勝。
 勝手なイメージかもしれませんが、今から40年余り昔、ホンダのF1参戦はオールMADE IN Hondaによるものだったため僕にはそのイメージが強く、39年ぶりの単独コンストラクターとしての優勝というのがかえって意外です。そんな期間、勝ってなかったけ?という、考えて見ればしごく当然なトンチンカンな印象さえ(正直、僕が生まれて物心ついたときはすでに撤退していたのですが、その当時のF1の玩具というと、まだ葉巻型のホンダF1が主流だったのです)。
 そこで39年前のイタリアGP優勝前後について、あえて振り返ってみようと思います(今の話をしても、みなさんよく知っているでしょうし、ね)。


§走る実験室

 ホンダがF1への挑戦を発表したのは1964年。そこには素晴らしいマシンをつくり、世界にホンダの名をというだけでない想いがあった。それは、先にスタートした二輪のレース同様に「ユーザーに最高の商品を提供するためには厳しい実戦の場での試練が必要と感じる」というスタンスだ。

 デビュー戦となるその年の8月2日、ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPでの成績は12周目でクラッシュし、レギュレーションによる完走扱いでの13位。しかし、そうした成績であっても当時の多くのジャーナリストが「ホンダは勇敢にもレースコースをテストコースとし、レースを即テストとみなして闘っている」と報道しているように、事実その姿勢は明確に表れていた。
 そして、わずか1年半。1965年10月24日のメキシコGPで優勝を遂げる。


§車体技術者にとっては不本意な賞賛?

 1967年のイタリアGPでの勝利。その苦闘は、1966年の3リットルという排気量のレギュレーション変更にはじまる。400馬力を超えるエンジンの出力に耐えるシャーシとう意識から、頑丈さを追及するあまり重量が増しライバルたちに遅れをとることとなったのだ。このため1966年に勝利はなかった。
 そこで1967年、ホンダは軽量化車体を、ローラ社と共同で開発する道を選んだ。そして9月10日。みごとにモンツァで優勝を果たす。
 しかし、この勝利について当のホンダの技術者の中には微妙な想いを抱いていた者もいた。
 同社の50年史には、「ローラ社との共同開発によって成し遂げられたこの栄誉は、エンジン屋さんが受けるべきものであり、車体屋としては極めて残念でした。優勝直後、外部からはホンダではなく“ホンドーラ”などと皮肉られたが、第二期F1参戦のエンジンのみの供給体制に一歩近づいたと見ることもできます」とういう、その頃を振り返った当時の車体設計担当・佐野昭一氏の言葉がある。この潔癖さがホンダの技術者の姿なのだと思う。


§勝つことと「走る実験室」との葛藤

 この翌年、ホンダF1の第一期参戦は終了する。当時F1は水冷時代を迎えるが、ホンダは市販車へのこだわりから空冷の追及の道を選ぶ。
 1968年のレースは実際、空冷と水冷の両方のエンジンを手がけているが、その結果はあまりふるわなかった。当時のクルーの言葉にもあるが、「勝つ」ためには、その目標を達成するための一点集中が必要であり、市販車にこだわっていては勝てない。市販車の延長にF1という時代ではなくなってきていたのだろう。そして所期の目標であった「四輪車の技術修得」を達成したとしてホンダの第一期F1参戦は幕を閉じた。
 そしてホンダF1は、再びエンジン開発を始める1983年まで17年間休止となった。


§こんな噂話も

 今から12、3年前、スポーツ新聞に黒いF1の試作車がスクープされたのを憶えているだろうか?この頃、ホンダF1は休止中であったが、研究所では研究が継続されていたという内容で、期待をもたせるスクープだった。
 その頃耳にした噂話に、こんなものがあった。
「ホンダはエンジンはもちろんだが、シャーシもボディも全てMADE IN Hondaのマシンにセナを乗せて華々しくF1に復活する計画だった。しかしセナが逝ってしまったため、焦ることなくじっくりと煮詰めて、完璧なフルHondaのマシンで復活するんだよ。だから復活もう少し先だ」
という内容だ。実際、その後の復活の仕方は違っていたし、真偽は今となっては?だ。
 しかし休止中でさえ、こうした噂が流れていたことを考えると、僕たちの中にはオールMADE IN Hondaのマシンというのはいつの時代も特別な存在なのだと思う。

カテゴリー[ モータースポーツ ], コメント[2], トラックバック[0]
登録日:2006年 08月 15日 11:27:56

コメント

こんなところから失礼いたします。

例の件、まだ予定がたたないのですが前向きに検討します。というか私一人で全力でいきたいっ。が、残念ながら休日。
砂利2匹つれて2時間電車移動は相方と一緒でないとさすがにきびすぃので、相方の仕事入り状況待ちです。
今週末のキャンプ(4月には決まっていた)も昨日仕事が入って早帰り決定だし(涙)。

で。

気になるのは。

プロフィールの御尊影はこちらの管理人様であらせられますのかっ?!
気になって夜も眠れな・・・ZZZzzzz。

ちえ @ 2006年 08月 17日 22:53:20

◯ちえさん
そうです。同じヘルメットとジャージを探すと
枝折峠ヒルクライムのスタート前写真の
すごくわかりやすいところにいます。

小林昌幸 @ 2006年 08月 18日 08:04:06

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プロフィール
小林昌幸
小林昌幸
(男)
1968年05月10日
自転車ずきのライター稼業。
就職・進学情報誌のライター、二輪・自動車メーカーのコピーライターを経てフリーランスに。
実は、デジタル機器、ゲームやホビーの仕事も多く、アキバ系もテリトリー。
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