2006年 07月

「ルノー100周年記念レースに負ける」で一句

<F1・第11戦 フランスGP>フェラーリ フロントローを独占 - フランス

【マニクール/フランス 15日 AFP】F1第11戦・フランスGP(France Grand Prix)、公式予選。
≫続きを読む…
(c)AFP/MARTIN BUREAU

AFPBB News


フィアットの 百年目の意趣 ルノー完敗

[解説]
100年前、第1回グランプリを制したルノー&ミシュランの純仏タッグ。5月から続いてきた百周年記念キャンペーンの締めくくりを飾る大事な地元グランプリ。しかし、必勝の願いも空しく宿敵フェラーリ/ブリヂストン/ミハエルの日独伊三国同盟の前にもろくも敗れ去りました。奇しくもそれは100年前に敗れ去ったフィアット(=親)の雪辱を子(=フェラーリ)が果たしたカタチ。文字通り「ここで会ったが百年目ぇ〜」の意趣返し/見事な仇討ち劇となったわけです。フランス国民は「ベルリンの悲劇」の傷も癒えない1週間後、また苦汁を舐め、イタリア国歌を聴かされるハメとなりました。

[雑感]
GRAND-PRIX「グランプリ」─現代の私たちが何気なく耳にし、クチにする言葉ですが直訳は「大賞」。この言葉を冠した自動車レースが初めて開催されたのが100年前の1906年6月26〜27日のフランス・ルマンでの大会でした。日本では、南満州鉄道が設立され、夏目漱石が『坊ちゃん』を発表した年。その頃のレースとは、どのようなものだったのでしょう?現代フランスを代表する国営企業にまでなったルノーの若く猛々しきその黎明期を調べてみました。

◆創設者ルイ・ルノー
裕福な家庭の落ちこぼれだったルイ・ルノーは、小さな小屋の中にこもって当時一般的だったベルトやチェーン駆動ではない、静かで信頼性の高いシャフトドライブ式の車を作りました。その車をレースで走らせ優勝した事が彼のサクセスストーリーの始まりです。レース結果を広告媒体として利用し販路を広げる手法は、事業を確実に拡大させました。しかし、その陰で一緒にレースに出て喜びを分かち合っていた一番仲の良かった兄マルセルをレース事故で失うという悲劇も経験します。ルイはこの事故以降、ドライバーとしてレースに出場しなくなりました。

◆第1回グランプリ
ACF(フランス自動車クラブ)主催による第1回グランプリレースは、ルマンの東にある3つの町を結ぶ公道をつないだ1周約103km(現代のサーキットは1周4〜5km前後)のコースを使って、6周618kmを2日間、つまり全12周/全走行距離1,236km(現代F1のレース距離は300km前後)を戦うという決勝レースの内容でした。

◆真っ赤なルノー
ワークス・ルノーがレースに持ち込んだ車は、3台でした。車両重量1トン弱(現代F1は約500kg)、エンジンは排気量12,900cc(現代F1は2,400cc)。ドライバーは、フランス・シス、ピエール・リシェズ、エドモンの3人。この頃のルノーの車体は、まだフランスのナショナルカラー黄色ではなく、赤でした。

◆ミシュランの秘密兵器
予選までは自転車のようなワイヤ・スポークタイヤを使用していたルノーは、決勝に向けてミシュランが持ち込んだ最新のリム脱着式タイヤに切り替えます。当時のタイヤ交換は、よく切れるナイフで破れたタイヤを切り取り、硬ゴムタイヤとチューブをリムに組み付けて、ホイールにボトで固定するという工程が必要でした。その面倒な作業をホイール固定用の8本のボルトを外すだけでリムごとタイヤが交換できたのです。数時間かかっていたタイヤ交換がたった数分から10数分で完了できるという優れものでした。

◆過酷なレース
当時の道路は、埃っぽい砂利の転がる未舗装路。または砂利道にタールを撒いて固めただけの舗装路でした。夏の暑さと猛スピードで駆け抜けるタイヤによって、ドロドロに溶けたタールは泥よけのない車輪に跳ね上げられ、ドライバーの皮膚にひどいヤケドを負わせました。また先の尖った砂利石は弾丸のようにドライバーの顔面を襲いました。ルノードライバーのエドモンは、ゴーグルに石が当たり、砕けたガラスで目を負傷しました。痛み止めのコカイン注射を打ちフラフラになりながら5周目も走りましたが、あと1周を残して痛みに耐えきれず惜しくもリタイヤとなってしまいました。

◆現代F1と現代ラリーに似た風景
2位に26分差をつけ1位で1日目を終えたルノーの車両は、現代F1の予選後のように整備のに触れられぬままパルクフェルメで保管され夜を過ごします。2日目の決勝は、まるで現代のラリー選手権のように前日の順位順にタイム差を測りながら1台ずつスタートしました。

◆薄氷を踏むような大勝利
1位のルノーは、スタートしてすぐタイヤ交換に入り、燃料、オイル、水を補給し、万全の態勢を整えて再スタートを切ります。それでも2位とは14分半も差がありました。楽勝ペースで始まったレースでした。しかし、4位を走っていたリシェズが3周目でリタイヤ。1位のシスも4周目にリアのスプリングを痛めてしまいます。ピットで点検した後は安全走行に切り替えて見事に逃げ切り、追い上げてきたフィアットに32分という圧倒的な差をつけて優勝します。平均時速は101.34km/h、最高時速は160.93km/hでした。
(参考文献:ダグ・ナイ著「歴史に残るレーシングカー」グランプリ出版より)

◆ワークス・ルノーの終焉、復活そして挫折
1908年のレースを最後にワークス・ルノーのレース活動は長い休眠期間に入ります。それから69年後の1977年。ルノーは、ターボ・エンジンという最先端技術への挑戦もかねてサーキットへ戻ってきます。足には、ターボパワーを路面に確実に伝えるミシュラン製ラジアルタイヤを履いて…。この第2期ルノーは、ワークスとして1985年まで、ロータス、リジェなど他チームへのエンジンサプライヤーとして1986年まで活動しましたが、超絶パワーを誇るホンダターボにあっさりお株を奪われるカタチとなり、念願のチャンピオンマシンとなる夢も叶わないままグランプリから撤退します。

◆臥薪嘗胆
打倒ホンダに燃えたルノーが、雌伏の時を経てグランプリに戻ってきたのは3年後の1989年。同じくホンダへの復讐心に燃えるウィリアムズへのエンジンサプライヤーとしての復帰でした。時はまさにマクラーレン・ホンダ全盛期、フェラーリV12とのパワー競争の影に隠れながら、密かに開発が進められてきた軽量・低重心・高信頼性のルノーV10エンジンがついに真価を発揮する時が来ます。

◆ルノー全盛期
1991年、ウィリアムズの技術開発チームによって熟成された魔法の足「リアクティブ・サスペンション」と天才アドリアン・ニューウィーがデザインした空力パッケージを得たFW14シリーズがサーキットを蹂躙。ナイジェル・マンセルの激しい闘争心にも、リカルド・パトレーゼの静かなる安定走行にも的確に応え、「アナザープラネット」と呼ばれるほどの無敵ぶりを他のチームに見せつけます。そして、翌1992年ルノーは悲願だったチャンピオンマシンとしての栄冠を手にします。

◆ルノーの「明日はどっちだ!」
2005年、7度目の栄冠を奪取したルノーは、今年も開幕スタートから圧倒的な勝ち星を重ねてきました。しかし、ここ2戦。フェラーリ、ブリヂストンとミハエルの不気味な復調を感じさせるレースが続いています。果たして残り7戦、アロンソ&フィジケラのコンビがミハエル&マッサの連携を突き崩す事ができるのか?この調子でいけば雌雄を決する戦いは、フェラーリの地元モンツァまで続きそうな予感。マニ・クールの雪辱をルノーは果たせるのか否か。さあ、どっち!?次はミハエルの地元ホッケンハイム・リンク!!

カテゴリー[ F1・昔ばなし ], コメント[0], トラックバック[1]
登録日:2006年 07月 27日 03:17:05

「モントーヤ シーズン半ばで離脱」で一句

<F1・第10戦 アメリカGP>ウェーバー フリー走行3回目で12番手 - 米国

【インディアナポリス/米国 1日 AFP】F1第10戦・アメリカGP(United States Grand Prix)・フリー走行3回目。ウィリアムズ(Williams)のマーク・ウェーバー(Mark Webber)は、15周を走行し12番手となる1分12秒904を記録した。(c)AFP/Getty Images Clive Rose

AFPBB News


ファン-パブロ 期待新たな 道NASCAR

[解説]
シーズン半ばにF1サーカスからの離脱を決意したファン-パブロ・モントーヤ。開幕前からアロンソのマクラーレン移籍が決定。「チーム放出は時間の問題」と囁かれながらここまで頑張って来たモントーヤ。しかし、ついに噂が現実となってしまいました。
彼が選んだ新天地は、トム・クルーズ主演映画「デイズ・オブ・サンダー」で知られるNASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)。ストックカー(市販在庫車)を模したシャシーに800馬力超のエンジンを載せたモンスターマシンがオーバルコースを最高時速300km以上で駆け抜ける迫力満点のレース。北米を中心に全36戦、観客動員数は500万超というアメリカでイチバン人気の高いレース。目立ちたがりでハード&シンプルなス好きなモントーヤにピッタリ!ではないでしょうか?

[雑感]
某テレビ局にいきなり「コロンビアの暴れん坊」と名付けられたモントーヤ。
しかし、最近F1を見始めた人には今ひとつピンとこない「アダ名」だったのではないでしょうか?
特にマクラーレンへと移籍した昨年、ルノー/アロンソの活躍や同僚ライコネンの華々しいポールトゥーウィン3回を含む年間7勝、112ポイント、ランキング2位に比べると、年間3勝、60ポイント、ランキング4位の成績はひいき目に見ても見劣りします。かつて「暴れん坊」と呼ばれた頃の輝きを忘れてしまいそうです。そこでモントーヤとは、どんなレーサーだったのか?彼のデビュー当時をプレイバックしてみます。

◆F3000チャンピオン
1998年にウィリアムズのテストドライバーとして契約を結んだモントーヤは、同じ年の国際F3000チャンピオンに輝きます。なんとフランスの大会では全車周回遅れという逸話も手伝ってレース関係者から一躍注目を集めます。

◆回り道
モントーヤをすぐF1へステップアップさせる道もありましたが、ウィリアムズは時期尚早と判断、懇意にしているアメリカレーシング界の重鎮チップ・ガナッシの手に彼を委ねます。モントーヤは、武者修行の場としてCARTの世界へ単身乗り込み、なんと年間7勝を上げ、ダリオ・フランキッティを押しのけ、たった24歳でCARTチャンピオンに初参戦初制覇の偉業を成し遂げてしまいます。

◆待ちぼうけ
1999年のウィリアムズは、アメリカから招聘したCARTチャンプのアレックス・ザナルディが予想外の不振ぶり。複数年契約を破棄してでも代役を立てなければなりませんでした。BMWのモータスポーツディレクター、ゲルハルト・ベルガーはモントーヤを推薦しますが、ウィリアムズはもう一人の期待の新人、弱冠20歳のジェンソン・バトン(英国F3/3位)へ白羽の矢を立てます。

◆2000年のモントーヤ
もう一年、アメリカでCART生活を強いられる事になったモントーヤは、この機会に世界3大レースのひとつ「インディー500マイルレース」に飛び入り参加します。モントーヤは、ここでも「ちょろいね」と大口を叩き、他のIRLレーサーたちから反感を買います。そんな四面楚歌の中でもあっさりと優勝してしまいます。

◆映画「ドリブン」
もともとF1を舞台にするはずだったシルベスタ・スタローン主演映画。一説によるとスタローンがアラン・プロスト役、アントニオ・バンデラスがアイルトン・セナ役という、まるでケンシロウvsラオウみたいなマッチョF1映画が完成するはずでした。ところが諸々な困難な壁(噂によるとセナのお姉ちゃんがバンデラスの相手役にしろとゴネたとか…あくまも噂ですが)にブチ当たって、スタローンは泣く泣く断念、替わりにCARTの世界を舞台として映画は撮影されました。この作品の中で一瞬、当時のモントーヤが映っています。

◆天孫降臨
ついに2001年。ウィリアムズは、ついにモントーヤをF1世界へ召還します。F3000チャンピオン、CARTチャンピオン、インディ500覇者。これ以上ないほどの勲章をぶら下げ鳴り物入りでのデビュー。それはもう同じ年にデビューしたライコネン(ライコネンは、その経験の少なさからFIA代表のマックス・モズレーからスーパーライセンス発給のダメ出しを検討される有様でした)やアロンソとは比べものにならない期待度の高さでした。

◆あれれ?
ところが開幕戦のオーストラリアのフタを開けたらビックリ。予選では、同僚R.シューマッハに約1秒遅れの11位。決勝は、入賞圏内まで上がってきたもののピットイン直前の40周にエンジンブロウでリタイアという惨憺たる結果でした。因みにザウバーのライコネンはモントーヤの0.255秒遅れの13位から6位入賞。ミナルディのアロンソは約2秒遅れの19位から12位完走と堅実に結果を残しています。

◆不調の原因
周りの期待に反して、とんでもなく平凡な予選結果。リタイヤ続きのリザルト。当時のインタビューでモントーヤは、マシンのグリップ感の奇妙さを強調しています。CARTで使う車は、ベンチュリー効果バツグン&真っ平らなスリックタイヤで路面に張り付くように走りますが、F1は、速度削減の一環として導入されたグルーブドタイヤ(溝付きタイヤ)やステップボトムなどの影響でメカニカルグリップもタイヤ自体のグリップもCARTに比べて不安定なものでした。デビュー当初の不振は、2年ものCART生活に慣れすぎたせいだったのかもしれません。

◆速さの片鱗と不運の予兆
そんなモントーヤが実力の片鱗を見せたのは第3戦ブラジルGPでした。4位スタートからエンジンストールしたハッキネンとスタートを失敗した同僚R.シューマッハをかわして2位にアップ。セーフティーカー明けの再スタート、1コーナーでM.シューマッハを強引に抑え、首位を奪取。その後も地力に勝るフェラーリを中盤まで押さえきり、初優勝への期待が高まった39周目、周回遅れのフェルスタッペンに思いがけない場所でいきなり追突、伝説となるチャンスを失ってしまいました。それからモントーヤがモンツァでやっと栄冠を手に入れるまでの12戦。モントーヤの豪快な走りと不運なリタイヤの繰り返しを目撃する事になります。

◆塩っぱい初優勝
やっと手にした初優勝。それはあの「9.11テロ」が起きた週末でした。ミハエルが最初の1〜2シケイン区間を追い越し禁止にしようと言い出し、「俺たちはここにレースしに来てるんじゃないのか」と主張するヴィルヌーブと激しい口論となり、結局、結論の出ないままスタート。そんなミハエルを真っ先に抜きにかかったのは弟のラルフでした。それがショックだったのかレース中、ミハエルのテンションは最初から最後まで低いままでした。歯ごたえのないミハエル相手の勝利。せっかくのモントーヤ初勝利の味はなんとも塩っぱいものでした。

◆暴れん坊襲名
やがて、モントーヤもF1の水になじみ始めるにつれ、CART時代の仇名「ミスターオーバーテイク」に恥じない走りをF1でも見せ始めます。彼が「行く」と決めた時は、その相手がたとえ皇帝ミハエル・シューマッハであろうと躊躇はありませんでした。そんな強引さが、多くのドライバーから「粗野」「下品」「ダーティー」と反感を買います。しかし、モントーヤは微塵も気にすることなくゴーマンな態度を貫きます。それが時に、或る人々の眉間にシワを寄せさせ、或る人々からは快哉を受けました。そうして「暴れん坊」というアダ名も定着していきました。

◆オール・オア・ナッシング
彼が6年間のキャリアで走った95レース中、優勝回数は7勝。リタイヤしたのは29回。残りの完走したレースで無得点だったのはたったの5レースです。つまり、それ以外では、必ず表彰台に立つか、入賞圏内でフィニッシュしたという事です。

◆たられば
モントーヤのキャリアで特に目を引くのは、デビュー年の11回リタイヤ。これ上回るのは「クラッシャ」アンドレア・デ・チェザリの90年「12回」86年、87年2年連続「14回」リタイヤだけという実に不名誉な快挙(?)です。しかし、リタイヤ原因はメカニカルトラブルや不運なもらい事故が多く、トップ快走中に失ったレースも少なくありません。もし、彼がウィリアムズからデビューせず、履くタイヤがミシュランでなく、エンジンがBMWではなく、同僚が嫉妬深いR.シューマッハでなかったなら…この内ひとつでも条件が違ったなら、もう少し違った結果が残せたのかもしれません。

◆新天地で
ムラ気が強く、速い時には滅法速いが、気が乗らない時には全然ダメなモントーヤ。彼の走りが見られなくなるのは寂しい事です。NASCARの映像は、日本ではほとんど見る機会がありませんが、それでも常に元気にオーバーテイクし続ける「暴れん坊」レーサーであり続けてほしいと願っています。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[2]
登録日:2006年 07月 18日 17:59:37

「USAGPはブリヂストン勝利」で一句

<F1・第10戦 アメリカGP>M・シューマッハ ポール・トゥ・ウィンで今季3勝目 - 米国

【インディアナポリス/米国 2日 AFP】F1第10戦・アメリカGP(United States Grand Prix)・決勝。1時間34分35秒199でポール・トゥ・ウィンを飾り今季3勝目・通算87勝目を挙げたフェラーリ(Ferrari)のミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher、右)は、2位に入ったチームメイトのフェリペ・マッサ(Felipe Massa)とシャンパンファイトでチームの1・2フィニッシュを祝福する。(c)AFP/Getty Images Mark Thompson

AFPBB News


100勝の ミシュラン遠し ブリックヤード

[解説]
USAグランプリが開催された「インディアナポリス・モータースピードウェイ」は、20世紀初頭、コース上をレンガで敷き詰められていたため別名「ブリックヤード(レンガ工場)」と呼ばれていました。現在もその古き良き時代の名残りがスタート&フィニッシュラインに残されています。今年、絶好調のルノーチームの足として、ブリヂストンよりもひと足先に「100勝」をカナダGPで記録したミシュラン。ところが相性のせいか、ここインディでは、ついに1勝も上げることができず終い。次にミシュランがF1に復帰して、ブリックヤードをトップで駆け抜ける日はいつやってくるのでしょうか?

[雑感]
去年、レース史上最悪な汚点をここインディで残したミシュラン。出来の悪い冗談のような「パレードラップ後即撤収」騒ぎに巻き込まれた被災者への責任をどうとるのか?
予選の好結果をみすみす棒に振ったユーザーへの損失補填。暴動寸前まで高まった観客の不満解消。ありとあらゆる関係各位への汚名返上。失地回復&名誉挽回。
A級戦犯ミシュランへ贖罪のため課せられた最優先ミッション。それは「絶対勝利」しかありえなかったはず。嗚呼それなのに〜、それなのに。
結果はフェラーリ&シューマッハの圧勝。絶好調アロンソがまさかまさかの5位。
何でそーなったのか?ちょっと検証してみました。

◆去年のインディ騒動って何?という人へ
去年の「インディの悪夢」。簡単に言えばミシュランユーザー7チームのレースボイコットです。その直接の引き金となったのは、金曜日午後のフリー走行で、突然起きたアクシデントでした。最終コーナーから全開で立ち上がってきたトヨタのR.シューマッハがタイヤバーストによりスピン、激しく壁に激突しました。事故直後のミシュランによる内部調査により使用タイヤに構造欠陥がある事が判明、急遽フランス本国から別仕様のタイヤを空輸し使用させてほしいとユーザーチームとともにFIAへ要請しますが、却下されます。では、替わりにコースに特設シケインを設けてスピードを低減するという案を提言しますが、これも却下。FIAの頑として譲らない態度に業を煮やしたミシュランとユーザーチームは、レースのボイコットを決断。ブリヂストンユーザー3チーム6台のみが出走するという前代未聞の事態になってしまいました。

◆ミシュランがダメダメな理由:その1
しかし、R.シューマッハの事故以前、午前のフリー走行中からトヨタのサード・ドライバー、リカルド・ゾンタのミシュランタイヤにはすでに不調の兆候が現れていました。報告を受けたミシュランは、設定値より高い空気圧で走る事を提案します。案の定、トヨタのゾンタは午後のフリー走行たった数周でタイヤバーストを起こしてスピンしてしまいます。

◆ミシュランがダメダメな理由:その2
タイヤ構造の欠陥とインディ特有のバンク斜面につけられた雨はけ用溝がタイヤを傷つけたせいと事故原因は結論づけられました。果たしてそれが本当の原因だったのでしょうか?
ミシュランはUSAグランプリで使用するタイヤのテストをポールリカール・サーキットで行いました。その時、すでにタイヤの不調が確認されていました。マクラーレンのブルツとトヨタのゾンタがタイヤ破損によるクラッシュ事故を起こしたのです。その原因をミシュランは、チーム側のタイヤ取扱い不備のせいとして、それ以上、原因究明しようとしませんでした。

◆ミシュランがダメダメな理由:その3
この前年、つまり2004年のUSAグランプリといえば、佐藤琢磨の3位表彰台がまず思い浮かびます。しかし、このレース序盤にホームストレート上で大クラッシュが起きた事覚えていますでしょうか?車はウィリアムズFW-26、ドライバーはR.シューマッハ、そして、タイヤはミシュランでした。1年後とまったく同じように最終コーナーの立ち上がりでのタイヤバーストでした。その1周前にはアロンソも1コーナー手前でタイヤ破損によってコースアウト、リタイヤしています。彼の履いていたタイヤもミシュラン。両方とも原因はコース上のゴミを拾ったためとされました。

◆今年もダメじゃんミシュラン
金曜日のフリー走行中、ホンダとレッドブルのサードドライバーが履いていたハードコンパウンドのタイヤの表面が剥がれちゃいました。「あと数周走ればバースト」というシリアスな状態。またルノーのフィジケラのタイヤには、またもや構造欠陥が判明。ミシュランはハードコンパウンドを使用禁止にします。これによってミシュランユーザーは全員、タイヤ選択の幅が狭まるというハンディを背負ってしまいました。

◆アロンソ絶不調
ミシュランタイヤの不調があったとはいえ、同僚フィジケラは3位表彰台。なのにアロンソは5位。それは何故でしょう?
まず、一番大きな理由はエンジンでした。フィジケラのエンジンは、1レース目。アロンソのエンジンはカナダで酷使された後の2レース目。アロンソは、オーバーヒート気味なエンジンをフィニッシュまで保たせるために、エンジン回転数を抑えた走りが必須条件でした。トップスピードも上げられず、コーナーでムリが効かず、しかもオーバーステアの症状を抱えた車。如何にアロンソといえどもハンデが多過ぎました。

◆久々のフェラーリ・イリュージョン
なんだか久しぶりに見た気がします。「気がつけばミハエル」のトップ入れ替わりマジック。トップを快走していたマッサがミハエルを上回るタイムでピットアウト…したはずなのに、アレレ、ミハエルがまんまと首位ゲット。これは一体どうなっているのでしょうか?
 ・1回目ピットイン前のミハエルとマッサのタイム差/0.117秒。
 ・29周目に入ったミハエルの停止時間/8.2秒。
 ・30周目に入ったマッサの停止時間/7.5秒。
ピットストップでの差は0.7秒マッサが速い。そのままマッサが1位でコース復帰かと思えば、なんと3.322秒差でミハエルが前に立っているという摩訶不思議。

◆驚異のミラクル・アウトラップ
その秘密は、アウトラップの差にありました。
ミハエルのアウトラップは1分16秒120。マッサのアウトラップは1分19秒352。
これを見て「マッサ遅え〜!」と言うのは間違いです。アロンソをはじめ他のドライバーたちのアウトラップを見てもみんな1分19秒前後。これが常識的なタイムであって、ミハエルが異常なのです。彼だけが別の時空間を走ってきたとしか思えません。ガソリン満タンの重い車を一体、どうやって走らせれば、コース上で3秒なんて差をつけられるのでしょうか?そんな芸当、そうそう真似できるものではありません。

◆ブリヂストンのホームコース?
このインディアナポリス・モータースピードウェイは、F1だけでなく「インディ500マイルレース」でも有名なアメリカの国産レース、インディーカーレースが開かれる事でも有名です。そこでタイヤサプライヤーとしての実績を誇るのがファイアストン。同じストンで分かる通りブリヂストンの子会社です。当然、コース特性や気象状況、路面温度の変化によるラバーの乗り具合などミシュランには及びも寄らない情報の蓄積があります。このアドバンテージは、大きいはずです。

◆あらかじめ用意された結末
こうして見ていくと今回のレース結果には、なんらサプライズもなく、ただ当然の結果として、落ち着くべきところに落ち着いたレースだったと思えます。しかし、次はフランスGP。ミシュラン、ルノーの地元です。絶対にアロンソが負けられないレース、そして、契約延長が決まったとはいえフィジケラにとっても正念場。ルノーの1-2フィニッシュ以外の結末は受け入れられないと考えて間違いないでしょう。そこに思いも寄らないサプライズをもたらすのは、ミハエルか?あるいはライコネンか?

カテゴリー[ F1・全般 ], コメント[0], トラックバック[2]
登録日:2006年 07月 14日 04:02:50

ジャック、カナダじゃいつもカラ回りで一句

<F1・第9戦 カナダGP>M.シューマッハ 見事な追い上げをみせ2位入賞 - カナダ

【モントリオール/カナダ 25日 AFP】F1第9戦・カナダGP(Canada Grand Prix)・決勝。5番手からスタートしたフェラーリ(Ferrari)のミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)は見事な追い上げを見せ、1時間34分39秒419のタイムをマークし2位入賞を果たした。(c)AFP/Getty Images Clive Rose

AFPBB News


ヴィルヌーブ 越えられぬ背中 見えない壁

[解説]
たったデビュー2年目にワールド・チャンピオン獲得。そんな過去の栄光もすっかり色褪せた感のあるジャック・ヴィルヌーブ。そんな彼が生涯の伴侶を得て、久々にいい感じの走りを見せたカナダGP。しかし、彼の父・偉大なるジル・ヴィルヌーブの名を冠したサーキットで、何故か結果が出せていません。今回も残念無念。タイヤかすのせいで壁に接触、リタイヤしてしまいました。

[雑感]
◆GPDA「キッパリ」脱退の理由
「曲がった事は大嫌い」正義漢ジャック・ヴィルヌーブの面目躍如。ジャックを筆頭に数名のドライバーから求められていたモナコGP「ラスカス事件」での真相についてM.シューマッハ自身の口による説明、および彼のGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)理事辞任要求がイギリスGPのドライバーズミーティングで“門前払い”され、M.シューマッハの理事続投が決定されました。この一連の流れを受けて、ジャックはGPDAを脱退しました。

◆GPDA「イヤイヤ」入会の理由
そもそもジャックがGPDAに入会したのは、デビュー5年後の2000年。しかも“HANS”導入問題に抗議するため仕方なくという後ろ向きな理由。ですから、今回の脱会にためらいはなく逆に、日頃から良く思っていないM.シューマッハに対する面当てという面では「喜んで」脱会したのではないでしょうか。

◆モノ言う古株ドライバー
今回に限らず、ジャックは今まで何度となく、歯に衣着せぬ言葉でFIAの決定やドライバー仲間たちの行動を厳しく糾弾してきました。そんなジャックに対して「青臭い」「一匹狼きどり」と揶揄する向きもあります。また一方で、洗練され過ぎた現代グランプリに彼のような規格外キャラが必要だとする意見も少なくありません。個人的には、今回のジャックらしい、後先考えない行動の復活が、彼のスランプ脱出の兆しである事を希望しています。

◆偉大なる父の呪縛?
それだけに今回のリタイヤは、ガッカリです。ラスト10周。マシンにも勢いがあり、そのまま走っていれば8位入賞は確実でした。ジャックがカナダGPで入賞圏フィニッシュできたのは、デビューした1996年のみ。それ以降は、運に見放されたかのようにリタイヤ続きです。運良く完走できた去年も予選グリッドを下回る9位。父ヴィルヌーブが我が子を鍛えるためにわざと不運を呼び寄せているのでは?と思わずにはいられません。デビュー翌年から続くジャックのカナダGPでの不運の歴史を振り返ってみました。

◆1997年 ウィリアムズ・ルノー FW19
決勝までは大フィーバー!結果は同僚ヒルに届かず仕舞いの2位。そんな肩すかしだったデビューイヤーから1年。今年こそワールドチャンプ最有力候補!ポールトゥーウィン3回を引っさげ凱旋したジャックに地元観衆は、ごく当然のように期待に胸膨らませます。予選2位から名誉挽回に燃えるジャック!しかし、たった2周目の最終シケイン。ブレーキングをミスって壁にヒット、あまりにも無様なリタイヤで前年以上の深い失望をカナダ国民に与えてしまいます。

◆1998年 ウィリアムズ・メカクローム FW20
常勝エンジン・ルノーV10を失った赤いウィリアムズを駆るジャック。それでもなんとか表彰台を期待できそうな3列目6位からのスタート。1周目の多重クラッシュ赤旗、再スタート直後の多重クラッシュでまたもセーフティーカー導入という荒れた展開。その後も芝生をまき散らす車あり、壁にめり込む車ありなどで2度もセーフティーカーが入り、気がつけばジャックはフィジケラに次ぐ2位を走っていました。
そして、セーフティーカーが消えた23周目。満を持したジャックは、まるでインディーカーのようにフィジケラのテールに張り付き、ホームストレートを猛然と加速、1コーナー手前でアウトから仕掛けます。
しかし、それは誰の目にも明らかなオーバースピード。激しいタイヤスモークと砂利を蹴立てて、グラベルとコースを横切ったFW20はコース反対側のタイヤバリアをかすめます。幸い大きなダメージもなくコースに復帰したと思った瞬間、後続車がリアウィングに接触。リアウィングを根本から失ったジャックは、ピットに戻り、ハンドルをはずします。当然リタイヤと思われた、その7分半後、ジャックは突然コースに復帰します。6位争いを演じる中野信治やヤン・マグヌッセンをオーバーテイクするも6周遅れの10位完走。その姿はあまりにも痛々し過ぎるものでした。同ように他車との接触から周回遅れとなりつつモンテカルロを完走し、10位フィニッシュで賞賛を受けたM.シューマッハと比べるまでもなく…。

◆1999年 BAR・スーパーテック BAR01
新チームBARに移籍したジャック。全戦リタイヤという目も当てられない有様でカナダGPを迎えます。予選は16位からスタート。前年を再現するかのようにスタート直後1コーナーで多重クラッシュ発生。ここで導入されたセーフティーカーがファンファーレであったかのように「最終シケイン・クラッシュショー」の幕開けとなります。3周目にリカルド・ゾンタ。15周目にはデイモン・ヒル。31周目にM.シューマッハが壁の餌食となります。そして、運命の35周目。壁に突き刺さるような角度でBAR01がクラッシュ。ついにジャックまでショーの餌食となり、足を痛めながらのリタイヤで幕を引きました。

◆2000年 BAR・ホンダ BAR002
念願のホンダエンジンを手に入れ、前戦モナコでは入賞まであと一歩だったジャック。その好調さを証明するかのように、カナダでも予選6位。絶好のスタートダッシュを決めて3位にポジションアップ。ここから延々24周、ヴィルヌーブを先頭にバリチェロ、ハッキネン、デ・ラ・ロサの4台が列車のように周回を重ねます。2位クルサードへのペナルティーでジャックの順位は2位に繰り上がり。しかし、その頃には前を行くM.シューマッハは遙か彼方、後からは焦れた速いフェラーリとマクラーレンがコーナ毎に襲ってきます。いかにジャックの腕をもってしても限界がありました。
そして、ついに25周目にヘアピンでバリチェロ、34周目に1コーナーでハッキネンにパスされてしまいます。しかも、本格的に降り出した雨には絶好のタイミングだったはずのピットインであろう事かドライタイヤを装着。1周して再度、レインタイヤに履き替える間にポジションは10位にまで転落。
激しい雨の中、残り4周となり集団最後尾に落ちたジャックは、ヘアピン手前、前を行くクルサードのインを刺そうとレイトブレーキングで仕掛けます。が、止まりきれずクルサードの前を行くR.シューッハを道連れにコースオフ。そのままリタイヤとなってしまいます。“幸い”にも規定周回数をクリアしていたため記録上は10位完走扱いとなりました。しかし、レース後の審議によりジャックの行為が危険と見なされ25秒のタイムが加算されました。が、彼の後ろに誰もいなかったため“幸い”にも順位は変わらずでした。

◆2001年 BAR・ホンダ BAR003
開幕戦オーストラリアGPで、ジャックはまたもR.シューマッハのタイヤに後ろから乗り上げ激しいクラッシュを経験します。しかし、事故のショック以上に彼の車の破片によってコースマーシャルが死亡したという現実にジャックは、深刻な精神的ダメージを受けます。
その後のレースで3位表彰台のスペイン、4位のモナコと成績上は回復したかのように思われました。しかし、カナダGPの予選中にモントーヤと接触、ドライバーズミーティングで彼との言い争いがつかみ合いのケンカにまで発展しました。後で事の顛末を聞いたフランク・ウィリアムズが思わず眉をしかめたと噂されるモントーヤの暴言が引き金と言われますが、それが開幕戦ショックからまだ立ち直れていないジャックの弱みを不用意に逆撫でしたであろう事は想像に難くありません。
決勝順位は9位。しかし、ラウンチ・コントロールがうまく作動せず、スタート失敗。18位までジションダウンしてしまいますが、徐々に順位を上げ予選順位まで挽回します。そんな35周目、ホームストレート上でいきなりスローダウン。ドライブシャフト破損でリタイヤとなります。

◆2002年 BAR・ホンダ BAR004
全チームで唯一ポイントが獲れないBAR。不振脱出のためホイールベース延長に加え、ギヤボックス、リアサスペンション、空力パーツに至るまで改良を施したシャシーを投入します。しかし、期待のホンダ新エンジンの投入が見送られ、オーストリアGPで使用したエンジンの使い回す事になります。それでも02年シリーズ初のシングルグリッドに滑り込み、悲願のポイントゲットが期待されました。ところがレース序盤の9周目、第3コーナーで無念のスローダウン&ストップ。リタイヤの原因は使い回されたエンジンによるトラブルでした。

◆2003年 BAR・ホンダ BAR005
14位スタートから一気に9位までポジションアップ。ところが14周目にはピットイン。原因はブレーキペダルのストロークがどんどん深くなるという症状でした。ジャックは、コクピット内でジッと修復を待ちましたが、結局直らずリタイヤとなりました。

◆2003年 最終戦日本GP欠場の理由
この頃のBARは、混乱がピークに達しかけていました。予選方式の激変、スポンサーのBATとアジア地域でのテレビ放映権をめぐる訴訟裁判問題、そして、ヴィルヌーブの移籍問題など。様々な問題が山積したBARの現場は混乱し、レース戦略においても度々大きな誤算やつまらないミスを続けました。ホンダエンジンの信頼性不足もまた不振の大きな一因でした。けれども、それら全てを棚に上げられた状態でジャックの高額な契約金とそれに見合わないリザルトが秤にかけられ、BARは、来季の戦力からジャックの名前をはずす事を決定します。自分の代わりに新人の日本人ドライバーが選ばれた事を知ったジャックは、日本GPへの出走を土壇場でキャンセルします。それはギリギリまで熟考した結果とも、ホンダへの嫌がらせとも、ジャックの気まぐれとも噂されました。ただ確かに言える事は、彼が2004年もホンダで戦う事を望んでいたという事です。

◆2004年以降のジャック
ほぼ一年間、グランプリ最前線から離れていたジャックは、いきなりルノーからオファーを受け2004年の中国、日本、ブラジルのラスト3戦に出場します。
これには
 ○2004年フランスGPで大失態を演じたルノー/トゥルーリの年内放出
 ○ザウバー/フィジケラの2005年ルノー移籍決定
 ○2005年ザウバーとの契約が内定していたジャック
 ○2004年中にフィジケラをルノーへレンタルする事をザウバーが拒否
 ○フラビオ・ブリアトーレとジャックとの口約束
これら諸要素の連鎖反応で電撃的に実現した復活劇でした。この時、交わされたザウバーとの2年契約によってジャックは、今年もサーキットを走っているのです。

◆確実な不安要素
ただし、ジャックとザウバーとの契約に関しては、当時メインスポンサーであったレッドブルに相談なく進められるなど当初から問題が多くありました。レッドブルと袂を分かった現チーム内にも、なぜ契約金の高いジャックより若くて有望な新人ドライバーを乗せないのか?という意見が主流を占めています。このまま行くとジャックのF1キャリアも今年限りかもしれません。

◆わずかな安心材料
ただ、ジャックには意外なファンがいます。誰あろうF1界の最高権力者バーニー・エクレストンです。彼はグランプリにスペクタクルをもたらす貴重な人材としてジャックを認めています。それも視聴率が望めるジャックの人気目当てという意地の悪い見方もあります。しかし、バーニーがかつてロータスの反逆児ヨッヘン・リントのマネージャーを務め、不良っぽいイメージとレギュレーションの裏をかく戦略でグランプリをかき回したブラバムチームを運営し、永遠の不良息子ネルソン・ピケを育てた過去を考えると、ジャックがお気に入りというのは、意外と本音に近いのかもしれません。

◆もっと頑張れジャック
何はともあれ、もうすでに折り返し点を過ぎた2006年グランプリカレンダー。ジャックの現在の獲得ポイントは7。ライコネンやフィジケラはムリだとしても、バトンとバリチェロのBARコンビあたりと張り合う姿をもっとアピールしない限り、来季シート獲得の可能性は限りなくゼロに近づくでしょう。まだまだ彼には、サーキットの内外ところ構わずもっと頑張ってほしいものです。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[1]
登録日:2006年 07月 05日 02:10:35

カレンダー
< 2006年 07月 >






1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31




プロフィール
斎藤モ吉
(男)
福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
最近のトラックバック
お気に入りリンク
検索