2006年 08月

「フェリペ・マッサ初優勝」で一句

<F1・第14戦 トルコGP>決勝 - トルコ

【イスタンブール/トルコ 27日 AFP】F1第14戦・トルコGP(Turkish Grand Prix)、決勝。ポールポジションからスタートしたフェラーリ(Ferrari)のフェリペ・マッサ(Felipe Massa)は、合計タイム1時間28分51秒082をマークし、F1デビュー5年目、F1参戦67戦目での初優勝をポール・トゥ・ウィンで飾った。(c)AFP/MUSTAFA OZER

AFPBB News


トッドのつまり マッサに勝利 息子にハク?

[解説]
慢心、あるいは過信から生まれた醜態。これがウィリアムズ(←失礼?)なら、凡ミスと笑って済まされたでしょう。しかし、今回のフェラーリによる2車同時ピットインは「自分たちならやれる」という確信的な行動でした。結局、あのタイムロスが響いて、せっかく削ってきたアロンソとのポイント差を逆に広げてしまいました。ミハエルの逆転チャンプか。マッサの初優勝か。どちらが重要?なんて論じるまでもないはず。この切迫した状況下での2ポイントの重み。何故、安全策を取らなかったのでしょうか?首をひねりたくなります。あまりひねりすぎて、トッド監督もとどのつまり「息子が可愛い」だけの親バカさん?なんて邪推もチラホラ…そう思うちょっとだけ親近感も湧くのですが…。

[雑感]
過去、アーバインやバリチェロには決して認められなかった「ミハエルを差し置いて優勝」が、フェリペ・マッサにはあっさりと許されました。ジャン・トッド監督は、自分たちがかつて「チームオーダーによって酷く叩かれたトラウマ」を理由に今回の結果を仕方のない事態と釈明していますが、フェラーリって、そんな殊勝なチームだったでしょうか?
今回、あの場面でミハエルを先にピットインさせたとして「マッサの関係者以外」誰が文句を言うのでしょう?ミハエルのファンからすれば「何よ?マッサって!ムカつく〜何様のつもり!」と怒髪天だった事かと思います。そんな腹のムシがおさまらない皆様へ、今回の不届きな(?)優勝者フェリペ・マッサに関するアレコレをざっくりご紹介しましょう。
(※注 今回の内容は、ほとんど「独断と偏見の塊」。フィクションと呼ぶべきものです。話半分どころか話1.5%ぐらいのノリでお読み下さい)

僕は第2のセナ」なんかじゃない
将来有望そうな若手ドライバーに必ず被せられるキャッチコピー。これまで一体、何人の「第2のセナ」が現れ、消えていった事でしょう。
ブラジル国内のカート選手権を勝ち抜き、1999年にフォーミュラ・シボレーの国内1位となり、2000年に渡欧。フォーミュラ・ルノーのイタリアシリーズとヨーロッパシリーズで1位。2001年にユーロF3000シリーズチャンピオンとなった頃には、マッサもやはり「第2のセナ」と呼ばれていました。
しかし、1981年生まれの彼にとってのヒーローは、「なんたってミハエル」だったのですが…。

◆F1の風
彼は、地元ブラジルGPがある週末に、当時のチームオーナーが経営するレストランのケータリングサービスを手伝い、お弁当をベネトンチームへ届けたり(1997年)、メディカルカーの運転手をしたり(2001年)しました。そうした中から少しずつF1の風を感じていました。

◆最初のステップ
ヨーロッパへ活動拠点を移した頃、マッサ自身、有力なスポンサーを持たなかったため、フォーミュラ・ルノー選手権全10戦のうち6戦までしか走れないという状況でした。
しかし、初参加レースで優勝した彼は、元F1ドライバーのペドロ・ディニースの目に止まります。ディニースの紹介によりレッドブルの支援を受ける事ができ、その期待に応えてマッサも前述のような素晴らしい成績を収めて見せます。

◆ザウバーからデビュー
2002年、そんな苦労人だったマッサが、いきなりF1デビューします。
契約チームはザウバー。せっかく見つけた金の卵、キミ・ライコネンをマクラーレンにさらわれた(でも違約金はしっかりせしめた)ばかりのペーター・ザウバーが新たに発見した「シンデレラ・ボーイ」と世間で騒がれました。ペーターは、インタビューに答えて、マッサに目をつけたのは「2001年の8月頃」と答えています。しかし…。

◆フェラーリの影
デビュー当初からマッサには、ある噂がつきまとっていました。「マッサの本当の契約相手はフェラーリ。しかも、かなり長期的な契約」だと。
しかし、当時の彼は、この噂をきっぱりと否定しています。「ザウバー関係者より前にフェラーリ関係者と話した事はない」と。しかし、そんな話をまともに信じる人間はいませんでした。その真実や如何に…フェラーリへの移籍が発表された2005年、トルコGPでの記者会見の席上で、彼はあっさり「2001年からフェラーリとの超長期契約を結んでいた」と答えています。

◆フェラーリとザウバーの力関係
当時から「フェラーリの契約アリ」とすれば、ザウバーからのマッサのデビューにフェラーリの意向がなかったとは考えられません。フェラーリからエンジン供給(ペトロナス・エンジン=1年落ちのフェラーリエンジン)を受けるザウバーにとって、マッサのデビューは「背にハラ」な交換条件、もしくは断る事のできない絶対条件だったと考える方が妥当ではないでしょうか。

◆ペーターの胸の内
ペーター本人が、マッサの実力を認めたにせよ、フェラーリから渡された資料を安心材料として引き受けたにせよ──何度もスピンばかり繰り返す経験不足のヒヨっ子を「役に立たないからどーにかしてほしい」とテストチームから何度抗議されようと──何が何でも使うしかない…ウラ事情があったのでは?と思うのです。

◆マッサ、ザウバー離脱
ところが、そんな「圧力」がまるで存在しなかったかのように、2003年に向けたザウバーは、一転してマッサをドライバーラインナップからハズします。
発表された布陣は、ニック・ハイドフェルドとハインツ・ハラルド・フレンツェン。世間は実力のないマッサにさすがのザウバーも堪忍袋の緒を切ったと噂しました。でも2004年には、また何事もなかったかのように再起用されていますから、この噂には疑問を感じます。
フェラーリ移籍決定前には、ジョーダン移籍の噂も流れますが…どうでしょう?ちょっとフェイクの香りがします。
結論として、関係者一同、納得ずくによるフェラーリへの一時的な出向。というのが本当のトコロだったのではないでしょうか。
では、それは一体何のためでしょう?

◆出向の本当の理由?
フェラーリのテストドライバーには、すでに経験豊富なルカ・バドエルがいました。ですからテストにおけるマッサの必要性は全くありません。
経験を積ませるため?それなら実戦に勝るものはありません。
では、マッサに一体どんな役回りが与えられたのでしょうか?
…当時のフェラーリには、一線で活躍するもう一人の有能なブラジル人ドライバーがいました。名前はルーベンス・バリチェロ。フェラーリチームとミハエルにとって、良くも悪くも優秀過ぎたNo.2ドライバーでした。

◆2002年 A1リンクの茶番
マッサがフェラーリへ出向される前年のオーストリアGP。
最終ラップまでトップを走っていたルーベンス・バリチェロがゴール手前でいきなりスピードダウン。No.1ドライバーのミハエル・シューマッハに勝ちを譲ります。
いままで従順だったはずのバリチェロが、世界の中心で「オレは犬じゃねえ」と叫んだ瞬間でした。ひょっとすると本人いたって無邪気に1991年/鈴鹿のセナ(チャンピオン決定のお礼として同僚ベルガーにゴール直前にトップを譲る)を真似たつもり…だったかもしれません。
しかし、あのゴールシーンを見たほとんどの人々は「長距離ランナーの孤独」の主人公のような「無言の抗議」と理解しました。F1のイノセンスを信じる世界中の人々から「悪質なチームオーダーを発令した」と、フェラーリは激しい批難を受けたのです。

◆もうひとつの小さなチームオーダー事件
実は、この大事件の後、小さな事件がザウバーで起きました。舞台は、ヨーロッパGPとドイツGP。どちらもハイドフェルドの地元ドイツです。
先のヨーロッパGPでペーター・ザウバーは、先行するマッサに対してハイドフェルドへ順位を譲り入賞させるよう指示します。しかし、マッサは指示に従わず、6位入賞をちゃっかりゲットします。ところが怒ったペーターからレース後に大目玉。そして、次に迎えたドイツGP。反省したマッサは、キチンと指示に従いハイドフェルドに6位入賞を譲ります。
しかし、世間はこれを一種のパロディーと受け止めたか、あるいは全く気づかなかったか、ペーターによる一連の行為を咎める者は誰一人いませんでした。…いや、一人だけ、マッサが少しだけむくれました。

◆裁かれなかったフェラーリ
1998年開幕戦オーストラリアGP。決勝終盤に行われたマクラーレンのハッキネン/クルサード間での順位入れ替わり行為を問題とした件について、世界モータースポーツ評議会が協議し「チームオーダー」に関する決議を採択しました。
その条文には「レースの誠実さに欠けるアンフアな行すべてを禁ずる」として「罰則の対象になる」とまで明文化されていました。しかし、同じ文面の中に「チームがチャンピオンシップを戦うために2人のドライバーのうち1人を選出し、もう1人のドライバーがそれを援護する行為については、完全な正当性が認められる」としている事から「2002年、A1リンクにおけるフェラーリのチームオーダー行為」の是非は不問とされました。
言い渡されたのは、ポディウムの立ち位置を正しく守らなかったミハエル、バリチェロ、フェラーリチームへの罰金各100万ドルだけでした。

◆裁かれたルーベン
ところが、たとえFIAがフェラーリを罰さなくても、世論はこれを許しませんでした。それと同じようにフェラーリ上層部の怒りは、この憂慮すべき事態を引き起こしたバリチェロの行動を許しませんでした。
彼に対する、無言の有罪判決文「お前の代わりはいくらでもいる」。
それがフェリペ・マッサのテスト・ドライバー起用だった…とは考えられないでしょうか?
その後3年。フェラーリ在籍中のルーベンスは、キバを抜かれたようにミハエルとチームに対して忠義を尽くし、2度と反旗を翻す事はありませんでした。

◆青いフェラーリ
2004年、出向期間が解けたマッサはザウバーに復帰します。ザウバーが用意したマシンは、前年のフェラーリF2003-GAを完全コピーしたC23でした。しかし、ミハエル好みに開発されたピーキーなマシンを「パワステ」なしで乗りこなすのは、ベテランのフィジケラにも至難の技でした。
たぶんマッサにはもっと難しかった事でしょう。開幕前テストで派手なクラッシュを起こし、予選では相変わらず同僚からコンマ数秒遅れでした。それでも前年のフェラーリテストで乗り慣れたマシンのせいか、決勝ではフィジケラと対等に近い成績を残せるようになります。

◆ペーターとフィジケラの甘い夢
ペーター・ザウバーのこの年の目論みは、フェラーリの完全セカンドチームとなってブリヂストンのタイヤテストを肩代わりし、その情報をフィードバック。その一環として、サードカーにフェラーリのサード・ドライバー、ルカ・バドエルを乗せて走らせ、ついでにフェラーリから活動資金を捻出してもらう事でした。
また、移籍してきたフィジケラは、ひょっとしたらこのチャンスにフェラーリのテストに参加できるかも…なーんて甘い夢を見ていました。

◆獲らぬタヌキの皮
ところがシーズンが始まってみれば、フェラーリとブリヂストンは完璧なマッチングを見せ、連戦連勝の快進撃。そんなイケイケ状態のフェラーリからすれば、ザウバーからもたらされる情報などレース後のタイヤより価値のないものでした。
フェラーリから放置されたザウバーは、シーズン当初、激しい不振にあえぎます。しかし、念願の風洞実験設備が稼働し始めた中盤以降、独自のモディファイが加えられるようになり、おのずと成績も上向いていきました。

◆最終試験
デビュー2年目のフェリペ・マッサを評して「F1にふさわしくない愚か者」と切り捨てた人物がいました。ジャック・ヴィルヌーブです。2004年の終盤3戦、マッサは性能の劣るザウバーでその張本人が乗るルノーに勝って見せます。
そして、翌2005年。元ワールド・チャンピオンをチームメイトとして迎えたマッサは、随所で落ち着いたレース運びを見せます。ジャックと同等、あるいはそれ以上の成績を挙げる事で、どんどん評価を高めていったマッサ。それと反比例する形でジャックは、いよいよ評判を落としていきました。

◆フェラーリとともに去りぬ
そして、2006年。マッサは、ザウバーとフェラーリのエンジン契約が切れると同時にチームを去ります。託卵されて大きく育ったカッコウの雛がヨシキリの小さな巣を飛び立つように…。

◆フェラーリ移籍、そして14戦目の優勝
デビュー当初からの契約通り(?)晴れてフェラーリの正ドライバーとなったマッサ。憧れのミハエルと肩を並べる幸福に浸る間もなく、No.1ドライバーを援護し続ける日々が続きます。やがて、開幕当初にささやかれた周囲の不安を打ち消すのに十分過ぎる結果を積み上げていきます。そんな彼を映すモニターをフェラーリピットの片隅で静かに見つめるクリクリ髪の男がいます。名前はニコラス・トッド。(写真/マッサの左隣に立つ白服。親父そっくり)フェリペ・マッサのマネージャーで、ジャン・トッドの息子。そのニコラスがマッサとマネージャー契約を結んだのは、例のフェラーリ出向の2003年でした。

◆意味のない質問
さて、ここで世間でよく言われる質問をひとつしましょう。
「卵」が先か、「親鳥」が先か。
あなたはどちらが先だと思いますか?

◆マッサを巡る3人の男
もう一人。フェリペ・マッサを「ザウバーに紹介した」人物としてリチャード・ティディッチという名前が見られますが、彼の正体は不明です。
彼とペドロ・ディニース、そしてニコラス・トッド。この3人がマッサの「シンデレラ・ストーリー」に重要な役割を果たした3人の「魔女」です。
そして、フェラーリという成功を手に入れるため、彼が階段に落とした「ガラスの靴」とは何だったのか?解けない謎がいくつかあります。

◆F1での常識
よく言われます。「F1の世界に“絶対”なんて言葉はない」と。
あと「F1の世界に“本当の事”など存在しない」とも言われます。
早い話が「ナンデモあり」って事なのです。

◆最後にもう一度、お断り
ここに書かれた内容は、決して「事実ではありません」。伝えられるエピソードからかなり乱暴に細かい枝葉を切り落とし、好き勝手にトリミングし、仕上げにフィクション的妄想を多めにふりかけ脚色してあります。
ですから、この内容をそのまま他人に吹聴して、重大な問題が起きたとしても、一切責任は負いかねますので、悪しからずご了承下さい。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[2]
登録日:2006年 08月 31日 01:15:23

「ペドロ・デ・ラ・ロサ初表彰台」で一句

<F1・第13戦 ハンガリーGP>バトン GP参戦7年目にして初優勝を果たす - ハンガリー

【ブダペスト/ハンガリー 6日 AFP】F1第13戦・ハンガリーGP(Hungarian Grand Prix)、決勝。14番グリッドからスタートしたホンダ(Honda)のジェンソン・バトン(Jenson Button)は、1時間52分20秒941をマークし、GP参戦7年目にして初優勝を果たした。表彰台に登ったバトンは、優勝トロフィーを手に持ちガッツポーズを決めた。(c)AFP/ATTILA KISBENEDEK

AFPBB News


優しきペドロ 初ポディウムの 眺めに泣く

[解説]
ホンダ優勝に沸いたハンガリーGP。ポディウムの頂点で喜びを爆発させるバトン。その隣で目を潤ませ、ガッツポーズをとる「もう一人の」スペイン人ドライバー、ペドロ・デ・ラ・ロサの姿にもまた感慨深いものがありました。F1デビューから8年。その間に築けたのは、信頼性の低い車によるリタイアの山と数少ないリザルト。最近では「過去のドライバー」の一人として人の記憶からも忘れられがちに…。そんな彼に巡ってきた千載一遇のチャンス。やっと見る事の出来た表彰台の上からの眺め。それは、彼の人生、もう2度と見る事ができない景色かもしれません。最年長王者37才のM.シューマッハに次ぐ35才。クルサードと同い年。そんな彼もまた、地味なりにグランプリに色を添えたひとつの花ではないでしょうか。

[雑感]
突然の「モントーヤ、マクラーレン離脱」によって空いたシートを埋めるために急遽起用されたサードドライバー。「デ・ラ・ロサ?それって誰?テストドライバー?え〜知らない」という人もいるのでは…と思います。そこでペドロ・デ・ラ・ロサの過去をちょっとお復習いしてみたいと思います。

◆日本産フォーミュラレーサー
・90年 スペイン・フォーミュラ・フォード チャンピオン
・91年 イギリス・フォーミュラ・ルノー チャンピオン
・93年 イギリス・F3選手権
・95年 全日本F3選手権 チャンピオン
・96〜97年 フォーミュラ・ニッポン参戦
F1解説でお馴染みの森脇基恭氏が技術部長(当時)を務めるノバエンジニアリングで、デ・ラ・ロサは、フォーミュラーレーサーとしての経験と実力に磨きをかけます。

◆フォーミュラ・ニッポン2代目チャンピオン
そして、フォーミュラ・ニッポン2年目を迎えた1997年。デ・ラ・ロサは、全10戦中6勝という圧倒的大差でチャンピオンの座を射止めます。また全日本GT選手権でもチャンピオンを獲得します。彼はこれらの戦績によって、チャンピオン・スパークプラグ主宰の年間優秀ドライバーランキング(審査委員長:元F1レーサー/ジョン・ワトソン)の第3位にも選出されています。(1位はミハエル・シューマッハ、2位はジャック・ヴィルヌーブ)前年度フォーミュラ・ニッポンチャンプのラルフ・シューマッハはすでにF1へ、当然、デ・ラ・ロサも翌年F1デビューするものと思われました…。

◆苦肉の選択
1998年当初、デ・ラ・ロサのデビュー先に有力視されていたのはティレルチームでした。しかし、彼はあえてジョーダンのテストドライバーという回り道を選択します。その理由は、ティレルのゴタゴタ(BARへのチーム売却)を嫌ったのか、フォーミュラ・ニッポンで「速さだけ」は認めていた虎之介(ティレルからのデビューが決定済み)の存在を嫌ったのか。あるいは無限-ホンダエンジンを積み、チャンピオン経験者のデイモン・ヒルが乗るジョーダンに明るい将来の展望を見つけたのか、それよりフォーミュラ・ニッポン初代チャンピオンのラルフ・シューマッハより自分の優秀さを証明できるチャンスを狙ったのか…その真意は分かりません。ただ、言える事は彼の選択は失敗でした。ジョーダンは彼が思ったほど安定したチームではなく、彼の存在をアピールする機会にも恵まれませんでた。

◆緊張のF1デビュー
1999年、デ・ラ・ロサは永遠の金欠チーム・アロウズからデビューします。真っ黒だったアロウズの車体前半部がデ・ラ・ロサのパーソナルスポンサー「レプソル」カラーに染まりました。そして、彼の同僚には前年度からチーム残留のミカ・サロが収まるはずでした。しかし、開幕直前に入れ替わり人事が発表され高木虎之介の加入がアナウンスされます。避けられない宿敵・虎之介との真っ向勝負。開幕戦へ向けたデ・ラ・ロサの決意の程は、虎之介が声をかけるのを躊躇してしまうほどの緊張感からも明らかでした。

◆歓喜のデビュー戦初入賞、しかし…
そして、開幕戦オーストラリア。虎之介のエンジンストール、セーフティーカー導入、完走率の低さなどに助けられる形でデ・ラ・ロサは「虎之介の後ろ」18番グリッドから「虎之介の前」6位でフィニッシュ。見事、入賞1ポイントを勝ち取ります。チームの主導権争いの第一関門を突破したデ・ラ・ロサは大喜び。しかし、まさかアロウズの年間獲得ポイントが、この時のラッキーな1ポイントだけに終わるとは、彼も予想しなかった事でしょう…。

◆アロウズ衰退を招いた2人のオーナー
アロウズは、慢性的な資金難に陥っていました。チームの資金は、ドライバーの持ち込みとFIAが各チームへ分配するテレビ放映権料のみ。本来のオーナーであるトム・ウォーキンショウはチーム売却に向けたウラ工作を進めるため表舞台からフェードアウト。代わりに傀儡オーナーとなったエチオピアから来た人なつっこいイブラヒム王子が、愛想を振りまいてパドックの人気を得ていました。しかし肝心な資金調達はまるで捗らず、責任を取らされてあっさりお役御免。アロウズのサイドポンツーン上に刻まれた謎のカウントダウンと同じくらい意味不明な存在でした。

◆失意ばかりのシーズン、しかも2年連続
逼迫した財政事情をしのぐため、チームはテスト回数を減らします。テスト不足はドライバーの経験値アップを損ない、滞った開発資金はマシンの戦闘力と信頼性を奪いました。そんな悪循環の中でデ・ラ・ロサは、予選で時に素晴らしい速さを見せ、決勝ではリタイアという悪戦苦闘を2年も繰り返しました。しかし、その努力は最後まで報われる事はありませんでした。2年目のチームメイトとなったフェルスタッペン(4位/1回、5位/1回)に獲得ポイント数で下回ったデ・ラ・ロサ(6位/2回)は、No.1の地位から転げ落ちてしまいます。

◆アロウズからスーパーアグリへ
ちょっとここで脱線話。デ・ラ・ロサを放出した2年後、ウォーキンショウの幾多の売却工作も徒労に終わり、結局、アロウズというチーム自体が消滅してしまいます。この最後の2002年、マイク・コフラン(現マクラーレン/チーフデザイナー)がアロウズで生み出した「A23」というマシンは、当時の専門家たちが口を揃えて「ちゃんとした開発と熟成の手を加えたなら、もっと良い成績を残せたはず」と惜しむほどの可能性を秘めたマシンでした。そのA23こそ、今年、スーパーアグリチームが改良を重ね、シーズン中盤まで使い倒した「SA05」でした。さすがに競争するレベルまでには至りませんでしたが、そこそこ走れた4年落ちマシン。いかに素性の良いマシンだったかの証明ではないでしょうか。

◆捨てる貧乏神
2001年もアロウズ確定と思われたデ・ラ・ロサ。しかし、1月のテストにレッドブルの支援を受けた新人エンリケ・ベルノルディが登場すると、その場で彼はデ・ラ・ロサを上回る好タイムをマーク。オーナーのウォーキンショウは、資金を出し渋るレプソルよりも潤沢な資金が望めそうなレッドブルを躊躇なく選び、デ・ラ・ロサは開幕1ヶ月前に突然解雇されてしまいます。

◆拾う貧乏神
そんなデ・ラ・ロサに救いの手が差し伸べられます。元ワールドチャンピオンのアラン・プロスト率いるプロストでした。彼らはアロウズよりも悲惨な資金不足と惨憺たるリザルトに苦しんでいました。だから、ミシュランを履くプロストは、ブリヂストン・タイヤを熟知したデ・ラ・ロサの知識とそれ以上にレプソルの資金を必要としていたのです。しかし、すでに正ドイバーにはジャン・アレジと新人マッザカーネが決定しおり、彼を控えのサード・ドライバーとして採用する事を決定します。

◆アランとんでもない話ジャガー
ところがプロストの救いの手を蹴って、デ・ラ・ロサはジャガーへの移籍を決定します。実はこの移籍を薦めたデ・ラ・ロサの個人マネージャーであるジュリアン・ジャコビーは、かつてアラン・プロストの個人マネージャーを長年勤め、あろう事かアイルトン・セナの個人マネージャーとなるためにアランの元を離れたという、かなり根深い因縁のある人物でした。プロストにとっては2重の意味で踏んだり蹴ったりな展開となり、怒りから法的措置も辞さずというのっぴきならない事態へと発展します。

◆仇を恩で返す…電撃トレード劇
デ・ラ・ロサ強奪劇で一触即発となったプロストとジャガー。ところが思いも寄らぬ大ドンデン返しで双方めでたく手打ちとなります。
実は、新人マッザカーネがまったくの役立たずで、その代役捜しに血眼になっていたプロストへジャガーが救いの手を差し伸べたのです。
デ・ラ・ロサの件に関する告訴をり下げてもらう代わりにNo.2ドライバーのルキアーノ・ブルティを4億円の持参金付きで譲渡するというおいしい話です。当然、プロストは二つ返事で快諾。双方丸く収まったというお話でした。ちゃんちゃん。
ただ可愛そうなのはマッザカーネ君。母国アルゼンチンの有料テレビ局PSNの後ろ盾でデビュー出来たと思ったら、視聴者契約激増でスポンサーマネー分を回収できた途端、PSNはとっとと彼を見捨てました…とさ。

◆母国復帰、しかし注目は…
まるで狙ったかのように母国スペインで復帰したデ・ラ・ロサ。しかし、20位スタートの決勝は、わずか5周でリタイア。原因は古巣ジョーダンのフレンツェンとの接触でした。母国ファンの期待に応えられなかったデ・ラ・ロサ。しかし、詰めかけた観衆たちの熱い視線は、彼のリタイア後もコース上に注がれ続けました。視線の先を走るのはミナルディからデビューした新進気鋭の若きスペイン人レーサー。その名もフェルナンド・アロンソ。彼は見事13位で完走を果たします。

◆2年目のリストラ Part2
すったもんだでジャガーにヘッドハントされたデ・ラ・ロサでしたが、成績の方はチームの想定外に伸び悩みます。2001年は5位/1回、6位/1回の3ポイント。2002年はなんとノーポイントに終わります。すっかり肩すかしを食ったジャガーは、今チームに必要なのはベテランの経験よりも情熱に満ちた若い血であると判断。新人のマーク・ウェバー、アントニオ・ピッツォニアと契約を交わし、口うさいアーバインとともにデ・ラ・ロサに解雇通知を突きつけます。

◆マクラーレンの門を叩く
2003年。完全に行き場を失ったデ・ラ・ロサは、なんとかテスト・ドライバーに起用してもらうためマクラーレンを訪ねますが無情にも門前払い。ところがその後、デビッド・クルサードやテストドライバーのアレクサンダー・ブルツからの進言を受け入れたロン・デニスから臨時採用の通知を受けます。首の皮一枚で繋がった希望。彼は全力でテストに打ち込みます。それが、シーズン序盤のライコネン&クルサードの好結果となって表れます。影の功労者としてチーム全体が認めるところとなり、やがて正式なテストドライバーとして採用されます。

◆新星誕生
ちょうどその頃、母国スペインGPでは、スペイン中の熱狂的な声援を背に受けながらアロンソがトップを走るミハエル・シューマッハの背後を快走、惜しくも2位表彰台に甘んじます。その3ヶ月と20日後、場所はハンガロリンク。アロンソは史上最年少優勝記録を達成します。スペイン人初のグランプリ優勝者、まさにスター誕生の瞬間。しかもワークス・ルノー20年ぶりの勝利、後世まで語り継がれる歴史的快挙でした。そんな後輩の華々しい姿を横目で見ながら、デ・ラ・ロサは、黙々とテストスケジュールをこなす日々を過ごします。

◆モントーヤの代走で大活躍
2005年のある週末、思いがけずデ・ラ・ロサに大役が回ってきます。テニスの練習中に怪我をした(モトクロスバイク事故という噂も)モントーヤの代わりにバーレーンGPに出走するというものでした。
デ・ラ・ロサは、このミッションを完璧にやり遂げます。予選順位でライコネンを上回り、決勝ではライコネンに順位を譲り、ファーステストラップを記録し、5位入賞。必要十分な結果を上げ、出産を終えたばかりの奥さんと満足げに喜ぶデ・ラ・ロサ。しかし、彼が見上げる表彰台の頂点には、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの後輩アロンソが立ち、新世代チャンピオン候補として世界中から注目を集め、万雷の喝采を一身に浴びていました。

◆お人好しのペドロ
デ・ラ・ロサに「グランプリ・レーサー」としての資質で欠けている部分があるとすれば、それは彼のあまりにも「お人好し」過ぎた人柄だと思います。
デビューした年のインタビューで語られた彼の言葉です。
「デビュー戦で一番素晴らしかった事、それはミハエル・シューマッハにパスさせるよう連絡が入った時。(中略)僕は道を空けて、パスするようにサインを送ったんだ。するとミハエルが礼を返してくれたんだ。思ってもいなかったよ。ミハエルにパスされたけど、レースはすべてが素晴らしかったよ」
(取材/フランコ・パナリッティー氏 F1グランプリ特集 Vol.119より)

…………彼にもう少し他人を押しける図々しさとワガママさがあれば、もっと成功できたはず。でも、そうじゃないところがデ・ラ・ロサの良さなのでしょう。
本人より周りの人間が焦れ、腹を立てたくなるほど…。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[2]
登録日:2006年 08月 24日 05:05:25

「山本左近&スーパーアグリ苦闘中」で一篇

<F1・第13戦 ハンガリーGP>バトン GP参戦7年目にして初優勝を果たす - ハンガリー

【ブダペスト/ハンガリー 6日 AFP】F1第13戦・ハンガリーGP(Hungarian Grand Prix)、決勝。14番グリッドからスタートしたホンダ(Honda)のジェンソン・バトン(Jenson Button)は、1時間52分20秒941をマークし、GP参戦7年目にして初優勝を果たした。表彰台に登ったバトンは、優勝トロフィーを手に持ちガッツポーズを決めた。(c)AFP/ATTILA KISBENEDEK

AFPBB News


苦闘を無駄と呼んではならぬ
(作:1849年)

君 言うなかれ
この悪戦苦闘に 意味などなく
ただ 骨折り損の くたびれ儲けだと…

敵はひるみすら見せず
後退する気配もなく
すべては元の木阿弥、鹿の角刺すハチだと…


希望が よく人を欺くように
怖れも 時に 嘘をつく

あの煙に 隠された彼方で
まさに今 君の僚友が 敵を追い払い
戦場を占領しつつあるやもしれぬ

君さえ そうでなかったなら…


疲れ切った波が
徒に砕け散る 波打ち際では
1インチほども
痛みに見合った戦果は見えぬ

されど入り江を あるいは川を
遡り 遠い海原を見渡すなら
静かに 溢れんばかりのうねりが
そこまで来ているのが見える


君よ 日が射したるを
知るは 東向きの窓のみにあらず

やがて 来たる 夜明けの時
されど 眼前に見えんとする太陽は
遅々として昇らず

されば 君よ西を見よ
朝焼けに照り映える 西方の土地を


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[解説]
これはヴィクトリア時代の英国詩人、アーサー・ヒュー・クラフの詩です。
第2次世界戦中、ドイツ軍の攻撃に晒され、打ちひしがれた国民の気持ちを鼓舞するためチャーチル首相が引用した事で有名です。特に後半部分の「波」や「日射し」に吉兆を例えた表現が素敵だと思います。

奮闘すれど成果が上がらず、苦労が実を結ばないスーパーアグリチーム。新車SA06導入も「いまだ未完成」という状態で、さすがの佐藤琢磨選手も本領を発揮できず、目覚ましい活躍に至っていません。特にデビュー後2戦連続1周リタイアというかなりシビアな洗礼を受けている山本左近選手は、内心忸怩たる思いで、その身が引き裂かれそうなのではと心配です。そんな悪戦苦闘する彼らへこの詩を送りたいと思います。

[雑感]
トルコGPでは、SA06のフロント周りがやっとヴァージョンアップされる予定。これで2006年式ブリジストンタイヤがやっと履ける!(←びっくり)
次のトルコこそ本当の「SA06完成形」の誕生。
まず目標は、予選2回目への進出。そして、トロロッソ&ミッドランドより上位での決勝フィニッシュ。この2つが夏休みの宿題。それと、左近選手の完走…。

鈴鹿・本土決戦まであと3戦。
スーパーアグリチームには、ひとつひとつ着実に上を目指してほしいと思います。

カテゴリー[ F1・日本 ], コメント[0], トラックバック[2]
登録日:2006年 08月 16日 20:22:27

「第3期ホンダ初優勝!」で一句

<F1・第13戦 ハンガリーGP>バトン GP参戦7年目にして初優勝を果たす - ハンガリー

【ブダペスト/ハンガリー 6日 AFP】F1第13戦・ハンガリーGP(Hungarian Grand Prix)、決勝。14番グリッドからスタートしたホンダ(Honda)のジェンソン・バトン(Jenson Button)は、1時間52分20秒941をマークし、GP参戦7年目にして初優勝を果たした。表彰台に登ったバトンは、優勝トロフィーを手に持ちガッツポーズを決めた。(c)AFP/ATTILA KISBENEDEK

AFPBB News


胸熱く 君が代響く ハンガロリンク

[解説]
ついに来た!この瞬間をどれだけ待ち焦がれた事か。
第3期ホンダ復活から7年目、やっと届いた表彰台の頂点。その実力を認められながらフェラーリ&シューマッハに幾度も勝利を奪われ、アロンソやライコネンにも遅れをとり続けていたバトンにとっても初の栄冠。ゲンを担いだ(?)無精髭で破顔一笑、喜びを爆発させたバトンが立つハンガロリンクの表彰台。そのバックに「君が代」が流れた。壇上を見上げ涙する中本修平ホンダSTDの姿に思わずもらい泣き。本当におめでとうホンダ&バトン。そして、この日を待ち続けていた日本F1ファンに乾杯!

[雑感]
焦点はすっかり、アロンソ/ルノー対ミハエル/フェラーリの2強対決に絞られた感のあった2006年シーズン。そこへ降って湧いたようなホンダの勝利。表彰台初めて聞く「君が代」は、ニッポンのF1ファンにとって念願の、そしてとびきりのサプライズでした。あまり突然過ぎて、あるいは待たされ過ぎて、訳も分からず涙する人、喜ぶ事も忘れただ呆然と画面を見つめる人、「遅っせ〜んだよバカ」と怒っちゃう人など喜び方も人それぞれ。胸に去来する感慨もまた人それぞれだったのではないでしょうか。そんな第3期ホンダ初優勝にちなんで、過去の第1期、第2期のホンダ初優勝の様子を振り返ってみます。

◆ホンダの初優勝
いまや伝説のように語り継がれる1965年メキシコでのホンダ初優勝。海抜2000メートル以上、高地メキシコシティならではの空気の薄さを逆手にとって掴んだ勝利。そこで生かされたのは、かつて太平洋戦争中に戦闘機のエンジンを作っていた中村良夫監督の持つ燃料混合気の「薄さ」のノウハウでした。
日本のホンダ本社へ勝利を伝えるために送られた電報文が、ローマ皇帝シーザーの名言にあやかった「VENI VIDI VICI(来た、見た、勝った)」というエピソードは特に有名です。ところがその電報を受け取った本田社長をはじめ本社スタッフは、誰もその意味が分からなかったそうです。格好良すぎる逸話のウラに、実は「懲りすぎもホドホドに…」というオチがあったのでした。

◆ジム・クラーク全盛時代
本田社長がにわかに「優勝」を信じられなかったのもムリのない話です。当時は稀代の名レーサー、ジム・クラークと天才コーリン・チャップマン率いるロータスチームの黄金期。1965年シーズンもジム・クラークが全10戦中開幕から6連勝(第2戦モナコのみ欠場。理由は日程の重なったインディ500マイルを優先したためでそっちもガッツリ優勝しちゃいます)を成し遂げ、ワールドチャンピオンシップもあっさり獲得します。そんな後のいわば消化試合。翌年からはレギュレーション変更でエンジンの総排気量が3リッターへ移行するため、1.5リッターエンジンも年内限り。どのチームも関心はすでに翌年へと向けられていたのです。

◆中村良夫監督の執念
これが最後のチャンス!居ても立ってもいられなくなった中村良夫氏(性急に勝利を求める本田社長から前年度の成績不振を理由に量産部門へ更迭中でした)は、本田社長へ直談判してチーム監督への復帰を願い出ます。前戦アメリカGPを自分自身の目で見て、やっと現場の悪戦苦闘ぶりを理解した(?)本田社長は、中村氏の現場復帰を認めます。条件は「必ず勝つ」事でした。

◆リッチー・ギンサー
何もかも経験不足だったホンダ・チームは、1965年のNo.1ドライバーにリッチー・ギンサーを迎えていました。フェラーリ、BRMという名門チームに在籍した経験を買われての起用でした。すでにベテランの域に達していたギンサーにとって、新興チーム・ホンダへの移籍はギャンブルでした。フェラーリではフィル・ヒル、BRMではグラハム・ヒルという花形レーサーたちの影に埋もれた万年No.2だった彼は、残り少ないレース人生を東洋から来た血気盛んな弱小チームに賭け、表彰台の頂点へ立つ「夢の実現」を目指したのです。

◆1965年 10月24日 快晴 メキシコシティ・サーキット
予選3位からスタートしたギンサーは、驚異的ロケットスタートを決め、直線で一気にジム・クラークのロータスを抜き去り、堂々トップに立ちます。いつもホンダチームの足を引っ張り続けてきたトラブルもなく、快調にトップ走り続けるギンサー。やがてスタートから2時間8分32秒後。ギンサーとホンダRA272は、ついに夢にまで見たトップチェッカーを受けます。ジム・クラークのポールタイムを上回るファステストラップで追い上げてきた2位ダン・ガーニーを2秒差で振り切っての優勝でした。

◆走らないはずだったメキシコGP
実はこのメキシコGPをホンダは欠場する予定でした。理由は、翌年の3リッター移行へ備えた準備を少しでも早く進めるためでした。それでも本社の意向により出場が決定され、エントリーを済ませた後、今度はギンサーが予選前に風邪を引いてしまいます。そこでまた止めようかという話が持ち上がります。しかし、それも予選グリッが3位と好位置だったため、そのまま決勝進出となったのです。
もし、このメキシコへの参戦がなかったなら…ホンダの現在の活躍は、また違ったものになっていたかもしれません。

◆第2期ホンダ復帰の舞台
古き良き騎士道精神に満ちたグランプリ時代は終わりを告げ、サーキットには、エキゾーストからパンパンとけたたましいバックファイアが鳴り響くターボ全盛時代を迎えていました。ベテランレーサーの豊かな経験より、速さに飢えた若いレーサーたちの野獣のようなどん欲さが、800馬力に達しようとするターボパワーを武器に荒々しくサーキットを席捲していました。その中心は、若き日のアラン・プロストとネルソン・ピケ。ルノーターボとBMWターボを駆るこの2人が、サーキット上で激しく火花を散らしながらチャンピオン争いを繰り広げていました。

◆パートナー決定
1983年、スピリットチームへのエンジンサプライヤーという名目(実質は1年のテスト期間)でエントリーしてきたホンダ。彼らは、現場の空気から即座に強力で経験豊かなチームパートナーの必要性を悟ります。その第1候補に上がったのは、ウィリアムズ・チームでした。彼らは前年度ワールドチャンプであるケケ・ロズベルグを擁しながら、ワークス体制で挑むエンジンサプライヤーに恵まれずターボ時代に乗り遅れかけていました。ウィリアムズにとって、エンジンを提供してくれるホンダはまさに救世主。ホンダにとって、ランキングの下がったチームの方がリスクが少なくリターンが大きいというメリットがありました。当初は、お互いにとって理想的なパートナーと思われました。

◆ちぐはぐ
ところがいざ1984年の開幕を迎えたホンダとウィリアムズはお互いに相手を見誤っていた事に気づかされます。ウィリアムズはホンダエンジンのパワーを過小評価し過ぎ、ホンダはウィリアムズのチーム力を過大評価し過ぎていした。カーボンコンポジット製モノコックが常識になりつつある時代にウィリアムズのチーフデザイナー/パトリック・ヘッドが用意してきたのは、明らかに時代遅れなアルミハニカム製モノコックのFW09でした。その無骨なスタイルに似合わぬ貧弱なシャシーはホンダパワーとエンジン重量を支えきれず、ハンドルを切っても全く曲がろうとしない超アンダーステア車だったのです。またホンダエンジン自体も頻繁に壊れました。

◆傷だらけの勲章
FW09に乗るロズベルグとジャック・ラフィーは延々とリタイアの山(全16戦中/ロズベルグ10回、ラフィー11回)を築き上げます。そんな惨憺たる有様の中、運の良さだけで拾ったのがダラスの勝利でした。

◆1984年 7月8日 快晴 フェアパーク・グランプリ・サーキット
ポールポジションはロータス・ルノーのナイジェル・マンセル。荒れたアスファルトに足を取られたか、トップ走行に不慣れなためか、ヨタヨタと走るマンセルはコーナー毎に壁にヒットしてはタイヤを痛めます。予選8位から一気に2位につけ、マンセルの背後から虎視眈々とチャンスを窺っていたロズベグは36周目にマンセルのミスを見逃さずパスしてトップへ立ちます。しかし、その12周後、予選7位から地力に勝るTAGポルシェターボエンジンでロズベルグの背後を脅かしていたマクラーレン/アラン・プロストに首位を奪われ、アッという間に差を広げられてしまいます。このまま2位かと思われた終盤57周目、トップのプロストがタイヤトラブルでリタイア。さらにマクラーレン/ニキ・ラウダまでもが60周目にリタイア。さらに運の良い事にレース時間が2時間を超えてしまい、2時間ルールに則り、本来の周回数より10周少ない67周でレース終了。ロズベルグの手元にラッキーな優勝が転がり込んできます。

◆悲劇を演じたマンセル
ポールスタートからズルズル順位を下げたマンセルは、ギアトラブルで止まったマシンを手で押して(本当は危険行為でペナルティの対象)6位入賞。ゴール後、まるで失神したかのように倒れ込み、ゴールシーンをさらに感動的に演出しました。しかし、治療に駆けつけたシド・ワトキンス博士は「アレはマンセル一流の“カワイソぶりっこ”芝居」とウンザリしたように語っています。マンセルがああした行動を取ったのは、予選トップから転げ落ちた自分の不甲斐なさをチームから批難されるのを恐れたためでした。「ライオン」の異名を持つ彼の「意外と小心者」というもうひとつの側面が垣間見える、いかにもマンセルらしいエピソードです。

◆ライバルたちの脱落
今回のハンガリーGPを見て気づいたのは、ホンダの第1期、第2期、第3期全ての初優勝に「優勝候補者たちの脱落」がからんでいたという事実です。

1965年/メキシコGP[/color][/strong]
 ○ジム・クラーク(優勝6回/年間ランク1位)8周・エンジントラブル
 ○グラハム・ヒル(優勝2回/年間ランク2位)56周・エンジントラブル
 ○ジャッキー・スチュアート(優勝1回/年間ランク3位)35周・クラッチトラブル
 ○その他のリタイア/ヨッヘン・リント/ブルース・マクラーレン/ジャック・ブラバム

1984年/ダラスGP
 ○ニキ・ラウダ(優勝5回/年間ランク1位)60周・マシントラブル
 ○アラン・プロスト(優勝7回/年間ランク2位)56周・タイヤトラブル
 ○ミケーレ・アルボレート(優勝1回/年間ランク4位)54周・タイヤトラブル
 ○ネルソン・ピケ(優勝2回/年間ランク5位)45周・コースオフリタイヤ
 ○その他のリタイア/デレック・ワーウィック/アイルトン・セナ/パトリック・タンベイ

2006年/ハンガリーGP
 ○フェルナンド・アロンソ(優勝6回/現在ランク1位)51周・ホイールナット脱落
 ○ミハエル・シューマッハ(優勝5回/現在ランク2位)67周・トラックロッド破損
 ○フェリペ・マッサ(優勝なし/現在ランク3位)7位・1周遅れ
○ジャンカルロ・フィジケラ(優勝1回/現在ランク4位)18周・コースオフリタイア
 ○キミ・ライコネン(優勝なし/現在ランク5位)25周・レースアクシデント

◆運の良さも実力のうち
ご覧のように、今回のハンガリーGP「だけ」運が良かったのではない事が分かります。史上最強の強運チャンピオンレーサー/ケケ・ロズベルグのダラスGP勝利はもちろん、圧倒的だった1965年のメキシコでの勝利にも「ラッキー」な要素ヌキには語れない部分があります。
決して「ラッキーだっただけ」などと言うつもりはありません。「ホンダ優勝」という歴史的事実、その価値に一点の曇りもありません。ただ言いたい事は「初めて勝つ」ためには多分に運の力が必要だという事です。運を引き寄せる事もまた実力のうちだと思うのです。この「1勝」をはずみにして、また一つ、そしてまた一つと勝利を重ね、かつての常勝ホンダの再来を願うものです。
また、そう遠くない未来にトヨタ、そしてスーパーアグリチームにもそんな「運」が巡ってくる事を望みます。

◆光と影
今回のハンガリーでのホンダ優勝が、ジャック・ヴィルヌーブ降板と入れ違いだった事に運命の皮肉を感じ、複雑な心境になります。2000年のホンダ復帰、その早期優勝の実現こそがジャックの使命と誰もが思たBARホンダ時代。かつてのセナがそうであったようにジャックとホンダのタッグがグランプリを支配する…そんな未来を夢想した時期もありました。過去の彼らに一体、何が足りなかったのでしょうか。…技術?…戦略?…運?…分かりません。
ただ、せめてジャックには、あのハンガロリンクの空の下でホンダの晴れ姿を見て、そして「君が代」が流れるのを聞いてほしかったなあと、思わずにはいられません。

カテゴリー[ F1・日本 ], コメント[0], トラックバック[1]
登録日:2006年 08月 12日 03:36:35

「ルノー失速の原因はマスダンパーにあり?」で一句

<F1・第12戦 ドイツGP>ライコネン 今季初のポールポジションを獲得 - ドイツ

【ホッケンハイム/ドイツ 29日 AFP】F1第12戦・ドイツGP(German Grand Prix)、公式予選。マクラーレン・メルセデス(McLaren Mercedes)のキミ・ライコネン(Kimi Raikkonen)は、1分14秒070のタイムで今季初のポールポジションに輝いた。(c)AFP/DAMIEN MEYER

AFPBB News


出るルノー 打たれてチャンプ 価値高し

[解説]
シーズン前半無敵を誇ったルノーが意外にも失速状態。逆に3連勝と絶好調ウハウハ状態のフェラーリ。それもこれもブリヂストンのおかげ?と思っていたら「マスダンパー」なんて聞き慣れないモノが取りざたされる始末。無敵ルノーが密かに使ってきた空力補助デバイスらしいのですが、一体誰がかぎつけたのやら?すごい解析力!それともスパイ合戦?でも、基本的には新しく採用される電子部品やソフトウェアなどはFIAで厳しく事前審査され認可を受けているはず…なのに???やはり「出る杭は打たれる」運命なのでしょうか。しかしアロンソは、この苦境を乗り越え、ミハエルを退け獲得してこそ2連覇にも価値が生まれます。ミカ・ハッネンが猛追するフェラーリを振り切って初栄冠に輝いた、あの1998年のような接戦が再現される予感します。

[雑感]
「マスダンパー」…なんだろう?とネットで調べると、高層ビルなどの最上階に設置される「振り子状のオモリ」の事らしいです。このオモリが地震など不測の激しい振動が起きた際にいち早く相殺する揺れを起こし、建物に負担をかける異常振動をすみやかに抑えるモノだそうです。これに似た装置をルノーはフロントノーズ内部に仕込み、コーナーリングや路面の凹凸によって発生する過剰な振動を素早く吸収させ、空力的に理想姿勢になるよう車体の挙動を安定させる…そうなのですが、具体的にどんな構造になっているのかはハッキリ分かりません。とにかくF1の最先端エンジニアたちの発想は凄いんだなあと思うばかりです。

◆バーニーさんからお手紙着いた。モズレーさんたら…
ひとつのチームが連勝し続け、一人のドライバーだけがポイント争いでも突出してしまう。すでにシーズン中盤でチャンピオン決定しちゃうんかも?なんて噂が立ち始める。こういう事態を一番嫌うのは、バーニーさんです。視聴率が落ちる。サーキット観客動員数が落ちる。これだけは絶対、何がナンデモ避けなければならない事態です。今回のルノーに対するマスダンパー禁止令も表向きは「空力に関する補助うんぬん」などと言ってますが、だったら「フレキシブル・ウィング」なんて一体どーなのよ?です。本当の理由は簡単。「ストップ・ザ・ルノー」コレです。バーニーさんからのお手紙を読んだ、モズレーさんが速やかに「神の手」を発動したに違いありません。

◆この道はいつか来た道…
今シーズンの流れを見ていて「あれ?前もこんな事なかったっけ?」と妙なデジャブ感に囚われた方はいないでしょうか?そんな人は、たぶん8年前に見たグランプリの記憶が無意識に訴えかけているのでしょう。
1998年、ウィリアムズからマクラーレンへ移籍した名匠エイドリアン・ニューウィーが開発したMP4/13を実践投入。ロン・デニスの期待に200%応える仕上がりで開幕から破竹の勢いを見せ快走。“静かなる男”ミカ・ハッキネンが内秘めた実力を爆発させ連勝を重ねます。ところが中盤に差し掛かる頃からフェラーリが復調を見せミハエル・シューマッハが3連勝。好調マクラーレンにストップをかけます。おかげでポイント争いは終盤までもつれ、最終戦・鈴鹿までチャンピオン決定がずれ込みました。ロン・デニスはヒヤヒヤでしたが、バーニーさんはニコニコだった事でしょう。

◆ブレーキバランスシステム
1998年のマクラーレンが快進撃を続けた理由のひとつに「ブレーキバランスシステム」がありました。通常ブレーキとは別にクラッチペダルの位置に「フォースブレーキペダル」が設置され、これをコーナーリング中に踏むとコーナー内側のリアブレーキだけが作動して、素早いコーナーリングが可能になるシステムでした。この事実を掴んだフェラーリは「禁止された4WS(四輪操舵)システム」と主張して、マクラーレンの秘密兵器を使用禁止へと追い込みます。ところが、このシステムのもともとのアイデアを描いたのはミハエル・シューマッハとフェラーリだったのです。両足のアクセル&ブレーキ操作を駆使して素早いコーナリングを得意としたミハエルのゴーカートでの経験から生まれたものでした。自分たちがモノにできなかったアイデアを他人が先に実用化してしまった。だったら全部ご破算に…そんな報復行動と言えなくもありません。世の中によくある事です。

◆タイヤ戦争に幕
この年、長年グランプリを支えてきた老舗グッドイヤーと新興勢力ブリヂストンによるタイヤ戦争が佳境を迎えていました。グルーブドタイヤ(溝付きタイヤ)導入1年目にキッチリ対応してきたブリヂストンがマクラーレンを足元から援護射撃。逆にグッドイヤーとの長年の信頼関係を優先したフェラーリはレースパフォーマンスで遅れを取る事になります。実は、グッドイヤーはこの年を限りにグランプリ撤退を決め、翌年からブリヂストンがワンメイクサプライヤーとなってしまいます。開発競争による品質向上と広告効果を目指すブリヂストンにとって、偉大なライバルの退場は残念な誤算でした。

◆チャンピオンの行方
1998年のチャンピオン対決は、ミカ・ハッキネンが最終戦・鈴鹿を制し見事チャンピオンの座を獲得します。前年最終戦で初優勝したとは思えない、ポールトゥーウィン5回を含む年間8勝の堂々たる成績。そんなミカの戦績に華を添えたのは、ポールトゥーウィン1回ながら年間6勝、ついにイタリアGPで同ポイントに並ぶまで追い上げてきたミハエルに対し、ポイントリーダーの座を一歩も譲らなかったここ一番でのミカの踏ん張りでした。翌1999年はミハエルの不運な怪我による戦線離脱も手伝い、ミカが(モンツァの森で泣いちゃった事もあったけど…)連覇を実現させます。さて、今年のアロンソは自力で踏ん張りを見せ、みごと連覇を成し遂げる事ができるのでしょうか?

◆1998年のミカと2006年のアロンソの違い
1998年のハッキネンには、たとえ「ブレーキバランスシステム」を奪われても向上心の高いブリヂストンと信頼度の高いメルセデスエンジン、頼りになる空力の神様ニューウィーがいました。
ところが「マスダンパー」を失った2006年のアロンソの手元にあるのは、撤退を決めて意気の上がらないミシュラン。もう今年で辞めちゃうかもしれないルノーエンジン。代表のフラビオ・ブリアトーレもチーム運営に飽きて、そろそろ政治の世界の方に色気を感じている様子。
憧れの人とタッグを組めてウキウキのフェリペ・マッサを従えたミハエル・シューマッハの方に「分がある」ように思えて仕方ありません。
このマイナス要素山積み状態をはねのけチャンピオンを勝ち取ったならば、万人が認める真の王「エル・レイ」として、アロンソはグランプリに永く君臨してゆく事ができるでしょう。

◆おまけ情報
次のハンガリーGPでは、禁止された「マスダンパー」が手続き上の行き違いで1戦のみ使える模様です。果たしてルノーが使うかどうかは不確定ですが、もし使ってアロンソが優勝しようものなら自ずと前半好調の種明かしとなってしまい、終盤へ向けた展望が暗いものとなってしまいそうです。できれば「マスダンパー」封印状態でもキレのあるアロンソの走りが戻ってくることを期待します。

カテゴリー[ F1・全般 ], コメント[0], トラックバック[3]
登録日:2006年 08月 03日 04:07:45

カレンダー
< 2006年 08月 >


1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

プロフィール
斎藤モ吉
(男)
福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
最近のトラックバック
お気に入りリンク
検索