2006年 08月 12日

「第3期ホンダ初優勝!」で一句

<F1・第13戦 ハンガリーGP>バトン GP参戦7年目にして初優勝を果たす - ハンガリー

【ブダペスト/ハンガリー 6日 AFP】F1第13戦・ハンガリーGP(Hungarian Grand Prix)、決勝。14番グリッドからスタートしたホンダ(Honda)のジェンソン・バトン(Jenson Button)は、1時間52分20秒941をマークし、GP参戦7年目にして初優勝を果たした。表彰台に登ったバトンは、優勝トロフィーを手に持ちガッツポーズを決めた。(c)AFP/ATTILA KISBENEDEK

AFPBB News


胸熱く 君が代響く ハンガロリンク

[解説]
ついに来た!この瞬間をどれだけ待ち焦がれた事か。
第3期ホンダ復活から7年目、やっと届いた表彰台の頂点。その実力を認められながらフェラーリ&シューマッハに幾度も勝利を奪われ、アロンソやライコネンにも遅れをとり続けていたバトンにとっても初の栄冠。ゲンを担いだ(?)無精髭で破顔一笑、喜びを爆発させたバトンが立つハンガロリンクの表彰台。そのバックに「君が代」が流れた。壇上を見上げ涙する中本修平ホンダSTDの姿に思わずもらい泣き。本当におめでとうホンダ&バトン。そして、この日を待ち続けていた日本F1ファンに乾杯!

[雑感]
焦点はすっかり、アロンソ/ルノー対ミハエル/フェラーリの2強対決に絞られた感のあった2006年シーズン。そこへ降って湧いたようなホンダの勝利。表彰台初めて聞く「君が代」は、ニッポンのF1ファンにとって念願の、そしてとびきりのサプライズでした。あまり突然過ぎて、あるいは待たされ過ぎて、訳も分からず涙する人、喜ぶ事も忘れただ呆然と画面を見つめる人、「遅っせ〜んだよバカ」と怒っちゃう人など喜び方も人それぞれ。胸に去来する感慨もまた人それぞれだったのではないでしょうか。そんな第3期ホンダ初優勝にちなんで、過去の第1期、第2期のホンダ初優勝の様子を振り返ってみます。

◆ホンダの初優勝
いまや伝説のように語り継がれる1965年メキシコでのホンダ初優勝。海抜2000メートル以上、高地メキシコシティならではの空気の薄さを逆手にとって掴んだ勝利。そこで生かされたのは、かつて太平洋戦争中に戦闘機のエンジンを作っていた中村良夫監督の持つ燃料混合気の「薄さ」のノウハウでした。
日本のホンダ本社へ勝利を伝えるために送られた電報文が、ローマ皇帝シーザーの名言にあやかった「VENI VIDI VICI(来た、見た、勝った)」というエピソードは特に有名です。ところがその電報を受け取った本田社長をはじめ本社スタッフは、誰もその意味が分からなかったそうです。格好良すぎる逸話のウラに、実は「懲りすぎもホドホドに…」というオチがあったのでした。

◆ジム・クラーク全盛時代
本田社長がにわかに「優勝」を信じられなかったのもムリのない話です。当時は稀代の名レーサー、ジム・クラークと天才コーリン・チャップマン率いるロータスチームの黄金期。1965年シーズンもジム・クラークが全10戦中開幕から6連勝(第2戦モナコのみ欠場。理由は日程の重なったインディ500マイルを優先したためでそっちもガッツリ優勝しちゃいます)を成し遂げ、ワールドチャンピオンシップもあっさり獲得します。そんな後のいわば消化試合。翌年からはレギュレーション変更でエンジンの総排気量が3リッターへ移行するため、1.5リッターエンジンも年内限り。どのチームも関心はすでに翌年へと向けられていたのです。

◆中村良夫監督の執念
これが最後のチャンス!居ても立ってもいられなくなった中村良夫氏(性急に勝利を求める本田社長から前年度の成績不振を理由に量産部門へ更迭中でした)は、本田社長へ直談判してチーム監督への復帰を願い出ます。前戦アメリカGPを自分自身の目で見て、やっと現場の悪戦苦闘ぶりを理解した(?)本田社長は、中村氏の現場復帰を認めます。条件は「必ず勝つ」事でした。

◆リッチー・ギンサー
何もかも経験不足だったホンダ・チームは、1965年のNo.1ドライバーにリッチー・ギンサーを迎えていました。フェラーリ、BRMという名門チームに在籍した経験を買われての起用でした。すでにベテランの域に達していたギンサーにとって、新興チーム・ホンダへの移籍はギャンブルでした。フェラーリではフィル・ヒル、BRMではグラハム・ヒルという花形レーサーたちの影に埋もれた万年No.2だった彼は、残り少ないレース人生を東洋から来た血気盛んな弱小チームに賭け、表彰台の頂点へ立つ「夢の実現」を目指したのです。

◆1965年 10月24日 快晴 メキシコシティ・サーキット
予選3位からスタートしたギンサーは、驚異的ロケットスタートを決め、直線で一気にジム・クラークのロータスを抜き去り、堂々トップに立ちます。いつもホンダチームの足を引っ張り続けてきたトラブルもなく、快調にトップ走り続けるギンサー。やがてスタートから2時間8分32秒後。ギンサーとホンダRA272は、ついに夢にまで見たトップチェッカーを受けます。ジム・クラークのポールタイムを上回るファステストラップで追い上げてきた2位ダン・ガーニーを2秒差で振り切っての優勝でした。

◆走らないはずだったメキシコGP
実はこのメキシコGPをホンダは欠場する予定でした。理由は、翌年の3リッター移行へ備えた準備を少しでも早く進めるためでした。それでも本社の意向により出場が決定され、エントリーを済ませた後、今度はギンサーが予選前に風邪を引いてしまいます。そこでまた止めようかという話が持ち上がります。しかし、それも予選グリッが3位と好位置だったため、そのまま決勝進出となったのです。
もし、このメキシコへの参戦がなかったなら…ホンダの現在の活躍は、また違ったものになっていたかもしれません。

◆第2期ホンダ復帰の舞台
古き良き騎士道精神に満ちたグランプリ時代は終わりを告げ、サーキットには、エキゾーストからパンパンとけたたましいバックファイアが鳴り響くターボ全盛時代を迎えていました。ベテランレーサーの豊かな経験より、速さに飢えた若いレーサーたちの野獣のようなどん欲さが、800馬力に達しようとするターボパワーを武器に荒々しくサーキットを席捲していました。その中心は、若き日のアラン・プロストとネルソン・ピケ。ルノーターボとBMWターボを駆るこの2人が、サーキット上で激しく火花を散らしながらチャンピオン争いを繰り広げていました。

◆パートナー決定
1983年、スピリットチームへのエンジンサプライヤーという名目(実質は1年のテスト期間)でエントリーしてきたホンダ。彼らは、現場の空気から即座に強力で経験豊かなチームパートナーの必要性を悟ります。その第1候補に上がったのは、ウィリアムズ・チームでした。彼らは前年度ワールドチャンプであるケケ・ロズベルグを擁しながら、ワークス体制で挑むエンジンサプライヤーに恵まれずターボ時代に乗り遅れかけていました。ウィリアムズにとって、エンジンを提供してくれるホンダはまさに救世主。ホンダにとって、ランキングの下がったチームの方がリスクが少なくリターンが大きいというメリットがありました。当初は、お互いにとって理想的なパートナーと思われました。

◆ちぐはぐ
ところがいざ1984年の開幕を迎えたホンダとウィリアムズはお互いに相手を見誤っていた事に気づかされます。ウィリアムズはホンダエンジンのパワーを過小評価し過ぎ、ホンダはウィリアムズのチーム力を過大評価し過ぎていした。カーボンコンポジット製モノコックが常識になりつつある時代にウィリアムズのチーフデザイナー/パトリック・ヘッドが用意してきたのは、明らかに時代遅れなアルミハニカム製モノコックのFW09でした。その無骨なスタイルに似合わぬ貧弱なシャシーはホンダパワーとエンジン重量を支えきれず、ハンドルを切っても全く曲がろうとしない超アンダーステア車だったのです。またホンダエンジン自体も頻繁に壊れました。

◆傷だらけの勲章
FW09に乗るロズベルグとジャック・ラフィーは延々とリタイアの山(全16戦中/ロズベルグ10回、ラフィー11回)を築き上げます。そんな惨憺たる有様の中、運の良さだけで拾ったのがダラスの勝利でした。

◆1984年 7月8日 快晴 フェアパーク・グランプリ・サーキット
ポールポジションはロータス・ルノーのナイジェル・マンセル。荒れたアスファルトに足を取られたか、トップ走行に不慣れなためか、ヨタヨタと走るマンセルはコーナー毎に壁にヒットしてはタイヤを痛めます。予選8位から一気に2位につけ、マンセルの背後から虎視眈々とチャンスを窺っていたロズベグは36周目にマンセルのミスを見逃さずパスしてトップへ立ちます。しかし、その12周後、予選7位から地力に勝るTAGポルシェターボエンジンでロズベルグの背後を脅かしていたマクラーレン/アラン・プロストに首位を奪われ、アッという間に差を広げられてしまいます。このまま2位かと思われた終盤57周目、トップのプロストがタイヤトラブルでリタイア。さらにマクラーレン/ニキ・ラウダまでもが60周目にリタイア。さらに運の良い事にレース時間が2時間を超えてしまい、2時間ルールに則り、本来の周回数より10周少ない67周でレース終了。ロズベルグの手元にラッキーな優勝が転がり込んできます。

◆悲劇を演じたマンセル
ポールスタートからズルズル順位を下げたマンセルは、ギアトラブルで止まったマシンを手で押して(本当は危険行為でペナルティの対象)6位入賞。ゴール後、まるで失神したかのように倒れ込み、ゴールシーンをさらに感動的に演出しました。しかし、治療に駆けつけたシド・ワトキンス博士は「アレはマンセル一流の“カワイソぶりっこ”芝居」とウンザリしたように語っています。マンセルがああした行動を取ったのは、予選トップから転げ落ちた自分の不甲斐なさをチームから批難されるのを恐れたためでした。「ライオン」の異名を持つ彼の「意外と小心者」というもうひとつの側面が垣間見える、いかにもマンセルらしいエピソードです。

◆ライバルたちの脱落
今回のハンガリーGPを見て気づいたのは、ホンダの第1期、第2期、第3期全ての初優勝に「優勝候補者たちの脱落」がからんでいたという事実です。

1965年/メキシコGP[/color][/strong]
 ○ジム・クラーク(優勝6回/年間ランク1位)8周・エンジントラブル
 ○グラハム・ヒル(優勝2回/年間ランク2位)56周・エンジントラブル
 ○ジャッキー・スチュアート(優勝1回/年間ランク3位)35周・クラッチトラブル
 ○その他のリタイア/ヨッヘン・リント/ブルース・マクラーレン/ジャック・ブラバム

1984年/ダラスGP
 ○ニキ・ラウダ(優勝5回/年間ランク1位)60周・マシントラブル
 ○アラン・プロスト(優勝7回/年間ランク2位)56周・タイヤトラブル
 ○ミケーレ・アルボレート(優勝1回/年間ランク4位)54周・タイヤトラブル
 ○ネルソン・ピケ(優勝2回/年間ランク5位)45周・コースオフリタイヤ
 ○その他のリタイア/デレック・ワーウィック/アイルトン・セナ/パトリック・タンベイ

2006年/ハンガリーGP
 ○フェルナンド・アロンソ(優勝6回/現在ランク1位)51周・ホイールナット脱落
 ○ミハエル・シューマッハ(優勝5回/現在ランク2位)67周・トラックロッド破損
 ○フェリペ・マッサ(優勝なし/現在ランク3位)7位・1周遅れ
○ジャンカルロ・フィジケラ(優勝1回/現在ランク4位)18周・コースオフリタイア
 ○キミ・ライコネン(優勝なし/現在ランク5位)25周・レースアクシデント

◆運の良さも実力のうち
ご覧のように、今回のハンガリーGP「だけ」運が良かったのではない事が分かります。史上最強の強運チャンピオンレーサー/ケケ・ロズベルグのダラスGP勝利はもちろん、圧倒的だった1965年のメキシコでの勝利にも「ラッキー」な要素ヌキには語れない部分があります。
決して「ラッキーだっただけ」などと言うつもりはありません。「ホンダ優勝」という歴史的事実、その価値に一点の曇りもありません。ただ言いたい事は「初めて勝つ」ためには多分に運の力が必要だという事です。運を引き寄せる事もまた実力のうちだと思うのです。この「1勝」をはずみにして、また一つ、そしてまた一つと勝利を重ね、かつての常勝ホンダの再来を願うものです。
また、そう遠くない未来にトヨタ、そしてスーパーアグリチームにもそんな「運」が巡ってくる事を望みます。

◆光と影
今回のハンガリーでのホンダ優勝が、ジャック・ヴィルヌーブ降板と入れ違いだった事に運命の皮肉を感じ、複雑な心境になります。2000年のホンダ復帰、その早期優勝の実現こそがジャックの使命と誰もが思たBARホンダ時代。かつてのセナがそうであったようにジャックとホンダのタッグがグランプリを支配する…そんな未来を夢想した時期もありました。過去の彼らに一体、何が足りなかったのでしょうか。…技術?…戦略?…運?…分かりません。
ただ、せめてジャックには、あのハンガロリンクの空の下でホンダの晴れ姿を見て、そして「君が代」が流れるのを聞いてほしかったなあと、思わずにはいられません。

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登録日:2006年 08月 12日 03:36:35

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プロフィール
斎藤モ吉
(男)
福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
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