2007年 01月
「ザナルディは変わらない」で一句
<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン
【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
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(c)AFP/JOSE JORDAN
運命も 追い越す強気 不変なり
[解説]
CARTの世界で人生最良の日々を過ごしたザナルディでしたが、1999年にF1の世界に戻ってきた途端、まるで運を全て使い果たしたかのような不甲斐ないシーズンを送ります。評判は地に落ち、苦労して築き上げた栄冠も見る影もなく色褪せてしまいます。
天国から地獄への直滑降。なんとかドン底からはい上がろうとする彼をさらに不幸が襲います。時速300kmでの出会い頭の事故。誰もが再起不能を疑わない「両足切断」というレーサーとして致命的と思える重いハンディキャップを負います。
それでも彼は不屈の闘志をもってサーキットへ戻ってきました。過酷な運命さえも「レースがしたい」という彼の強い意志、生まれながらの闘争本能を変える事ができなかったのです。
そして、彼は今もレースを続けています。過去の真のレーサーたちが息絶えるその瞬間まで走る事を止めなかったように…。
[雑感]
こんなに長くザナルディについて語る気はなかったのですが…今回で最終回。
ウィリアムズからF1復帰、そして悲劇の事故を迎えるまでの軌跡です。
◆ガナッシへの感謝
実は、CART移籍1年後の97年にもF1復帰の可能性があったザナルディ。相手はジョーダン、交渉直前まで話が進んでいました。しかし、チャンスを与えてくれたCARTオーナー、ガナッシへの恩返しを済ませていないという思いからF1復帰の道を捨てCARTへとどまります。そして、その思いの強さを証明するかのようにCARTチャンピオン2連覇を遂げた後、F1復帰の決意をガナッシへ打ち明けます。ガナッシはこう答えます。
「私たちに何が出来るか言ってくれ。チムは君に精一杯の事をしてきた自負があるが、それ以上に君がチームにしてくれた事は計り知れない」と。
一文無しでガナッシのドアを叩き、まさにアメリカン・ドリームそのままに成功を掴んだザナルディ。その素晴らしさは、家族のように支えてくれたチームの暖かみにあると実感した言葉でした。
◆ピーター・コリンズの友情
F1復帰の交渉相手はフランク・ウィリアムズ。仲介したのは元ロータス在籍時代のチーム代表、ピーター・コリンズでした。そして、ウィリアムズとはこれが2度目の交渉でした。
1度目は、まだザナルディがロータス在籍時の事。テストドライバーに降格されたザナルディはチャンスを求めて「セナの悲劇」で空席ができたウィリアムズへ後ろめたさを感じつつ、アポイントを取りフランクと交渉しますが断られます。そんな経緯もあり、躊躇していた所をコリンズに「とにかく会ってみるべきだ…どんな話になるか分からないじゃないか」と諭されます。結果的にはこれが功を奏して、フランクの方からウィリアムズへの誘いがあり4年振りのF1シートを獲得したのです。
◆2面性?単なるリップサービス?
F1再デビューを前にザナルディはインタビューでこう答えています。
「F1に比べれば、インディCARTなんて幼稚な遊びみたいなもの。まあ時速240マイル(約384km/h)でオーバルを走るというのはちょっとした度胸がいるけどね。F1マシンは、コンピュータでつくられたテクノロジーの域だから、ドライバーにも高度な分析能力が求められる。こうした部分はうまくこなせるという自信がある。」
(F1グランプリ特集 VOL.113 デビッド・トレメイン取材記事より)
けれど、その1年前。ツインリンクもてぎで行われたCART選手権第2戦の直前に行われたインタビューでザナルディはこう答えています。
「F1はマシンパフォーマンスが勝負を決める部分が多く、ドライバーは二の次。(中略)オーバルは一見簡単そうだけど、実はすごく難しい。(中略)オーバルはのべつまくなしにリミットで走行しているんだよ。ギリギリを狙って、しかし限界を越えないように。それがすごく難しいんだ。」
(週刊プレイボーイ特別編集 ’98FedExチャンピオンシリーズ 第2戦バドワイザー500 公式ガイドブックより)
微妙にニュアンスが違っているような…良く言えば、TPOで言葉を使い分けるタイプ?
◆お金よりも重かったF1への復帰
ザナルディがウィリアムズと交わした契約金は年間500万ドル(当時約6億円)。しかし、CARTのチップ・ガナッシがザナルディ引き留めに提示した金額は1300万ドル(当時約15億6000万円)でした。それを蹴ってでも戻りたかったF1。4年前に着せられた汚名挽回はザナルディの悲願だったのでしょう。引き留めに成功しなかったチップ・ガナッシは、それでもザナルディのマネージャーとなりバックアップを続けます。ザナルディのF1での成功を信じて、しかし…。
◆不安なスタート
復帰後初めてF1マシンを走らせたバルセロナでの合同テスト。カンを取り戻す事が目的とは言うもののテストドライバーのマックス・ウィルソンのタイムを上回れずじまい。しかも、扁桃腺炎の手術後、ヘレスの合同テストに合流したラルフ・シューマッハには常に1秒遅れ。誰もが「おや?」と不安を感じました。
そして、迎えた開幕戦。ウィリアムズの2人は挙動が不安定な新車FW21のセッティングに手こずります。それでもラルフはシングルグリッドを確保、決勝では表彰台3位をゲットします。一方、ザナルディはスロットル制御システムの油圧系統にトラブルを抱えたまま予選15位。決勝では21周目に単独スピン、コースオフしてリタイアに終わります。
◆冷めていく周囲の目
ザナルディのマシンばかりにトラブルが集中…それが不振の主な原因でした。しかし、無駄なスピンやコースオフでマシンに余計な負担を掛けた事もリタイアを招く要因となっていました。シーズン中盤になって1ポイントも上げられないザナルディ。一方のラルフ・シューマッハは、着実にマシンをゴールまで導き、チームの獲得ポイントを1人で稼ぎ出していました。パドックの噂は、ザナルディが放出される如何より、それは「いつ頃か?」に移行し始めていました。
◆モントーヤの影
そんな頃、ウィリアムズの首脳陣が渡米します。目的はチップ・ガナッシの元へ預けたファン・パブロ・モントーヤが活躍するCARTレース観戦。1999年CARTチャンピオン最有力候補として活躍するモントーヤ。複数年契約を結んだはずのザナルディの代わりとして次期ウィリアムズ入りが本命視されていました。そんな微妙な時期にこのチームの動きは、まさに「火に油」。噂の信憑性をさらに高めます。当然、ウィリアムズ側はそれを打ち消すために「ザナルディ残留」を公式声明として発表します。誰も信用しない事を十分承知の上で…。
◆正念場のモンツァ
それはまるで5年前を思い出させます。ここモンツァでロータス復活の起爆剤となる勝利へ、最後の望みを託したジョニー・ハーバートがマシンを「4位」セカンドロウに並べたように、自分に着せられた汚名をそそぐレースを見せ、来期への希望を繋ぐ最後のチャンスを活かそうとザナルディは「4位」セカンドロウへFW21を並べます。
イタリアはザナルディの地元。当然、国際映像は完全にザナルディメイン。パレードラップをカバーするザナルディの車載映像が母国ドライバーへの期待を高めます。しかしザナルディが戦う相手は、前のマクラーレン2台でもなく、背後の若きタイガー、ラルフ・シューマッハでもありません。「元CARTチャンプ」というプライドを取り戻すため、自分自身の内に渦巻く「焦り」「衝動」「疑念」が敵でした。ザナルディの「生き残り」を賭けた決戦モンツァ。無情のシグナルは、オールレッドからブラックアウトへ…。
◆「すべて」が落ちていく…
レース序盤は、ザナルディが絶好の飛び出しを見せ3位へポジションアップ。しかし、前を行くマクラーレン/ハッキネンとジョーダン/フレンツェンには少しずつ引き離され、逆に後ろには長い渋滞の列が出来はじめます。18周目、ピットからの指示か、あっさりラルフに先行させた後は、バリチェロ、サロに次々とパスされずるずる後退していきます。ザナルデイ・メインの放送が逆にあだとなり、彼の不甲斐ない姿が白日の下に晒されてしまいます。モニターを凝視するフランク・ウィリアムズのげんなりした表情とパトリック・ヘッドの苦虫を噛みつぶしたような顔が「すべて」を物語っていました。
◆語り草となるレース
その直後「歴史」が動きます。トップを快走中のミカ・ハッキネンのマシンが第1シケインをクリアしようとした時、突然、MP4/14のリアが流れ1回転しながらコースアウト、エンスト&リタイアしてしまいます。
マシンが止まるやハンドルを投げ捨て、グローブを地面に叩きつけながら、ティフォシたちの大歓声を避けるようにコース脇の林の中へ逃げ込むハッキネン。その後、上空のヘリコプターから木陰でしゃがみこみ泣き崩れるディフェンディングチャンピオンの姿が全世界へと発信されます。フェラーリ/アーバインとのチャンピオン争いがかかったレースを自らのミスでむざむざ失った自分自身に対する激しい自己嫌悪の涙でした。
その後のレースも実に白熱したものとなります。
フェラーリへの移籍が広報されたスチュワート/バリチェロが、アグレッシブなレースとクルサードを最後まで押さえ込むテクニシャンぶりを発揮して4位。3位表彰台には、足を骨折したミハエルの代役フェラーリ/ミカ・サロ。ウィリアムズのラルフがファーステストラップを記録する激走を見せ2位。そして、1位には去年ウィリアムズでの不振ぶりを問われてジョーダンへ移籍したフレンツェンがシーズン2勝目、チャンピオン争いの末席に滑り込みます。そんな彼らの活躍振りの影で、本来「主役」となるはずだったザナルディは、7位ノーポイントという無念の結果に終わります。
◆とどめのニュルブルクリンク
次戦ドイツ・ニュルブルクリンクで行われたヨーロッパGP。今度はラルフが地元の注目と期待を集めます。ラスト・チャンピオン候補フレンツェンがプレッシャーに潰されリタイア。それを横目に見ながら、通り雨が何度も降る難しいレースを途中タイヤバーストという不運に見舞われながらも持ちこたえ、ラルフは見事2位を勝ち取ります。まさにフランクが望むレースをラルフはやってのけたのです。
では、フランクが一番嫌うレースとは…予選下位からスタートし、一度も画面に映ることなく、いつの間にかリタイアするような無様なレースです。そういうドライバーは、ウィリアムズにとって存在価値のないドライバーでした。
ウィリアムズがザナルディに求めたのは、もっと王者らしいレースでした。勝てなくとも他を圧倒するようなレースを見せつける事。その点でザナルディは、明らかに期待はずれだったのです。
◆悲しみのチャンピオン決定戦
ウィリアムズの次期有力候補、ファン-パブロ・モントーヤは、まさにチャンピオンを賭けた最後のツバ競り合いをしていました。
1999年10月31日。舞台はカリフォルニア・モータースピードウェイ、CART最終戦フォンタナ500。209ポイントでチャンピオンシップ1位のダリオ・フランキッティ。前戦でクラッシュノーポイントに終わったモントーヤは200ポイントで2位でした。
レースは序盤から激しいクラッシュが相次ぎ何度もフルコースコーション&セーフティーカーが出る展開。しかし、モントーヤは常に上位グループに留まり続け、ファイナルラップに4位滑り込み12ポイント獲得。10位2ポイントに終わったフランキッティと同率212ポイントで並びます。その瞬間に優勝回数で上回るモントーヤが1993年のナイジェル・マンセル以来となるルーキー&チャンピオンを見事獲得します。
しかし、その日モントーヤがチャンピオン決定を喜ぶ事はありませんでした。
レース序盤にモノコックごと回転しながらコンクリートウォールに叩きつけられたグレッグ・ムーアという名の若き才能が永遠に失われたからです。開幕ポールトゥーウィンを決め、翌年には名門ペンスキーへの移籍が決定。まさにこれから時代を築こうとした矢先の悲劇でした。レース終了後間もなく彼の訃報が場内アナウンスで伝えられたモータースピードウェイは深い悲しみの底に沈みます。泣きじゃくるエイドリアン・フェルナンデスの姿が親しかった人々の悲しみを代表していました。CARTでは、第17戦ラグナセカでもゴンザロ・ロドリゲスというウルグアイ人ドライバーが死亡する事故が起きたばかり。F1に比べて命のリスクが高いレース・カテゴリーと言えました。
◆1年の休養期間
シーズン終了後、来期セカンドシートの行方が二転三転するウィリアムズ。「ザナルディ本人のモチベーション次第で残留もありえた」が、F1継続の意志なしとの申し出がザナルディ側からあったため契約解除に応じた…そうですが、チーム関係者がすでに早い時期から他のドライバーを物色していた事は周知の事実でした。
そして、来期セカンドシート最有力候補と目されていたモントーヤがCARTへの残留を発表したため、代わりにF3の経験しかない弱冠20歳の新人ジェンソン・バトンの起用が発表されます。
一方、ザナルディは古巣であるチップ・ガナッシがホンダと袂を分かちトヨタユーザーとなったり、家族からは危険なオーバルコースへの復帰を反対された事もあり、1年間の休養生活に入ります。1年間で粉々に砕け散った自分のプライドを取り戻すには、それだけの時間が必要だったのでしょう。そして、2001年。ザナルディは明るい夢を抱いてCARTの世界へ復帰します。
◆運命の日
2001年9月15日・ドイツで開かれたCART第16戦「ジ・アメリカン・メモリアル」決勝。
名手トニー・カナーンを擁するモー・ナン・レーシング(ホンダエンジン)から参戦していたザナルディは143周目にピットインし、コース復帰直後にコースオフします。なんとかコースへ復帰しようと挙動が安定しないマシンを立て直そうとしますがトラックの内側へノーズを向ける形となってしまいます。そこへアレックス・タグリアーニの乗るマシンが時速300km/hオーバーの高速で衝突。コクピットサイドを直撃されたマシンはコクピットから前の部分を吹き飛ばされ大破。ザナルディは両足に酷い怪我を負います。迅速な救命措置がとられますが出血多量でかなり危険な状態でした。それでも奇跡的に快方へと向かい、一命を取り留めます。
↓事故映像(ショッキングな映像で気分が悪くなる怖れがあります。特に心臓が弱い人にはオススメしません。こんな事故に遭いながらレースへと戻ろうとするザナルディの気がしれません)
http://www.youtube.com/watch?v=xQBxROyh0dQ&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=Z_7RatoqABw
◆フランク・ウィリアムズの言葉
「チーム全員が、アレックスの深刻な事故の知らせを聞いて、とても動揺している。彼と彼の家族のことを考えると胸が痛い。彼は真のジェントルマンだ。彼には多くの友があり、世界中に多くのファンがいる。彼を知るすべての人間が、彼の一日も早い回復を願っている。」
(F1グランプリ特集 VOL.148 ニュース記事より)
◆帰ってきたザナルディ
↓そして、これが去年暮れのテスト映像。はっきり言って泣けます。感動します。
http://www.youtube.com/watch?v=N_wrBSS1DHs
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登録日:2007年 01月 30日 03:17:26
「ザナルディ GOES TO USA」で一句
<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン
【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
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(c)AFP/JOSE JORDAN
ホンダ乗り 本領発揮 チャンプカー
[解説]
F1でまったく芽の出なかったザナルディ。1年の休養期間(?)を経た96年にアメリカへと渡ります。当時、アメリカのチャンプカーレース(CART)にはF1経験者も多く参戦(マーク・ブランデルもこの年CARTへ移籍。チームメイトはマウリシオ・グージェルミン)しており、顔見知りが多い環境もザナルディが参加しやすい要因のひとつと思われます。が、渡米の最大の理由はホンダの存在があったからと勝手に想像しています。F1時代に無限-ホンダのテストで培ったザナルディの開発能力をCARTで苦戦続きのホンダが頼りした…のではないでしょうか?それを証明するかのように、ザナルディがCART参戦以降、ホンダも着実に優勝戦線へ食い込めるようになり、ついにはザナルディも2年連続タイトル獲得という偉業まで達成します。
[雑感]
正直に言えば、この頃のCARTレースにはあまり詳しくありません。ザナルディのCARTでの活躍を見たのも2度目のチャンプを目指す98年ごろだったと記憶しています。ですから当時の模様に詳しい人のサイトなどを見る方が正しい情報が得られると思います。ただマンセルやジャック・ヴィルヌーブの影響でF1雑誌にもよくCART関連の情報が掲載されていましたので、そのあたりをツギハギしながら何とか当時の雰囲気だけでもお伝えしたいと思います。
◆ホンダのCART挑戦
F1でホンダターボと言えば、“無敵”の代名詞でした。しかし、90年代に入りルノーエンジンを乗せたウィリアムズによってその栄冠は奪われ、ホンダは92年シーズンを最後にF1から撤退します。その裏には、北米市場開拓という企業戦略に基づく大命題がありました。アメリカでの確固たる地位を築くためにF1よりもCARTでの成功が優先されたのです。しかし、そんなホンダを待ち受けていたのはより過酷なCARTの洗礼でした。
◆汚名
94年、チャンピオンチーム・チームレイホールとタッグを組み、必勝態勢で挑んだ一年目は1勝も上げる事ができませんでした。それどころか栄光の「インディー500マイルレース」ではスペシャルエンジンを用意したにもかかわらずホンダエンジンはメルセデスやイルモアどころかカスタマーエンジンのフォードよりも最高速度で劣る有様。ボビー・レイホールは危うく予選落ちしかけるほどでした。そこで業を煮やしたレイホールと共同オーナーのカール・ホーガンはホンダエンジンの使用をあきらめ、ライバルチームであるペンスキーチームから車を2台譲り受けてレースに参戦します。
決勝レースは、ペンスキーのアル・アンサーJrが優勝。2位にインディー初挑戦のジャック・ヴィルヌーブ。そして、3位にはホンダの代わりにイルモアエンジンを積んだペンスキーシャシーに乗るボビー・レイホールが入ります。
◆背水の陣
1年目は失望の0勝。2年目も年間1勝に終わったホンダ。参戦1年目から勝利を上げ続け、圧倒的なメルセデスを相手にこれ以上、負け続けるワケにはいきません。しかもトヨタまでもが参戦してくる噂が…。
レースによっては最高速を記録するほど目覚ましい発展を遂げたホンダ。3年目は、そのポテンシャルを確実に勝利へと結びつけられるドライバーとチーム力が必要でした。
◆失地回復へ必勝の布陣
前年のタスマンとコンプテックの2チームに加えて、チップ・ガナッシ・レーシングとジム・ホール・レーシングという有力チームと契約を結び、ドライバーラインナップもジミー・バッサー、ジル・ド・フェランという名実ともに保証済みの実力派レーサーが揃います。そこにもう1人。チップ・ガナッシから参戦する新人ドライバー、アレックス・ザナルディも名を連ねます。
◆ダブル?いや、トリプルタイトル獲得
そして、開幕した96年はまさにホンダ・イヤーと呼ぶにふさわしいシーズンでした。マイアミでの開幕戦では、ザナルディは84周目のクラッシュリタイアに終わりましたが、同僚のジミー・バッサーとジル・ド・フェランのホンダ勢が1-2フィニッシュ。ホンダ勢はその後も快進撃を続け、全16戦中、ポールポジション獲得回数12回、92年のシボレー以来の5連勝記録を含む優勝11回を遂げ、エンジンメーカーへ与えられる「マニュファクチャラーズ・チャンピオンシップ」タイトルを堂々獲得します。そして、苦労人ジミー・バッサーが4勝で初のドライバーズタイトルを獲得。ザナルディも3勝を上げて年間ランキング3位、最優秀新人賞である「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」タイトルを獲得します。
◆うなぎ昇りの評判
96年の台風の目、チームメイトのジミー・バッサーと熾烈な優勝争いをするザナルディ。その評判はどんどん上がる一方でした。その頃のジャーナリスト評です。
「ザナルディは速い。彼のテクニカルフィードバックの適切さ、レースにかける純粋なひたむきさに、(チームオーナーの)ガナッシは心を打たれている。また、彼は誰に対しても礼儀正しく、それでいて愉快で、洞察力が鋭く、人の意表を突くような考えの持ち主でみんなに好かれている。」(米モータージャーナリスト/ジェレミー・ショウ F1グランプリ特集Vol.88より)だそうです。かつてのミソッカス扱いとエライ違いです。
◆アメリカの人気者に
「たとえばサイン一つするにも胸が痛む場合がある。もう300枚近く書いたから移動しようとすると必ず『俺には書いてくれないの?』という悲しげな声がする。悪いんだけど、どうしようもない…。この優勝はそういうファンに捧げたいと思う」
「ある晩、友だちと食事に行って支払をしようとしたら、ウェイターが『ファンの方からいただいたから結構です』と言うんだ。どうやらその人は30分前に帰ったらしいんだけど…びっくりしたよ。そんな事って、アメリカ以外では考えられないからね」
(米モータージャーナリスト/ジェレミー・ショウ F1グランプリ特集Vol.96より)
◆ついに王座へ
翌97年は、ザナルディが年間5勝を上げドライバータイトルを獲得しますが、マニュファクチャラータイトルはメルセデスに奪われます。そして、ホンダは全勢力を傾けダブルタイトル奪還へ向け98年を迎えます。そして、ホンダエンジンは見事全19戦中13勝を上げ、マニュファクチャラータイトルを奪還。ザナルディも年間7勝獲得ポイント285点を上げ、2年連続ドライバータイトルを獲得します。
↓この当時の各レースの模様はこちらが詳しいので是非ご覧ください。
http://www.honda.co.jp/motorsports/infos/1998/sokuho/4_indy_index.html
↓こちらはファンが作ったトリビュートビデオ。レースでの活躍シーンやドーナツを描く姿などが見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=9E_QR96WXKQ
◆「瀬戸物屋の暴れ牛」
しかし、そんなザナルディもCARTでは良い評判ばかりではありません。誰彼見境なくホイール・トゥー・ホイールの争いを仕掛ける行為を喜ぶファンもいれば「危険で馬鹿げている」と批難する人々もいました。ピットの評判も「彼はチャンピオンにふさわしくない」という意見が多く、もっと時と場所をわきまえた冷静な判断をすべきだと言う意見がよく聞かれました。ライバルたちの命を軽視しているとまで言われました。前述のジェレミー・ショウは「ある者たちにとって、ザナルディは瀬戸物屋の暴れ牛だ。細心の注意を払うべきところで暴れまわる。しかし、他の者にとってはホイールに隠れた天才児に見えるようだ。実際、彼はその中間と言っていい。」と分析しています。
そんな彼の真価を問うために、今一度、F1への門戸が開かれようとしていました。行き先は、CARTとF1でチャンプを獲ったジャック・ヴィルヌーブが去ったウィリアムズチームでした。
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登録日:2007年 01月 21日 13:14:25
レガッツォーニ氏を忍んで
<F1>クレイ・レガッツォーニ氏の葬儀が故郷で営まれる - イタリア
【ルガーノ/スイス 21日 AFP】去る15日にイタリアのパルマ近郊の高速道路上で起きた車両3台による事故に巻き込まれ死亡したスイスの元F1ドライバー、クレイ・レガッツォーニ(Clay Regazzoni)氏の葬儀が故郷ルガーノ(Lugano)で営まれ、故人と縁のある元F1ドライバーのニキ・ラウダ(Niki Lauda、オーストリア)氏、ジャッキー・スチュワート(Jackie Stewart、英国)氏を始めとするおよそ1000人の関係者やファンらが参列した。
≫続きを読む…
(c)AFP/FABRICE COFFRINI
某動画サイトで関連のある映像を拾ってみました。
レガッツォーニ氏のレーサー時代をリアルタイムで知っている人もホンダのコマーシャルぐらいでしか知らない人もご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=x0EQaquE8fw
↑事故翌日。スイスのニュース番組。エンジン部がグャグシャに壊れた愛車大型トラックとの衝突事故の激しさを物語ります。
親しい友人のコメントがメインで間に簡単なプロフィール紹介とレース映像が挿入される構成。レガッツォーニが半身不随の重傷を負った1980年のロングビーチの事故の模様や事故から回復後にカートを楽しむ姿などが紹介されています。
http://www.youtube.com/watch?v=ZctIBixznKE
↑もう少し詳しいイタリアのニュース。スポーツカーレースをしていた頃のモノクロ映像から引退直前のエンサインN180を走らせるレース映像までレガッツォーニのレース人生をダイジェストしています。特に電話でジャンカルロ・ミナルディが語るコメントのバックに流れる1970年モンツァ(予選中にヨッヘン・リントが非業の死を遂げたレース)での優勝を伝えるモノクロ映像は感慨深いものがあります。ミナルディのコメント後は延々とイタリア人のコメンテーターが喋り続けるだけなので途中でカットしてもOK。
http://www.youtube.com/watch?v=2j0ixHHagZM
↑コチラはスポーツ系ニュース番組。コメンテーターの解説と時系列に沿ったキャリア紹介。上記と似た映像もありますが1977年インディ500参戦時の派手なクラッシュ映像など彼が何度も死にかけた事が紹介されます。特に引退を決定づけた事故の現場映像はコクピットがタイヤバリアに深々と突き刺さっている様子がよく分かります。身体が不自由になっても不屈の努力でモータースポーツを楽しみ続けようとする姿に感動。
http://www.youtube.com/watch?v=TU1oNYCsR_I&mode=related&search=
↑追悼のため制作されたショートビデオ。カントリーミュージックに乗せて、かつての勇姿が紹介されます。フェラーリ312Bを駆ってティレルのジャッキー・スチュワートとコース上でせり合う姿やティフォシの前でフェラーリ312Tをトップチェッカーまで導き優勝した1975年モンツァの映像などが紹介されます。若い頃のルカ・ディ・モンテゼモーロがゴールの瞬間に見せる現代と大差ないリアクションにも注目。
http://www.youtube.com/watch?v=TzQCMZEo_F0
↑彼が完走した最後のレース。1980年南アフリカGPでの車載映像。キャラミの旧コースの雰囲気が分かります。隣を頭の上に物凄く大きなカメラを乗せて走るルノーのプロストが走ります。最後に入る当時のピットの狭さも実感できます。
世界中からも彼の死を悼む多くの声が上がっています。
在りし日の勇姿を振り返りながら今一度、冥福を祈りたいと思います。
チャオ!クレイ。
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登録日:2007年 01月 06日 01:44:54
お年玉
<F1>クレイ・レガッツォーニ氏が交通事故で逝去 - イタリア
【ローマ/イタリア 15日 AFP】スイスの元F1ドライバー、クレイ・レガッツォーニ(Clay Regazzoni)氏が15日、イタリアのパルマ近郊の高速道路上で起きた車両3台による事故に巻き込まれ死亡したと、イタリアのANSA通信が報じた。享年67歳。スイス・ルガーノ出身のレガッツォー二氏は、1970年から80年の間、F1ドライバーとして132のGPに出場し、5回のポール・ポジション獲得と5回の優勝を果たしている。写真はディジョンで行われたスイスGPにフェラーリのドライバーとして出場したレガッツォー二氏(1975年8月24日撮影)。(c)AFP
少しザナルディのお話が続き過ぎたのでちょっと箸休め。
というか、その間にクレイ・レガッツォーニ氏が交通事故で亡くなられたというニュースが入って来ていて何とも複雑な思いがします。彼もまたレース中の事故で下半身不随となる怪我を負い、グランプリシーンから退きますがやはり生涯レースを愛し続けた名レーサーでした。
フェラーリの70年代黄金期を支えたニキ・ラウダとは名コンビでした。フェラーリへニキを推薦したのがクレイ。つまり、彼がいなければフェラーリもニキ・ラウダもその後の栄光はなかったかもしれないという人物です。
心からご冥福を祈ります。
本来ならそのレガッツォーニ氏の勇姿を紹介するのが筋でしょうが…たまたま某動画検索サイトで歴史的にも有名なバトルシーン映像を見つけたので、新年の「お年玉」として皆さんにご紹介したいと思います。(ちなみにクレイ氏はこの2人のバトルを危険すぎると怒っそうです)
http://www.youtube.com/watch?v=jv0_aoFdylc
1979年7月1日、フランスGPでの映像です。
赤い車はフェラーリ、ドライバーはジル・ヴィルヌーブ。
黄色い車はルノー、ドライバーはルネ・アルヌー。
場所はディジョン・プレノア・サーキット。
ジル・ヴィルヌーブ伝説のひとつ「史上最高のバトル」としても有名です。
優勝したのはジャン=ピエール・ジャブイーユ。母国フランスでルノーターボの初優勝という記念すべき偉業達成の瞬間なのに、観客もフランス国民もテレビ中継を見ていた世界中のF1ファンも優勝そっちのけでこちらの2位争いに目が釘付けになっていたとか…。
このレース後、ふたりは抱き合い笑顔で健闘をたたえ合ったそうです。
「3位だからって悲しがる事はない。ぼくらのどちらかがおびえてしまっていたら、ひどい事故になっていたかもしれない。だけど、ジルはすばらしいレースをしたし、ぼくもとても楽しんだ」(ルネ・アルヌー)
「本当に面白かったね。ぶつかるだろうと確信してたんだ。タイヤが接触したら、いずれそうなる。だけど、ぼくらはクラッシュせずにすんだ。よかったよ。ものすごく楽しく走れた。」(ジル・ヴィルヌーブ)
「フェラーリはすばらしいドライバーを手に入れたと思う」(エンツォ・フェラーリ)
「お前らはクレイジーだ!」(ニキ・ラウダ)
「二頭の若いライオンが牙をむき合っただけさ」(マリオ・アンドレッティ)
(ジェラルド・ドナルドソン著「ジル・ヴィルヌーヴ流れ星の伝説」より)
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登録日:2007年 01月 04日 22:55:45
「ロータスの花よ永遠に」で一句
<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン
【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
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(c)AFP/JOSE JORDAN
汚れ無き 歴史とともに 蓮の花散る
[解説]
創始者コーリン・チャップマンが自分のチームを《ロータス=蓮の花》と名付けたのは当時流行っていた仏教哲学からの影響と言われます。《最高神》梵天の座にも選ばれた蓮はドロから生まれながら気高く美しい花を咲かせる事から「俗世にまみれない清らかさ」の象徴とされています。
ピーター・コリンズは、そんな創始者の精神を「全ての俗なるもの」から守ろうと最後まで奮闘したように思います。しかし、そんな彼の奮闘努力の甲斐もなくロータスはついに消滅してしまいます。たとえその身が消えようともロータスの名は最後まで汚される事はなかった…そう信じたいと思います。
◆ロータス買収工作
ベネトンのジュニアチームが何としても欲しいフラビオ・ブリアトーレは、トム・ウォーキンョウを使って弱小チーム(テレル、ミナルディなど)の買収を画策していました。ロータスもそんなターゲットのうちのひとつでした。
ロータス買いのポイントは、なんと言っても歴史あるブランド。無限-ホンダエンジン。それにジョニー・ハーバートの存在でした。しかも内通者がロータスチームの内部情報を流してくれていました。その内通者とは、スポンサー集めの「辣腕」マーケティングディレクターのガイ・エドワーズでした。
◆最後の切り札
何とか買収の手から逃れたロータスでしたが、92-93年シーズンで使用したコスワースエンジンの使用料未払い裁判に対する控訴請求が棄却され、裁判所から260万ドルの支払い命令が下されます。憐れなベルギー人ドライバー、フィリップ・アダムスのスポンサーマネーなどによる一時しのぎも焼け石に水でした。ついに万策尽き果てたマネージングディレクター/ピーター・コリンズら上層部らはついに最後の決断を下します。
あのイタリアGPの翌日、多額の負債を理由に英国高等裁判所の財政管理下へ置かれる事が決定。チームロータスの倒産が決定します。
それは公的な管理下に置く事でチーム買収しようとするハゲタカたちの群れからロータスのチーム財産を守りつつ、最終戦オーストラリアまでの猶予期間中になんとか再建の道を探ろうとする最後の手段だったのです。
◆新オーナー
管財人は、新たなロータスのオーナーにデビッド・ハントを任命します。故ジェームズ・ハントの実弟で広告代理店上がりの実業家でした。日本GP、オーストラリアGPへの機材輸送費を立て替えた事をきっかけにコリンズと管財人の信用を得、アメリカ人実業家サミュエル・ブラウンの出資を後ろ盾にロータスの新オーナーとなります。
まず、最初に裏切り者ガイ・エドワーズを「リストラ」と称してチームから追い出します。ピーター・コリンズもただの雇われディレクターとなりますが、ロータスの名を冠するチーム生き残りのためとハントを信用していました。
◆誤算
ハントの本来の思惑がどうだったかは分かりません。しかし、ロータスチーム唯一の財産だった無限-ホンダエンジンが代金未納によって権利もろともリジェに奪われた時、当初の計画は行き場を失ったのではないのでしょうか。参戦したくてもマシンの心臓部であるエンジンが無くては話になりません。コリンズたちの最後の願いはこの時点で潰えたと思われます。
◆名門閉鎖、そして合併
チーム存続への打つ手が無くなったハントは、チーム活動を凍結、関係者全員のレイオフを敢行します。ロータスという名門の事実上の閉鎖です。機材その他をすべて処分して、伝統あるケイタリンガムホールを後にします。次にハントは、せめてグランプリの場に「ロータス」の名前だけでも残すため、東急グループの御曹司が出資する「パシフィック」チームとの合併話を進めます。そして、1995年シーズンは「パシフィック・チーム・ロータス」の名でサーキットへ戻るという情報が流れます。マシンはフランク・コパックの手によるPR02。チーム共同経営者のベルトラン・ガショーがNo.1ドライバー、セカンドにはモンテルミニが決定します。
◆デビット・ハントの楽観論
「パシフィック・チーム・ロータスの成功を信じない人たちに一言いいたいんだけど、彼らは絶対優勝できて、ワールドチャンピオンシップも狙えるチームに成長する。これは本当だ。数年前、グランプリにはトールマンというチームがいたのを覚えているかい?彼らは世界中を転戦して回ったのに、いい結果を残すどころか予選通過さえもままならなかった。そのチームはいま、ベネトンという名前で知られ、いまのところとてもよくやっているじゃないか」
(F1グランプリ特集 Vol.70 エリック・シルバーマン取材記事より)
追いつめられた人間が犯しやすい過ち「自分の願望を他者の功例で正当化しようとする」典型的な事例ですね。単に「思い込み」や「勘違い」とも言います。
◆消えた《蓮の花》
しかし、1995年開幕戦に「ロータス」の名前はありませんでした。エントリーしたチーム名は「パシフィック・グランプリLTD」。PR02のノーズサイドに小さくロータスのエンブレムがあるだけでした。そして、多くの関係者の予測通りパシフィックチームは下位を低迷し続け、シーズン終了後にはチーム代表のキース・ウィギンスがF1からの撤退を表明。その直後パシフィック・グランプリ自体が2億5000万円の負債を抱え倒産。それと同時にチーム・ロータスも約4億円の負債を抱えて正式に倒産。かつて栄光に輝いた由緒ある名門チームは、完全にグランプリシーンから消滅したのです。
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登録日:2007年 01月 01日 00:11:22
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- 斎藤モ吉
- (男)
- 福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
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