2007年 05月

「一貴もGP2で奮闘中」で一句

<07 F1・第5戦 モナコGP>フリー走行3回目、佐藤琢磨 13番手タイムを記録

【5月26日 AFP】F1第5戦・モナコGP(Monaco Grand Prix 2007)、フリー走行3回目。スーパーアグリ(Super Aguri)の佐藤琢磨(Takuma Sato)は、14周を走行し13番手となるベストラップ1分38秒121を記録した。(c)AFP

AFPBB News


ここ一番 魅せる走りは 親譲り?

[解説]
アレ〜???
なんでブログに出来る写真とそうでない写真があるの?
一貴の写真でアップしたかったのに…。
しょうがないからコチラの記事で勝手にアップ。

今更ですが、ちょっと書きそびれてたので、
忘れないうちに1ヶ月以上前にバーレーンで行われた
GP2開幕戦について書いておきます。

正直、なかなか面白かったです。特に中嶋一貴の走り。
去年のハミルトンほど派手ではないけれど、
レース2ではオーバーテイクショーを魅せてくれました。
1レースを組み立てる冷静さ。「ここぞ」で見せる強気な走り。
ひょっとして《父・悟》をもう越えちゃった?…かも。

[雑感]
GP2の放送を見ていて一貴の映る回数が妙に多い。
「もしかしてフジテレビ、カメラ持ち込んだ?」
と思ったんですが…ちゃんと国際映像でした。
↓こちらがその「中嶋」ダイジェスト。
http://www.youtube.com/watch?v=ZW6rYCkyt9E

中嶋一貴はDAMSチーム。「白・赤」の車です。
同僚のランピエールとヘルメットの色が似てるので、
サイドポンツーンに入ったスポンサーロゴで見分けます。
「TDP」が中嶋。「Plus」がランピエール。

◆レース1ダイジェスト
「GP2って何?」って人は、↓コチラを参考に。
http://ja.wikipedia.org/wiki/GP2

フォーメーションラップ後、整列中に
6位の平手、パンターノら4台がエンジンストール。
1周減算でフォーメーションのやり直し。
2度目のスタート。ここで中嶋一貴がただ1人エンスト。
ピットスタートの4人の後ろ。最後尾から追い上げます。

入賞はすでに絶望的。
そこで一貴はファステストタイム「1pt」獲得を狙います。
そのためにタイヤ交換をギリギリまで遅らせます。
12〜14周目あたりに交換を済ませた他車は、すでにタイヤがボロボロ。
みんなペースダウンし始める25周(残り9周)にピットイン。
ラバーが十分乗った路面を新品タイヤでラップを重ねます。
そして、29周目。目論み通り、ファステストを記録します。
元ウィリアムズのピッツォニアがそれを見て真似をしますが、
こちらは上手くいきませんでした。

その後、周回遅れにされかけた10位アマミュラーと接触したり、
ファイナルラップ直前の最終コーナーで自分は周回遅れなのに
9位のチャンドックをパスしようとしてコースアウトしたり、
過剰なアグレッシブさを披露します。

◆20/23-レース2
一貴は17番スタート。
スタート直後の1コーナーでディグラッシとツーバールが絡み
多重クラッシュ発生、すぐにセーフティーカー導入。
コースクリアとなり4周目からレース再開。
その直後に中国人レーサー、ホーピン・タンとラインが交錯し接触。
タンの車が派手にフェンスに激突。再度、セーフティーカー導入されます。
(この場面が上記動画の初っぱなのシーン)

◆17/23-レース2
6周目にレース再開。9位までポジションアップしていた一貴。
前を行くマイク・コンウェイと競り合いますが、
逆にチャンドックに責められ、そのスキにパンターノにパスされます。

◆16/23-レース2
しかし、次の周には、チャンドックをすぐパスし返します。
サイドカウルを壊し順位を落としてきたザウグをパスする一貴。
続いて4コーナーで抜こうとしたチャンドックは
バックがよく見えてなかったザウグと接触してスピン。

◆12/23-レース2
12周目にはソチェックをパスして8位へポジションアップ。
その同じ頃、平手晃平はチームメイトにコーナーで当てられリタイア。
ピットへ帰ってグローブを叩きつけ激怒します。

◆9/23-レース2
7位パンターノとの差を詰めようとしますが、
レイトブレーキングのタイミングを誤り、追突しかけます。
(外人アナも「オオ〜ホホウ(笑)ナッカジィーマ」とヒヤリ)
その次の周には、ギヤトラブルでパンターノが失速。
これをパスして、労せず7位へポジションアップします。

◆6/23-レース2
一貴は一気にペースを上げ、入賞ライン集団へ追いつきます。
ガルシア、コンウェイ、アマミュラーの4-5-6位が団子状態。
それぞれの思惑が交錯し膠着状態が5周続きます。

◆1/23-レース2
前を行くのはレース1で接触したアマミュラー。
しかもマシンは2年連続チャンピオンを輩出したART。
なかなかスキを見せません。「ダメか…」そう思った最終周。
一貴は、1コーナーのツッコミでイン側から仕掛けます。
しかし、ここはアマミュラーがラインを死守します。

それでも一貴は攻撃の手を緩めず、3コーナー過ぎの直線で
テールツーノーズ状態、4コーナーの手前でマシンを大きくアウトへ振ります。
思わずブレーキングが遅れたアマミュラーは汚れたアウト側へはらみます。
すかさず立ち上がり加速の鈍ったアマミュラーのインを刺し、6位攻略です。

こうして関係者(特にフランク・ウィリアムズ)が見守る開幕戦。
クレバーさとアグレッシブさを発揮して、
(次戦で予選10ポジションダウンのペナルティ受けちゃいますが)
2連戦で着実に2ポイントをゲットした一貴。
ぐぐっと評価は上がったのではないでしょうか?

少なくとも優勝した同僚のランピエールより目立ってましたから。

追記:GP2関係の写真&記事って上げなくなったのかな?

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登録日:2007年 05月 27日 18:10:15

「アロンソとハミルトンのビミョーな関係」で一句

<07 F1・第5戦 モナコGP>フリー走行1回目、アロンソ トップタイムをマーク

【5月24日 AFP】F1第5戦・モナコGP(Monaco Grand Prix 2007)、フリー走行1回目。
≫続きを読む…
(c)AFP

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この道は プロストの道? ラウダ道?

[解説]
2007年。F1シーズン開幕当初は、
もっぱら《フェラーリvsマクラーレン》、
おおむね《ライコネンvsアロンソ》という
単純な2極対決図式が予想されていました。

ところが、いざフタを開けてみれば、
前述の2人にフェラーリのフェリペ・マッサ、
マクラーレンの新人ルイス・ハミルトンまでが絡んで、
ポイント差もほぼ横一線、四つ巴の戦いとなり、
各チーム内でも、すでに主導権を巡る
シーソーゲームがひそかに熱を帯び始めています。

アロンソはハミルトンを「気にしていない」とは言うものの、
スペインGP表彰台上のいかにも不機嫌そうな表情を見る限り
混戦状態がシーズン中盤まで続いたら
果たして「平静」でいられかどーか…大いにギモンです。

もしも、そんな事態となった場合、
2連覇チャンピオンのフェルナンドがたどる道は、
若きプロストに覇者たるべき規範を示した「ニキ・ラウダ」の道か?
勝利に貪欲なセナに対し容赦なくキバをむいた「アラン・プロスト」の道か?
チームも同じマクラーレン。もう「平静」でいられません。

[雑感]
「両雄並び立たず」とは、よく言われます。
それはセナプロに限った事でなく、だまし合い、憎み合い、
チーム分裂にまで発展する例も珍しくありません。

ただし、そうなるのは大抵、同世代レーサー同士によるものです。
デビューしたての新人がベテランレーサーと組む場合、
コテンコテンにやられるか、慕われ可愛がられるかのいずれか。
そんな世代格差パートナーシップの実例をいくつかご紹介しましょう。

◆ファンジオとモス
このふたりがタッグを組んだのは、1955年。
F1創世期以前から活躍し、F1でも2度ワールドチャンピオンに輝いていた
アルゼンチンの英雄、ファン・マヌエル・ファンジオ(43歳)と
F1デビューして4年目、英国の誇りスターリング・モス(26歳)。
無敵を誇るメルセデス・ベンツ・ワークス自慢の名車W196を駆り、
全7戦中3回の1-2フィニッシュを上げ、チャンピオンシップでも1-2位。
他チームに圧倒的な力の差を見せつけシーズンを制覇します。

ル・マン耐久レースでの大惨事のあおりを受け、メルセデスが55年を最後にF1から撤退。
56年には、モスはマセラッティへ、ファンジオはフェラーリへと移籍します。
この年もファンジオがチャンピオンとなり、モスはランキング2位。
57年、今度はファンジオがマセラッティに移籍。
モスは地元英国のバンウォールから参戦し、
ファンジオは、ニュルブルクリンクで伝説の走りを見せチャンピオン獲得。
モスは、英国車初優勝という偉業を達成しながらランキング2位に終わります。

http://www.youtube.com/watch?v=3ghBtK2tvdQ
↑当時モスが乗っていたマセラッティのマシン紹介。試走させているのは、ジョン・ワトソン。
止めたマシンのコクピットに座ってコメントしているのがモス本人です。
50年代マシンの《開放的》なコクピットに注目。シートベルトも当然ありません。
当時の記録映像も盛りだくさん。50年代F1の雰囲気がよく分かります。
ベンツ、フェラーリ、マセラッティ、ランチアとF1黎明期を彩るワークスチーム。
マシンを駆るのはファンジオ、ホーソン、サーティース…いずれも名だたるレーサーたち。

1957年を最後にファンジオは引退しますが、この2人の関係は終生
騎士道精神に満ちたライバルであり、戦友でもありました。
結局、チャンピオンになれなかったモスですが、
ファンジオに対する尊敬の念は、生涯失われる事がありませんでした。

メルセデスへ移籍した55年の初戦・炎天下のアルゼンチンGP。
3時間にも渡るレースをたった1人で走りきったファンジオ。
一方、モスは熱中症にかかりリタイアしますが、休憩後、
別のレーサーの車でフィニッシュ、計3人で4位3ポイントを獲得します。
(この頃のF1は、1台を数人で交代して走らせる事が許されていました)
あの時にモスは「このオヤジにだけは勝てる気がしねえ」なーんて
自己暗示にかかってしまったのでは…と勝手に推測します。

◆ヒルとスチュワート(とクラーク)
ヴィンテージなF1ファンの目には、
今年のルイス・ハミルトンの活躍が若き日の
ジャッキー・スチュワートの勇姿に重なるのではないでしょうか?

名監督ケン・ティレルのもとで連戦連勝して英国F3でチャンピオン。
65年、35歳となった名手グラハム・ヒルのチームメイトとして
名門BRMから鮮烈デビューを果たした25歳のスチュワート。

デビュー戦・開幕南アフリカGPで
ジム・クラーク、ジョン・サーティース、ブルース・マクラーレンなど
並み居る強豪を相手にいきなり6位入賞を果たすと
続く第2戦モナコでは、早くも3位表彰台を獲得します。

http://www.youtube.com/watch?v=HIHP1HoQppw
↑ちょっと画質が悪すぎ?
白地にタータンチェックの鉢巻きヘルメットがスチュワート。
ヒル3年連続のモナコ優勝。元祖「モナコマイスター」誕生の瞬間です。

さすがに絶対的な速さではロータス&天才ジム・クラークにおよびませんが
第3戦ベルギー/スパ・フランコルシャン、
第4戦フランス/クレルモン−フェラン、
第6戦オランダ/ザンドフールトと
続け様に2位表彰台を獲得します。

そして、第8戦モンツァでは、天才クラーク、名手ヒルを相手に
周ごとに目まぐるしく入れ替わる激しいトップ争いを演じてついに初優勝。
デビュー8戦目での初勝利。誰もが「神童」と騒ぎたてたのです。

本来クラークの対抗馬であるはずのグラハム・ヒルは
最終的にランニング2位に滑り込み、なんとかナンバー1の面目を保ちます。
それでもスチュワートの輝きに対して、ヒルの印象が薄く感じられました。
そして、誰もがスチュワートの時代がもうすぐ来ると感じたのです。

あまり本文と関係ありませんが、
↓ニュルブルクリンク旧コースのオンボード映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=n6aNnZ4q80s
ニキ・ラウダが「燃えちゃった」危険なコースなんて言われてますが、
はっきり言ってコレ、そのへんの2車線林道と大差ありませんよ。
こんなところでレースやろうとする方が間違ってます。キ○ガイ沙汰です。

これまた本文と関係ないレースですが
↓1969年イタリアGPでのスチュワート優勝の映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=cQURylYN13w

1位/ジャッキー・スチュワート(マトラ)
2位/ヨッヘン・リント(ロータス)
3位/ジャン・ピエール・ベルトワーズ(マトラ)
4位/ブルース・マクラーレン(マクラーレン)
1〜4位のタイム差が0.2秒以内のデッドヒートレース。
みんなこういうフィニッシュシーンが見たいんですよね〜。

◆スチュワートとセベール
恩師ケン・ティレルの率いるマトラチームで69年にチャンピオン初獲得。
70年マーチを経て、71年には《ティレル》チームとして2度目の栄冠に輝き、
すっかり王者としての貫禄さえ身につけたジャッキー・スチュワート。

彼がマーチ時代から可愛がった愛弟子とも言える存在が
フランス人の“イケメン”レーサー、フランソワ・セベールでした。
女優ブリジッド・バルドーと浮き名を流すほどのプレイボーイでしたが、
彼の走りには、誰もが可能性を認めるものがありました。

デビュー2年目の71年シーズン中盤から
フランス、ドイツ、イタリアと表彰台の常連となり、
最終戦アメリカGPで初優勝を遂げます。
ランキングでも同期のロニー・ピーターソンに続く3位でした。

http://www.youtube.com/watch?v=CvCHv-_Ce6s
モナコを快走するスチュワートとティレル001。

http://www.youtube.com/watch?v=-8SwaLKVfJo
フランスGPクレルモンフェランを快走するスチュワートとティレル001。
セベールも2位でバンザイフィニッシュ。

http://www.youtube.com/watch?v=eNXMmRR0FNc
ベルギーGPスパ。スタート前のドライバーズミーティングではティレルの2人が中心。
セベールが背が高過ぎるのか?ジャッキーが…。

http://www.youtube.com/watch?v=20jJdKTpLPw
ドイツGPニュルブルクリンク。追いすがるフェラーリを圧倒して、1-2勝利。

http://www.youtube.com/watch?v=d3q5h3xg9TI
アメリカGPワトキンズ・グレン。
トラブルで後退したスチュワートに代わって首位を走り、初優勝を飾るセベール。
同期のロニー・ピーターソンが3位でした。
ロニーの初優勝は、その2年後、73年のフランスGP。
その時の2位は、セベールでした。

名車ロータス72Dとエマーソン・フィッティパルディが活躍した
72年はリタイアが多くパッとしませんでしたが、
翌73年には、このシーズンいっぱいの100戦目を区切りに
引退を決めていた師ジャッキーのバックアップに努めます。
抜こうと思えば抜けたレースでも、すすんで2位キープに甘んじるセベールに
誰もが来期ティレルでのナンバー1としての活躍に期待していました。

そんな明るい未来予想図が、最終戦で突然、地獄絵と化してしまいます。
セベールにとって初優勝の地、ワトキンズ・グレンのガードレールに無惨に散った夢。
愛弟子のあまりに凄惨な最期にショックを受けたスチュワートは、
100戦目となるレースを辞退し、そのまま引退してしまいます。

ありゃ〜、肝心のニキ・ラウダとアラン・プロストの話までたどり着かない(困)

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登録日:2007年 05月 25日 00:53:53

貴重映像

<07 F1・第5戦 モナコGP>開幕を控え各チームのドライバーが会見に出席

【5月24日 AFP】F1第5戦・モナコGP(Monaco Grand Prix 2007)の開幕を24日(現地時間)に控え、レースが開催されるモンテカルロで行われた記者会見に各チームのドライバーが出席した。(c)AFP

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ニュースとまったく関係ありませんが…
あんまりうれしくて…ちょっとここでご報告。

http://www.actiblog.com/efpoet/11511
去年のフランスGPのブログ↑で「グランプリ100周年」の話を書きましたが、なんと!その時の映像が本日《某動画検索サイト》にアップされました。
10分ちょっとありますが、100年前の貴重な映像です。


はあ〜〜。まさか見られるとは思いませんでした。いい時代だ。
↓コチラからどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=ntIViQWvWrs



01:30
これがグランプリ・ルノーです。他車に比べてとてもコンパクトですね。
前輪が逆ハの字(ポジティブ・キャンバー)にセットされてます。

05:30
(爆)道を間違えた車が、大あわてでバックして戻ってきます。
まさに『チキチキマシン猛レース』状態です。面白い。

07:30
1日目のレース終了。パルクフェルメに全車預けられます。

07:50
翌朝。2日目のレース再開です。
現在のWRCみたいに前日のタイム差ごとにスタートします。

08:30
メチャクチャ重そうな車(車というより荷馬車みたい)で
急コーナーをパワードリフトさせながら立ち上がるド迫力映像!

08:50
パンクしたタイヤを路上で慌てて交換します。すごく大変そう。

未舗装路や角材を並べただけの道を
ハデに土埃を上げながら爆走する、無骨で原初的な形のマシンたち。

映像は、手回しカメラによる無声映画なので
(バスター・キートンやチャップリン以前!)
ちょっと見た雰囲気は、のどかで愉快な感じがしますが、
レーサーたちは血まみれ埃まみれでゴールを目指してたんですね。

勝っても負けてもガッハハハと大声で笑い飛ばす
そんな《漢たち》が生きていた時代の匂いを感じさせる映像です。

例によって、いつ削除されるか分かりませんので
どうぞお早めにご覧になられますように。

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登録日:2007年 05月 24日 15:47:10

「スーパーアグリ初入賞」で一句

<07 F1・第4戦 スペインGP>決勝、佐藤琢磨 8位入賞でチームに初ポイントをもたらす - スペイン

【モンメロー/スペイン 13日 AFP】F1・2007年シーズン第4戦・スペインGP(Spanish Grand Prix 2007)、決勝。13番グリッドからのスタートしたスーパーアグリ(Super Aguri)の佐藤琢磨(Takuma Sato)は、トップと1周差でフィニッシュして8位入賞を果たした。琢磨は1ポイントを獲得をし、参戦2年目のチームに初ポイントをもたらした。(c)AFP/BERTRAND GUAY

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ああ見えて ストラテジストな 亜久里さん

[解説]
鈴木亜久里代表には、運を味方につける才能があるのか…と思います。
現役時代の日本人初表彰台獲得といい、
チーム参戦2年目のシーズン早々の初ポイント獲得。
多くの日本人ドライバーや個人チームオーナーたちが
夢見るだけに終わった事を次々と現実化させる
その能力には、空恐ろしいものをカンジさせます。
まさに「有言実行」男《鈴木亜久里》の面目躍如ではないでしょうか。

[雑感]
しかし、彼のレース人生を振り返るとあまり「ラッキー」とは言えません。
ドライバー《鈴木亜久里》の1年目、全戦予備予選落ち。
三流チームで目も当てられないほど屈辱的な時間を無駄に過ごしました。
こめかみに血管を浮き上がらせながら
「ギアを組み間違えてるんだよね…もう信じられない」と日焼けした顔に
ありありと怒りと落胆の色を浮かべながらコメントする姿を思い出します。
そうした劣悪な境遇からでもへこたれず挑戦し続け、
少しでも上位へはい上がろうと努力し続ける姿は多くの共感を呼びました。
そんな彼を影で支え続けてくれたサポーターやスポンサーたち。
その期待に応えた最上の結果。地元「日本」で空高く揚がった日の丸。
あの日、表彰台で輝いた笑顔とまったく変わらない笑顔が
バルセロナのスーパーアグリチームのピットで輝きました。
喜びを爆発させる佐藤琢磨とともに。
http://www.youtube.com/watch?v=BMBjrfVZyAI
↑うれしそうだな〜みんな(笑)琢磨の全力疾走、イイネ。

◆デビュー前夜
F1ドライバー《鈴木亜久里》のデビューは、1988年の鈴鹿スポット参戦。
時代はまさにバブルの絶頂期。
日本のあらゆる人々が我も我もと「F1」に殺到した時代でした。
翌1989年に向け、ホンダに続くエンジンサプライヤーはどこか?
中嶋悟に続く日本人ドライバーは誰か?と噂が引きも切らない状態。
そこにヤマハエンジンのF1参戦が正式にアナウンスされ、
ドライバーに鈴木亜久里の名前が挙がりました。
そんな矢先、急遽決まった「鈴鹿」でのスポット参戦。
耳の病気で休養する事になったヤニック・ダルマスの代理でした。
チームはラルース。2年後に亜久里を表彰台へと導いてくれるチームでした。

◆手荒い洗礼
そうして迎えた日本グランプリ。
予選では、ファーストドライバーのフィリップ・アリオーから0.4秒落ち。
F1初参戦ながら速さ的には十分合格点でした。
しかし、日曜日の決勝で亜久里は思いも寄らない洗礼を受けます。
リジェのルネ・アルヌーによる執拗なブロックと意地の悪いブレーキング。
そして、リアルのアンドレア・デ・チェザリスによる不必要な幅寄せ。
現在なら確実に審議の対象となるあからさまな危険な走路妨害行為でした。
それでも亜久里は3周遅れながらも16位で完走しました。

◆ビッグマウス?
「鈴鹿はオレの方がよく知ってるんだから、プロストの後ろにつく必要なんてないでしょ?」
「オレがもしマクラーレンに乗って、セナがローラの車に乗ったとしたら(略)セナよりオレが4秒速いんだ。」
(F1グランプリ特集Vol.6より)
日本GP後に行われたインタビューでの亜久里のコメントです。
これを読まれた方はどう受け取ったでしょうか?

◆亜久里の本意
きっと「生意気」な発言と受け取られた方がいるのではないでしょうか。
しかし、上記コメントで言いたかった本当の意図は
「自分が熟知した《鈴鹿》のコース取りについて今更プロストから学ぶ事はありません」だったり、「セナと自分とのタイム差はマシンによるものが大半で6秒差のウチ実力差は2秒ぐらいなんですよ」だったりするのです。

◆言い方の問題?
つまり、面白可笑しく誇張されがちな報道に対する訂正に過ぎないのですが、
結局そのコメントさえもが言葉尻だけを強調され
「プロストから学ぶ事なんてナニもない!」とか
「オレは絶対セナより4秒速い!」と言ったかのように曲解されてしまい
「亜久里はビッグマウス」と不必要な反感を買い
多くのアンチを生み出す事になります。

◆アンチ亜久里
まだ予備予選すら通過できない時期に
「F1ドライバーは通過点に過ぎない」と言ったり、
将来のチーム資金づくりのために独自ブランドを立ち上げたり、
コマーシャルに積極的に出演して自分の商品価値を高めるなど、
現在ならイチローや中田英寿らが普通にやっている事を先駆けて行っていました。
しかし、そうしたロジカルでビジネスライクな言動が
「ストイックさ=美徳」と信じて疑わない一部ファンから
「あざとい」「金に汚い」など誹謗される要因となります。

◆栄光の日々
ザクスピード・ヤマハで初フル参戦した89年。
全戦予備予選不通過という過去に例を見ない不名誉は
翌90年、ラルースへの移籍によって回復されます。
同僚にエリック・ベルナールを迎え、
クリス・マーフィー設計によるシャシーと
ランボルギーニV12エンジンの組み合わせは十分な戦闘力を備え、
レースでも入賞を重ね、迎えたクライマックスの日本GPで3位4ポイント獲得。
ラルースチームもコンストラクターランキングでも堂々6位を獲得します。

◆消された記録
ところがシーズン終了直前、ランボルギーニがエンジン供給の停止を一方的に通告。
ランボルギーニは同じフランス国籍の古株チーム・リジェとの契約を発表します。
そして、91年シーズン開幕直前。更なる試練がラルース・チームを襲います。
FISAによる「90年全獲得ポイント剥奪」です。

◆またジャン・マリーが…
本来「ローラ」であるべき名義が「不当に変更された」ゆえの処分なのですが、
あまりに唐突かつ理不尽で一方的な処分に関係者一同誰もが耳を疑いました。
この処分のウラには某フランス系チームによる予備予選シード権奪還工作や
マネーを抱えた亜久里を狙い仕掛けられたラルースチーム破壊工作と噂されました。
どちらにせよ亜久里の91年は開幕前に暗澹たるものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=2DChNJfDsEE
↑コレも亜久里の実像ではありますが…こんなのしかないの?

◆準ジャパンチーム?
案の定、悲惨なシーズンを1年過ごした亜久里の前に新たな道が開けます。
フットワーク・アロウズからの誘いでした。
エンジンは無限・ホンダ。同僚はベテランのミケーレ・アルボレート。
テクニカル・ディレクターはアラン・ジェンキンスでした。

◆予想外の展開
しかし、これ以上ない万全の体制で挑んだはずのフットワークでの2年間は、
亜久里にとって決して受け入れられない現実を突きつけられたシーズンでした。
1年目のアルボレート、2年目のデレック・ワーウィックと
すでにピークを過ぎたおじさんドライバーに予選・決勝を通じて常に後塵を拝したのです。
亜久里のプライドがいたく傷つけられました。

◆92年シーズン後/亜久里のコメント
「ミケーレは(略)フットワークに来て3年経ってる(略)マシンの事はどんな小さな事でも知ってるし、性能も知り尽くしてる。(略)ミケーレのスタイルは独特でとても特別なものがあるよね。(略)だからマシンを知らない僕にとってはすごくドライブしづらいんだ。これも大きな問題だったんだ。言い訳はしたくないけど、今年の鈴木亜久里は本当の鈴木亜久里じゃない。」
(F1グランプリ特集Vol.42 フランコ・パナリッティー取材記事より)

◆93年シーズン後/ワーウィックのコメント
「もっと僕やフットワークにとって実りがあってもよかったと悔やまれるシーズンだった。(略)僕らは掴めるはずだった結果を逃してしまったんだよ。93年は不運がたくさん重なってね。これには僕をはじめ、《チームのスタッフ全員》が欲求不満に陥ったよ。(略)周囲のドライバーがしてくれたことは、まったくクレイジーな行為ばかりだった。モンツァではチームメイトの亜久里にぶつけられるし、(略)まったくやってられないよってな気持ちになってしまう。本当に滅入ってしまうね。それでも《僕ら》は結果を出さなければいけないんだから、まったく、F1とはタフなビジネスだよ」
(F1グランプリ特集Vol.55 デリック・オルソップ取材記事より)
まあ、この年に限らずワーウィックさんのレース人生そのものがタフでしたね。
http://www.youtube.com/watch?v=McaBLD0BhuM
↑まさにMr.アンラッキーってカンジです。

◆フットワークとともに去りぬ
バブル崩壊以後の景気の冷え込みで
フットワークもF1からの撤退が決定的になります。
その直後、鈴木亜久里も
安泰と思われていたフットワークのシートを失う事になります。
この事態に至って初めてフットワーク総裁の大橋会長も
亜久里もチーム内での自分たちの置かれた立場が
本人が思っているよりもいかに弱かったかという事実を思い知らされます。
ジャッキー・オリバーとアラン・ジェンキンスらアロウズ・スタッフたちが
一致団結して「金の切れ目は縁の切れ目」とジャパンカラーを一掃したのです。
以降、鈴木亜久里は誰はばかることなく
公然とアロウズ批判をくりかえすようになります。

◆F1浪人時代
F1浪人中の亜久里は、岡山のパシフィックGPで
エディ・アーバインの代役を務めた以外は、
日本のツーリングカー選手権でドライバー的に無為な時間を過ごします。
このJTCCへの参戦も自分を「客寄せパンダ」として使って貰う事で日本国内のモータースポーツ振興の一助になればという意図によるものでした。
すでに自分のドライバー人生が終焉を迎えつつある事を自覚していた亜久里。
有終を飾るため翌95年リジェからの復帰へ向けた準備へ全勢力を向けます。
やがて、リジェの来季の使用エンジンが無限-ホンダと決まり、
亜久里カウントダウンへの期待が高まりました。

◆砕かれたプライド
しかし、フラビオ・ブリアトーレとトム・ウォーキンショーの2人によって
乗っ取られリストラクチャされたリジェは、すっかり
ベネトンのサブチーム的な役割を担わされていました。
チーム運営は実にシステマティックでドライバー個人の
思い入れなど入り込む余地のないドライで事務的な契約条件を結ばされます。
ファーストドライバーは、オリビエ・パニス。
残り1つのシートを亜久里とマーティン・ブランドルが
シーズン中半分ずつ分け合うというものでした。
単なるペイドライバー。しかも半分。
それ以上でも以下でもないという屈辱的条件でした。

◆6戦1ポイント
それがF1ドライバー《鈴木亜久里》の最終シーズンのリザルトでした。
走れたのは約束の8戦どころかブラジル・アルゼンチン・サンマリノ・ドイツ・パシフィック・日本の6戦。
しかもテストも何も参加する事もできず、いきなり呼びつけられてシートに座らせるだけという穴埋め的な扱いでした。
久々に呼ばれたドイツ・ホッケンハイムリンク。降ったり止んだりの天候。不安定な路面コンディションに足をすくわれ、午前中のプラクティスで慣れないマシンのノーズを壊し、予選1回目でスピンし、マシンを大破させてしまいます。
それでも決勝は着実な走りでポジションアップし、終わってみれば6位入賞。
1ポイントを獲得していました。
しかし、チームはそんなポイントよりもマシンを壊される事を嫌い、
またブランドルへとハンドルを委ねます。
しかもブランドルがベルギーで3位表彰台に立ったために
いよいよ亜久里の出番は減り続けます。
パシフィックと日本もブランドルを走らせるつもりだったとも言われました。
そんなプレッシャーの中で焦りが出たのか、
パシフィックでは11周目にスピンリタイア。
鈴鹿では予選2回目のS字入口でスピン。コンクリートウォールに激突。
亜久里は肋骨を骨折して病院へ運ばれます。
ついに決勝レースを走る事なくラストシーズンを終えたのです。

◆チームオーナーの道へ
ドライバーとしてのキャリアに終止符を打った鈴木亜久里氏はその後、国内で将来のF1レーサー育成を目的とした活動に着手し始め、多くの賛同者を集める事に成功します。そして、1997年にカー用品流通業のオートバックスとの共同事業として《ARTA》を旗揚げ。
フォーミュラーニッポンやGT選手権で着実に実績を挙げ続けます。
そうした流れからついに去年、日本人プライベーターチームとして初のF1フル参戦を遂げます。
準備期間数ヶ月という強行スケジュールで奇跡的に開幕戦にこぎ着けます。
それからのめざましいまでの歩みは、ご存じの通り。

◆幻のチーム・イクザワF1計画
鈴木亜久里がこうして日本人プライベーターとして成功する以前にも同じようにレーサーからチームを立ち上げようされた例がいくつかあります。
そのひとつに60年代から70年代にかけて国内のみならずヨーロッパでもその名を知られた生沢徹が中心になって1994年終盤頃に密かに進められかけた「九州F-1招致委員会」と「チームイクザワ」の存在がありました。
当時のF1雑誌に掲載された記事にはモータースポーツジャーナリスト出身でウィリアムズ、ブラバム、フェラーリなどの広報関係に携わったピーター・ウィンザー(今年もFIA年間表彰式の司会を勤めた人)と名車フェラーリ641/2のデザイナーとして一躍有名になったエンリケ・スカラブローニなどの名前が挙がり、ノーズに日の丸をあしらったデザイン画らしきものまで掲載されていました。結局、この《おとぎ話》は結局、何一つ実現する事なく幻に終わりました。

◆スーパーアグリの道
こうした「幻」がいくつも浮かんでは消え浮かんでは消えするF1世界の中で、鈴木亜久里氏が引退後に進んだスーパーアグリへと続く道は他の誰よりも現実的で着実でした。まるで無駄がないかのような印象すら受けます。過去にこれ以上の「有言実行」を行った人物は本田宗一郎氏ぐらいしか他に思い当たらないと言ったら言い過ぎでしょうか?
それぐらいスーパーアグリが切り拓いた道には価値があると思うのです。

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登録日:2007年 05月 16日 17:59:42

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プロフィール
斎藤モ吉
(男)
福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
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