カテゴリー [F1・昔ばなし]

「追憶の《セナプロ時代》その1」で一句

アロンソ トルコGPで3位入賞を果たす

【8月26日 AFP】F1第12戦・トルコGP(Turkish Grand Prix 2007)、決勝。
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オーガバトル セナ・プロストの エゴと意地

四天王時代、2強対決。
20年前の“熱き時代”をトレースする煽り文句。
コース内外で繰り返されるいつか見た確執と煩悶。
デジャヴか、パブロフの犬か
脳裏に甦るのは、トラウマの風景。
血で血を洗う文字通りの《真剣勝負》…。

ロン・デニスも若く髪は多かったが、経験値はまだ少なかった。
何よりセナとプロストという当代随一のドライバー2人が
コース上で《喰人鬼=オウガ》と化し、死力を尽くして戦った。

だから、醜悪で陰惨だった。
故に、純度100%の燦めきがあった。

そんなセナとプロストの時代。
《1988年・激突編》を数回に分けてご紹介。
(思い込み&事実誤認ご容赦/不定期御免)

“死闘”の幕開け
アイルトン・セナには、確信があった。
自分は、誰にも負けない《パーフェクトな存在》だという確信が。
それを証明するために、いくつかカードが必要だった。

やがて「ホンダ」という「キラーカード」を手中にしたセナは、
1988年、ついに《マクラーレン・ホンダ》という
“ロイヤル・ストレート・フラッシュ”並みの手札を完成させる。
ただそこに1枚、余計なカードが混ざっていた。

「アラン・プロスト」という名の“ジョーカー”。
そのままの状態でも、セナには十分、勝算はあった。

ただ、セナという人間は、
如何なる時も“不完全”という状態を嫌い、
レーシング・ドライバーとして─「勝利」に対しては特に─
病的なほど《潔癖症》過ぎた。

セナは、ある事を決断する。

セナの決断
それはプロストから全てを「奪う」事。
誰もが認めた「旧き王者」の栄光と尊厳を破壊し、
その影すら跡形もなくテリトリーから払拭し、
自分が「新時代の王」である事を高らかに宣言する事。

それはセナにとって、当然の権利だった。
神から授けられた“己が才能”を世に知らしめる事。
それこそが自分が生まれ持った使命。
そこに一片の疑いもなかった。

プロストがその事を理解するために数ヶ月を要し、
ロン・デニスに到っては、3年後にやっと認めざるを得なかった。

用意された“試練”
開幕戦・母国ブラジルで、セナはポールポジションを獲得。
幸先の良い出だしだった。
セナは、最終予選後のインタビューでこう答えている。

「素晴らしいね。母国で、しかもマクラーレン・ホンダに
チーム移籍した最初のレースでポールを獲れるなんて。
重要なのは、ココで僕たちの車のポテンシャルの高さを見せつけられたって事。
この時点での大きな格差は将来的に《僕とチームにとっても》ハッピーな事だね。
ただまだ、僕自身がマシンについて学ばなければならない点が多いから、
明日のレースが実際のトコロどうなるか分からないけど、
多分、エキサイティングなレースにしてみせるよ。」

在る意味、これは予言に近いコメントだった。
決勝は、ほぼその言葉通りの展開となる。
ただ勝者が、彼本人でなかっただけで…。

プロストは予選中のTカー乗り換えなどもあり3番手がやっと。
予選中、終始快調だったセナとは対照的にプロストの予選は散々だった。
フリー走行でのフロント翼端板の破損によりハンドリングに不調を抱えてしまったのだ。
セナは、レース序盤の敵をまず隣のマンセルに狙いを定める。

決勝レース開始を告げるグリーンフラッグが振られ、フォーメーションラップが始まった。
トップを行くセナは、周回後半、極端にペースを落とす。
排熱効率の悪い[FW12]に乗るマンセルを牽制する作戦だった。

ところが、“策士、策に溺れる”。
1番グリッドについた数秒後、セナのマシンの方に異常が起きた。
エンジン停止。両手を振り「始動不能」をアピールするセナ。
後方では、無関係なイヴァン・カペリのマシンが煙を吐く。

一斉にイエローフラッグが振られ、スタート中断。
水温計が危険域に達していたマンセルは、ただ1人スタート。
観客から水ボトルを投げつけられても構わず、クールダウンを続ける。

実は、セナのマシンは決勝直前からすでに不調を抱えていた。
グリッドにつく直前にバッテリー交換をしていたのだ。
トラブル原因の掴めないセナは、やむなくTカーにマシンを交換する。
せっかく獲得したポールポジションも水の泡。不覚のピットスタート。
カペリを後ろに従えピット出口で待つセナ。
優勝の可能性は、ほぼ無くなったと誰もが思った。
実際、この時点でセナは、レース参加資格をすでに失っていたのだが…。

静かな序盤
2度目のフォーメーションラップが開始される。
後方にまだ準備の終わっていないマシンがいたが、再度グリーンフラッグが振られた。
チームクルーが慌ててコースサイドの芝生へ退避する中、各マシンは爆音を上げながら発進。
全車、順調に周回を終え、再びグリッドへと戻って来る。
プロストの前には、空席の1番グリッドが開いていた。
何の問題もなく(マーシャルがスタート直前、コースに寝転がろうとする人間を排除しながら)
レッド・シグナルからグリーン・シグナルへと変わり、決勝レースがスタートした。

プロストは、セナ不在の空間を活かしスタートダッシュを決める。
マンセル(ウィリアムズ)を置き去りにし、
オープニングラップをトップで戻ってくるプロスト。
予選までの不調が、まるで「ウソ」のようだ。
以後、プロストはマンセルを抜いた2位ベルガー(フェラーリ)との差を
1周ごとに着実に1秒強ずつ広げ始める。

1位プロスト、2位ベルガー、3位マンセル、4位ピケ。ターボ勢が上位を占める展開。
ただその後方では、ティエリー・プーツェンが極彩色のベネトンB188を自在に操り、
5位ミケーレ・アルボレートの乗るフェラーリをオーバーテイクしていた。
やがて来る自然吸気エンジン時代の足音。ターボ時代の終焉を感じさせた。

勢いに乗るベネトンは、前を行くピケ(ロータス)との差を詰め始める。

“破・急”の展開
そんな8周目、画面が空撮へと切り替わる。
信じられないスピードで純白と赤のマシンが前走車を追い抜いて行く。
「プロストが周回遅れをパスし……いや。セナ!セナです。なんと11番手!」
アナウンスも狼狽えるほど、セナの走りは鮮烈だった。

ほとんど映らなかった序盤から常識外れのペースで追い上げてきたセナ。
“ターボ”と“自然吸気”の差は縮まる…という前評判は、その瞬間に雲散した。
《マクラーレン・ホンダ》とその他の間に存在する「ポテンシャルの格差」。
インタビューでのコメント通り、その実力差を見せつけるように遅い車を追い抜いて行く。
セナにとって、それらはまるで「存在しない」も同然だった。

13周目には、アルボレート(フェラーリ)をパスして6位入賞圏内へ。
さらにセナは、小競り合いを続けるプーツェンとピケの2台にも急接近していく。

16周目には、まずベネトンをバックストレートで、直線スピードの差を活かしパス。
続く17周目には、因縁あるピケさえも同じ場所で、あっさりパスしてしまう。
同じホンダエンジンと思えないほど、ポテンシャルの差は歴然だった。

セナ4位。ここまでオーバーテイクしてきたマシンは19台。
表彰台がもうそこまで見えていた。

そんな18周目。マンセルがタイヤ交換のためにピットイン。
しかし、マンセルがピットを出る事はなかった。
ピット上でエンストしたジャドエンジンは、その息を永遠に止め、
マシン後部から致命的オーバーヒートを示す蒸気だけが吹き出していた。

翌周には、フェラーリのベルガーがタイヤ交換でピットへ。
セナは、ついに2位。プロストの後ろまで辿り着いた。
しかし、セナはまだピットインしていないため、この2位も暫定的なものだった。

無情のブラックフラッグ
26周目にプロストがタイヤ交換でピットイン。
この時、マクラーレンのピットクルーはらしくないミスを犯す。
左フロントタイヤの交換に手間取り5秒余分にタイムをロスしてしまう。

27周目。セナのタイヤ交換。
しかし、セナのマシンはまたここでもエンジンが止まってしまう。
セナは指でエアスターター始動の指示を送る。

しかし、ピットクルーはまたもやミスを犯す。
エアスターターのエア残量が足りずエンジンを始動できなかったのだ。
結局、セナのピットアウトは32秒後。
25秒ものタイムロスは、セナを一気に6位まで後退させてしまう。
だが、セナの闘志の火はさらに燃え上がったように思われた。
それは遠く日本で見ていた多くのF1初心者たちの気持ちが燃え上がった瞬間かもしれない。

しかし、CM明けにそんな日本の視聴者たちが目にしたのは、
セナへ向けて提示される無情のブラックフラッグだった。

「レース開始の合図であるグリーンフラッグ提示後のマシン交換禁止」規定違反による「失格」。

しかし、見ていた多くのにわかセナファンたちには、その理由も意味も分からなかった。
ただセナが、不当かつ一方的に「失格」を言い渡されたようにしか思えなかった。
ピットレポート・森脇氏の「あまりに理不尽」という言葉や
解説・今宮氏の「出すならもっと早く出すべき」という意見がさらにその不当性を強調していた。

処分がここまでズレ込んだのは、スチュワードの裁定に対してロン・デニスが抗議したため。
レース映像見ると、確かに2回目のスタートでグリーンフラッグは振られている。
レギュレーションの言葉尻だけとらえれば「違反してないじゃないか!」とも言える。
しかし、グリッド上に残ったマシンは1周多く走ったマンセルも含めて燃料の追加給油をしていない。
そこで満タンのセナがピットからスタートする…コレはフェアなレースとは言えない。

しかし、本来、レースやり直しの時点で「全車再給油を許可」すべきだったのだ。
結局、セナはレース主宰者側のミスをムリヤリ押しつけられた形で「失格」となった。

もしもセナが「失格」にならなければ
ここでまたもや究極の「タラレバ」。
「セナ失格」がなければ、果たしてセナはプロストを破り、優勝できただろうか?

私もずっと「セナはブラジルで優勝する機会を奪われた」と思っていたのだが、
実はレースをよく見直してみると「それは絶対なかった」と思わざるを得ない。

現代のようにリアルタイムで表示してくれない
1周近くタイムラグのあるタイム表示を見つめながら
プロストの恐るべきレースコントロール術をじっくり堪能した。

セナが序盤に遅い車をガンガン抜いていた11周目。
プロストとセナのタイム差は33秒600

フェラーリ、アルボレートをパスした13周目
プロストとセナのタイム差は33秒209

豪快にロータス、ピケを料理した17周目
プロストとセナのタイム差は35秒129

そして、マンセル、ベルガーのピットインでセナが暫定2位になった後

21周目 プロストとセナのタイム差は30秒379

22周目 プロストとセナのタイム差は32秒197

24周目 プロストとセナのタイム差は33秒265

この後は、プロスト-セナのピットイン。
セナの失格などもあり、タイム差表示はここまで。

しかし、セナがベルガーを攻略し、2位に上がっても、プロストとの差は、
最後まで33秒前後から縮まる事はなかっただろうと思う。

セナの失格後、プロストは2位ベルガーに対しても安全圏に達するまで
決してタイム差を縮める事を許さなかった。

まさにプロフェッサーの名に恥じない鉄壁のレース戦略。
予選での「不調」「イライラした素振り」まで全て計算でやっていて
そうやってワザとセナの油断を誘ったのではないか?…などと疑ってしまう。

ゴール後、すぐにコース脇に止めて「燃費ギリギリだった」ように見せかけるプロスト。
ベルガー、ピケ、中嶋など誰もが汗だくになり、疲れた表情を見せる中、
ただ1人、汗ひとつ流したように見えない、ゴール後も落ち着いた表情だったプロスト。

セナの野望を知ろうが知るまいが…
プロストによるセナ攻略は、それ以前からすでに進行中だったのでは?

そう思わせるほど、プロストは平然とマイペースにレースを勝って見せた。
そうやってチャンピオン候補たるレーサーの格の違いを見せつけ、
「王者」のレースとは何かを「失格者・セナ」に見せつけようとした。
開幕戦・ブラジルとは、そんなレースだったように思える。

ただセナは、まだプロストの恐ろしさに気づいておらず、
それ以前に、セナは己の中の敵にも気づいていなかった。

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登録日:2007年 09月 04日 00:44:33

貴重映像

<07 F1・第5戦 モナコGP>開幕を控え各チームのドライバーが会見に出席

【5月24日 AFP】F1第5戦・モナコGP(Monaco Grand Prix 2007)の開幕を24日(現地時間)に控え、レースが開催されるモンテカルロで行われた記者会見に各チームのドライバーが出席した。(c)AFP

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ニュースとまったく関係ありませんが…
あんまりうれしくて…ちょっとここでご報告。

http://www.actiblog.com/efpoet/11511
去年のフランスGPのブログ↑で「グランプリ100周年」の話を書きましたが、なんと!その時の映像が本日《某動画検索サイト》にアップされました。
10分ちょっとありますが、100年前の貴重な映像です。


はあ〜〜。まさか見られるとは思いませんでした。いい時代だ。
↓コチラからどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=ntIViQWvWrs



01:30
これがグランプリ・ルノーです。他車に比べてとてもコンパクトですね。
前輪が逆ハの字(ポジティブ・キャンバー)にセットされてます。

05:30
(爆)道を間違えた車が、大あわてでバックして戻ってきます。
まさに『チキチキマシン猛レース』状態です。面白い。

07:30
1日目のレース終了。パルクフェルメに全車預けられます。

07:50
翌朝。2日目のレース再開です。
現在のWRCみたいに前日のタイム差ごとにスタートします。

08:30
メチャクチャ重そうな車(車というより荷馬車みたい)で
急コーナーをパワードリフトさせながら立ち上がるド迫力映像!

08:50
パンクしたタイヤを路上で慌てて交換します。すごく大変そう。

未舗装路や角材を並べただけの道を
ハデに土埃を上げながら爆走する、無骨で原初的な形のマシンたち。

映像は、手回しカメラによる無声映画なので
(バスター・キートンやチャップリン以前!)
ちょっと見た雰囲気は、のどかで愉快な感じがしますが、
レーサーたちは血まみれ埃まみれでゴールを目指してたんですね。

勝っても負けてもガッハハハと大声で笑い飛ばす
そんな《漢たち》が生きていた時代の匂いを感じさせる映像です。

例によって、いつ削除されるか分かりませんので
どうぞお早めにご覧になられますように。

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登録日:2007年 05月 24日 15:47:10

「強豪マクラーレン復活!?」で一句

<07 F1・第2戦 マレーシアGP>決勝、コバライネン 8位でレースを終える - マレーシア

【クアラルンプール/マレーシア 8日 AFP】F1・2007年シーズン第2戦・マレーシアGP(Malaysian Grand Prix 2007)、決勝。11番手からスタートしたルノー(Renault)のヘイッキ・コバライネン(Heikki Kovalainen)は、優勝したマクラーレン・メルセデス(McLaren-Mercedes)のフェルナンド・アロンソ(Fernando Alonso)に1分12秒015差をつけられ8位でフィニッシュした。(c)AFP/TEH ENG KOON

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久しぶり モエの飛沫に ロンの笑み

[解説]
久しぶりですね〜。
マクラーレンの2台が決勝リザルトのトップに並ぶのは。
マクラーレンの優勝は、2005年第18戦・鈴鹿のライコネン以来。
1-2フィニッシュも同年第17戦・ブラジル以来です。
マクラーレンの暗黒時代といえば94年から96年の3年間。
それに比べれば、ずっと短かった無勝期間ですが、
この1年ちょっとの間にロン・デニスの顔も随分フケ込んだ気がします。

アロンソは、ディフェンディングチャンピオンとして「勝って当然」の状況ですが、あのミハエルですら移籍後すぐに勝てず(7戦目)に散々批判を浴びたもんです。それが、移籍2戦目で勝利というのは上出来じゃないでしょう?

ルイスミルトンも開幕2連戦で連続表彰台ですでに常連化。
しかも今回はマッサ&ライコネンのフェラーリ軍団をはねのけての2位獲得。
あの堂々たるバトルを見れば、彼の度胸と才能を認めないワケにはいかないはず。
さぞ表彰台で2人が振りまくモエ・シャンドンの飛沫を浴びながら
ロン大将もさぞ心の中では笑いが止まらない事でしょう。

[雑感]
逆にこの2連戦でアタマが痛いのはフェリペ・マッサ。
アロンソにパスされたのは言い訳できても新人ハミルトンにしてやられたのは下手すると致命的。次戦バーレーンあたりで「イイとこ」見せないとさすがにヤバイです。フェラーリの「チーム・ライコネン化」は絶対避けたいトコロ。

◆熾烈なシーズンの予感?
しかし、これで「フェラーリVSマクラーレン」の2強対決構造ほぼ決定的になってきました。おそらく、過去何度もあった図式の再現が見られる事でしょう。
そこでかつて激戦を繰り返した「FM対決イヤー」を遡ってみます。

◆1998-2000年 ハッキネンVSミハエル時代
FM対決イヤーとして記憶に一番新しいのは、このハッキネン・シューマッハ時代。マクラーレンチーム自体が暗黒時代からいきなり優勝戦線へ返り咲いた1998年。まさに《ニューウィー効果》。
戦闘力の高いMP4/13のおかげで一気に開幕2連勝。
勢いづいたハッキネンがシーズンを圧勝するかと思われましたが、宿敵ミハエルの粘り強い走りでイタリアGPではポイント差で並ばれてしまいます。しかし、ハッキネンは根性を見せニュル&鈴鹿の2連戦で初チャンピオンを決めます。

翌99年はマクラーレンの出遅れもあり、ミハエルに先行を許します。
しかし、イギリスGPでのミハエル骨折により相手がアーバインに変わると
「勝って当然」というプレッシャーに押しつぶされそうになります。
そんな《モンツァの涙》の危機を乗り越え
ハッキネンが2年連続チャンピオンを獲得します。

そして、2000年。
フェラーリはスーパーマシン《F1-2000》を手に入れ、ついに反撃を開始。
開幕3連勝でミハエルは完全にマクラーレンを圧倒。
しかし、ハッキネンはそれでも必死に抗戦を試み、特にベルギーのスパ・フランコルシャンでは鮮烈な走りでミハエルに一矢報います。
レース終盤の41周目。ハッキネンが前を行くミハエルをケメルストーレートで周回遅れのリカルド・ゾンタ越しに一気にオーバーテイクしてみせ、宿敵ミハエルに一泡吹かせます。
http://www.youtube.com/watch?v=Pa0TXmgvs7g

◆1990年 セナVSプロスト時代
88年-89年のセナ対プロストによるマクラーレンチーム内での確執が
プロストのフェラーリ移籍によりチーム間対決へと発展します。

セナは同僚に気の合うベルガーを迎え、ホンダエンジンによる全面バックアップ。
一方のプロストは同僚が気まぐれなマンセル。乗るマシンは優れていてもチーム体制は、ゴタゴタ。唯一の望みだったジョン・バーナードもチーム移籍を準備中という有様。
そんなプロストの孤軍奮闘も空しく、チャンピオン争いは鈴鹿までずれ込みます。
一方のセナも今ひとつ調子の上がらないMP4/5Bの操作性に苦しみます。

そして、スペインでの不運なラジエーター破損によるリタイア。
1年前「不当失格」の悪夢を見せられた地、鈴鹿での決戦。
ポールポジション位置をめぐる抗議の却下。
セナは猜疑心と復讐心によって正当化された《特攻》をプロストに対して敢行。
http://www.youtube.com/watch?v=LuPmQKh954Q
セナ、生涯2度目のチャンピオンを獲得。
この年以降、フェラーリはまた低迷期へ逆戻り。
ミハエルが移籍してくるまでの5年間、長い冬を迎えます。

◆1976年 ハントVSラウダ時代
シーズン当初はフェラーリのニキ・ラウダが圧倒的で
イギリスまでに5勝を上げ、ほぼチャンピオン決定と思われました。

そんな矢先、ラウダは悲劇のニュルブルクリンクで事故に遭い、
全身に大やけどを負い、一時は絶望視されました。
http://www.youtube.com/watch?v=FDT2Wj9IImM
しかし、夫人の献身的な介護と奇跡的な回復力で生還を遂げ、
5週間後にはフィオラノでテストに、6週間後のモンツァでレースに復帰します。
http://www.youtube.com/watch?v=BG9zLkF9eVo
↓「イタリアGP」ダイジェスト
http://www.youtube.com/watch?v=DmnJ-_rbz_I

しかし、ラウダ不在の間に
マクラーレンのジェームズ・ハントは着実に勝利を重ね(6勝/65p)、
日本初開催となる最終戦までには勝利数でラウダ(5勝/68p)を上回っていました。ハントはあと3ポイント取れれば念願のチャンピオン獲得です。

豪雨の中、富士スピードウェイで開催された日本GP。
しかし、ラウダは2周しただけでピットへ戻り「死ぬのは一度で十分さ…」と言い残してリタイアを決めてしまいます。

スタート直後はほとんど視界ゼロだった天候も周回を重ねるにつれて回復。
そのためトップ周回中だったハントのレインタイヤはみるみる劣化し、
ロータスのマリオ・アドレッティに首位を譲り、タイヤ交換に入ります。

残り周回数4周で5位に復帰。
ハントは、あと1人抜けばチャンピオン決定でした。そして、アラン・ジョーンズとクレイ・レガッツォーニが残り2周でやはりタイヤに問題が発生しペースダウン。これをハントはパスして表彰台圏内へ。しかし、無線が故障していたハントは自分が何位なのかも分からず半狂乱状態でゴール。喜んでマシンに駆け寄るスタッフを見ても自分が3位でゴールし、チャンピオンシップを獲得した事すら理解できていませんでした。
http://www.youtube.com/watch?v=z29PIKyjn68

◆1974年-1975年 フィッティパルディVSラウダ&レガッツォーニ時代
70年にロータス・チームからデビューしたエマーソン・フィッティパルディは、
72年に最年少チャンピオン(25歳)に輝きますが、翌年、ロータスに加入してきた成長目覚ましいロニー・ピーターソンの存在によってチームが2分されるのを嫌い、ナンバー1待遇を確保できそうなマクラーレンへと移籍します。

クレイ・レガッツォーニは、斜陽の名門BRMで無駄な1年を過ごした後、フェラーリへ出戻りますが、その時にBRMで同僚だった若者をフェラーリへ誘います。
ニキ・ラウダという名のオーストリア人の才能を腐らせたくないという親切心でした。クレイの見識通り、ラウダはフェラーリでメキメキと頭角を現して行きます。

マーチ、BRMで全く芽の出なかったラウダは、
フェラーリ移籍第1戦目・アルゼンチンGPでいきなり2位表彰台。
4戦目・スペインGPで初優勝。第8戦・オランダGPで2勝目を上げます。
ポールポジション獲得も9回と抜群の速さをアピールしました。
しかし、リタイア数もまた8回と多く、まだ若さ故の未熟さを露呈します。

一方のレガッツォーニは、年間1勝ながら着実に入賞を重ね52ポイントを獲得します。しかし、年間3勝をげたマクラーレンのフィッティパルディにポイント差でわずかに3ポイント届かずランキグ2位終わります。
フィッティパルディにとって生涯2度目、マクラーレンチームにとっては初のワールドチャンピオン輩出でした。

明けた1975年は、まさにラウダ開眼の年。
前年の反省から完走率を高める走りに転換したフェラーリのニキ・ラウダは
ポールポジション9回、年間5勝、入賞回数12回、64.5ポイントを獲得。
年間2勝、45ポイントのフィッティパルディを退け、
ラウダは初のワールド・チャンピオンシップを獲得します。
その影には、レース中に黒旗覚悟のブロックによる援護射撃など
私利私欲を顧みないレガッツォーニの男らしい友情と献身的努力がありました。

後に総帥エンツォ・フェラーリの独断により盟友クレイ・レガッツォーニが
チームを追われるとラウダはフェラーリを許さず、
自分に課されたチャンピオン獲得のノルマを果たすとさっさとチームを離脱。
ブラバムへ移籍しますが、2年の低迷したシーズンにより引退を決意。

そのラウダを3年後にカムバックさせたのがマクラーレンのロン・デニスでした。

◆歴史に残るシーズンの予感
マクラーレンとフェラーリがしのぎを削ったシーズンは、
このようにF1史上意義あるシーズンである可能性が高いのです。
今年のF1は、きっと何かが起こる予感がします。

◆30年前マクラーレンからデビューした新人
今年、マクラーレンが慣例を破り、
いきなりルイス・ハミルトンという新人をデビューさせました。

しかし、実は30年前に1戦だけマクラーレンからデビューした新人がいました。
その名はジル・ヴィルヌーブ。あの伝説のレーサーが1977年第10戦のシルバーストーンでデビューしていました。
そのリザルトは予選9位、決勝11位。平凡な結果でした。
テスト中もコーナーごとにやたらスピンをしまくる新人を見て、
見る目のない人間は「なんて下手なドライバー」と判断しました。
実はジルは、コーナー毎の限界スピードをそうやって測っていたのですが…。

マクラーレンの首脳陣も見る目がなかったのでしょうか?
ヴィルヌーブとの年間契約の予定を反故にして、
代わりにパトリック・タンベイと契約を結びます。

しかし、そんなヴィルヌーブに総帥エンツォ・フェラーリが目をつけます。
その理由を聞かれた総帥は「ただピンときただけだ」と答えました。

もしも、マクラーレンがヴィルヌーブと契約を結んでいたなら…。
後の伝説はどんな形になっていたのでしょうか?

そして、今年フェラーリでなくマクラーレンからデビューした
ルイス・ハミルトンは、いったいどんな伝説をF1史に刻むのでしょうか?
これからの彼の動向に注目しましょう。

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登録日:2007年 04月 14日 02:22:15

「スーパーアグリを揺らすカスタマーカー問題」で一句

<07 F1・第1戦 オーストラリアGP>決勝、佐藤 順位を上げられず12位に終わる - オーストラリア

【メルボルン/オーストラリア 18日 AFP】F1・2007年シーズン開幕戦・オーストラリアGP(Australian Grand Prix 2007)、決勝。10番グリッドからスタートしたスーパーアグリ(Super Aguri)の佐藤琢磨(Takuma Sato)は、1時間26分9秒506でレースを12位で終えた。(c)AFP/William WEST

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また見たい ワークス負かした モスの夢

[解説]
たしかにスパイカーのオーナー、コリン・コレスの主張する「純然たるコンストラクターでない一部チームは、コンストラクターチャンピオンシップから排除されて然るべきである」という言い分は《至極正論》だと思いますし、そう言わざるを得ない彼自身の立場も理解できます。しかし、現実問題として資金力において貧弱なチームが作ったオリジナルマシンがワークスのフェラーリやルノー、メルセデスを相手に戦って勝てる確立は果たして何万分…いや何億分の1以下でしょうか?そんなどん詰まりな現実にこだわるより型落ちでいいか『下克上』できそうなマシンを下位チームに使わせる方がずっと「夢」のある将来の可能性が広がるのではないでしょうか?

[雑感
そんな「夢」を実現させたレースが過去には何度かありました。そんな幻のレースをまざまざと現代に甦らせてくれる貴重な投稿映像をタイミングよく見つけました。私自身、ずっと見たい見たいと思っていた伝説の「1961年開幕戦・モナコGP」そのダイジェスト版です。いつ消去されるか分からないので、お早めにチェックされる事をオススメします。

◆1961年・開幕戦モナコ「前夜」
1.5リッターエンジンによるF1がこの年から始まりました。それまで2.5リッターエンジン存続を訴えていた英国勢(クーパー/ロータス/BRM)らはマシン開発ですっかり出遅れてしまいます。そんな英国勢を尻目にフェラーリが満を持して投入してきたニューマシン“156”(シャークノーズ)は前評判通りの戦力を発揮し、グリッド上位を占めます。しかし、ポールポジションの位置につけたのは、なんとプライベーターである《ロブ・ウォーカー・チーム》所属のスターリング・モス。前年度に引き続きモナコ連覇を期待させます。しかも彼が乗るマシンは1年前と同じロータス18。ワークス勢が乗る新型・ロータス21を差し置いて型落ちマシンによる首位獲得にロータス総帥コーリン・チャップマンも顔色を失います。

◆パート1
http://www.youtube.com/watch?v=fmOMdZIQ63g
モンテカルロのコース全体がゆ〜っくりと紹介されます。カメラは自転車にでも乗って撮影されたんでしょうか?46年経っても変わらない部分と全然変わっちゃった部分があって実に興味深い映像です。コースに並べられた当時の主流だった「スペースフレーム」マシンのシンプルさ(華奢さ?)に注目。現代のブリヂストンタイヤとは比べものにならない、細いタイヤに足踏み式ポンプで空気を充填させる姿に隔世の感があります。人の膝あたりの高さしかない低いガードレールにも驚愕。安全への意識がまだまだ低かった時代です。

◆パート2
http://www.youtube.com/watch?v=d4P_ifDWDPk
《シャークノーズ》フェラーリ156はやはりカッコイイ〜です。そして、フィル・ヒル、ウォルフガング・フォン・トリップス、リッチー・ギンサーのフェラーリ・ドライバー3羽ガラス。特にフォン・トリップスはこの年、ランキングトップでフェラーリの地元モンツァに乗り込みますが、そこでジム・クラークと絡み、観客14名を巻き込む悲劇的大事故によって命を落とします。
決勝エントリードライバーを紹介するアナウンサーの格好が何とも奇天烈。大きなハンチングにサングラス。黒地に白の横ストライプのシャツ。何だか宮崎駿アニメ『紅の豚』の世界を彷彿とさせるキャラクターです。

◆パート3
http://www.youtube.com/watch?v=WjLwcNn_xh4
フェラーリ156のセクシーな車体が舐めるようなアングルで紹介されます。フェラーリドライバーを代表してフィル・ヒルのインタビュー。小柄なのに上半身の筋肉がスゴイです。
次にポルシェのマシン718/2を紹介。まるでカブトムシやカナブンのような甲虫みたいな後ろ姿。あまり格好いいとは言えない気がします。ポルシェドライバー代表のヨアキム“ジャック”ボニエのインタビューの後、いよいよレースへ。
コース上でレギュレーションを読み上げるレース競技長(?)がヘリコプターの爆音に邪魔され声がかき消されのを怒る姿が面白い。
レースはパレードラップもなしにいきなりスタート。スタートラインは現在と違って海側(現在のプールサイドあたり。当時はプール自体がなく海沿いの直線道路でした)で、各車はガスワークスヘアピン(現在の最終コーナー・例のラスカスコーナーあたり)を目指して飛び込んでいきます。

◆パート4
http://www.youtube.com/watch?v=zVRaPYE4FuU
現代よりずっと《公道》っぽい当時のモンテカルロのコースを予選2位のリッチー・ギンサー(フェラーリ)が抜群の飛び出しで首位に躍り出ます。後続にはモス(ロブ・ウォーカー)ボニエ(ポルシェ)フィル・ヒル(フェラーリ)らが続きますが、序盤ギンサーにグングン引き離されて行きます。
歩道も現代よりきっちり段差があり、排水溝のフタなんかも剝きだし状態。トンネルを抜けた先のシケインは木の板で作られています、それを後ろから支えているのは砂袋…ここにマシンが突っ込んだら…と想像するとちょっと恐ろしいものがあります。ワラ積みのクッションも「いざ」という時どれほどの役に立った事やら…。しかし、その危うさゆえかコースアウトする車の確立は現代よりずっと低いように見えます。それも絶対的速度が格段に遅いせいかもしれませんが、それ以上にドライバー同士のラインどりやバトルに対する危険意識がまるで違うように思えます。

◆パート5
http://www.youtube.com/watch?v=I5cKT2G4Wa8
これだけは絶対必見!無冠の帝王と謳われたスターリング・モス、伝説の走りです。ワークス・フェラーリを相手に、俗にキットカーと呼ばれた華奢なマシンのロータス・クライマックスを操り孤軍奮闘。激走に次ぐ激走を見せます。車体重量を少しでも軽くするためにコクピットサイドのパネルを外し、スペースフレームやその内側にある足をむき出したまま、ドリフト気味にコンクリート・ウォールやガードレール脇スレスレを走るモスの姿は、実にスリリングで勇壮です。
ついに40周目。フェラーリの数センチ後ろ、テールツーノーズ状態でガスワークスヘアピンから立ち上がったモス。ホームストレートを超高速で駆け抜けるとサン・デボーテ、ボー・リバージュの上り加速でギンサーに並びかけ、ホテル・ド・パリ手前でパス。カジノスクエアをトップで駆け抜けたままミラボー、ロウズヘアピン、ポルティエコーナーまでの下り坂区間で一気に差を広げ、トンネルを抜けた頃にはフェラーリ勢をブッチ切っていました。
ワークスの面子にかけても負けられないリッチー・ギンサー(4年後、ホンダ初優勝の立役者)とフィル・ヒル2台のフェラーリは、時にタイヤのサイドウォールを縁石に擦らせるほどの激しい走りで猛然と前を行くモスを追い上げます。しかし、後一歩がなかなか届きません。
そんな激戦の中、まだモナコマイスターと呼ばれる以前のBRM時代のグラハム・ヒル(デーモン・ヒル父)や才能の片鱗を見せ始めた若き天才ジム・クラーク。いぶし銀の走りを見せる老獪なジャック・ブラバムなどが次々とリタイアして行く姿もとらえられます。

◆パート6
http://www.youtube.com/watch?v=Qf5gZbrRe_E
ついにチェッカー。人の身長ほどもあるドでかいチェッカー・フラッグを受け、スターリング・モスが優勝。見事、モナコ2連覇達成です。ロイヤルボックス前にマシンを止め、国家元首じきじきにトロフィー授与という受賞スタイルは現代にも受け継がれていますが、現代と決定的に違うのはこの後。
首に月桂樹の輪をかけたモスが仲間にタバコに火をつけてもらい、くわえタバコのままウィングラップをします。何とものどかな時代です。
レーシングハーネスを着けない当時のレーサーが、マシンからサッと降りて、パッと乗り込む姿にも時代の違を感じさせます。

◆パート7
http://www.youtube.com/watch?v=Tc1AoEbn0IY
前パートに引き続きスターリング・モス自身によるレース解説&プレイバック映像。プールサイドで胸毛もあらわに上半身裸でインタービューを受けるモス。
まるで往年のハリウッドスターのようなオーラと男臭さを漂わせ、しっかりカリスマ性も感じさせます。こういう《大人な男》の雰囲気があるスタードライバーって現代にはほとんどいませんねえ。
最後に意味不明なニュース映像が付いています。これは個人所有のビデオテープなのでしょうか?何はともあれ貴重な映像です。

◆スーパーアグリに期待
いきなりのQ3突破に舞い上がってしまいましたが、決勝レースでは順位を落とす展開となったスーパーアグリ。予選が出来過ぎだったとは思いますが、それでもワークス・ホンダよりも優れた結果を上げ、ワークス・トヨタも射程に収められる位置まで来ています。他のワークス勢も徐々に本領を発揮してくれば、スーパーアグリにも『ツライ現実』が突きつけられるようになるでしょうが、琢磨とアンソニーには一瞬でもいい、46年前にスターリング・モスが見せてくれた「夢」の再現をぜひとも期待したいと思います。

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登録日:2007年 03月 27日 19:35:47

レガッツォーニ氏を忍んで

<F1>クレイ・レガッツォーニ氏の葬儀が故郷で営まれる - イタリア

【ルガーノ/スイス 21日 AFP】去る15日にイタリアのパルマ近郊の高速道路上で起きた車両3台による事故に巻き込まれ死亡したスイスの元F1ドライバー、クレイ・レガッツォーニ(Clay Regazzoni)氏の葬儀が故郷ルガーノ(Lugano)で営まれ、故人と縁のある元F1ドライバーのニキ・ラウダ(Niki Lauda、オーストリア)氏、ジャッキー・スチュワート(Jackie Stewart、英国)氏を始めとするおよそ1000人の関係者やファンらが参列した。
≫続きを読む…
(c)AFP/FABRICE COFFRINI

AFPBB News


某動画サイトで関連のある映像を拾ってみました。
レガッツォーニ氏のレーサー時代をリアルタイムで知っている人もホンダのコマーシャルぐらいでしか知らない人もご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=x0EQaquE8fw

↑事故翌日。スイスのニュース番組。エンジン部がグャグシャに壊れた愛車大型トラックとの衝突事故の激しさを物語ります。
親しい友人のコメントがメインで間に簡単なプロフィール紹介とレース映像が挿入される構成。レガッツォーニが半身不随の重傷を負った1980年のロングビーチの事故の模様や事故から回復後にカートを楽しむ姿などが紹介されています。

http://www.youtube.com/watch?v=ZctIBixznKE

↑もう少し詳しいイタリアのニュース。スポーツカーレースをしていた頃のモノクロ映像から引退直前のエンサインN180を走らせるレース映像までレガッツォーニのレース人生をダイジェストしています。特に電話でジャンカルロ・ミナルディが語るコメントのバックに流れる1970年モンツァ(予選中にヨッヘン・リントが非業の死を遂げたレース)での優勝を伝えるモノクロ映像は感慨深いものがあります。ミナルディのコメント後は延々とイタリア人のコメンテーターが喋り続けるだけなので途中でカットしてもOK。

http://www.youtube.com/watch?v=2j0ixHHagZM

↑コチラはスポーツ系ニュース番組。コメンテーターの解説と時系列に沿ったキャリア紹介。上記と似た映像もありますが1977年インディ500参戦時の派手なクラッシュ映像など彼が何度も死にかけた事が紹介されます。特に引退を決定づけた事故の現場映像はコクピットがタイヤバリアに深々と突き刺さっている様子がよく分かります。身体が不自由になっても不屈の努力でモータースポーツを楽しみ続けようとする姿に感動。

http://www.youtube.com/watch?v=TU1oNYCsR_I&mode=related&search=

↑追悼のため制作されたショートビデオ。カントリーミュージックに乗せて、かつての勇姿が紹介されます。フェラーリ312Bを駆ってティレルのジャッキー・スチュワートとコース上でせり合う姿やティフォシの前でフェラーリ312Tをトップチェッカーまで導き優勝した1975年モンツァの映像などが紹介されます。若い頃のルカ・ディ・モンテゼモーロがゴールの瞬間に見せる現代と大差ないリアクションにも注目。

http://www.youtube.com/watch?v=TzQCMZEo_F0

↑彼が完走した最後のレース。1980年南アフリカGPでの車載映像。キャラミの旧コースの雰囲気が分かります。隣を頭の上に物凄く大きなカメラを乗せて走るルノーのプロストが走ります。最後に入る当時のピットの狭さも実感できます。

世界中からも彼の死を悼む多くの声が上がっています。
在りし日の勇姿を振り返りながら今一度、冥福を祈りたいと思います。
チャオ!クレイ。

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登録日:2007年 01月 06日 01:44:54

お年玉

<F1>クレイ・レガッツォーニ氏が交通事故で逝去 - イタリア

【ローマ/イタリア 15日 AFP】スイスの元F1ドライバー、クレイ・レガッツォーニ(Clay Regazzoni)氏が15日、イタリアのパルマ近郊の高速道路上で起きた車両3台による事故に巻き込まれ死亡したと、イタリアのANSA通信が報じた。享年67歳。スイス・ルガーノ出身のレガッツォー二氏は、1970年から80年の間、F1ドライバーとして132のGPに出場し、5回のポール・ポジション獲得と5回の優勝を果たしている。写真はディジョンで行われたスイスGPにフェラーリのドライバーとして出場したレガッツォー二氏(1975年8月24日撮影)。(c)AFP

AFPBB News


少しザナルディのお話が続き過ぎたのでちょっと箸休め。

というか、その間にクレイ・レガッツォーニ氏が交通事故で亡くなられたというニュースが入って来ていて何とも複雑な思いがします。彼もまたレース中の事故で下半身不随となる怪我を負い、グランプリシーンから退きますがやはり生涯レースを愛し続けた名レーサーでした。
フェラーリの70年代黄金期を支えたニキ・ラウダとは名コンビでした。フェラーリへニキを推薦したのがクレイ。つまり、彼がいなければフェラーリもニキ・ラウダもその後の栄光はなかったかもしれないという人物です。
心からご冥福を祈ります。

本来ならそのレガッツォーニ氏の勇姿を紹介するのが筋でしょうが…たまたま某動画検索サイトで歴史的にも有名なバトルシーン映像を見つけたので、新年の「お年玉」として皆さんにご紹介したいと思います。(ちなみにクレイ氏はこの2人のバトルを危険すぎると怒っそうです)

http://www.youtube.com/watch?v=jv0_aoFdylc

1979年7月1日、フランスGPでの映像です。
赤い車はフェラーリ、ドライバーはジル・ヴィルヌーブ。
黄色い車はルノー、ドライバーはルネ・アルヌー。
場所はディジョン・プレノア・サーキット。

ジル・ヴィルヌーブ伝説のひとつ「史上最高のバトル」としても有名です。
優勝したのはジャン=ピエール・ジャブイーユ。母国フランスでルノーターボの初優勝という記念すべき偉業達成の瞬間なのに、観客もフランス国民もテレビ中継を見ていた世界中のF1ファンも優勝そっちのけでこちらの2位争いに目が釘付けになっていたとか…。
このレース後、ふたりは抱き合い笑顔で健闘をたたえ合ったそうです。

「3位だからって悲しがる事はない。ぼくらのどちらかがおびえてしまっていたら、ひどい事故になっていたかもしれない。だけど、ジルはすばらしいレースをしたし、ぼくもとても楽しんだ」(ルネ・アルヌー)

「本当に面白かったね。ぶつかるだろうと確信してたんだ。タイヤが接触したら、いずれそうなる。だけど、ぼくらはクラッシュせずにすんだ。よかったよ。ものすごく楽しく走れた。」(ジル・ヴィルヌーブ)

「フェラーリはすばらしいドライバーを手に入れたと思う」(エンツォ・フェラーリ)

「お前らはクレイジーだ!」(ニキ・ラウダ)

「二頭の若いライオンが牙をむき合っただけさ」(マリオ・アンドレッティ)

(ジェラルド・ドナルドソン著「ジル・ヴィルヌーヴ流れ星の伝説」より)

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登録日:2007年 01月 04日 22:55:45

「ロータスの花よ永遠に」で一句

<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン

【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
≫続きを読む…
(c)AFP/JOSE JORDAN

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汚れ無き 歴史とともに 蓮の花散る

[解説]
創始者コーリン・チャップマンが自分のチームを《ロータス=蓮の花》と名付けたのは当時流行っていた仏教哲学からの影響と言われます。《最高神》梵天の座にも選ばれた蓮はドロから生まれながら気高く美しい花を咲かせる事から「俗世にまみれない清らかさ」の象徴とされています。
ピーター・コリンズは、そんな創始者の精神を「全ての俗なるもの」から守ろうと最後まで奮闘したように思います。しかし、そんな彼の奮闘努力の甲斐もなくロータスはついに消滅してしまいます。たとえその身が消えようともロータスの名は最後まで汚される事はなかった…そう信じたいと思います。

◆ロータス買収工作
ベネトンのジュニアチームが何としても欲しいフラビオ・ブリアトーレは、トム・ウォーキンョウを使って弱小チーム(テレル、ミナルディなど)の買収を画策していました。ロータスもそんなターゲットのうちのひとつでした。
ロータス買いのポイントは、なんと言っても歴史あるブランド。無限-ホンダエンジン。それにジョニー・ハーバートの存在でした。しかも内通者がロータスチームの内部情報を流してくれていました。その内通者とは、スポンサー集めの「辣腕」マーケティングディレクターのガイ・エドワーズでした。

◆最後の切り札
何とか買収の手から逃れたロータスでしたが、92-93年シーズンで使用したコスワースエンジンの使用料未払い裁判に対する控訴請求が棄却され、裁判所から260万ドルの支払い命令が下されます。憐れなベルギー人ドライバー、フィリップ・アダムスのスポンサーマネーなどによる一時しのぎも焼け石に水でした。ついに万策尽き果てたマネージングディレクター/ピーター・コリンズら上層部らはついに最後の決断を下します。
あのイタリアGPの翌日、多額の負債を理由に英国高等裁判所の財政管理下へ置かれる事が決定。チームロータスの倒産が決定します。
それは公的な管理下に置く事でチーム買収しようとするハゲタカたちの群れからロータスのチーム財産を守りつつ、最終戦オーストラリアまでの猶予期間中になんとか再建の道を探ろうとする最後の手段だったのです。

◆新オーナー
管財人は、新たなロータスのオーナーにデビッド・ハントを任命します。故ジェームズ・ハントの実弟で広告代理店上がりの実業家でした。日本GP、オーストラリアGPへの機材輸送費を立て替えた事をきっかけにコリンズと管財人の信用を得、アメリカ人実業家サミュエル・ブラウンの出資を後ろ盾にロータスの新オーナーとなります。
まず、最初に裏切り者ガイ・エドワーズを「リストラ」と称してチームから追い出します。ピーター・コリンズもただの雇われディレクターとなりますが、ロータスの名を冠するチーム生き残りのためとハントを信用していました。

◆誤算
ハントの本来の思惑がどうだったかは分かりません。しかし、ロータスチーム唯一の財産だった無限-ホンダエンジンが代金未納によって権利もろともリジェに奪われた時、当初の計画は行き場を失ったのではないのでしょうか。参戦したくてもマシンの心臓部であるエンジンが無くては話になりません。コリンズたちの最後の願いはこの時点で潰えたと思われます。

◆名門閉鎖、そして合併
チーム存続への打つ手が無くなったハントは、チーム活動を凍結、関係者全員のレイオフを敢行します。ロータスという名門の事実上の閉鎖です。機材その他をすべて処分して、伝統あるケイタリンガムホールを後にします。次にハントは、せめてグランプリの場に「ロータス」の名前だけでも残すため、東急グループの御曹司が出資する「パシフィック」チームとの合併話を進めます。そして、1995年シーズンは「パシフィック・チーム・ロータス」の名でサーキットへ戻るという情報が流れます。マシンはフランク・コパックの手によるPR02。チーム共同経営者のベルトラン・ガショーがNo.1ドライバー、セカンドにはモンテルミニが決定します。

◆デビット・ハントの楽観論
「パシフィック・チーム・ロータスの成功を信じない人たちに一言いいたいんだけど、彼らは絶対優勝できて、ワールドチャンピオンシップも狙えるチームに成長する。これは本当だ。数年前、グランプリにはトールマンというチームがいたのを覚えているかい?彼らは世界中を転戦して回ったのに、いい結果を残すどころか予選通過さえもままならなかった。そのチームはいま、ベネトンという名前で知られ、いまのところとてもよくやっているじゃないか」
(F1グランプリ特集 Vol.70 エリック・シルバーマン取材記事より)
追いつめられた人間が犯しやすい過ち「自分の願望を他者の功例で正当化しようとする」典型的な事例ですね。単に「思い込み」や「勘違い」とも言います。

◆消えた《蓮の花》
しかし、1995年開幕戦に「ロータス」の名前はありませんでした。エントリーしたチーム名は「パシフィック・グランプリLTD」。PR02のノーズサイドに小さくロータスのエンブレムがあるだけでした。そして、多くの関係者の予測通りパシフィックチームは下位を低迷し続け、シーズン終了後にはチーム代表のキース・ウィギンスがF1からの撤退を表明。その直後パシフィック・グランプリ自体が2億5000万円の負債を抱え倒産。それと同時にチーム・ロータスも約4億円の負債を抱えて正式に倒産。かつて栄光に輝いた由緒ある名門チームは、完全にグランプリシーンから消滅したのです。

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登録日:2007年 01月 01日 00:11:22

「ルノー100周年記念レースに負ける」で一句

<F1・第11戦 フランスGP>フェラーリ フロントローを独占 - フランス

【マニクール/フランス 15日 AFP】F1第11戦・フランスGP(France Grand Prix)、公式予選。
≫続きを読む…
(c)AFP/MARTIN BUREAU

AFPBB News


フィアットの 百年目の意趣 ルノー完敗

[解説]
100年前、第1回グランプリを制したルノー&ミシュランの純仏タッグ。5月から続いてきた百周年記念キャンペーンの締めくくりを飾る大事な地元グランプリ。しかし、必勝の願いも空しく宿敵フェラーリ/ブリヂストン/ミハエルの日独伊三国同盟の前にもろくも敗れ去りました。奇しくもそれは100年前に敗れ去ったフィアット(=親)の雪辱を子(=フェラーリ)が果たしたカタチ。文字通り「ここで会ったが百年目ぇ〜」の意趣返し/見事な仇討ち劇となったわけです。フランス国民は「ベルリンの悲劇」の傷も癒えない1週間後、また苦汁を舐め、イタリア国歌を聴かされるハメとなりました。

[雑感]
GRAND-PRIX「グランプリ」─現代の私たちが何気なく耳にし、クチにする言葉ですが直訳は「大賞」。この言葉を冠した自動車レースが初めて開催されたのが100年前の1906年6月26〜27日のフランス・ルマンでの大会でした。日本では、南満州鉄道が設立され、夏目漱石が『坊ちゃん』を発表した年。その頃のレースとは、どのようなものだったのでしょう?現代フランスを代表する国営企業にまでなったルノーの若く猛々しきその黎明期を調べてみました。

◆創設者ルイ・ルノー
裕福な家庭の落ちこぼれだったルイ・ルノーは、小さな小屋の中にこもって当時一般的だったベルトやチェーン駆動ではない、静かで信頼性の高いシャフトドライブ式の車を作りました。その車をレースで走らせ優勝した事が彼のサクセスストーリーの始まりです。レース結果を広告媒体として利用し販路を広げる手法は、事業を確実に拡大させました。しかし、その陰で一緒にレースに出て喜びを分かち合っていた一番仲の良かった兄マルセルをレース事故で失うという悲劇も経験します。ルイはこの事故以降、ドライバーとしてレースに出場しなくなりました。

◆第1回グランプリ
ACF(フランス自動車クラブ)主催による第1回グランプリレースは、ルマンの東にある3つの町を結ぶ公道をつないだ1周約103km(現代のサーキットは1周4〜5km前後)のコースを使って、6周618kmを2日間、つまり全12周/全走行距離1,236km(現代F1のレース距離は300km前後)を戦うという決勝レースの内容でした。

◆真っ赤なルノー
ワークス・ルノーがレースに持ち込んだ車は、3台でした。車両重量1トン弱(現代F1は約500kg)、エンジンは排気量12,900cc(現代F1は2,400cc)。ドライバーは、フランス・シス、ピエール・リシェズ、エドモンの3人。この頃のルノーの車体は、まだフランスのナショナルカラー黄色ではなく、赤でした。

◆ミシュランの秘密兵器
予選までは自転車のようなワイヤ・スポークタイヤを使用していたルノーは、決勝に向けてミシュランが持ち込んだ最新のリム脱着式タイヤに切り替えます。当時のタイヤ交換は、よく切れるナイフで破れたタイヤを切り取り、硬ゴムタイヤとチューブをリムに組み付けて、ホイールにボトで固定するという工程が必要でした。その面倒な作業をホイール固定用の8本のボルトを外すだけでリムごとタイヤが交換できたのです。数時間かかっていたタイヤ交換がたった数分から10数分で完了できるという優れものでした。

◆過酷なレース
当時の道路は、埃っぽい砂利の転がる未舗装路。または砂利道にタールを撒いて固めただけの舗装路でした。夏の暑さと猛スピードで駆け抜けるタイヤによって、ドロドロに溶けたタールは泥よけのない車輪に跳ね上げられ、ドライバーの皮膚にひどいヤケドを負わせました。また先の尖った砂利石は弾丸のようにドライバーの顔面を襲いました。ルノードライバーのエドモンは、ゴーグルに石が当たり、砕けたガラスで目を負傷しました。痛み止めのコカイン注射を打ちフラフラになりながら5周目も走りましたが、あと1周を残して痛みに耐えきれず惜しくもリタイヤとなってしまいました。

◆現代F1と現代ラリーに似た風景
2位に26分差をつけ1位で1日目を終えたルノーの車両は、現代F1の予選後のように整備のに触れられぬままパルクフェルメで保管され夜を過ごします。2日目の決勝は、まるで現代のラリー選手権のように前日の順位順にタイム差を測りながら1台ずつスタートしました。

◆薄氷を踏むような大勝利
1位のルノーは、スタートしてすぐタイヤ交換に入り、燃料、オイル、水を補給し、万全の態勢を整えて再スタートを切ります。それでも2位とは14分半も差がありました。楽勝ペースで始まったレースでした。しかし、4位を走っていたリシェズが3周目でリタイヤ。1位のシスも4周目にリアのスプリングを痛めてしまいます。ピットで点検した後は安全走行に切り替えて見事に逃げ切り、追い上げてきたフィアットに32分という圧倒的な差をつけて優勝します。平均時速は101.34km/h、最高時速は160.93km/hでした。
(参考文献:ダグ・ナイ著「歴史に残るレーシングカー」グランプリ出版より)

◆ワークス・ルノーの終焉、復活そして挫折
1908年のレースを最後にワークス・ルノーのレース活動は長い休眠期間に入ります。それから69年後の1977年。ルノーは、ターボ・エンジンという最先端技術への挑戦もかねてサーキットへ戻ってきます。足には、ターボパワーを路面に確実に伝えるミシュラン製ラジアルタイヤを履いて…。この第2期ルノーは、ワークスとして1985年まで、ロータス、リジェなど他チームへのエンジンサプライヤーとして1986年まで活動しましたが、超絶パワーを誇るホンダターボにあっさりお株を奪われるカタチとなり、念願のチャンピオンマシンとなる夢も叶わないままグランプリから撤退します。

◆臥薪嘗胆
打倒ホンダに燃えたルノーが、雌伏の時を経てグランプリに戻ってきたのは3年後の1989年。同じくホンダへの復讐心に燃えるウィリアムズへのエンジンサプライヤーとしての復帰でした。時はまさにマクラーレン・ホンダ全盛期、フェラーリV12とのパワー競争の影に隠れながら、密かに開発が進められてきた軽量・低重心・高信頼性のルノーV10エンジンがついに真価を発揮する時が来ます。

◆ルノー全盛期
1991年、ウィリアムズの技術開発チームによって熟成された魔法の足「リアクティブ・サスペンション」と天才アドリアン・ニューウィーがデザインした空力パッケージを得たFW14シリーズがサーキットを蹂躙。ナイジェル・マンセルの激しい闘争心にも、リカルド・パトレーゼの静かなる安定走行にも的確に応え、「アナザープラネット」と呼ばれるほどの無敵ぶりを他のチームに見せつけます。そして、翌1992年ルノーは悲願だったチャンピオンマシンとしての栄冠を手にします。

◆ルノーの「明日はどっちだ!」
2005年、7度目の栄冠を奪取したルノーは、今年も開幕スタートから圧倒的な勝ち星を重ねてきました。しかし、ここ2戦。フェラーリ、ブリヂストンとミハエルの不気味な復調を感じさせるレースが続いています。果たして残り7戦、アロンソ&フィジケラのコンビがミハエル&マッサの連携を突き崩す事ができるのか?この調子でいけば雌雄を決する戦いは、フェラーリの地元モンツァまで続きそうな予感。マニ・クールの雪辱をルノーは果たせるのか否か。さあ、どっち!?次はミハエルの地元ホッケンハイム・リンク!!

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登録日:2006年 07月 27日 03:17:05

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プロフィール
斎藤モ吉
(男)
福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
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