カテゴリー [F1・ドライバー物語]

「スーパーアグリ初入賞」で一句

<07 F1・第4戦 スペインGP>決勝、佐藤琢磨 8位入賞でチームに初ポイントをもたらす - スペイン

【モンメロー/スペイン 13日 AFP】F1・2007年シーズン第4戦・スペインGP(Spanish Grand Prix 2007)、決勝。13番グリッドからのスタートしたスーパーアグリ(Super Aguri)の佐藤琢磨(Takuma Sato)は、トップと1周差でフィニッシュして8位入賞を果たした。琢磨は1ポイントを獲得をし、参戦2年目のチームに初ポイントをもたらした。(c)AFP/BERTRAND GUAY

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ああ見えて ストラテジストな 亜久里さん

[解説]
鈴木亜久里代表には、運を味方につける才能があるのか…と思います。
現役時代の日本人初表彰台獲得といい、
チーム参戦2年目のシーズン早々の初ポイント獲得。
多くの日本人ドライバーや個人チームオーナーたちが
夢見るだけに終わった事を次々と現実化させる
その能力には、空恐ろしいものをカンジさせます。
まさに「有言実行」男《鈴木亜久里》の面目躍如ではないでしょうか。

[雑感]
しかし、彼のレース人生を振り返るとあまり「ラッキー」とは言えません。
ドライバー《鈴木亜久里》の1年目、全戦予備予選落ち。
三流チームで目も当てられないほど屈辱的な時間を無駄に過ごしました。
こめかみに血管を浮き上がらせながら
「ギアを組み間違えてるんだよね…もう信じられない」と日焼けした顔に
ありありと怒りと落胆の色を浮かべながらコメントする姿を思い出します。
そうした劣悪な境遇からでもへこたれず挑戦し続け、
少しでも上位へはい上がろうと努力し続ける姿は多くの共感を呼びました。
そんな彼を影で支え続けてくれたサポーターやスポンサーたち。
その期待に応えた最上の結果。地元「日本」で空高く揚がった日の丸。
あの日、表彰台で輝いた笑顔とまったく変わらない笑顔が
バルセロナのスーパーアグリチームのピットで輝きました。
喜びを爆発させる佐藤琢磨とともに。
http://www.youtube.com/watch?v=BMBjrfVZyAI
↑うれしそうだな〜みんな(笑)琢磨の全力疾走、イイネ。

◆デビュー前夜
F1ドライバー《鈴木亜久里》のデビューは、1988年の鈴鹿スポット参戦。
時代はまさにバブルの絶頂期。
日本のあらゆる人々が我も我もと「F1」に殺到した時代でした。
翌1989年に向け、ホンダに続くエンジンサプライヤーはどこか?
中嶋悟に続く日本人ドライバーは誰か?と噂が引きも切らない状態。
そこにヤマハエンジンのF1参戦が正式にアナウンスされ、
ドライバーに鈴木亜久里の名前が挙がりました。
そんな矢先、急遽決まった「鈴鹿」でのスポット参戦。
耳の病気で休養する事になったヤニック・ダルマスの代理でした。
チームはラルース。2年後に亜久里を表彰台へと導いてくれるチームでした。

◆手荒い洗礼
そうして迎えた日本グランプリ。
予選では、ファーストドライバーのフィリップ・アリオーから0.4秒落ち。
F1初参戦ながら速さ的には十分合格点でした。
しかし、日曜日の決勝で亜久里は思いも寄らない洗礼を受けます。
リジェのルネ・アルヌーによる執拗なブロックと意地の悪いブレーキング。
そして、リアルのアンドレア・デ・チェザリスによる不必要な幅寄せ。
現在なら確実に審議の対象となるあからさまな危険な走路妨害行為でした。
それでも亜久里は3周遅れながらも16位で完走しました。

◆ビッグマウス?
「鈴鹿はオレの方がよく知ってるんだから、プロストの後ろにつく必要なんてないでしょ?」
「オレがもしマクラーレンに乗って、セナがローラの車に乗ったとしたら(略)セナよりオレが4秒速いんだ。」
(F1グランプリ特集Vol.6より)
日本GP後に行われたインタビューでの亜久里のコメントです。
これを読まれた方はどう受け取ったでしょうか?

◆亜久里の本意
きっと「生意気」な発言と受け取られた方がいるのではないでしょうか。
しかし、上記コメントで言いたかった本当の意図は
「自分が熟知した《鈴鹿》のコース取りについて今更プロストから学ぶ事はありません」だったり、「セナと自分とのタイム差はマシンによるものが大半で6秒差のウチ実力差は2秒ぐらいなんですよ」だったりするのです。

◆言い方の問題?
つまり、面白可笑しく誇張されがちな報道に対する訂正に過ぎないのですが、
結局そのコメントさえもが言葉尻だけを強調され
「プロストから学ぶ事なんてナニもない!」とか
「オレは絶対セナより4秒速い!」と言ったかのように曲解されてしまい
「亜久里はビッグマウス」と不必要な反感を買い
多くのアンチを生み出す事になります。

◆アンチ亜久里
まだ予備予選すら通過できない時期に
「F1ドライバーは通過点に過ぎない」と言ったり、
将来のチーム資金づくりのために独自ブランドを立ち上げたり、
コマーシャルに積極的に出演して自分の商品価値を高めるなど、
現在ならイチローや中田英寿らが普通にやっている事を先駆けて行っていました。
しかし、そうしたロジカルでビジネスライクな言動が
「ストイックさ=美徳」と信じて疑わない一部ファンから
「あざとい」「金に汚い」など誹謗される要因となります。

◆栄光の日々
ザクスピード・ヤマハで初フル参戦した89年。
全戦予備予選不通過という過去に例を見ない不名誉は
翌90年、ラルースへの移籍によって回復されます。
同僚にエリック・ベルナールを迎え、
クリス・マーフィー設計によるシャシーと
ランボルギーニV12エンジンの組み合わせは十分な戦闘力を備え、
レースでも入賞を重ね、迎えたクライマックスの日本GPで3位4ポイント獲得。
ラルースチームもコンストラクターランキングでも堂々6位を獲得します。

◆消された記録
ところがシーズン終了直前、ランボルギーニがエンジン供給の停止を一方的に通告。
ランボルギーニは同じフランス国籍の古株チーム・リジェとの契約を発表します。
そして、91年シーズン開幕直前。更なる試練がラルース・チームを襲います。
FISAによる「90年全獲得ポイント剥奪」です。

◆またジャン・マリーが…
本来「ローラ」であるべき名義が「不当に変更された」ゆえの処分なのですが、
あまりに唐突かつ理不尽で一方的な処分に関係者一同誰もが耳を疑いました。
この処分のウラには某フランス系チームによる予備予選シード権奪還工作や
マネーを抱えた亜久里を狙い仕掛けられたラルースチーム破壊工作と噂されました。
どちらにせよ亜久里の91年は開幕前に暗澹たるものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=2DChNJfDsEE
↑コレも亜久里の実像ではありますが…こんなのしかないの?

◆準ジャパンチーム?
案の定、悲惨なシーズンを1年過ごした亜久里の前に新たな道が開けます。
フットワーク・アロウズからの誘いでした。
エンジンは無限・ホンダ。同僚はベテランのミケーレ・アルボレート。
テクニカル・ディレクターはアラン・ジェンキンスでした。

◆予想外の展開
しかし、これ以上ない万全の体制で挑んだはずのフットワークでの2年間は、
亜久里にとって決して受け入れられない現実を突きつけられたシーズンでした。
1年目のアルボレート、2年目のデレック・ワーウィックと
すでにピークを過ぎたおじさんドライバーに予選・決勝を通じて常に後塵を拝したのです。
亜久里のプライドがいたく傷つけられました。

◆92年シーズン後/亜久里のコメント
「ミケーレは(略)フットワークに来て3年経ってる(略)マシンの事はどんな小さな事でも知ってるし、性能も知り尽くしてる。(略)ミケーレのスタイルは独特でとても特別なものがあるよね。(略)だからマシンを知らない僕にとってはすごくドライブしづらいんだ。これも大きな問題だったんだ。言い訳はしたくないけど、今年の鈴木亜久里は本当の鈴木亜久里じゃない。」
(F1グランプリ特集Vol.42 フランコ・パナリッティー取材記事より)

◆93年シーズン後/ワーウィックのコメント
「もっと僕やフットワークにとって実りがあってもよかったと悔やまれるシーズンだった。(略)僕らは掴めるはずだった結果を逃してしまったんだよ。93年は不運がたくさん重なってね。これには僕をはじめ、《チームのスタッフ全員》が欲求不満に陥ったよ。(略)周囲のドライバーがしてくれたことは、まったくクレイジーな行為ばかりだった。モンツァではチームメイトの亜久里にぶつけられるし、(略)まったくやってられないよってな気持ちになってしまう。本当に滅入ってしまうね。それでも《僕ら》は結果を出さなければいけないんだから、まったく、F1とはタフなビジネスだよ」
(F1グランプリ特集Vol.55 デリック・オルソップ取材記事より)
まあ、この年に限らずワーウィックさんのレース人生そのものがタフでしたね。
http://www.youtube.com/watch?v=McaBLD0BhuM
↑まさにMr.アンラッキーってカンジです。

◆フットワークとともに去りぬ
バブル崩壊以後の景気の冷え込みで
フットワークもF1からの撤退が決定的になります。
その直後、鈴木亜久里も
安泰と思われていたフットワークのシートを失う事になります。
この事態に至って初めてフットワーク総裁の大橋会長も
亜久里もチーム内での自分たちの置かれた立場が
本人が思っているよりもいかに弱かったかという事実を思い知らされます。
ジャッキー・オリバーとアラン・ジェンキンスらアロウズ・スタッフたちが
一致団結して「金の切れ目は縁の切れ目」とジャパンカラーを一掃したのです。
以降、鈴木亜久里は誰はばかることなく
公然とアロウズ批判をくりかえすようになります。

◆F1浪人時代
F1浪人中の亜久里は、岡山のパシフィックGPで
エディ・アーバインの代役を務めた以外は、
日本のツーリングカー選手権でドライバー的に無為な時間を過ごします。
このJTCCへの参戦も自分を「客寄せパンダ」として使って貰う事で日本国内のモータースポーツ振興の一助になればという意図によるものでした。
すでに自分のドライバー人生が終焉を迎えつつある事を自覚していた亜久里。
有終を飾るため翌95年リジェからの復帰へ向けた準備へ全勢力を向けます。
やがて、リジェの来季の使用エンジンが無限-ホンダと決まり、
亜久里カウントダウンへの期待が高まりました。

◆砕かれたプライド
しかし、フラビオ・ブリアトーレとトム・ウォーキンショーの2人によって
乗っ取られリストラクチャされたリジェは、すっかり
ベネトンのサブチーム的な役割を担わされていました。
チーム運営は実にシステマティックでドライバー個人の
思い入れなど入り込む余地のないドライで事務的な契約条件を結ばされます。
ファーストドライバーは、オリビエ・パニス。
残り1つのシートを亜久里とマーティン・ブランドルが
シーズン中半分ずつ分け合うというものでした。
単なるペイドライバー。しかも半分。
それ以上でも以下でもないという屈辱的条件でした。

◆6戦1ポイント
それがF1ドライバー《鈴木亜久里》の最終シーズンのリザルトでした。
走れたのは約束の8戦どころかブラジル・アルゼンチン・サンマリノ・ドイツ・パシフィック・日本の6戦。
しかもテストも何も参加する事もできず、いきなり呼びつけられてシートに座らせるだけという穴埋め的な扱いでした。
久々に呼ばれたドイツ・ホッケンハイムリンク。降ったり止んだりの天候。不安定な路面コンディションに足をすくわれ、午前中のプラクティスで慣れないマシンのノーズを壊し、予選1回目でスピンし、マシンを大破させてしまいます。
それでも決勝は着実な走りでポジションアップし、終わってみれば6位入賞。
1ポイントを獲得していました。
しかし、チームはそんなポイントよりもマシンを壊される事を嫌い、
またブランドルへとハンドルを委ねます。
しかもブランドルがベルギーで3位表彰台に立ったために
いよいよ亜久里の出番は減り続けます。
パシフィックと日本もブランドルを走らせるつもりだったとも言われました。
そんなプレッシャーの中で焦りが出たのか、
パシフィックでは11周目にスピンリタイア。
鈴鹿では予選2回目のS字入口でスピン。コンクリートウォールに激突。
亜久里は肋骨を骨折して病院へ運ばれます。
ついに決勝レースを走る事なくラストシーズンを終えたのです。

◆チームオーナーの道へ
ドライバーとしてのキャリアに終止符を打った鈴木亜久里氏はその後、国内で将来のF1レーサー育成を目的とした活動に着手し始め、多くの賛同者を集める事に成功します。そして、1997年にカー用品流通業のオートバックスとの共同事業として《ARTA》を旗揚げ。
フォーミュラーニッポンやGT選手権で着実に実績を挙げ続けます。
そうした流れからついに去年、日本人プライベーターチームとして初のF1フル参戦を遂げます。
準備期間数ヶ月という強行スケジュールで奇跡的に開幕戦にこぎ着けます。
それからのめざましいまでの歩みは、ご存じの通り。

◆幻のチーム・イクザワF1計画
鈴木亜久里がこうして日本人プライベーターとして成功する以前にも同じようにレーサーからチームを立ち上げようされた例がいくつかあります。
そのひとつに60年代から70年代にかけて国内のみならずヨーロッパでもその名を知られた生沢徹が中心になって1994年終盤頃に密かに進められかけた「九州F-1招致委員会」と「チームイクザワ」の存在がありました。
当時のF1雑誌に掲載された記事にはモータースポーツジャーナリスト出身でウィリアムズ、ブラバム、フェラーリなどの広報関係に携わったピーター・ウィンザー(今年もFIA年間表彰式の司会を勤めた人)と名車フェラーリ641/2のデザイナーとして一躍有名になったエンリケ・スカラブローニなどの名前が挙がり、ノーズに日の丸をあしらったデザイン画らしきものまで掲載されていました。結局、この《おとぎ話》は結局、何一つ実現する事なく幻に終わりました。

◆スーパーアグリの道
こうした「幻」がいくつも浮かんでは消え浮かんでは消えするF1世界の中で、鈴木亜久里氏が引退後に進んだスーパーアグリへと続く道は他の誰よりも現実的で着実でした。まるで無駄がないかのような印象すら受けます。過去にこれ以上の「有言実行」を行った人物は本田宗一郎氏ぐらいしか他に思い当たらないと言ったら言い過ぎでしょうか?
それぐらいスーパーアグリが切り拓いた道には価値があると思うのです。

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登録日:2007年 05月 16日 17:59:42

「やっぱりバリチェロって不運?」で一句

<F1・第18戦 ブラジルGP>アロンソ 2年連続でドライバーズタイトルを獲得 - ブラジル

【サンパウロ/ブラジル 22日 AFP】F1・第18戦(最終戦)・ブラジルGP(Brazilian Grand Prix)、決勝。
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(c)AFP/VANDERLEI ALMEIDA

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ブラジリアン 勝てぬバリチェロ 勝つマッサ

[解説]
それにしても、ルーベンス・バリチェロ。
彼は、何故ブラジルで勝てないのでしょう。あの無敵フェラーリ時代、「勝っていいよ」とチームからお許しが出た時さえ勝てませんでした…。なのに、ルーベンスがずっと欲しがっていた「セナ以来の母国優勝者」の栄冠を後輩フェリペ・マッサはあっさりとゲット。
同じブラジリアンでありながら、この差は何なのでしょう?

[雑感]
ルーベンスが1993年にF1へ参戦して14年。13回のポールポジションに15回のファーステストラップ。そして、5回のポール・トゥー・ウィンを含む9回の優勝。ミハエル支配下におけるキャリアら考えれば、同世代のクルサードあたりと比べてもなんら遜色のない立派な成績の持ち主です。
それなのに何故か、ブラジルでは勝てない。いや、それどころか1995年から2004年までインテルラゴスで不名誉な9年連続リタイア記録を持っています。
そんなルーベンスの経歴をざっくりお復習いします。

◆F1デビュー以前
9才からカート経験(ブラジルチャンピオン5回、南アフリカチャンピオン1回)を8年間積み、89年に17歳でブラジル・フォーミュラー・フォードで4位。

90年に英国でGMロータス・ユーロシリーズでチャンピオン。
91年には、かつてセナが所属した名門ウエスト・サリー・レーシングから英国F3参戦、シーズン4勝を上げデビューイヤーチャンプを獲得します。

しかし、翌92年に参戦した国際F3000では、チーム体制の不備で足を引っ張られ、ルカ・バドエル、アンドレア・モンテルミーニに次ぐランキング3位。F1関係者たちの間でも評価が分かれます。

しかし、20才という若さに似合わない確実性と安心できるスポンサーの存在が評価され、ベネトンとジョーダンからオファーを受けます。そしてルーベンスは、ジョーダンからデビューする事を選びます。

◆ジョーダン時代 1993年-1996年
同僚は、落ち目のフェラーリで致命的なほど評価を下げてしまった不運なイヴァン・カペリ。新興チーム、ジョーダンで再起を図ろうとしましたが、ブラジルGPでなんと予選不通過。80年代後半に光り輝いたキャリアを開幕後たった2戦で終えます。

次の同僚は、ティエリー・プーツェン。彼もまた予選で新人ルーベンスを1度も上回る事ができずにシーズン半ばで引退してしまいます。デビューイヤーのバリチェロは、人懐っこい人柄に似合わぬ「ロートル・キラー」でした。

その後は、93年鈴鹿でセナと一悶着、94年開幕戦で多重クラッシュを招きライセンス剥奪されるなど何かと「お騒がせ」なエディー・アーバインが、95年までの同僚として定着します。性格や資質はまるで正反対(実はかなり険悪な関係にまで発展)ですが、力量的にはイーブン。この時の評価が後のフェラーリ起用へと繋がります。

アーバインがフェラーリへ移籍した後もバリチェロはジョーダンに在籍、憧れのセナF3000時代のライバル、マーティン・ブランドルとチームメイトになります。しかしブランドルもまた、バリチェロの成績を上回る事ができず引退を決意します。

◆スチュワート時代 1997年-1999年
かつての名レーサー、ジャッキー・スチュワートが息子ポールと立ち上げたスチュワート・グランプリが、1997年ついにF1参戦。その1年目の栄誉あるファースト・ドライバーに抜擢されたのがルーベンスでした。

同僚は、英国F3で94年にセナの勝利数記録を破る18戦14勝を上げ驚異の新人として注目を集めていたポール・スチュワート・レーシングの秘蔵っ子ヤン・マグヌッセン。しかし、新興チームの悲哀。マシンの信頼性に乏しく全17戦中2人で26リタイア。唯一、モナコでルーベンスが上げた2位表彰台での6ポイントが年間獲得得点でした。

翌98年は、シーズン途中であまりにも期待はずれのマグヌッセンが解雇され、フェルスタッペンに交代。しかし、マシンの信頼性不足は相変わらず、それでもルーベンスはしぶとく5位2回を上げ、チームに貴重なポイントをもたらします。

99年は、相性のいいジョニー・ハーバートとのタッグ。シーズン当初はテクニカルディレクターの離脱などでゴタつきますが、ジョーダンからゲーリー・アンダーソンが移籍して一気に体制が落ち着きます。バリチェロもコンスタントに3回の3位表彰台を含む7回の入賞。そして、ハーバートがなんと値千金の優勝をニュルブルクリンクで上げ、コンストラクターズ・ランキングも4位。チームの士気も一気に盛り上がります。しかし、チームは権利をフォードへ移譲。翌2000年からジャガー・レーシングとなります。

バリチェロは、アーバインの後釜としてフェラーリへ移籍。
「チームとの契約は複数年でいかなる時もチームオーダーがあればそれに従う(中略)僕がチームメイトよりも速ければ、シーズン終盤になってもスローダウンを命じられる事はないと思う」(F1グランプリ特集 Vol.128 フランコ・パナリッティー取材記事より)
彼と入れ違いにフェラーリを離脱するアーバインはこう忠告します
「彼は自分がどんな世界に飛び込もうとしているかを知らないと思うから、心配しているんだ。シューマッハのプレッシャーに彼は押しつぶされるか、耐えていけるかわからないが、苦労することだけは間違いないからね」(同上 ケビン・イーソン取材記事より)

◆フェラーリ時代 2000年-2005年
前年の「アーバインが優勝しちゃったらどうしよう」騒動でかなりチームがゴタついたフェラーリ。モンテゼモロは「アーバインがチーム離脱を望んだ」と発言していましたが、正直な話、何を言い出すかわからないアーバインにうんざりしたチーム首脳がアーバインのやる気に水を差すためにシーズン途中にすでに「放出予告」をしたというのが実情でした。

2年連続(実質3年連続)ワールド・チャンピオンまで後一歩だった経緯から2000年シーズンは、是が非でも必勝態勢を取りたいフェラーリ&ミハエル。
セカンド・ドライバーに関してはあらゆるドライバーに声をかけたと言われますが、「チーム指示に従順でしかも常に上位入賞が狙える確実性を備えた」という条件に見合うドライバーといえばクルサードかバリチェロぐらい。
しかし、クルサードの線はミハエルとの確執で論外。当然、残るバリチェロしか選択肢はなかったと思われます。

そして、この体制はジャン・トッド&ミハエルの思惑以上に大成功を収めます。
5年連続ダブルタイトル獲得。その成功は、2002年のチームオーダー事件が代表するようなルーベンスの自己犠牲の上に築かれた金字塔でもありました。

「勝つためなら手段を選ばない」。「お人好し」バリチェロもミハエルのナンバー2である事の意味と現実を理解し、かつてのアーバインの忠告が正しく、チームへの信頼が自分の思い違いである事を認識します。しかし、ルーベンスの真面目さとナイーブさも手伝って、この常勝体制は機能し続けました。

それでも、ルーベンスの心からチームへの疑念が晴れる事はなく、自分のあまりにも不平等過ぎる境遇に対する不満は溜まる一方でした。

5年間で表彰台に上がった回数を比較すると
ミハエルは(1位49回:2位17回:3位5回)に対して、
ルーベンス(1位9回:2位29回:3位22回)

5年間でのリタイア原因の比較は、
ミハエル(アクシデント&スピン9回:マシントラブル5回)に対して
ルーベンス(アクシデント&スピン8回:マシントラブル13回)

運・不運の差があるとはいえ、あまりにバリチェロにだけマシントラブルが偏り過ぎていました。特に2002年のスペインとフランスの決勝直前に起きた「スタート不可」な事態などは、絶対ミハエルには起こりえないものでした。

チームによる意図的、人為的な操作と捉える関係者も多く「フェラリには遠隔操作できるキルスイッチがついているに違いない。それもカーナンバー2にだけ」と噂されました。

バリチェロは、自分のプライドを取り戻すため、そして、亡きセナへのリスペクトの想いを胸にホンダへの移籍を決意します。

◆ホンダ時代 2006年-?
しかし、その移籍先ホンダの1年目にルーベンスを待ち受けていたのは成長目覚ましい若き同僚バトンによるチーム初優勝。そして、去ったフェラーリを継いだ若き後輩マッサによる「セナ以来の母国優勝」でした。

やはり、ルーベンスは「不運なレーサー」なのでしょうか?

(次回「ルーベンスの勝てないインテルラゴス編」に続く)

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登録日:2006年 11月 27日 01:19:08

「超新星クビサに大注目!」で一句

<F1・第15戦 イタリアGP>M・シューマッハ 今季6勝目を飾りアロンソとの差を2ポイントまで詰める - イタリア

【モンツァ/イタリア 10日 AFP】F1・第15戦・イタリアGP(Italian Grand Prix)、決勝。2番グリッドからスタートしたフェラーリ(Ferrari)のミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)は、2位に8秒差以上つけての優勝、今季6勝目を飾りドライバーズポイント・ランキングでトップを走るルノー(Renault)のフェルナンド・アロンソ(Fernando Alonso)との差を2ポイントまで詰めた。(c)AFP/PATRICK HERTZOG

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走りはGood! ポーランドの星 顔は××

[解説]
今年のイタリアGPは、ミハエル「衝撃の引退宣言」に全部持って行かれた感がありますが、アレさえなければもっと話題になっていたはずのロバート・クビサの走り。
ジャック・ヴィルヌーブを追い出して獲得したレギュラーの座。それも走りを見れば一目瞭然。レーサーとしての勢いの差は歴然。しかも弱冠21才という若さですでに実力十分。久々の期待度200%の大型新人です。
あともう少し顔が××(チョメチョメ)でなければ、女の子たちからもキャーキャー言われたでしょうに…残念。

[雑感]
昨年のワールドシリーズ・バイ・ルノー初代チャンピオン(4勝)。今年からBMWザウバーのサードドライバーに起用され、金曜日に見せるタダ者でない走りが情報通の間で密かに噂になっていたロバート・クビサ。
デビュー3戦目の3位表彰台という結果で、実力が噂以上であることを証明して見せたクビサ。その第15戦イタリアGPでの走りをプレイバックします。

◆見所 その1
絶妙なスタートを切ったクビサは、出遅れたバトンを抜き、けん制するフェラーリのマッサに対してピットアウトレーンの外まではみ出しながら反撃。第1シケインの飛び込みでまるまる1車身先行、ブレーキング競争で白煙を上げつつイン側をキープして競り勝ちます。その直後、シケイン通過中に同僚ハイドフェルドと並び、立ち上がり加速で一気に抜き去り、6位から3位へジャンプアップします。
トレビアン!目に焼き付くような鮮烈なオーバーテイク。
このモンツァの第1シケインは、レースアクシンデントが多い事で有名なのですクビサのライン取りは実にクリーンで、文句のつけようのないまさにお手本と言えるパッシングシーンでした。

◆見所 その2
1周目からクビサを執拗に追い上げるマッサ。しかし、クビサは地力で劣るF1.06を巧みに操り、マッサにまったく付け入るスキを与えません。ついにシビレを切らしたマッサがピットインしてしまう19周もの間、新人とは思えない落ち着いた走りで「トルコGP優勝者」を抑えきります。

◆見所 その3
ミハエル、ライコネンが次々とピットインし、クビサは5周だけ暫定トップを走ります。その21周目に彼は「1' 23'' 111」の自己ベストを出します。このタイムを上回ったのはミハエル、ライコネン、マッサの3人のみ。リタイアしたアロンソのベストより1/100秒上回っていました。

◆見所 その4
予選中のペナルティを受け10位スタートだったアロンソはじわじわと順位を上げ、終盤39周目には、ついにクビカの背後まで迫ってきます。毎周0.5秒ずつ差を縮められたクビサは背中にアロンソを貼り付けたまま同時ピットイン。そして同時ピットアウト。ピットレーンでアロンソと横並びになったままコース復帰します。しかし、ここで一瞬出遅れたためにアロンソの先行を許し、アウトラップで2.189秒差をつけられ置いていかれます。

◆見所 その5
その3周前にすでに2回目のピットインを済ませていたマッサが「1' 23'' 003」の自己ベストを更新しながらクビサの背後へ再度迫ってきます。マッサVSクビサのリターンマッチ再開!と思われた矢先、クビカの前を行くアロンソがメインストレートエンドでいきなりエンジンブロウ。派手にオイルと煙を吐き出しながらリタイアします。

◆明暗
ここでクビサとマッサに決定的瞬間が訪れます。クビサは、アロンソの真後ろにいたにも関わらず、落ち着いてマシンを半分イン側に避けて走らせ、オイルの被害から身を守ります。ところが、マッサはまともに煙の中へ突っ込み、パニックブレーキでタイヤをロックさせ、右フロントタイヤに激しい偏摩耗(フラット・スポット)を作ってしまいます。やむなくピットインして順位を落としたマッサは、そのままポイント圏外でチェッカー。一方のクビサは、敵のいなくなったコースを危なげなく走り見事3位をゲットします。

◆「デビュー3戦目で表彰台」の価値
かなり凄いと思います。過去のデータでもマイク・ホーソン(3位)やブルース・マクラーレン(3位)、W. フォン・トリップス(3位)、ラルフ・シューマッハ(3位)と肩を並べる記録で、あのジム・クラークでさえ5戦目(3位)、セナは6戦目(伝説の1984年/雨のモンテカルロ 2位)、マンセルが7戦目(3位)、ミハエル・シューマッハは8戦目(3位)ですから、クビサの将来性はなかなか有望ではないでしょうか。

◆フランスGPで魅せた走り
私がクビサに注目したのは、フランスGPでのフリー走行2回目のタイムでした。

ロバート・クビサ 1' 16'' 902(金曜フリー走行2回目)

この頃はまだクビサはサードドライバーなのでジャックやニック・ハイドフェルドの露払い的役割でした。しかし、金曜日のフリー走行で出すタイムで常にクビサは注目を集め、その評価がチーム内外でぐんぐん上昇して行きます。それがレギュラー2人へ多大なプレッシャーを与え続けていました。それがピークに達したのがフランスGPでした。

ニック・ハイドフェルド 1' 16'' 686(予選1回目)1' 16'' 294(予選2回目)
ジャック・ヴィルヌーブ 1' 17'' 304(予選1回目)

コースにラバーが十分乗っていない状態でクビサの出したタイムは、本予選でも14番グリッドにつける位置。レッドブルのクリエンの後ろ、ホンダのバリチェロの前となり、16位のジャック・ヴィルヌーブよりも前でした。

◆ドイツGPの波乱
続くドイツGPでも、クビサは金曜日トップの好タイムを記録。
それがジャックの焦りを招いたのでしょうか…。ホッケンハイムの決勝スタート直後、ジャックは同僚ハイドフェルドと接触。この時のダメージが結果的に両者リタイアというサイアクな結果を招いてしまいます。BMWの地元ドイツで犯した「あってはならない失態」。やがてBMWザウバー首脳陣はある決断を迫られます。
「ジャック・ヴィルヌーブ放出」その口実を与えてしまったのは、誰でもないジャック自身でした。

◆デビュー戦
「ジャック・ヴィルヌーブ欠場の代理」という名目でF1デビューを果たしたクビサ。いきなり予選で先輩ハイドフェルドより速いタイムを叩き出し、予選1回目でマッサ、ライコネン、バトンに続く4番手タイム。昼の予選2回目では、さすがに順位を落としますが、それでもハイドフェルドより1つ前の9番グリッドを獲得しました。順調のデビュー戦と思われましたが…。

◆不運
雨で荒れた決勝レースは、ハイドフェルドが3位表彰台を獲得したのに対して、クビサは雨に弱いミシュランタイヤに足をすくわれつつポイント圏内を走行。しかし、タイヤ交換をキャンセルして乾いた路面を走り続けた事が災いし、すり減り過ぎたタイヤ分だけレース後車検で最低重量を2kg下回ってしまい、失格裁定を受けてしまいます。せっかく獲得した2ポイントが剥奪され、何より貴重なデビュー戦初入賞記録まで抹消されるという不運に見舞われます。

◆危うしハイドフェルド
ハンガリーGPで表彰台を獲得し、一安心と思っていたハイドフェルドですが、これでまたNo.1の地位が危うくなりました。しかも、現在サードドライバーを勤めるのは、同じドイツ出身のセバスチャン・ベッテル。これがまたクビカに勝るとも劣らぬ速さを見せつける驚異の新人でBMWのお気に入りです。ハイドフェルドの眠れない夜はまだまだ続きそうです。ただし、ベッテルにはレッドブルがすでに目をつけているという話もあり、来季の去就もまた微妙なのですが…

◆最後にスーパーアグリのお話
さて、前回のトルコGPからスーパーアグリのサードドライバーにフランク・モンタニーが復帰しました。
山本左近は、日本GPまでにせめて完走という「最低限の結果」を出さないと、ホンダのサードドライバー、アンソニー・デビッドソンとの交代が噂される来季どころか、最終戦ブラジルを待たずにモンタニーと交代という事態もありうる、まさに崖っぷち状態です。
ドライバーの腕だけでマシンは、見違えるほど速くなるという良い見本をクビサに見せられた亜久里代表がいつ決断を下すか、それが問題…。

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登録日:2006年 09月 28日 15:10:35

「モントーヤ シーズン半ばで離脱」で一句

<F1・第10戦 アメリカGP>ウェーバー フリー走行3回目で12番手 - 米国

【インディアナポリス/米国 1日 AFP】F1第10戦・アメリカGP(United States Grand Prix)・フリー走行3回目。ウィリアムズ(Williams)のマーク・ウェーバー(Mark Webber)は、15周を走行し12番手となる1分12秒904を記録した。(c)AFP/Getty Images Clive Rose

AFPBB News


ファン-パブロ 期待新たな 道NASCAR

[解説]
シーズン半ばにF1サーカスからの離脱を決意したファン-パブロ・モントーヤ。開幕前からアロンソのマクラーレン移籍が決定。「チーム放出は時間の問題」と囁かれながらここまで頑張って来たモントーヤ。しかし、ついに噂が現実となってしまいました。
彼が選んだ新天地は、トム・クルーズ主演映画「デイズ・オブ・サンダー」で知られるNASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)。ストックカー(市販在庫車)を模したシャシーに800馬力超のエンジンを載せたモンスターマシンがオーバルコースを最高時速300km以上で駆け抜ける迫力満点のレース。北米を中心に全36戦、観客動員数は500万超というアメリカでイチバン人気の高いレース。目立ちたがりでハード&シンプルなス好きなモントーヤにピッタリ!ではないでしょうか?

[雑感]
某テレビ局にいきなり「コロンビアの暴れん坊」と名付けられたモントーヤ。
しかし、最近F1を見始めた人には今ひとつピンとこない「アダ名」だったのではないでしょうか?
特にマクラーレンへと移籍した昨年、ルノー/アロンソの活躍や同僚ライコネンの華々しいポールトゥーウィン3回を含む年間7勝、112ポイント、ランキング2位に比べると、年間3勝、60ポイント、ランキング4位の成績はひいき目に見ても見劣りします。かつて「暴れん坊」と呼ばれた頃の輝きを忘れてしまいそうです。そこでモントーヤとは、どんなレーサーだったのか?彼のデビュー当時をプレイバックしてみます。

◆F3000チャンピオン
1998年にウィリアムズのテストドライバーとして契約を結んだモントーヤは、同じ年の国際F3000チャンピオンに輝きます。なんとフランスの大会では全車周回遅れという逸話も手伝ってレース関係者から一躍注目を集めます。

◆回り道
モントーヤをすぐF1へステップアップさせる道もありましたが、ウィリアムズは時期尚早と判断、懇意にしているアメリカレーシング界の重鎮チップ・ガナッシの手に彼を委ねます。モントーヤは、武者修行の場としてCARTの世界へ単身乗り込み、なんと年間7勝を上げ、ダリオ・フランキッティを押しのけ、たった24歳でCARTチャンピオンに初参戦初制覇の偉業を成し遂げてしまいます。

◆待ちぼうけ
1999年のウィリアムズは、アメリカから招聘したCARTチャンプのアレックス・ザナルディが予想外の不振ぶり。複数年契約を破棄してでも代役を立てなければなりませんでした。BMWのモータスポーツディレクター、ゲルハルト・ベルガーはモントーヤを推薦しますが、ウィリアムズはもう一人の期待の新人、弱冠20歳のジェンソン・バトン(英国F3/3位)へ白羽の矢を立てます。

◆2000年のモントーヤ
もう一年、アメリカでCART生活を強いられる事になったモントーヤは、この機会に世界3大レースのひとつ「インディー500マイルレース」に飛び入り参加します。モントーヤは、ここでも「ちょろいね」と大口を叩き、他のIRLレーサーたちから反感を買います。そんな四面楚歌の中でもあっさりと優勝してしまいます。

◆映画「ドリブン」
もともとF1を舞台にするはずだったシルベスタ・スタローン主演映画。一説によるとスタローンがアラン・プロスト役、アントニオ・バンデラスがアイルトン・セナ役という、まるでケンシロウvsラオウみたいなマッチョF1映画が完成するはずでした。ところが諸々な困難な壁(噂によるとセナのお姉ちゃんがバンデラスの相手役にしろとゴネたとか…あくまも噂ですが)にブチ当たって、スタローンは泣く泣く断念、替わりにCARTの世界を舞台として映画は撮影されました。この作品の中で一瞬、当時のモントーヤが映っています。

◆天孫降臨
ついに2001年。ウィリアムズは、ついにモントーヤをF1世界へ召還します。F3000チャンピオン、CARTチャンピオン、インディ500覇者。これ以上ないほどの勲章をぶら下げ鳴り物入りでのデビュー。それはもう同じ年にデビューしたライコネン(ライコネンは、その経験の少なさからFIA代表のマックス・モズレーからスーパーライセンス発給のダメ出しを検討される有様でした)やアロンソとは比べものにならない期待度の高さでした。

◆あれれ?
ところが開幕戦のオーストラリアのフタを開けたらビックリ。予選では、同僚R.シューマッハに約1秒遅れの11位。決勝は、入賞圏内まで上がってきたもののピットイン直前の40周にエンジンブロウでリタイアという惨憺たる結果でした。因みにザウバーのライコネンはモントーヤの0.255秒遅れの13位から6位入賞。ミナルディのアロンソは約2秒遅れの19位から12位完走と堅実に結果を残しています。

◆不調の原因
周りの期待に反して、とんでもなく平凡な予選結果。リタイヤ続きのリザルト。当時のインタビューでモントーヤは、マシンのグリップ感の奇妙さを強調しています。CARTで使う車は、ベンチュリー効果バツグン&真っ平らなスリックタイヤで路面に張り付くように走りますが、F1は、速度削減の一環として導入されたグルーブドタイヤ(溝付きタイヤ)やステップボトムなどの影響でメカニカルグリップもタイヤ自体のグリップもCARTに比べて不安定なものでした。デビュー当初の不振は、2年ものCART生活に慣れすぎたせいだったのかもしれません。

◆速さの片鱗と不運の予兆
そんなモントーヤが実力の片鱗を見せたのは第3戦ブラジルGPでした。4位スタートからエンジンストールしたハッキネンとスタートを失敗した同僚R.シューマッハをかわして2位にアップ。セーフティーカー明けの再スタート、1コーナーでM.シューマッハを強引に抑え、首位を奪取。その後も地力に勝るフェラーリを中盤まで押さえきり、初優勝への期待が高まった39周目、周回遅れのフェルスタッペンに思いがけない場所でいきなり追突、伝説となるチャンスを失ってしまいました。それからモントーヤがモンツァでやっと栄冠を手に入れるまでの12戦。モントーヤの豪快な走りと不運なリタイヤの繰り返しを目撃する事になります。

◆塩っぱい初優勝
やっと手にした初優勝。それはあの「9.11テロ」が起きた週末でした。ミハエルが最初の1〜2シケイン区間を追い越し禁止にしようと言い出し、「俺たちはここにレースしに来てるんじゃないのか」と主張するヴィルヌーブと激しい口論となり、結局、結論の出ないままスタート。そんなミハエルを真っ先に抜きにかかったのは弟のラルフでした。それがショックだったのかレース中、ミハエルのテンションは最初から最後まで低いままでした。歯ごたえのないミハエル相手の勝利。せっかくのモントーヤ初勝利の味はなんとも塩っぱいものでした。

◆暴れん坊襲名
やがて、モントーヤもF1の水になじみ始めるにつれ、CART時代の仇名「ミスターオーバーテイク」に恥じない走りをF1でも見せ始めます。彼が「行く」と決めた時は、その相手がたとえ皇帝ミハエル・シューマッハであろうと躊躇はありませんでした。そんな強引さが、多くのドライバーから「粗野」「下品」「ダーティー」と反感を買います。しかし、モントーヤは微塵も気にすることなくゴーマンな態度を貫きます。それが時に、或る人々の眉間にシワを寄せさせ、或る人々からは快哉を受けました。そうして「暴れん坊」というアダ名も定着していきました。

◆オール・オア・ナッシング
彼が6年間のキャリアで走った95レース中、優勝回数は7勝。リタイヤしたのは29回。残りの完走したレースで無得点だったのはたったの5レースです。つまり、それ以外では、必ず表彰台に立つか、入賞圏内でフィニッシュしたという事です。

◆たられば
モントーヤのキャリアで特に目を引くのは、デビュー年の11回リタイヤ。これ上回るのは「クラッシャ」アンドレア・デ・チェザリの90年「12回」86年、87年2年連続「14回」リタイヤだけという実に不名誉な快挙(?)です。しかし、リタイヤ原因はメカニカルトラブルや不運なもらい事故が多く、トップ快走中に失ったレースも少なくありません。もし、彼がウィリアムズからデビューせず、履くタイヤがミシュランでなく、エンジンがBMWではなく、同僚が嫉妬深いR.シューマッハでなかったなら…この内ひとつでも条件が違ったなら、もう少し違った結果が残せたのかもしれません。

◆新天地で
ムラ気が強く、速い時には滅法速いが、気が乗らない時には全然ダメなモントーヤ。彼の走りが見られなくなるのは寂しい事です。NASCARの映像は、日本ではほとんど見る機会がありませんが、それでも常に元気にオーバーテイクし続ける「暴れん坊」レーサーであり続けてほしいと願っています。

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登録日:2006年 07月 18日 17:59:37

ジャック、カナダじゃいつもカラ回りで一句

<F1・第9戦 カナダGP>M.シューマッハ 見事な追い上げをみせ2位入賞 - カナダ

【モントリオール/カナダ 25日 AFP】F1第9戦・カナダGP(Canada Grand Prix)・決勝。5番手からスタートしたフェラーリ(Ferrari)のミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)は見事な追い上げを見せ、1時間34分39秒419のタイムをマークし2位入賞を果たした。(c)AFP/Getty Images Clive Rose

AFPBB News


ヴィルヌーブ 越えられぬ背中 見えない壁

[解説]
たったデビュー2年目にワールド・チャンピオン獲得。そんな過去の栄光もすっかり色褪せた感のあるジャック・ヴィルヌーブ。そんな彼が生涯の伴侶を得て、久々にいい感じの走りを見せたカナダGP。しかし、彼の父・偉大なるジル・ヴィルヌーブの名を冠したサーキットで、何故か結果が出せていません。今回も残念無念。タイヤかすのせいで壁に接触、リタイヤしてしまいました。

[雑感]
◆GPDA「キッパリ」脱退の理由
「曲がった事は大嫌い」正義漢ジャック・ヴィルヌーブの面目躍如。ジャックを筆頭に数名のドライバーから求められていたモナコGP「ラスカス事件」での真相についてM.シューマッハ自身の口による説明、および彼のGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)理事辞任要求がイギリスGPのドライバーズミーティングで“門前払い”され、M.シューマッハの理事続投が決定されました。この一連の流れを受けて、ジャックはGPDAを脱退しました。

◆GPDA「イヤイヤ」入会の理由
そもそもジャックがGPDAに入会したのは、デビュー5年後の2000年。しかも“HANS”導入問題に抗議するため仕方なくという後ろ向きな理由。ですから、今回の脱会にためらいはなく逆に、日頃から良く思っていないM.シューマッハに対する面当てという面では「喜んで」脱会したのではないでしょうか。

◆モノ言う古株ドライバー
今回に限らず、ジャックは今まで何度となく、歯に衣着せぬ言葉でFIAの決定やドライバー仲間たちの行動を厳しく糾弾してきました。そんなジャックに対して「青臭い」「一匹狼きどり」と揶揄する向きもあります。また一方で、洗練され過ぎた現代グランプリに彼のような規格外キャラが必要だとする意見も少なくありません。個人的には、今回のジャックらしい、後先考えない行動の復活が、彼のスランプ脱出の兆しである事を希望しています。

◆偉大なる父の呪縛?
それだけに今回のリタイヤは、ガッカリです。ラスト10周。マシンにも勢いがあり、そのまま走っていれば8位入賞は確実でした。ジャックがカナダGPで入賞圏フィニッシュできたのは、デビューした1996年のみ。それ以降は、運に見放されたかのようにリタイヤ続きです。運良く完走できた去年も予選グリッドを下回る9位。父ヴィルヌーブが我が子を鍛えるためにわざと不運を呼び寄せているのでは?と思わずにはいられません。デビュー翌年から続くジャックのカナダGPでの不運の歴史を振り返ってみました。

◆1997年 ウィリアムズ・ルノー FW19
決勝までは大フィーバー!結果は同僚ヒルに届かず仕舞いの2位。そんな肩すかしだったデビューイヤーから1年。今年こそワールドチャンプ最有力候補!ポールトゥーウィン3回を引っさげ凱旋したジャックに地元観衆は、ごく当然のように期待に胸膨らませます。予選2位から名誉挽回に燃えるジャック!しかし、たった2周目の最終シケイン。ブレーキングをミスって壁にヒット、あまりにも無様なリタイヤで前年以上の深い失望をカナダ国民に与えてしまいます。

◆1998年 ウィリアムズ・メカクローム FW20
常勝エンジン・ルノーV10を失った赤いウィリアムズを駆るジャック。それでもなんとか表彰台を期待できそうな3列目6位からのスタート。1周目の多重クラッシュ赤旗、再スタート直後の多重クラッシュでまたもセーフティーカー導入という荒れた展開。その後も芝生をまき散らす車あり、壁にめり込む車ありなどで2度もセーフティーカーが入り、気がつけばジャックはフィジケラに次ぐ2位を走っていました。
そして、セーフティーカーが消えた23周目。満を持したジャックは、まるでインディーカーのようにフィジケラのテールに張り付き、ホームストレートを猛然と加速、1コーナー手前でアウトから仕掛けます。
しかし、それは誰の目にも明らかなオーバースピード。激しいタイヤスモークと砂利を蹴立てて、グラベルとコースを横切ったFW20はコース反対側のタイヤバリアをかすめます。幸い大きなダメージもなくコースに復帰したと思った瞬間、後続車がリアウィングに接触。リアウィングを根本から失ったジャックは、ピットに戻り、ハンドルをはずします。当然リタイヤと思われた、その7分半後、ジャックは突然コースに復帰します。6位争いを演じる中野信治やヤン・マグヌッセンをオーバーテイクするも6周遅れの10位完走。その姿はあまりにも痛々し過ぎるものでした。同ように他車との接触から周回遅れとなりつつモンテカルロを完走し、10位フィニッシュで賞賛を受けたM.シューマッハと比べるまでもなく…。

◆1999年 BAR・スーパーテック BAR01
新チームBARに移籍したジャック。全戦リタイヤという目も当てられない有様でカナダGPを迎えます。予選は16位からスタート。前年を再現するかのようにスタート直後1コーナーで多重クラッシュ発生。ここで導入されたセーフティーカーがファンファーレであったかのように「最終シケイン・クラッシュショー」の幕開けとなります。3周目にリカルド・ゾンタ。15周目にはデイモン・ヒル。31周目にM.シューマッハが壁の餌食となります。そして、運命の35周目。壁に突き刺さるような角度でBAR01がクラッシュ。ついにジャックまでショーの餌食となり、足を痛めながらのリタイヤで幕を引きました。

◆2000年 BAR・ホンダ BAR002
念願のホンダエンジンを手に入れ、前戦モナコでは入賞まであと一歩だったジャック。その好調さを証明するかのように、カナダでも予選6位。絶好のスタートダッシュを決めて3位にポジションアップ。ここから延々24周、ヴィルヌーブを先頭にバリチェロ、ハッキネン、デ・ラ・ロサの4台が列車のように周回を重ねます。2位クルサードへのペナルティーでジャックの順位は2位に繰り上がり。しかし、その頃には前を行くM.シューマッハは遙か彼方、後からは焦れた速いフェラーリとマクラーレンがコーナ毎に襲ってきます。いかにジャックの腕をもってしても限界がありました。
そして、ついに25周目にヘアピンでバリチェロ、34周目に1コーナーでハッキネンにパスされてしまいます。しかも、本格的に降り出した雨には絶好のタイミングだったはずのピットインであろう事かドライタイヤを装着。1周して再度、レインタイヤに履き替える間にポジションは10位にまで転落。
激しい雨の中、残り4周となり集団最後尾に落ちたジャックは、ヘアピン手前、前を行くクルサードのインを刺そうとレイトブレーキングで仕掛けます。が、止まりきれずクルサードの前を行くR.シューッハを道連れにコースオフ。そのままリタイヤとなってしまいます。“幸い”にも規定周回数をクリアしていたため記録上は10位完走扱いとなりました。しかし、レース後の審議によりジャックの行為が危険と見なされ25秒のタイムが加算されました。が、彼の後ろに誰もいなかったため“幸い”にも順位は変わらずでした。

◆2001年 BAR・ホンダ BAR003
開幕戦オーストラリアGPで、ジャックはまたもR.シューマッハのタイヤに後ろから乗り上げ激しいクラッシュを経験します。しかし、事故のショック以上に彼の車の破片によってコースマーシャルが死亡したという現実にジャックは、深刻な精神的ダメージを受けます。
その後のレースで3位表彰台のスペイン、4位のモナコと成績上は回復したかのように思われました。しかし、カナダGPの予選中にモントーヤと接触、ドライバーズミーティングで彼との言い争いがつかみ合いのケンカにまで発展しました。後で事の顛末を聞いたフランク・ウィリアムズが思わず眉をしかめたと噂されるモントーヤの暴言が引き金と言われますが、それが開幕戦ショックからまだ立ち直れていないジャックの弱みを不用意に逆撫でしたであろう事は想像に難くありません。
決勝順位は9位。しかし、ラウンチ・コントロールがうまく作動せず、スタート失敗。18位までジションダウンしてしまいますが、徐々に順位を上げ予選順位まで挽回します。そんな35周目、ホームストレート上でいきなりスローダウン。ドライブシャフト破損でリタイヤとなります。

◆2002年 BAR・ホンダ BAR004
全チームで唯一ポイントが獲れないBAR。不振脱出のためホイールベース延長に加え、ギヤボックス、リアサスペンション、空力パーツに至るまで改良を施したシャシーを投入します。しかし、期待のホンダ新エンジンの投入が見送られ、オーストリアGPで使用したエンジンの使い回す事になります。それでも02年シリーズ初のシングルグリッドに滑り込み、悲願のポイントゲットが期待されました。ところがレース序盤の9周目、第3コーナーで無念のスローダウン&ストップ。リタイヤの原因は使い回されたエンジンによるトラブルでした。

◆2003年 BAR・ホンダ BAR005
14位スタートから一気に9位までポジションアップ。ところが14周目にはピットイン。原因はブレーキペダルのストロークがどんどん深くなるという症状でした。ジャックは、コクピット内でジッと修復を待ちましたが、結局直らずリタイヤとなりました。

◆2003年 最終戦日本GP欠場の理由
この頃のBARは、混乱がピークに達しかけていました。予選方式の激変、スポンサーのBATとアジア地域でのテレビ放映権をめぐる訴訟裁判問題、そして、ヴィルヌーブの移籍問題など。様々な問題が山積したBARの現場は混乱し、レース戦略においても度々大きな誤算やつまらないミスを続けました。ホンダエンジンの信頼性不足もまた不振の大きな一因でした。けれども、それら全てを棚に上げられた状態でジャックの高額な契約金とそれに見合わないリザルトが秤にかけられ、BARは、来季の戦力からジャックの名前をはずす事を決定します。自分の代わりに新人の日本人ドライバーが選ばれた事を知ったジャックは、日本GPへの出走を土壇場でキャンセルします。それはギリギリまで熟考した結果とも、ホンダへの嫌がらせとも、ジャックの気まぐれとも噂されました。ただ確かに言える事は、彼が2004年もホンダで戦う事を望んでいたという事です。

◆2004年以降のジャック
ほぼ一年間、グランプリ最前線から離れていたジャックは、いきなりルノーからオファーを受け2004年の中国、日本、ブラジルのラスト3戦に出場します。
これには
 ○2004年フランスGPで大失態を演じたルノー/トゥルーリの年内放出
 ○ザウバー/フィジケラの2005年ルノー移籍決定
 ○2005年ザウバーとの契約が内定していたジャック
 ○2004年中にフィジケラをルノーへレンタルする事をザウバーが拒否
 ○フラビオ・ブリアトーレとジャックとの口約束
これら諸要素の連鎖反応で電撃的に実現した復活劇でした。この時、交わされたザウバーとの2年契約によってジャックは、今年もサーキットを走っているのです。

◆確実な不安要素
ただし、ジャックとザウバーとの契約に関しては、当時メインスポンサーであったレッドブルに相談なく進められるなど当初から問題が多くありました。レッドブルと袂を分かった現チーム内にも、なぜ契約金の高いジャックより若くて有望な新人ドライバーを乗せないのか?という意見が主流を占めています。このまま行くとジャックのF1キャリアも今年限りかもしれません。

◆わずかな安心材料
ただ、ジャックには意外なファンがいます。誰あろうF1界の最高権力者バーニー・エクレストンです。彼はグランプリにスペクタクルをもたらす貴重な人材としてジャックを認めています。それも視聴率が望めるジャックの人気目当てという意地の悪い見方もあります。しかし、バーニーがかつてロータスの反逆児ヨッヘン・リントのマネージャーを務め、不良っぽいイメージとレギュレーションの裏をかく戦略でグランプリをかき回したブラバムチームを運営し、永遠の不良息子ネルソン・ピケを育てた過去を考えると、ジャックがお気に入りというのは、意外と本音に近いのかもしれません。

◆もっと頑張れジャック
何はともあれ、もうすでに折り返し点を過ぎた2006年グランプリカレンダー。ジャックの現在の獲得ポイントは7。ライコネンやフィジケラはムリだとしても、バトンとバリチェロのBARコンビあたりと張り合う姿をもっとアピールしない限り、来季シート獲得の可能性は限りなくゼロに近づくでしょう。まだまだ彼には、サーキットの内外ところ構わずもっと頑張ってほしいものです。

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登録日:2006年 07月 05日 02:10:35

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プロフィール
斎藤モ吉
(男)
福岡の片田舎でデザイナー兼ライター営業中。F1にハマったきっかけは、仕事関係で見始めた1987年のドイツGP。プロストとピケの麗しい姿に感動。
好きなレーサーは、ジル・ヴィルヌーブとアイルトン・セナ。好きなF1マシンはフェラーリ312T4。好きなF1マンガは『赤いペガサス』。好きなF1映画は『グランプリ』。好きな言葉はジル・ヴィルヌーブの『来年がやってくるってどうして言えるんだい? 』
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