カテゴリー [F1・ドライバー物語]

「スーパーアグリ初入賞」で一句

<07 F1・第4戦 スペインGP>決勝、佐藤琢磨 8位入賞でチームに初ポイントをもたらす - スペイン

【モンメロー/スペイン 13日 AFP】F1・2007年シーズン第4戦・スペインGP(Spanish Grand Prix 2007)、決勝。13番グリッドからのスタートしたスーパーアグリ(Super Aguri)の佐藤琢磨(Takuma Sato)は、トップと1周差でフィニッシュして8位入賞を果たした。琢磨は1ポイントを獲得をし、参戦2年目のチームに初ポイントをもたらした。(c)AFP/BERTRAND GUAY

AFPBB News


ああ見えて ストラテジストな 亜久里さん

[解説]
鈴木亜久里代表には、運を味方につける才能があるのか…と思います。
現役時代の日本人初表彰台獲得といい、
チーム参戦2年目のシーズン早々の初ポイント獲得。
多くの日本人ドライバーや個人チームオーナーたちが
夢見るだけに終わった事を次々と現実化させる
その能力には、空恐ろしいものをカンジさせます。
まさに「有言実行」男《鈴木亜久里》の面目躍如ではないでしょうか。

[雑感]
しかし、彼のレース人生を振り返るとあまり「ラッキー」とは言えません。
ドライバー《鈴木亜久里》の1年目、全戦予備予選落ち。
三流チームで目も当てられないほど屈辱的な時間を無駄に過ごしました。
こめかみに血管を浮き上がらせながら
「ギアを組み間違えてるんだよね…もう信じられない」と日焼けした顔に
ありありと怒りと落胆の色を浮かべながらコメントする姿を思い出します。
そうした劣悪な境遇からでもへこたれず挑戦し続け、
少しでも上位へはい上がろうと努力し続ける姿は多くの共感を呼びました。
そんな彼を影で支え続けてくれたサポーターやスポンサーたち。
その期待に応えた最上の結果。地元「日本」で空高く揚がった日の丸。
あの日、表彰台で輝いた笑顔とまったく変わらない笑顔が
バルセロナのスーパーアグリチームのピットで輝きました。
喜びを爆発させる佐藤琢磨とともに。
http://www.youtube.com/watch?v=BMBjrfVZyAI
↑うれしそうだな〜みんな(笑)琢磨の全力疾走、イイネ。

◆デビュー前夜
F1ドライバー《鈴木亜久里》のデビューは、1988年の鈴鹿スポット参戦。
時代はまさにバブルの絶頂期。
日本のあらゆる人々が我も我もと「F1」に殺到した時代でした。
翌1989年に向け、ホンダに続くエンジンサプライヤーはどこか?
中嶋悟に続く日本人ドライバーは誰か?と噂が引きも切らない状態。
そこにヤマハエンジンのF1参戦が正式にアナウンスされ、
ドライバーに鈴木亜久里の名前が挙がりました。
そんな矢先、急遽決まった「鈴鹿」でのスポット参戦。
耳の病気で休養する事になったヤニック・ダルマスの代理でした。
チームはラルース。2年後に亜久里を表彰台へと導いてくれるチームでした。

◆手荒い洗礼
そうして迎えた日本グランプリ。
予選では、ファーストドライバーのフィリップ・アリオーから0.4秒落ち。
F1初参戦ながら速さ的には十分合格点でした。
しかし、日曜日の決勝で亜久里は思いも寄らない洗礼を受けます。
リジェのルネ・アルヌーによる執拗なブロックと意地の悪いブレーキング。
そして、リアルのアンドレア・デ・チェザリスによる不必要な幅寄せ。
現在なら確実に審議の対象となるあからさまな危険な走路妨害行為でした。
それでも亜久里は3周遅れながらも16位で完走しました。

◆ビッグマウス?
「鈴鹿はオレの方がよく知ってるんだから、プロストの後ろにつく必要なんてないでしょ?」
「オレがもしマクラーレンに乗って、セナがローラの車に乗ったとしたら(略)セナよりオレが4秒速いんだ。」
(F1グランプリ特集Vol.6より)
日本GP後に行われたインタビューでの亜久里のコメントです。
これを読まれた方はどう受け取ったでしょうか?

◆亜久里の本意
きっと「生意気」な発言と受け取られた方がいるのではないでしょうか。
しかし、上記コメントで言いたかった本当の意図は
「自分が熟知した《鈴鹿》のコース取りについて今更プロストから学ぶ事はありません」だったり、「セナと自分とのタイム差はマシンによるものが大半で6秒差のウチ実力差は2秒ぐらいなんですよ」だったりするのです。

◆言い方の問題?
つまり、面白可笑しく誇張されがちな報道に対する訂正に過ぎないのですが、
結局そのコメントさえもが言葉尻だけを強調され
「プロストから学ぶ事なんてナニもない!」とか
「オレは絶対セナより4秒速い!」と言ったかのように曲解されてしまい
「亜久里はビッグマウス」と不必要な反感を買い
多くのアンチを生み出す事になります。

◆アンチ亜久里
まだ予備予選すら通過できない時期に
「F1ドライバーは通過点に過ぎない」と言ったり、
将来のチーム資金づくりのために独自ブランドを立ち上げたり、
コマーシャルに積極的に出演して自分の商品価値を高めるなど、
現在ならイチローや中田英寿らが普通にやっている事を先駆けて行っていました。
しかし、そうしたロジカルでビジネスライクな言動が
「ストイックさ=美徳」と信じて疑わない一部ファンから
「あざとい」「金に汚い」など誹謗される要因となります。

◆栄光の日々
ザクスピード・ヤマハで初フル参戦した89年。
全戦予備予選不通過という過去に例を見ない不名誉は
翌90年、ラルースへの移籍によって回復されます。
同僚にエリック・ベルナールを迎え、
クリス・マーフィー設計によるシャシーと
ランボルギーニV12エンジンの組み合わせは十分な戦闘力を備え、
レースでも入賞を重ね、迎えたクライマックスの日本GPで3位4ポイント獲得。
ラルースチームもコンストラクターランキングでも堂々6位を獲得します。

◆消された記録
ところがシーズン終了直前、ランボルギーニがエンジン供給の停止を一方的に通告。
ランボルギーニは同じフランス国籍の古株チーム・リジェとの契約を発表します。
そして、91年シーズン開幕直前。更なる試練がラルース・チームを襲います。
FISAによる「90年全獲得ポイント剥奪」です。

◆またジャン・マリーが…
本来「ローラ」であるべき名義が「不当に変更された」ゆえの処分なのですが、
あまりに唐突かつ理不尽で一方的な処分に関係者一同誰もが耳を疑いました。
この処分のウラには某フランス系チームによる予備予選シード権奪還工作や
マネーを抱えた亜久里を狙い仕掛けられたラルースチーム破壊工作と噂されました。
どちらにせよ亜久里の91年は開幕前に暗澹たるものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=2DChNJfDsEE
↑コレも亜久里の実像ではありますが…こんなのしかないの?

◆準ジャパンチーム?
案の定、悲惨なシーズンを1年過ごした亜久里の前に新たな道が開けます。
フットワーク・アロウズからの誘いでした。
エンジンは無限・ホンダ。同僚はベテランのミケーレ・アルボレート。
テクニカル・ディレクターはアラン・ジェンキンスでした。

◆予想外の展開
しかし、これ以上ない万全の体制で挑んだはずのフットワークでの2年間は、
亜久里にとって決して受け入れられない現実を突きつけられたシーズンでした。
1年目のアルボレート、2年目のデレック・ワーウィックと
すでにピークを過ぎたおじさんドライバーに予選・決勝を通じて常に後塵を拝したのです。
亜久里のプライドがいたく傷つけられました。

◆92年シーズン後/亜久里のコメント
「ミケーレは(略)フットワークに来て3年経ってる(略)マシンの事はどんな小さな事でも知ってるし、性能も知り尽くしてる。(略)ミケーレのスタイルは独特でとても特別なものがあるよね。(略)だからマシンを知らない僕にとってはすごくドライブしづらいんだ。これも大きな問題だったんだ。言い訳はしたくないけど、今年の鈴木亜久里は本当の鈴木亜久里じゃない。」
(F1グランプリ特集Vol.42 フランコ・パナリッティー取材記事より)

◆93年シーズン後/ワーウィックのコメント
「もっと僕やフットワークにとって実りがあってもよかったと悔やまれるシーズンだった。(略)僕らは掴めるはずだった結果を逃してしまったんだよ。93年は不運がたくさん重なってね。これには僕をはじめ、《チームのスタッフ全員》が欲求不満に陥ったよ。(略)周囲のドライバーがしてくれたことは、まったくクレイジーな行為ばかりだった。モンツァではチームメイトの亜久里にぶつけられるし、(略)まったくやってられないよってな気持ちになってしまう。本当に滅入ってしまうね。それでも《僕ら》は結果を出さなければいけないんだから、まったく、F1とはタフなビジネスだよ」
(F1グランプリ特集Vol.55 デリック・オルソップ取材記事より)
まあ、この年に限らずワーウィックさんのレース人生そのものがタフでしたね。
http://www.youtube.com/watch?v=McaBLD0BhuM
↑まさにMr.アンラッキーってカンジです。

◆フットワークとともに去りぬ
バブル崩壊以後の景気の冷え込みで
フットワークもF1からの撤退が決定的になります。
その直後、鈴木亜久里も
安泰と思われていたフットワークのシートを失う事になります。
この事態に至って初めてフットワーク総裁の大橋会長も
亜久里もチーム内での自分たちの置かれた立場が
本人が思っているよりもいかに弱かったかという事実を思い知らされます。
ジャッキー・オリバーとアラン・ジェンキンスらアロウズ・スタッフたちが
一致団結して「金の切れ目は縁の切れ目」とジャパンカラーを一掃したのです。
以降、鈴木亜久里は誰はばかることなく
公然とアロウズ批判をくりかえすようになります。

◆F1浪人時代
F1浪人中の亜久里は、岡山のパシフィックGPで
エディ・アーバインの代役を務めた以外は、
日本のツーリングカー選手権でドライバー的に無為な時間を過ごします。
このJTCCへの参戦も自分を「客寄せパンダ」として使って貰う事で日本国内のモータースポーツ振興の一助になればという意図によるものでした。
すでに自分のドライバー人生が終焉を迎えつつある事を自覚していた亜久里。
有終を飾るため翌95年リジェからの復帰へ向けた準備へ全勢力を向けます。
やがて、リジェの来季の使用エンジンが無限-ホンダと決まり、
亜久里カウントダウンへの期待が高まりました。

◆砕かれたプライド
しかし、フラビオ・ブリアトーレとトム・ウォーキンショーの2人によって
乗っ取られリストラクチャされたリジェは、すっかり
ベネトンのサブチーム的な役割を担わされていました。
チーム運営は実にシステマティックでドライバー個人の
思い入れなど入り込む余地のないドライで事務的な契約条件を結ばされます。
ファーストドライバーは、オリビエ・パニス。
残り1つのシートを亜久里とマーティン・ブランドルが
シーズン中半分ずつ分け合うというものでした。
単なるペイドライバー。しかも半分。
それ以上でも以下でもないという屈辱的条件でした。

◆6戦1ポイント
それがF1ドライバー《鈴木亜久里》の最終シーズンのリザルトでした。
走れたのは約束の8戦どころかブラジル・アルゼンチン・サンマリノ・ドイツ・パシフィック・日本の6戦。
しかもテストも何も参加する事もできず、いきなり呼びつけられてシートに座らせるだけという穴埋め的な扱いでした。
久々に呼ばれたドイツ・ホッケンハイムリンク。降ったり止んだりの天候。不安定な路面コンディションに足をすくわれ、午前中のプラクティスで慣れないマシンのノーズを壊し、予選1回目でスピンし、マシンを大破させてしまいます。
それでも決勝は着実な走りでポジションアップし、終わってみれば6位入賞。
1ポイントを獲得していました。
しかし、チームはそんなポイントよりもマシンを壊される事を嫌い、
またブランドルへとハンドルを委ねます。
しかもブランドルがベルギーで3位表彰台に立ったために
いよいよ亜久里の出番は減り続けます。
パシフィックと日本もブランドルを走らせるつもりだったとも言われました。
そんなプレッシャーの中で焦りが出たのか、
パシフィックでは11周目にスピンリタイア。
鈴鹿では予選2回目のS字入口でスピン。コンクリートウォールに激突。
亜久里は肋骨を骨折して病院へ運ばれます。
ついに決勝レースを走る事なくラストシーズンを終えたのです。

◆チームオーナーの道へ
ドライバーとしてのキャリアに終止符を打った鈴木亜久里氏はその後、国内で将来のF1レーサー育成を目的とした活動に着手し始め、多くの賛同者を集める事に成功します。そして、1997年にカー用品流通業のオートバックスとの共同事業として《ARTA》を旗揚げ。
フォーミュラーニッポンやGT選手権で着実に実績を挙げ続けます。
そうした流れからついに去年、日本人プライベーターチームとして初のF1フル参戦を遂げます。
準備期間数ヶ月という強行スケジュールで奇跡的に開幕戦にこぎ着けます。
それからのめざましいまでの歩みは、ご存じの通り。

◆幻のチーム・イクザワF1計画
鈴木亜久里がこうして日本人プライベーターとして成功する以前にも同じようにレーサーからチームを立ち上げようされた例がいくつかあります。
そのひとつに60年代から70年代にかけて国内のみならずヨーロッパでもその名を知られた生沢徹が中心になって1994年終盤頃に密かに進められかけた「九州F-1招致委員会」と「チームイクザワ」の存在がありました。
当時のF1雑誌に掲載された記事にはモータースポーツジャーナリスト出身でウィリアムズ、ブラバム、フェラーリなどの広報関係に携わったピーター・ウィンザー(今年もFIA年間表彰式の司会を勤めた人)と名車フェラーリ641/2のデザイナーとして一躍有名になったエンリケ・スカラブローニなどの名前が挙がり、ノーズに日の丸をあしらったデザイン画らしきものまで掲載されていました。結局、この《おとぎ話》は結局、何一つ実現する事なく幻に終わりました。

◆スーパーアグリの道
こうした「幻」がいくつも浮かんでは消え浮かんでは消えするF1世界の中で、鈴木亜久里氏が引退後に進んだスーパーアグリへと続く道は他の誰よりも現実的で着実でした。まるで無駄がないかのような印象すら受けます。過去にこれ以上の「有言実行」を行った人物は本田宗一郎氏ぐらいしか他に思い当たらないと言ったら言い過ぎでしょうか?
それぐらいスーパーアグリが切り拓いた道には価値があると思うのです。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2007年 05月 16日 17:59:42

「ザナルディは変わらない」で一句

<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン

【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
≫続きを読む…
(c)AFP/JOSE JORDAN

AFPBB News


運命も 追い越す強気 不変なり

[解説]
CARTの世界で人生最良の日々を過ごしたザナルディでしたが、1999年にF1の世界に戻ってきた途端、まるで運を全て使い果たしたかのような不甲斐ないシーズンを送ります。評判は地に落ち、苦労して築き上げた栄冠も見る影もなく色褪せてしまいます。
天国から地獄への直滑降。なんとかドン底からはい上がろうとする彼をさらに不幸が襲います。時速300kmでの出会い頭の事故。誰もが再起不能を疑わない「両足切断」というレーサーとして致命的と思える重いハンディキャップを負います。
それでも彼は不屈の闘志をもってサーキットへ戻ってきました。過酷な運命さえも「レースがしたい」という彼の強い意志、生まれながらの闘争本能を変える事ができなかったのです。
そして、彼は今もレースを続けています。過去の真のレーサーたちが息絶えるその瞬間まで走る事を止めなかったように…。

[雑感]
こんなに長くザナルディについて語る気はなかったのですが…今回で最終回。
ウィリアムズからF1復帰、そして悲劇の事故を迎えるまでの軌跡です。

◆ガナッシへの感謝
実は、CART移籍1年後の97年にもF1復帰の可能性があったザナルディ。相手はジョーダン、交渉直前まで話が進んでいました。しかし、チャンスを与えてくれたCARTオーナー、ガナッシへの恩返しを済ませていないという思いからF1復帰の道を捨てCARTへとどまります。そして、その思いの強さを証明するかのようにCARTチャンピオン2連覇を遂げた後、F1復帰の決意をガナッシへ打ち明けます。ガナッシはこう答えます。
「私たちに何が出来るか言ってくれ。チムは君に精一杯の事をしてきた自負があるが、それ以上に君がチームにしてくれた事は計り知れない」と。
一文無しでガナッシのドアを叩き、まさにアメリカン・ドリームそのままに成功を掴んだザナルディ。その素晴らしさは、家族のように支えてくれたチームの暖かみにあると実感した言葉でした。

◆ピーター・コリンズの友情
F1復帰の交渉相手はフランク・ウィリアムズ。仲介したのは元ロータス在籍時代のチーム代表、ピーター・コリンズでした。そして、ウィリアムズとはこれが2度目の交渉でした。
1度目は、まだザナルディがロータス在籍時の事。テストドライバーに降格されたザナルディはチャンスを求めて「セナの悲劇」で空席ができたウィリアムズへ後ろめたさを感じつつ、アポイントを取りフランクと交渉しますが断られます。そんな経緯もあり、躊躇していた所をコリンズに「とにかく会ってみるべきだ…どんな話になるか分からないじゃないか」と諭されます。結果的にはこれが功を奏して、フランクの方からウィリアムズへの誘いがあり4年振りのF1シートを獲得したのです。

◆2面性?単なるリップサービス?
F1再デビューを前にザナルディはインタビューでこう答えています。
「F1に比べれば、インディCARTなんて幼稚な遊びみたいなもの。まあ時速240マイル(約384km/h)でオーバルを走るというのはちょっとした度胸がいるけどね。F1マシンは、コンピュータでつくられたテクノロジーの域だから、ドライバーにも高度な分析能力が求められる。こうした部分はうまくこなせるという自信がある。」
(F1グランプリ特集 VOL.113 デビッド・トレメイン取材記事より)

けれど、その1年前。ツインリンクもてぎで行われたCART選手権第2戦の直前に行われたインタビューでザナルディはこう答えています。
「F1はマシンパフォーマンスが勝負を決める部分が多く、ドライバーは二の次。(中略)オーバルは一見簡単そうだけど、実はすごく難しい。(中略)オーバルはのべつまくなしにリミットで走行しているんだよ。ギリギリを狙って、しかし限界を越えないように。それがすごく難しいんだ。」
(週刊プレイボーイ特別編集 ’98FedExチャンピオンシリーズ 第2戦バドワイザー500 公式ガイドブックより)

微妙にニュアンスが違っているような…良く言えば、TPOで言葉を使い分けるタイプ?

◆お金よりも重かったF1への復帰
ザナルディがウィリアムズと交わした契約金は年間500万ドル(当時約6億円)。しかし、CARTのチップ・ガナッシがザナルディ引き留めに提示した金額は1300万ドル(当時約15億6000万円)でした。それを蹴ってでも戻りたかったF1。4年前に着せられた汚名挽回はザナルディの悲願だったのでしょう。引き留めに成功しなかったチップ・ガナッシは、それでもザナルディのマネージャーとなりバックアップを続けます。ザナルディのF1での成功を信じて、しかし…。

◆不安なスタート
復帰後初めてF1マシンを走らせたバルセロナでの合同テスト。カンを取り戻す事が目的とは言うもののテストドライバーのマックス・ウィルソンのタイムを上回れずじまい。しかも、扁桃腺炎の手術後、ヘレスの合同テストに合流したラルフ・シューマッハには常に1秒遅れ。誰もが「おや?」と不安を感じました。
そして、迎えた開幕戦。ウィリアムズの2人は挙動が不安定な新車FW21のセッティングに手こずります。それでもラルフはシングルグリッドを確保、決勝では表彰台3位をゲットします。一方、ザナルディはスロットル制御システムの油圧系統にトラブルを抱えたまま予選15位。決勝では21周目に単独スピン、コースオフしてリタイアに終わります。

◆冷めていく周囲の目
ザナルディのマシンばかりにトラブルが集中…それが不振の主な原因でした。しかし、無駄なスピンやコースオフでマシンに余計な負担を掛けた事もリタイアを招く要因となっていました。シーズン中盤になって1ポイントも上げられないザナルディ。一方のラルフ・シューマッハは、着実にマシンをゴールまで導き、チームの獲得ポイントを1人で稼ぎ出していました。パドックの噂は、ザナルディが放出される如何より、それは「いつ頃か?」に移行し始めていました。

◆モントーヤの影
そんな頃、ウィリアムズの首脳陣が渡米します。目的はチップ・ガナッシの元へ預けたファン・パブロ・モントーヤが活躍するCARTレース観戦。1999年CARTチャンピオン最有力候補として活躍するモントーヤ。複数年契約を結んだはずのザナルディの代わりとして次期ウィリアムズ入りが本命視されていました。そんな微妙な時期にこのチームの動きは、まさに「火に油」。噂の信憑性をさらに高めます。当然、ウィリアムズ側はそれを打ち消すために「ザナルディ残留」を公式声明として発表します。誰も信用しない事を十分承知の上で…。

◆正念場のモンツァ
それはまるで5年前を思い出させます。ここモンツァでロータス復活の起爆剤となる勝利へ、最後の望みを託したジョニー・ハーバートがマシンを「4位」セカンドロウに並べたように、自分に着せられた汚名をそそぐレースを見せ、来期への希望を繋ぐ最後のチャンスを活かそうとザナルディは「4位」セカンドロウへFW21を並べます。
イタリアはザナルディの地元。当然、国際映像は完全にザナルディメイン。パレードラップをカバーするザナルディの車載映像が母国ドライバーへの期待を高めます。しかしザナルディが戦う相手は、前のマクラーレン2台でもなく、背後の若きタイガー、ラルフ・シューマッハでもありません。「元CARTチャンプ」というプライドを取り戻すため、自分自身の内に渦巻く「焦り」「衝動」「疑念」が敵でした。ザナルディの「生き残り」を賭けた決戦モンツァ。無情のシグナルは、オールレッドからブラックアウトへ…。

◆「すべて」が落ちていく…
レース序盤は、ザナルディが絶好の飛び出しを見せ3位へポジションアップ。しかし、前を行くマクラーレン/ハッキネンとジョーダン/フレンツェンには少しずつ引き離され、逆に後ろには長い渋滞の列が出来はじめます。18周目、ピットからの指示か、あっさりラルフに先行させた後は、バリチェロ、サロに次々とパスされずるずる後退していきます。ザナルデイ・メインの放送が逆にあだとなり、彼の不甲斐ない姿が白日の下に晒されてしまいます。モニターを凝視するフランク・ウィリアムズのげんなりした表情とパトリック・ヘッドの苦虫を噛みつぶしたような顔が「すべて」を物語っていました。

◆語り草となるレース
その直後「歴史」が動きます。トップを快走中のミカ・ハッキネンのマシンが第1シケインをクリアしようとした時、突然、MP4/14のリアが流れ1回転しながらコースアウト、エンスト&リタイアしてしまいます。
マシンが止まるやハンドルを投げ捨て、グローブを地面に叩きつけながら、ティフォシたちの大歓声を避けるようにコース脇の林の中へ逃げ込むハッキネン。その後、上空のヘリコプターから木陰でしゃがみこみ泣き崩れるディフェンディングチャンピオンの姿が全世界へと発信されます。フェラーリ/アーバインとのチャンピオン争いがかかったレースを自らのミスでむざむざ失った自分自身に対する激しい自己嫌悪の涙でした。
その後のレースも実に白熱したものとなります。
フェラーリへの移籍が広報されたスチュワート/バリチェロが、アグレッシブなレースとクルサードを最後まで押さえ込むテクニシャンぶりを発揮して4位。3位表彰台には、足を骨折したミハエルの代役フェラーリ/ミカ・サロ。ウィリアムズのラルフがファーステストラップを記録する激走を見せ2位。そして、1位には去年ウィリアムズでの不振ぶりを問われてジョーダンへ移籍したフレンツェンがシーズン2勝目、チャンピオン争いの末席に滑り込みます。そんな彼らの活躍振りの影で、本来「主役」となるはずだったザナルディは、7位ノーポイントという無念の結果に終わります。

◆とどめのニュルブルクリンク
次戦ドイツ・ニュルブルクリンクで行われたヨーロッパGP。今度はラルフが地元の注目と期待を集めます。ラスト・チャンピオン候補フレンツェンがプレッシャーに潰されリタイア。それを横目に見ながら、通り雨が何度も降る難しいレースを途中タイヤバーストという不運に見舞われながらも持ちこたえ、ラルフは見事2位を勝ち取ります。まさにフランクが望むレースをラルフはやってのけたのです。
では、フランクが一番嫌うレースとは…予選下位からスタートし、一度も画面に映ることなく、いつの間にかリタイアするような無様なレースです。そういうドライバーは、ウィリアムズにとって存在価値のないドライバーでした。
ウィリアムズがザナルディに求めたのは、もっと王者らしいレースでした。勝てなくとも他を圧倒するようなレースを見せつける事。その点でザナルディは、明らかに期待はずれだったのです。

◆悲しみのチャンピオン決定戦
ウィリアムズの次期有力候補、ファン-パブロ・モントーヤは、まさにチャンピオンを賭けた最後のツバ競り合いをしていました。
1999年10月31日。舞台はカリフォルニア・モータースピードウェイ、CART最終戦フォンタナ500。209ポイントでチャンピオンシップ1位のダリオ・フランキッティ。前戦でクラッシュノーポイントに終わったモントーヤは200ポイントで2位でした。
レースは序盤から激しいクラッシュが相次ぎ何度もフルコースコーション&セーフティーカーが出る展開。しかし、モントーヤは常に上位グループに留まり続け、ファイナルラップに4位滑り込み12ポイント獲得。10位2ポイントに終わったフランキッティと同率212ポイントで並びます。その瞬間に優勝回数で上回るモントーヤが1993年のナイジェル・マンセル以来となるルーキー&チャンピオンを見事獲得します。
しかし、その日モントーヤがチャンピオン決定を喜ぶ事はありませんでした。
レース序盤にモノコックごと回転しながらコンクリートウォールに叩きつけられたグレッグ・ムーアという名の若き才能が永遠に失われたからです。開幕ポールトゥーウィンを決め、翌年には名門ペンスキーへの移籍が決定。まさにこれから時代を築こうとした矢先の悲劇でした。レース終了後間もなく彼の訃報が場内アナウンスで伝えられたモータースピードウェイは深い悲しみの底に沈みます。泣きじゃくるエイドリアン・フェルナンデスの姿が親しかった人々の悲しみを代表していました。CARTでは、第17戦ラグナセカでもゴンザロ・ロドリゲスというウルグアイ人ドライバーが死亡する事故が起きたばかり。F1に比べて命のリスクが高いレース・カテゴリーと言えました。

◆1年の休養期間
シーズン終了後、来期セカンドシートの行方が二転三転するウィリアムズ。「ザナルディ本人のモチベーション次第で残留もありえた」が、F1継続の意志なしとの申し出がザナルディ側からあったため契約解除に応じた…そうですが、チーム関係者がすでに早い時期から他のドライバーを物色していた事は周知の事実でした。
そして、来期セカンドシート最有力候補と目されていたモントーヤがCARTへの残留を発表したため、代わりにF3の経験しかない弱冠20歳の新人ジェンソン・バトンの起用が発表されます。
一方、ザナルディは古巣であるチップ・ガナッシがホンダと袂を分かちトヨタユーザーとなったり、家族からは危険なオーバルコースへの復帰を反対された事もあり、1年間の休養生活に入ります。1年間で粉々に砕け散った自分のプライドを取り戻すには、それだけの時間が必要だったのでしょう。そして、2001年。ザナルディは明るい夢を抱いてCARTの世界へ復帰します。

◆運命の日
2001年9月15日・ドイツで開かれたCART第16戦「ジ・アメリカン・メモリアル」決勝。
名手トニー・カナーンを擁するモー・ナン・レーシング(ホンダエンジン)から参戦していたザナルディは143周目にピットインし、コース復帰直後にコースオフします。なんとかコースへ復帰しようと挙動が安定しないマシンを立て直そうとしますがトラックの内側へノーズを向ける形となってしまいます。そこへアレックス・タグリアーニの乗るマシンが時速300km/hオーバーの高速で衝突。コクピットサイドを直撃されたマシンはコクピットから前の部分を吹き飛ばされ大破。ザナルディは両足に酷い怪我を負います。迅速な救命措置がとられますが出血多量でかなり危険な状態でした。それでも奇跡的に快方へと向かい、一命を取り留めます。

↓事故映像(ショッキングな映像で気分が悪くなる怖れがあります。特に心臓が弱い人にはオススメしません。こんな事故に遭いながらレースへと戻ろうとするザナルディの気がしれません)
http://www.youtube.com/watch?v=xQBxROyh0dQ&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=Z_7RatoqABw

◆フランク・ウィリアムズの言葉
「チーム全員が、アレックスの深刻な事故の知らせを聞いて、とても動揺している。彼と彼の家族のことを考えると胸が痛い。彼は真のジェントルマンだ。彼には多くの友があり、世界中に多くのファンがいる。彼を知るすべての人間が、彼の一日も早い回復を願っている。」
(F1グランプリ特集 VOL.148 ニュース記事より)

◆帰ってきたザナルディ
↓そして、これが去年暮れのテスト映像。はっきり言って泣けます。感動します。

http://www.youtube.com/watch?v=N_wrBSS1DHs

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2007年 01月 30日 03:17:26

「ザナルディ GOES TO USA」で一句

<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン

【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
≫続きを読む…
(c)AFP/JOSE JORDAN

AFPBB News


ホンダ乗り 本領発揮 チャンプカー

[解説]
F1でまったく芽の出なかったザナルディ。1年の休養期間(?)を経た96年にアメリカへと渡ります。当時、アメリカのチャンプカーレース(CART)にはF1経験者も多く参戦(マーク・ブランデルもこの年CARTへ移籍。チームメイトはマウリシオ・グージェルミン)しており、顔見知りが多い環境もザナルディが参加しやすい要因のひとつと思われます。が、渡米の最大の理由はホンダの存在があったからと勝手に想像しています。F1時代に無限-ホンダのテストで培ったザナルディの開発能力をCARTで苦戦続きのホンダが頼りした…のではないでしょうか?それを証明するかのように、ザナルディがCART参戦以降、ホンダも着実に優勝戦線へ食い込めるようになり、ついにはザナルディも2年連続タイトル獲得という偉業まで達成します。

[雑感]
正直に言えば、この頃のCARTレースにはあまり詳しくありません。ザナルディのCARTでの活躍を見たのも2度目のチャンプを目指す98年ごろだったと記憶しています。ですから当時の模様に詳しい人のサイトなどを見る方が正しい情報が得られると思います。ただマンセルやジャック・ヴィルヌーブの影響でF1雑誌にもよくCART関連の情報が掲載されていましたので、そのあたりをツギハギしながら何とか当時の雰囲気だけでもお伝えしたいと思います。

◆ホンダのCART挑戦
F1でホンダターボと言えば、“無敵”の代名詞でした。しかし、90年代に入りルノーエンジンを乗せたウィリアムズによってその栄冠は奪われ、ホンダは92年シーズンを最後にF1から撤退します。その裏には、北米市場開拓という企業戦略に基づく大命題がありました。アメリカでの確固たる地位を築くためにF1よりもCARTでの成功が優先されたのです。しかし、そんなホンダを待ち受けていたのはより過酷なCARTの洗礼でした。

◆汚名
94年、チャンピオンチーム・チームレイホールとタッグを組み、必勝態勢で挑んだ一年目は1勝も上げる事ができませんでした。それどころか栄光の「インディー500マイルレース」ではスペシャルエンジンを用意したにもかかわらずホンダエンジンはメルセデスやイルモアどころかカスタマーエンジンのフォードよりも最高速度で劣る有様。ボビー・レイホールは危うく予選落ちしかけるほどでした。そこで業を煮やしたレイホールと共同オーナーのカール・ホーガンはホンダエンジンの使用をあきらめ、ライバルチームであるペンスキーチームから車を2台譲り受けてレースに参戦します。
決勝レースは、ペンスキーのアル・アンサーJrが優勝。2位にインディー初挑戦のジャック・ヴィルヌーブ。そして、3位にはホンダの代わりにイルモアエンジンを積んだペンスキーシャシーに乗るボビー・レイホールが入ります。

◆背水の陣
1年目は失望の0勝。2年目も年間1勝に終わったホンダ。参戦1年目から勝利を上げ続け、圧倒的なメルセデスを相手にこれ以上、負け続けるワケにはいきません。しかもトヨタまでもが参戦してくる噂が…。
レースによっては最高速を記録するほど目覚ましい発展を遂げたホンダ。3年目は、そのポテンシャルを確実に勝利へと結びつけられるドライバーとチーム力が必要でした。

◆失地回復へ必勝の布陣
前年のタスマンとコンプテックの2チームに加えて、チップ・ガナッシ・レーシングとジム・ホール・レーシングという有力チームと契約を結び、ドライバーラインナップもジミー・バッサー、ジル・ド・フェランという名実ともに保証済みの実力派レーサーが揃います。そこにもう1人。チップ・ガナッシから参戦する新人ドライバー、アレックス・ザナルディも名を連ねます。

◆ダブル?いや、トリプルタイトル獲得
そして、開幕した96年はまさにホンダ・イヤーと呼ぶにふさわしいシーズンでした。マイアミでの開幕戦では、ザナルディは84周目のクラッシュリタイアに終わりましたが、同僚のジミー・バッサーとジル・ド・フェランのホンダ勢が1-2フィニッシュ。ホンダ勢はその後も快進撃を続け、全16戦中、ポールポジション獲得回数12回、92年のシボレー以来の5連勝記録を含む優勝11回を遂げ、エンジンメーカーへ与えられる「マニュファクチャラーズ・チャンピオンシップ」タイトルを堂々獲得します。そして、苦労人ジミー・バッサーが4勝で初のドライバーズタイトルを獲得。ザナルディも3勝を上げて年間ランキング3位、最優秀新人賞である「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」タイトルを獲得します。

◆うなぎ昇りの評判
96年の台風の目、チームメイトのジミー・バッサーと熾烈な優勝争いをするザナルディ。その評判はどんどん上がる一方でした。その頃のジャーナリスト評です。
「ザナルディは速い。彼のテクニカルフィードバックの適切さ、レースにかける純粋なひたむきさに、(チームオーナーの)ガナッシは心を打たれている。また、彼は誰に対しても礼儀正しく、それでいて愉快で、洞察力が鋭く、人の意表を突くような考えの持ち主でみんなに好かれている。」(米モータージャーナリスト/ジェレミー・ショウ F1グランプリ特集Vol.88より)だそうです。かつてのミソッカス扱いとエライ違いです。

◆アメリカの人気者に
「たとえばサイン一つするにも胸が痛む場合がある。もう300枚近く書いたから移動しようとすると必ず『俺には書いてくれないの?』という悲しげな声がする。悪いんだけど、どうしようもない…。この優勝はそういうファンに捧げたいと思う」
「ある晩、友だちと食事に行って支払をしようとしたら、ウェイターが『ファンの方からいただいたから結構です』と言うんだ。どうやらその人は30分前に帰ったらしいんだけど…びっくりしたよ。そんな事って、アメリカ以外では考えられないからね」
(米モータージャーナリスト/ジェレミー・ショウ F1グランプリ特集Vol.96より)

◆ついに王座へ
翌97年は、ザナルディが年間5勝を上げドライバータイトルを獲得しますが、マニュファクチャラータイトルはメルセデスに奪われます。そして、ホンダは全勢力を傾けダブルタイトル奪還へ向け98年を迎えます。そして、ホンダエンジンは見事全19戦中13勝を上げ、マニュファクチャラータイトルを奪還。ザナルディも年間7勝獲得ポイント285点を上げ、2年連続ドライバータイトルを獲得します。
↓この当時の各レースの模様はこちらが詳しいので是非ご覧ください。

http://www.honda.co.jp/motorsports/infos/1998/sokuho/4_indy_index.html

↓こちらはファンが作ったトリビュートビデオ。レースでの活躍シーンやドーナツを描く姿などが見られます。

http://www.youtube.com/watch?v=9E_QR96WXKQ

◆「瀬戸物屋の暴れ牛」
しかし、そんなザナルディもCARTでは良い評判ばかりではありません。誰彼見境なくホイール・トゥー・ホイールの争いを仕掛ける行為を喜ぶファンもいれば「危険で馬鹿げている」と批難する人々もいました。ピットの評判も「彼はチャンピオンにふさわしくない」という意見が多く、もっと時と場所をわきまえた冷静な判断をすべきだと言う意見がよく聞かれました。ライバルたちの命を軽視しているとまで言われました。前述のジェレミー・ショウは「ある者たちにとって、ザナルディは瀬戸物屋の暴れ牛だ。細心の注意を払うべきところで暴れまわる。しかし、他の者にとってはホイールに隠れた天才児に見えるようだ。実際、彼はその中間と言っていい。」と分析しています。
そんな彼の真価を問うために、今一度、F1への門戸が開かれようとしていました。行き先は、CARTとF1でチャンプを獲ったジャック・ヴィルヌーブが去ったウィリアムズチームでした。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2007年 01月 21日 13:14:25

「ザナルディはミハエルより危険?」で一句

<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン

【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
≫続きを読む…
(c)AFP/JOSE JORDAN

AFPBB News


古館アナ 「中華鍋」とは あんまりな

[解説]
プロレス実況で培った独特のネーミングセンスでセナを「音速の貴公子」と名付けては、その知名度を小学生からOLにまで広げ、止めどない1人語りを天衣無縫なボキャブラリーで展開しては、F1のイメージを異次元世界にまでワープさせた古館伊知郎アナ。
しかし、その独特の語り口が時に一部のF1ファンからは「不真面目」「意味不明」「ウザい」と激しく反感を買います。
今回、特にザナルディに注目しながら実況を見直していても「プッツン系」「札付きザナルディ」「イタリアの火薬庫」「走る二重人格」「要注意男」など…その悪意に満ちたネーミングの数々は、ファンならずとも「あまりにも《貶め》の度が過ぎるのでは?」と苦笑せずにいられませんでした。
特に94年マニクル。エンジンから炎を吹きながらリイアするザナルディをつかまえて「中華鍋のように火を噴いたザナルディ。おおっと〜まだ火を噴いている横浜中華街のようだぁ〜〜」は、ちょっと「あんまり」かと…同じGPで数周後、ミカ・ハッキネンのマクラーレンプジョーが同様に火を噴いた時、「中華鍋」とは言わず「活火山」と形容しました。その落差が意図したものは一体何だったのでしょうか?
そして、ザナルディをあくまで「アブナイ」と連呼し続けた根拠がどこにあったのか?全レースを振り返った今でも「よく分からない」のです…。

[雑感]
1994年、第3戦イモラ。ラッツェンバーガー、そしてセナ。取り返しのつかない悲劇がF1ワールドへ前代未聞の激震をもたらします。「安全」をめぐってレギュレーション、スポンサーシップ、ドライバーたちの意識に急激な異変や改革が沸き起こります。その混乱をあざ笑うかのように深刻な事故は続きます。94年シーズン、ザナルディに代わってロータスのレギュラーシートを獲得したペドロ・ラミーもそんな《不幸の連鎖》に巻き込まれた1人。一歩間違えば新たな惨劇となりえた大クラッシュ。命に別状はありませんでしたがラミーのレース続行は危ぶまれ、ロータスは再度、ザナルディへとステアリングを委ねます。

◆ラミーの大事故
スペインGP直前に行われたシルバーストーンでのテスト中、ペドロ・ラミーがアビーカーブへ時速270kmで進入した際に突然、ロータス107Cのリアウィングが支柱ごと吹き飛びます。
一気にダウンフォースを失ったマシンはスピンしながら空中に舞い上がり、インナーフェンスを跳び越えコンクリートウォールに激突。衝撃でエンジン&ギアボックスがもぎ取られたモノコックはラミーを乗せたままさらに2m飛び、防護フェンスを突き破って、コース下の歩行者用トンネルへ落下。タンクから漏れ出た燃料に引火し、モノコックが炎に包まれました。
「イモラの悲劇」以降、救護体制が整っていたため、いち早く駆けつけたコースマーシャルによって火は素早く消し止められ、意識を失っていたラミーも救護班により救命措置を受けた後、すみやかに病院へ移送されました。診断の結果、両膝の皿を粉砕骨折/右足首上部骨折/右手首骨折/両手親指脱臼/首ムチ打ち症など全身に重傷を負っている事が判明。緊急手術を受けて大事には至りませんでした。

◆復帰第一戦は無難に
ザナルディの復帰第1戦、スペインGPでは、またひと悶着が起こります。
「安全対策」の名の下にFIAによって強硬に進められるレギュレーション変更に対し、不信と不満を募らせた主要チームが金曜日午前の走行をボイコットしたのです。
FIAが折れる形で午後にはスケジュールも正常化しますが、ロータスの2台は低空飛行のまま決勝を迎えます。特に新車109を担当したハーバートはセッティングに悩み、古い107Cに乗るザナルディと大差ないタイムしか上げられません。
決勝は、大人しい走りに徹したザナルディはヒルやシューマッハにパスされる場面しか映らないまま9位でチェッカーを受けます。ハーバートは折り返しを過ぎた42周目にスピンオフしてリタイアでした。

◆続く悪戦苦闘
「イモラショック」によるレギュレーション変更の影響をモロに被ったロータスの94年型マシン109は、空力コンセプトの軌道修正もそこそこに投入された未完成品でした。新車を与えられたザナルディも低調。常に20位前後からスタートして、結果はリタイアかポイント圏外というレースが続きます。
第6戦カナダでは、黄旗無視による10秒ストップのペナルティで最下位転落。エンジントラブルで残り7周を残してリタイア。規定周回数により15位完走扱いでした。
第7戦フランスは、21周目にエンジントラブルでハデに炎を吹き、前年のサンマリノと同様そのままアデレードヘアピンまで走行を続けてリタイア。
第8戦イギリスは、ピットスタートから5周目にエンジンブロウでリタイア。
第9戦ドイツは、スタート直後の混乱でチェザリスと接触0周リタイア。
第10戦ハンガリーは、2度のピットインで5周遅れになりながら13位完走でした。

◆椅子取りゲームも金次第
ロータスチームは、苦悩していました。来期のチーム予算を温存すれば、今シーズンのテスト開発スケジュールを消化できず、テスト不足はマシンの熟成を妨げ、不完全なマシンは下位を低迷。望むリザルトが残せないチームはますます資金不足が深刻化…。差し当たり目先にぶら下がるお金には、手を出さざるを得ない状況でした。
チームは、ベルギー・ツーリングカー選手のフィリップ・アダムスを25万ドル(当時約2500万円)の持参金でベルギーGPとポルトガル、ヨーロッパGP(成績次第で日本、オーストラリアのオプション契約)に起用します。ザナルディは、アダムスの日程が合わないイタリアGPのみ出場が許されました。
ところが、アダムスにF1を走れるだけの力量がない事を母国スパのコースと気まぐれな天候がすぐ暴きます。雨にたたられた予選ではスピンばかりを繰り返し最後尾スタート。決勝ではトップ集団に道を譲ろうとして汚れた路面に乗りスピン&コースアウト。そのままリタイア。しかもレース中のベストラップがハーバートの6秒遅れ。これではお話になりません。

◆希望と絶望のモンツァ
ついにロータス待望の無限-ホンダ、ニューエンジンMF351Hが登場。そのパワーが高速サーキットのモンツァで遺憾なく発揮されます。たった1機の新型エンジンを託されたジョニー・ハーバートが期待に応え、なんとウィリアムズの間に割って入る4位セカンドロウを勝ち取ります。そんなハーバートの勢いが旧型エンジンを積むザナルディにも影響したのか、久々に中団13番グリッドをゲットします。
成績不振と資金不足でチーム存続すら危ぶまれるロータス。起死回生に希をつなぐ、何が何でも「絶に」落せないレース…しかし、意気上がるチームを絶望の淵へと叩き落とす瞬間はスタート数秒後訪れました。
絶妙のスタートダッシュでヒルを抜き、フェラーリ2台に続いて第1シケインへ飛び込むハーバート。そのテールを9位から飛び出してきたアーバインが止まりきれずにプッシュ。為す術もなくハーフスピンし、シケインを通せんぼする形で止まるハーバート。後続は大混乱となり7台のマシンがシケインをふさいだために赤旗再スタートとなります。しかし、マシンを壊してしまったハーバートの手元には旧型エンジンを載せたTカーしか残されていませんでした。
そして、再スタート。今度はザナルディに不幸が襲います。
1周を回りきらないうちにヨロヨロとピットインしてきたザナルディ。見ると左リアタイヤがバースト、サスペンションもダメージを負っていました。右リアタイヤを同じようにバーストさせたベネトン/フェルスタッペンとコース上で接触したものと思われました。
ピットスタートのハーバートは最後尾から14位まで追い上げますが、14周目にオルタネータの故障でヨロヨロとコースサイドに止まりリイアとなります。その直後、初ポール&初優勝の夢が無惨に砕け散ったジャン・アレジとティフォシの絶望の影に隠れがちですが、この週末にロータスが味わった絶望は、フェラーリのそれよりもずっと苦く深刻でした。

◆激変
モンツァ・ショックの影響か、第13戦ポルトガルGPでは下位グループへまた逆戻りしたロータスチーム。ここでも未熟なアダムスはポテンシャルの低さを露呈し、シムテックのグーノンにすら届かない最下位16位でレースを終えます。大金の持参金も見合った腕のないアダムスのクビをつなぐためにはいささか足りないようでした。
そして、ヨーロッパGP。ヘレスサーキットに立ったハーバートはロータスの緑ではなく、リジェの青いレーシングスーツを身にまといエントリーしていました。
移籍金120万ドルでリジェがハーバートを電撃的に買い取ったのです。
ザナルディはナンバー「12」番を受け継ぎます。そして「11」番シートにハーバートと入れ替わりにリジェからエリック・ベルナールが暫定的に座り、続く日本とオーストラリアには全日本F3000で活躍中だったミカ・サロが多額のスポンサーマネーを携えてナンバー「11」を手に入れます。

◆策士ブリアトーレの跳梁
ハーバートは、ヨーロッパGP後にベネトンのテストに参加して、そこでフェルスタッペンを上回るタイムを出します。それを見たブリアトーレは、来期ベネトンの『タイトル完全制覇構想』に欠けていた最後のパーツ「頼れるセカンド」にハーバートを抜擢する決断を下し、ラスト2戦の日本&オーストラリアから早速ミハエルのパートナーに据えます。
ブリアトーレ(ベネトンチーム代表兼リジェ・オーナー)のシナリオは、リジェへのハーバート引き抜きからすでに始まっていたのです。しかも彼の狙いはそれだけに留まらず、貪欲なその触手はロータスの心臓にまで伸びていました。その手がロータスの息の根を止めたとも言えました…。

◆ザナルディ、失意から栄光へ
雨の鈴鹿では、トップに2周遅れの最下位(13位)。そして最終戦アデレイドは、まだヒル&ミハエル疑惑の激突で騒然としている41周目にこっそりリタイア。原因はスロットルケーブルのトラブルでした。ザナルディの1994年シーズンは然したる結果もなく終わります。
そして、ロータスという名門がサーキットを去ると同時に行き場を無くしたザナルディは、失意のままアメリカへと渡ります。しかし、そこで彼を待ち受けていたのは、夢にまで見た栄光の日々でした。

(ロータスの末期&ザナやんアメリカへ行く編へ続く)

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 12月 30日 18:39:47

「ザナルディはトラブルメーカー?」で一句

<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン

【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
≫続きを読む…
(c)AFP/JOSE JORDAN

AFPBB News


疫病神? オレがそんなに 悪いかよ!

[雑感]
1993年。初めてフルシーズン契約を名門ロータスと結んだザナルディ。彼の名前がやっとF1ファンの間でも認知されはじめます。あまりよくないイメージとともに…暴れん坊。壊し屋。トラブルメーカー。サーキット上でザナルディの名が上がる時、必ずレースに波瀾が起きました。優勝争いをするトップチームからトコトン嫌がられたザナルディ。
しかし、よくレース内容を見れば、そのほとんどが不可抗力で起きたトラブルなのです。そんな彼のロータス在籍前期(93年)を振り返ってみます。

◆ミラー見とけよ!デーモン
開幕戦・南アフリカGP。予選で同僚ハーバートに0.1秒差をつけ16位からのスタート。マクラーレン期待の大物新人マイケル・アンドレッティの不発スタートなども手伝オープニングラップには13位まで浮上。逆にトップチームへの電撃移籍、セカンドロウスタートで舞い上がったウィリアムズ/ヒルは、スピンしてザナルディの前まで下がってきます。
画面は延々とセナ、プロスト、シューマッハの接近戦を放送し続けます。息詰まるツバ迫り合いにそろそろ飽きてきた17周目。いきなり画面が切り替わり、サンドトラップ上でヒルと絡み合うようにコースオフしたザナルディのロータスが映し出されます。
ラルースのフィリップ・アリオーを1周目からずっと抜きあぐねていたヒル。その後ろで虎視眈々とチャンスをうかがっていたザナルディは、ついにヒルがウエスバンクコーナー入口で大きく開けたインへ飛び込みます。しかし、その行動をまったく予測していなかったヒルは無意識にドアを閉め、ザナルディはヒルの横っ腹へ激突。絡み合ったまま反対側のグラベルまでコースオフして、その場で両者ともリタイアとなってしまいます。

◆たった1ポイントかよ!されど1ポイントだよ!
続く第2戦ブラジルGP。奇跡の逆転劇でセナが勝利を上げたレース。同僚ハーバートはラスト2周でミハエルと大激戦を演じ、惜しくも4位。一方のザナルディは、まったく目立つ事なく、リタイア続出の荒れたレースを飛んできた石が首筋に当たろうとめげずに堅実に走り続け6位入賞。1ポイントを稼ぎます。しかし、まさかこの1ポイントがF1人生唯一の獲得ポイントになるとは、この時、ザナルディ本人も思わなかった事でしょう。

◆別にプロストに恨みなんかねえよ!
今は亡きダイアナ妃も観戦された英国ドニントンパークでの第3戦、ヨーロッパGP。セナがオープニングラップで見せたごぼう抜きと絶妙のタイヤ交換タイミングで制したレース。同僚ハーバートも同様のタイヤ戦略が図に当たり2戦連続の4位入賞。
しかし、ザナルディはチームから無意味な4回ピットストップを命じられます。しかもレース中には、プロストがザナルディにひっかかったためにセナとのタイム差を広げてしまったり、アクティブサスが不調になって挙動を乱し、プロストの前でスピンしかかったり…まるでわざとプロストの足をひっぱり続けた形となりました。最後には、アンダーパネルを引きずりながらトップから4周遅れの8位(完走11台)というナットクいかない結果でレースを終えます。

◆火ィ吹いてんじゃねえよ!
第4戦サンマリノGP。セナvsヒルの2位争いとバリチェロを周回遅れにしようとするザナルディがトサコーナー上で交錯。ザナルディに抜かれまいとオーバースピードで突っ込んだバリチェロがコーナー出口でスピン。危うくそれに巻き込まれかけたヒルは、八つ当たり気味にザナルディをオーバーテイクします。しかし、その直後、同じトサコーナーでヒルもコースアウト、リタイアしてしまいます。
レース終盤。4位を走るザウバーのJJレートをロータスの2台が編隊状態で果敢に責めます。しかし、53周目の最終コーナーでザナルディが突っ込みすぎJJレートのリアに接触。コースアウトしてマシン左後部をタイヤバリアにヒット。マシン後部を破損したザナルディは、エンジン付近からリアウィングを包み込むほどの炎を上げながらメインスタンド前をヨロヨロと駆け抜けます。しかし、リアタイヤまで外れ満身創痍状態、タンブレロ手前の直線上で無念のリタイアとなります。

◆よくできたジョーク…じゃねえよ!
火を吹き上げながらまで走行し続けた理由をザナルディは、ジャーナリストたちにこう語りました。
「物凄い火が出ていたから、何とかタンブレロまで行こうと思ったんだ。あそこのコースマーシャルは、ベルガー(89年フェラーリでの炎上事故)を救ったほど優秀だからね」
誰もがうまいジョークだと笑いました。ただ1人ザナルディ本人を除いて…。

◆今度はミハエルかよ!
第5戦スペインGP。ハーバートは、アクティブサス不調でフォーメーションラップも出来ずにリタイア。しかし、ザナルディは15位からザウバーのヴェンドリンガーと抜きつ抜かれつのバトルを演じたりしながら着実に順位を上げて行きます。マクラーレン/アンドレッティに次ぐ6位まで上り詰め、残り6周となった60周目。突然エンジンブロウ。後ろから来ていたセナたちは無難にパスして行きますが、3位のミハエルは最終コーナーの立ち上がりで追いついてしまったためにタイヤが滑り、大きくコースオフしてしまいます。幸いすぐにコースへ戻りますがファーステストラップを積み上げながら3秒差までセナに詰め寄っていたミハエルの努力は水の泡消えてしまいました。最終周の激戦を期待していた観もガッカリ。ザナルディは事実上リタイアしましたが規定周回数クリアで最後尾14位として記録されます。

◆悪いのはベルガーだよ!
第6戦モナコ。木曜日にクラッシュしたせいで予選は振るわず20位スタート。しかし、ザナルディは着実にポジションアップ。59周目には同僚ハーバートをパスして8位。62周目にはバリチェロを抜いて7位。ポイント圏内を走るミナルディ/クリスチャン・フィッティパルディとリジェ/マーティン・ブランドルまであとわずか。
そんな終盤71周目。ミラボーに差し掛かったザナルディのイン側をヒルとベルガーが強引にすり抜けていきます。熾烈な2位争い。そして、ロウズヘアピンで無謀に仕掛けたベルガーがヒルと接触。コースをふさいでしまいます。立ち往生するザナルディ。ヒルが復帰し、開いたアウト側からベルガーを追い抜きますが、段差のある縁石に乗り上げたベルガーはバックして、後ろからきたアンドレッティにオカマを掘られエンスト。リタイアしてしまいます。「アレさえなければ…」ザナルディはポイント圏まで30秒届かず7位フィニッシュ。

◆悪ィのはマシンだよ!
第7戦カナダGP。シーズン序盤には、目立たなかったグリップ不足が中盤にいよいよ深刻化。土曜日の予選中に大クラッシュしたザナルディ。決勝では21位スタートからコースアウトしつつもねばり強くレースを続け、ジョーダン/ティエリー・プーツェンを0.3秒差で抑えきり11位フィニッシュ。
続くフランスGP。久しぶりにハーバートの前17位からスタートしたザナルディ。しかし、スタート4周後に突然スローダウン。ピットまで必死に戻りますがそのままガレージへ。原因はアクティブサスの不具合でした。
第9戦ロータスの地元イギリスGP。集中テストでハンドリングが向上。期待に胸高鳴る中、ザナルディはまたも予選でクラッシュ。ハーバートのマシンを借りて14位。レースでは、序盤の出遅れから17位。そこからフィッティパルディ、アレジ、バリチェロとバトルを続け(テレビにはまったく映らず)ましたが、またもやアクティブサスの故障でスピン。リタイアとなります。

◆これがホントの「骨折り損のくたびれ儲け」だよ!
テストの忙しい合間を縫ってイタリアへ里帰りしていたザナルディ。街に自転で出け自動車と接触。倒れた彼をその車がわざわざバックしてきて足を踏み軽い骨折。
チームは代役にロベルト・モレノと連絡を取ります。しかし、ザナルディは怪我をおしてドイツGPへ登場。予選15位から決勝は12位までポジションアップしますが19周目にスピンリタイア。
ホッケンハイムでロータスの来季エンジンが無限-ホンダ決定。一方、せっかくここまで散々苦労して研究開発を進めてきたアクティブサスが来期から禁止決定。一喜一憂の夏となります。

◆結局、交代かよ!
第11戦、ハンガリーGP。またもマシントラブルで予選21位スタート。アリオーのスピンを避けようとしてコースオフするもすぐに復帰。46周目11位走行中にギアボックストラブルでリタイア。
続く第12戦、ベルギーGP。スパ名物オールージュ先のハイスピードコーナー、ラディオン。数々のドライバーが高速クラッシュを経験する難所。ここでザナルディは金曜日午前のフリー走行開始30分後餌食となります。オールージュのバンプで挙動を乱した事が原因でした。約240kmのスピードでノーズから直角にウォールに激突し、一瞬マシンから火が出るほどの大クラッシュでした。

http://www.youtube.com/watch?v=ibT08Qe4jtg&mode=related&search=

↑事故処理中の現場に予選スピードのまま危うくセナが突っ込みかけています。よくまああそこで止まれたもんだと感心。運が良かっただけ?

(当時の放送では『亜久里日本人初の6番グリッド獲得』ばかりで触れられず終いでした)ザナルディ本人に目立った外傷はないように思われました。しかし激突の衝撃で背骨の神経にダメージを負っていると主張するロータスチームは、彼を外し代わりにポルトガルの新鋭ペドロ・ラミー(92年ドイツF3チャンピオン、93年インターナショナルF3000ランキング2位。1位オリビエ・パニスとのポイント差1点)を起用する事を決定します。

◆何のかんの言って、リストラかよ!
その後のテスト走行でスピン、コースオフした事などを取り沙汰され、ザナルディはチームからしばらく休養が必要と判断されます。そして、94年度のジョニー・ハーバートのパートナーとしてペドロ・ラミーの名が発表されます。しかし、それはラミーの個人スポンサー、ポルトガルの石油企業ガルプのスポンサーマネー獲得が主目的の人選でした。当然、当時のメインスポンサーであるカストロールは機嫌を損ね、次シーズンの撤退を決めます。
マイルドセブンという大口スポンサーをベネトンに土壇場でさらわれたロータスは、来期の資金確保が必須条件。しかし、ザナルディの開発能力を失ったロータスはシーズン終盤、満を持して投入されたトラクション・コントロールの開発に失敗。ランキングもシーズン当初の期待を裏切る6位という結果に終わります。

◆ランパンテ、あんたもかよ!
そうしてザナルディが苦汁を味わっている頃、古巣のF3000チーム、イル・バローネ・ランパンテもまた終焉を迎えていました。メイン・スタッフを強豪ミトスに引き抜かれ、チーム運営自体が破綻。シャシー代金未納でメーカーのレイナードにマシンを差し押さえられ、レースに参加不可能となり、チーム消滅が決定的となります。

◆契約って…テストドライバーかよ!
しかし、現場からのザナルディコールに逆らう事ができず、ピーター・コリンズは、ザナルディと正式にテストドライバー契約を結びます。無限-ホンダエンジンを積んだロータスマシンの開発、熟成には、彼の開発能力が絶対不可欠だったのです。そして、この時の経験が彼に成功への道を開くのですが…。

(ロータス在籍後期(94年)へ続く)

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[3]
登録日:2006年 12月 26日 02:44:06

「おかえりザナやん」で一句

<F1>両足切断の元F1ドライバー ザナルディがBMWのテスト走行に参加 - スペイン

【チェステ/スペイン 25日 AFP】元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ(Alessandro Zanardi)は、リカルド・トルモ(Ricardo Tormo)で行われたBMWのテスト走行に参加し、1999年シーズン以来7年振りにF1マシンを操縦した。
≫続きを読む…
(c)AFP/JOSE JORDAN

AFPBB News


不運?はあ? どっこいザナやん ここに有り

[解説]
ホンダエンジンを駆っての2年連続チャンピオン。
後方集団から見事な追い抜きで優勝をさらい、優勝後にコース上に白煙を上げながらドーナツを描く。そんな豪快な走りに魅せられたCARTファンは今も親しみを込めて「ザナやん」と呼びます。
不幸な事故で再起すら危ぶまれた彼は、ハンデもナンのその。世界ツーリングカー選手権で元気にレースを続け、優勝しちゃったりしています。BMWの粋な計らいで久しぶりにF1マシンに、しかも「義足をつけたドライバーとして初めて」テスト走行にも参加。現役ドライバーにヒケをとらない走りを見せ「健在ぶり」を証明してみせるザナルディの姿に改めて畏敬の念を強くします。

[雑感]
よく「レーサー」と「ドライバー」は違うと言われます。ただ単にマシンを運転しているに過ぎない者は「ドライバー」、戦い競い合う事に意義を見いだす者を「レーサー」と。
F1の世界で「アレッサンドロ」ザナルディは「ドライバー」と見られ、アメリカへ渡りCARTの世界で「アレックス」と名乗った彼は「真のレーサー」と呼ばれました。
しかし、不幸な事に彼の勇姿をF1では、まったく知る事ができませんでした。

◆ジョーダンからデビュー
彼のF1デビューは1991年、第14戦スペイン。ミハエル・シューマッハのベネトン電撃移籍&ジョーダン離脱の余波から実現となります。抜け目のないエディー・ジョーダンは、ミハエルの抜けた穴をベネトンから放出されたロベルト・モレノ流用で急場をしのぎ、スペイン戦からはF3000で注目されていたザナルディを起用します。

◆え?ドコドコ?
しかし、そのデビューを日本で何人の人が意識していたでしょう?
この年限りで引退する中嶋悟、そして来季ラルースから参戦する片山右京のニュース。そして、セナ対マンセルのチャンピオン争い。ザナルディがスペイン戦で画面に映ったのは、スタートの1〜2秒。後は欧州ラストランの中嶋を捉えようとフジTVが持ち込んだカメラに写っていた数秒間だけでした。

◆幻のオーバーテイク
続く日本GP。注目はやはりセナ・マンセル対決と中嶋鈴鹿ラストランでした。
古館アナによるグリッド紹介もない(ロータスのハッキネンも同様)ままスタート。
シケイン後の最終コーナーでの多重クラッシュで同僚チェザリスが戦線離脱。波瀾の幕開けを匂わせた序盤、CM明けの8周目。あっけなくギアトラブルでコースサイドにマシンを止めたザナルディが初めて画面に大写しとなりました。
実はこのリタイア直前、ザナルディはシューマッハをオーバーテイクしていたらしいのですが…。

◆雨に流されたベストリザルト
そして、最終戦オーストラリア・大雨のアデレード。
中嶋もシューマッハもマンセルもベルガーも続々とスピンリタイアし、雨レースが得意のセナさえも続行不可能を訴える最悪のコンディション。そんな大荒れの中、着実にコース上にとどまり続けていたザナルディ。結果的にはレース中止、14周までの順位で終了とされ、記録上は9位となっていますが2位ベルガー、3位マンセルも赤旗中断された16周の時点ではリタイアしていましたから、もし、あのままレースが続行していたら入賞圏内フィニッシュもありえたレースでした。

◆消えた最有力候補
プロストとピケという大物2人の去就が騒がれた91-92年シーズンオフ。結局2人とも92年のF1シートを失いますが、その影でザナルディもいくつものチームの間で去就が揺れます。
当初、F3000を共に戦った新興チーム「イルバローネ・ランパンンテ」がティレルを買収しベネトンジュニアチームとしてF1参戦するという話があり、その契約ドライバー最有力候補としてザナルディの名が挙がっていました。しかし、ベネトン/トム・ウォーキンショーの暗躍で買収金額が不当なまでに吊り上がってしまい、結局「イルバローネ」の参戦自体がお流れとなってしまいます。

◆金とともに去りぬ
ジョーダン残留の線が濃厚となり、一度はテスト参加(クラッシュしてマシンを破損=テスト中止となってしまいますが…)していましたが、多額のスポンサーマネーとともにレイトンハウスからグージェルミンがやってくるとエディ・ジョーダンはザナルディをポイ。
次はティレル枠からエントリーリストに乗り、これで来季はほぼ確定と思われました。
しかし、いざ開幕戦を迎えたら、ティレルのシートに収まっていたのはマルボロマネーを抱えたアンドレア・デ・チェザリスでした。
中嶋引退とともにホンダエンジンを失ったティレル。持参金額でドライバーを選ばなければ生き残れない苦しい財政事情から下された「背にハラ」な決断でした。
こうしてザナルディは、92年シーズンの浪人生活が決定してしまいます。

◆ブリアトーレの手
しかし、そんな哀れなザナルディに救いの手が差し伸べられます。
ベネトンのテストドライバー採用でした。申し出たのはフラビオ・ブリアトーレ。この行動は、ヴェネチア財界のドンの娘婿が主催する「イル・バローネ・ランパンテ」F1進出計画がオジャンになった事に対する罪滅ぼし?とも受け取れますが、どちらかといえばマーティン・ブランドル追い出し工作的意味合いの方が濃厚でした。
実はこの頃のベネトンはトム・ウォーキンショウ率いるイギリス派とブリアトーレ側のイタリア派の間で主導権争いが続いており、少しでもイギリス派の勢いを削ぎたいブリアトーレがザナルディを利用していると噂されました。

◆ミナルディからスポット参戦
フランスGPの予選中にミナルディのクリスチャン・フィッティパルディが事故で首に重傷を負います。その代役にザナルディが抜擢されます。しかし、ミナルディのマシンは、ハンドリングが劣悪でした。
イギリスGPでは、予選2日目が雨にたたられ初日のタイムで予選順位が決定。ブラバムに乗るデーモン・ヒルに0.08秒およばず予選落ち。
ドイツGPでは、予選24位スタート。たった1周目にクラッチトラブルでリタイア。
代役最後のハンガリーGPでは、予選中にスピン。押しがけスタートでコース復帰したため、レギュレーション違反として2日目のタイムを抹消され、またも予選落ち。
わずかなチャンスが逆に仇となり、世間での彼の評価は失墜します。「SPORT AUTO」のマイケル・シュミット氏などは「ベルモンド・ナスペッティ・アマティ」らと同レベルとしてザナルディを「F1に必要ない者」と切り捨てます。ザナルディの92年シーズンは失意のまま終わり、またベネトンのテスト作業へ戻って行きました。

◆落日の名門ロータスからリスタート
TWRへの出資に伴い、ルチアーノ・ベネトンとともにTWR役員となったブリアトーレ。計画通りブランドルをチームから追い出し、ウィリアムズからパトレーゼを獲得。いよいよイタリア色を強め、ウォーキンショウ包囲網は着実に進んでいました。そんな政治色強まるベネトンから抜け出すチャンスがザナルディへ巡ってきます。
マクラーレンへの移籍が決まったミカ・ハッキネンの後釜として、名門ロータスがザナルディを指名したのです。おそらくベネトンでのアクティブサス開発に携わっていた点が高く評価されたと思われます。

◆いい人なのになあ〜
ハッキネンの契約不履行で賠償金をせしめるとか、せめて持参金ドライバーにシート争奪戦をさせスポンサーマネーを吊り上げるとか、某チーム代表みたいな錬金術的方策も取れたはずなのに…こういう誠実的で良心的過ぎるところがロータスチーム代表だったピーター・コリンズの長所であると同時に、結局はロータスF1撤退を避けられなかった点かも…。
しかし、ハッキネンやハーバートの才能を信じて使い続けるなどドライバーの資質を見抜く力には長けていたコリンズ。ザナルディの潜在能力もきっと見抜いていたはずだったのですが…。

(ロータス編・ウィリアムズ編に続く)

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[3]
登録日:2006年 12月 14日 10:08:01

「ビートルズの新譜『LOVE』発売記念」で替え歌

<F1・第18戦 ブラジルGP>アロンソ 2年連続でドライバーズタイトルを獲得 - ブラジル

【サンパウロ/ブラジル 22日 AFP】F1・第18戦(最終戦)・ブラジルGP(Brazilian Grand Prix)、決勝。
≫続きを読む…
(c)AFP/VANDERLEI ALMEIDA

AFPBB News


信愛なるルーベンスへ

親愛なるルーベンス 気晴らしに出て来ない?
親愛なるルーベンス 真っさらな日にコンニチワしに
お天道様は高く お空も青い
キレイなもんさ そう君みたいに
親愛なるルーベンス 気晴らしに出て来ない?

親愛なるルーベンス 大きく目を見開いて
親愛なるルーベンス うららかな空を見て
そよぐ風も さえずる鳥だって
みんな繋がってる そう君もね
親愛なるルーベンス 大きく目を見開いてみて

まわりを見渡してご覧
まわりを見回してご覧
まわりをご覧

親愛なるルーベンス 君の笑顔を見たいな
親なるルーベンス ちっちゃな子供みたいな
雲も デイジーの首飾りになるような
そんな笑顔をもう一度 お願いさ
親愛なるルーベンス 君の笑顔が見たいんだ

[解説]
ビートルズの名盤「THE BEATLES=通称:ホワイトアルバム」のA面2曲目に「Dear Prudence」という地味だけどちょっと素敵な曲があります。
内容は、“深窓の令嬢”をなんとかデートに誘い出そうとする歌。
その女の子の名前「プルーデンス」をシャレで「ルーベンス」に入れ替えただけの全く芸のない替え歌ですが、「無邪気に笑うルーベンスを来年こそ見てみたいなあ」という気持ちを込めて訳しました。

注意)ちなみに新譜「LOVE」にこの歌は入っていません。

[雑感]
よくF1レーサーは、「才能」の有無が問われます。ルーベンス・バリチェロの才能についての判断は誰かにお任せしますが、彼の「運」に関しては、私にも「絶対に無い!」と断言できます。
「憧れだったフェラーリ・ドライバーになれただけでも十分運がいいんじゃない?」とおっしゃる方もいるでしょうが、本当にそうでしょうか?
彼自身、もっとも自分の運の無さを何度も何度も何度も何度も何度も…思い知らされた場所、「インテルラゴス」での「ルーベンス不運の歴史」をたどってみます。

◆1993.3.28 ジョーダン193 予選14位→決勝リタイア
「雨に強いセナ」伝説のひとつ「インテルラゴスの奇跡」として語られる有名なレース。スタート直後の多重クラッシュでいきなりセーフティーカー導入。ルーベンスはロータス/ザナルディにパスされます。そのまま12位で周回中、14周目にギアボックストラブルでリタイアします。
しかし、ルーベンスの不運は同僚イヴァン・カペリに比べればまだマシでした。GP週末中、マシントラブルでまるでセッティングを決められなかったカペリはタイムを出せず26台中ただ1人予選不通過。そのグランプリウィーク後、エディ・ジョーダンに支払う約束だった持参金100万ドル(マーチ・チームが「レイトンハウス」だった当時、カペリが立て替えていたお金。水面下で進んでいたオイルダラーへのチム売却が成功した暁には返済される予定でしたが、交渉決裂で御破算)のメドが立たなくなっためにブラジルGPを最後に解雇されてしまったのです。

◆1994.3.27 ジョーダン194 予選14位→決勝4位
セナ最悪のスピンリタイアに失望した観衆がゾロゾロ帰ってしまった母国グランプリ。ルーベンスへの期待度はまだ低く、母国ですらその他大勢の1人に過ぎませんでした。燃料補給解禁による不慣れなピット作業で順位変動が激しい中、バリチェロとジョーダンは素早い作業と手堅い走りで着実に順位を上げ、見事入賞をモノにします。しかし、このレース以降、9年間も母国で完走できなくなるとは夢にも思わなかったでしょう。

◆1995.3.26 ジョーダン195 予選16位→決勝リタイア
自分のヘルメットデザインに亡きセナのカラーリングを取り入れて挑んだ開幕戦。そんなルーベンスの意気込みをあざ笑うかのように次々と不運が襲います。
金曜の予選中にエンジンがブロウし、仕方なくアーバイン用のTカーでアタック。11位がやっとだったルーベンス。なんとか前日8位だった同僚を上回りたい気持ちが空回り。土曜日の予選では、焦って単独スピン。逆に順位を16位に下げてしまいます。
それでも日曜朝のウォームアップでは8番手タイムを記録。スタートも成功。一気に12位までジャンプアップします。ところが17周目に油圧系統のオイル漏れによるクラッチトラブルでリタイア。アーバインも全く同じ症状でリタイアでした。

◆1996.3.31 ジョーダン196 予選2位→決勝リタイア
知名度と自信がついてきたルーベンス。なんと母国であのミハエルを上回り、最速ウィリアムズの間にまで割って入る2位フロントロウスタート。久々のブラジリアンレーサーの活躍に地元の期待も高まります。
スタートで4位まで下がってしまいますが、ベネトン/アレジとウェット路面で白熱したバトルを展開。ヴィルヌーブがリタイアした後は表彰台圏内を快走し観衆の熱狂させます。しかし、2度目のピットストップでミハエルに先行。ウェット設定だったブレーキダクトのせいでブレーキが異常加熱。制動力が急激に低下します。そして、ゴールまであと11周だった60周目。1コーナー先でコースアウト、リタイアします。

◆1997.3.30 スチュワートSF-1 予選11位→決勝リタイア
1回目スタートで、ルーベンスは電気系統の故障でグリッド上にスタック、赤旗が出てレースはやり直しとなります。すぐスペアカー(優先権はルーベンス。そのためにスタートでクラッシュしていたマグヌッセンは乗るマシンがなく出走を断念)に乗り換え、2度目のスタートに臨みますが、オープニングラップでザウバー/ハーバートとマクラーレン/クルサードに抜かれ13位へと後退。そして、17周目。排気熱でリアサスペンションが変形(前戦オーストラリアではマグヌッセンが同じ症状でリタイア)するトラブルでリタイアとなります。

◆1998.3.29 スチュワートSF-2 予選14位→決勝リタイア
スタートでパニス、ヒル、トゥルーリを抜き10位、2周目にはアレジもパスして序盤は9位、他チームのピットインによる変動で一時は7位まで上りつめますが、最終的には11位へ後退。そして残り16周となった56周目にギヤボックスのオーバーヒートでリタイアします。一方、同僚のマグヌッセンは10位完走を果たしますが、この5戦後のカナダで成績不振を理由に解雇されてしまいます。

◆1999.4.11 スチュワートSF-3 予選3位→決勝リタイア
「ルーベンス・カムバック!」ブラジル国民は、3年ぶりにミハエルの前に立ったルーベンスのセカンドロウスタートに期待を膨らませます。スタート早々、強敵マクラーレンの2台は揃ってマシントラブルで後退。ルーベンスは労することなく、首位に立ちました。93年のセナ以来、ブラジル中に大歓声が沸き上がります。2位フェラーリのミハエルに3秒差。そして、迎えた27周目のピットイン。フェラーリやマクラーレンがセオリー通りの1回ピット作戦なのに対し、あえてルーベンスは軽いタンクでスピード勝負を挑む、リスクの高い2回ピット作戦を選びます。入れ替わりに復調したマクラーレン/ハッキネンが首位に返り咲き。それでもまだルーベンスには表彰台の望みが残っていました。それにハッキネンがクルサードのようにリタイアする可能性も…ブラジル中が期待の眼差しを送っていた43周目。ブラジル中が大きな溜息に包まれます。白煙を上げコースサイドに止まったのは、ルーベンスが乗る白いマシンの方でした。

◆2000.3.26 フェラーリF1-2000 予選4位→決勝リタイア
前戦オーストラリアで1-2フィニッシュを飾ったフェラーリコンビ。ミハエルに劣らない走りでファーステスト・ラップまで記録したルーベンス。「今年こそは絶対」と期待が集まります。しかし、予選はマクラーレン2人とミハエルの後ろ。
抜群のスタートを決めたマクラーレン勢はたった1周で不調に陥り、ミハエルは2周目にはトップへ。バリチェロも15周目にはハッキネンをパスし、2戦連続の1-2フィニッシュかと思われました。2回ピット作戦の1回目をミハエルに続いてクリアした5周後、27周目。またもルーベンスの車体から白い煙が上がり、ブラジル国民の口からは溜息が漏れました。原因は油圧系の破損でした。

◆2001.4.1 フェラーリF2001 予選6位→決勝リタイア
前戦マレーシアのセーフティーカーパレード終了直後、ミハエルの強引な追い抜きで優勝を「奪われた」事に端を発し、前年から溜りに溜まっていたルーベンスの不満が一気に爆発します。契約内容に反して待遇が「イコール」ではないと公式の場でチーム批判したのです。しかし、フェラーリ内部では逆に「ミハエルの新しい相棒捜し」を進めようとする意見が上がります。
そんな嫌な空気の中で迎えたブラジルGP。連続ポールポジションを決めたミハエル。一方、セッティングの決まらないルーベンスはサードロウ。しかもスタート直前にトラブル発生でマシン交換(これがミハエル専用車だったためにミハエルが機嫌を損ね、スタッフを怒鳴り突き飛ばすというシーンがテレビで放映されます)というドタバタぶり。しかも、たった3周目でウィリアムズ/ラルフに追突(ラルフとルーベンスは2戦連続の接触)してコースアウト。左フロントタイヤを失いルーベンスの散々な週末が終わりました。

◆2002.3.31 フェラーリF2002 予選8位→決勝リタイア
フリー走行でピット出口の赤ランプを見落としたために予選のベストタイムが剥奪。予選中にギアトラブルまで抱え、13秒台にひしめく8台の最後、4列目スタートとなります。しかもミハエルに用意されたのは新機能搭載の最新マシン。自分は1年落ちマシンのまま。またチームへの不満が高まります。
それでもレースでは、並々ならぬ集中を見せます。1ピット作戦を選択する上チムの中で唯一2ピット作戦を選んだルーベンスは、軽いマシンで前を行くライバルを次々と攻略。特に5周目の最終コーナー、因縁のあるウィリアムズ/ラルフを射程圏にとらえ、ホムストレートをテールツーノーズ状態で追いつめ、1コーナーの飛び込みで豪快にパス。しかも14周目にはミハエルまでもあっさりとパスしてトップに立ちます。総立ちになる大観衆。しかし、これは1ストップ作戦のミハエルにはシナリオ通りの展開。そのたった2周後に油圧系のトラブルでルーベンスがコース脇に止まった事の方が計算外でした。

◆2003.4.6 フェラーリF2002 予選PP→決勝リタイア
夢にまで見た母国でのポールポジション。しかし、決勝レースは近年まれに見る超フルウェット・コンディション。しかも、この年施行されたレギュレーションのため使用タイヤは小雨用タイヤ1種類のみ。スタートもセーフティーカー先導という超変則方式でした。その9周にも及ぶスロー走行がタイヤの空気圧に悪影響を及ぼしたのか、ルーベンスはレース開始直後から加速が伸びずズルズル順位を落とします。
19周目のタイヤ交換後、安定したマシンで猛反撃開始。25周目の1コーナーでクルサードをパスして首位奪還。すでにミハエルもリタイアしていたので心おきなく優勝を狙えました。そんな歓喜もたった2周で絶望へと変わります。燃料供給系トラブルでスローダウン。画面にはコース脇で無念さをかみしめるルーベンスが映されていました。

◆2004.10.24 フェラーリF2004 予選PP→決勝3位
第13戦ハンガリーでコンストラクターズタイトル、第14戦ベルギーでドライバーズタイトルを決めたミハエルは、残りのレースを全てルーベンスに譲るつもりだったのではないでしょうか?そう思えるほどシーズン終盤のミハエルの走りにはキレが見られませんでした。
そうして迎えた最終ブラジル戦。ミハエルがフリー走行でクラッシュする一方、ルーベンスは2年連続のポールポジションを獲得。決勝レースは雨模様。同じウェットコンディションだったモンツァでルーベンスが魅せたポールトゥーウィン・ドラマの再現を誰もが望んでいました。
しかし、たった1周遅れたドライタイヤへの交換。それが全てを決めてしまいました。モントーヤ、ライコネンに遅れること24〜3秒での3位。インテルラゴスの女神は、またルーベンスに微笑みませんでした。

◆2005.9.25 フェラーリF2005 予選9位→決勝6位
一年前の王者の風格をすっかり失ったフェラーリにインテルラゴスで勝つチャンスはありませんでした。優勝したモントーヤから1分9秒遅れの6位。それよりも来季のチームメイトになるかもしれないバトンの前でフィニッシュできた事を喜んだかもしれません。

◆2006.10.22 ホンダRA106 予選5位→決勝7位
予選では五分五分。しかし、決勝ではほとんどバトンに負け続けのルーベンス。デビュー当時の自分に次々と打ち負かされ消えていった古株の同僚たちを思い出したのでしょうか?特にハンガリーでバトンにチーム初優勝をさらわれてガックリ落ち込んだルーベンスの勢い。迎えた最終戦ブラジル。今年一度も上がれなかった表彰台上で、これからブラジル国民の期待を担うマッサとともにシャンパンを浴びるバトンの姿を見ながら、ルーベンスはキャリアの終焉をひしひしと感じ始めているのではないでしょうか?

◆「ルーベンスの笑顔」が見たい
せめてもう一度だけでいいんです。来年のインテルラゴス、あの表彰台の上で、陽気におどけてみせるルーベンスの明るい笑顔が見たいのです。そのためにも来年こそは、ホンダの本格的な躍進に期待します。

そう思わないかい?パトラッシュ。

カテゴリー[ F1・ドライバー物語 ], コメント[0], トラックバック[195]
登録日:2006年 11月 29日 03:00:34

「やっぱりバリチェロって不運?」で一句

<F1・第18戦 ブラジルGP>アロンソ 2年連続でドライバーズタイトルを獲得 - ブラジル

【サンパウロ/ブラジル 22日 AFP】F1・第18戦(最終戦)・ブラジルGP(Brazilian Grand Prix)、決勝。
≫続きを読む…
(c)AFP/VANDERLEI ALMEIDA

AFPBB News


ブラジリアン 勝てぬバリチェロ 勝つマッサ

[解説]
それにしても、ルーベンス・バリチェロ。
彼は、何故ブラジルで勝てないのでしょう。あの無敵フェラーリ時代、「勝っていいよ」とチームからお許しが出た時さえ勝てませんでした…。なのに、ルーベンスがずっと欲しがっていた「セナ以来の母国優勝者」の栄冠を後輩フェリペ・マッサはあっさりとゲット。
同じブラジリアンでありながら、この差は何なのでしょう?

[雑感]
ルーベンスが1993年にF1へ参戦して14年。13回のポールポジションに15回のファーステストラップ。そして、5回のポール・トゥー・ウィンを含む9回の優勝。ミハエル支配下におけるキャリアら考えれば、同世代のクルサードあたりと比べてもなんら遜色のない立派な成績の持ち主です。
それなのに何故か、ブラジルでは勝てない。いや、それどころか1995年から2004年までインテルラゴスで不名誉な9年連続リタイア記録を持っています。
そんなルーベンスの経歴をざっくりお復習いします。

◆F1デビュー以前
9才からカート経験(ブラジルチャンピオン5回、南アフリカチャンピオン1回)を8年間積み、89年に17歳でブラジル・フォーミュラー・フォードで4位。

90年に英国でGMロータス・ユーロシリーズでチャンピオン。
91年には、かつてセナが所属した名門ウエスト・サリー・レーシングから英国F3参戦、シーズン4勝を上げデビューイヤーチャンプを獲得します。

しかし、翌92年に参戦した国際F3000では、チーム体制の不備で足を引っ張られ、ルカ・バドエル、アンドレア・モンテルミーニに次ぐランキング3位。F1関係者たちの間でも評価が分かれます。

しかし、20才という若さに似合わない確実性と安心できるスポンサーの存在が評価され、ベネトンとジョーダンからオファーを受けます。そしてルーベンスは、ジョーダンからデビューする事を選びます。

◆ジョーダン時代 1993年-1996年
同僚は、落ち目のフェラーリで致命的なほど評価を下げてしまった不運なイヴァン・カペリ。新興チーム、ジョーダンで再起を図ろうとしましたが、ブラジルGPでなんと予選不通過。80年代後半に光り輝いたキャリアを開幕後たった2戦で終えます。

次の同僚は、ティエリー・プーツェン。彼もまた予選で新人ルーベンスを1度も上回る事ができずにシーズン半ばで引退してしまいます。デビューイヤーのバリチェロは、人懐っこい人柄に似合わぬ「ロートル・キラー」でした。

その後は、93年鈴鹿でセナと一悶着、94年開幕戦で多重クラッシュを招きライセンス剥奪されるなど何かと「お騒がせ」なエディー・アーバインが、95年までの同僚として定着します。性格や資質はまるで正反対(実はかなり険悪な関係にまで発展)ですが、力量的にはイーブン。この時の評価が後のフェラーリ起用へと繋がります。

アーバインがフェラーリへ移籍した後もバリチェロはジョーダンに在籍、憧れのセナF3000時代のライバル、マーティン・ブランドルとチームメイトになります。しかしブランドルもまた、バリチェロの成績を上回る事ができず引退を決意します。

◆スチュワート時代 1997年-1999年
かつての名レーサー、ジャッキー・スチュワートが息子ポールと立ち上げたスチュワート・グランプリが、1997年ついにF1参戦。その1年目の栄誉あるファースト・ドライバーに抜擢されたのがルーベンスでした。

同僚は、英国F3で94年にセナの勝利数記録を破る18戦14勝を上げ驚異の新人として注目を集めていたポール・スチュワート・レーシングの秘蔵っ子ヤン・マグヌッセン。しかし、新興チームの悲哀。マシンの信頼性に乏しく全17戦中2人で26リタイア。唯一、モナコでルーベンスが上げた2位表彰台での6ポイントが年間獲得得点でした。

翌98年は、シーズン途中であまりにも期待はずれのマグヌッセンが解雇され、フェルスタッペンに交代。しかし、マシンの信頼性不足は相変わらず、それでもルーベンスはしぶとく5位2回を上げ、チームに貴重なポイントをもたらします。

99年は、相性のいいジョニー・ハーバートとのタッグ。シーズン当初はテクニカルディレクターの離脱などでゴタつきますが、ジョーダンからゲーリー・アンダーソンが移籍して一気に体制が落ち着きます。バリチェロもコンスタントに3回の3位表彰台を含む7回の入賞。そして、ハーバートがなんと値千金の優勝をニュルブルクリンクで上げ、コンストラクターズ・ランキングも4位。チームの士気も一気に盛り上がります。しかし、チームは権利をフォードへ移譲。翌2000年からジャガー・レーシングとなります。

バリチェロは、アーバインの後釜としてフェラーリへ移籍。
「チームとの契約は複数年でいかなる時もチームオーダーがあればそれに従う(中略)僕がチームメイトよりも速ければ、シーズン終盤になってもスローダウンを命じられる事はないと思う」(F1グランプリ特集 Vol.128 フランコ・パナリッティー取材記事より)
彼と入れ違いにフェラーリを離脱するアーバインはこう忠告します
「彼は自分がどんな世界に飛び込もうとしているかを知らないと思うから、心配しているんだ。シューマッハのプレッシャーに彼は押しつぶされるか、耐えていけるかわからないが、苦労することだけは間違いないからね」(同上 ケビン・イーソン取材記事より)

◆フェラーリ時代 2000年-2005年
前年の「アーバインが優勝しちゃったらどうしよう」騒動でかなりチ