2009年 07月

愛されることの目的

自分なりの夢や目標をもち、それに向かって努力することは、すばらしいことです。
プロの歌手になることを夢見て、毎日練習に励み、実際にデビューして歌が売れたとしたら、その人の人生はある程度は成功したといってよいでしょう。
ただし、「歌がヒットしなければ、自分の人生は価値がない」というかたくなな思い込みはよくありません。

実際にプロの歌手として活躍している人も、「プロになるまでは絶対にあきらめない」と懸命に努力している人も、その人生はそれぞれにすばらしいものです。
しかし、もっとも幸せな人とは、「プロになれてもなれなくても、音楽自体を心から楽しんでいる人」ではないでしょうか。

プロの歌手になって、歌がヒットする人などというのは、世の中でもほんの一握りにすぎません。
音楽とは、そんなごくわずかな人々の幸せのために存在するものではないはずです。
「どうすれば歌が売れるか」ということばかりを考えている歌手の歌など、聴いてもあまり感動はえられないでしょう。
「プロの歌手になれなければ意味がない」と思っている人は、自ら音楽の価値を否定してしまっているのです。

「他人から愛されなければ、自分は価値がない」と思う人も同様に、自分で自分の価値を否定してしまっています。
人を好きになることは、誰にでもできます。しかし、「愛されること」は、なかなか思うようにはいきません。
当然ながら、愛されないよりは、愛されたほうがいいに決まっています。できるかぎり人から愛されるよう努力はしたほうがよいでしょう。
しかし、「愛されなければ価値がない」というわけではありません。
「愛される人間になるよう自分を磨く努力をする」ことに意味があるのであって、愛されることそのものが人生の目的ではないのです。

「愛されなければ、自分は価値がない」というのは、結局、「自分は愛される価値のない人間である」と言っているのと同じなのです。
せっかく他人から愛してもらっても、自分で自分の価値を下げているのですから、結局はプラスマイナス=ゼロということになってしまいます。
もちろん、他人から愛されることは幸せです。しかし、「つねに愛されていなければ不安で仕方がない」のであれば、その幸せもつかの間の空虚なものにすぎません。
愛されて幸せになれる人は、「愛されたほうがよいが、必ずしも愛される必要はない」と考えている人なのです。

スポーツは、勝ち負けがあるからこそおもしろいものです。スポーツをするからには、勝つことを目的とするのは当然です。
しかし、スポーツをすること自体の意味は、勝つことだけではなく、心身を鍛えたり、充実感をえたりすることにあります。
恋愛についても同様に、愛されること自体が最終目的ではなく、「できるかぎり愛される人間になるよう自分を磨くこと」「相手を理解しようと努力すること」に意味があるのです。
「好かれるか、嫌われるか」ではなく、「自分にとって幸せなことなのか」という視点で行動を選択をすれば、人間関係はずいぶん楽になるはずです。

自己評価は、低いよりは高いほうがよいでしょう。
しかし、「自分に自信をもたなくてはならない」と思い込んでしまうと、「自信がもてないことが新たな劣等感となってしまう」という、奇妙な悪循環に陥ってしまいます。
自己評価は、高ければよいというものではありません。高くても低くても、「安定している」ということが重要なのです。

プライドの高い人は、いったんそれが崩れると深く傷ついてしまう危険ももち合わせています。自信のもてることが多いということは、それだけ埋め合わせるべき劣等感も多いということです。
本当に幸せな人は、「私は自分に自信がある」などとは特に意識しないものです。
高いプライドで自分を必死に支えている人よりも、「特別に恵まれた状況になくても満足できる人」のほうがはるかに幸せだと言えるでしょう。

もちろん、他人から愛されるということは、人間にとって非常に大切なことです。
しかし、他人は、自分を愛してくれるために存在しているわけではありません。「どうして愛してくれないのか」と他人を責めてしまっては、せっかくの愛が自分を傷つけ、苦しめることになってしまいます。
「愛されて当然な人」など、この世にひとりもいないのです。

私たちは、配られたカードで勝負するしかありません。
今できることの中で、もっともよいことをすればよいのです。
足りないものを数えて嘆き暮らすのと、与えられたものの中で全力を尽くすのと、どちらが輝きに満ちた人生であるかは明らかです。

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登録日:2009年 07月 27日 11:24:20

考えることから逃げない

幸せになるためには、当然ながら、「幸せとは何か」が判っていなければなりません。
幸せな人とは、「自分はいかに生きるべきか」をよく考えている人のことです。
ここで言う「考える」というのは、学校の成績の良し悪しとはまったく関係がありません。一流大学を出ている人でも、「自分は何になるか」は判っていても、「いかに生きるか」について考えていない人は、たくさんいます。

不幸な人は、生きることに虚しさを感じています。
自分の心と真剣に向き合うことを怖れて、ただ無為に時間が過ぎるのを待つだけの人生を送っています。

公共の場で迷惑行為をはたらいて、他人から注意され、その相手を逆恨みして暴力を振るうという事件が多発しています。
いわゆる「キレる」状態というのは、「冷静になることを怖れている」状態のことです。
冷静に話し合えば、とうてい自分の正当性を主張することができず、都合が悪いので、「頭に血がのぼって訳が判らない状態」になることでごまかし、弱い自分を守ろうとしているのです。
他人と触れ合うことを避けて押し黙ってしまう人も同様に、堂々と話し合えば自分の非を認めざるをえなくなるから、必死でごまかしているのです。

つまり、そういう人たちは、「考える」ことを拒否しているのです。
弱い自分を認めたくないから、「自分はどういう人間か」について考えることを怖れ、考えて行動していないから他人の評価に怯えなければならない、という悪循環に陥っています。

どんな不運な境遇にあっても、自分の人生を真正面から受け止めている人は、幸せです。苦しくても、悲しくても、「生きている実感」があります。
自分の頭で考えることを避けている人は、傷つくことから逃れたかわりに、虚しさという不幸を背負って生きていかなければなりません。
人間を絶望させるものは、苦しみでも悲しみでもなく、この「生きているという実感のない虚しさ」です。

先日、書店の店内で、幼い子供が走り回って騒いだり、本を投げつけたりしていました。母親は近くにいるのに、我が子に注意しようともしません。
店員さんが、見かねて子供に注意しました。するとその母親は、「ほら、おじさんに叱られるから、静かにしなさい」と子供に言ったのです。
子供は、自分が悪いことをしたという自覚はなく、自分を叱った店員さんを恨んだことでしょう。
こういう親に育てられた子供は、不幸です。自分でものごとの善悪を判断することができず、他人からの評価に怯える人間に育ってしまうでしょう。

他人に褒められるか、叱られるかどうかということを行動の基準とするのなら、犬と同じです。
あなたの価値は、「自分の信念に従って正しく生きているか」によって決まるのです。
正しいことか間違っていることかを自分の頭で考えず、単に「自分を受け入れてくれる場」を求める人が、暴走族やインチキ宗教団体に入ってしまうのです。

自分のプライドにかけて、誰にも褒められなくても正しいと思うことはする。誰にも叱られなくても間違ったことはしない。これさえ守っていれば、不安に怯えることなどありません。

思いやりも、優しさも、愛も、考えることから生まれます。考えて行動しなければ、幸せにはなれません。

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登録日:2009年 07月 23日 10:23:14

パラドックス

結婚とは男女が夫婦になることを意味し同時に新しい家族の始まりをも意味します。一方、パラドックスとは、そのなかで相互に矛盾することが起きてしまうことを意味します。結婚によって生じる矛盾とは何でしょうか?

 私の知人のある先輩は、就職したあと郊外に土地を購入し、結婚してから家を建てました。そして二人の子供が生まれました。お子さんはかわいらしく出来も良さそうで、幸せなのかと思いました。

 ところが夫婦仲はあまりよくなかったらしく、離婚の危機もあったようです。そんな先輩はある日、飲み会のときか何かで、「自分の結婚は失敗だった」と言い切りました。しかし、今思えばそのときの先輩は、結婚によって生じたパラドックスについては気がついていなかったようです。

 もし過去にさかのぼりやり直すことが出来たなら、先輩は結婚を諦めたでしょうか?結婚しなければ当然結婚という失敗はなくなりますが、同時にこの瞬間にパラドックスが生じます。

 結婚の消滅と共に、二人のお子さんもまたこの世から消滅するからです。妻や夫と別れることにはなんらのためらいは無くても、子供たちが消滅してしまうことには耐えられない、と思う人は多いはずです。

 自分にとって掛け替えのない存在が、結婚という失敗によって生まれてくる、というパラドックス。

 このパラソックスは、なぜ生まれるのでしょうか?

 もしかしたら、結婚を失敗だと考えることそのものが勘違いなのかもしれません。というのも、子供という子孫が誕生した時点で、生物学的には結婚の大部分の役割が終わっているからです。

 あとは、結婚は失敗だったと思いつつも、それを解消できない人間らしさが残るのみです。

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登録日:2009年 07月 07日 10:13:03

パラドックス

結婚とは男女が夫婦になることを意味し同時に新しい家族の始まりをも意味します。一方、パラドックスとは、そのなかで相互に矛盾することが起きてしまうことを意味します。結婚によって生じる矛盾とは何でしょうか?

 私の知人のある先輩は、就職したあと郊外に土地を購入し、結婚してから家を建てました。そして二人の子供が生まれました。お子さんはかわいらしく出来も良さそうで、幸せなのかと思いました。

 ところが夫婦仲はあまりよくなかったらしく、離婚の危機もあったようです。そんな先輩はある日、飲み会のときか何かで、「自分の結婚は失敗だった」と言い切りました。しかし、今思えばそのときの先輩は、結婚によって生じたパラドックスについては気がついていなかったようです。

 もし過去にさかのぼりやり直すことが出来たなら、先輩は結婚を諦めたでしょうか?結婚しなければ当然結婚という失敗はなくなりますが、同時にこの瞬間にパラドックスが生じます。

 結婚の消滅と共に、二人のお子さんもまたこの世から消滅するからです。妻や夫と別れることにはなんらのためらいは無くても、子供たちが消滅してしまうことには耐えられない、と思う人は多いはずです。

 自分にとって掛け替えのない存在が、結婚という失敗によって生まれてくる、というパラドックス。

 このパラソックスは、なぜ生まれるのでしょうか?

 もしかしたら、結婚を失敗だと考えることそのものが勘違いなのかもしれません。というのも、子供という子孫が誕生した時点で、生物学的には結婚の大部分の役割が終わっているからです。

 あとは、結婚は失敗だったと思いつつも、それを解消できない人間らしさが残るのみです。

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登録日:2009年 07月 07日 10:13:03

女子のグループ事情

女の子を見ていると「どうしてあんなふうにグループになって行動するのだろう?」とか「どういうふうにグループにわかれていくのだろう?」とフシギに感じる男性は多いと思います。

また、自分の彼女と、仲のいい友人の彼女と4人で出かけたりすると……男同士は友だちなので仲良くしているのに、彼女同士はなんだかいい雰囲気になっていないような気がする、といった場面に遭遇した経験の男性もいるはずです。そんなとき、友人カップルとサヨナラした後で、

「なんか、Eの彼女としっくりいかなかったみたいじゃない?」

と彼女に聞いてしまったりすると、すごい剣幕で、

「っていうか、あの子って○○系……(○○にはギャル系とかシモキタ系とか、何でもあてはめてみてください)? 何を話していいかわかんないし、女ふたりになったら感じ悪くてビックリしちゃった。もう、会いたくない」と怒られてしまう。

男性である自分としては、オレと友人のEは仲がいい → 自分の彼女とEの彼女も気が合うはずだ……と思うのかもしれません。

ところが、そうは問屋がおろさなくて、彼女同士はなんだか気まずい感じ、というのはよくあることです。

それもこれも、女性のグループというものが、男性にはなかなかわからないように、細分化されているから。

女性は、キチンと気が合う女の子同士、共通点のあるもの同士(ホッとできる関係同士)、グループの中でのタブーを把握する空気の読める者同士……というように、イロイロな厳しい条件を乗り越えたメンバーが集まってグループを形成しているのです。

では、女の子はどんなところをみてグループをつくっていくのでしょう。具体的に考えてみます。

* 服の趣味が似ている。好きなブランドが同じである
* ヘアースタイル(色の抜き具合、目指す方向性)が似ている
* グループ内での名前の呼び方が同じ
* 趣味が一緒
* お互いのお金の使い方が納得できる
* 避けたい相手、避けたい場所が同じである
* 同じ環境におかれている
* もしくは、まったく別の環境にいる
* 読んでいる雑誌、観ているテレビ、勉強、習い事の傾向が同じである
* グループ内の女子は、友情よりも彼氏を優先にしている。その逆で、グループ内の女子は彼氏より友情を大切にしている

このような要素を持ち前の嗅覚と洞察力でほぼ瞬時に見抜き、女の子は自分と気の合う仲間でグループをつくっていきます。

外見的な違いなら、なんとなくわかるけど、お金の使い方、習い事など、ある程度リサーチしていかないとみえてこない、またどうやって見極めるのかわからない要素ももちろんあります。男性が女性を誘って出かけたりするときは、

(よし、○○ちゃんとふたりになれるチャンスだから、奮発してあの高級レストランを予約してみよう)と思うこともあるでしょう。しかし、女同士の付き合いに、そういった事情はからんできませんので、ランチを1,000円以内で済ませるか、ランチが1,500円でいいのか……といったお金の使い方の違いで、

(うわぁ、あの子とはお金の使い方が違うみたい)と判断したりするわけです。

男性も、男性同士だったら「金銭感覚が違って困るな」と、同じような考え方をすると思いますが、そこで、

(あの子とはうまく付き合えないかも)と考えるのが女性だとすると、男性は、

(こういうヤツだけど、アタマはいいし)(たまには、こういうところでメシ食うのもいいか)と考えるのかもしれません。

というわけなので、違うグループに属している女子が、いきなりグループの垣根を飛び越えて他グループの子と仲良くする、というのはとてもむずかしいことなのです。

男性は、あまりグループになって行動したりしないようなので(最近は、グループ行動する男子も増えている気がしますが)、このあたりの女子のグループ同士の規範のようなものがみえなかったりするようです。

しかし、女子には女子同士の境界線……のようなものがあるのです。

オレがそれを知ったからといってどうなるんだ……という部分もあるのですが、女の子のグループってこういうふうにできていて、こういう距離感で付き合っているんだ、ということはなんとなくでも知っておいたほうがいいのです。

そうすると、間違った合コンや飲み会のセッティングをしてしまうとか、AグループとBグループがもめる原因をつくってしまう、といった間違いをせず、きっとスムーズな学校生活、会社生活を送れるはずです。

男性はどうしても、気になる女性、好きな女の子、ひとりだけをまっしぐらに見つめてしまって、彼女をとりまく友人関係や彼女の所属するグループのメンバーのことを見落としてしまいがちです。

けれど、彼女の周囲にいる女性を見ていると「彼女がどんな女の子なのか?」違った角度からみることもできるはずです。そういった意味でも、ぜひ、女の子のグループ事情というものをよく見て、理解しようとするといいのではないかと思います。

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登録日:2009年 07月 03日 10:08:35