セフレにぶちこんできます。
この前とうとうしちゃいました知り合い会うことにらり待ち合わせ場所へ急行。
しかし、そこにはそれらしきセフレは居ず諦めて帰ろうとした時、「こんにちは~和也さんですか?」とエクボの可愛い小柄なセフレでした。
「遅くなってごめんなさい。洋服選ぶのに時間がかかってしまって…」と。
僕は早くしたくてウズウズしてたので「あ~、そうなんだ~、可愛い服だね~」と適当な言葉を使いあしらいました。
電話のやりとりですでにエッチをする話をしてたので、すぐラブホに入りました。
するといきなりキスをされチンポを触りだし、ベルトを緩め洗っていないチンポを見つめてフェラをしてきました。
ものすごいバキュームでイキそうになったので、そのままベッドに押し倒しミニスカートを捲りアソコに手を伸ばし僕は秘部を攻めました。
その時にはすでに下着は湿っていました。愛撫も適当に我慢汁を垂らしたチンポを膣口に当てると、拒むこともなく生チンポを受け入れてくれました。
リズミカルにピストンをしていると、女性は「あ、ダメ。あたしいっちゃう。」と足を絡めてきて、僕はつい暴発してしまいました。
「あ、中が暖かい。あなたのチンチンピクピクしてる」と中に出した事を怒る事もなく、僕の精子を子宮の中に受け入れてました。
セフレは「出来たら責任取ってね」なんて言ってましたが、妊娠する気配もなく今に至ってます。
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登録日:2010年 12月 07日 20:14:08
父ちゃんにセフレとの隠し子がいた・・・・・・
父ちゃんに隠し子がいた・・・・・・
それも22歳年下の女の子。
おいおい、俺28だぞ。娘レベルの妹になるんだけどそこの所どうなのよ。
て言うか年を考えろ父。
アンタもうすぐ60になるだろ。
でも、意外な事に母ちゃんがそんなに怒らなかった事も衝撃的。
冷え切っているのか懐が広いのか分からないよ母ちゃん・・・・・
妹はかなり喜んでいたのが不思議。
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登録日:2010年 11月 04日 13:20:05
初恋の子と同窓会で会ってSEXした
小学校の頃、大好きだった女のコがいた。ショートカットが似合うボーイッシュな感じの女のコで、
よく俺ら男グループにまじって元気よく遊んでいた。
中学で彼女は私立、俺は公立と別々に進学。
それから8年、同窓会で再開するまで一度も顔を合わすことはなかった。
再開した彼女は相変わらずショートカットが似合ってて、
男勝りな性格もそのままで、でも、笑うとすごく女のコっぽくて可愛かった。
好きだった当時の気持ちが一気に戻ってきた。
お互いに3次会まで参加し、解散する直前に当時好きだった事を伝えた。
彼女はさっきまで酔った冗談みたいに聞いていたのに、すごく真剣に聞いてくれた。
そして、当時は友達としか思ってなかったけど、
これからは俺次第だって言って、抱きしめてキスしてくれた。
そして、車の中で俺は初恋の人と初のテレホンセックス体験を済ませた。
彼女を送って行って、また会う約束をした。
まだ正式には付き合っていないのかもしれないけど、毎日来るセフレの彼女からのメールが嬉しい。
次にテレホンセックスで出会うのがすごく楽しみだ。
…そんな風に人生はじめての春を満喫していたら、
チンコから膿が出た…どうやら性病らしい…。
俺、しばらく立ち直れないかもしれない…。
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登録日:2010年 10月 08日 16:59:06
本当は怖いポニョの都市伝説?
2008年7月に公開された『崖の上のポニョ』が、2月5日に地上波としては初めて放映された。溢れるような色彩の洪水に圧倒され、存分に楽しんだ視聴者も多いことだろう。しかし、一方で見終わった後、形容しがたい違和感を覚えた方もいたのではないだろうか?
それもそのはず。映画公開直後も、ネット上には「あれは何だったんだろう?」と困惑を隠しきれないといった感想が非常に多く見られた。中にはあからさまに「駄作だと」決めつける人がいたり、民俗学的な解釈を加えて「ポニョの背後には“死のイメージ”がつきまとっている」などと小難しく論じる人など、さまざまな議論を巻き起こした。
物語の解釈は人それぞれだし、何が正しく何が間違っているという類のものではない。しかし、制作者の人となりであるとか、作品の製作過程を知ることで理解しやすくなることもある。今回は、その一例を紹介しよう。
以下の内容にはネタバレが含まれるので、映画を未見の方は注意して欲しい。
一部では、洪水後の世界は「あの世」で、実は全員死んでましたという都市伝説のような解釈が存在する。しかし、むしろあれは「赤ちゃんが生まれる前」の世界だったと仮定したらどうだろう。死後の世界よりもわかりやすく、ポジティブな見方ができるのではないだろうか。内容的にも、「生まれてきてよかった」という公開当時のキャッチコピーとも一致する。
公開直後にNHKで放送された『宮崎駿のすべて~“ポニョ”密着300日』という番組の中で、宮崎駿は壮年期を迎えて次々に親しかった友人が死んでしまう悲しさを語っている。葬儀を終えてもまだ友人が死んだという実感を持てない宮崎駿は、友人が息を引き取った集中治療室へ行き、その魂をクルマの助手席に乗せて友人宅まで送り届けたのだというエピソードを披露する。
そういったいきさつから考えても、『ポニョ』とは、「人はなぜ生まれなぜ死ぬのか」という宮崎駿なりの死生観を納得がいくまで突き詰めた作品だったのかも知れない。
メディアに取りあげられる「死」のイメージは殺人であったり自殺であったり、やたらとネガティブなものばかりだ。しかし普通の人にとっての「死」は、ただ「生まれる前に帰るだけ」であって、怖がったり怯えたりするようなものではないのだ。肩肘張らずに、もっと穏やかに迎え入れることができれば、どんなに幸せなことか。ポニョのノー天気な主題歌やハッピーエンドは、まさにその象徴である。
また、ポニョの制作中にスタジオ・ジブリではスタッフ用の幼稚園が建設された。これについては『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』というポッドキャスティングの2008年7月2日の回で詳しく語られている。
それまでジブリでは、社内結婚をするカップルは多かったものの「今の生活を楽しみたいから子供は作らない」という暗黙の風潮があったという。しかし、入社して間もない若者が、宮崎駿のお気に入りだった女性スタッフに手を出し妊娠させてしまう。いわゆる「デキちゃった結婚」のようなものだ。
アニメ製作の世界は薄給で知られている。世界的に有名なジブリですら、それほど収入は多くないだろう。それまでは将来的な不安もあって、みんな子供が作れなかったという側面もあるだろう。しかし後先考えず出産を決意して育児に専念する二人の姿に感化され、社内に出産ラッシュが巻き起こったのだという。
若さ故の無鉄砲と言ってしまえばそれまでだが、宮崎駿はどうやらそこに、現在の閉塞した社会状況を打破して未来を切り開く活力のようなものを見出したようだ。そして、そんな頼りないけれどエネルギッシュな若い親の世代を応援するために、幼稚園を作ったのである。
どんなに頼りない親でも、子供にとっては唯一無二の存在である。酒やパチンコに溺れて中には育児放棄してしまうような親もいる。そんな駄目な母親のリアルな姿を投影したのが、劇中のリサなのだ。
公開直後、宗助の母親であるリサに対して批判の声が挙がった。クルマの運転が乱暴であったり、子供に自分の名前を呼び捨てにさせたり、食事がインスタントラーメンであったり、父親の帰りが遅いとダダをこねて不機嫌になるなど、情緒不安定で母親失格だというのだ。確かに人生の先輩から見たら、若い父母は頼りなくも見えるだろう。劇中でも、ポニョと宗助の両親はどこか情緒不安定で頼りない。ただひたすら子供たちに翻弄されるばかりだ。
しかし、そんな親たちの世代も含めて温かく見守ってゆこうという優しさが、『崖の上のポニョ』という作品の中には漂っている。
そもそも宮崎アニメに「理想の母親像」を求めるのはお門違いだろう。一般的にはほのぼの路線の好々爺といったイメージの宮崎駿だが、かつてはバリバリの共産党員で「地球のためには人類なんて滅んだ方がいい」という過激発言でもお馴染みだ。もともと人畜無害でお行儀の良いファミリー層向けのアニメを作るような人物ではない。
さらにNHKの番組では、宮崎駿がまだ幼かった頃、母が病気になってしまったエピソードが語られていた。「おんぶして」と近づいていったが、それを拒否されてしまうのだ。しかも母はその直後、病ゆえに子を抱けない自分のふがいなさに涙したという。そんな寂しい記憶が宮崎駿という人物の根底に流れているのだ。
一般的には「母親とは無条件に優しいもの」というイメージがある。そして常に完璧さが求められがちだ。しかし宮崎駿の提示する「母性」とはまるで海のごとく、時に優しく、時に荒々しい、気まぐれで得体の知れないものなのだ。
『崖の上のポニョ』という作品の持つ不気味さとは、決して都市伝説的な「死の恐怖」ではない。むしろ我々が普通に抱いている「母親とは無条件に優しいもの」という前提条件が覆される不気味さなのだ。
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登録日:2010年 07月 29日 12:23:56
株主総会ライブに小室だ!TRFだ!
エイベックス・グループ・ホールディングスの株主総会が27日、さいたまスーパーアリーナで開かれた。
株主総会では恒例のシークレットライブも開催され、小室哲哉(51)、TRF、ICONIQ(25)ら7組が登場。「エイベックスの歴史に欠かせない人がいる」のテロップとともに登場した小室は、自身が提供したAAAの「逢いたい理由」など3曲のピアノソロを披露。昨年5月に著作権をめぐる詐欺事件で有罪判決を受けたが、客席からは「TK!!」と声援も飛び、無言のまま恐縮しながら退場した。総会には過去最高の1万1011人が出席した。
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登録日:2010年 06月 28日 19:32:41
ジェイムズ・ジョイス
ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce 1882年2月2日 – 1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。
ジョイスは青年期以降の生涯の大半を国外で費やしているが、ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎においている。
彼の作品世界はダブリンに根差しており、家庭生活や学生時代のできごとや友人(および敵)が反映されている。そのため、英語圏のあらゆる偉大なモダニストのうちでも、ジョイスは最もコスモポリタン的であると同時に最もローカルな作家という特異な位置を占めることとなった。
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登録日:2010年 05月 31日 16:24:14
ダレン・シャン
ダレン・シャン(Darren Shan、1972年7月2日 - )は、イギリス生まれの小説家。幼いころにアイルランドへ家族で引っ越している。本名はDarren O'Shaughnessey。
ダレンは、「子供のころから作家になりたかった」と言っている。ファンタジー小説『ダレン・シャン』はいとこのためにおもしろ半分で書き始めたものでありシリーズは1巻までの予定だったが、出版社からの要望により長編になったとのこと。
映画化が決定され、日本では2010年3月19日から公開された。
またダレンシャンのスピンオフ小説として主要キャラクターのクレプスリーが主役の小説が予定されている。
日本のファンには、その容貌からアンパンマンとして親しまれている。『ダレン・シャン』の中には彼を模したイラストがある。
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登録日:2010年 05月 31日 16:23:49
エドナ・オブライエン
エドナ・オブライエン(Edna O'Brien, 1932年12月15日 - )は、アイルランドの小説家、随筆家。クレア州出身。女性を主題にした作品を多く描く。代表作は「愛に傷ついて('Casualties of peace')」など。
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登録日:2010年 05月 31日 16:20:17
永井荷風
永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の耽美的な作家・随筆家。本名『壯吉』。号『金阜山人』『断腸亭主人』ほか。ストリップの楽屋への精勤など、晩年の奇行が話題に残るが、研鑽の成果の文業は豊かである。
永井久一郎、恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)に生まれた。父久一郎は内務省衛生局に勤務していた。母恒は、久一郎の師である儒者鷲津毅堂の二女。
東京女子師範学校附属幼稚園、小石川区小日向台町(現:文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科と進み、1891年、神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校2年に編入学した。学校と別に、漢学・英語・絵画も習った。本を好いた。
病んで遅れて、1897年に中学を卒業した。在学中、後の元帥寺内寿一らにいじめられた。
卒業前に吉原に遊び、以降、父の蔵書を売るなどして遊蕩した。第一高等学校の入試に落ち、神田区一ツ橋の高等商業学校附属外国語学校清語(中国語)科に臨時入学した。(欠席が過ぎて1899年除籍。)
1898年、広津柳浪の門弟となり、1899年巌谷小波の木曜会に入り、1901年、暁星中学の夜学でフランス語を習い始めた。ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。1898年から習作を雑誌に発表し、1902年から翌年にかけ、『野心』、『地獄の花』、『夢の女』、『女優ナナ』を刊行する一方、尺八を習い、落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となり、歌舞伎座で下働きするなどの青春彷徨をした。
1903年(明治36年)(24歳)、実業を学ぶべく父に渡米させられたのを、文学修業の好機と喜んだ。すなわち、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントン、などにあってフランス語を修め、日本大使館や正金銀行に勤め、さらに1907年から1908年にかけてはフランスに10ヶ月滞在し、リヨンの正金銀行に勤め、退職後パリに遊んだ。
ワシントンの娼婦と恋愛した。パリではモーパッサンら文人の由緒を巡った。また、上田敏と知り合った。繁くオペラに通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実った。クラシック音楽紹介の端緒とされる。国内のコンサートにも、長く繁く通った。
1908年(明治41年)(29歳)、帰国後に上梓した『あめりか物語』は好評だった。余丁町の父の家で筆が進み、注目の新進作家となった。1909年の『ふらんす物語』と『歓楽』とは発売禁止になった。朝日新聞への『冷笑』の連載は、夏目漱石からの依頼によった。
1910年、森鴎外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となり、機関誌『三田文学』を創刊した。鴎外には『地獄の花』を期に師事していた。水上瀧太郎、松本泰、小泉信三らが、聴講した。木下杢太郎らのパンの会で谷崎潤一郎に逢い、翌年『谷崎潤一郎氏の作品』を『三田文学』に書いて後進を引き立てた。
教授職の一方で、芸妓との交情が絶えなかった。1912年、商家の娘と結婚させられたが相和さず、1913年に父が没して家督を継いで間もなく離縁し、1914年、新橋の芸妓『八重次』(のちの藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。翌年八重次が飛び出し、荷風も京橋区築地(現:中央区築地)の借家へ移った。清元の稽古に便利だった。
関係した女性は、自らが『断腸亭日乗1936年1月30日』に列記している。
1916年(大正5年)(37歳)、慶應義塾大学を辞し三田文学からも離れた。日本は、アメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない。江戸の面影を求めて杖は先哲の墓や遊里に向かい、筆は懐古の随筆や花柳小説を書いた。発禁ないし当局の嫌がらせの、常習的な被害者だった。筆禍に急死した柳亭種彦を『散柳窓夕栄』に描いたのは、気紛れでなかった。フランス書にも目が届き、アンドレ・ジッドやポール・クローデルの原書を読めと、後進に勧めている。
慶應を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで『断腸亭』と名付け、1917年9月16日から『断腸亭日乗』を綴り始めた。腸を病んでいた。秋海棠(別名、断腸花)が好きだった。そして1919年、余丁町の屋敷を売り、築地二丁目に寓居して翌年、麻布市兵衛町一丁目(現:港区六本木一丁目)に新築した『偏奇館』へ移った。外装の『ペンキ』と己の性癖の『偏倚』にかけた命名である。娼婦や女中を入れることはしが、独身の暮らしを続けた。妻帯し家族を持つのは創作の妨げ、と公言した。
1926年(大正15年 - 昭和元年)(47歳)、銀座に出掛け始め、取材の目が女給へ移って、1931年『つゆのあとさき』を出した。1934年私娼と交わることがあり、『ひかげの花』を中央公論誌に載せた。1936年、玉の井の私娼街を繁く探り、1937年の支那事変の直前、濹東綺譚を朝日新聞に連載した。息苦しい世相の中で好評に迎えられた。
1938年(昭和13年)、銀座で知った作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演し、浅草通いが増えた。このときのアルト永井智子が菅原と結婚し、荷風と夫婦ぐるみの付き合いになった。
戦争の深まりにつれ、発禁常習者の新刊上梓は難しくなったが、執筆を続けた。草稿を複数部筆写して知友に預け、危急に備えた。1945年3月10日払暁の東京大空襲に『偏奇館』は焼亡した。菅原夫妻の住む中野区住吉町(現:東中野四丁目)のアパートの別室に移って、5月24日夜に焼かれた。菅原の故郷明石市の『西林寺』に仮にいた6月9日、爆弾の爆風に倒された。3人で岡山市弓之町の松月旅館にいた6月28日早暁に焼かれ、同市巌井三門町(現:岡山市北区三門東町)の民家の二階に移った。66歳の荷風は、この倉皇の期にも散策と日記を怠っていないが、不安神経症の症状はあった。
岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎は、恩人の荷風宛に身の回りの品を郵送するなど、身辺を気遣った。8月14日荷風は訪れて谷崎に歓待され、草稿を預けた。
翌日岡山へ戻って『休戦』を知った。帰心矢の如く、帰る時も3人一緒との口約束に背き、荷風は8月30日、村田武雄が入手した切符で同夫妻と上り列車に乗った。以降、智子は荷風に会わなかった。
従弟大島一雄(杵屋五叟)の移転先熱海へ回った。出版関係者が直ちに押し掛けて戦火を避けた草稿が陽の目を浴び、『老大家の復活』など言われた。翌1946年1月。五叟一家と市川市菅野(現:菅野三丁目)の借家へ移り、別室に暮らした。共同生活ができる性格でなく、悶着を続け、知人の船橋市海神北一丁目の別荘を書斎代わりにした。五叟宅の近所の小西茂也方へ移り、すぐ嫌われた。界隈を散策した。界隈には新小岩の私娼窟もあった。
大島一雄は25歳下の従弟で、その次男永光と1944年に養子縁組みした。1947年夏、離縁を弁護士に依頼したが、果たせなかった。
戦中書き溜めた草稿の出版や旧作の重版は、相次いでいたが、戦後の新作は佳作に富むとは言えなかった。
1948年(昭和23年)(69歳)、再び浅草や銀座へ通い始めた。菅野(現:東菅野二丁目)に家を買って一人住まいした。1949年から翌年にかけ台本が浅草でたびたび上演され、楽屋へ入り浸るようになった。
1952年、文化勲章を受章し、翌年日本芸術院会員に選ばれた。浅草へ通い、フランスやアメリカの映画を繁く見た。引き続きフランスの原書や漢詩文を読んだ。
1957年(78歳)、市川市八幡町四丁目(現:八幡三丁目)に転居した。
1959年3月1日、通い続けた浅草アリゾナで昼食中、『病魔歩行殆困難』(日乗)となり、その後は自宅に近い大黒屋で食事をとり、診療は全く受けず、4月30日朝、自宅で遺体で見付かった。胃潰瘍の吐血による心臓麻痺と診断された。
雑司ヶ谷霊園1種1号7側3番の、父久一郎が設けた墓域に葬った。
『著作権は「刊行会」が相続しては』との打診に、養子永光は同意しなかった。
故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた。
宮尾しげをと住職とが発議し、森於菟・野田宇太郎・小田嶽夫らが実行委員となり、計42人の発起人によって、1963年(昭和38年)5月18日、遊女らの『新吉原総霊塔』と向かい合わせに、谷口吉郎設計の詩碑と筆塚が建立された。
『偏奇館』の跡地は、開発により地形さえ留めていない。
2004年、市川市の市制70周年式典で名誉市民の称号を贈られた。
永井永光は、銀座でバー『徧喜舘』を経営していた。なお、荷風の作品の著作権は、2010年1月1日に消滅した。
枢密顧問官まで勤めた叔父の阪本釤之助からは、絶交された。高見順が従弟と承知していたが、敬遠した。
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登録日:2010年 04月 30日 19:02:38
イエンス・ペーター・ヤコブセン
ユトランド半島北部の港町ティステッドの富裕な船主および石炭商の子として生まれる。9歳に植物学に熱中し早くもこの地方の全植物を知ったという。この自然科学への興味は生涯続く。
16歳からコペンハーゲン大学に入学し植物学を専攻し、同時にゲーテ、シラー、ヴィーラントなどのドイツ作家の全作品を読む。
18歳にシェークスピアを発見、耽読する。20歳頃に信仰の危機を迎え、キルケゴール、聖書、フォイエルバッハ、ハイネなどの読書遍歴の末、無神論者となる。「苦しい内的戦いをへて、宗教を離れた」と後年述懐している。
イプセンの『ペール・ギュント』に感動し、自らも北欧のサガに題材をとって物語詩《コルマクとステンゲルデ》、詩と短編の組み合わされた連作《サボテンの花ひらく》(これは未完に終わり、のちにアルノルト・シェーンベルクが『グレの歌』として曲を付ける)に着手、また長編小説『無神論者』の構想を得る。
これが後の『ニルス・リューネ』となる。1870年、少し前から婚約していた〈ティステッドの王女〉と呼ばれる美少女との婚約を解消する。熱心なクリスチャンである彼女を自分の無神論と対決させるにしのびなかったとの理由による。
1872年《新デンマーク月刊》誌に中篇『モーンス Mogens』を発表。また多年にわたる藻類の研究をまとめ、大学より金牌を受賞される。
ただ沼や川での無理な採集がたたって、この頃から胸を病むようになる。
1873年にはチャールズ・ダーウィンの『種の起源』、『人間の進化と性淘汰 (The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』の翻訳を進める一方、長編『マリィエ・グルベ夫人』のために図書館で古文献の蒐集を行う。
療養をかねて、ドレスデン、ミュンヘン、プラハ、ウィーン、フィレンツェ、ローマを歴訪する。1876年の末に『マリィエ・グルベ夫人 Fru Marie Grubbe』刊行。これは十七世紀に実在した美貌の貴族女性で、国王の弟・姉婿の騎士・自家の下僕と男性遍歴を重ね、最後は渡船場の女将となったその生涯と内面を描いたものである。
反響は大きく、諸外国からも翻訳の申し込みを受ける。1880年、病が重くなる中で奇跡的に『ニルス・リューネ Niels Lyhne』を故郷の家で完成させる。
イプセン、ドイツの詩人リルケなどをも感動させたこの作で、ヤコブセンは神に反抗して詩作と恋愛で人間性を高揚させようとし、生きる根拠と目的を失いつつ信念を曲げない人物を創造し、〈無神論者の聖書〉と一部の人には呼ばれた。
その後も短編『ベルガモの黒死病』『フェーンス夫人』などを発表し、ヤコブセンは1885年に結核のため38歳の若さで死去した。
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登録日:2010年 04月 30日 19:01:46
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