2007年 10月

不倫と性同一性障害

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性同一性障害 (せいどういつせいしょうがい; Gender Identity Disorder) とは、精神疾患の一つであり、精神的には身体的性とは反対の性に属するとした方が自然であるような状態である。身体的には男性か女性のいずれかに正常に属し、身体的・精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の性と社会的に一致すると見做されている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる(トランスジェンダー)。彼らの状態を一種の精神疾患ととらえた場合の呼称として、性同一性障害と呼ぶことがある。

しばしば簡潔に「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」という表現はジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるため、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違った状態」と呼ぶべきである。人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致しているが、半陰陽 (intersexual) のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察される。

詳細は性自認の記事を参照。性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり生物学的概念としての男女のいずれかの身体形状に(少なくとも脳の構造を除いて*)正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられない症例が発見され、その状態は性同一性障害と名付けられた。

* 性同一性障害者の脳の形状や微細な構造等が、非=性同一性障害者(いわゆる健常者)のそれと異なるか否か、また仮にその差異が存在するとしてその差異が先天的か後天的か、については現在のところ論争中である。 ただし、死者の脳の解剖から、両者間での脳内の特定部位の形状の差異が報告された例は複数存在する。
後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。また、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケースもある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばない。一般には、性同一性障害者は何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例では出生時から)自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に否定的な考え方も出てきている。というのは、「性に関する何かの辛いできごと」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して多くはなく、性同一性障害当事者の多くは「性に関する何かの辛いできごと」がまったくなかったと認識していることが圧倒的に多いからだ。現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場では、この考え方が支持されている。

性同一性障害においても性自認は男性と女性を基本とされている。しかし実際の診療の場では、性自認が中性や無性、それ以外の者も存在する。ただし、現在の社会で中性として生きることは絶えず他者の「男性か?女性か?」という目にさらされることになるため、男性もしくは女性としての性役割を演じることとなる。また、無性としての肉体や性役割は想定が難しく、対応が難しいのが実情である。性同一性障害者も一般の男女と同じく、「自分の心理的性別に相応しい服装を好み」(非・異性装)、「自分の心理的性別と反対の性を恋愛対象とする」(異性愛)ケースが多い。そのため、身体的性別を基準にして観察すると「異性装を好み」「同性を恋愛対象とする」ように見える。

しかしながら、性同一性障害者の中にも一般の男女と同じく異性装者や同性愛者が存在するので、必ずしも上記の限りではない。

混同されがちであるが、性同一性障害と同性愛や異性装とは、それ自体は全く独立した別個の現象である。

性同一性障害に関連する重要な用語を挙げる

MtF
Male to Femaleの略。身体的には男性であるが性自認が女性であるケースをMtF-GIDと呼ぶ。
FtM
Female to Maleの略。身体的には女性であるが性自認が男性であるケースをFtM-GIDと呼ぶ。
性別適合手術(性別再判定手術)
Sex Reassignment Surgery(SRS)、または、Gender Reassignment Surgery(GRS)の訳語であり、性別再割当手術とも訳される。性自認に合わせて、外科的手法により外性器などの形態を変更することを意味する。一般的には性転換手術(sex-change operation)と言われているが、下等動物にみられるように、反対性の生殖能力を持つことはできないので、日本精神神経学会の正式訳語としては「性別適合手術」を用いるようになっている。
性転換症
Transsexualismの訳語。 性同一性障害のうち、特に身体的性別に対する違和感・嫌悪感が強く性別適合手術までを望む症例を指す。
リアルライフ・エクスペリエンス (RLE)
実際に望む性別として社会的に生活してみること。24時間継続的に行う場合をフルタイムRLEと言い、何らかの事情でそれができない場合に生活時間の一部をRLEにあてる場合をパートタイムRLEと言う。過去にはリアルライフ・テストと呼ばれた。
ガイドライン
日本精神神経学会「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」。日本国内における性同一性障害の診療の基準として参照されている文書である。ブルーボーイ事件を踏まえて策定されており、この文書に従った医療的処置は母体保護法に抵触しないものとみなされている。(ただし、具体的にそれを示す判例は存在しない)
性同一性障害者のジェンダーのあり方は様々である。

一般に身体的性別に応じて躾られるので、その性に応じたジェンダーを身につける部分もある。
一般の男女と同じく生活の中で見聞きする男女のジェンダーパターンを、意識的・無意識的に学習する部分もあるが、その場合、自分の性自認に応じたものを取り入れる部分もある。
先天的に定まっている性自認はそれだけでは不安定であり、それを維持するには性自認に合った身体的・社会的経験が必要となる。性同一性障害者の場合その機会は限られているので、過剰に社会的・文化的な性差に拘り、性自認に応じた行動様式を取ろうとする場合もある。
逆に、社会適応を容易にするために性自認とそれに伴う性の意識を押さえ込み、過剰に身体の性に適合した行動様式を取ろうとする場合もある。
これらの間の、無数のパターンがあり得る。

逆援助
逆援助

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登録日:2007年 10月 31日 10:10:53

スズメバチ

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スズメバチ(雀蜂、胡蜂)はハチ目スズメバチ科に属する昆虫のうち、スズメバチ亜科に属するものの総称である。ハチの中でも比較的大型の種が多く、性格は概ね獰猛、一匹の女王蜂を中心とした大きな社会を形成し、その防衛のために大型動物をも襲撃する。4属67種が知られ、日本にはスズメバチ属7種、クロスズメバチ属5種、ホオナガスズメバチ属4種の合計3属16種が生息する。スズメバチは狩りバチの仲間から進化したと見られており、ドロバチやアシナガバチとともにスズメバチ科に属する。そのスズメバチ科はアリ科、ミツバチ科と同じハチ目に含まれている。スズメバチはミツバチと並び、最も社会性を発達させたハチであり、数万もの育室を有する大きな巣を作る種もある。アシナガバチ等と違い、雄バチは全く働かず、女王蜂が健在の間は他の蜂は一切産卵しない。女王蜂を失った集団では、働き蜂による産卵も行われるが、生まれるハチは全て雄であり、巣は遠からず廃絶する。スズメバチは旧ローラシア大陸で誕生、進化しユーラシア大陸、北アメリカ大陸、アフリカ大陸北部に広く分布している。分布の中心は東南アジアにあり、オオスズメバチやヤミスズメバチ等多様な種が生息している。旧ゴンドワナ大陸であるオセアニアと南アメリカにはもともと野生のスズメバチはいなかったが、現在ではオセアニアや南アメリカでも人為的に進入したスズメバチが生息地域を広げている。「スズメバチ」の名は、その大きさが「雀(すずめ)ほどもある」または「巣の模様が雀の模様に似ている」ことに由来する。また、地方により「くまんばち」(熊蜂。クマバチは別種)や「かめばち」(巣の形より)などの名がある。スズメバチに対する「くまんばち」の呼称は全国的にみられるが、これはむしろ大型ハチ類の総称とみなすべきである。ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフの作品に『くまばち(くまんばち)は飛ぶ』という名曲があるが、ここでの「くまんばち」は、ヨーロッパで農作物の受粉を仲介するハチとして親しまれているハナバチの一種、マルハナバチを指すものである。成虫の餌は主として終齢幼虫が巨大に発達した唾液腺から分泌する栄養液で、幼虫がミルクを出して成虫を養っているとみなすこともできる。この栄養液の不足分や終齢幼虫がまだ育っていない時期には糖質を多く含む花蜜、樹液などを摂取している。また、秋には担子菌類のキノコの一種であるシラタマタケの子実体内部の胞子を含んだ液化部分(グレバ)を好んで摂取する。これは終齢幼虫減少期の成虫の重要な餌となっていると同時に、シラタマタケにとっては胞子分散にも寄与することから共生関係を持っていると考えられている。カマキリは、大型のスズメバチの場合は基本的には餌の対象となるが、スズメバチが逆にカマキリに捕食されることもある。幼虫の餌は種類により違いはあるが、基本的には他の昆虫類であり、成虫が捕獲した昆虫などの小動物や、場合によっては新鮮な脊椎動物の死体の筋肉の多い部分を切り取って噛み砕き、肉団子にして与えることが多い。ただし後述のように、アシナガバチの蛹、幼虫専食のヒメスズメバチでは肉団子ではなく、獲物を噛み砕いて嗉嚢(そのう)に飲み込んだ獲物の体液を幼虫に与える。
天敵は捕食者として野鳥、ムシヒキアブ、ハチクマ、ヒトなど、寄生者として菌類、線虫などである。生活史を通してみると捕食寄生者が多い昆虫には珍しい真の寄生虫であるネジレバネ等がある。幼虫の捕食寄生者としてはカギバラバチ科のハチやオオハナノミ科の甲虫が知られる。スズメバチ類の巣にはしばしばベッコウハナアブ類の幼虫が寄生し、営巣盛期には排泄物や巣の下部に廃棄された成虫や幼虫の死体を摂食している。これが、晩秋の巣の衰退期になると巣の上部に侵入し、生きた幼虫をも捕食し成長する。また、朽木の中に越冬室を掘って冬眠中の新女王蜂は、しばしばコメツキムシ科の甲虫の幼生によって捕食される。鷹の一種であるハチクマは、スズメバチの巣を攻撃し、巣盤を持ち帰り、幼虫と蛹を雛鳥の餌としている。ハチクマの攻撃を受けたスズメバチは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、毒針を用いた防御行動を起こさないという。
ヒトは、スズメバチを巣ごと駆除したり、食用として幼虫や蛹を採集する。
また、おなじスズメバチ類の中でも捕食・被食の関係がある。オオスズメバチは生殖個体である雄蜂や、養育期には他のスズメバチの巣を頻繁に攻撃する。性別や女王蜂、働き蜂の決定は基本的にはミツバチと同じようなものである。ハチ目の共通の性質として未受精卵はオス蜂に、受精卵はメス蜂になる。したがって、女王蜂が精嚢から精子を取り出す、もしくは取り出さないによって性別を決定している。働きバチはすべて雌である。

また、女王蜂になる卵と働き蜂になる卵は同じで、幼虫時代に食べさせられた餌によって地位が決定される。

女王蜂は10-11月頃に羽化すると、終齢幼虫から栄養液を十分摂取した後に巣を離れる。雄蜂と交尾した後は一切摂食せず、朽木などに越冬室を掘り、その中で冬眠に入る。

翌年の春、冬眠から覚めた女王蜂は営巣を開始する。巣材収集や幼虫の餌の狩猟は主に働き蜂の役割であるが、働き蜂が誕生するまでは女王蜂が単独で行い、また働き蜂誕生後もある程度の規模に巣が大きくなるまでは、働き蜂らと共に巣の維持や狩猟をこなす。働き蜂は7月頃から羽化を始め、9月から10月にかけて集団の個体数が最大になる。種や気候によっても異なるが、例えばオオスズメバチでは一つの巣で数百匹規模にまで増える。働き蜂と雄蜂は基本的には越冬せず、冬季には死滅する。例外としてネジレバネの寄生した働き蜂は、労務に加担せず、越冬も行う。
雄蜂は女王蜂より少し早い9-11月頃に生まれる。雄蜂は子孫を残すためだけの存在であ
り、全く働かない。ただし、同じスズメバチ科のアシナガバチの仲間では幼虫に餌を運ぶ等の行動が痕跡的にだが見られることがある。繁殖期になると若い女王蜂が巣から飛び立ち、雄蜂も交尾のために一斉にその後を追う。大半は天敵に捕食されるか力尽き、交尾に成功するのはこの中のごく一部である。無事に交尾に成功したオスは間もなく死亡し短い生涯を終える。

不倫
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登録日:2007年 10月 30日 11:50:23

2003年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2003年(にせんさんねん)は、水曜日から始まる平年である。

1月9日 - 福岡県篠栗町で17歳の少年ら9人が同い年の土木作業員の少年に集団暴行を加えて殺害。
1月10日 - 北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言。
1月20日 - 第65代横綱貴乃花が引退。
1月25日 - 群馬県前橋市のスナックで何者かが発砲し、一般人3名を含む4名が死亡。2名が重傷。のちに実行役2名を含む暴力団員ら47名が逮捕される。
1月27日 - 名古屋高裁金沢支部、高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可を無効とする判決を下す。
1月29日 - 朝青龍が第68代横綱に昇進(モンゴル人初の横綱誕生)。
2月1日 - アメリカ航空宇宙局、スペースシャトル・コロンビア号、帰還のため大気圏突入後、テキサス州上空で空中分解、墜落。宇宙飛行士7名全員死亡。
2月5日 - 東ヨーロッパのユーゴスラビア連邦共和国からセルビア・モンテネグロに改称。
2月18日 - 大韓民国で地下鉄放火事件が発生(大邱地下鉄放火事件)。192人が死亡。
2月24日 - ノラ・ジョーンズが第45回グラミー賞の主要4部門を含む8部門で受賞(現地時間は2月23日)。
2月24日 - 北朝鮮が地対艦ミサイルを日本海に向け発射(3月10日にも発射)。
3月19日 - 米英によるイラク侵攻作戦開始(イラク戦争開戦)。
3月19日 - 営団半蔵門線水天宮前駅~押上駅間開通。東急田園都市線~東武伊勢崎線・東武日光線の相互直通運転開始。
3月24日 - 宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」が第75回アカデミー賞長編アニメ映画賞を受賞。
3月25日 - 俳優・古尾谷雅人が自殺。
3月28日 - H-IIAロケット5号機が打ち上げられる。
3月30日 - 高松自動車道が全線開通。
3月 - 神奈川連続通り魔事件で4人死傷。4月17日に被疑者の男逮捕。
3月 - 名古屋連続通り魔事件で2人死傷。9月18日に被疑者の女逮捕。
3月頃から - 中国で新型肺炎SARSが大流行、死者700人超。
4月1日 - 郵政事業庁が日本郵政公社に。
4月1日 - さいたま市が政令指定都市に移行(13番目)。
4月1日 - 俳優・レスリー・チャンが飛び降り自殺。
4月4日 - SARS(重症急性呼吸器症候群)が、新感染症に指定され、7月の終息宣言までに32ヶ国で患者774人が死亡。
4月7日 - 兵庫県宝塚市の宝塚ファミリーランドが、営業終了。
4月11日 - 鹿児島市の花火工場で爆発事故、死者10人。
4月14日 - 国際ヒトゲノム計画によってヒトゲノム解読の全作業を完了。
4月15日 - 東京ディズニーランドが開園20周年を迎えた。
4月16日 - エフエムいずも(周波数80.1MHz)が放送開始。
4月20日 - Motoレーサー・加藤大治郎がレース中に事故死。
4月23日 - オリックスの石毛宏典監督、成績不振を理由に解任される。後任にレオン・リー打撃コーチが昇格。
4月25日 - 六本木ヒルズがグランドオープン。
4月28日 - 岐阜県の山奥でパナウェーブ研究所と名乗る白装束の集団がワゴン車などを林道に停めて占拠。
4月28日 - アメリカ合衆国でiTunes Music Storeが開始される。20万曲を用意、楽曲の価格は1曲一律1ドル。
4月28日 - 日経平均株価が7,607円88銭の大底を記録(1982年来の安値水準)。以後、急反発し10月には一時11,000円台まで回復。
5月1日 - ヨルダンのアンマン国際空港の手荷物検査場で、毎日新聞の記者が取材の記念に持ち帰ろうとした手榴弾が爆発、空港職員1人が死亡。
5月19日 - 国立歴史民俗博物館、弥生時代の始まりがこれまでより500年早い紀元前1000年頃からとする説を発表。
5月22日 - プロスキーヤーの三浦雄一郎、世界最高齢(70歳)でのエベレスト登頂に成功。
5月23日 - 個人情報保護法が参議院本会議で可決され、成立する。
5月26日- 宮城県沖で地震発生。最大震度6弱。
6月2日 - Windows Server 2003が発売される。
6月6日 - 戦後はじめて有事法制が成立(有事関連三法)。
6月6日 - 盧武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領、国賓として来日、天皇と会見。(~9日)
6月10日 - 政府はりそなホールディングスに対して1兆9600億円の公的資金注入を決定。
6月19日 - 早稲田大学のサークル「スーパーフリー」のメンバーが女子大生を泥酔させて集団で暴行したとしてメンバー5人が婦女暴行容疑で逮捕される。
6月20日 - 福岡一家4人殺害事件発生。中国人3人らによる犯行。
6月22日 - 初めての100万人のキャンドルナイトが行われる。
7月1日 - 長崎男児誘拐殺人事件発生。
7月1日 - 香港50万人デモ行進、基本法23條に対する抗議、「七一遊行」を言う。
7月2日 - プラハで開かれた第115回IOC総会で2010年の冬季オリンピックの開催地がバンクーバーに決定。
7月5日 - 沖縄県北谷町で中学3年生の少年ら2人が中学2年生を殺害。
7月7日 - 能登空港開港。
7月8日 - プロ野球の阪神タイガースに18年ぶりにマジックナンバー49が点灯。
7月8日 - 第5回ジャパンダートダービーで武豊騎乗のビッグウルフが優勝、武は同大会連覇を飾る。
7月9日 - 長崎県長崎市で幼児が立体駐車場の屋上から突き落とされ死亡した事件で12歳の少年が補導される。
7月10日 - 香港新界荃灣区の屯門公路の汀九橋段、発生したバスの墜落事故、この事故は死者22人、負傷者20人の大惨事に。屯門公路2階建てバス転落事故も参照。
7月12日 - 米原子力空母ロナルド・レーガンが就役。存命中の元米大統領の名が空母に命名されるのは史上初。
7月13日 - 東京小6女児4人監禁事件発生。犯人は自殺。
7月13日 - イラクの暫定統治機関としてイラク統治評議会が設置される。
7月15日 - AOLタイム・ワーナーは同社内のネットスケープ部門を解体、同日にMozilla Foundationが設立される。
7月15日 - ファミコンが発売されてから20周年。                          
7月18日 - 長崎県諫早市のJR九州長崎本線肥前長田~小江間で、特急列車かもめ46号(長崎発博多行き)が岩と衝突して脱線する事故。37人が重軽傷。(詳しくは、鉄道事故の項を参照)。
7月20日 - 九州地方で集中豪雨が発生、死者23人。
7月21日 - 世界水泳選手権100m平泳ぎで北島康介が世界新記録で優勝(7月24日、200m平泳ぎでも世界新記録で優勝し2冠達成)。
7月25日 - 渋谷連続通り魔事件で5人軽傷。8月6日に容疑者の男逮捕。
7月26日 - イラク復興支援特別措置法が成立。
7月26日 - 「宮城県北部地震」宮城県北部で震度6クラスの地震が3回発生、負傷者700人以上、およそ5000戸の住宅が被害。
8月2日 - パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち公開。
8月6日 - 上海協力機構加盟五カ国(中国・ロシア・ウズベキスタン・キルギスタン・タジキスタン)がテロ対策を目的とした合同軍事演習を実施。(8月12日まで)
8月10日 - 沖縄に戦後初の鉄道沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開業。
8月14日 - アメリカ・カナダで東部を中心に大規模な停電(2003年北アメリカ大停電、BLACKOUT 2003)。
8月25日 - 住民基本台帳ネットワークシステムが本格稼働。
8月29日 - フランス全土の記録的な猛暑による死者が11000人以上と発表される。
8月 - 埼玉熊谷拉致殺傷事件。飲食従業員が殺害され、同僚の3人が拉致されうち1人も死亡。少女ら3人を逮捕。
8月31日 - 沖縄で非番中の自衛官が不発ロケット弾により爆死、後に大量の武器弾薬が同自衛官宅などで発見される。(→沖縄・自衛官爆死事件)
9月3日 - 国会議事堂に落雷。中央塔屋頂部が破損する。
9月5日 - 米ディズニーランドでジェットコースター(ビッグサンダーマウンテン)脱線。1人死亡、10人が負傷。
9月9日 - 中日の山田久志監督が成績不振を理由に解任。
9月15日 - 阪神が、18年ぶりセ・リーグの優勝決める。
9月16日 - 名古屋立てこもり放火事件発生。
9月16日 - 自民党総裁再選を受け、小泉再改造内閣が成立。
9月26日 - 北海道釧路沖で地震が発生(2003年十勝沖地震)、死者1人、重軽傷者200人以上。
9月26日 - 自由党が野党第1党の民主党へ合流し、新たに「民主党」となる。
9月26日 - 巨人の原辰徳監督が辞任。
9月28日 - イタリアで大規模停電。
10月1日 - 東海道新幹線の東京駅~新横浜駅間に品川駅が開業。
10月1日 - ジェイフォンが世界最大の携帯通信事業者、ボーダフォン(現ソフトバンクモバイル)にブランド変更。
10月7日 - カリフォルニア州知事に俳優・アーノルド・シュワルツェネッガーが当選。
10月8日 - 東京工科大学において、東京工科大学片柳研究所開設、東京工科大学新学部発足記念式典が開催された。
10月8日 - 東京商船大学と東京水産大学が統合し、東京海洋大学が発足。
10月10日 - 衆議院が解散。
10月10日 - 最後の日本産トキ「キン」が死亡。
10月15日 - 中国が初の有人宇宙船「神舟5号」の打ち上げに成功。
10月19日 - マザー・テレサがカトリック教会の福者に列せられる。
10月19日 - スティルインラブが桜花賞・オークス・秋華賞と、17年ぶり史上2頭目の牝馬三冠を達成。
10月21日 - 天皇家の親族を名乗って結婚披露宴で祝儀などをだまし取っていた自称「有栖川識仁」ら3人が詐欺容疑で逮捕。
10月24日 - Mac OS X 10.3 Panther発売
10月27日 - 日本シリーズで、ダイエーが阪神を破り4年振りの日本一に輝く。
10月28日 - 第43回衆議院総選挙が公示。メディアでは「政権選択の選挙」などと報道。
10月30日 - 阪神の星野仙一監督、体調不良を理由に勇退。
10月 - 鳥インフルエンザ感染発生
10月 - 日本テレビ社員による視聴率不正操作事件が発覚。

11月1日 - JR西日本の近畿圏でICOCAの運用開始。
11月1日 - 大阪河内長野家族殺傷事件。交際していた少年と少女がお互いの両親を殺害しようと計画して少年が実行。3人死傷。
11月9日 - 第43回衆議院総選挙、投票即日開票。与党3党、絶対安定多数を確保(11月19日、第二次小泉内閣)。民主党は議席を大幅に伸ばしたが政権獲得には届かず。社会民主党の土井たか子が小選挙区で落選する(比例区で復活)。
11月15日 - 第67代横綱・武蔵丸が引退。
11月20日 - アメリカ合衆国の歌手・マイケル・ジャクソンが性的虐待の容疑で逮捕される。
11月23日 - グルジアでエドゥアルド・シェワルナゼ大統領が辞任。
11月24日 - コロンビアで2001年2月に誘拐され、コロンビア革命軍が身代金を要求していた日本企業の現地法人副社長が射殺遺体で見つかる。
11月29日 - イラク北部で日本大使館の公用車が襲撃され、日本人外交官2人とイラク人運転手が死亡(イラク日本人外交官射殺事件)。
11月29日 - H-IIAロケット6号機が打ち上げに失敗。安全のため地上からの指令により爆破される。
11月29日 - 地方銀行上位行の足利銀行(本店・栃木県宇都宮市)が、特別危機管理銀行の認定を受け経営破綻、一時国有化。
12月1日 - 地上デジタルテレビジョン放送が東京、大阪、名古屋で放送開始。
12月1日 - JR可部線の非電化区間(可部~三段峡間)が廃止される。
12月2日 - 武富士盗聴事件で自ら指示を出していたとして同社の会長を逮捕。
12月8日 - 東南アジア・スポーツ大会開催。
12月11日 - 柔道・谷亮子がプロ野球・オリックスの谷佳知と結婚。
12月12日 - ポール・マーティンが第21代カナダ首相に就任。
12月13日 - 名古屋市営地下鉄名城線砂田橋駅~名古屋大学駅間開業。
12月13日 - アメリカ軍がサッダーム・フセインイラク元大統領を拘束。
12月14日 - 埼玉県入間市の暴力団事務所で、暴力団組長ら5名が射殺される。別の暴力団組長を逮捕。
12月15日 - 女優・広末涼子がモデル兼デザイナー・岡沢高宏と結婚。
12月18日 - 千葉県館山市で放火殺人事件が発生。一家4名が死亡。土木作業員を逮捕。
12月19日 - リビアが大量破壊兵器の破棄を表明。
この年、オリックス・石毛、巨人・原、中日・山田、阪神・星野、ロッテ・山本、西武・伊原など監督の退任相次ぐ。

出会い
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登録日:2007年 10月 27日 11:44:20

神曲との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』『神曲』(しんきょく)La Divina Commedia は、13-14世紀イタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。

地獄篇・煉獄篇・天国篇の三部から成る、全14233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にも重きをなしている。

西暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴して回る。ウェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部、魔王ルチフェロ(サタン)の幽閉されている領域まで至る。そこから、地球の対蹠点に抜けて煉獄山にたどりつく。(ダンテの時代、地獄は聖地エルサレムの真下に存在すると信じられていた。ちなみにエルサレムより西へ90度にジブラルタル、中間にイタリア、東へ90度にインド・ガンジス川があるという世界観である。)煉獄山では登るにしたがって罪を清められていき、煉獄の山頂でダンテはウェルギリウスと別れることになる。そしてダンテはそこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達する。

ダンテが『神曲』を世に出した背景には、当時のイタリアにおける政争と自身のフィレンツェ追放、そして永遠の淑女ベアトリーチェへの愛の存在が大きい。またダンテはヴェロナのパトロンであるカン・グランデへの書簡で、人生における道徳的原則を明らかにすることが『神曲』を執筆した目的であると記している。

ベアトリーチェ
『神曲』では実在した人物の名前が多々登場する。ウェルギリウスに地獄界の教導を請い、煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェは、ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女の名である。しかし、のちにベアトリーチェは24歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しみ、彼女のことをうたった詩文『新生』をまとめた(ダンテ・アリギエーリの項も参照)。

『神曲』に登場する天女ベアトリーチェに関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立している。実在のモデルを取る説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェ(ビーチェ)を核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見る。しかし、非実在の立場を取る神学の象徴説では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのはともに9歳の時で、そして再会したのは9年の時を経、二人が18歳になった時の9時であるというように、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェもまた神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという説を取る。

いずれにせよ、ベアトリーチェは愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴ともあると考えられている。一方、地獄と煉獄を案内するウェルギリウスも実在した古代ローマの詩人であり、彼は理性と哲学の象徴でもあると考えらている。

フィレンツェの政争
ダンテが『神曲』を執筆するきっかけの一つには、当時のイタリアでのグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)の対立、および党派抗争を制したグェルフィ党内部での「白党」と「黒党」による政争がある。ダンテは白党に所属しており、フィレンツェ市政の重鎮に就いていたが、この政争に敗れてフィレンツェを追放されることになる。『神曲』には、ここかしこにダンテが経験した政治的不義に対する憤りが現れており、自分を追放したフィレンツェへの怒りと痛罵も込められている。またダンテを陥れた人物は、たとえ至尊の教皇であろうと地獄界に堕とし、そこで罰せられ苦しむ様子も描かれている。他にもダンテは自由に有名無名の実在した人物を登場させ、地獄や煉獄、天国に配置しており、これによって生まれるリアリティが『神曲』を成功させた理由の一つであると考えられる。

『神曲』地獄篇は1304年から1308年頃に執筆されたと考えられている。1319年には地獄篇と煉獄篇は既に多くの人に読まれており、ダンテは名声を得ていたことが分かっている。天国篇は1316年頃から死の直前、1321年にかけて完成された。『神曲』は当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、トスカーナ地方の方言で執筆されたことも、多くの人に読まれた理由である。

イタリア語の原題は、 La Divina Commedia (神聖なる喜劇(ディヴィーナ・コメディア))であるが、 Divina はボッカチオが尊称としてつけたもので、ダンテ自身は、 単にCommedia (喜劇)とのみ題していた。「喜劇」としたのは、「悲劇」とは逆に円満な結末を迎えるため、また、女子供でも読める俗語で書かれているためだという。出版史を見ると、『神曲』の最初期の写本では、『ダンテ』『三行韻詩』などの題がつけられていた。15、6世紀頃にはダンテの詩が活版印刷で出版されるようになり、1555年に刊行されたヴェネツィア版によって『神聖喜劇(Divina Commedia)』の題名が定着した。

「神曲」の邦訳名は、森鴎外がアンデルセンの翻訳『即興詩人』の中で用いた。その一章「神曲、吾友なる貴公子」において『神曲』の魅力が語られ、上田敏や正宗白鳥ら文人を魅了し、翻訳紹介の試みが始まった。この鴎外訳『即興詩人』が最初期の『神曲』紹介であり、日本における『神曲』受容はここから始まったとも言える。日本におけるほぼすべての邦訳の題名が、より原題に近い『神聖喜劇』ではなく『神曲』の訳題で統一されているのは、鴎外による『神曲』の訳名が人口に膾炙したためであろう。

神曲』は、Inferno (地獄篇(インフェルノ)) ・ Purgatorio (煉獄篇(プルガトリオ)) ・ Paradiso (天国篇(パラディソ)) の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。

また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)の詩型が用いられている。各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc … と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式である。各歌の末尾のみ3+1行で、 …xyx yzy z という韻によって締めくくられる。したがって、各歌は3n+1行から成る。このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せている。ダンテはローマカトリックの神に関する教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した。すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡せることで「三位一体」を作品全体で体現したのである。

なお、地獄、煉獄、天国の各篇とも、最終歌の末節は stella (星)という言葉で結ばれている。

西暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、人生の半ばにして暗い森に迷い込んだダンテは、地獄に入った。作者であり主人公でもあるダンテは、私淑する詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐって地獄の底にまで降り、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。ウェルギリウスは、キリスト以前に生れたため、キリスト教の恩寵を受けることがなく、ホメロスら古代の大詩人とともに未洗礼者の置かれる辺獄(リンボ)にいたが、地獄に迷いこんだダンテの身を案じたベアトリーチェの頼みにより、ダンテの先導者としての役目を引き受けて辺獄を出たのである。

『神曲』において、地獄は漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される。かつて最も光輝はなはだしい天使であったルチフェロが神に叛逆し、地上に堕とされてできたのが地獄の大穴である。地球の対蹠点では、魔王が墜落した衝撃により、煉獄山が持ち上がったという。地獄はアリストテレスの『倫理学』でいう三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本としてそれぞれ更に細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて亡者が各圏に振り分けられている。地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなり、中ほどにあるディーテの市を境に地獄は比較的軽い罪と重罪の領域に分けられている。

『神曲』の地獄において最も重い罪とされる悪行は「裏切り」で、地獄の最下層コキュートス(嘆きの川)には裏切者が永遠に氷漬けとなっている。数ある罪の中で、「裏切」が特別に重い罪とされているのは、ダンテ自身がフィレンツェにおける政争の渦中で体験した、政治的不義に対する怒りが込められている。

地獄界は、まず「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と銘された地獄の門を抜けると、地獄の前庭とでも言うべきところに、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれている。その先にはアケローン川が流れており、冥府の渡し守カロンの舟で渡ることになっている。地獄界の階層構造は以下のようになっている
地獄の中心ジュデッカのさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルチフェロ(サタン)が氷の中に永遠に幽閉されている。魔王はかつて光輝はなはだしく最も美しい天使であったが、今は醜悪な三面の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋めていた。魔王は、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、カエサルを裏切ったブルートゥス、カッシウスの三人をそれぞれの口で噛み締めていた。

二人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達する。そこは煉獄山の麓であった。

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登録日:2007年 10月 26日 11:24:36

シロイルカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』シロイルカ(白海豚、Delphinapterus leucas)はクジラ目 ハクジラ亜目 イッカク科 シロイルカ属に属する小型のクジラである。主に北極および北極圏に棲息する。英名 (Beluga) を用いてベルーガと呼ばれることも多い。別の英名としては White Whale (「白いクジラ」の意)があり、日本語でも稀にシロクジラと呼ばれる。

シロイルカ属 (Delphinapterus) はイッカク科に属する属の一つで、シロイルカ1種のみが属する。属名 Delphinapterus はラテン語で「ひれがない」を意味する apterus に由来する。

シロイルカは全身ほぼ真っ白なクジラである。これは他の極圏の生物に見られるように、氷の多い海における保護色となっている。成長すると全長は5mに達し、ハクジラとしては小さい部類である。イルカとして見ると大きい。成熟したオスは約1.5tであるのに対し、メスは若干小さく、約1tである。産まれた直後の子供は、約1.5m・約80kgである。

背びれは「ひれ」というよりも若干盛り上がった「突起物」である。これは北極海という氷の多い海を泳ぐことに適応していると考えられている。

シロイルカの頭部の額に突き出しているメロンと呼ばれる脂肪組織は、他のハクジラ類のものよりも丸く柔らかい。多くのハクジラ類と同様、鼻腔の奥を振動させて生じた音波を、メロンと呼ばれる脂肪組織をレンズのように用いて収束させ、個体間のコミュニケーションとエコーロケーションに用いる。高音の笛のような音を発生するため、「海のカナリア」 (Sea Canary) とも呼ばれる。また、シロイルカのメロンは他のハクジラ類とは違い、形状を自分の意思で変えることができる。これは北極圏の氷の海に適応するためであろうと推察される。 横浜・八景島シーパラダイスでは、メロンを震わせながら歌う(音を発生する)「おでこぷるぷるシロイルカ」と称するシロイルカを観察することができる。

シロイルカの特徴の一つは、他のクジラやイルカとは異なり、頚椎が互いに不動状態に固定されておらず、そのため頭部を上下左右に振ることが可能なことである。この特性を利用して、水族館では人間におけるお辞儀様行動をさせることがある。野生状態では首を動かしながら、口から海底に水を吹き付けて掘り返し、底生動物を捕食していると言われている。効率良く水を吹き付けるように、口は単に開閉するだけでなく、ひょっとこのように突き出すことができる。島根県立しまね海洋館においては、アーリャ(雌)が口をすぼめて口腔内に溜めた空気を噴き出して空気の輪を作る様子を観察することが可能である[1]。

また他の鯨類には見られない特徴として胸鰭が年齢とともに上方へ反り返ることが上げられる。

オスは8年で、メスは5年でそれぞれ性成熟する。妊娠期間は15ヶ月間であり、生息域によって異なるが、春から夏の間(4月 - 8月)に、通常1頭を出産する。産まれた直後は全身が灰色であり、成長するとともに脱皮を繰り返し白くなっていき、オスは9歳、メスは7歳で真っ白になる。産まれた直後の子供が灰色であるのは、出産が行われる海域は河口近くなど水がにごりがちであり、保護色の意味があると言われる。育児期間は約2年である。寿命は約40年と考えられている。

シロイルカは北緯50度から80度の北極圏および亜北極圏の海域を回遊する。それとは別の孤立した集団が、カナダ・ケベック州のセントローレンス川河口からサグネ川あたりに棲息する。

春になるとシロイルカは、夏場の生息域であり、出産およびそれに続く子育てのための海域でもある湾、河口、浅い入り江などに移動する。これらの夏場の棲息域は互いに離れているが、母シロイルカは通常は毎年同じ場所に戻ってくる。

秋になり、夏場の生息域が氷に覆われ始めると、シロイルカは冬場の生息域への移動を開始する。多くのシロイルカは冬の間は、浮氷が成長する方向に従って南下していくが、浮氷からはあまり離れない。 一部のシロイルカは浮氷の海域に留まり、氷の隙間(ポリニヤなど)を探して、そこで呼吸する。氷の下に空気が閉じ込められることがあり、そこで呼吸することもあるだろう。シロイルカは、海面の95%以上が浮氷で覆われているような海域でも氷の隙間を探すことができる。非常に興味深い能力ではあるが、まだ詳しくはわかっていない。 シロイルカのもつ反響定位(エコーロケーション)の能力は、氷に覆われた北極圏の海域に適しており、反響定位によって氷の隙間を探しているとも考えられている[2]。

シロイルカは非常に社会的な動物であり、通常は同年代の同性で群を成して行動する。オスの場合、数百頭もの群を成すことがある。それに対し、仔連れのメスの群のサイズは少し小さい。 河口に集まる際には、群は数千頭に膨れ上がる。この時にはほとんど全てのシロイルカが集結しており、捕食者に対して最も無防備となる時期でもある。

シロイルカの泳ぎは遅い。 主に魚類を補食するが、泳ぎの遅さゆえにイカやタコなどの頭足類、カニやエビなどの甲殻類も捕食する。 餌は主に水深300mまでの範囲で捕るが、少なくとも倍の600m程度までは潜水することができる。

シロイルカはクリック音、キーキー音、口笛のような音、ベルのような音など、様々な音声を発する。ある研究者は、シロイルカの群の出す音を、オーケストラの弦楽器が演奏の前に調音している時の音に喩えている。先にシロイルカは「海のカナリア」と呼ばれることもあると述べたが、これはカナリアのように騒々しいからだと言われることもある。 50種類の明らかに異なる音声が記録されており、多くの音の周波数は100Hzから12kHzの範囲である。

シロイルカの主な捕食者はホッキョクグマである。特に、シロイルカが氷に取り囲まれた状況で、呼吸のために氷の隙間(ポリニヤ)から浮上する際が狙われやすい。ホッキョクグマは上肢でシロイルカを捕まえて、氷の上に引っ張り上げてから食う。 また、シャチにとってもシロイルカは捕食しやすいサイズである。

現時点でのシロイルカの全棲息数は、10万頭程度である。他のクジラ目の種と比較すると多いと言えなくはないが、それでも捕鯨が盛んになる以前と比べれば、非常に減少している。 生息域別では、ボフォート海に4万頭、ハドソン湾に2万5千頭、ベーリング海に1万8千頭、カナダの高緯度海域に2万8千頭がいる。セントローレンス川河口付近はわずか千頭程度である。

回遊のパターンが決まっており、かつ頭数も多かったため、シロイルカは北極圏の原住民にとっては昔から捕鯨の対象であった。多くの地域では、持続可能であると考えられている捕鯨の形態が今日まで続けられている。 しかしながら、クック湾、アンガヴァ湾、グリーンランドの西の沖などの海域においては、以前行われていた商業捕鯨(現在では禁止)によって生息数は危機的な状況にある。公式には認可されてはいないのだが、これらの地域においても伝統的な捕鯨が続けられているため、生息数が安定的に増加していくとは考え難い。これらの地域においては、持続可能な形態での捕鯨をめざして、イヌイットと政府との間での対話が求められている。 こういった理由によって、シロイルカはIUCNの絶滅危惧種に関するレッドリストにおいて「脆弱」 (VU : Vulnerable) に分類されている。

シロイルカは河口に集まるため、人間による河川汚濁が重大な悪影響を及ぼす。セントローレンス川の汚濁によって、シロイルカの癌が増加しているという報告がある。 この地域に生息するシロイルカは大量の毒物に汚染されているため、この地域ではシロイルカの死骸は有害な廃棄物として扱われている。長期的に見た場合、これらの汚染が生息数にどのように影響するかは明らかにされてはいない。


水族館に展示されるシロイルカ
(アメリカジョージア州の水族館)人間による間接的な擾乱も、シロイルカにとっては脅威となり得る。セントローレンス川やチャーチル川では、シロイルカウォッチング(ホエールウォッチング)がブームとなって大規模に実施されている。人間の小型船に無関心なシロイルカもいるが、中には船を避けて逃げようとする個体もいることが知られている。

また、シロイルカは、水族館で展示されたクジラとしては最初の種の一つである。1861年、ニューヨークのバーナム博物館 (en:Barnum's American Museum) で初めて展示された。シロイルカは今日でも北米、ヨーロッパ、日本などの水族館などで展示飼育が続けられている種の一つである。体の色だけではなく、頭部を上下左右に動かすなどして表情も豊かであるため、非常に人気がある。水族館で展示飼育されているシロイルカの多くは野生の個体を捕獲したものであるが、展示飼育下における繁殖も多くはないが成功している。

2004年7月17日、日本では初めてとなるシロイルカの赤ちゃんが名古屋港水族館で産まれた。母親は2001年4月18日にロシア連邦科学アカデミー附属の飼育施設から同水族館へと来た「No.3」、父親は「No.2」[3]である。子供は雄、個体ナンバーはNo.7であり、2005年3月13日に「ベル」という愛称がつけられた。シロイルカの出産は世界中の水族館で報告されているが、生後半年以上成長する例は稀である。名古屋港水族館は「ベル」の繁殖の成功により、2005年8月、(社)日本動物園水族館協会より繁殖賞を受賞している[4]。ジョージア水族館(Georgia Aquarium、ジョージア州アトランタ)
同水族館で展示飼育されている雌のマリーナ (Marina)、ナターシャ (Natasha)、マリス (Maris) の3頭はいずれも2005年11月に同国ニューヨーク州のニューヨーク水族館 (New York Aquarium) から来た個体であり、ニューヨーク水族館でのシロイルカの展示飼育は行われていない[6]。 バンクーバー水族館(Vancouver Aquarium、バンクーバー市)
同水族館ではカブナ(Kavna・33歳・雌)、イマク(Imaq・16歳・雄)、オーロラ(Aurora・17歳・雌)、キラ(Qila・10歳・雌・オーロラの子)の4頭が展示飼育されている(なお2005年7月に、当時3歳であったツバク(Tuvaq・3歳・雄・オーロラの子)が急死している)。また同水族館ウェブサイト内のベルーガカム(belugacam)というライブカメラにて、飼育されているシロイルカの観察が可能。現地時間の早朝(日本時間で22時 - )ごろが、最も活発に行動する時間帯のようである。

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登録日:2007年 10月 24日 11:00:52

メディア (媒体)

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メディアとは、情報の記録、伝達、保管などに用いられる物や装置のことである。媒体(ばいたい)、情報媒体などと訳されることもある。記録・保管のための媒体とコミュニケーションのための媒体とに大別することができるが、両者には重なりがある。

例えばCD、手紙、電話、テレビなどは音楽、文章、声や映像などの情報を伝達するのに用いられるが、この意味でメディアと呼ばれる。

メディアは、コミュニケーションの媒介項として存在していることが多い。情報がある人から別の人へ伝達される際には、その間に何らかのメディアが介在している場合が多い。

また、日常生活などの文脈では「マスコミ」の同義語として用いられることが多い。すなわち、不特定多数の受け手を対象に情報を発信するような新聞、テレビ、ラジオなどを指す。特に、報道の役割に注目している文脈で用いられることが多い。また、これらを特に「マスメディア」と呼ぶこともある。

CDや手紙のような様々な媒体一般を指してメディアと呼ぶ場合には、技術、あるいは媒体そのものに注目している場合が多いが、報道利用に注目している文脈では、そうしたメディアの運営主体である報道諸機関(新聞社、放送局)を指している場合もある。

非常に広義に捉える場合には、ある情報が、送り手から受け手に届くまでに経由する媒介項全てを指すことになる。それがどの程度広義であるかは、例えばテレビで、あるニュースキャスターが、ある事件についてのニュースを読み上げる様子を、ある視聴者が見ている場面について考えてみるとわかりやすいだろう。ニュース原稿としてキャスターの手に書かれている言葉は、視聴者に届くまでに、少なくとも次のような諸要素に媒介される。

放送局内
原稿を読むキャスターの視力や判断力
声や表情
空気の振動(音)や光の波長(色)
マイクロフォンやテレビカメラなど撮影機材
編集機材(副調整室の中)
撮影機材、編集機材を操作する各種スタッフ(カメラマン、ミキサーなど)
ケーブルや無線(通信衛星も含む)の通信
テレビ局(送信所)からの放送用電波
テレビ受像機
また、ここで、ニュース原稿自体がやはりメディアの一種であり、ニュース原稿の書き手、言葉などを媒介として報道の対象である「事件」を伝えているものである、と考えることもできる。また、実際に報道研究やメディア論などではそのような観点からジャーナリストの持つ価値観や言葉について注目することも多く見られる。

いわゆる生放送でない場合には記録、輸送、保管、再生などのプロセスがここに加わることになるが、これらも広義にはメディアの一種だということになる。これは、音楽作品がどのように少数の作り手によって制作され、多数の聴き手に届くか、ということを想定するとよりわかりやすい。

コミュニケーションのためのメディアはしばしば、幾つかの形態に分類される。幾つかの分類概念を概観することは、メディアの具体例や広がりを考える上で参考になるだろう。


[編集] マスメディア
特定少数の送り手が、何らかの情報を不特定多数の受け手に向けて伝達する際に用いられる。

マスメディアの典型的なイメージはテレビ、新聞、雑誌、ラジオ、などいわゆる報道に関わる諸機関だが、その他に、映画、音楽、出版業界をここに含めることが多い。

なお、これら個々の項目は、一般的に馴染みが深く、多用されている用語だが、実際には明快な細分類にはなっていない。テレビは映画や音楽を部分的に含み、ラジオも音楽と重なる部分がある。

本、レコード、コンパクトディスク、映画館など、他にも様々な物や施設をここに含めることができる。

マスメディアはしばしば情報の独占、表現の手段の独占、ツリー構造、ヒエラルキー構造などと結びつけて考えられ、否定的な評価を受けることも多い。

マスメディアに媒介された情報伝達を、1点を発信源とし多数の点を到達点とする構造になぞらえ、複数の送り手から複数の送り手へ情報が行き交うような仕組みを指して、「ネットワークメディア」と呼ぶことがある。

インターネットやパソコン通信はその代表的な形態である。ここに電話や郵便が加えられることもある。インターネットは様々な用途に用いられるため、電子掲示板や電子メールをネットワークメディアとし、不特定多数へ向けた情報発信であるウェブページについてはマスメディアに近いものと考える場合もある。

同様に、テレビ放送も、個々の番組ひとつひとつについては、少数の送り手から多数の受け手へという構図になっているが、チャンネル数の増加などによって、送り手が限定されている度合いが減っていると考える向きもある。地域によっては、地元自治体などの協力によって地元住民が番組を制作、放映できる体制になっているケーブル局もある。

但し、これらの通信を支える物理的な基盤、特にケーブルなどの通信網はしばしばツリー状の構造を持っており、その意味では多数の点の間にツリーと対比されるところのネットワーク状の構造があるわけではない。

ユーザの視点からは、テレビや出版は限られた作り手によって供給される情報を受け取るだけであるのに対して、インターネットや電話では情報の送り手がそれほど限定されていないことからこう呼ばれる。

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登録日:2007年 10月 23日 10:02:52

与話情浮名横櫛

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『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)は、歌舞伎世話物の名作の一つである。別名を『源氏店 切られ与三』(げんじだな きられよさ)。

一立斎文車(乾坤坊良斎とも)の講談が原作。木更津で起きた長唄の師匠芳村伊三郎の実際の事件を元にしたもので、瀬川如皐(三代目)が歌舞伎に仕立て、嘉永六年(1853年)江戸中村座初演。 元来は九幕の長編だが、現在では前半部の「見染め」「源氏店」が演じられる事が多い。初演時は八代目市川団十郎の与三郎が好評であった。元来お坊ちゃんの与三郎が色恋沙汰でチンピラに転落する。いきがってつっぱてみても、どこか甘さとひ弱さが同居する。そんな複雑な役には団十郎がぴったりで、作者如皐による名プロデユースのお蔭であった。20世紀始めに、「源氏店」が十五代目市村羽左衛門の与三郎、六代目尾上梅幸のお富、四代目尾上松助の蝙蝠安によってくり返し演じられて人気を呼んだ。戦後は十一代目市川団十郎の与三郎・七代目尾上梅幸のお富、現在は十五代目片岡仁左衛門の与三郎・五代目坂東玉三郎のお富というように歴代の美男美女コンビに継承されている。   後半部は、和泉屋の与三郎の強請り。野陣ガ原での与三郎の捕縛、続いて「嶋の為朝」という所作事が入り、与三郎の遠島が暗示される。島を抜けた与三郎が下男の忠助のはからいで縁を切った生みの親に出会う情感豊かな「伊豆屋店先の場」。平塚の土手で与三郎が赤間と再会する世話だんまりのあと、大詰は旧知の観音久次の自己犠牲で与三郎の傷跡が消える「観音久次内の場」となるが、「伊豆屋店先」以外はあまりよい出来でなく、今日ではほとんど上演されない。ただし作者には続きの構想案があった模様である。

江戸の大店の若旦那であった与三郎は、木更津でお富に出会い、一目惚れする(「木更津海岸見染」)。ところがお富は赤間源左衛門の妾であった。情事は露見し、与三郎は赤間源左衛門の手下にめった斬りにされ海に投げ捨てられ、それを見て逃げ出したお富は子分の海松杭の松に追われ入水を図る。

ところが、なんと二人とも命をとりとめ、お富は和泉屋の大番頭多左衛門の妾宅(鎌倉の源氏店(げんじだな))に引き取られ、与三郎は実家を勘当され無頼漢となり、34箇所の刃傷の痕を売りものにした「切られ与三」として悪名を馳せることとなる。

ある日与三郎はごろつきの蝙蝠安とともにお富の妾宅に強請りに来る。片時もお富を忘れることのできなかった与三郎はお富を見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うと、なんとも肚が収まらない。恨みと恋路を並べ立てる名台詞があり、やがて多左衛門のとりなしで二人は金をもらって引き上げる(「源氏店」)。その場を切り抜けるためお富は与三郎を兄だと言い繕ったのだったが、実は多左衛門こそお富の兄であり、多左衛門は全てを承知の上で二人の仲をとりもとうとしていたのである。


与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:おぬしぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から めぐる月日も三年(みとせ)越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の 谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
    面(つら)に受けたる看板の 疵がもっけの幸いに 切られ与三と異名をとり
    押借(おしが)り強請やぁ習おうより 慣れた時代(じでえ)の源氏店
    そのしらばけか黒塀(くろべえ)の 格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁ おぬしぁ 達者でいたなぁ
    安やい これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ 帰(けぇ)られめぇじゃねぇか
『切られお富』 - 与三郎ではなくお富が切られ、再会した愛人与三郎のため赤間源左衛門に強請りを働く。のち、お富と与三郎は小さいころに生き別れた兄妹であることが分かり、それと知らず関係を持った罪悪に二人は自害して果てる。河竹黙阿弥が名女形三代目沢村田之助のために書いた。幕末の頽廃味が漂い、書替え狂言=パロディにもかかわらず、内容、構成ともに「切られ与三」をしのぐ名作。「田圃の太夫」と呼ばれた四代目沢村源之助や、前進座の五代目河原崎国太郎の当たり役でもあった。本名題「処女翫浮名横櫛」
『縮屋新助』ー本作の後日談として、河竹黙阿弥が四代目市川小團次のために書いた。江戸に出てきた赤間が、お富に瓜二つの芸者おりよに横恋慕したことから、越後の商人新助が悲劇に巻きこまれる筋。本名題「八幡祭小望月賑」。初代中村吉右衛門の新助、六代目中村歌右衛門のおみよが印象に残る。
『与三郎』ー小山内薫作の戯曲。本作の「伊豆屋」を元に近代的な解釈をほどこした。
『お富さん』 - 春日八郎の歌で1954年に大ヒットした歌謡曲(作詞: 山崎正、作曲: 渡久地正信)。歌舞伎の台詞を大量に取り入れている。ピョンコ節の軽快なメロディーは小学生にまで流行り、「粋な黒塀」、「見越の松」、「他人の花」といったあだっぽい名詞句を何も知らない子供までもが盛んに歌ったものである。この歌詞のなかでは「切られの与三(よさ)」、「玄冶店(げんやだな)」である。この曲のヒットに対抗しようとしたビクターは後に『青砥稿花紅彩画』を題材にした『弁天小僧』(歌:三浦浩一)をリリースした。

不倫
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登録日:2007年 10月 20日 10:40:41

白い巨塔

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『白い巨塔』(しろいきょとう)は、山崎豊子の長編小説。1963年9月15日号から1965年6月13日号まで、『サンデー毎日』に連載。当初、第一審までで完結の予定であったが、読者からの予想外に大きい反響のため、1967年7月23日号から1968年6月9日号にかけて「続・白い巨塔」を『サンデー毎日』に連載。正編は1965年7月、続編は1969年11月にそれぞれ新潮社から単行本として刊行された。

浪速大学に勤務する財前五郎と里見脩二という対照的な人物を通し、医局制度などの医学界の腐敗を鋭く追及した社会派小説。特に傑作と名高く、1966年の映画化以来、何度も映像化されている。

映像化作品などについては映像化作品セクションとラジオドラマ作品セクションを見よ。

なお、文庫版あとがきによれば、山崎はこの作品を書いた理由を「大学病院の医局は重厚な人間ドラマの場にふさわしいから」と述べている。

食道噴門癌の手術を得意とする国立浪速大学第一外科助教授・財前五郎は、次期教授を狙う野心に燃える男。一方、財前の同窓である第一内科助教授・里見脩二は患者を第一に考える研究一筋の男。

食道噴門癌の若き権威として高い知名度を誇る財前の許には、全国から患者が集まってくる。その多くは、著名な有力者やその紹介の特診患者。その卓越した技量と実績に裏打ちされた自信と、野心家であくが強い性格の持ち主である財前を快く思わない第一外科教授・東貞蔵は何かにつけて苦言を呈する。財前は次期教授の座を得るために、表面上は上手に受け流すも馬耳東風。次第に東は他大学からの教授移入を画策し始める。後輩でもある母校の東都大学教授・船尾にしかるべき後任者の紹介を依頼、寡黙な学究肌の心臓外科医、金沢大学教授・菊川を推薦される。菊川が大人しい性格である上に独身であることに目をつけ、東は自身の引退後の第一外科における影響力の確保をもくろむ。また、普段から一匹狼の気があり、財前を嫌う整形外科教授・野坂は、皮膚科教授・乾や小児科教授・河合と共に、第三派閥の代表となるべく独自の候補者として財前の前任助教授であった徳島大学教授・葛西を擁立。それらに対し、財前は産婦人科医院を開業している義父・又一の財力と人脈をバックに、ツーカーの間柄にある医師会長・岩田重吉を通して岩田の同級生である浪速大学医学部長・鵜飼を篭絡。鵜飼派の地固めを狙う鵜飼もこれを引き受け、腹心の産婦人科教授・葉山を通して画策に入る。一方で財前は医局長の佃を抱きこみ、医局内工作に乗り出す。

教授選考委員会では書類審査の結果、候補者は財前・菊川・葛西に絞られる。その後は派閥間の駆け引きや札束が乱れ飛ぶなど、与党の総裁選のような熾烈な選挙戦が展開される。投票当日、開票の結果は財前12票と菊川11票で両者とも過半数を占めることができず、という異例の決選投票にもつれ込んだ。鵜飼は、白熱する教授戦を憂慮した大河内の「即時決選投票実施」提案を強引に退け、投票期日を1週間後に延ばす。その間、野坂の握る7票(葛西の得票数)をめぐり、実弾攻撃主体の財前派とポスト割り振り主体の東派が水面下で激しい攻防戦を繰り広げる。菊川のもとに佃を行かせ立候補を辞退せよと強要したり、大河内にまで賄賂を送ったりするなどなりふり構わぬ財前派。それらの行為への反省の色も無い財前に、東は「決選投票はまだだが、君との人間関係はどうやらこれで終わったようだ」と通告。大河内は財前派の実弾攻撃を激しく憤り、教授会の席上で暴露するが、決選投票で財前は菊川に2票差で競り勝ち、第一外科次期教授の椅子に就くこととなる。勝利に沸く鵜飼派。東は失意のまま定年退官を迎え、近畿労災病院の院長に就任した。

教授に就任した直後、財前はドイツ外科学会から特別講演に招聘され、得意の絶頂に。そんな最中、里見から相談された胃癌の患者・佐々木庸平の検査、手術を担当するが、保険扱いの患者で中小企業の社長であることから高圧的で不誠実な診療態度に終始。胸部レントゲン写真に映った陰影を癌の転移巣ではなく結核の瘢痕と判断、多忙を理由に受持医の柳原や里見の進言を無視して術前の断層撮影検査を怠り手術。術後に容態が急変しても、癌性肋膜炎を術後肺炎と誤診し、受持医の柳原弘に抗生物質「クロラムフェニコール」の投与を指示したのみで、一度も診察せぬままドイツに出発。しかし、その後佐々木は呼吸困難を起こし、手術後21日目に死亡する。里見の説得で遺族は病理解剖に同意し、大河内が行った病理解剖の結果、死因は術後肺炎ではなく癌性肋膜炎であったと判明する。遺族は診療中の財前の不誠実な態度に加え、一家の大黒柱を失ったことにより民事訴訟提訴を決意する。里見はそのことを財前に知らせるべく欧州に何度も電報を打つが、財前は無視する。

ドイツにおける外科学会での特別講演、ミュンヘン大学における供覧手術など国際的な外科医として華々しくデビューし、栄光の絶頂を味わって帰国した財前を羽田空港で待っていたのは、「財前教授訴えらる」という見出しで始まる毎朝新聞のゲラ刷りだった。失意のまま密かに帰阪した財前は鵜飼宅に直行。鵜飼は激昂。一時は見限られかけるが、巧みに説得して関係を修復し、法律面では老練な弁護士・河野に代理人を依頼。受持医・柳原や渡独中の医長代理であった助教授・金井など病院関係者への工作に加えて、医学界の権威に鑑定人を依頼する。一方の遺族側も正義感あふれる関口弁護士に依頼。里見、東の助力で鑑定人を立てる。裁判では、「外科手術に踏み切った根拠に必要の度合を超えるものがあったかどうかが問題。仮に術前検査を怠った結果患者が死に至ったのであれば臨床医として軽率だったといわざるを得ない」という大河内の厳正な病理解剖鑑定や里見の証言などにより被告側(財前)はピンチに陥るが、鵜飼医学部長の内意を受けた洛北大学名誉教授・唐木の鑑定、受持医の柳原の偽証(裁判所には全面的に採用されなかったが)もあって第一審で勝訴。判決文によれば、財前の道義的な責任を認めながらも、極めて高次元なケースで法的責任は問えないという理由であった。一方、原告側の証人として真実を証言した里見は山陰大学教授へ転任という鵜飼の報復人事を蹴り、浪速大学を去る決意を固める。

敗訴した遺族は捨て身の控訴に出る。里見は、世論を恐れた鵜飼が辞表を受理せず中途半端な立場においた為に日々悶々としていたが、半年の後、恩師大河内の計らいで近畿がんセンター第一診断部に職を得る。一方の財前は特診患者の診療に忙しい日々を送っていた。ある日、医局で抄読会を開いていた財前の元に、鵜飼から学術会議会員選挙出馬の誘いが来る。これは内科学会の新進気鋭である洛北大学教授・神納が学術会議戦に立候補するためで、これを財前を利用して叩き、体面を失わせることで学会における自分の地位を確保しようというのが狙いであった。財前は結局それを引き受け、裁判・選挙の双方に勝利しようと野望を覗かせた。

控訴審に備え、財前は最重要証人の柳原に市内の老舗・野田薬局の令嬢との縁談(今で言う逆玉)や学位をえさに工作。しかし、柳原は一審の判決以来、良心の呵責に苦しんでいた。また、原告側弁護人や里見たちの努力により、控訴審は予断を許さない状況になりつつある。原告側は里見の助言で胸部検査の重要性や化学療法などの新たな展開が生まれたのだ。

佐々木庸平の遺族は裁判途中に大手元売による「真珠湾攻撃(強引な債権回収手段のひとつ。相手の油断している日曜の早朝などを狙って押しかけ、納入した品物を回収すること)」もあって経営に行き詰まり、遂に倒産の憂き目に会う。一家はそれでも、「せめて裁判で勝訴するまでは商売を続けたい」という執念により船場の一角にある共同販売所に入って細々と商売を続けることになる。

選挙、裁判のためか体調の優れない財前だったが、疲労の蓄積だろうと多忙の日々に没頭するあまり、癌の早期発見の機会を逸してしまった。そんなある日、上本町駅で偶然里見は財前に出会い、「学術会議選など学者にとって何のプラスにもならない。君は疲れ過ぎている」と助言をするが、財前は一蹴。

選挙は野坂による票の横流しなどで窮地に立つが、得意の裏取引や、第三の候補者を引き下ろすなどの強引な運動もあって勝利する。しかし、裁判は大詰めの当事者尋問の時に、関口の鋭い尋問で窮地にたった財前は柳原に責任転嫁。
「嘘だ!」
柳原は将来のポストも縁談も捨て傍聴席に走り出て、遂に真実を証言する。さらに、舞鶴に飛ばされた抄読会元記録係・江川が、決定的な証拠となる記録を持ち出した。浪速大学に辞表を出した柳原は過去の偽証を悔い、残りの人生を何か人のために尽くしたいと、高知の無医村に去る。

結果、裁判の判決は財前側の敗訴だった。「最高裁に上告する」と息巻いた財前は、その直後に突然倒れ込む・・・

翌日、最高裁へ上告したすぐ後に、極秘で金井助教授が行った透視では胃角部に進行癌が発見され、鵜飼の指示により金井は胃潰瘍だと財前に伝えた。
しかし胃潰瘍との診断に納得しない財前はひそかに里見を訪問。内視鏡検査を受ける。癌であることを隠して一刻も早い手術を勧める里見に、財前は「本当は東に執刀して欲しい」と漏らす。口添えを依頼された里見は東を説得、東も過去の因縁を忘れて財前を救おうとする。だが、東による手術が行われた際、財前の胃癌は肝実質に転移しており、もはや手遅れの状態であった事が判明した。

東は体力を温存すべくそのまま縫合。何とか救いたいという里見の熱意により、5-FUによる化学療法が術後1週間目から受持医となった金井助教授により開始される。最初は奏功して食欲不振が改善されたが、術後3週間目に入って副作用である下痢が起こったため金井は投与を中止。その上、ついに黄疸が出てしまい、財前は金井を問い詰めるが納得が行く回答を得られない。疑問に思う財前は、どうしても真相を知るべく里見の来訪を請う。

里見が訪ねてきたとき、財前は「癌の専門医が自分の病状の真実を知らないでいるのはあまりにも酷だ」と真実を告げることを懇願、里見も財前が真実を知ったことを悟る。翌日から財前の病状は急変し、術後1ヶ月目に遂に肝性昏睡に陥る。うわ言の中で、自分の一生を振り返り、患者を死なせたことを悔いつつも、最高裁への上告理由書と大河内教授への自らの病理解剖所見書を残して財前は最期を遂げる。当時、胃癌は癌の死亡原因第1位だった。

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『白い巨塔』(しろいきょとう)は、山崎豊子の長編小説。1963年9月15日号から1965年6月13日号まで、『サンデー毎日』に連載。当初、第一審までで完結の予定であったが、読者からの予想外に大きい反響のため、1967年7月23日号から1968年6月9日号にかけて「続・白い巨塔」を『サンデー毎日』に連載。正編は1965年7月、続編は1969年11月にそれぞれ新潮社から単行本として刊行された。

浪速大学に勤務する財前五郎と里見脩二という対照的な人物を通し、医局制度などの医学界の腐敗を鋭く追及した社会派小説。特に傑作と名高く、1966年の映画化以来、何度も映像化されている。

映像化作品などについては映像化作品セクションとラジオドラマ作品セクションを見よ。

なお、文庫版あとがきによれば、山崎はこの作品を書いた理由を「大学病院の医局は重厚な人間ドラマの場にふさわしいから」と述べている。

食道噴門癌の手術を得意とする国立浪速大学第一外科助教授・財前五郎は、次期教授を狙う野心に燃える男。一方、財前の同窓である第一内科助教授・里見脩二は患者を第一に考える研究一筋の男。

食道噴門癌の若き権威として高い知名度を誇る財前の許には、全国から患者が集まってくる。その多くは、著名な有力者やその紹介の特診患者。その卓越した技量と実績に裏打ちされた自信と、野心家であくが強い性格の持ち主である財前を快く思わない第一外科教授・東貞蔵は何かにつけて苦言を呈する。財前は次期教授の座を得るために、表面上は上手に受け流すも馬耳東風。次第に東は他大学からの教授移入を画策し始める。後輩でもある母校の東都大学教授・船尾にしかるべき後任者の紹介を依頼、寡黙な学究肌の心臓外科医、金沢大学教授・菊川を推薦される。菊川が大人しい性格である上に独身であることに目をつけ、東は自身の引退後の第一外科における影響力の確保をもくろむ。また、普段から一匹狼の気があり、財前を嫌う整形外科教授・野坂は、皮膚科教授・乾や小児科教授・河合と共に、第三派閥の代表となるべく独自の候補者として財前の前任助教授であった徳島大学教授・葛西を擁立。それらに対し、財前は産婦人科医院を開業している義父・又一の財力と人脈をバックに、ツーカーの間柄にある医師会長・岩田重吉を通して岩田の同級生である浪速大学医学部長・鵜飼を篭絡。鵜飼派の地固めを狙う鵜飼もこれを引き受け、腹心の産婦人科教授・葉山を通して画策に入る。一方で財前は医局長の佃を抱きこみ、医局内工作に乗り出す。

教授選考委員会では書類審査の結果、候補者は財前・菊川・葛西に絞られる。その後は派閥間の駆け引きや札束が乱れ飛ぶなど、与党の総裁選のような熾烈な選挙戦が展開される。投票当日、開票の結果は財前12票と菊川11票で両者とも過半数を占めることができず、という異例の決選投票にもつれ込んだ。鵜飼は、白熱する教授戦を憂慮した大河内の「即時決選投票実施」提案を強引に退け、投票期日を1週間後に延ばす。その間、野坂の握る7票(葛西の得票数)をめぐり、実弾攻撃主体の財前派とポスト割り振り主体の東派が水面下で激しい攻防戦を繰り広げる。菊川のもとに佃を行かせ立候補を辞退せよと強要したり、大河内にまで賄賂を送ったりするなどなりふり構わぬ財前派。それらの行為への反省の色も無い財前に、東は「決選投票はまだだが、君との人間関係はどうやらこれで終わったようだ」と通告。大河内は財前派の実弾攻撃を激しく憤り、教授会の席上で暴露するが、決選投票で財前は菊川に2票差で競り勝ち、第一外科次期教授の椅子に就くこととなる。勝利に沸く鵜飼派。東は失意のまま定年退官を迎え、近畿労災病院の院長に就任した。

教授に就任した直後、財前はドイツ外科学会から特別講演に招聘され、得意の絶頂に。そんな最中、里見から相談された胃癌の患者・佐々木庸平の検査、手術を担当するが、保険扱いの患者で中小企業の社長であることから高圧的で不誠実な診療態度に終始。胸部レントゲン写真に映った陰影を癌の転移巣ではなく結核の瘢痕と判断、多忙を理由に受持医の柳原や里見の進言を無視して術前の断層撮影検査を怠り手術。術後に容態が急変しても、癌性肋膜炎を術後肺炎と誤診し、受持医の柳原弘に抗生物質「クロラムフェニコール」の投与を指示したのみで、一度も診察せぬままドイツに出発。しかし、その後佐々木は呼吸困難を起こし、手術後21日目に死亡する。里見の説得で遺族は病理解剖に同意し、大河内が行った病理解剖の結果、死因は術後肺炎ではなく癌性肋膜炎であったと判明する。遺族は診療中の財前の不誠実な態度に加え、一家の大黒柱を失ったことにより民事訴訟提訴を決意する。里見はそのことを財前に知らせるべく欧州に何度も電報を打つが、財前は無視する。

ドイツにおける外科学会での特別講演、ミュンヘン大学における供覧手術など国際的な外科医として華々しくデビューし、栄光の絶頂を味わって帰国した財前を羽田空港で待っていたのは、「財前教授訴えらる」という見出しで始まる毎朝新聞のゲラ刷りだった。失意のまま密かに帰阪した財前は鵜飼宅に直行。鵜飼は激昂。一時は見限られかけるが、巧みに説得して関係を修復し、法律面では老練な弁護士・河野に代理人を依頼。受持医・柳原や渡独中の医長代理であった助教授・金井など病院関係者への工作に加えて、医学界の権威に鑑定人を依頼する。一方の遺族側も正義感あふれる関口弁護士に依頼。里見、東の助力で鑑定人を立てる。裁判では、「外科手術に踏み切った根拠に必要の度合を超えるものがあったかどうかが問題。仮に術前検査を怠った結果患者が死に至ったのであれば臨床医として軽率だったといわざるを得ない」という大河内の厳正な病理解剖鑑定や里見の証言などにより被告側(財前)はピンチに陥るが、鵜飼医学部長の内意を受けた洛北大学名誉教授・唐木の鑑定、受持医の柳原の偽証(裁判所には全面的に採用されなかったが)もあって第一審で勝訴。判決文によれば、財前の道義的な責任を認めながらも、極めて高次元なケースで法的責任は問えないという理由であった。一方、原告側の証人として真実を証言した里見は山陰大学教授へ転任という鵜飼の報復人事を蹴り、浪速大学を去る決意を固める。

敗訴した遺族は捨て身の控訴に出る。里見は、世論を恐れた鵜飼が辞表を受理せず中途半端な立場においた為に日々悶々としていたが、半年の後、恩師大河内の計らいで近畿がんセンター第一診断部に職を得る。一方の財前は特診患者の診療に忙しい日々を送っていた。ある日、医局で抄読会を開いていた財前の元に、鵜飼から学術会議会員選挙出馬の誘いが来る。これは内科学会の新進気鋭である洛北大学教授・神納が学術会議戦に立候補するためで、これを財前を利用して叩き、体面を失わせることで学会における自分の地位を確保しようというのが狙いであった。財前は結局それを引き受け、裁判・選挙の双方に勝利しようと野望を覗かせた。

控訴審に備え、財前は最重要証人の柳原に市内の老舗・野田薬局の令嬢との縁談(今で言う逆玉)や学位をえさに工作。しかし、柳原は一審の判決以来、良心の呵責に苦しんでいた。また、原告側弁護人や里見たちの努力により、控訴審は予断を許さない状況になりつつある。原告側は里見の助言で胸部検査の重要性や化学療法などの新たな展開が生まれたのだ。

佐々木庸平の遺族は裁判途中に大手元売による「真珠湾攻撃(強引な債権回収手段のひとつ。相手の油断している日曜の早朝などを狙って押しかけ、納入した品物を回収すること)」もあって経営に行き詰まり、遂に倒産の憂き目に会う。一家はそれでも、「せめて裁判で勝訴するまでは商売を続けたい」という執念により船場の一角にある共同販売所に入って細々と商売を続けることになる。

選挙、裁判のためか体調の優れない財前だったが、疲労の蓄積だろうと多忙の日々に没頭するあまり、癌の早期発見の機会を逸してしまった。そんなある日、上本町駅で偶然里見は財前に出会い、「学術会議選など学者にとって何のプラスにもならない。君は疲れ過ぎている」と助言をするが、財前は一蹴。

選挙は野坂による票の横流しなどで窮地に立つが、得意の裏取引や、第三の候補者を引き下ろすなどの強引な運動もあって勝利する。しかし、裁判は大詰めの当事者尋問の時に、関口の鋭い尋問で窮地にたった財前は柳原に責任転嫁。
「嘘だ!」
柳原は将来のポストも縁談も捨て傍聴席に走り出て、遂に真実を証言する。さらに、舞鶴に飛ばされた抄読会元記録係・江川が、決定的な証拠となる記録を持ち出した。浪速大学に辞表を出した柳原は過去の偽証を悔い、残りの人生を何か人のために尽くしたいと、高知の無医村に去る。

結果、裁判の判決は財前側の敗訴だった。「最高裁に上告する」と息巻いた財前は、その直後に突然倒れ込む・・・

翌日、最高裁へ上告したすぐ後に、極秘で金井助教授が行った透視では胃角部に進行癌が発見され、鵜飼の指示により金井は胃潰瘍だと財前に伝えた。
しかし胃潰瘍との診断に納得しない財前はひそかに里見を訪問。内視鏡検査を受ける。癌であることを隠して一刻も早い手術を勧める里見に、財前は「本当は東に執刀して欲しい」と漏らす。口添えを依頼された里見は東を説得、東も過去の因縁を忘れて財前を救おうとする。だが、東による手術が行われた際、財前の胃癌は肝実質に転移しており、もはや手遅れの状態であった事が判明した。

東は体力を温存すべくそのまま縫合。何とか救いたいという里見の熱意により、5-FUによる化学療法が術後1週間目から受持医となった金井助教授により開始される。最初は奏功して食欲不振が改善されたが、術後3週間目に入って副作用である下痢が起こったため金井は投与を中止。その上、ついに黄疸が出てしまい、財前は金井を問い詰めるが納得が行く回答を得られない。疑問に思う財前は、どうしても真相を知るべく里見の来訪を請う。

里見が訪ねてきたとき、財前は「癌の専門医が自分の病状の真実を知らないでいるのはあまりにも酷だ」と真実を告げることを懇願、里見も財前が真実を知ったことを悟る。翌日から財前の病状は急変し、術後1ヶ月目に遂に肝性昏睡に陥る。うわ言の中で、自分の一生を振り返り、患者を死なせたことを悔いつつも、最高裁への上告理由書と大河内教授への自らの病理解剖所見書を残して財前は最期を遂げる。当時、胃癌は癌の死亡原因第1位だった。

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田宮二郎との出会い

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田宮 二郎(たみや じろう、1935年8月25日 - 1978年12月28日)は、俳優。 本名、柴田吾郎(しばた ごろう)。大阪府大阪市北区出身。生後4日で父を失ったため幼少の頃は親族に育てられる。 京都府立鴨沂高等学校、学習院大学政経学部経済学科卒。妻は元大映女優の藤由紀子(『黒の超特急』『黒の暴走』などで共演したのをきっかけに1965年に結婚。二男をもうける。) 長男は俳優・テレビレポーターの柴田光太郎(本名、柴田英光)。次男は俳優の田宮五郎(本名、柴田英晃)。

大学在学中の1955年、スポーツニッポン社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で優勝したのがきっかけで、大映演技研究所10期生として入社。1957年に本名の「柴田吾郎」でデビュー。1959年、大映の永田雅一社長がオーナーを兼務する大毎オリオンズの強打者・田宮謙次郎にあやかりたいという永田の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名。長らく端役が多かったが、1961年に『女の勲章』(吉村公三郎監督、山崎豊子原作)の演技で注目を集めた。同年秋に勝新太郎と共演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作)にて勝の相棒「モートルの貞」役に抜擢され好評となり、人気スターの仲間入りを果たす。「モートルの貞」は『続悪名』(田中徳三監督、今東光原作)で絶命するが、その後シリーズ化が決定、田宮は3作目から貞の弟「清次」を演じ「勝-田宮」コンビが復活、長きにわたる人気シリーズとなった。二枚目のルックス、身長180cmでスリムでありながら筋肉質であることに加え、甘い二枚目から冷酷なエリート、ユーモラスな拳銃使い、ヤクザ、欲望のためなら手段を選ばない悪役までもこなす演技力から犬シリーズ、黒シリーズ等にも主演、大映の看板俳優として大活躍した。また若尾文子の相手役として名画を多く残した。1966年、映画『白い巨塔』(山本薩夫監督、山崎豊子原作、大映作品)で財前五郎役を演じたことで、その名声は決定的なものになり、「昭和のクールガイ」と呼ばれた。同じ大映に所属していたビッグスター市川雷蔵とは、一度も共演していない。理由は永田社長の方針によるものといわれている。1968年、映画『不信のとき』(今井正監督、有吉佐和子原作、大映作品)の宣伝ポスターで、出演者名の序列が4番目として発表された。主役である自分がトップだと思っていた田宮は強く会社側(=大映)に抗議した(当初の序列は、1.若尾文子、2.岡田茉莉子、3.加賀まりこ。特に加賀は年下でありキャリアも後輩だった上、当時、他社の松竹専属女優だった)。結果的に、ポスターの序列は希望通り田宮がトップとなったが、永田社長はこれに激怒し、田宮を一方的に解雇してしまう。さらに五社協定を持ち出し、他社にも田宮を使わないように通達した。

映画界から完全に干されてしまった田宮は、家族を養うために舞台俳優・司会者・歌手として活動し、キャバレーまわりなどの地方巡業もしていた。この期間、1969年1月9日にNETテレビ(現在のテレビ朝日)系列で放送が始まった『クイズタイムショック』の初代司会者を務め、高視聴率により長寿番組となった。同年、東京12チャンネルの音楽番組『田宮二郎ショー』の司会も務めた。映画俳優としての仕事ができず、このようなテレビの仕事をすることは、この時代は映画人にとって不本意とされていたが、テレビの家庭普及率もほぼ100%近くとなり、他の映画俳優たちのテレビへの出演も珍しくなくなる時期でもあり、田宮の司会姿は視聴者たちの記憶に長く残る結果となり、田宮の名声を保つことにつながった。

1969年6月で大映との契約が切れたことにより映画界へもカムバック。苦境を乗り越えたことで自信を付けた田宮は、永田社長に啖呵を切るまでになっていた。しかし、1971年に夫人を社長に据え自ら立ち上げた会社「田宮企画」で『3000キロの罠』を製作・主演をしたがヒット作とはならなかった。 一方の大映は1971年に倒産。それをきっかけに既に斜陽であった映画の観客動員数はさらに大きく落ち込み、今に続くテレビ時代となる。

1972年にはTBS系ドラマ『知らない同志』でテレビドラマへ本格進出。その後も『白い影』『白い滑走路』などの「白いシリーズ」や、山田太一脚本『高原へいらっしゃい』などの話題のドラマに主演して、立て続けにヒットを飛ばし、テレビドラマ界でも花形スターの座を獲得。その頃になると、自身を「日本のハワード・ヒューズになる」と公言しはじめ、ビジネスに強い興味を持ち、政財界とも接触を持つようになって、ゴルフ場やマンションの経営を行ったが失敗。1977年には日英合作映画『イエロー・ドッグ』(松竹)の製作・主演も行ったが不入りに終わり、多額の借金を抱えてしまう。そして次第に精神を病み、同年3月には精神科医の斎藤茂太から躁鬱病と診断されて治療を始めたが、その成果は思わしくなかった。 また、付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、 ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れたりするのを嫌がるなど、髪について悩んでいたという


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