2007年 11月

マクロライド系抗生物質

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マクロライド系抗生物質(マクロライドけい こうせいぶっしつ、以下マクロライド)は、主に抗生物質として用いられる一群の薬物の総称。

比較的副作用が少なく、抗菌スペクトルも広い、大変使いやすい抗生物質である。ことにリケッチア、クラミジアなどの細胞内寄生菌や、マイコプラズマに対しては第一選択薬となる。小児から老人まで良く処方される頻用薬の一つであるが、一方ではその使いやすさが一因となってマクロライド耐性を示す微生物が増加しており、医療上の問題になっている。 また、他の薬物との薬物相互作用が問題となる場合もある。

マクロライドの活性は化学構造上のマクロライド環に由来する。これは大分子量のラクトン環で、1つまたはそれ以上のデオキシ糖(通常はクラジノースかデソサミン)が結合されている。このラクトン環は、14員環、15員環、ないし16員環でありうる。

最初に実用化されたマクロライドはエリスロマイシンである。イーライリリー社のマクガイア (J. M. McGuire) らによって、フィリピンの土壌中から分離された放線菌の一種、Saccharopolyspora erythraea(旧名Streptomyces erythraeus)から分離された。1952年にはアメリカ合衆国で、Ilosoneという商品名で発売された。

マクロライドの作用機序は、真正細菌のリボゾームの50Sサブユニットという部分に結合することによって、細菌のタンパク合成を阻害することによる。この時、ペプチジルtRNA(アミノ酸のキャリアーになっている、アミノ酸の貼り付けられたtRNAのこと)の転位が阻害される。

人間が含まれる真核生物ドメインのリボゾームは、真正細菌ドメインのリボゾームとは構造が異なっているので、人間のタンパク合成は阻害されない(なお、古細菌ドメインのリボソームも阻害されない)。同様の、リボゾームの構造の違いを利用した選択毒性を用いている抗生物質にはクロラムフェニコール、テトラサイクリン系、アミノグリコシド系がある。ただし細かな結合部位と作用機序は異なる。

微生物学的には、この作用機序は主に静菌的、つまり、あくまでも増殖の抑制作用であり、菌の殺滅は宿主の免疫に依存しているが、高濃度では殺菌的にも働きうる。少なくとも古典的には、マクロライドのような静菌的な抗生物質を、心内膜炎や化膿性髄膜炎のような重症感染症に用いるのは慎重であるべきである。もっとも、この区別は基礎医学で強調されているほど重要ではない、とする識者の意見も存在する[要出典]。

つまり、静菌的・殺菌的という区別が、臨床的ないわゆる「切れ味(効き)」と必ずしも相関しないことには注意する必要がある。「切れ味」というあいまい、かつ直感的な語の示す内容については、耐性菌の頻度や病変部への移行性、抗菌スペクトラム、最小発育阻止濃度 (MIC) などのさまざまな要素が複雑に関わってくるが、概してマクロライドは、臨床的な切れ味も、あまり良い薬ではない。

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登録日:2007年 11月 27日 12:10:39

姫路城

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姫路城姫路城
(兵庫県)

姫路城天守。南西方面(西の丸)より
通称 白鷺城

城郭構造 梯郭式平山城

天守構造 連立式望楼型5重6階

築城主 赤松貞範

築城年 1346年

主な改修者 黒田孝高,池田輝政

主な城主 池田氏,本多氏,酒井氏

廃城年 1871年

遺構 現存天守・櫓・門・塀
石垣、堀、土塁、庭園

位置 北緯34度50分21.76秒
東経134度41分38.75秒

姫路城(ひめじじょう、Himeji Castle,Himeji-jo)は、兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にある城。世界遺産・国の特別史跡。白漆喰の城壁の美しさから白鷺城(はくろじょう)とも呼ばれる(「しらさぎじょう」は誤って広まった呼び方)。日本における近世城郭の代表的な遺構である。

今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである(現存天守)。

国宝四城(姫路城・松本城・彦根城・犬山城)の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。

築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次ぐ面積を誇る。近代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。

白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われる事も多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。

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登録日:2007年 11月 21日 13:31:41

ビザンティン建築

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ビザンティン建築 (Byzantine Architecture) は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)の勢力下で興った建築。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。

ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。

東ローマ帝国の勢力圏のみならずキリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやユーゴスラヴィア、ロシアといった東欧諸国あるいはアルメニアやグルジアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。

ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」の呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。

4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であると言える[1]。

しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換にともなってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあると言える[2]のに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため[3]、この暗黒時代をビザンティン建築のひとつの分岐点とする指摘もある[4]。

中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。

9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが[5]、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷とのつながりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。

東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述ほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか作らなかった訳ではない、ということは考慮する必要がある。

サクラ 出会い

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登録日:2007年 11月 20日 10:51:23

八王子市

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八王子市(はちおうじし)は、東京都の南西部(伊豆諸島、硫黄島などの島嶼部を除く)に位置する市で、中核市の要件を満たす、多摩地域の中心的な市の一つであり、東京23区のベットタウンとしても知られている。
国からは業務核都市、東京都からは多摩の「心(しん)」として位置づけられている。人口全国第24位、東京都内では東京23区に次いで第2位、全国の政令指定都市及び候補市(市町村合併の結果人口が70万人を越えた市)を除くと全国第4位の市[1]。2007年4月に保健所政令市に移行した。

戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町として栄えたことに加え、多摩地域内で最も早く市制施行したことや南多摩郡の郡役所所在地であったことから、多摩地域や南多摩地域の中心的都市とみることもできる。また、かつて絹織物産業・養蚕業が盛んであったために「桑の都」および「桑都(そうと)」という美称があり、西行の歌にも「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」と詠まれている[2]。ネクタイ地は、先染めネクタイの分野で全国有数の産地としてのシェアを誇っている[3]。

八王子市は東京都の島嶼部を除く地域の南西部、都心から約40kmに位置している。

市域全体を概観すると、山地・丘陵を三方の周縁とし、東へ流れる浅川を中心に、八王子盆地と呼ばれる東にひらけた半盆地状の複合扇状地をなしている。かつてその扇状地は桑畑として利用されたが、現在では住宅地や工業用地として転用されほとんど見ることができない。西部の山地に源を発する浅川は市の中央部付近で南浅川と合流し市の中心域を流れ、川口川と合流、日野台地のせり出しを受けて東南に下り、山田川、湯殿川と合流して日野市へと向かう。その他の主要河川である北部の谷地川、南東部の大栗川はそれぞれ市の外で多摩川に合流する。中心部の標高は海抜100m前後である(市内最高所は醍醐丸=上恩方町、標高862.7m、最低所は大栗川=大塚、標高63.0m)[4]。

中世から近世・近代に至るまで東西を走る甲州街道と、川越・桐生・日光(日光脇往還)など関東北西部、小田原・鎌倉・横浜(浜街道)など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であった。とくに江戸時代には、甲州街道の宿場町として栄えた。

現在でも、国道20号(甲州街道)と横浜から川越方面へと向かう国道16号(東京環状)、そして青梅を経て甲府へ向かう国道411号(滝山街道、青梅街道)の交点である。また、八王子ジャンクションにより中央自動車道と首都圏中央連絡自動車道との交点でもある。

鉄道輸送においてもJR中央本線と横浜線・八高線の交点として、またJR貨物八王子総合鉄道部や京王電鉄の始発駅2駅を抱え、主要拠点となっている。

市の位置(世界測地系)[4]

東端:東経139度25分48秒(鹿島)
西端:東経139度09分42秒(上恩方町)
南端:北緯 35度35分52秒(南大沢三丁目)
北端:北緯 35度43分07秒(高月町)
関東山地の一部である高尾山や陣馬山など標高500mから900m弱の山々を西端として、小河川を挟んで第四紀層の上総層群で形成されている各丘陵が舌出している。

すなわち、標高200mほどの西部の恩方丘陵および南部から東南部の多摩丘陵の西端が関東山地の東縁に連なり、そして北部では多摩川およびその支流の秋川と川口川の間に加住丘陵(標高200m前後)が、北西部には川口川と浅川の支流である北浅川との間に川口丘陵が突き出ている。加住丘陵の東端は標高を下げながら北東部の日野台地へと続く。

市域は関東山地と関東平野とを隔てる八王子構造線に跨っており、その名称の由来ともなっている。

森林面積は8,582haで、市域全体の約46%を占める[5]。

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登録日:2007年 11月 17日 10:22:08

ノストラダムス

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ミシェル・ド・ノートルダム
Michel de Nostredame
ノストラダムスの肖像画(1614年頃)
筆名: ノストラダムス
Nostradamus
生誕: 1503年12月14日
プロヴァンス
死去: 1566年7月2日(62歳没)

職業: 医師、占星術師、詩人
国籍: フランス
ジャンル: 詩、予言
配偶者: アンリエット・ダンコス
アンヌ・ポンサルド
子供: マドレーヌ・ド・ノートルダム
セザール・ド・ノートルダム
シャルル・ド・ノートルダム
アンドレ・ド・ノートルダム
アンヌ・ド・ノートルダム
ディアーヌ・ド・ノートルダム
親: レイニエール(ルネ)・ド・サン=レミ
ジョーム・ド・ノートルダム
影響を
与えたもの: ピエール・チュレル
ジロラモ・サヴォナローラ
ピエール・チュレル
リシャール・ルーサ
ノストラダムス(Nostradamus, 1503年12月14日 - 1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、西洋占星術師[1]、詩人。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。

本名はミシェル・ド・ノートルダム(Michel de Nostredame)で、よく知られるノストラダムス(ミシェル・ノストラダムス)の名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。

ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学で医学を、それぞれ学んだ。南仏でのペスト流行時には、積極的に治療にあたり、後年その時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。

他方で、1550年頃から占星術師としての著述活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者の中にも彼の予言を評価する者たちが現れ、1564年には、国王シャルル9世から「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により63歳で没した。

彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩による予言は非常に晦渋(かいじゅう)なため、後世様々に解釈され、その「的中例」が喧伝されてきた。あわせて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」が祭り上げられることとなった(「ノストラダムス現象」も参照のこと)。

これに対する学術的な検証は、長らくほとんど行われてこなかったが、現在では、伝説を極力排除した彼の生涯や、彼が予言観や未来観を形成する上で強い影響を受けたと考えられる文献なども、徐々に明らかになっている。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。

出会い

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登録日:2007年 11月 16日 10:32:13

モーゲンソー・プラン

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モーゲンソー・プランではドイツを南北に分割するほか、西部に国際管理地域を設けることになっていた。灰色の部分は、フランス・ポーランド・ソ連に割譲される区域であるモーゲンソー・プラン(Morgenthau Plan)は第二次世界大戦中に立案されたドイツ占領計画のひとつで、ドイツから戦争を起こす能力を未来永劫奪うために過酷な手法を用いる懲罰的な計画であった。

本来の提案では、計画は三つの段階からなっていた。

ドイツは、二つの独立国家(北ドイツと南ドイツ)に分割される。
ドイツの主要な鉱工業地帯であるザールラント、ルール地方、上シレジアは国際管理に置かれるか、近隣国家に割譲される。
ドイツの重工業はすべて解体されるか破壊される。
この計画はアメリカ合衆国財務長官のヘンリー・モーゲンソーにより立案されたためモーゲンソー・プランの名で呼ばれることになる
1944年9月16日の第2次ケベック会談の席上、アメリカ合衆国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領とモーゲンソー財務長官は武器貸与法(Lend-Lease)に基づく60億ドルの支援を用いて、この計画に乗り気でなかったイギリスのウィンストン・チャーチル首相を説得した。しかしチャーチルは新しくメモを書き起こしてモーゲンソーの提案を縮小することを選び、この新しいメモで両首脳は合意した。

合意されたメモの要点は次のようであった。「この計画は、ルールとザールから戦争を起こす産業を除去するためのもので、ドイツの性格を農業と田園の国に変えることが期待される。」

この計画の存在は報道陣に漏れた[1]が、ルーズベルト大統領は会見で報道された内容を否定した[2]。一方、ドイツではヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省が西部戦線でのドイツ軍民の抵抗を呼びかけるためにこの計画を利用した。

占領下のドイツでは、モーゲンソー・プランは合衆国占領命令JCS1067(後述)および連合国の「産業武装解除」政策の中に生かされており、全面的あるいは部分的な工業の解体と、残った生産力の利用に対し制限を行うことで、ドイツの経済力を弱体化させ戦争を起こす能力を破壊することが意図されていた。1950年までに、「産業の水準化」の事実上の完成により、西ドイツの706箇所の工場から設備が撤去され、鉄鋼生産量は670万トンにまで削減されていた[1]。

敗戦直後ドイツは困窮していたが占領軍はJCS1067を根拠として対独援助を謝絶した。1946年の年初、ハリー・S・トルーマン大統領は上下両院や国民の圧力についに屈し、海外の援助組織が占領下ドイツに入り食糧状況を調査することを認めた。1946年の半ばには、ドイツ国外の組織が飢えた子供達を援助することが許可された[2]。

1946年9月6日、国務長官ジェームズ・F・バーンズは、シュトゥットガルトでの有名な演説において、欧州の相互理解をよびかけ、ドイツの希望のある未来のために産業政策を見直すことを明言した(一方でこの演説はドイツの共産主義化を防ぐために安定と復興が必要とするもので、ソビエト連邦に対抗するためドイツへの米軍の無期限駐留についても触れた、冷戦のさきがけとなる演説でもあった)[3]。ここにモーゲンソー・プラン以来の脱工業化政策が方向転換された。

1947年7月には、悪化する欧州経済を回復させるためのマーシャル・プラン策定に先立ち、ドイツの年間鉄鋼生産量に対する制限は、戦前の25%水準という数値から50%水準にまで緩和された[4]。また、合衆国占領命令JCS1067では、経済面について「ドイツ経済を維持または強化する意図で、ドイツの経済回復へ向けて段階を踏み出す」ことを禁じていたが、この命令は「秩序ある繁栄したヨーロッパは、生産性の高い安定したドイツの経済的寄与を必要とする」と強調する合衆国占領命令JCS1779に差し替えられた。

1951年、西ドイツは翌年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)に加入することを合意した。これはルール国際機関(International Authority for the Ruhr、IAR)が課していた生産施設および生産量に対する制限のいくらかを除去し、ECSCに移管することとなった[5]。

1944年の1月から9月初旬の間に書かれたとみられるメモ(モーゲンソー財務長官の署名入りで「ドイツ降伏後のために提案された計画」とのヘッダーつき)はニューヨークにある大統領図書館「フランクリン・D・ルーズベルト大統領図書館・博物館」に保管されている。文章および画像はオンラインで読むことができる[6]。

主な条項の要点は次のとおりである。

1. ドイツ非武装化
ドイツ降伏後、可能な限り短い期間のうちにドイツの非武装化を完遂することが連合国軍のなすべきことである。これはドイツ国防軍と人民から武器を取り上げることであり(すべての兵器・軍備の撤去や破壊を含む)、軍需産業の完全破壊であり、その他軍事力の基礎となる主要産業の破壊である。
2. ドイツ分割
ポーランドは東プロイセンをソ連と分割し、またシレジア南部の添付図で示した範囲を得る。
フランスはザール、およびそれに隣接する、ライン川とモーゼル川を境界とする範囲を得る。
ルール地方と隣接する工業地帯を含む部分には国際管理地域が創設される。
ドイツの残る部分は二つの別々の独立国に分かれる。バイエルン州、ヴュルテンベルク州、バーデン州の各州とその他周辺地域は「南ドイツ」、プロイセン、ザクセン州、チューリンゲン州の各州、その他の地域は「北ドイツ」となる。オーストリアが1938年の併合以前の国境内に復活し、南ドイツと関税同盟を結ぶ。
3. ルール地方の処遇
ルールとその周辺工業地帯(具体的にはラインラント、キール運河、およびキール運河以北を含む)はドイツの工業力の心臓部であり戦争が生み出される大鍋である。この地域は、現存する産業が取り除かれるばかりでなく、予見できる範囲の将来も産業地帯となることのできないよう弱体化と管理が進められなければならない。これを実現するために次のような段階を踏む。
戦争終了後6カ月以内の短い期間で、戦争で破壊されなかったすべての工場と設備は完全に解体され移送されるか、あるいは破壊されなければならない。鉱山からはすべての設備を取り除き徹底的に破壊されなければならない。この地域の産業の一掃は次の三段階からなる。
この地域に直ちに入る部隊は、動かせない設備はすべて破壊する。
施設と設備の移送は、連合国各国が原状回復と賠償(後述)の一環として行う。
一定期間、例えば6ヶ月間で移動できない施設や設備は、完全に破壊されるかスクラップにされて連合国に輸送されなければならない。
この地域の住民全員は、今後二度とこの地が産業地帯となることを許されない、ということを理解しなければならない。したがって、この地域に住む特別な技術を持つ人物や技能訓練を受けた人物およびその家族はこの地域から恒久的に転出し、可能な限り各地に分散させられなければならない。
この地域は国際連合が設立する国際機関に統治される国際管理地域となるべきである。この地域の統治にあたり、統治機関は上記の目的を進めるよう設計された政策に従わなければならない。
4. 原状回復(restitution)と賠償(reparation)
賠償金は、分割払いなどの形では請求されるべきではない。原状回復と賠償は、次のように、ドイツの資源および領土の移転によって行われるべきである。
ドイツによって占領された地域でドイツ人により滅失した財産を原状回復させる
ドイツの一定の領土、およびその地にある産業資源に対する私有権を、侵略された国家や国際機関のもとに移転させる
国際管理地域、南北ドイツにある工業施設や設備を荒廃した国々に移転・配分する
ドイツ国外でドイツ人に強制労働させる
国外にあるドイツの資産は、どのような形のものであれすべて没収する

熟女
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登録日:2007年 11月 15日 11:34:16

松坂弟 育成ドラフトでロッテ入りも

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071112-00000001-spn-spo

松坂兄弟でプロの世界に――。ロッテの入団テストが11日、千葉マリンスタジアムで行われ、レッドソックス・松坂大輔投手(27)の弟・恭平内野手(24=愛媛マンダリンパイレーツ)が受験。1次選考を突破して最終メンバーに残った。これにより、19日に実施される育成ドラフトで指名される可能性が出てきた。偉大な兄の背中を追って、兄弟でプロ入りという夢が現実味を帯びてきた。

 遠かった兄の背中に少しでも近づきたい。夢だったプロの世界への扉。自身初となる入団テストを終えた恭平は「力を出し切った?そうですね。自分の実力も分かると思って受けたんですけど、やっぱり野球は楽しい」と笑顔で話した。

 テストは計81選手が受験。恭平は所属する他の四国アイランドリーグ(IL)勢とともに、フリー打撃などのメニューに臨んだ。フリーでは打撃投手、マシンを相手に計14スイング。安打性の打球は6本で、左翼越えの豪快な一打もあった。三塁に入った守備でも軽快な動きを披露。この時点で1次選考を突破、37人に絞られた最終メンバーに残った。2次選考のシート打撃では投ゴロに終わったが、プロへの大きなチャンスをつかんだことは確かだ。

 「育成でもいい。プロで勝負したいという気持ちはあります」。そう力を込めた恭平は、「プロを目指して野球をやるのはこれが最後かも…。踏ん切りをつけるために挑戦したという部分もありますね」と続けた。常に兄・大輔と比較されてきた野球人生。都篠崎から法大に進んだが、手術した右足首や右肩、右ひじ痛など故障に泣き、03年9月には投手から野手に転向。卒業後はクラブチームを経て、昨年から四国ILの愛媛で大好きな野球を続けてきた。

 今季の成績は88試合で打率・220、1本塁打、32打点。生活費を切り詰め、野球だけに打ち込む日々。「貯金を切り崩してたんですけど、なくなっちゃって…。でも、さまざまな社会勉強ができた」。10月には米コロラドで兄が世界一になった試合を観戦。「凄いなあと思いました」と刺激を受けた。同じプロの舞台に立ちたい。その思いを兄には内証で受けたテストにぶつけた。

 育成部門の充実を目指す球団は、ドラフトで6~8人を指名予定。12年ぶりの入団テストを終え、松本尚樹スカウティングスーパーバイザーは「合格、不合格は言っていない。松坂君も頑張っていたし、全員に(指名の)チャンスがある」と明言した。注目の19日のドラフト。兄弟プロ誕生へ、恭平は吉報を待つ。

 ≪四国ILプレーで休職扱いに≫恭平は法大卒業後、スポーツ用品メーカー「ドーム」に勤務。これまでは「休職扱いになっています」(恭平)という形で、四国ILでのプレーを続けてきた。仮に19日のドラフトで指名されなかった場合は「来年、四国でまたプレーするかは分からない」と迷い続けている。

 ◆松坂 恭平(まつざか・きょうへい)1982年(昭57)11月23日、東京・江東区生まれの24歳。江戸川南リトル時代は遊撃手兼投手として全国3位。東陽中では軟式野球部。都篠崎1年夏からベンチ入りしたが甲子園出場はなし。法大を経てクラブチームの「東京L.B.C」でプレー後、昨年から四国アイランドリーグの愛媛に所属。1メートル77、80キロ。右投げ右打ち。血液型O。

メル友

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登録日:2007年 11月 12日 10:31:51

テロメア

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テロメア (Telomere) は真核生物の染色体の末端部にある構造。染色体末端を保護する役目をもつ。Telomere はギリシア語で「末端」を意味するτέλος (telos) と「部分」を意味する μέρος (meros) から作られた語である。末端小粒(まったんしょうりゅう)とも訳される。
テロメアは特徴的な繰り返し配列をもつDNAと、様々なタンパク質からなる構造である。真核生物の染色体は線状であるため末端が存在し、この部位はDNA分解酵素や不適切なDNA修復から保護される必要がある。テロメアはその特異な構造により、染色体の安定性を保つ働きをする。原核生物の染色体は環状で末端がないためテロメアも存在しない。また、テロメアは細胞分裂における染色体の正常な分配に必要とされる。

テロメアを欠いた染色体は不安定になり、分解や末端どうしの異常な融合がおこる。このような染色体の不安定化は発ガンの原因となる。テロメアの伸長はテロメラーゼと呼ばれる酵素によって行われる。この酵素はヒトの体細胞では発現していないか、弱い活性しかもたない。そのため、ヒトの体細胞を取り出して培養すると、細胞分裂のたびにテロメアが短くなる。テロメアが短くなると、細胞は増殖を止めた細胞老化と呼ばれる状態になる。細胞老化は細胞分裂を止めることで、テロメア欠失による染色体の不安定化を阻止し、発ガンなどから細胞を守る働きがあると考えられている。また老化した動物やクローン羊ドリーではテロメアが短かったことが報告されており、テロメア短縮による細胞の老化が、個体の老化の原因となることが示唆されているが、個体老化とテロメア短縮による細胞老化との関連性は明らかではない。

なお、テロメアの構造・長さ・配列・維持機構などは生物種によって多様であり、本項目では主にヒト、マウス、出芽酵母について述べる。


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登録日:2007年 11月 09日 15:11:02

ディートリヒ・ブクステフーデ

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ディートリヒ・ブクステフーデ
ディートリヒ・ブクステフーデ(Dieterich Buxtehude, 1637年頃-1707年5月9日)[1]は、17世紀北ドイツおよびバルト海沿岸地域を代表する作曲家・オルガニストである。声楽作品においては、バロック期ドイツの教会カンタータの形成に貢献する一方、オルガン音楽においては、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに端を発する北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠であり、その即興的・主情的な作風はスティルス・ファンタスティクス(幻想様式)の典型とされている。

ブクステフーデの家系は、北ドイツ・エルベ河畔の都市ブクステフーデに由来する。13世紀から14世紀には、ハンブルク、リューベック等のバルト海沿岸の諸都市に一族の名が現れるようになる。当時のバルト海沿岸地域は、ハンザ同盟によって経済的に密接な関係を有し、同一の文化圏を形成していた。人々の移動も活発で、ブクステフーデの祖先も16世紀初頭にはホルシュタイン公国のオルデスロー(現バード・オルデスロー)に移住している[2]。

祖父ディートリヒ・ブクステフーデ(生年不詳 - 1624年頃)は、1565年から1590年までオルデスローの市長を務める。父ヨハネス・ブクステフーデ(1602年 - 1674年)はこの地でオルガニストとして活動した後、1632年-1633年頃にスコーネ地方のヘルシンボリ(当時はデンマーク領)に家族とともに移り、当地の聖マリア教会のオルガニストに就任する。さらに、1641年にはズント海峡を越えて、デンマーク・ヘルセンゲアの聖オーラウス教会のオルガニストとなっている[3]。


[編集] デンマーク時代(1637年 - 1668年)
ブクステフーデの出生に関する記録はほとんど残されていない。1707年7月、『バルト海の新しい読み物(Nova literaria Maris Balthici)』誌に掲載されたブクステフーデの死亡記事は、「彼はデンマークを祖国とし、そこから当地にやってきて、およそ70年の生涯を終えた」と伝えるのみである[4]。したがって、ブクステフーデは、1637年頃に父ヨハネスが活躍していたヘルシンボリで生まれたものと考えられている[5]。ブクステフーデが幼年期に受けた教育についても推測の域を出ない。おそらく父からオルガン等の音楽の手解きを受け、ヘルセンゲアのラテン語学校に通ったと考えられる[6]。ブクステフーデがドイツ語に加えて、デンマーク語も使用していたことは、ヘルセンゲア時代の日付の残る3通の手紙の存在から明らかである[7]。

1658年、ブクステフーデはかつて父が在職したヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就任する。当時、デンマークとスウェーデンはバルト海の覇権をめぐって激しく争っており、1658年2月のロスキレ条約において、デンマークはヘルシンボリを含むスコーネ地方をスウェーデンに割譲する。ヘルシンボリは、この間、実際の戦闘に巻き込まれることはなかったが、両国への兵力の拠出と戦争に伴う経済の混乱によって大きく疲弊する[8]。ブクステフーデの声楽作品には、30年戦争の戦禍に苦しめられた17世紀ドイツの民衆に特有な心情が少なからず反映されているが、ブクステフーデ自身もまた青年期にこうした戦争体験を共有している[9]。一方、1662年、聖マリア教会のオルガンの修理がなされた際に、すでにヘルシンボリを離れていたブクステフーデに鑑定が依頼されたことは、当時すでにブクステフーデがオルガンの専門家として認められていたことを示している[10]。

1660年、ブクステフーデはクラウス・デンゲルの後任として、ヘルセンゲアの聖マリア教会のオルガニストに就任する。ヘルセンゲアは、ズント海峡という交通の要衝に位置し、古くから経済的にも文化的にも栄えた町である。コペンハーゲンはここから真南に約45キロメートルと近く、ブクステフーデも1666年2月12日にコペンハーゲンを訪問している[11]。デンマーク王クリスチャン4世は宮廷音楽の発展に努め、続くフレデリク3世の時代には、イタリアやフランス音楽の新たな動向を吸収し、ヨーロッパでも有数の宮廷楽団が編成されていた[12]。当時の宮廷楽長カスパル・フェルスターは、ローマでジャコモ・カリッシミに師事し、イタリアの音楽様式を北方に伝えた仲介者であり、ブクステフーデの声楽作品における直截的な感情表現には、フェルスターの影響が認められる[13]。また、スウェーデンの宮廷音楽家であり、ブクステフーデの作品の収集家として重要なグスタフ・デューベンとの関係も、この時期に始まったとされている[14]。


[編集] リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)

リューベック・聖マリア教会1667年11月5日、リューベックの聖マリア教会のオルガニストであるフランツ・トゥンダーが死去し、1668年4月11日、ブクステフーデがその後任に選出される。3段鍵盤、54ストップを備える聖マリア教会の大オルガンは銘器の誉れ高く、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていた[15]。1668年7月23日にはリューベックの市民権を得て、同年8月3日、トゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚する。この婚姻が就職の条件であったかどうかは不明であるが、当時としては珍しいものではなかった[16]。

リューベックは、ハンザ同盟の盟主として隆盛を極めた都市である。1226年に神聖ローマ帝国直属の自由都市となり、商人による自治が営まれていた。ブクステフーデが在職した聖マリア教会は商人教会であり、商人にとって礼拝の場であるとともに、会議を開催したり、重要書類を作成・保管する機関としても重要な役割を担っていた[17]。ブクステフーデは、オルガニストと同時に、教会の書記・財務管理を責務とするヴェルクマイスター(Werkmeister)に任命される。この職務には俸給が別途与えられ、一般にオルガニストが兼任するものとされていた。ブクステフーデは、教会における物資の調達、給与の支払、帳簿の作成等、ヴェルクマイスターの任務を忠実に果たす[18]。その仕事は膨大な骨の折れるものであったが、ブクステフーデは、こうした仕事を通して市の有力者との関係を築くこととなる[19]。

一方、17世紀後半は、衰退しつつあったハンザ同盟が終焉を迎えた時でもあった。1669年のハンザ会議には9都市のみが参加し、事実上、最後の総会となる[20]。リューベックの経済的不振はブクステフーデの音楽活動にも影響を及ぼし、ブクステフーデの俸給は生涯を通じてトゥンダー時代のままに据え置かれた。また、聖マリア教会のオルガンは故障が多く、ブクステフーデは繰り返し当局に修理を要求したにもかかわらず、十分な修理は行われなかった[21]。

聖マリア教会のオルガニストとしての職務は、毎朝の主要礼拝と日曜日など祝日の午後とその前日の夕方の礼拝時に、会衆によるコラールや聖歌隊の演奏を先導し、聖体拝領の前後に音楽を演奏する程度であった[22]。ブクステフーデが音楽家としての手腕を発揮したのは、むしろ前任のトゥンダー時代に始まったアーベントムジーク(夕べの音楽:Abendmusik)においてである。ブクステフーデはこの演奏会の規模を拡大し、合唱や管弦楽を含む大編成の作品を上演するとともに、開催日時も三位一体節の最後の2回の日曜日と待降節の第2-4日曜日の午後4時からに変更した。アーベントムジークは入場無料ということもあって高い人気を博し、ブクステフーデの名声はリューベックを超えて広まる[23]。アーベントムジークの経済的負担は決して軽いものではなかったが、誠実なブクステフーデは市の有力者の理解と支援を得ることができた。市長ペーター・ハインリヒ・テスドルプフは、後年「亡きブクステフーデが私に天国のような憧れを予感させてくれた。彼は聖マリア教会におけるアーベントムジークに大いに力を尽くした」と語っている[24]。

ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年にわたって聖マリア教会の職務を全うした。旅行の確実な記録は、ハンブルクの聖ニコラウス教会に設置されたアルプ・シュニットガー作のオルガンを鑑定するために、1687年に当地を訪問したことのみである[25]。しかしながら、ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていた[26]。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(Hausliche Musikszene)』(1674年)には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれている[27]。また、タイレが1673年に出版した『ミサ曲集第1巻』や、パッヘルベルが1699年に出版した『アポロンのヘクサコルド(Hexachordum Apollinis)』は、ブクステフーデに献呈されたものである[28]。一方、ブクステフーデに師事した音楽家としては、後にフーズム市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。

ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しているが、丁重に印刷されたフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベックの威信を賭けた一大イベントであったことが偲ばれる[29]。ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになる。1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えるが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失ってハンブルクに帰ってしまう[30]。また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった[31]。結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられる[32]。

1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬される。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニストの最期であった[33]。
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登録日:2007年 11月 08日 14:30:53

<赤福>大阪、名古屋の2工場撤退へ 再出発へ経営規模縮小

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071107-00000013-mai-soci


 消費期限偽装問題などで無期限の営業禁止処分を受けた三重県伊勢市の老舗和菓子メーカー「赤福」(浜田典保社長)が、名古屋、大阪の2工場(営業所)の閉鎖を検討していることが6日、関係者の話で明らかになった。正式決定すれば同社の工場は伊勢市1カ所になる。

 赤福前会長(前社長)で浜田社長の父である浜田益嗣氏(70)は1日の記者会見で、鮮度商品である赤福餅の販路を拡大したことが不正の一番の原因とし「小さな赤福になって再出発しなければいけない」と、経営規模縮小の方針を示していた。関係者によると、その後、浜田氏ら赤福上層部で2工場の撤退を含む経営改革案が話し合われており、同氏が社長時代に推進してきた販路拡大路線は抜本的に見直される方向だ。

 赤福の従業員数は、パート社員を含め460人。うち2工場の従業員は、名古屋が59人、大阪が64人で計123人。2工場は大阪、名古屋周辺の駅やデパートでの販売拠点でもあり、赤福餅の生産ラインでは製造年月日の先付けや、売れ残り商品を「まき直し」するなどの不正が発覚している。赤福の浜田社長は記者会見で「雇用は確保し続ける」と明言しているが、工場撤退が決まれば、地域経済への影響や雇用問題などが浮上しそうだ。

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登録日:2007年 11月 07日 10:03:23

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