2007年 12月
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
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左から洗礼堂・大聖堂・鐘楼(西からの眺め)サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、Basilica di Santa Maria del Fiore)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意。
巨大なドームが特徴的な大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大。
建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ。(キリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)
鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。
三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されている。
[編集] サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
1296年から140年以上をかけて建設された。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック様式に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、そしてファサード(正面)はネオ・ゴシックによる混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m。八角形の大クーポラの内径は43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい。
[編集] 歴史
旧聖堂・大聖堂計画・現大聖堂の平面現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。最初の教会堂は4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて再建された。現在、このロマネスク様式の大聖堂は、その内観の一部が公開されており、側廊を持ち、後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。
14世紀に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎることのなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ大聖堂の建設を開始した。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠がたずさわったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。
大聖堂の内部空間1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した[1]。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、パラッツォ・ヴェッキオと第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。
1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにフランチェスコ・タレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。
大聖堂の天蓋14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、当時の建築技術では建築不可能といわれたクーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。それまでの建築法ではドームを築くために巨大な足場と仮枠が必要であったが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。
大聖堂のファサード大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコが構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードはそのままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。
[編集] 大聖堂内の装飾品
内部空間はイタリア独特のゴシック様式で簡素である。しかし、それだけにギベルティなどが1432年から1445年にかけてデザインしたステンドグラスや、1526年から1660年にかけて作られた大理石の床、そのほかの装飾品をゆっくりと眺めることができる。
大聖堂天蓋の見上げ『最後の審判』
大聖堂内部の装飾クーポラ内フレスコ『最後の審判』ジョルジョ・ヴァザーリおよびフェデリコ・ズッカリ
ドラムのステンドグラス『聖母被昇天』・『菜園での祈り』・『キリストの奉献』下絵はロレンツォ・ギベルティ(『聖母被昇天』は1442年7月13日から1443年9月11日にかけて製作。『菜園での祈り』は1443年9月11日に報酬支払記録あり。『キリストの奉献』の報酬記録は1443年12月7日)
ドラムのステンドグラス『聖母の戴冠』下絵はドナテッロ(1433年12月製作開始、1438年設置)
ドラムのステンドグラス『受胎告知』・『降誕』・『復活』・『昇天』などアンドレア・デル・カスターニョ、パオロ・ウッチェロら(1438年から1445年にかけて製作)
後陣内『聖サノビウス(ザノービ)の棺と墓碑』ロレンツォ・ギベルティ(1432年3月18日に制作依頼、1442年8月まで作成費の支払記録あり)
聖具室『寄木細工の戸棚』アンジェロ・ディ・ラザーロ・ダレッツォ、ベルナルド・ディ・トンマーゾ・ディ・ギーゴ、スケッジョーネ、アントニオ・マネッティ、ジュリアーノ・ダ・マイアーノ、ベネデット・ダ・マイアーノ(ジュリアーノ・ダ・マイアーノによる製作は1463年7月20日に委託され、1465年4月19日に再度依頼されている)
聖具室扉上部パネル『復活』『昇天』ルーカ・デッラ・ロッビア(『復活』は1442年7月21日に制作依頼、1445年2月26日に完成。『昇天』は1446年10月11日作成依頼、1451年6月30日に完成)
聖具室『扉』ルーカ・デッラ・ロッビア、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、マーゾ・ディ・バルトロメオ(1446年2月28日に制作依頼、1469年に完成)
祭壇上の『十字架』ベネデット・ダ・マイアーノ(1490年完成)
北側絵画『ダンテ「神曲」の詩人』ドメニコ・ディ・ミケリーノ
北側壁面フレスコ『傭兵隊長ニコロ・ダ・トレンティーノ』アンドレア・デル・カスターニョ
北側壁面フレスコ『傭兵隊長ジョン・ホークウッド』パオロ・ウッチェロ(1436年製作)
北側彫像『ヨシュア像(いわゆるポッジョ・ブラッチョリーニ像)』ナンニ・ディ・バルトロ(1415年にベルナルド・チュッファーニに委託されたが未完で放置され、1420年から1421年にかけてナンニが製作)
南側彫像『預言者ダニエル』ドナテッロとされるが疑問視される
南側彫像『ジョットの胸像』ベネデット・ダ・マイアーノ(1490年頃)
西側壁面『24時間時計文字盤』パオロ・ウッチェロ(1443年製作)
南側外壁モザイク『み告げ』ダビデ、ドメニコ・ギルランダイオ。
南側外壁レリーフ『聖処女マリア』、『マリアの被昇天』ナンニ・ディ・バンコ
北側外壁『マンドルラの門』ジョヴァンニ・ダンブロージョ(上部浮彫装飾はナンニ・ディ・バンコによるもので1414年から1421年にかけて製作された[2]。)
また、このほかルーカ・デッラ・ロッビアとドナテッロによる聖歌隊席などの貴重な装飾品は、ドゥオーモ付属美術館に収められている。
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登録日:2007年 12月 28日 13:23:52
ホットスパーが「COCO!」に変更 あす久米島に1号店
県内でコンビニエンスストア102店舗を展開するホットスパーコンビニエンスネットワークス(茨城県土浦市、椎名浩一社長)は12日、ストアブランドを親会社と同じ「ココストア」に変更統一すると発表した。既存店(全国419店舗)の看板「HOTSPAR」を2008年3月までに「COCO!」に変更。11月から新規出店はすべて「COCO!」ブランドでオープンしており、県内では14日、久米島町仲泊に1号店が誕生する。
「HOTSPAR」は1986年8月、県内コンビニエンスストアの先駆けとして那覇市与儀に第1号店が開店。以来「ホッパー」の愛称で親しまれてきた。
1993年に沖縄スパー本部から営業譲渡を受けたホットスパーコンビニエンスネットワークスは、国際スパー(オランダ)とのライセンス契約更新を前に離脱を決断。2001年4月にコンビニエンスストアグループ約1000店舗を全国展開するココストア(名古屋市、盛田宏社長)の完全子会社となっていたことから、ストアブランドを親会社と統一することを決めた。
12日午後、県庁で記者会見した椎名社長は「競争が激化する業界での生き残りを懸け、ブランドリニューアルを決断した。ココストアのスケールメリットを生かし、弁当の店内調理やベーカリー併設などの差別化を一層推進し、県民のニーズに応えていきたい」と強調した。
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登録日:2007年 12月 13日 17:07:16
ヤギ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ヤギ(山羊、野羊)は、広義にはウシ科ヤギ属 Capra に属する動物の総称である。一般的には家畜種を指すことが多い。ヤギ属には全部で7種が含まれるが、一般的にはベゾアールまたはパザンと呼ばれるノヤギ C. aegagrus を家畜化した亜種である C. aegagrus hircus が、古来人間に利用されてきた。ユーラシア大陸からアフリカ大陸にかけて広く分布する。
日本語名の「ヤギ」の語源は、「羊」の朝鮮漢字音「ヤン/ヤング(yang)」、または「野牛」(やぎゅう)が転訛したものという説がある。
ヤギはウシ目(偶蹄目)ウシ亜目(反芻亜目)ウシ科ヤギ属に属する。ヒツジとは属を異にする近縁種であり、共通した性質も多い。染色体は60本。
体重は種にもよるが、野生種ではオスで80kg前後、メスで55kg前後。体高は80cm前後。妊娠期間は約150日。出生児の体重は母体の栄養条件に大きく影響されるが、1.5~7kg。単子か双子で生まれる。乳頭は2つある。ウシよりは双子の率が高い。発情期を迎えるのはメスで6~8か月齢、オスで5~7か月齢。発情周期は平均20日、発情期の持続は38時間程度。発情期は日本では8月中旬から2月下旬。気候によっては年中繁殖を行うことができる。寿命は16歳前後。
角の有無も種によるが、野生種は角をもつ。角の形状と湾曲の仕方で、大きく4つに分類することができる。C. a. hircusの角はまっすぐであるか、よじれる。C. aegagrusでは横断面が平たい三角形で、後ろに湾曲する。マーコールヤギでは前方から見ると V 字に開き、コルク栓抜き状にねじれる。アイベックスでは後方に反り、前方に等間隔の結節が見られる。家畜種のザーネン種は無角で、額にわずかな隆起がみられる。ヒツジには眼下腺や蹄間腺などの脂肪分泌腺があるが、ヤギにはない。一方、多くの種のヤギのオスには、ヒツジにはないあごひげが見られる。
ヤギの食性は幅広いが、粗剛なイネ科の草本を好んで食べる。また、ヒツジが草食(グレイザー)であるのに対し、ヤギは芽食(ブラウザー)であり、草よりも低木樹の葉を好む。ヤギは4つの胃をもち、反芻胃(ルーメン)内に生息する微生物の働きにより、麦わらや枯葉のようなものまで餌とすることができる。また、水分の排泄を抑制する機構をもつため、砂漠などの劣悪な環境でも生き延びることができる。さらに、反芻動物の多くは芳香のある植物を嫌うが、ヤギはこれを食べる。なお、ヤギに紙を与えることは避けた方がよい。後出の「ヤギは本当に紙を食べるか」を参照。
ヤギは通常、群れを作って生活し、野生種における群れのサイズは平均3~24頭。なわばり性は認められていない。オスはオス同士、メスはメス同士と子と群れを作る傾向がある。ヒツジは定住するのに対し、ヤギは長距離を移動する傾向がある。オスは後脚で立ち上がり、強く頭をぶつけあい、頭突きによって群れの中での順位を決める。ヒツジは後ずさってから突進する形をとる。
ヤギは家畜として古くから飼育され、用途により乳用種、毛用種、肉用種、乳肉兼用種などに分化し、その品種は数百種類に及ぶ。ヤギは粗食によく耐え、険しい地形も苦としない。そのような強靭な性質から、山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって貴重な家畜となっている。ユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダとともに5種の家畜(五畜)のひとつであり、特にヒツジと比べると乾燥に強いため、西アジアの乾燥地帯では重要な家畜であり、その毛がテントの布地などに使われる。ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多い。明治以降、日本でも数多くのヤギが飼われ、「貧農の乳牛」とも呼ばれたが、高度経済成長期を境として減少傾向にある。しかし、近年ではヤギの愛らしさ、粗放的飼育に耐えうる点等が再評価されつつある。これを受けて、ヤギ愛好者・生産者・研究者が一堂に会する「全国ヤギサミット」が年に1回開催されており、年々盛況になっている。
ヤギの家畜利用が始まったのは、新石器時代の紀元前7千年ごろの西アジアであろうと考えられる。このころの遺跡からヤギの遺骨が出土しているからだ。もしそうなら、ヤギの家畜化はイヌに次いで古いことになるが、野生種と家畜種の区別が難しいため、その起源については曖昧な点が残る。前出のベゾアール Capra aegagrus が主要な野生原種と思われるが、ほかに、同じく高地に住むマーコール C. falconeri やアイベックス C. ibex なども関与しているかもしれない。
はじめに搾乳が行われた動物はおそらくヤギであり、チーズやバターなどの乳製品も、ヤギの乳から発明された。乳用のほか、肉用としても利用され、皮や毛も利用される。群れを作って移動するヤギは、遊牧民の生活に都合がよかった。肉や毛皮、乳を得ることを目的として、遊牧民によって家畜化され、そのことで分布域を広げていったと考えられる。農耕文明においても、その初期には飼育がなされていたが、遊牧民ほどは重宝しなくなった。ヤギは農耕そのものには役に立たず、ヒツジの方が肉や毛皮が良質であり、また、新たに家畜化されたウシの方が乳が多く、農作業に適していたからである。ただし、現在でも多くの品種のヤギが飼育されている。宗教上ウシやブタを利用しない文化においても、重要な家畜とされる。子ヤギ(キッド)の革は脂肪分が少なく、現代でも靴や手袋を作るのに用いられるが、西洋では12世紀以降、4-6週の子ヤギの革が、羊皮紙の原料としてヒツジ革と競った。
ヤギは粗食に耐えることから、18 - 19世紀の遠洋航海者が重宝して船に乗せ、ニュージーランドやオーストラリア、ハワイなどに持ち込んだ経緯がある。ペリー艦隊も小笠原諸島などにヤギを持ち込んでいる。日本にはもともと野生のヤギは存在しておらず、比較的最近になって、朝鮮半島または南方から持ち込まれた。明確な時期は不明であるが、江戸時代ごろであるとされる。1775-1776年に蘭館医師として日本に滞在したスウェーデン人ツンベルグ(トゥーンベリ、1743年-1822年)は、「彼らはヒツジもヤギも持っていない」と記している。ただし琉球王国では、江戸時代より前に伝来していたようである。また、後述のシバヤギは、キリシタン部落と呼ばれた集落で飼われ、隠れキリシタンの貴重な食料源となっていたとされる。
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登録日:2007年 12月 07日 12:44:17
レオシュ・ヤナーチェク
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レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček, サウンド! ?, 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。
モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された、チェコ語のリズムや旋律を活かした独自の音楽語法を用い、朗唱風のオペラをはじめ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの傑作を残した。
20世紀前半では、祖国を除き、まだごく限られたレパートリーのみが知られるマイナーな存在であったが、ピアニストのルドルフ・フィルクスニーや指揮者のチャールズ・マッケラスらの優れた演奏および録音をきっかけに広く知られるようになった。
1854年7月3日、モラヴィア北部の寒村フクヴァルディ[1] において、学校教師の父イルジーと母アマリアの10番目の子供として誕生した。11歳のときモラヴィアの首都ブルノに連れて行かれ、アウグスティノ会修道院[2]の少年聖歌隊員となった。聖歌隊で彼に音楽教育を施した指揮者、パヴェル・クルジージュコフスキー[3]はチェコ国民楽派の始祖とされるスメタナと同世代にあたり、ブルノ・ベセダというアマチュア音楽家グループの中心人物としてモラヴィアの民俗音楽の豊かさを認識させる運動を行っていた音楽家で、その後のヤナーチェクの音楽に対して影響を及ぼした。
ヤナーチェクは1872年、アウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に、1873年にはスヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。無伴奏男声合唱のための作品がヤナーチェクの初期作品にいくつか見られるが、それらはこのスヴァトプルク合唱協会のために書かれたものと考えられる。
1874年、ヤナーチェクはオルガン学校で学ぶためにプラハに移り、主に教会音楽を中心とした1年間の課程を「極めて優れている」成績で修了した。プラハ時代にはドヴォルザークとの出会いがあり、ヤナーチェクはその音楽を深く愛するようになっている。
プラハからブルノに戻ったヤナーチェクは、修道院での聖歌隊の指揮やスヴァトプルク合唱協会の指揮に復帰した。さらにブルノ・ベセダの聖歌隊指揮者にも就任したが、多忙となったためスヴァトプルク合唱協会の指揮者を辞任した。
こうして実践的な場で音楽経験を積むにつれ、基本的な音楽技法の不足を感じたヤナーチェクは再び勉強し直すことを決意した。交際していた女性、ズデンカ・シュルゾヴァーの実家の勧めもあり、1879年10月にヤナーチェクはライプツィヒの音楽院に入学した。しかし彼はそこでの教育に満足できず、翌年の2月末にウィーンに向かった。このとき、ヤナーチェク本人はフランスでサン=サーンスに学ぶことを考えたのだが、恋人ズデンカの反対によりウィーンへ行くことにしたのである。
この当時、ウィーン音楽院ではヨゼフ・ヘルメスベルガー、ロベルト・フックス、アントン・ブルックナーなどが教師として名を連ねていたが、ヤナーチェクが作曲の指導を受けたのはマーラーの師であったフランツ・クレンであった。しかし彼はウィーンの音楽教育にも飽き足らず、その年のうちにブルノに帰った。クレンといえば、マーラーの伝記では厳格な教師として知られているのだが、ヤナーチェクは彼を理論的ではないと感じ、不満を募らせたのだという。
もっとも、彼が本当に不満を感じたのは音楽教育に対してではなく、辺境出身者として大都会で感じた疎外感ではなかったかとの見方もなされている。ブルノに帰ってから後のヤナーチェクは民族主義運動に共感し、ドイツ語での会話を拒否するようになっている。
結局、この頃の正規の音楽教育への失望が、このあと自国の言語と民俗音楽からその独特の音楽語法を身につける道の選択へとつながるのである。
ブルノに帰った翌1881年にヤナーチェクは、ズデンカ・シュルゾヴァーと結婚し、岳父エミリアン・シュルツの助けで1882年にオルガン学校を開校した。この学校は、1919年に国立音楽院となった、現在のヤナーチェク音楽院である。また、同じ年にブルノ・ベセダに歌とヴァイオリンの学校も開設している。さらにヤナーチェクはブルノに設立されたチェコ人劇場のための音楽雑誌「フデブニー・リスティ」の創刊者となり、1884年11月にその第1号を発刊した。この頃のヤナーチェクは2つの音楽学校の教師、2つの合唱団の指揮者、音楽雑誌の編集者と多忙を極め、作曲をほとんど行っていない。
1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うことにした。ヤナーチェクはこの作業に没頭したが、これがモラヴィアの音楽をその血肉とする最後の仕上げとなった。ヤナーチェクは1889年の「ラシュスコ舞曲」において、初めて民俗音楽をはっきりと意識した作品を発表した。民俗音楽の直截な引用は1891年のオペラ「物語の始まり」で頂点に達し、その後はほとんど見られなくなる。こうして独自の音楽語法を手にしたヤナーチェクが1894年から1903年の9年間をかけて完成させたのが、彼の代表作の一つであるオペラ「イェヌーファ」であった。
一方で、彼の民族主義運動への共感は深まっていた。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こるが、この事件に怒ったヤナーチェクはピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」を作曲した。また1915-1918年には、コサック首領の物語に祖国独立の想いを仮託した管弦楽曲の代表作、交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」を作曲し、チェコスロヴァキア共和国軍に捧げている。
私生活では、ズデンカ・シュルゾヴァーとの結婚生活は当初から不安定な状態が続き、妻の実家であるシュルツ家との関係も悪化した。ヤナーチェクは結婚の前後から、民族主義的な傾向を強めドイツ語の使用を避けるようになっており、それが当時の上流階級の常としてドイツ語でドイツの習慣に従って生活していたシュルツ家の人々との距離を離れさせる一因であった。1890年に長男が亡くなった後は、ヤナーチェクの死まで結婚関係こそ解消されなかったものの、結婚生活は事実上崩壊していた。
1903年には、ヤナーチェクは娘オルガも亡くした。この頃にはピアノ曲集「草陰の小径」や「霧の中で」といった内省的な作品が書かれている。
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登録日:2007年 12月 03日 16:52:10
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