2007年 12月 28日
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
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左から洗礼堂・大聖堂・鐘楼(西からの眺め)サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、Basilica di Santa Maria del Fiore)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意。
巨大なドームが特徴的な大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大。
建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ。(キリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)
鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。
三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されている。
[編集] サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
1296年から140年以上をかけて建設された。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック様式に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、そしてファサード(正面)はネオ・ゴシックによる混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m。八角形の大クーポラの内径は43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい。
[編集] 歴史
旧聖堂・大聖堂計画・現大聖堂の平面現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。最初の教会堂は4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて再建された。現在、このロマネスク様式の大聖堂は、その内観の一部が公開されており、側廊を持ち、後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。
14世紀に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎることのなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ大聖堂の建設を開始した。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠がたずさわったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。
大聖堂の内部空間1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した[1]。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、パラッツォ・ヴェッキオと第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。
1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにフランチェスコ・タレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。
大聖堂の天蓋14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、当時の建築技術では建築不可能といわれたクーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。それまでの建築法ではドームを築くために巨大な足場と仮枠が必要であったが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。
大聖堂のファサード大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコが構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードはそのままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。
[編集] 大聖堂内の装飾品
内部空間はイタリア独特のゴシック様式で簡素である。しかし、それだけにギベルティなどが1432年から1445年にかけてデザインしたステンドグラスや、1526年から1660年にかけて作られた大理石の床、そのほかの装飾品をゆっくりと眺めることができる。
大聖堂天蓋の見上げ『最後の審判』
大聖堂内部の装飾クーポラ内フレスコ『最後の審判』ジョルジョ・ヴァザーリおよびフェデリコ・ズッカリ
ドラムのステンドグラス『聖母被昇天』・『菜園での祈り』・『キリストの奉献』下絵はロレンツォ・ギベルティ(『聖母被昇天』は1442年7月13日から1443年9月11日にかけて製作。『菜園での祈り』は1443年9月11日に報酬支払記録あり。『キリストの奉献』の報酬記録は1443年12月7日)
ドラムのステンドグラス『聖母の戴冠』下絵はドナテッロ(1433年12月製作開始、1438年設置)
ドラムのステンドグラス『受胎告知』・『降誕』・『復活』・『昇天』などアンドレア・デル・カスターニョ、パオロ・ウッチェロら(1438年から1445年にかけて製作)
後陣内『聖サノビウス(ザノービ)の棺と墓碑』ロレンツォ・ギベルティ(1432年3月18日に制作依頼、1442年8月まで作成費の支払記録あり)
聖具室『寄木細工の戸棚』アンジェロ・ディ・ラザーロ・ダレッツォ、ベルナルド・ディ・トンマーゾ・ディ・ギーゴ、スケッジョーネ、アントニオ・マネッティ、ジュリアーノ・ダ・マイアーノ、ベネデット・ダ・マイアーノ(ジュリアーノ・ダ・マイアーノによる製作は1463年7月20日に委託され、1465年4月19日に再度依頼されている)
聖具室扉上部パネル『復活』『昇天』ルーカ・デッラ・ロッビア(『復活』は1442年7月21日に制作依頼、1445年2月26日に完成。『昇天』は1446年10月11日作成依頼、1451年6月30日に完成)
聖具室『扉』ルーカ・デッラ・ロッビア、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、マーゾ・ディ・バルトロメオ(1446年2月28日に制作依頼、1469年に完成)
祭壇上の『十字架』ベネデット・ダ・マイアーノ(1490年完成)
北側絵画『ダンテ「神曲」の詩人』ドメニコ・ディ・ミケリーノ
北側壁面フレスコ『傭兵隊長ニコロ・ダ・トレンティーノ』アンドレア・デル・カスターニョ
北側壁面フレスコ『傭兵隊長ジョン・ホークウッド』パオロ・ウッチェロ(1436年製作)
北側彫像『ヨシュア像(いわゆるポッジョ・ブラッチョリーニ像)』ナンニ・ディ・バルトロ(1415年にベルナルド・チュッファーニに委託されたが未完で放置され、1420年から1421年にかけてナンニが製作)
南側彫像『預言者ダニエル』ドナテッロとされるが疑問視される
南側彫像『ジョットの胸像』ベネデット・ダ・マイアーノ(1490年頃)
西側壁面『24時間時計文字盤』パオロ・ウッチェロ(1443年製作)
南側外壁モザイク『み告げ』ダビデ、ドメニコ・ギルランダイオ。
南側外壁レリーフ『聖処女マリア』、『マリアの被昇天』ナンニ・ディ・バンコ
北側外壁『マンドルラの門』ジョヴァンニ・ダンブロージョ(上部浮彫装飾はナンニ・ディ・バンコによるもので1414年から1421年にかけて製作された[2]。)
また、このほかルーカ・デッラ・ロッビアとドナテッロによる聖歌隊席などの貴重な装飾品は、ドゥオーモ付属美術館に収められている。
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登録日:2007年 12月 28日 13:23:52
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