団塊の世代への誤解を解くシリーズ第一弾「学生運動」
団塊の世代に対する誤解をひとつひとつ解いていくシリーズ。第一弾は学生運動。
先日ある飲み会で「学生運動は団塊の世代が始めたんじゃないんですよ。」と言ったら「ええ!そうなんですか?」とびっくりされた。
70年安保や学園紛争は我々団塊の世代より前の人たちがお膳立てしたもので、我々はただそれに乗ってついて行っただけにすぎない。ただ、数が多いので目だったのだろう。
そのことを証明するために学生運動の歴史と主要な人物の年齢を紹介しよう。
1950年代の終わりごろ、武装闘争路線を放棄した日本共産党に飽き足らない人たちが、様々な組織を作った。これがいわゆる「新左翼」だ。その指導者の世代は、例えば革マル派の指導者で今年78歳で死んだ黒田寛一は1927年生まれだった。
その後60年安保の後で下火になった学生運動が再び盛んになったのは、1965年の慶応大学授業料値上げ反対闘争、そして1966年の早稲田大学学費闘争だった。このとき初めて学園がバリケードで封鎖されたが、そのとき団塊の世代の先頭1947年生まれはまだ大学1年生だった。
1967年の第二次羽田闘争で初めてゲバ棒とヘルメットが表に登場したが、このとき筆者はまだ高校三年生だった。このころになると新左翼が再び支持者を増やし、ベトナム反戦運動や70年安保、成田闘争へと続いていく。当時の指導者の年齢は、例えば赤軍派の議長塩見孝也は1941年生れ、同じく赤軍派で淀号ハイジャックで北朝鮮で死んだ田宮高麿が1943年生、ベイルートに行った重信房子が少し若くて1945年生、みんな団塊の世代(1947~1949生)より先輩である。三派全学連の委員長で歌手加藤登紀子と獄中結婚した藤本敏夫(社青同解放派)は1943年生れだった。なお、彼らは当時は若手指導者であって、各セクト(派)の最高指導者は例えば北小路敏(1936年生れ)のように依然として60年安保を経験した1930年代生まれだった。
一方、このような政治闘争に影響されつつ、大学改革の運動はやがて「大学解体」を掲げる全共闘運動へと発展していった。大学内では、各セクト(革マル派など)も、一般学生などと一緒に全共闘(全学共闘会議)に参加した。全共闘の指導者として有名な東大全共闘議長山本義隆は、1941年生まれで当時は博士課程の院生だった。全共闘で団塊の世代の指導者の登場は1947年生れの日大全共闘議長秋田明大まで待たねばならかった。
長々と書いてきたが、団塊の世代に学生運動の「創業者」はいない。みんな先輩の後についていったフォロワーなのだ。だから学生運動の季節が終わったとき、団塊の世代は髪を切って就職した。しかし我々より上の世代は、赤軍派のようにしつこく続けたり、藤本敏夫のように有機農業の普及や環境問題にのめりこんだり、様々な社会活動や労働運動を続ける人が多かった。
学生運動に参加した一部の団塊の世代のこの素早い変身ぶりは、その後の企業戦士としても、調子がよく節操のない性格に引き継がれているかもしれない。
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余談だが、筆者の娘が1999年に神奈川大学を受験し、筆者が合格発表を見に行った。
そこでなんと、大きな立看板の前で青いヘルメットに覆面姿の男がハンディマイクで演説しているではないか。筆者は30年前にタイムスリップした気になって頭がクラクラした。
確かに、30年前神奈川大学は青ヘル(社青同解放派)の拠点校だった。それが連綿と続いているとは。伝統芸能か重要無形文化財かはたまたシーラカンスか。伝統ある部活として引き継がれているのだろうか。
カテゴリー[ 団塊世代 ], コメント[2], トラックバック[0]
登録日:2006年 11月 03日 02:36:43
コメント
私が白ヘル・核マル派の拠点校だった早大文学部に入学したのは、同級生より2年遅れの1968年で、入学後すぐに第二次早稲田闘争に突入。勤労学生だったので、学費値上げ反対というスローガンには納得した。学生運動というと、過激派がリーダーシップをとっていたというイメージがあるが、当時の学生の自治会活動はクラス討論からボトムアップされていたように記憶する。
大学当局との話し合い決裂で学生による学園ストを経て、ロックアウト(大学による授業放棄・大学構内の立ち入り禁止)となった。この紛争により、多くの優秀な学生が退学処分となった。その名目はおおかた、授業料滞納による除籍処分である。一方で、単位不足のための留年をおそれた学友たちが、大学周辺の喫茶店などに教授を呼びだして、課外授業をしているといううわさがあちこちで聞かれた。スト破りである。また、活動家が除籍になって穴のあいた人気の専門課程の進級コースに、どさくさにまぎれて夜間部や他コースからの編入があいついだのもこの頃だ。
未来のリーダーとなるべき人材が、徹底的に抹殺された学園ホロコーストの時代でもあった。結局、要領のいい上昇志向の人間が生き残ったのではないか。中退組で成功した高橋判明や糸井重里などは例外的存在ではないか。
なび @ 2006年 11月 03日 23:52:24
>なびさん
コメントありがとうござあいます。学生運動の周辺では、様々な人間模様がありましたね。ただ、これだけ年月が経って見ると、要領よく残ったのが良かったのか中退したのが良かったのか一概には言えないのではないでしょうか。私が転勤先で再開した早稲田中退はおしゃれなジャズ喫茶のオーナーになっていました。もともと地方から出てきた人は、苦学生いましたが実家が比較的裕福な人も多かったので、それなりになんとかなったのではないでしょうか。
早稲田と言えば1969年にジャズピアニストの山下洋輔さん(1942年生まれ)がバリケードの中で演奏したことがありましたね。一度ご本人とそのころの話をしたことがあります。主義主張があったわけではなく、ああいう場所で演奏したかったのだそうです。糸井重里は中核派で法政中退でした。
いずれにしろ、団塊の世代の学生がその時代を様々なスタンスで経験したことは事実ですが、何かその時代を主導した、ということとは違うように思います。
himori @ 2006年 11月 04日 17:48:38
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