カテゴリー [文化ホールについて]

「井上ひさしさんと小田原のまちづくりを語ろう」

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4月30日は「井上ひさしさんと小田原のまちづくりを語ろう」実行委員会主催のシンポジウムにパネラーとして参加した。

実行委員会は城下町ホールの見直しを求めている市民有志を中心に、小田原市の文化やまちづくりに強い関心を抱く人々で構成されている。

当日のプログラムは以下のとおり。

第一部  「文化をはぐくみ、楽しむ「場」をめぐって
主催者あいさつ
「文化・芸術によるまちづくりとホールの役割」・・・桧森隆一
「演じるものからみた使いやすいホールについて」・・・橋本英治(劇団前進座監督・演出家)
中村靖さんの独唱   ピアノ伴奏 柴田かんな

第二部
井上ひさしさんのお話
パネルディスカッション
パネラー 井上ひさし、桧森隆一、橋本英治
コーディネーター 宮島真希子(神奈川新聞)

橋本さんがかなり具体的に城下町ホールの計画の欠陥を解説されるので、筆者はその前提として、パワーポイントを使って次のような話をした。

1.自己紹介
2.科学技術と音楽のスパイラルな発展
3.経済と文化・芸術のスパイラルな関係
(地域経済にとっての地域文化・芸術は投資)
4.公共ホールの役割
5.そんな役割を果たす良いホールとは?
6.残念ながら良くないホールの例
城下町ホールはどうでしょうか?

話の中で谷川俊太郎さんの「アリオスに寄せて」という詩を引用した。

アリオスに寄せて
                 谷川俊太郎

からっぽはすばらしい

なんでも  いれることができるから

でもいつまでも  ためておかない

またからっぽにして  ハコはまつ

あたらしいもの  たのしいもの

ハコはいきて  こきゅうしている


ハコのなかで  ひとはうたう

ハコのなかで  ひとはかたる

ハコのなかで  ひとはおどる
  
ハコのなかは  そととはちがう

わくわくどくどきはらはらさせる

ハコはいきて  こきゅうしている

              「ハコのうた」
(いわき芸術文化交流館アリオス広報紙 vol9 より引用)

公共ホールとは何か、についてはこの詩に尽きているように思う。
はたして城下町ホールはこのようなホールになるだろうか?

さて、井上ひさしさんのお話はボローニャの例を引きながら文化・芸術とまちづくりについて語りながら、引き比べて小田原での物事の決まり方や城下町ホールの現在のプランをユーモアたっぷりにちくりと批判する味わいの深いものだった。

後半のパネルディスカッションは、今まで公共ホールの設計や計画に諸々の疑問を抱いていた3人が、城下町ホールの設計を見てついに堪忍袋の緒が切れて、小田原に縁もゆかりもないのに駆け付けた、という感じがよく出ていた。

井上ひさしさんの話によると、小田原市長は「一度決まったことに反対するのはアカだ」と言ったそうだが、一部では市場原理主義者と思われている筆者までアカ呼ばわりは誠に光栄である。

厳しい財政状況の中、貴重な財源を最大限効果的に使って本当にいいホールを建て、小田原の文化・芸術やまちづくりを振興させたい。そのために、あのホール設計はないだろう、というのが当日の集まった皆さんのコンセンサスだったのではないか、というのが参加した感想である。

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登録日:2008年 05月 07日 00:56:08

”舞台が見えない席”対策

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昨日は、来年のジャズフェスティバルのチケット発売に備え、会場となる2000席の大ホールの点検に行った。目的は”舞台が見えない席”の確認である。

今年はお客様から舞台が見えないので席を替えてほしい、というクレームが数件あったので、あらためて舞台の見え方を点検に行ったのだ。

それまでも、手すりがじゃまして見えにくい席など何席か売らない席はあったのだが、あらためて点検の結果、4階バルコニー席で普通に座ると舞台が四分の一しか見えない席が片側5席づつあることが判明した。これは管理している文化振興財団の担当者も把握していなかった。この席は新たに販売から除かねばならない。

この他にも4階バルコニー席の半分は一般席としては無理があり、学生席に回すことにした。

ホール設計者にお願いしたいのは、最悪の席でも、背もたれに背をあてて普通に座った状態で舞台の四分の三以上は見えるようにしてほしい、ということだ。また、手すりの形状も工夫が必要だ。細い金属にするなどちょっとしたことで見え方がまったく変わる。

売れない席が多いと公演の採算に影響する。こんなことは常識だと思うが、そこまで考えていないのだろうか。

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登録日:2007年 10月 20日 11:50:59

対極のホール

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今日は(社)日本クラシック音楽事業協会の研修会で4月28日にオープンしたばかりの昭和音楽大学「テアトロジーリオショウワ」を見学した。

オペラ、バレー、ミュージカル公演に適した1367席のホールで場所は小田急線新百合ヶ丘駅前にある。

このホールはこのブログで紹介した計画中の城下町ホール(仮称)とは対極にあるホールだと言っていいだろう。

床はパンチカーペットでシャンデリアもない。階段の手すりは鉄を塗装しただけ。しかし案内していただいたホールの運営室長で音楽学部芸術運営学科の橘教授によれば、「公演のために徹底して機能性を追及したホールだ」ということだ。

写真は搬入口だが、11トン車が横付けでき、大物の搬入と小物の搬入を入り口を分けて同時にできるようにしている。橘教授によれば、日本一搬入搬出のしやすいホールを目指したという。写真の屋根の奥行きや高さも設計案から変更させている。

奇をてらわないシンプルなインテリアの内部はどの位置からも舞台が見やすい構造になっている。舞台は、建築家はプロセニアムを白にしようとしたが、ハレーションを起こして出演者がやりにくいと黒に変えさせている。バトンも45もあるが、独特の可動式音響反射板も備え、オーケストラの公演もできるようになっている。細かい霧が噴出して開演前の埃を静め、歌手ののどを守るような工夫もある。

100人分の楽屋を備え、さらにオーケストラスタジオもあり、オペラの時はここをオーケストラの楽屋に使う、つまり200人の出演者に対応できる。もちろん袖舞台も広く取り、オーケストラの楽器を台に載せてそのまま舞台上に押し出せる工夫もある。

全体のデザインでは建築家はもっと色々な色を使いたがったが、それはさせなかったとのことだ。その代わり、トイレを男性と女性で左右にわけて女性がトイレの前にならぶ姿を見せないようにし、なおかつ女性の個室の数を大幅に増やすなど、観客にとって行き届いた配慮がなされている。

設計にあたっては、建築家にまかせずに、音響、照明、舞台監督、制作(橘教授他)が集まってじっくりプランを練ったという。公演制作で培ったノウハウがたっぷりと設計に注ぎ込まれ、豪華さはないが観客にとって居心地のいいこのホールは、これからの日本のホールのスタンダードだと言っていいかもしれない。(しかも私立大学なのでコストはかなり切り詰めているだろう)。

少し付け加えると、このホールの向かい側、もちろん大学の敷地内に、大学が設置したおしゃれなカフェと本格イタリアンレストランがある。公演の休憩時間に半券を持って出てカフェで一杯やることもできるし、終わった後にはレストランでおいしい食事とワインで余韻にひたることもできる。さすがに大学の先生方はコンサートの楽しみ方、文化というものをよくご存知だ。もっともこのレストランは大学内にありながら誰でも利用でき、早くも近所の奥様方の間でおいしいと評判を呼び、予約をとるのが大変らしい。果たして小田原市で文化についてここまでの仕掛けができるだろうか?

今回の研修では東京芸術大学副学長の渡邊健二教授の話も聞いたが、その中で紹介された芸大の中にあるコンサートホール奏楽堂で行われている積極果敢な自主事業企画にも驚かされた。また、某自動車メーカーから委託を受けてユーザー向けコンサートの企画制作も(ビジネスとして)やっているとのこと。大学恐るべしである。

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登録日:2007年 09月 09日 23:33:24

建築家のギミックとホールの現実 その3

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4.ついに実現

筆者はこの博覧会で12回のコンサートを企画し、実施した。

筆者のそれまでの仕事は、主催者である公共ホールからの依頼に基づいてコンサートを企画することであり、その場合筆者としてはそのホール独自の機能があれば、一度はそれを徹底的に使ってみることを自らに課していた。6月29日の記事に書いたグランシップでも、実は筆者の企画したイベントでコーンに照明やレーザーをあてる演出を試みている。

自分が企画するコンサートでは、一度は背面開放を使おうと考えていたが、博覧会も終盤に差し掛かった9月30日にチャンスが巡ってきた。この日は筆者が企画したエレクトーンとボーカルのコンサートで1日2回公演。他に出し物は入っていなかった。

筆者はコンサートの途中で背面を開放する演出を考えたのだが、大手広告代理店側の舞台監督は強硬に反対した。安全に責任がもてない、と言うのだ。これには主催者である県(博覧会協会)の担当者も同調した。
設計段階では賛成していたはずの発注者(県)が反対するのも変な話だが、当然建設と運営では担当者が違うので、良くあることなのだ。

なんとか説得してやることになり、黒ホリをはずして土嚢をどけ、ロックをはずす。ところが、1回目の公演は風が強くてやむなく断念。そして2回目の公演。何かあれば全て筆者が責任を負うということで最終的に主催者や大手広告代理店側に納得してもらい、いよいよ実現へ。

エレクトーンのイントロが流れると、するすると舞台背面の扉が開き、運河の景色を背景に、シルエットになった女性歌手がチャップリンの名曲、スマイルを歌いながら入ってくる。どよめく観客。それがやがて拍手と歓声に変る。

結局189日間の会期中、背面が開けられたのはこの1回だけ。たった1回のどよめきと歓声のためだけに造られた、扉の開閉機構だった。

もし、筆者がホールを計画するのであれば、このようなギミックにはお金を使わない。ホールの基本的な機能を高めるために、他にいくらでもお金をかけるところはある。建築家が考えるような、建物に付随した演出のための機構は、ほとんど使われないのが現実だ。

ホールを建てるときは、この事例をひとつの参考にしてほしい。

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登録日:2007年 07月 12日 14:39:55

建築家のギミックとホールの現実 その2

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3.完成後

劇場が完成し、博覧会の会期中は劇場の管理・運営は大手広告代理店に委ねられた。大手広告代理店は劇場の背面の開放機構をロックし、扉の隙間から吹き込む雨を防ぐため土嚢を積み、その前に黒ホリゾント幕を垂らした。そして舞台を使う団体に配布する催事マニュアルにも、背面が開くという説明は載せなかった。

つまり背面開放を完全に封印してしまったのだ。会期中はこの仕様を基本に全ての出し物が行なわれた。

大手広告代理店から見れば、1日の中で次々と違う出し物を回していかねばならないときに、舞台のホリゾントの状態をいちいち替えることは非現実的である。また背面を開けてしまうと、通常の照明では効かなくなるが、それでも使える強力な照明は用意できない。
そして何よりも、背面を開けると舞台の上が風の通り道になり、バトンや照明、出演者が風に煽られて危険だ。

管理・運営を請負い、コストと安全に責任のある彼等にとっては、建築家の意図や施主の希望がどうあれ当然の判断だった。そもそも6ヶ月189日間毎日様々な出し物が行なわれる中で、背面を開けるような企画など考えなくても、まったく差し支えはないのだ。

こうして博覧会が始まり、劇場は連日プロやアマチュアの様々なパフォーマンスで賑わったが、劇場の背面をあけることができるという機能は忘れ去られてしまった。

続く・・・

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登録日:2007年 07月 12日 11:02:16

建築家のギミックとホールの現実 その1

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建築家が考えたホール運営と現実のホール運営の違いを実例で紹介する。

その事例とは、2004年4月8日から10月11日まで静岡県浜松市で開催された、しずおか国際園芸博覧会、通称「浜名湖花博」での出来事である。会場は浜名湖畔に整備された「浜名湖ガーデンパーク」で、博覧会の仮設パビリオンだけでなく、公園としての恒久施設も整備された。そのひとつが、1000席の野外劇場「水辺の劇場」であった。

1.設計段階

この劇場は屋根付きの舞台とテント屋根に覆われたベンチシートの客席を持ち、劇場の背後には運河が流れている。劇場の背面は4枚のスライディングドアで開放できるようになっている。開放すると、舞台と同じつらで運河側に屋根のない舞台が張り出している。

設計段階の打ち合わせで、設計者は筆者に対して、劇場のコンセプトは開かれた劇場、周囲の花と緑、水の環境と一体になった劇場であり、舞台背面を開放することにより「客席からも運河側からも、ステージの出し物を見ることができる」「開いた状態で運河の景色を借景とする出し物ができる」「閉じた状態で、客席側と違う出し物を実施し、運河を通る遊覧ボートや対岸の広場から見ることができる」などと説明した。施主である県はこの設計を非常に気に入っているということだった。

2.試奏会

筆者はこのホールの完成後、試奏会及び音響テストを依頼された。半野外の劇場として、音響テストでは背面の開閉による音への影響はそれほどなかった。試奏会は地元のアマチュア吹奏楽団を起用し、関係者やその家族800人ほどに観客になってもらい、観客、指揮者及び演奏者、専門家の3グループで音を評価してもらった。ここでも背面の開閉による音の影響はほとんどなかった。むしろ背後の景色が見えることによる視覚的な解放感を評価する声が多かった。

ただし、吹奏楽団の演奏方向を180度回転して、運河及び対岸に向けて演奏した時には、「BGMとしては聞けるけれども鑑賞に値するほどは聞こえない」という観客の声が大半だった。また、持込の簡易PAスピーカーを運河側に向けて司会者が話す実験では、対岸では声はほとんど聞き取れなかった。

なお、試奏会の実施時期はオープンの9ヶ月前であり、バトンや照明器具は設置されていなかった。この時判明した設計上の問題は、客席両横の上部から雨が舞台上に吹き込む、というもので、その後テント屋根形状の改善が図られた。

続く・・

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登録日:2007年 07月 12日 10:54:55

(仮称)城下町ホールのこと

今日、たまたま専門家と話していて、小田原市の(仮称)城下町ホールのことが話題になった。

彼いわく「選考委員の顔ぶれを見れば、ああいうプランが選ばれるのもわかるよね」

顔ぶれとは、

委員長     藤森照信(大学教授・建築家)
副委員長    市橋匠(小田原市助役)
委員       伊東豊雄(建築家)
          松村みち子(小田原市景観審議会委員)
          本杉省三(大学教授・劇場計画コンサルタント)
          坂本恵三(小田原市企画部長)

もちろん筆者は、建築家としての藤森氏、伊東氏はおおいに尊敬するし(特に、筆者の住む市にある藤森氏設計の秋野不矩美術館は好きな建築のひとつである)、本杉氏の実績にも敬意を払う。しかし、委員の中に、プロにしろアマチュアにしろ、リスクをとって公演を主催する人が誰も入っていないことが問題だ。

病院の建築コンペをするときに、審査員に医師が入っていない、ということがあり得るだろうか。おそらく現役の医師が入って自らが医療行為をするときの使い勝手の観点から審査するに違いない。

ならばなぜ、ホールの審査で、実際にそこを使って公演を主催(制作)する人が入っていないのだろうか。もし入っていれば、その人は実際に公演を行なう立場から審査するに違いない。公演の採算にとっても、ホールの使い勝手は死活問題だからだ。

そして結論としては、山本理顕氏のプランはおそらく選ばれなかっただろう。

審査委員の顔ぶれに問題があることは、以下の山本理顕氏のプランが選ばれた理由にも現れている。

◇選定理由(小田原市ホームページより)
○ホールが本来持っている晴れやかさ、非日常性を感じさせる魅力あふれる提案である。
○「小田原だからこそ、このメインホールを」という設計者の情熱が感じられる提案となっており、「都市の自由広場のようなホール」というコンセプトは、小田原のシンボルとして、今後の小田原市のまちづくりに大きな影響を与えると思われる。
○メインホールの使い方を設計者としてしっかりと捉え、具体的な使用イメージに基づく提案であり、ホール機能についての真摯な姿勢が感じられる。
○オープンロビーの機能、音響面、耐震性などが優れた提案であり、実績のある設計者による完成度の高い設計が期待できる。

一番の問題はこの3番目の理由だ。

ホールとは、そこに実演家が自分の世界を描く真ッサラなキャンパスだ。これは実演芸術家の共通認識だ。それなのに、「使い方を設計者としてしっかり捉え」「具体的な使用イメージ」に基づいて機能を提案していることが評価されている。実演家の「具体的な使用イメージ」は多様であり、それを実現できるのは、公演ごとに創られる舞台美術、大道具小道具、音響、照明である。建築家が提供する、建築に付随しているがゆえに限られた機能で実現できるものではない。「具体的な使用イメージ」は建築家の想像力をはるかに超えた多様性があるのだ。

これは、この城下町ホールについて発言している劇作家井上ひさし氏※はじめ多くの専門家が共通に指摘していることだ。ここがわからなっかったことが、審査委員の中に専門家がいなかったことを証明しているようだ。
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登録日:2007年 07月 05日 23:18:13

ホールを設計する建築家にお願いしたいこと

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磯崎新氏設計のグランシップ大ホールのステージ上には写真のように「コーン」と呼ばれる巨大なものが覆いかぶさっている。上下にわかれたコーンのうち、下側はモーターで動き、角度を変えられるようになっている。上に跳ね上がった状態にもできるし、写真のように下に垂れ下がった状態にもできる。磯崎氏のアイディアに基づいて三菱重工が造った巨大な可動装置である。

この装置は音響反射板ではない。むしろパンチングメタルで表面を覆われて吸音効果がある。筆者はこの「コーン」の用途を磯崎氏の事務所の所員に訊ねた。その答えは「演出のためのものです。「コーン」にさまざまに照明をあてて、効果を演出することができます。」

この答えを聞いて筆者はキレたのである。

「コーン」に照明を当てて演出効果を出すのが良い出し物もあれば、それを必要としない出し物もある。必要としない出し物でも、白い巨大な「コーン」は存在感を示す。場内を暗転しても白い姿が浮かび上がる。そのようなときは邪魔者以外の何者でもない。

実演芸術では、毎回それにふさわしい舞台美術を考える。何もないステージの上に、その都度「異空間」を作り出し、観客を夢の世界に誘い、実演の世界に取り込むのだ。それなのに、どんな場合でも「コーン」が存在を主張したらぶち壊しだ。所員は「だからどんな演目でも「コーン」を効果的に使えばいいじゃないですか」と言う。実演芸術をなめているとしか思えない。いかに他とは違うものを創るか努力しているのに、舞台装置がホールに備え付けで毎回同じというのはありえないではないか。

建築家は自分も芸術家だと思っているので、実演芸術が好きだ。だからホールの設計で何とか関与しようとする。しかし実演芸術にとって良いホールのデザインとは、デザインの存在を消すデザインである。シンプルで何もない空間に、実演芸術家は自分の世界を作り上げる。だからどうかそれを邪魔せず、何もないシンプルな空間を用意してほしいのだ。

ホールが暗転したら完全に建築の存在感は消えてほしい。たとえ客電が点いても、建築の存在感は最小限にして、観客の想像力や余韻を邪魔しないでほしい。だからとんがったデザインは必要ない。シンプルで、バランスがとれていればよい。それが多くの実演芸術家の考えている演じやすいホールだ。実演家は建築からインスピレーションを与えられるだろう、という建築家がもしいれば、それは傲慢だ。

小田原市の仮称城下町ホールの山本理顕氏の設計は、湾曲の壁面をはじめとしてホールの内部で建築が存在を主張しすぎている。実演家にとってはとてもやりにくいホールになるだろう。

前々回の記事に書いた19世紀ドイツの偉大な建築家、シンケルはそこのところをよくわかっていた。彼は建築家であるとともに優れた舞台美術家であり、オペラなどで数々の優れた舞台美術を残した。恒久的な建築と、一期一会で消えていく舞台美術の違いがはっきりわかっている、真の芸術家だったと言えるだろう。

現代日本の建築家も、その違いをわかってほしいと切に願うのである。

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登録日:2007年 06月 29日 20:58:57

ホール建設を計画している自治体及び建築家への提言

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厳しい財政事情の中でホール建設を進めている自治体及び建築家の皆さんに提言がある。

それは、いいホールを建てるために、興行会社の劇場から学んだらどうか、ということだ。

自治体のホールは建設費を償却する必要がない。しかし興行を本業とする企業は、そのための設備としての劇場の建設費を事業収入から償却していかねばならない。つまり建設費の元をとらねばならないのだ。

そんなことが本当に可能だろうか。自主事業の収支比率(公演の総経費に占める収入の比率)が50%そこそこの公共ホールから見れば信じられないかもしれないが、興行会社はこれができなければ倒産してしまう。

そのためには当然ながら劇場の建設費は徹底的に抑えなければならない。その典型が、1998年に竣工した劇団四季の劇場「春」と「秋」だ。写真を見ていただければわかるように、この劇場の形状は単純な箱の組み合わせで、外壁の素材は鉄板だ。いわゆる「安普請」だ。

しかし、劇場の建築が粗末だからといって、劇団四季の公演が粗末だという話は聞いたことがない。劇場の外観・デザインと公演の質にはあまり関係がないということだ。

この劇場はミュージカル専用劇場なので、ミュージカルのための舞台設備・機能は非常に充実している。また、観客を快適にする数々の工夫がされている。ミュージカルはロングランで演目の転換も大掛かりのため、それをやりやすくするための構造上の工夫も欠かせない。当然山本理顕氏の城下町ホールと違い、搬入口は道路に直接面していて大型トラックが横付けできる。

以前劇団四季の主催者浅利慶太氏は、自分たちの劇場は公共ホールの半分のコストでできると豪語していた。確かに、型が単純で大理石の壁のような余分なものは何一つないので説得力がある。

建築家は劇場は夢を与える空間だと言うかもしれない。それなら劇団四季の公演がある夜に行ってみるといい。道路からファサードに向かうライトアップで演出された通路を行くだけで、心が高揚し、期待感が膨らむ。たとえ壁が鉄板であってもだ。

建築家にとっては立体的な造形ができず、せいぜい平面の色やグラフィック的なデザインしかやる余地がないので不満かもしれない。しかし四季劇場の事例で発注者である自治体に考えて欲しいのは、建築家の考える造形と、そこで行なわれる実演の質を高めたり集客したりするととは関係ない、ということだ。そう考えれば建設費を劇的に下げる方法が見えてくる。

それにしても、2001年度の劇団四季(四季株式会社)の営業収入(売り上げ)は189.5億円、営業利益は25.7億円(直近2007年3月期の売上は229.2億円)。建設費を償却しながら(あるいは償却費相当の使用料を支払いながら)この数字は立派というほかない。

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登録日:2007年 06月 27日 23:36:05

ハコモノ行政における建築家の罪

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19世紀ドイツの新古典主義建築家、カール・フリードリヒ・シンケルは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の求めに応じて、ベルリンに今なお残る名建築、シャウスピールハウス(現コンツェルトハウス・ベルリン)を設計した。

発注者であるプロイセン国王は当時の絶対君主なので、シンケルは国王の支持のもとに思う存分腕をふるうことができた。国王さえ満足させればよかったのである。また国王の注文には国威を発揚し、国王の権威を高めることが含まれていた。シンケルは見事に期待に応えた。

ふりかえって現代の日本では、建築の発注者である自治体の首長は、直接選挙で選ばれ、大統領的権限を持つとはいえ、絶対君主ではない。それにもかかわらず、首長が恣意的に自らの趣味を発揮することにより、建築コストもメンテナンスコストも高く、機能性の劣る公共建築が数多く造られてた。その多くがいわゆる「アトリエ系」といわれる建築家によって設計されてきた。名誉欲があり、自分のモニュメントを残したい首長が、「芸術家」としての「アトリエ系」建築家に取り込まれる形で、このような建物が設計されてきたのだ。ただでさえ無駄なハコモノに、無駄なデザインが施されていた、ということだ。

しかし建築家は時代が変わったことを知るべきである。何が変わったかについては、2点ある。

第一点目は、建築家はもはや公共建築の機能についての全能な専門家ではない、ということである。

今、小田原市では、仮称城下町ホールの建設をめぐって市民の反対運動が起きている。この反対運動は、建設に対する反対運動ではなく、設計案に対する反対運動だ。設計者は「アトリエ系」建築家の代表格である山本理顕氏だ。

筆者は今まで、数多くの公共ホールでコンサートや音楽イベントを企画し実施してきた経験から、公共ホールを設計した建築家の勘違いを指摘してきた。例えば磯崎新氏が設計した静岡グランシップ大ホールの設計上の欠陥などである。その原因は建築家の実演芸術の現場に対する無理解(しったかぶり)から生じている。

この観点から仮称城下町ホールの設計を見ると、「アトリエ系」建築家の手法の欠点が見えてくる。それは端的に言えば、コンセプトへの理解が浅い、ということだ。言葉を真に受けてしまう、とでも言えばいいのか、言葉に酔ってしまうと言ったらいいのか。その割りに本当の機能に対しては無知なのだ。

例えば、城下町ホールは市民が集い交流する広場だということが言われている。それはどのようにして実現できるかといえば、ホールで行われるコンサートや演劇、イベントなどのソフトで、そのような交流を生み出すものを企画する必要があるということだろう。しかるに山本理顕氏はこの言葉を短絡的に解釈し、ホール内を広場にして外から直接パレードなどが入っていけるような設計を考えている。そんな機構を利用する演目などほとんどないだろう。

グランシップ大ホールにもそのような仕掛けがあるが、使われたのはオープン以来1~2度に過ぎない。ホールのコンセプトが広場だから物理的に広場を作ってしまう、という驚くべき単純な発想だ。その結果ホール本来の機能が損なわれ、市民が集い交流する「広場」としての役割が低下してしまう。しかも余分なコストがかかる。

小田原の反対運動は、デザインによる機能低下を懸念するアマチュアの実演団体や音楽、演劇などの専門家から起こっている。

アトリエ系建築家特有の、饒舌かつ難解な言葉遊びとそれを単純に設計に反映させる手法は、社会が成熟し、人々が公共建築に求める機能がはっきりしていて、しかもコストパフォーマンスにシビアになっている時代には通用しない。市民も、実演家などの専門家も、建築とその機能に対して建築家よりも専門的な観点からシビアな目を向けている。これは建築家が唯一の専門家と目された時代が終わったということだ。

二点目に建築家が理解しなければならない時代の変化は、地方自治における本来のガバナンスが回復し、市民が主役になりつつあることである。

今まで建築家は、首長が単に市民から執行を付託されているだけの存在に過ぎないことを理解せず、あたかも絶対君主であるかのようにみなしてきた。しかし今や市民の意向を無視することはできないのだ。

山本理顕氏は群馬県邑楽町で訴訟を起こしている。新庁舎の設計コンペに勝って実施設計まで完了したのに、町長が選挙で交代したら山本氏の設計を採用せず、もう一度選考をしなおしてまったく別の設計案を採用したからだ。

法律上の問題や、山本氏への町の対応の適否はともかく、新町長は、「ぜいたくな庁舎はいらない」、「造るなら庁舎建設基金の予算内で建てられるよう努力する」という公約を掲げて当選している。これは山本氏の設計案が市民の支持を得られなかったことを意味している。山本氏の設計案では本体工事は37億円、新たな設計で町が目指しているのは26億円以内で建てることである。(ちなみに既に支払われた山本氏の設計料は1億1300万円、新たな設計案に当選した事務所の設計料は4000万円である)。

建築家はこう反論するかもしれない。「市民の理解を得られることがもっとも大切なのはわかっているので、市民ワークショップを何回もやったり、市民の委員会と一緒に考えてきたのだ」と。それは市民の意向を理解していることにならない。

市民の関心事は、国の借金であり自治体の財政悪化だ。ハコモノはできるだけ造らない、造るのであれば最小の費用で最大の効果を発揮してほしい、というのが現在公共建築を設計する建築家に突きつけられている市民の意向だ。山本氏の設計案はいずれも(邑楽町も小田原も)この意向に沿っているとは言い難い。邑楽町の新設計案は山本氏の設計案から見れば何の新鮮味もなく、「作品」として見れば比較にならない。しかし10億安いのだから多くの町民はそれで良しとしているのだ。

ガバナンスが変化し、建築家は市民の意向を無視することはできなくなった。そしてその意向とは、機能性にすぐれたものを、いかに安くつくり、メンテナンスコストも下がる設計ができるかだ。絶対君主ではないのだから、権威や象徴性はいらない。ましてや、公共建築は建築家の「作品」(建ってしまえば)という時代ではなくなったのだ。
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登録日:2007年 06月 25日 00:50:23

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プロフィール
Ryuichi Himori
(男)
団塊世代の会社員から、定年を1年半後にひかえ、大学教員に転職しました。その他行政経営フォーラム副代表、市民フォーラム21・NPOセンター常務理事、県生涯学習審議会委員、県NPOパートナーシップ会議委員などを務めています。行政への企業経営手法の導入や、文化政策、地域政策、NPO論などを研究しています。
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