カテゴリー [建築ハンター]

建築とアート

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横浜市美術館の建物はどうも好きになれない。ポストモダンというのだろうが、権威主義を感じさせるデザインだと思う。

美術館の石づくりの前庭に、粗末な手作り風のベンチが置いてある。今は足が白、座の部分はブルーのペンキで塗られている。最近教えてもらったのだが、このベンチ、高いビルからみると I LOVE PEACE というかたちになっているのだ。

建築の権威主義をぶち壊す絶妙の作品。建築はアートではない。このベンチのようなのがアートだ。というわかりやすい実例。

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登録日:2011年 06月 25日 22:59:09

アメリカの公共事業

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このアールデコ様式の建物は、ミシシッピ州の人口15000人くらいの田舎町にある生徒数500人の小さな高校。

アメリカ大恐慌の後、ルーズベルト大統領はニューディール政策で全国に公共事業をばらまいたが、全国の高校の建物を新しくしたり、新たに高校を建てたり、ということも行われた。この高校もその一環として1937年に建てられた。

今では州の登録文化財にもなっているらしいが、とてもよく手入れされ、きれいに使われている。中も見学させてもらったが、外国のお客さんが来ると生徒がキャーキャー騒ぐのも日本と変わらない。

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登録日:2010年 05月 18日 13:58:59

屋根の上のピアノ弾き

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浜松インター近く、ピアノ運送株式会社浜松支店ビルの屋上に巨大なピアノとピアニストが。

なぜあるのか不明だが、東名を降りると(元)ピアノの町浜松らしいシンボルがお出迎え。

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登録日:2010年 04月 11日 00:32:16

ヤマハ銀座ビル

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ヤマハ銀座ビルの建て替えが完成し、2010年2月にオープンした。

計画段階で筆者はまだヤマハの社員だったのでほんの少し関わったが、当初営業部門からは「アトリエ系建築家」に任せてはどうか?という意見が出た。

それはなぜかというと、1951年に完成した旧ヤマハ銀座ビルが、フランク・ロイド・ライトの弟子でチェコ出身の名建築家、アントニン・レーモンドの設計だったからである。戦争の傷跡さめやらぬ銀座に忽然と現れたこの近代的なビルは、戦後日本復興の象徴であり、全面ガラス張りで入ると3階まで貫く吹き抜けなど斬新な設計で一世を風靡した。

当時の社長が超ワンマン川上源一だったからこそできた建築だった。営業部門が「アトリエ系建築家」を望んだのは、はす向かいの資生堂ビルなどに対抗して、再び銀座でヤマハの存在感を示したい、という思惑があったからだ。

その後様々な検討があり、コストとデザインのバランスを重視する営繕部門の意向で設計事務所は日建設計になった(筆者は個人的には、民間企業であるヤマハは自社の営繕部門でコストとコンセプトを完全にコントロールできるので、著名「アトリエ系建築家」に任せてもいいのではないか、と思っていたのだが)。

ともあれこのビルには楽器メーカーらしいユニークな工夫が詰まっている。特にホールは社内の専門家が音響設計に粋を凝らしている。音楽ホールとして敷地的に困難があったが建築設計に対して一切妥協はしていない。

http://www.yamaha.co.jp/yamahaginza/concierge/index.html

プロジェクトを担った後輩のNa君には Good Job と言ってあげたいが、果たしてレーモンドを超えることができただろうか。レーモンドの名建築が無くなったことには忸怩たるものがあるが、老巧化と規制の緩和により、資産をとことん活用しなければならない民間企業としてはやむを得ない建て替えだったと思う。それだけにこのビルはあと60年間建築的価値や景観への寄与を維持する宿命を負っているのだ。

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登録日:2010年 03月 19日 01:52:02

建築ハンター

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筆者は建築が嫌いなわけではない。むしろ好きな方である。

そこで新カテゴリー登場。小田原市の仮称城下町ホールコンペ審査委員長の藤森氏が建築探偵なので筆者は建築ハンター。気になった建築を自分の写真で紹介する。

その第一弾は、今を時めく建築家、隈健吾氏の1991年の作品「M2」。

バブル最盛期の1989年、自動車メーカーマツダは「5ブランド戦略」を展開した。マツダ、アンフィニ、ユーノス、オートザム、オートラマの5つのブランドの車を5チャンネルの販売網を作って販売する。車はプラットフォームは同一だがデザインは異なり、専売の車種もある。

当時ヤマハの経営企画室でブランド戦略などに従事していた筆者は、マツダのこの戦略は絶対失敗するだろうと思っていた。ブランドのコンセプトが机上で考えられたもので必然性のあるストーリーがないからだ。

メーカーが勝手にユーザーをセグメントしてそれぞれのライフスタイルと称するものをでっち上げ、そのライフスタイルに合ったデザインと車種を用意する。しかし現実の消費者にそんな首尾一貫したライフスタイルと好みを持つ人はいない。それに、例えば高感度な消費者に向けたヨーロピアンテーストのブランドユーノスといっても、その販売店は田舎にもあり、セールスマンは田舎のおっさんにも売らなければならないのだ。

ゼネラルモータースにしろ旧ブリティッシュモータースにしろ、かつてバッジエンジニアリングという手法をとった企業は、ブランド名キャデラックにしろMGにしろ、もともとの出自があり、それぞれのブランドのストーリーと顧客を持っていた。ユーノスもアンフィニも全くそんなものはない。頭の中だけで考えたコンセプトにもとづくブランドでもとから支持者がいたわけではない。体力のないメーカーがそんな5ブランドに資源を分散したらもつわけがない。

さて、もうひとつのマツダの勘違いが、都会の高感度のユーザーと交流し、その感性を商品開発に生かそう、という試みだ。そのためにM2という拠点を東京世田谷の環状八号沿いに作った。それがこの隈健吾氏設計のビル、M2だった。技術者が常駐し、様々なイベントを行って訪れるユーザーと直接交流する施設だ。

広島のメーカーであるマツダの気持ちは、当時浜松のメーカーヤマハの社員だった筆者には痛いほどよくわかった。にもかかわらず筆者はこれもうまくいかないだろうと思った。
東京は消費地である。高感度なユーザーも選択しているだけで創造しているわけではない。いくら話を聞いてもそれだけで新しいものは生まれない。なぜならば、高感度だろうがなかろうがユーザーは自分のウォンツはあってもそれを表現することはできないのだ。ウォンツは潜在化しており、企画開発者はそれを読み取らねばならない。むしろ話を聞かない方がいいのかもしれないのだ。交流をもとにパーツなどを付け加えたM2ブランドの車も売られたが、マツダの経営に特段影響を与えたようには見えなかった。

5ブランドもM2も、ものづくりのマーケティングを知らない大手広告代理店か外資系コンサルティング会社の入れ知恵だろうが、筆者はM2も長くないな、と思った。

あんのじょう1995年、ここは閉鎖された。

建築家というのは因果な商売である。どんなにコンセプトがあってそれを表現したつもりでも、それは施主の変遷とともに忘れ去られる。しかし建物という殻は残り、後世、なんであんな変なデザインなんだろう、と言われたりする。

1995年から無残な空家となったこのビルは、2003年葬儀社に買われ、メモリアードホールという葬祭場になっている。建物の内部構造が向いていたらしい。隈健吾氏設計の葬祭場ということになる。建築設計とはそういいうものなのだろう。

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登録日:2010年 03月 14日 22:51:52

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プロフィール
Ryuichi Himori
(男)
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団塊世代の会社員から、定年を1年半後にひかえ、大学教授に転職しました。肩書きは日本文化政策学会理事、市民フォーラム21・NPOセンター常務理事、(社)指定管理者協会理事長などいろいろ。公共経営・行政経営(NPM)、文化政策、アートマネージメント、NPO論などを研究しています。
というような立場を離れて、勝手なことを書かせていただきます。
(なお、mixi Twitter facebookもやってます。)
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