カテゴリー [我が思い出の英国車]
これでも中流階級

この押し出しの立派なリムジンは1962年型デイムラー・マジェスティク・メイジャー・リムジン。V8、4.5リッターの堂々たる貫録だ。運転席と後席の間にはパーティションがあり、後席は運転席側を背にした2席と最後部で前を向いた3席が向かい合っている。つまり今でいう3列シートだ。
デイムラーは1905年創業のイギリス最古のメーカーで代々イギリス王室の御料車を作ってきた名門だが、1960年にはジャガー(伝統と格式を誇るイギリスでは、1922年にサー・ウィリアム・ライオンズがサイドカーメーカーとして創業したジャガーは新興勢力)に吸収されていた。
さて、この車は当時の東京銀行ロンドン支店の支店長公用車だったので、筆者もたまに乗る機会があった。乗っていると王族気分になってつい窓から手を振りたくなったものだ。
しかし、この車の車格は上流階級ではなくあくまでも中流階級の車だった。つまりサラリーマン重役のための社用車である。当時のイギリスでは上流階級とは財産があって働かなくてすむ人のことであり、貴族以外に経営者であればオーナー経営者でしかも3代続いていなければ上流階級とはみなされなかった(3代続かないと上流階級に相応しい洗練と教養が身につかないので)。
つまり当時はストックがあるのが上流階級、どんなに高給取りでもフローのために働かなければならないのが中流階級だった。
ということでこの車は働く「番頭さん」の車だ。同じ車格としてはヴァンデン・プラ・プリンセスリムジンがあった。こちらも堂々たる押し出しで同じく日本企業の社用車として使われていた。ちなみにデイムラーやヴァンデン・プラの価格は上流階級の乗るロールスロイスの半額以下だった。まあ、今の日本でいえばクラウンマジェスタと思えばわかりやすいだろう。
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登録日:2011年 09月 05日 23:35:36
上流階級は何に乗るか

この優美なクーペは1955年型ベントレーRタイプコンティネンタル。
当時のイギリスで本当の上流階級が何に乗っていたかと言えば、ロールスロイス、ベントレー、アストンマーティン、ラゴンダ、ブリストルなど。オースチンヒーレー3000などは、プアマンズアストンと言われた。
普通は上流階級はショーファー(自家用車の運転手)に運転させていたが、休日などたまには自らハンドルを握ることもあった。そのためロールスロイスやベントレーにもスポーティーなタイプが用意されていた(まったく次元は違うが、クラウンアスリートのようなもの)。
さて、ある日中学生の筆者がナイツブリッジのハロッズの向かい側の歩道を歩いていたときのこと。この優美なベントレーがハロッズの前に停まった。そして運転席から降りてきたのは制服制帽のショーファー。ショーファーはおもむろに歩道側に回って助手席のドアをうやうやしくあけた。そこから降りてきたのはミンクの毛皮のコートに身を包んだ白髪の老婦人。
子ども心に、2ドアの車をショーファーに運転させるのもありなのか、と思った。奥深いイギリスの自動車文化に触れた瞬間だった。
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登録日:2011年 08月 07日 23:08:56
はじめてのマイカー

1962年(昭和37年)から1964(昭和39年)年まで、父の2回目の海外赴任先はロンドンだった。そこで我が家は初めて自家用車を買った。それがこの1962年型モーリスオックスフォード。
ピニンファリーナデザインによるFRのセダンはオースチン・ケンブリッジ、MGマグネット、ライレー、ウーズレーという兄弟車があった。車各はモーリスとオースチンは同格で、シティの銀行に通う堅実な銀行員にはぴったりの車だった。
MGはスポーティ、ライレーとウーズレーはやや高級。当時のイギリスは階級の中の階層も細かく分かれ、それぞれが分相応を守って生活していたために、イギリスの民族資本メーカーだったBMC(ブリティッシュモーターカンパニー)としては、階層に合わせたきめ細かなバッジエンジニアリングを必要とした。
オーナーカーの場合、同じ中流階級でも、モーリスとオースチンは中の中、ライレーとウーズレーは中の中の上。中の上(アッパーミドル)になるとジャガーやローバー。中の下はオースチンA40やフォードアングリア。それより下の労働者階級はモーリスマイナーや後にはミニ、ヒルマンインプなどの小さな車に乗っていた。このようにそれぞれが身の程のライフスタイルを営み、「いつかはクラウン」などという大それた望みを抱かないのが当時のイギリス社会だった。
家の車はこの絵と同じグリーンと白のツートンカラー。この車で家族でウエールズ一周旅行をしたり、夏はブライトンに銀行が借りた海の家に行ったり、コーンウォール地方を回ったり、数々の思い出がある。
ある時、カンタベリーやストーンヘンジを見た後ロンドンへ帰る途中、渋滞にいらいらした父は、強引に追い越しをかけては前へ割り込む、という運転を繰り返した。すると、カーブを曲がったところにお巡りさんが一人立っていて手招きしている。車を寄せると近づいてきて「エクスキューズミー サー」とイギリス人らしい馬鹿丁寧さで「今日は休日で、イギリス全土の最高速度は時速50マイルと決められています。おそらく御存じなかったのでしょうが、ここから先はお守りください」という。
どこかでちゃんと見張っていて無線で連絡して捕まえて警告したのだろう。いかにもイギリスらしい取り締まりだ(イギリス社会というのはけっこう陰険なのだ)。
ちなみに、当時のイギリスでは、どんな細い道でも、速度標識がなければそれは速度無制限を意味した。結果は自己責任なので。
父はこの車でタクシーとぶつかったり、M1の中央分離帯に乗り上げたり、いろいろ事故を起こしたが、幸い大事に至ることはなく、無事に日本に帰ることができた。日本に帰ってすぐは経済的に自家用車を持つことができなかったので(海外赴任手当のない給料では買えなかった)、我が家に再び自家用車が来たのは1971年(昭和46年)、中古のブルーバード510だった。
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登録日:2011年 08月 02日 00:46:35
思い出のインド
このカテゴリー第二弾は、実はイギリスでなくインドが舞台である。
筆者の父は東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に勤めていて、1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)までインドのボンベイ(現在のムンバイ)に赴任していた。
後に、戦後間もないそんな時期になぜボンベイに支店があったのか父に聞いたところ、戦後の復興のために鉄を必要としていた日本は、比較的親日的だったインドからいち早く鉄鉱石を輸入し、その取引と輸送のため商社と船会社と製鉄会社がボンベイとカルカッタに進出し、それを金融面で支えるために、当時外国為替専門銀行だった東京銀行が支店を置いていたとのことだった。
蛇足ながら、戦後の復興から高度経済成長を支えたのは、大正生まれの父の世代であり、息子である筆者の世代(団塊世代)ではない。筆者の世代はその成果を享受しただけである。
母と筆者、そして妹の3人は、先に赴任していた父を追って、羽田空港からインド航空のロッキードスーパーコンステレーション(尾翼が3枚羽根のやつ)で旅立ち、途中香港、バンコク、カルカッタを経てボンベイに到着した。
当時ボンベイでは、日本からの駐在員は外国人やインドの高額所得者層の住む地域のフラット(マンション)に住んでいた。筆者の住むフラットの下の階にはカナダ人の家族が住んでいて家族ぐるみ交流していた。
日本人駐在員は、他の外国人と同じように、貧しいインド人を雇用する暗黙の義務があり、父が平社員にすぎなかった筆者の家でも、ボーイ、コック、子守り、掃除人をやっとていた。これでも最低限だったという。
ボーイとコックは戦前から日本人に雇われていて、第二次世界大戦の時期を除いて代々の駐在員に引き継がれていたために、コックは日本食を作ることができボーイ(確か名前はソーマン)は日本語が堪能だった。もっとも筆者はコックがつくるチャパティやサモサが好きだったが。
家事をやらなくてすむ母は、ボンベイでゴルフとマージャンを覚えた。なお、87歳の母は今でも当時の駐在員の奥さん仲間とマージャンをやっている。とはいえ、当時の駐在員の奥さんには欧米風の社交を担うという役割があった。付き合いはすべて夫婦単位であり、パーティーに夫婦で出かけたり、接待は自宅でもてなすのが基本だった。当時のビジネスでは単身赴任は考えられなかった。そのため、東京銀行では赴任する奥さんのための研修があった、と母に聞いた。着物の着付けとか活け花、英会話など。当時のドレスコードでは夜の正装(男性は燕尾服か略式ならタキシード)の場合、日本人女性はイブニングドレスの代わりに訪問着で通すことができた(その方が喜ばれた)ので着付けは必須だった。
で、やっと車の話になるのだが、当時駐在員の家族の移動は治安上の必要から運転手付きの車が基本だった(これは発展途上国では今でも変わらない)。複数の家族で一台の車と運転手をシェアした。で、筆者に割り当てられた車はこの1954年型オースチンA70(写真)。色はグレーだったと思うが、定かではない。制服制帽の、インド人としても色の黒い運転手が、いつもにこやかな顔で迎えに来ていた。
このオースチンA70とほぼ同じ形の小型版だったオースチンA40サマーセットは、日産自動車がノックダウン生産してだるまオースチンとして親しまれたので、年配の方には記憶があるかも知れない。イギリスの自動車産業が産業としての体を為していたほぼ最後に近い時代の、当時の日本の純国産車とは比べ物にならない完成度の高い車だったのではないだろうか。
しかし、支店長の公用車は、オースチンよりもさらに豪華で大きく高性能な、プリマスだったかデゾートだったか定かではないがクライスラー社の立派なアメリカ車だった。
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登録日:2011年 07月 26日 23:34:07
MG1100

最近歳のせいか記憶力が減退している。
そこで、今のうちに、自動車少年だった中学生のとき、イギリスで出会った数々の車についての思い出を綴って行く。
第一弾はMG1100。
1963年、中学生だった筆者は、それまで通っていた近所のセントメアリーズスクールというセコンダリーモダンスクール(当時の学制で公立の、労働者階級の行く学校)から、ウェルウィンガーデンシティスクールというボーディングスクール(全寮制の私立学校)へ転校した。
転校する時、セントメアリーズのロバーツ先生から「君が行く学校にはミス・ジョーンズという先生がいるはずだ。もし会ったらよろしく伝えてくれ」と言われた。なんとなく遠い目で。
転校先で会ったミス・ジョーンズは若く独身の美人の先生だった。筆者はしどろもどろになって伝言を伝えた。ミス・ジョーンズは「あら、懐かしいわ。ミスタ・ロバーツはお元気だった?」というようなことを言ったと思う。子ども心にミスタ・ロバーツは振られたのだなと思った。
そのミス・ジョーンズがブルネットの髪をなびかせて颯爽と運転していたのがこのツートンカラーのMG1100。当時発売されたばかりのこの車は、同じADO16のオースチンやモーリスと比べて、ツインキャブで1.3倍くらい高価だったが、美人教師にふさわしいおしゃれな車だった。
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登録日:2011年 07月 23日 23:23:15
- プロフィール
- Ryuichi Himori
- (男)
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- 団塊世代の会社員から、定年を1年半後にひかえ、大学教授に転職しました。肩書きは日本文化政策学会理事、市民フォーラム21・NPOセンター常務理事、(社)指定管理者協会理事長などいろいろ。公共経営・行政経営(NPM)、文化政策、アートマネージメント、NPO論などを研究しています。
というような立場を離れて、勝手なことを書かせていただきます。
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