2008年 01月

地上に刻まれた謎。ナスカの地上絵は何を物語っているのか!?

ナスカの地上絵

アンデス山脈。ここにはナスカ人が残した巨大な地上絵がある。比較的安い値段でセスナから見ることが出来るので観光スポットとしてもとても人気がある。現代人を魅了するこれらの地上絵は誰が何のために作成したのだろうか?その謎に触れてみよう。

それは砂漠に広がっている

ナスカはペルー南部とアンデス山脈に挟まれた砂漠地帯にある。そしてここには人々の興味をひく巨大な地上絵が残っている。例えば、コンドルなどの鳥類、トカゲ・ヘビなどの生物、サル、クモ、人物絵などで、滑走路のようであると言われている幾何学模様もある。

地上絵の不思議




上記に述べた中で不可解な謎が既に存在する。サルはアンデスの山を越さないと生息していない。当時インカ人は山を越えて交流を図っていたのであろうか?更に不思議なことはクモ。このクモには描かれている生殖器より、リキヌレイ属というアマゾンに生息する珍種といわれているのだ。はたしてこれは当時のナスカ人がアマゾンに入り、それを描いたということを意味しているのだろうか… 注目を浴びているのはこれだけでなく、一般にフクロウ人間といわれている地上絵も例外ではない。あなたは上の写真を見て何を思うだろうか…

ナスカの地上絵をめぐる仮説

このように謎に包まれたナスカの地上絵には様々な仮説が立てられている。過去に様々な研究などが進み、徐々にナスカの地上絵のことが分かりかけてきた。しかし、未だに"何の目的に?"という問いに対し、はっきりとした答えは出ていない。

ここでは人気がある二つの説を挙げてみよう。

【天文説】
ライヘ博士が提唱。太陽・月などを観測していたという仮説で、地上絵の作成方法は小さい図形を用意し、ヒモ・杭などを用いて比例拡大していく方法を挙げている。

【宇宙船発着場説】
デニケンが提唱。「ストーンヘンジ」の研究家でもあるであるホーキンズが天文説の欠点を多数指摘したことにより、この説が出てきて一部では一躍注目を浴びた。

現在まで残っている理由

なぜ地上絵が何千年も侵食されずに残っていたのかということを考えてみよう。第一に、極端にこの辺り一帯が降水量が少ないということが影響している。そして、重要なのは地形の構造であると考えられる。この辺りは硬い土壌が下にあり、その上に土砂が積もるような構造になっている。また、坂に描かれていることが多く、もし雨が降っても流れ出て、浸透することが少ない。この複合的な影響により非常に長い間残っていると考えられる。





最終的に、ナスカの地上絵の目的は?

宇宙船離発着説はたいへん面白い。しかし、最近の研究結果などを見てくるとさらに可能性は低くなってゆく一方である。ナスカの地上絵の年代測定には炭素14元法が用いられ、調べられたのは、直線のラインの端に残されていた杭である。この杭は何のために用いられたのだろうか。恐らく、ライヘ博士が唱えた作成方法に用いられた可能性が高いだろう。つまり、必ずしも天文説ではないとしても、作成方法は拡大図法だった可能性が高いと考えられる。また、宗教説は、常に可能性として消すことは出来ない。また、最近の見方が存在する。それは、「支配階級が気球に乗って、上空から地上に描いた絵を楽んでいた」というものである。テレビでは実験により、当時の再現も行われた。確かにこの説ならば、上空から見ても地上絵を楽しむことが出来ただろう。

スタービーチ

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登録日:2008年 01月 22日 18:38:49

古代に実在したとされる伝説の「アトランティス大陸」は存在したのか!?

1.謎の始まり
アトランティスが海底に沈んだのは今から約12000年前といわれている。そして、約9000年後、ギリシアの都市国家アテネでは後世に名の残る人物が登場する。アリストクレス。街の中ではプラトン(肩幅の広い男)と呼ばれていた。彼は哲学者であり、現実の世界を理想の世界「イデア界」に近づけるべきだという思想を持っていたと共に、アトランティス伝説を後世に残した。その伝説は著書『クリティアス』『ティマイオス』の中で登場する。




2.アトランティス伝説
「時は古代の政治家ソロンより9000年の昔。ヘラクレスの柱の向こうにアトランティスという島があった。海神ポセイドンの五組の男子が王となって支配し、王の中の王であるアトラスの名をとってアトランティスと呼ばれた。その国は農産物や、金属などの地下資源に富み、港は世界各地からの船でにぎわい、繁栄を極めた。アトランティスの首都ポセイドニアには、外側を銀、天井には黄金、まわりには多くの黄金像の並ぶ豪華な神殿が立ち、町の周囲には同心円状の運河が張り巡らされており、内陸から海に出ることも容易であった。また、強大な軍事力を持ち、アフリカ・ヨーロッパの一部も支配下においていた。しかし、その栄華は地震と洪水により一夜にして終わりを迎えた…」

3.伝説の信憑性
この話は大賢者ソロンが神官に聞いた話が根底にある。プラトンも批判を予期してか、著書の中で、これは実話であると述べている。しかし、プラトンの弟子であるアリストテレスがアトランティスに対して批判な見方をした。最近の研究では、アトランティスそのものは存在しなくても、伝承の元となる歴史があったという見方が有力視されているようである。

4.有力説



現在提唱されている説は約1700説である。そして、通常有力視されているのは大西洋説・地中海説である。大西洋は英語でアトランティック・オーシャンと呼ばれており、有力説の一つである。書籍が発売されてから有名になった説も存在する。例えば「アトランティス=南極」説である。説の提唱者は古代文明研究家のランド&ローズ・フレマスやグラハム・ハンコックだ。アトランティス大陸の謎を解く大きな鍵はプラトンが書き記した中に出てくるヘラクレスの柱である。単純にギリシア時代の常識ではヘラクレスの柱はジブラルタル海峡を意味している。この常識通りに推測するとアトランティスは大西洋上にあり、海底に没したということになる。1900年にアーサー・エヴァンズがクレタ文明を発見し、クノッソス神殿の発掘に成功したが、その際に発見されたフレスコ画にはアトランティスを思わせるような絵画があることから、アトランティスはクレタにあるということも考えられている。クリアブルーのエーゲ海に浮かぶサントリーニ島は、今ではアトランティス伝説の残る島として様々な旅行プランが立てられており、有名な観光スポットとして注目を浴びている。



アトランティス伝説には伝説の金属として知られている「オリハルコン」が出てくる。この金属の性質として『クリティアス』の中で「オリハルコンは飛行船を宙に浮かせる事が出来る」と書かれている。金属により宇宙船が宙に浮くということは科学的に説明がつかないということから、研究家からはますますプラトンの記述の真実性が疑われている。


世界不思議発見という番組で知ったのですが、イギリスのウェールズに、コーンウォール地方という所があって、そこにはシリー諸島という島があります。この島はかつては大きな陸地が海底に没した名残りといわれ、そこの気候は温暖で熱帯性の植物が生えるそうです。アトランティスを思わせる遺跡も存在し、海底には植物の痕跡もあるといわれています。位置も大西洋に位置するこのシリー諸島は、かつては大きな陸地だったというので、アトランティスはこの陸地をさした可能性も存在するのではないでしょうか。

スタービーチ

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登録日:2008年 01月 18日 16:24:34

ナポレオン(続編)

第六章.モントロン将軍

さらに時は経ち、1994年にはモンペリエ大学の教授が「ナポレオンの暗殺者」という本を出版し、ヒ素による段階的な毒殺説とともに、犯人をシャルル・ド・モントロン将軍(以下、モントロン)であるとした。彼は5年間ナポレオンの侍従・友人として生活を送っていた。

第七章.犯人は誰か

ここでは、ナポレオンは何者かによりヒ素による中毒で殺されたと仮定してみよう。犯人を推測するために過去の調査ファイル「プロファイリング」もご覧頂きたい。まず、最初に考えるのは「動機」だ。殺す理由には通常、何らかの動機がある。次に、「誰が」殺したのか考える必要がある。これは動機と大きく結びついている。今回は、人間関係を明確に知ることは困難である。そのため、教授が挙げたモントロンに的を絞って考えてみよう。

動機
殺人の動機は主として恨みによるものが多い。モントロンはナポレオンに対して、何らかの恨みがあったのだろうか。モントロンとナポレオンは主従関係にあったが、10代の頃に友人として偶然出会っていた。モントロンはナポレオンが性的に不能だと思っており、自分の妻を共有しても良いという話を持ち出したところ、ナポレオンと(モントロンの)妻は性的な関係を持ち、子供を出産した。(子供は翌年に死去)、それならば、性的関係を持ったことで怒りを覚えたのかもしれない。果たしてこれが、全ての原因なのだろうか。また、モントロンはこれらのことを利用して、ナポレオンの遺産を目的としていた可能性もあるだろう。事実、ナポレオンは遺書の中でモントロンに対して多額の遺産を与えることを明記していた。また、モントロンはダルトワ伯から「始末しろ」という命令を受けていたという。

第八章.ヒ素による毒殺を裏付ける証拠

ナポレオンの看護師の日記から歯科医のフォルシュフードが毒殺を疑い、全てが始まったヒ素による毒殺説。立証するには科学的に証明することも重要である。イギリスのハウエル原子力センターは残された毛髪からヒ素量などを割り出すことに成功した。モントリオール大学(カナダ)の教授、ワイダー博士によると毛髪のヒ素は外的なものではなく、食べ物などに混入されて摂取した内的なものであったという。ルイ・マルシャンの日記には「ナポレオンは末期には寝室を歩き回り、寝場所をよく変えるようになった」と記されている。このような行動はヒ素の段階的投与による典型的な症状の一つであるという。

第九章.屋根裏から見つかった手紙

ナポレオンの残された毛髪からヒ素による中毒の可能性が科学的にも証明された。

果たして、この犯人は一体誰なのか…

"それ"はモントロン家の館の屋根裏から発見された…

発見された時にはモントロン家は人手に渡り、買い取った家主が発見することになった。実に、こちらも100年以上の歳月が経過したことになる。発見されたのはモントロンと、先に帰っていた(モントロンの)妻の手紙であった。そこには妻と暮らしたいためにナポレオンを重病にしてフランスに送還するよう働きかけるつもりであったと記されていた…

その後、彼は薬局でヒ素を購入して、ナポレオンに信頼された立場を利用した可能性がある。モントロンはナポレオンの毒見係りでもあったのだ。もちろん、ヒ素を購入する際にあたっては監視役の最初に紹介したハドソン・ロー(イギリスの知事)の許可が必要だが、彼もヒ素をネズミ退治に利用していた経験があったので、モントロンに許可を出していた。

最終章.ナポレオン毒殺の真相

フランスの英雄「ナポレオン」、彼が仮にヒ素で毒殺されたのだとしたらその犯人はやはり侍従・友人であったモントロンであったのだろうか。彼はナポレオンを殺す気があったのかどうかは定かではない。発見された手紙で、彼はナポレオンを重病にし、フランスに返還するよう働きかけると妻に送っている手紙は真実だろうか…、それならば彼は単純に妻、故郷に帰りたいだけだったのだろうか。それとも、ナポレオンの財産、または、ナポレオンが妻と性的関係を持った恨みだろうか。ナポレオンをめぐる謎は尽きない。今までの仮説は重程度のヒ素中毒と仮定して行ったが、別の報告によると当時の生活や、習慣からヒ素の濃度からヒ素中毒と言い切るのは難しいともいわれている。これらの報告を受け、フランス政府はモントロン家で発見された手紙は必ずしも暗殺を裏付けるものではないと発表した。尚、ナポレオンの兄弟の5人のうち4人はガンで亡くなっているという…
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補足 ナポレオンの死をめぐる仮説

ナポレオンの死をめぐる仮説としては、モントロンによる毒殺説以外にも、病死説、医療ミス説、政敵による暗殺説、壁紙の顔料に繁殖したカビ毒素説などがある。


スタービーチ

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登録日:2008年 01月 17日 19:30:28

数百年の隠された真実と、ナポレオンの死に隠された謎を追う!!

序章.数百年の隠された真実

今回はフランスの英雄「ナポレオン」のミステリーに迫る。今回、謎に迫る上で重要なポイントは "数百年の時"

第一章.ナポレオン・ボナパルト



ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン・ボナパルト(以下、ナポレオン)はフランスの国民的英雄で、彼によってフランス革命の理念がヨーロッパに広がったといっても過言ではない。オーストリア、プロイセン、スペインと数々の戦いを行って大陸に覇を唱えた。しかし、ロシア遠征に失敗後、ライプチヒの戦いに敗れて退位し、エルバ島に流された。その後、エルバ島を脱出し、皇帝に復帰したがワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流され、一生を終えた。

第二章.毒殺の恐れ

ナポレオンがセントヘレナ島で死去した時に、ナポレオンの毒殺について既に恐れていた人物がいた。その人物はハドソン・ロー。彼はイギリスの知事で、ナポレオンとの不仲がイギリスでもよく知られていたため、毒殺の疑いがかけられるのを気にしていた。彼が直接毒殺に関与していなくとも、管理責任の責任が負われる恐れがあったのだ。解剖は翌日、イギリスの医師たちによって行われ、胃ガンであると公表され、受け入れられた。

第三章.毒殺説の浮上

ナポレオンが死去してから約150年経過し、フランスではナポレオンの死はガンによるものだという説が通説になっていた。しかし、当時、ナポレオンの看護師をしていたルイ・マルシャンの日記を子孫が公表することによって実に100年以上の時を越えてナポレオン毒殺説が再度浮上した。日記が刊行されたのは1955年のことであった。

第四章.スウェーデンの歯科医「ステン・フォルシュフード」

当時、フランスのボルドー大学で毒物の研究を行っていたスウェーデンの歯科医、ステン・フォルシュフードはこの日記を読んで、ある衝撃的なことに気がついた。それは、ナポレオンの病状の推移には少しずつ投与されたヒ素による中毒症状が現れているということであった。その後、彼は1961年に「ナポレオンは毒殺か?」という本を出版した。これを機に、ナポレオン毒殺説は次々に反響を呼び、注目を浴びるようになった。

第五章.ガンとは考えにくい…

さらに、20年経った頃に雑誌「ルポワン」が解剖台の上に横たわるナポレオンのデッサンを掲載した。このデッサンは旗持ちであった家系が保持していたもので、デッサンには体格が良いナポレオンが描かれている。同誌には「死去する一ヶ月前にはフライ、デザートなどを食べていて、胃ガンならばこれほど食べれるはずがない」と掲載されている。

続きは明日

スタービーチ

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登録日:2008年 01月 16日 17:43:45

織田 信長(おだ のぶなが)

戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。

本姓は自称藤原氏次いで平氏(実は忌部氏か)。家系は越前国 劔神社の祠官の系譜をひき尾張守護斯波氏の被官 織田氏。尾張下四郡守護代に補任された織田大和守家即ち清洲織田家の分家にして同家重臣たる清洲三奉行・古渡城主の家柄。

古渡城主の織田信秀の嫡男として生まれる(正確には異母兄が2人いるが、正室の子であるため長男として育てられた)。幼児の折に那古屋城主となり、父の死後、同母弟の織田信勝(信行)との家督争いに勝利し織田家を継ぐ。その後、周辺の敵対勢力、今川氏や斎藤氏を破り、足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけるが、その義昭と敵対し武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成される。しかし、信長はこれを破り、以後は天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用する(織田政権)。

既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結へと導いていったが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から魔王(第六天魔王)とも恐れられた。最後は家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)により自害した。
出会い系

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登録日:2008年 01月 15日 16:50:39

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