2006年 05月
「怒れる若者たち」世代とケン・ローチ(番外編)
<第59回カンヌ国際映画祭>パルム・ドールは「The Wind that Shakes the Barley」に - フランス
【カンヌ/フランス 29日 AFP】フェスティバル・パレス(Festival Palace)を主会場に開催される世界有数の映画の祭典、第59回カンヌ国際映画祭(59th Cannes Film Festival)の閉会式が28日に行われ、各部門の受賞作品が発表された。
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(c)AFP/PASCAL GUYOT
ケン・ローチは1936年生まれ。オックスフォード大学を経て、BBCに演出家訓練生として入社した。これまで数々の賞を受賞してきた実力派であるが、当初から一貫して、社会に抑圧されたイギリスの労働者階級を中心に描いてきた。「炭鉱労働者」はイギリス映画にとって一つの大きな描くべき対象として存在してきたが、ケン・ローチほど社会の歪みからにじみ出る「怒り」に目を向けてきた監督はいないだろう。かといって、大きな題材を探し求めて世の中に訴えるという作風ではない。日常生活のなかで埋もれてしまっている人々の感情を発散させ、さらに「媒体としての映画」というメディアそのものについて考えさせる監督なのである。ドラマチックに、そしてわかりやすく描こうとするハリウッドからはもっとも遠いところにいる一人と言えるだろう。たとえば、『ケス』の主人公に私たちはどうして感情移入することができるのだろう。ドラマ性やインパクトを極力排除したようなストーリーと演出。観客の感情を感動へと誘導するようなことをケン・ローチは一切しない。結局、私たちの周りに「現実」などというものはなく、それを知るためには何かの媒体を必要としているということがわかる。現実には善も悪も、美も醜もない。それらをまとめて提示するところからドキュメンタリー的な手法を指摘されることもあるが、ものごとはそれほど簡単ではない。監督ケン・ローチの本質を見抜く眼の鋭さに驚かされるのはそういうときだ。今回、カンヌでパルムドールを受賞したことによって、これまでの作品が映画館で上映されることを切に望みたい。
http://britannia.cool.ne.jp/cinema/people/x-k_loach.html
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登録日:2006年 05月 30日 12:26:02
メキシコ映画界の若き才能たち
<第59回カンヌ国際映画祭>コンペ出品作「Babel」上映会にクロエ・セヴィニー来場 - フランス
【カンヌ/フランス 24日 AFP】17日から28日までフェスティバル・パレス(Festival Palace)を主会場に開催される世界有数の映画の祭典、第59回カンヌ国際映画祭(59th Cannes Film Festival)で23日、メキシコ人監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(Alejandro Gonzalez Inarritu)によるモロッコ、チュニジア、メキシコ、日本を舞台にストーリーが展開する映画「Babel」の上映会が行われた。
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(c)AFP/VALERY HACHE
<アレハンドロとギレルモの結果やいかに>
『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の次にいまメキシコ出身の映画監督で有名なのは、間違いなくアルフォンソ・キュアロンだろう。ガエル・ベルナル・ガルシア主演の『天国の口、終りの楽園。』や『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を撮っている実力派だ。
『天国の口、終りの楽園。』は、若い男二人と女性によるロード・ムービー。海沿いの美しい風景と男女の性的な欲望がない交ぜになった独特の雰囲気を醸し出している不思議な映画だが、メキシコのもう一つの側面を浮き彫りにしていることは間違いない。
その作品で、ガエルと共演したディエゴ・ルナもメキシコ出身の俳優としてすでに十分に名をあげている。彼はその後『フリーダ』『ダンシング・ハバナ』『ターミナル』と立て続けに話題作に抜擢された。つまり、いまのメキシコ映画界は、イニャリトゥ監督とキュアロン監督、ガエルとディエゴが引っ張っていると言えるかもしれない。
そして、アルフォンソ・キュアロンの次にメキシコで有名な監督はおそらくギレルモ・デル・トロだろう。今回のカンヌでは『EL LABERINTO DEL FAUMO』がコンペティション部門に出品されている。
さて、アレハンドロとギレルモは、カンヌでどのような結果を迎えるのだろうか。
<チカーノ映画および国境に関する映画>
メキシコ系アメリカ人(チカーノ)がメキシコ人でもアメリカ人でもない独自のアイデンティティを模索している時期には、『ズート・スーツ』や『ラ・バンバ』で知られるルイス・バルデスがパチューコ性を意識した作品をいくつか制作していた。チカーノ・ムーブメントの余韻のなかで作られた作品である。もちろん、日本ではそのほとんどは知られていない。
しかし、バルデス監督の『ズート・スーツ』に主演したエドワード・ジェイムズ・オルモスは、『グレゴリオ・コルテス』『アメリカン・ミー』『ミ・ファミリア』『セレナ』などのヒットした作品に出演し、チカーノを体現し代弁するような立場を確立した。
メキシコとアメリカの国境地帯で印象に残っている作品は、メキシコ革命時に舞台を設定した、ローラ・エスキベル原作の邦題『赤い薔薇ソースの伝説』である。映画化されたのはいまから10年ほど前のこと。だが注目すべきなのは、彼女の夫が、ペキンパーの『ワイルド・バンチ』、アレハンドロ・ボドロフスキーの『エル・トポ』、ロバート・ゼメキスの『ロマンシング・ストーン』に出演しているメキシコ人の俳優だということである。彼は、国境地帯やチカーノ・ムーブメントをテーマにした実験的な映画も監督として作っている。
いまや大御所となったロバート・ロドリゲスについては、ここで書くまでもないだろう。
<最後にケン・ローチのラティーノ映画>
今回はアイルランドに焦点を当てた作品がコンペティション部門に出品されているケン・ローチ監督が、2000年に制作しカンヌのコンペティションにも招待された『ブレッド&ローズ』について最後に触れておこう。
映画が始まって最初に現れる字幕が「米墨国境地帯付近」。スクリーンには、草むらをくぐり抜けてゆくメキシコ人が、足早に車へと乗り込む様子が映し出される。イギリスの労働者階級をおもに撮り続けてきたケン・ローチが、ソダーバーグの助けを借りながら、ロサンゼルスに舞台を移して撮影した傑作が『ブレッド&ローズ』である。
ティム・ロスもカメオ出演しているこの映画のテーマは、ロサンゼルスの高層ビルで働くビル清掃員たちの、健康保険や有給休暇を求めての闘争だ。人は最低限の生活を維持するためだけの「パン」だけではなく、健康や休息などを楽しむための「ローズ」も必要、というのがタイトルの表す意味である。
ケン・ローチは、大都会を支えていながら一般には見過ごされがちな、貧しくも活気のあるラティーノらに焦点を当てることによって、私たち人間なら誰もが心の内に秘めている複雑で激しいエネルギーや、感情の機微や起伏や、故郷や親族への精神的なつながりを多面的に描き切ろうとしたのだった。
さてさて、アレハンドロかギレルモか、はたまたケン・ローチか・・・。
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登録日:2006年 05月 28日 02:16:02
メキシコの天才、アレハンドロの『バベル』に注目!
<第59回カンヌ国際映画祭>開幕目前!コンペ部門にケン・ローチ監督作品出品 - フランス
【カンヌ/フランス 16日 AFP】イギリス人監督ケン・ローチ(Ken Loach)によるアイルランドが舞台の作品「The Wind That Shakes the Barley」は5月17日から28日まで開催される第59回カンヌ国際映画祭(59th Cannes Film Festival)のコンペティション部門に出品され、最高賞のパルム・ドール(Palme d’Or)をかけて競うことになる。写真は同作品のワンシーン。(c)AFP
今年のカンヌ映画祭には、前回ここで紹介した『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』の脚本を担当し(去年のカンヌ映画祭脚本賞受賞)、自らもメキシコ人の役で出演していたギジェルモ・アリアガが脚本、そして、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(メキシコ生まれ)が監督という、『アモーレス・ペロス』『21グラム』のコンビによって制作された『バベル』がコンペティション部門に出品されている。旧約聖書の「創世記」に語られているバベルの塔の物語が、どのように映画に生かされているのか、いまから楽しみである。
主演のブラッド・ピットのほかに、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司が出演し、アメリカ、メキシコ、モロッコ、日本が舞台となっている。役所広司がこの映画によってハリウッド進出の足がかりとすることができるのかが、日本人としての関心となるだろうか。いずれにしても、『21グラム』でも「アレハンドロの作品ならば」と、ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ(プエルトリコ生まれ)という大物が出演を快諾したように、今回も豪華な顔ぶれとなっている。
時間軸を交錯させるギジェルモの脚本の特徴は、『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』でも見ることができたが、その効果を誰よりも理解しているアレハンドロとのコンビによって切れ味を増す。『21グラム』(人間は死ぬときに21グラムだけ軽くなるという。つまり、それは魂の重さだ)での前半部分の時間軸の交錯は、観客に相当の負担を強いるほどに複雑なものとなっている。つまり、完璧主義者と言われるアレハンドロは、観客を選ぶ監督なのだ。もちろん、映画に対する思いの強さと目指すレベルの高さがそうさせるわけで、ただ高踏的であろうとしているわけではない。「私たちが誰かとしゃべるときも、首尾一貫しているわけではなく、断片的で話はあちこち飛ぶだろ?」と監督は語っている。時間が一方向に流れるように、私たちは時に身を任せて日々を生きているわけではない。彼はいつも、映画の可能性を極限まで突きつめて考えようとする。
「映画はメッセージではない。カタルシスだ」と言い切るアレハンドロにとって、映画は映画でしか届けられないメディアであることをもっと自覚しなければならないと考えているはずだ。言葉で言えることを映画で表現する必要はないのであって、映画は映画がもっている表現の独自性をフルに活用しなくてはならない。『21グラム』では、どこにでもいる平凡な人々が、思いがけない出来事に巻き込まれ、信ずるべき愛情や宗教に裏切られてゆく。それでも、私たちは「人生を生き続けなければならない」(この言葉は何度も出てくる)。そのことを、俳優たちの演技を通して私たちは知らされる。アレハンドロの人間に対する愛情が、俳優を通して私たちに伝えられるのである。映画を見ることによる「感情の旅」は、私たちの人生を豊かにしつつ、きっとカタルシスを与えてくれるだろう。
『バベル』を見るのが楽しみだ!
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登録日:2006年 05月 20日 03:32:41
ボーダーランズ映画に出会いたい!
【東京 28日 AFPBB News】「シュレック2(Shrek 2)」の上映会に出席した女優の藤原紀香。藤原紀香は「シュレック(Shrek)」で、声優を務めた。2004年5月15日、第57回カンヌ国際映画祭(57th Cannes Film Festival)にて撮影。(c)AFP/FRANCOIS GUILLOT
カンヌ映画祭が始まる。昨年はトミー・リー・ジョーンズ監督/主演の『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』がノミネートされ、最優秀男優賞と最優秀脚本賞を受賞したことが記憶に新しい。日本では先月まで恵比寿ガーデンシネマで公開されていたので、なおさら最近のことのように感じる。今年のカンヌではいったいどのような映画と出会えるのだろうか・・。
<ボーダーランズにおけるロード・ムービー>
『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』は、メキシコとアメリカの国境地帯に広がる茫漠たる大地と乾いた空気を舞台にした、「狂気にとりつかれた男」と「死体となった友人」と「友人を殺した男」のロード・ムービーである。人工的に区分けされた国境線を越える旅によって、彼らは何を見、何を得ることができたのか。アメリカの南西部からメキシコの北部にかけては同じ風景を共有しており、そこに暴力的に引かれた国境線は人々を機械的に分断した。人々は分断されたが、しかし、国境線を越えることによってもそこには変わらない自然の風景が広がっている。数々の苦難を乗り越えて越境を果たした彼らは、結局、振り出しに戻ったような風景に出会ったのだった。「俺が死んだら故郷ヒメネスに埋めてくれ」がこの映画の惹句だが、映画のなかでは地図に描かれたメキシコ側にあるはずのヒメネスをどこにも見つけ出すことはできなかった。もしかしたら、ヒメネスは、アメリカに越境しながらも理不尽に殺されたメキシコ人が埋葬される「想像上の土地」なのかもしれない。そこにはすでに、おびただしい数のメキシコ人が埋葬されているはずだ。主人公は「ヒメネス」と<自ら名づけた土地>に友人を埋葬することによって「目的」を達成するのである。殺した側の白人の贖罪の旅も、そこで終わることになる。
<ボーダーランズ・ムービーの誕生>
線分にしか過ぎない国境線に面積が与えられ、国境地帯というどちらの国でもないような土地を私たちは作り出すことになった。ポストコロニアルの一つの特徴は、分断し別々の文化を育みつつもう一度混ぜ合わせることによって、そのような国境地帯(ボーダーランズ)を世界中のあちこちに生み出したことだ。メキシコでもアメリカでもない場所において私たちは、私たちの住まう世界からは巧妙に遠ざけられた「狂気」や「死体」と思いがけない方法で出会う。近代的な社会では狂気や死体は遠ざけられ、メキシコでは狂気や死体はもっと身近に感じられているが、ボーダーランズにおいては、狂気や死体はむき出しのまま投げ出されている。アメリカの南西部を舞台にした西部劇がインディアンとの文化の境界線のはざまから触発される独特の活劇を生み出したように、メキシコとアメリカの国境地帯はすでに一つのジャンルを作り出しつつある。腐敗し始めた死体の友人に親しげに語りかける男は「狂気とは何か」という問いをけっして許さず、友人が語っていた故郷のヒメネスが存在しないことにたいして必要以上の詮索をしない。それがボーダーランズ映画の特徴だ。「美しさに心がはり裂ける」ヒメネスは地上にはない。土地の上に与えられた名前に何の意味があろう、彼はそう考える。
<私たちはどの世界で生きるのか?>
アメリカの大地に広がる田舎の単調な風景は、それぞれの土地がもっているはずの独自の力を忘れさせてしまう。のっぺりとした風景がこの映画でも描写されている。一方で、国境線が生み出す亀裂の入った風景が人々の心の中にも無数の断絶を生むようになる現実がある。国境警備隊員は国家の論理に操られて、女性であろうと鼻の骨が折れるほどに殴る。私たちはそのどちらでもない世界を生きなければならない。ボーダーランズの現実と対峙せざるを得なくなったときに警備隊員(友人を殺した男)は、近代的な生活を身ぐるみはがされ、徐々に「もう一つの世界」を身体に染み込ませてゆくのである。私たち自身にとっても、生み落とされた世界に漫然として生き続けるのではなく、どの世界に生きるべきかを主体的に選択すべき時代がやってきたようだ。
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登録日:2006年 05月 14日 13:36:33
ボーダー再考
【アリゾナ 27日 AFP】27日、アメリカ合衆国全土で、数万人の市民が、不法移民を取り締まる法案に反対する大規模抗議デモを行った。すでに米下院を通過した同移民取締法は、不法で滞在する移民を、刑事犯として罰すると定めており、反対派からは差別主義そのものだと批判されている。115万人にものぼる不法移民の多くは、隣国メキシコからの不法労働者。写真は27日、アリゾナ州の米-メキシコを分ける国境沿いの町ダグラス(Douglas)で、国境の壁を越えようとして亡くなった人々の数を書いた壁の一部を撮影したもの。(c)AFP/HECTOR MATA
<内気なメキシコ人>
小学生のころから目にしている世界地図のなかの数々の国境線と国家を、私たちは最初から自明のものとして受け入れ、それを土台としてものごとを考えてきた。そういう癖をつけられてきた。その思考法のクセが案外頑固にこびりついてしまっているのは、義務教育のころに「どこそこの国はどのくらい大きくて世界で何番目だ」とか「どこそこの国の首都はどこだ」とか「鉱物資源や農産物の生産量の順位はどのくらいだ」とか、国家を単位として暗記させられたからにほかならない。その洗脳の過程のなかで、国家のなかにあるさまざまな地域的な偏りはまったく無視され、国家のなかはあたかもどこでも同じような人々が同じように生活をしているかのように意識させられていった。「内気なメキシコ人」や「きれい好きなインド人」や「悲観的なアメリカ人」や「声の小さい中国人(韓国人でも可)」や「おしゃれでダンディな日本人」・・などがイメージ齟齬のなかで笑いをもたらしてくれるのも、そのような教育の効果である。当然、それらのイメージは現実をほとんど反映してはいない。多様な国民をある単純な言葉のもとに描写することなどできないのである。
<歴史は語り方のなかにある>
したがって、その国のどの地域やどの人々に焦点を当てるかによって、歴史はまったく異なった様相を示し、つまり歴史とは「語り方そのもののなかにある」という当たり前のことを、私たちは「教科書検定問題」のようなうんざりする政治問題のなかで知らされることになる。これはかなり不幸なことである。沖縄の人々やアイヌの人々のことなど、そして愛国心のことなどは、歴史を語り始める前の方法論のなかで触れられるべき事柄であって、語られてしまってから論じられるべき問題ではない。語られた後に行われる、言葉尻だけを捉えた些末な議論が建設的でないのは言うまでもない。愛国心や郷土愛は是か否かの問題ではない。人間の感情にそもそも是も否もない。特定の人々に有利な不条理な国境線の画定と、その後の国家の取り扱い(語られ方も含む)のまずさが、私たちの生き方と感情を安直で単純なものとし、両極端のなかでしかものごとを考えられなくしてしまった。
<国際法は真理でも倫理でもない>
あいかわらず国家を単位とする枠組みのなかで政治や経済や文化は推移し報道され、オリンピックもワールドカップも国際会議もノーベル賞もすべて、国家の名前を横につけなければ私たちはうまくそれらを理解できないままである。つまり、個人は国家とかならず結びつけられ、国家と一対一対応にならないような人物は「例外」として扱われる。例外となった人物は居場所を持つことが難しく、精神的な葛藤のなかでまれに文学的な才能を発揮してもてはやされるか、金銭的にあるいは精神的に破綻を生じてのたれ死ぬしかない。人を受けとめる受け皿はあくまでも国家以外にないからである。メキシコからの越境者は国境線のなかに自らダイブして、その過程のなかで毎年おびただしい数の死者を出している。「国境線は人を殺す」ということを私たちはもうかなり昔に忘れてしまっている。「「不法」移民なのだから「合法」的に入国するべきだ」という至極まっとうな発言は、「かつて恣意的に引かれた誰かに有利な国境線を私たちはこれからも守り抜かねばならないし、国家は異質な人々をはねつけ続けなければならない」と述べているに等しい。メキシコアメリカ戦争を遂行するために人々を鼓舞したこじつけのスローガンや、そのときのルール無用の場外乱闘のような戦闘を支持するということだ。まあ、そんなことまで考えたうえで発言する契機を喪失させようとしているのが、例の「教育の効果」なのであって、とにかく、私たちは何重にも束縛されていることだけは知っておいてよさそうだ。
<ボーダー再考>
たしかに、有史以来、いや歴史が始まるずっと前から、混沌とした世界に境界線を設けることによって人間はものごとを理解し、人と人との間に境界線を引くことによって精神を安定させてきたのかもしれない。しかし、その境界線はさまざまなレベルで引かれ、いま引かれているような物理的で可視的で涙が出るくらいにわかりやすい国境線のようには、私たちはものごとを理解してきたわけではないのである。メキシコとアメリカの国境の地下に掘られた麻薬を運ぶためのトンネルのように、境界線を越えて、人もモノも意味も愛国心も混ざり合いながら自由に移動してきたのであった。見えないトンネルを見るためのすべを私たちはいつか手放してきてしまった・・。
国境線の強化が、これまでの擬似的な平和と安定さえも守れないなら、その国境線自体を疑うことだろう。
いずれにしても、麻薬を運ぶのは悪いことだって? そうかもしれない。けれども、その前に、麻薬は誰が使っているのかを考えることが一つ。そして、人はなぜ麻薬を生みだしたのかを考えることが一つだ。
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登録日:2006年 05月 05日 14:22:05
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