2006年 08月

「メキシコ国境に近いエル・パソは最貧都市圏だった」

4700万人が医療保険未加入、3700万人が貧困ラインを下回る - 米国

【ワシントンD.C./米国 29日 AFP】米国勢調査局(US Census Bureau)が29日発表した2005年の家計調査で、貧困率は高止まりで安定したものの、医療保険の未加入者は増大したことが分かった。
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(c)AFP/Jim WATSON

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<リンダ>
2年前にアメリカ南西部を車で回ったときにアルバカーキの「National Hispanic Cultural Center」でリンダ・ロンシュタットの歌を聴いた。彼女はチカーナである。ホームページには「ヒスパニック」という雑誌の表紙になった写真が掲載されている。さまざまな新しいジャンルに挑戦してきたリンダは、チカーノの伝統的な音楽のスタイル(コリードなど)を自らの歌に取りこんだことでも知られている。若かりしころを知っている私は久しぶりに見て、すっかり太ってしまった彼女に時間を感じてしまった。とはいえ、さまざまなスターと浮き名を流してきた彼女は相変わらず美しかった。そのときは、ブッシュ大統領に対抗して出馬したケリー候補の応援としてきていた。アメリカの大統領選挙はまさにお祭りで、ナバホ族の代表とともにクリントン前大統領も来場し、私があちこち自由に動いていたら警護の人間に銃を向けられたのを覚えている。銃の先を使って「向こうへ行け!」と指示された。コワイコワイ。リンダは英語とスペイン語を使って聴衆に語りかけ喝采を浴びていた。日本の首相が選ばれる過程とは温度差がありすぎる。論点を明確にするほど日本には深刻な問題は存在しないということだろうか。そんなことはないだろう。リンダのことを思い出したのは、先住民とアフリカの血を受け継いだベネズエラのチャベス大統領のドキュメントをNHKで見たからだった。文化的にも経済的にも政治的にもアメリカに洗脳された日本人にとって、ラテンアメリカやヒスパニックによるアメリカの相対化は大変に勉強になる。アメリカによって用意された枠組みのなかでアメリカを見ても意味がない。ゲバラの射殺を命じた人間がいまだに主導権を握ってチャベスの首を狙おうとしているところに、アメリカのラテンアメリカに対する認識の不変さを見てとることができる。

<マーズ・ヴォルタ>
今日、サードアルバムが日本で発売される。エル・パソのバンドである。以下はホームページから。

アメリカはテキサス州、メキシコとアメリカの国境近くに存在する人種的にも文化的にもメキシコ色の強い街、エル・パソ出身の二人。1994年アット・ザ・ドライヴ‐イン(ATDI)を結成し、2000年、ロス・ロビンソン プロデュースによるメジャー・デビュー・アルバム『リレーションシップ・オブ・コマンド』は特に日本、ヨーロッパで高く評価された。しかし、2001年3月にたった2年足らずでATDIは解散してしまう。2002年、バンドは二つに分かれ、方や西のレーベル ドリームワークスからエモの真髄をいくSPARTAというバンドでデビュー。一方のマーズ・ヴォルタはジャンルというものを越え、独特な楽曲構成のもとにプログレッシヴを彷彿とさせる独自のサウンドを生み出すバンドとしてEPを発表。日本ツアーも果す。その後マネージメントをATDI 時代のジョン・シルヴァ(GAS)にし、東海岸の老舗レーベルUniversal/Motownとレーベル契約した。2003年、彼等のデビュー・アルバムのプロデューサーがリック・ルービンであったことや、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリー(FLEA)がアルバムに参加していることなどでも話題を呼んだが、何よりもマーズ・ヴォルタの独特のサウンドは多くの音楽ファンを魅了した。2005年2月にセカンド・アルバム「フランシス・ザ・ミュート」をリリース、全米チャート4位を獲得!その熱も冷めぬ2005年11月には初のライヴ・アルバムを発売したばかり。

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登録日:2006年 08月 31日 10:55:28

ベソス:ニューメキシコ、テキサス、マイアミ、そしてキューバ!

<カストロ議長>1956年、バティスタ政権打倒に向けて虎視眈々

1956年の武装蜂起に備えて、亡命先メキシコで射撃訓練を行うフィデル・カストロ(Fidel Castro)国家評議会議長。同年、カストロ議長以下82人は、グランマ(Granma)号でキューバに上陸。東部のマエストラ山脈(Sierra Maestra)でゲリラ戦を開始した(1956年撮影)。(c)AFP

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前回書いたように、情報収集の面での「格差」はどんどん減少している。特定の人が情報を独占することによって受ける利益は、その社会全体の利益から見たらマイナスでしかないだろうから、その恩恵は計り知れないものがある。しかし、入り口の部分においてのこのような「格差」が減るということは、結果としての「格差」が以前よりも辛辣になるということでもある。お金や身分やその他の外部的な要因によって守られずに、能力が能力として評価されてしまうというのは、一部の人びとにとっては、それはそれで生きにくい世の中ではあるかもしれない。私は恩恵を受けている側なので、彼らにとって不満に思うことは不満ではない。

その結果として、私が学問とは関係のない仕事をしている合間に少しずつ収集したヒスパニックに関する情報の蓄積を、こうして公開することができるようになった。毎日のようにメールで入ってくる情報に目を通し、毎月のように送られてくる雑誌を流し読みし、そして、毎週のように購入するヒスパニック関連の書物のページを繰る。そのなかでも、書籍に関しては、アマゾン・ドット・コムの貢献は大で、アマゾンなしにはこのブログが成り立たないことは言うまでもなく、もしもジェフ・ベソスがいなかったら、私の読書生活も大きく様変わりせざるを得なかっただろう。生まれたときからカラーテレビや携帯電話やコンピュータが身の回りにあったわけではない世代としては、その恩恵は身に染みるものがある。

その世界最大のオンライン書店アマゾンの創設者であるジェフ・ベソスが、私と誕生日が5日しか違わず、しかもキューバ系移民の父(継父)を持つことを知ったのはつい最近のことだ。アメリカのウィキペディアによると、ジェフリー(ジェフ)・ベソスはニューメキシコ州のアルバカーキで生まれた。彼の母方の祖先はテキサスへの初期の入植者で、何世代かをかけて広大な土地を所有することなった。母方の祖父はアルバカーキでの原子力委員会の所長までつとめたそうだ。祖父が所長を引退してから引き継いでいたその大農園で、ジェフは子供時代を過ごし仕事を手伝ったらしい。

ジェフは母ジャッキー・ベソスがまだ10代の頃の子供で、父との結婚生活は一年足らずしか続かなかった。母はジェフが5歳のころに再婚し、その継父ミゲル・ベソスがキューバ生まれだった。ミゲルは15歳のときに一人でアメリカに亡命し、アルバカーキ大学で学び銀行に勤めていた。ジェフの母親と結婚したあとは、テキサス州のヒューストンに引っ越した。ミゲルがエンジニアだったことがジェフに大きな影響を与えたと思われる。つまり、ジェフは小学校時代はテキサス州ヒューストンで、高校時代は家族が転居したのでフロリダ州マイアミで過ごしたのだった。大学はプリンストンである。

私がアメリカでもっとも好きな場所がニューメキシコ州で、いまはキューバ移民についてもっとも積極的に調べていることを考えると非常に興味深い。

アメリカ人の進取の気性の多くが、新しくて古い移民であるヒスパニックによって受け継がれているのだとしたら、先端的な企業が彼らによって起業されることは不思議ではない。

それにしても、キューバ系移民の多様性について考えるときに、このジェフ・ベソスの生い立ちは参考になる。ヒスパニックはもちろん一つではないが(だから「ヒスパニックは・・」と語り始める人には注意した方がいい)キューバ系移民の階級的・思想的な複雑さはチカーノの比ではない。カストロの体調がたびたび報道されるなか「キューバ人あるいはキューバ系移民はいったいどのように考えているのだろうか」ということに関して、もっと生の声が聞きたいと思うのは私だけだろうか。

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登録日:2006年 08月 25日 12:41:07

Boyle Heights

<アメリカン・ミュージック・アワード>マライア、パフォーマンスを披露

【ロサンゼルス/アメリカ 22日 AFP】第33回アメリカン・ミュージック・アワード。4部門にノミネートされているマライア・キャリーはパフォーマンスを行った。マライ・キャリーはR&B部門の最優秀女性アーティストに輝いた。(c)Getty Images/AFP

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かつてのように頻繁にはロサンゼルスを訪れることができない生活を余儀なくされているので(私自身の生活の変化とともに、ロングビーチに住んでいた祖母が数年前に亡くなったというのも大きい)、ヒスパニックについて知る手段としては、いくつかのアメリカの雑誌とネットが中心となっている。それと来日するヒスパニックの人びとからの「事情聴取」。もちろん私の関心の傾向からすると「学術書」から得る知識が圧倒的に大きくて、その点では、この10年で状況は大きく変化した。とりあえず「chicano」という文字がタイトルに掲げられている洋書の大半は、この部屋のどこかに埋もれているはずである。10年前は、指導教授に頼んでコピーさせてもらったり、欲しい本が手元に届くまでに数ヶ月待ったりしていたものだ。それを考えるとなんといまは恵まれていることだろう! 

あらゆる情報機器の発達は情報が行き届く範囲を一気に拡大し、私のような何者でもない人間さえもが、簡単に書物を入手することができるようになった。いうまでもなく、私の研究レベルがそれに応じて一気に向上したというわけでは、もちろんない。悲しいことだが・・・。さらに、こうやって、こちらから私の知らない人たちへと発信することもできるようになった。中学生の頃から、誰が読んでいなくても毎日のように文章をノートに綴ってきた人間にとって、人に読まれることが目的ではないとしても、たまに知らない人からメールをもらったりそれがきっかけで知り合いになったりするのは楽しいことだ。

少々前置きが長くなった。今回は雑誌『CIUDAD LOS ANGELES: your guide to Latino L.A.』について紹介しておく。隔月で出版される、ロサンゼルスを中心としたラティーノに関する文化情報誌である。日本の『ぴあ』とスタンスは近い。しかし『ぴあ』よりもおしゃれで、さらにエッセイのレベルが高い。情報だけではなくメッセージを発信しようという意図が伝わってくる。この『CIUDAD』があれば、ロサンゼルスを100倍楽しめるはず。ちなみに、今週付近の膨大な予定のなかには、15日の「シャキーラ」(19ドルから90ドル)、18日の「ロス・ロンリー・ボーイズ」(45ドル)などの文字が見える。23日から27日までは「Nosotros American Latino Festival」が開催されるとある。さらに、来月の4日の項目に書いてあることが興味深いので、そのまま転載しておこう。

<City of Los Angeles 225th Birthday Party>
Reenact the historic trek made by the city's settlers - Los Pobladores - from the San Gabriel Mission to L.A.'s original settlement at what is now Olvera Street, which hosts a daylong festival following the walk. At 6 a.m. Free. San Gabriel Mission, 428 S. Mission Dr., San Gabriel, 213-625-5045.

なかにオルベラ・ストリートの文字が見えるが、今回は「ボイル・ハイツ」の特集もあり、この土地がgentrificationの波にのまれていく様子が、数々の住人の証言からまざまざと浮かび上がってくる。いくつかの書物で触れられているボイル・ハイツ情報よりもはるかに臨場感があって有益である。このエッセイのなかで、ボイル・ハイツの初期について綴られた部分がある。

Boyle Heights was one of the city's first residential suburbs, established inthe late 1800s and named after Andrew A. Boyle, whose family was among the first to settle in the area. The neighborhood became a haven for recently arrived immigrants such as Yiddish-speaking Jews, Russian Molokans, the Japanese, Armenians, and Mexicans.

" It was the Ellis Island of Los Angeles, to a degree," says Sullivan, who was immersed himself in the neighborhood's history.

ボイル・ハイツをニューヨークのエリス島になぞらえているところがおもしろい。世界中からの移民はまずこの土地に吸収されていったのだった。日系アメリカ人の歴史とチカーノの歴史が交錯する場所としての混淆した文化に、前期に大学で話をしてもらった宮田信さんは「チカーノの入り口から入っていって興味をもつようになった」とおっしゃられたが、私自身は「日系アメリカ人の方の入り口から入った」。そんな話になった。

「ボイル・ハイツ」の写真集は昨年、全米日系人博物館から出版された。そこには日系人に近い数のチカーノが写真に収められている。

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登録日:2006年 08月 20日 10:28:38

刺青という絆

組織を家族と考える、少年ギャングのメンバーたち - 米国

【エルパソ/米国 20日 AFP】テキサス州のエルパソ(El Paso, TX)でビーバーと呼ばれている13歳のロバート・グティエレス(Robert Gutierrez)は現在保護監査中である。
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(c)AFP/HECTOR MATA

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大学の後期にチカーノ文化の一つの特徴としての「刺青」について話そうと思い、いろいろな資料を読んでいるところである。今年度で終わってしまう授業なので、だらだらと何回もかけて話すことはしないで、一回90分で刺青の歴史から意味まで凝縮させて話そうと思っている。身体の外部ではなく自らの身体にデザインを刻印することの意味は、考えれば考えるほど興味深い。その最初の導入は、チカーノのパフォーマンス・アーティスト、ゴメス=ペーニャの刺青論である。拙訳でのせておこう。


「三つ目の刺青」

 私はいままでいつでも真面目な気持ちで刺青を入れてきた。パフォーマンス・アーティストとして、私の身体は実験室であり、キャンバスであり、日記帳なのである。このもっとも個人的な「本」において、傷跡とは、外部から強要された「文字」のようなものなのだ。したがって刺青は、私によって意識的に選ばれた言葉でありフレーズだと言えるだろう。私の身体の上に起こったことはなんであっても、必然的に私の芸術と自己意識に影響を与えるし、世界との私の社会的かつ官能的な関係にも影響を与える。また、逆もそうである。

 もっとも目立つ傷跡と同じように、私の刺青はどれでも、私の偶発的で放浪的な経歴のなかの劇的な変化を示している。Verbigratia(たとえば):メキシコのアーティストであるドクトール・ラルカによって左肩に描かれた大胆なプレコロンビアの蛇は、私のもっとも最近のホームタウンであるサンフランシスコへの到着(1995年の初め)を祝している。

 1996年の半ばに、刺青師であるドン・ハーディーと私は、私の右腕と肩の大きな刺青のデザインを共同で彫った。それは、複雑なコンピュータの回路によって作り上げられた、メックスアメリカの詳細な地図の模様をしている。文化と農業の贈与者であり、放浪性のアステカの神であるケツァルコアトルは、ロウライダーのモーターボートに乗ってユカタン半島から出発しようとしており、一方、北方にはゾロがレアリングの黒いスタリオンの上でアメリカから飛び出そうとしている。この独特な刺青は、メキシコ移民としての私の旅の、伝記的/歴史的地図として機能しているのである。それは南から北へ、コロンブス以前のアメリカからハイテクのチカニスモまでをも移動する(ここで読者の人たちに信じてほしいのは、私の肌に彫られたゾロは、アントニオ・バンデラスに刺激されたわけではないということだ、絶対に!)。

 それは私の刺青のなかでも、もっとも大きく目立つものなので、社会的な関係においてまで影響を与えるものになっている。刺青が珍しくないようなニューヨークやサンフランシスコのような場所を除いて、私はどこにいようとも、ローライダー、ロッカー、元囚人、啓示的なヒップスターといつもすぐにわかりあうことができた。ところが、警官や保守的な人々は私を疑いの目で観察する。なぜか? 刺青を入れた褐色の身体は、アメリカの法に関わるようなところでは、非常に特殊な暗示をもっているからだ。社会に反抗的な態度を示す不敵な行為なのであり、過去に犯罪を犯したことのシニフィエなのである。

 1998年の7月に、私は三つ目のもっとも痛みをともなう刺青を入れた。今回のそれは心臓の真上に位置し、複雑な装飾を施したがらがらへびが私の肌を覆った。電気の針の先が頭を作り上げている。そしてその額には、バリオのカリグラフィーで書かれたロマンティックなサイン(スペイン語で「永遠に」の意味)が刻まれている。私のいままでの刺青とは違って、今回はチカーノの囚人の正統なスタイルでなされた。精巧な表現と柔らかいグラデーションのグレー。アーティストはルベン・フランコだ。彼は23歳で、イーストロサンゼルスの元ギャングである。いまはワトソンビル地域に住んでいる。

 彼がとる主な客は、北部カリフォルニアの苺畑で働く移民である。彼らは背中や胸に刺青を入れてもらうために彼のところまでやってくるのだ。故郷へと帰る前に、危険に満ちたアメリカでの冒険を永遠に思い出すためのものとして刺青を入れる。移民労働者のお気に入りのデザインは、まずグアダルーペの聖母である。それと、魅力的なメスティソと筋骨逞しいバトが暮らしているような田舎の光景。そして、私も入れているような頭蓋骨のデザイン。

 私が三番目の刺青を入れた理由はいくつかある。43歳になり自分自身の死について強烈に意識するようになったというのがある。最近になって、おじさんが二人亡くなった。彼らとは三年半のあいだ連絡をとらなかった。私はそのあいだに、新しい本(これだ)の原稿が入っているラップトップパソコンを盗まれ、メキシコに入るときに不機嫌そうな国境警察官にグリーンカードを無効にされた。あなたが推測するように、これらの出来事は明らかに、私の人生の最終章と新しい時代の始まりを特徴づけている。

 心臓の上に描かれた頭蓋骨は、私の新しい生活、というよりはむしろ新しい自己を象徴する胸の上全体の壁画にやがてなるであろうとルベンは信じている。それが私の四つめの刺青になるだろう。まるでチカーノ仏教のようだ。それが痛みをともなうであろうことを私はすでにわかっている。しかし実を言えば、すべての刺青は、西洋文明が死に瀕している生活を儀式的に確認するものであるとともに、痛みへの果敢なる反逆としてのさらなる行為となっているのである。
(Guillermo Gomez-Pena, Dangerous Border Crossers, Routledge, 2000, pp.77-78.)

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登録日:2006年 08月 14日 10:59:05

ボーダーを溶解するチカーノという生き方

<米移民規制法案>不法移民は増加傾向 国境の町の風景 - 米国

【ボカ・チカ/米国 24日 AFP】ピュー・ヒスパニック・センター(Pew Hispanic Institute)の最新の報告書によると、米国の不法移民数は1千2百万人に増加、労働者20人に1人の割合となっている。
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(c)AFP/HECTOR MATA

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 チカーノを自明の集団として語ることは難しい。チカーノとはいったい誰なのか? 彼らについて語ろうとするときにともなう対象の揺れのなかにこそ、彼らを理解するための鍵が隠されているのではないかと私は考えている。現に「メキシコ系アメリカ人」をはじめ「ラ・ラサ」や「パチューコ」あるいは「チョロ」「ズート・スーター」「バト」 などの呼称はつねに実体とのずれをともない、いずれも彼らを言い当てることができないできた。あるいは他者から言い当てられないこと自体を彼らは目的としてきたとさえ言えるだろう。作家のルイス・ウレアは「バト」という呼称について「彼らはアメリカ社会と同化した<善良なるメキシコ人>が好まないようないくつもの名前で自分たちを呼んで、人種差別をかわしながら辛辣に彼らを批判することができたのである」と述べている。
 とするならば、どのような形でチカーノを語るにせよ「チカーノとは誰か」 という問いをいつもそこに紛れ込ませて語ることは重要である。私たちが日常的に慣れ親しんでいる見方や語り方をそこに反映させるのではなく、彼らを語る際に浮上するさまざまな違和感やとまどいを看過せずに語る術をこちらも身につけなければならない。「日系」や「アイルランド系」のようなマイノリティの横並びのひとつとしての「メキシコ系」アメリカ人ではなく、「チカーノ」をはじめとする独自の名称を選び出すことによって彼らは「国家原理のなかの国民や民族とは別の仕方で存在することの可能性」「国家言語とは別の仕方で語ることの可能性」を目指してきたのではないだろうか。
 たとえば、集団を外在的に捉えた上で計算された数によってヒスパニックはアメリカ合衆国における最大のマイノリティとなったと報じられたのは数年前のことであったが、ヒスパニックの半数以上を構成しているチカーノにとっては、一九九九年の九月から十二月にかけて「グアダルーペの聖母」のレプリカが初めて国境を越えてロサンゼルスに滞在したことの方がはるかに衝撃をともなうニュースとして受け止められた。1531年にインディオのフアン・ディエゴの前に舞い降りたこの聖母は、いまでは路上や商品や祭壇などあらゆる場所に何度も姿を現しチカーノの身体にも刺青として刻み込まれている。しかし私たちは「奇跡」や刺青が胚胎している意味について理解し描写するための言葉を必ずしも手にしているとは言えないだろう。
 刺青の意味についてギリェルモ・ゴメス=ペーニャは次のように書いている。「パフォーマンス・アーティストとしての私の身体は、実験室であり、キャンバスであり、日記帳である。このもっとも個人的な「本」において、傷跡とは外部から強要された「文字」のようなものだ」 。彼の身体に刻まれた古代から近未来までのメキシコに関するさまざまな記号は、個人のなかに重層的に混在している共同性を体現している。言葉は現実を描写するには不完全なものであり、そしてまた現実は言葉を描写するには不完全なのであるとしても、その両者の結節点としての身体のもつ可能性を私たちは読みとる必要がある。
 「グアダルーペの聖母」とともに、アステカを起源とするチカーノの精神的故郷「アストラン」もまた、私たちの共同性や言語のあり方についての多様な可能性を投げかける。公民権運動の時期の一九六九年に出された「アストラン精神宣言」の起草者であるアルリスタは「アストランは、私たちが私たち自身を名づけるさまざまな名前を包括するような一つの傘を作ってくれた」 と書いた。つまり、アメリカ南西部を想定したこのイマジナリーな空間は、メキシコにもアメリカにも帰れずに国家の枠組みから追い出された人々を受け入れてくれるトポスの役割を果たしているのである。メキシコ人でもアメリカ人でもない人々の「国家」としてアストランはある。もちろん、アストランのような実際の土地に存在しない固有名はつねに現在との関係のなかでずれと遅れをともなって現れる。そこで、ラファエル・ペレス=トーレスはエルネスト・ラクラウから着想を得てアストランを「空虚なシニフィエ」(empty signifier) と位置づけたが、その背景には、チカーノが祖先の「起源」には重きをおかず、詩的なレトリックを駆使しながら歴史的な人物を称揚し呼び出すことによって一体感を得ようとする心性が関係している。したがって、アステカの人々が実際にサウスウエストに住んでいた物的な証拠があるかどうかはさして重要なことではない。どのようにしてチカーノがメキシコと一体になれるかどうかの方法論が重要なのだ。リチャード・グリスウォルド・デル・カスティーリョが書いているように「政治的シンボルとしてのアストランの創造は、不法に越境する人々にはそれだけの十分な理由があるとする精神的かつロマンティックな試みとなっている」 のである。いまだ誰も実際に訪れたことのないような「帰るべき場所」を希求する存在を、私たちはチカーノと呼ぶことができるかもしれない。
 そもそも、チカーノが他のマイノリティ集団との根本的な差異を自覚している要因のひとつは、プロト・チカーノとも呼べる人々が自らの意志をもって北アメリカ大陸に移り住んできたわけではなく、米墨戦争後のグアダル−ペ・イダルゴ条約が締結された一八四八年に、当時のメキシコ領を横断するような形で暴力的に近代的な国境線が引かれたことにある。実際には十万人に満たない人々がアメリカ側の土地に残されたに過ぎないが、メキシコ人の重層的な時空間を有する原風景に突如刻み込まれた国境線は、空間や時間を近代的な枠組みのなかに閉じ込める象徴として十分に機能したのである。境界線によって截然と分離して理解しようとする方法論の表面化が、チカーノをアメリカやメキシコとは異なる位置に立たせることとなった。排他的な境界線が身体の内部に通っている者にとっては、国境線を越える行為は内面の旅なのであり、それらの境界線はやがておのずから消失してゆく。
 その後メキシコからアメリカへと国境線を越えてきた人々は、おもに二度の大戦にともなうアメリカ国内の経済的な政策に翻弄されながら入国を許された農業労働者とその子孫である。彼らはアメリカとの国境線を身体的・精神的に通過することによって「チカーノ」を意識化した。その意識がチカーノ・ムーブメントを支える原動力となった。しかし、このような「メキシコ人を祖先にもつアメリカ南西部に住む農業労働者」というチカーノの旧来のステロタイプはもはや崩れ去りつつあることもたしかである。
 たとえば前述した、メキシコ生まれで西海岸に住むパフォーマンス・アーティストのゴメス=ペーニャは「多くの本質主義的な考えをもつチカーノは、いまだに私をチカーノと認めようとしない」と述べながら「チカーノ化の過程にあるメキシコ人(a Mexican in the process of Chicanization)」と自身をアイデンティファイし、パフォーマンスの共同制作者であるロベルト・シフエンテスを逆に「メキシコ人化の過程にあるチカーノ」 と表現する。人々のアイデンティティは一義的に判断することができず、むしろある集団からある集団への過程のなかにこそ、つまりアイデンティフィケーションという進行形のなかにこそ、何者であるかを把持することができると彼は考えているようだ。ゴメス=ペーニャはさらに次のように書く。「毎月二十万人を越えるアメリカへの越境者は、私たちをそのたびに生まれ変わらせてくれる。私たちの過去を絶えず思い出させてくれるのである。同時に、反対の現象も起こっている。神話的な北(それは未来を象徴している)も失われた過去を求めて南に帰ろうとしているのである。「反対側」(アメリカ)にやってくる多くのメキシコ人は「チカーノ化」され、そしてメキシコに帰る。帰るという行為において、彼らはメキシコが経験しているチカーノ化の無言のプロセスに寄与しているのである」 。国境線を北から南へと越えることでメキシコ人さえもが「チカーノ化」する可能性を秘めている。そのときの「チカーノ」とは何を意味するのだろうか。
 チカーノの自明性を揺るがすもう一つの例として、チカーノ詩人のジミー・サンティアゴ・バカが脚本/出演している映画『ブラッド・イン・ブラッド・アウト』(テイラ−・ハックフォ−ド監督:1993年)がある。この映画では、チカーノの母親と白人の父親のあいだに生まれたミクロ(ダミアン・チャパ)が白人にしか見えない容貌であることを悩みつつ、仲間からチカーノとして認められるまでの軌跡が描かれている。つまり、チカーノという存在を「人種」や「国籍」などの実証的な問題から解き放っているわけである。チカーノであることは、自分の意志で選びとったアイデンティティであるという積極的かつ遂行的な側面を強調する行為の結果としてある。したがって、人種や国籍にかかわらず人は「誰でもチカーノになる可能性をもっている」という点が重要である。付言すれば、この映画には「チカーノとは誰か」を考えるためのさまざまな要素が登場する。各シーンで登場するグアダルーペの聖母、イニシエーションとしての刺青、生活のなかの絵画やプラカ(グラフィティ)、成功者をホアキン・ムリエータになぞらえるような歴史的な英雄との密接な関係、ラ・オンダという音楽用語をグループの名前につける感性、ケツァルコアトルとともに口にされるアストラン、死者の日、カルナリスモなどである。チカーノとは他者から規定されるものではなく、これらのモノを通して時空間の境界線を溶解し、人と人とのあいだの関係性をより身近なものにしようとする「生き方」にあると考えられる。
 この文章において紹介しようとしているメキシコ生まれのイラン・スタバンスは、あたかも『ブラッド・イン・ブラッド・アウト』の主人公と同じように自らを「白いヒスパニック」 と認識し、メキシコにおいてもアメリカにおいてもアウトサイダーとして生きてきた。彼は「メキシコでの私はユダヤ人で、国境を越えたあとはメキシコ人になった」と述べている。1961年にメキシコシティで生まれ、東欧のユダヤ系移民の家系を引く関係でイディッシュ語の教育を子どものころに受けたスタバンスは、二十四歳でユダヤ教の神学を学ぶためにニューヨークに移住し、のちにコロンビア大学でラテンアメリカ文学の博士号を取得している。現在はマサチューセッツ州のアムハースト大学でラテンアメリカとラティーノの文化を教えながら、最初は短編小説の作家として、その後、批評家あるいはアンソロジストとして現在にいたるまで旺盛な執筆活動を続けている。彼はアメリカ合衆国のなかのマイノリティのひとつとしての「メキシコ系アメリカ人(Mexican- American)」というハイフンではなく、国家原理を逸脱した諸集団の融合としてハイフンを使用することに意義を見い出し「メキシコ系ユダヤ人」と自らのことを説明している。しかし、私たちはあえて彼をチカーノと位置づけることによって、そこに醸成する豊かな問題群を剔出することができるかもしれない。
 アメリカに住むメキシコ系ユダヤ人という視点からヒスパニックやユダヤ人の文学や文化に関する著作を数多く出版しているスタバンスにとって、自らをアイデンティフィケーションし続ける行為はメキシコ人であることとユダヤ人であることの接点から生まれる。特にユダヤ人にとっては「記憶」の問題と深く結びついており、「記憶と文学」という論文においてスタバンスはヨセフ・ハイーム・イェルシャレミの『ユダヤ人の記憶/ユダヤ人の歴史』を参照し、ユダヤ人が太古の時代からの集合的記憶を保持し「想起(ザホール)」を通してアイデンティティを不断に構築していることに関心を示す。想起を通して「ユダヤ人は生まれるのではなく作られるのだ」 とスタバンスは簡潔に述べている。言うまでもなくこの言葉はシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」を意識して書かれたはずであり、私たちはまた同じようにして「チカーノは生まれるのではなく作られるのだ」とも言える可能性について考察してきた。そしてその鍵は「記憶」に隠されている。
 ユダヤ人は記憶のなかに公共性を作り出し、私たちが一般に考えがちな実証主義的な歴史を重視しない。瑣末な歴史的事実を明らかにすることが歴史の本質を捉えることにつながるとは考えないのである。スタバンスが参照したイェルシャレミ自身は「ラビたちはまるでアコーディオンをひくかのように、自由に伸ばしたり縮めたりして時間を扱う」 と書いている。チカーノもアイデンティティの源を探究することはせずに、各所に描かれるグアダルーペの聖母や虚構の空間であるアストランを呼び出しつつ共同性を構築する。時間は空間と同じように均質に分割されることはなく、過去から未来へと一方通行には流れない。
 ユダヤ神学が示すユダヤ人の歴史哲学をもっとも凝縮した形として、ベンヤミンの最後の論文「歴史の概念について」の最後の一節をあげることができる。「律法と祈祷は彼らに想起を教えている。(中略)想起はユダヤ人を解放した。しかしそれだからといって、ユダヤ人にとって未来が、均質で空虚な時間になったわけではやはりなかった。というのも、未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だったのだ」。タルムード(口伝律法)やトーラー(聖書の最初の五巻)の教えを通して「小さな門」を見つけ、そこから境界線(ベンヤミンの好む言葉を使えば「敷居」)を越え出ていくことによって、ユダヤ人は過去と出会い自らを日々更新してゆくのである。
 「国家原理のなかの国民や民族とは別の仕方で存在することの可能性」を、モノ自体が有している「物質的想像力」(バシュラール)や、過去と未来の記憶を内にはらんでいる「ヒエロファニー」(エリアーデ)によって、チカーノやユダヤ人は巧みにこちらにたぐり寄せてきた。では「国家言語とは別の仕方で語ることの可能性」はどうだろうか。ベンヤミンの言葉をもう一度借りてみよう。「言葉は何を伝達するのか? 言葉は自身に合致する精神的本質を伝達する。この精神的本質は自己を言語において(in) 伝達するのであって、言語によって(durch)ではない」 。つまり、言葉によって運ばれる内実は言葉自体の形態にその多くを負っており、言語そのものがその「伝達可能性」を担保するのである。
 東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)の言語であるイディッシュと、ヒスパニックの言語であるスパングリッシュはどちらも混成言語であるとともに、ある固定的な体系のもとに話されているわけではないことも共通している。イディッシュもスパングリッシュも個人や集団によって無数に存在する形態を緩やかにまとめあげた名称に過ぎないのである。そのどちらにも通暁しているスタバンスは、言語とアイデンティティの不可分な関係についてきわめて意識的である。「スパングリッシュが十分に理解されるためには、エボニクスやイディッシュと比較されるべきではあるが、それらはけっして同じものではない。そうではなくて、それらはお互いに共通の要素を共有しているのである」 と彼は書いている。アイデンティティを構成している要素や、言語を構成している要素に立ち返ることによって、私たちは無数の要素が構成する無数のアイデンティティと言語を想像することができる。そうすることによって、外部からの固定された名称を忌避し続けてきたチカーノと同じ視点に近づくことができるだろう。
 それにしても、私たちは「言葉の海」のなかにいるようである。自分を包んでいる濃度の海水のなかに生まれ落ち、やがてさまざまな濃度の水が存在することに私たちは気づくようになる。しかし、そこには明確な境界線は存在しない。要素に還元された水(言葉)は多様な濃度の水を結びつける分子となり、慣れ親しんだ塩分の水を分解してその他の塩分の水を合成するだろう。それは「詩」が有している力でもある。既存の秩序をずらされた言葉は私たちに時空間の多様性を認識させるが、そのあいだも、言葉とアイデンティティはそれぞれ不断に変化しつつ、お互いに影響を与え合う。そして広大な海は、私たちにとって無限に一つの時空間を構成しているのである。

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登録日:2006年 08月 08日 00:33:43