2006年 09月

ロンゴリア・アルバ・ロペス・セレーナ

エヴァ・ロンゴリア後援のチャリティ・イベント「El Sueno de Esperanza Gala」開催 - 米国

【ロサンゼルス/米国 8日 AFP】ラテン・アメリカ系の小児癌患者やその家族を支援する非営利団体PADRES Contra El Cancer主催のチャリティ・イベント、El Sueno de Esperanza Galaが6日、ユニヴァーサル・スタジオ(Universal Studio)にあるテレビ局ABCの人気ドラマ「デスパレートな妻たち(Desperate Housewives)」のウィステリア通り(Wisteria Lane)のセットで開催され、同イベントの後援者で同ドラマの出演女優、エヴァ・ロンゴリア(Eva Longoria)をはじめ、多くの有名人が出席した。
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(c)AFP/Getty Images Michael Buckner

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10時過ぎくらいに起きあがってMTVをなにげなく見ていると、エヴァ・モンゴリアじゃなくてロンゴリア特集。ヒスパニックの女優を語るのにいつまでもジェニファー・ロペス(プエルトリコ)ってわけにもいかないので(二人は私生活では仲がよいらしく、映画で共演することも決まっているらしい。脚本はジェイロー)しばし眺めてみる。

インタビューに答えている「じゃじゃ馬娘」な感じがアニータっぽい、なんて書いたらファンに怒られるか。青い目ではないディーバの代表であるジェシカ・アルバ(父親がチカーノ。『ファンタスティック・フォー』『シン・シティ』『イントゥ・ザ・ブルー』などに出演。今年のMTVムービー・アワードの司会)よりも年齢が上なせいもあるだろうけど、きれいではあることは認めつつも色気はあまり感じない。コロンビアあたりを歩いていたらごろごろいそうな顔ではある。

テレビドラマから登場し、コメディアンとしての才能も認められる彼女は、30歳を越えていまが旬と言えるだろう。バツイチでいまつきあっているお相手はNBAの選手。日本では「デスパレートな妻たち」というわけわからんタイトル(デスパレートも日本語に訳した方がいいのではなかろうか)の新しいシリーズが10月4日から始まるのと、10月7日に公開される『センチネル:陰謀の星条旗』というわけわからんタイトル(センチネルって何? いま調べたら古語英語なのね)の映画に出演しているので、このMTVの番組はタイムリーな宣伝ということになるのだろう。

ジェイローの女優としての出世作とも言える『セレナ』で演じたセレーナ・キンタニージャ(1971-1995)はチカーナの歌姫だが、ロンゴリアと同じコーパス・クリスティーの出身。私もエル・パソから車を飛ばして訪れたことがある(途中でスピード・オーバーで捕まった)。すごい田舎の港町。ロンゴリアも今日見たインタビューで「お父さんが銃で撃ってきた肉を食べていた。銃の使い方はすべて父親から学んだ」と答えていた。

セレーナはいまやチカーノの人たちにとっては(前回触れた)「グアダルーペの聖母」と同じで、ボーダーランズにおいては遍在している。彼らが特定の個人に寄せる思い入れは私たち日本人とは比べものにならない。そして、ある人物表象を胸に抱くだけで共同性を築くことのできる感覚、帰属の感覚もまた、私たちは彼らからこれから学ばんでいく必要があると思われる。

「私たちは、リアルなコミュニティと想像されるコミュニティの区別を放棄する必要がある」(ジェラード・デランティ『コミュニティ』)

デスパレートな妻たち2
http://www3.nhk.or.jp/kaigai/dh2/index.html

センチネル
http://movies.foxjapan.com/sentinel/

エヴァ・ロンゴリア
http://www.evalongoria.com/

ジェシカ・アルバ
http://www.jessica-alba.com/news.php

ジェニファー・ロペス
http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/JenniferLopez/

セレーナ
http://www.furious.com/perfect/selena.html

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登録日:2006年 09月 24日 13:44:17

北漸運動の旗頭としてのグアダルーペの聖母

<06サッカーW杯>メキシコ代表 グアダルーペ寺院でのミサに参加 - メキシコ

【メキシコシティー/メキシコ 20日 AFP】6月9日に開幕を迎える06サッカーW杯に出場するメキシコ代表が、ドイツへの出発を前にグアダルーペ寺院(Guadalupe Basilica)で行われたミサに参加し、アントニオ・ナエルソン・”シーニャ”(Antonio Naelson ”ZINHA”、左)、ルイス・エルネスト・ペレス(Luis Ernesto Perez、右)、ラファエル・ガルシア(Rafael Garcia、左上)らは、グアダルーペの聖母の描かれた紙を手に参列した。
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(c)AFP/Susana GONZALEZ

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メキシコ社会に広く浸透するマチスモとのバランスのなかで生み出されたと思われる代表的な女性性の表象である、「グアダルーペの聖母」と「マリンチェ」と「ラ・ジョローナ」をひとつずつ丁寧に追いながら、メキシコ(およびチカーノ)を総合的に把捉していく必要があると考えてきた(ぼんやりと)。

そう思いながら最初の授業では「グアダルーペの聖母」から始めたのであるが、そして事前に手元にある資料は多少読み込んだのだが、もともと現代のアメリカを相対化するような日系アメリカ人の著した文学からチカーノの文化に移行した問題意識のせいなのだろう、それら3人をメキシコの内部で位置づけるというよりもやはり、アメリカやスペインとの対比のなかで考えようとしてしまう。

そもそも学部時代に、つい150年前の日本に霧のように覆っていたであろう「気分」を「感じる」ことに対してさえ諦めに近いものを感じてきたのに、500年近く前(1531年)に起こったであろう「顕現」や1648年の『ニカン・モポウア』のことを理解できるとは到底思えない。そんな夢のような話を誰かに話すことなどできるのだろうか。「そうなってるみたいです」と語るしかないのではないだろうか。

話は飛ぶが、予備校の授業で教え方が悪い先生はだいたいは本人もよくわかっていない場合が多いのだが(教え方がうまい先生は理解が行き届いている先生である)、それに対して、大学でおもしろい先生は本人も理解の途上にありながら興味のある内容を話している先生であることが多い。その人物のなかでもっともアクチュアルな問題意識をたどたどしく話すことによって、学生はともに思考回路の中に入っていくことができる。あまりにも確信をもって開示される情報に対しては聞き手はついていくことができず、知識というよりもただの情報になってしまう。とはいえ、情報は死んだ言葉であるから普遍性があって使い勝手がいいのであって、受験には必要なことである。もちろん、知識と情報の差異はかなり微妙な違いで、興味があってもしゃべりながら確信をまったく持てない知識は、ほとんど情報と変わらなくなってしまう。私もバランスのいい話し方ができることは、はっきり言ってほとんどない。さらに問題なのは、いうまでもなく、そこに聞き手側の知識や意識も前提条件として加わっていることである。

話は戻るが、征服者であるスペインやメキシコによる暴力がなければ、少なくともマリンチェとグアダルーペの聖母は生まれることはなかったのであって、それがどのようにマチスモとの関係のなかで位置づけられるのかは、考えるべきつぎの問題かもしれない。

1521年のエルナン・コルテスによるアステカ帝国の征服から10年たって舞い降りた褐色のマリアは、鶴見俊輔が早々と指摘していたように、インディオの人びとの衝撃を和らげるためかあるいはスペイン人がインディオを懐柔するためかによる捏造であろう。しかし重要なことは、なぜそれがいまでも厳然たる影響力を発揮しているかの方で、そういうときに私は「物語」(真偽は問わない)の孕んでいる力を実感してしまう。

いまのところ私は、グアダルーペの聖母のことを情報ではなく知識として伝える自信がない。アパリシオニスタになることはできない。広島の原爆や東京大空襲の数年後に私たちを守るべく黄色のマリアでも舞い降りてくれたのならまだ理解に近づけそうな気もするが、日本にはカトリックとの共通性をもつトナンツィンのような神は残念ながら存在しなかったのであって、そういう状況は望むべくもない。シンクレティックな宗教性を意識することが少ない日本のシンクレティズムのありかたはどうなっているのだろう。神道と仏教は? 

西洋の暴力によってもたらされたアメリカスのシンクレティズムは「西洋のインパクト」というパラダイムを意識させ、支配的な西洋の論理の呪縛の内部にいるようで居心地が悪いが、この居心地の悪さを感じる経験を私たちは徐々にもてなくなっているように思う。居心地が悪いとはシンクレティズムやクレオールをまだ意識することができるということである。

フロンティアが西へと移動する西漸運動によってならされてしまったのはアメリカ南西部というよりも、もしかしたら、太平洋を越えた日本列島なのではないだろうか。チカーノがグアダルーペの聖母を携えて国境を越えて北漸運動の先頭に立っている時代に、私たちは何を旗頭にして東漸運動をすればいいのだろう?

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登録日:2006年 09月 24日 01:08:05

Luis J. Rodriguez

テキーラの原料栽培地を世界遺産に指定 - メキシコ

【アマティトラン・バレー/メキシコ 13日 AFP】ユネスコ(UNESCO)は12日、ハリスコ(Jalisco)州アマティトラン・バレー(Amatitlan Valley)にあるメキシカン・アガベ(Mexican Agave)農場3万4658ヘクタールの景観を世界遺産に指定した。同農場では、テキーラ・ウェバー(Tequilana Weber)品種で、メキシカン・テキーラを抽出するテキラリュウゼツラン(blue agave)を栽培している。写真は、世界遺産に指定されたメキシカン・アガベ農場の風景。(c)AFP/Ivan GARCIA

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11月中旬にチカーノ作家のルイス・ロドリゲス氏が来日するとの情報を、宮田信さんが電話で教えてくれた。一度メールをいただき、その後、電話で詳しく教えてもらったという形だ。下北沢の「Bird Cafe」(レイ・サンドバルがライブを行ったところ)などで『Always Running』の朗読などを企画しているそうである。元ギャングのルイス・ロドリゲスについては、私も何冊かの著作をもっているのでそれらを読み直したうえでまたゆっくり書くつもりだ。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/0743276914/sr=1-1/qid=1158295689/ref=sr_1_1/503-4930567-9624761?ie=UTF8&s=english-books

来日の理由は「日本におけるチカーノの浸透具合を宮田さんを通して取材するため」だそうである。すばらしい! あるアメリカの西海岸の新聞社(また本決まりではないそうなので伏せておく)の枠をすでにとってあるとも教えてくれた。詳しいことが決まったら、またこの場を借りて情報を流していくことにする。「Music Camp」のホームページでも発表されるだろう。

http://www.m-camp.net/

宮田さんのようなルイスと長年の交友関係がある人物こそが紹介者としてふさわしい。しかし、実際は、彼を飛び越してアカデミックの世界で紹介がなされるところに、日本におけるチカーノ受容の難しさのひとつがある。紹介されることに大きな意義があることは否定しないし、大きな前進である。だが、英語ができることと対象を十全に理解していることの二つがかみ合ってこそ満足のいく訳文が生まれると私は思う。それは翻訳者が著者の魂を引き寄せるためにはそのどちらもが必要だからである。どちらが欠けていてもいけない。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/0938317520/ref=pd_bxgy_fb_text_b/503-4930567-9624761?ie=UTF8

いま日本で、チカーノの文章を、しかも元ギャングの文章を、しっかりと日本語に置き換えることのできる人物はいるのだろうか。いないような気がする。普通に大学院を出たようなおぼっちゃまやお嬢ちゃまの翻訳者ではない、彼らの世界を肌で感じながら英語を身につけたような翻訳者の登場が待たれるところだ。高学歴のチカーノの作家や学者の翻訳ならばともかく、イーストLAにおけるチカーノの世界を知るためには、そのような翻訳者が不可欠である。「ルイス・ロドリゲスの文章を大学院で英語を学んだ日本人が訳す」というだけでなんだかおかしくなってくる。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/1576870723/sr=1-1/qid=1158295830/ref=sr_1_1/503-4930567-9624761?ie=UTF8&s=english-books

海外の大物を国内に紹介したり、あるいはチカーノのようなこれから注目されるであろう集団を紹介したりするときに、その紹介者が適任であることは非常にまれだと思う。たとえば、声が大きかったり力を持っているというだけで紹介者が選ばれるとしたら、それはお互いに不幸なことになるだろう。先日、ほぼ40年ぶりにル・クレジオが再来日したときに、彼を迎えた今福龍太氏とそんな話になった。海外の文章を訳せばいいというわけではないし、人物を呼べばいいというわけではない。縦割りの専門領域(フランス文学など)のなかでル・クレジオを呼ぶことはすでに不可能であるし、ルイス・ロドリゲスならばまさかアメリカ文学会ということになるのだろうか。まさか。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/0226110028/sr=1-28/qid=1158296092/ref=sr_1_28/503-4930567-9624761?ie=UTF8&s=english-books

オクタビオ・パスやボルヘスはもっともふさわしい人物によって日本に紹介されたのだろうか? パスはどうしてこれほどまでに日本では無名なのだろう。

http://www.amazon.co.jp/Octavio-Paz-A-Meditation/dp/0816520909/sr=1-1/qid=1158295975/ref=sr_1_1/503-4930567-9624761?ie=UTF8&s=english-books

最初に誰にどのように紹介されるかというのはとても重要で、一度取り逃がした「理解」というもろくて危険なパンドラの箱は、もう二度と元の形に戻すことはできないだろう。チカーノがこれからどのように紹介されるのか。大きな責任があると思う。

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登録日:2006年 09月 15日 14:02:50

他者を理解するということ

チャベス大統領、支持者を集めて笑顔 - ベネズエラ

【カラカス/ベネズエラ 19日 AFP】19日、ベネズエラ・ボリバル共和国ではメキシコ合衆国との外交危機に陥る中、チャベス大統領を支持するパレードが行われ、同大統領はメキシコの伝統音楽マリアッチのグループとメキシコ音楽「ランチェーラス」を歌った。米のラテンアメリカ担当シャノン国務次官が米議会で「ベネズエラは地域安定を脅かす存在」と発言したことに対し、17日同大統領が反論、米ブッシュ大統領を「殺人者」「狂人」と呼び捨てた。(c)AFP

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前々から気にはなっていたが、やはり「カリート」について書き残しておかなければならないだろう。といっても、私は何も知らないので、新しい情報をここに書くことはできない。彼が「何者でどうしてスウェーデンから出てきたのか」を知っている人は是非教えてください。

先日、藤沢で友人に会ったら「今日、カリートが大磯に来てるね」と言われ(もちろん私がメキシコ好きであることを知っている)、少しずつ知名度を上げていることに気づかされた。無国籍風な音楽が突如流行ったりするこの国において、メキシコの名前を借りたこの無国籍風な音楽も同じ系列に入り、そして流行るのだろう。

試しにネットで見てみたら、彼はなんとすでに何度も日本に来ているようである。日本がお金儲けのターゲットになっているということだろう。アメリカからの情報の方が先に入ってくる私にとって、カリートといえば「RAWのカリート」であり、この戯画化されたカリートの方ではない。アメリカでは、戯画化された方のカリートはそれほど知名度はないような気がするが、どうだろう?

アメリカのようにごく身近にメキシコ人やチカーノがいる国において、メキシコのイメージがソンブレロとマリアッチとコロナビールとサボテンであるわけもなく、さらに言えば、アホみたいに明るいという一部だけを過剰に抽出した性格であるわけもなく、音楽もギャグとしてはストレートすぎてひねりがない、となるとターゲットはナイーブな日本ということになるのだろう。というよりも、最初から日本をマーケットに想定して作られた「企画もの」という気がしないでもない。わからない。

一方で、多くの日本人にとって外国といえば「アメリカ」「中国と韓国」「その他ヨーロッパなど」のようないびつな地図ができあがっているだろうから、遠いメキシコはカリカチュアライズされたイメージのなかにしかない。たとえば、アフリカもラテンアメリカも中東もごちゃごちゃになっている中高生は、詰め込み教育を受けた私たちの世代が想像している以上に多い。大学生でもリオグランデ以南の国を10個あげられる者はそれほど多くはないだろう。

見知らぬ他者を統一化されたイメージのなかで把捉してしまうというのは、一つの防衛本能である。もちろん、望ましいことではない。カリートのホームページのなかにある数々の仕掛けを見て、メキシコがどのようなイメージのなかに集約されているのかを知るという点では、ある程度楽しめる。もちろん、望ましいことではない。ある意味、ドラマの「結婚できない男」を見ながら「もてない男」の典型的な行動を見て楽しみのと似ているところがある。本当にもてたいと思っているもてない男は、もてるために血のにじむような努力をしているはずだし、阿部寛はもてない男の演技をしながらもあのままでもてている。私の周りにはファンが多い。

同様に(?)、カリカチュアライズされたメキシコのなかにはメキシコ的な要素はない。そもそも、概念やモノだけで何かを理解しようとするところが間違っている。文学を読んだり音楽を聴いたり映画やアートを見たりして対象を理解するという行為は、概念やモノを微分化するということである。それは、概念やモノだけを見ているだけではわからない。大変な労力をともなう作業でもある。イメージやブランドを通して物事を理解するのは、そのような労力を省くための一つの防衛本能ではある。しかし、真の他者を取り違えてうまくやっていけるほど、この世の中はクローズドではないだろう。

日本において、イメージやブツやクリシェで語らないためのレッスンは、どこで受けることができるのだろう? 

私の頭にすぐに思い浮かぶのは、海外旅行と恋愛だが、みなさんはどうだろうか?



いずれのカリートもご存じない方は以下のサイトへ。そして、カリカチュアライズされたメキシコ映画を見たい人はその下のサイトへ。カリートもからんでいるそうです。

カリート(caricature)
http://www.carlito.jp/index.html

カリート(RAW)
http://www.wwe.com/superstars/raw/carlito/

ナチョ・リブレ
http://www.nacho-movie.jp/top.html

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登録日:2006年 09月 08日 10:44:04