2006年 10月

チカーノの生き方をどのように生かしていくか

映画「Nacho Libre」のプレミア試写会に主演のジャック・ブラック登場 - 米国

【ハリウッド/米国 14日 AFP/Getty Images】人気俳優/ミュージシャンのジャック・ブラック(Jack Black)演じるメキシコの孤児院のコックが、孤児たちに美味しい料理を作るための食材を買う金を稼ぐべく、プロレスに挑戦する…というパラマウント・ピクチャーズ(Paramount Pictures)配給のコメディ映画「Nacho Libre」のプレミア試写会が12日、グローマンズ・チャイニーズ・シアター(Grauman’s Chinese Theatre)で行われた。
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(c)AFP/Getty Images Kevin Winter

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朝、起きると、MTVで「ジャック・ブラック」特集。スペイン語の発音がおもしろいと言いながら意味もなく「エントンセス」などと発音していた。


<和光大学>
現在のメキシコ音楽におそらく日本で一番精通している一人であろう長屋美保さんを大学にお招きし、最新音楽事情を映像や音を織り交ぜながら拝聴する。盛りだくさんのパフォーマンスで、私の狭量な知的許容範囲を一瞬越えそうになった。しかし、それが心地よいのもたしか。ゲストスピーカの方たちにはいつも「手加減なしで思いっきりやってください。学生たちじゃなくてオレを満足させてください!」と伝えてある。

異国の文化をステレオタイプ(芸者、フジヤマ:ソンブレロ、マリアッチ)に閉じこめることなく、多様性と異質性をそのまま受け入れるのはかなりの知的体力を必要とするものである。この現実という「わけのわからなさ」を受け止めるために、人間はいろいろなことを捏造したり単純化して勝手に納得するが、その捏造したツクリモノの方を先に受け止めちゃっても仕方がないのである。

そういう「わけのわからなさ」に対する耐性は若いうちにつけておくべきで、混沌を身体で受け止めながら帰納的に文化を語るという方法を身につけなければならない。大人になればなるほど、勝手にこっちだけでわかった気になって、そのレベルで理論をこねくり回そうとしてしまう。実感のともなわない論理や哲学など必要ない。論理を理解するために自分を合わせても仕方がない。

授業終了後、いつもの居酒屋で打ち上げ。男子学生二人も交えて「長屋節」に身をゆだねる。長屋さん、ありがとうございました! 

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<早稲田>
今日は、斉藤修三さんのお話を伺う。グロリア・アンサルドゥーアの絵本を中心におきながら、チカーノの時空間の全体像を浮上させる鮮やかな語り口で、一気に知的好奇心を高めてもらったような気がする。ありがとうございました。

とくに「チカーノの生き方を日本社会のなかでどのように生かしていくか」という問題意識につねに意識的なところに感銘を受けた。

たとえば、チカーノを「アメリカ社会の中で虐げられた可哀想な人々」と妄想のなかで勝手に位置づけ、「彼らを助け出すために私たちは何ができるのか?」などとかつての左翼の生き残りのような単純な発想をすることほど無意味なことはない。可哀想なのはそういうことをいつまでも考えている頭の固い人たちの方である。そして、足下の日本国内に助け出すべき人は山のようにいる。



電車のなかでは篠原資明『ベルクソン』(岩波新書)。68-69頁で、いきなりウィトゲンシュタインとバタイユとデリダを感情的に貶めているのに驚く、というか笑う。

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登録日:2006年 10月 30日 00:32:01

アメリカスの交差点としてのサウスウエスト

「2006ゴールデン・ブーツ・アワード」開催される - 米国

【ビバリーヒルズ/米国 13日 AFP】映画・テレビ基金(Motion Picture & Television Fund、MPTF)が主催し、西部劇映画に多大な貢献をした俳優や関係者などに贈られる賞「2006ゴールデン・ブーツ・アワード(2006 Golden Boot Awards)」が12日、ビバリー・ヒルトン・ホテル(Beverly Hilton Hotel)で開催され、多くの著名人が出席した。
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(c)AFP/Getty Images Frazer Harrison

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越川芳明氏の新刊が12月に白水社から出版されるとご本人からお伺いした。楽しみである。『現代詩手帖』に連載されていたチカーナ詩人に関する文章も収録されるとのこと。

越川さんのお話を聞いているといつも、私が20代のころにサウスウエストに恋をしていたときの熱情を思い出させてくれてどきどきする。対象を知るためにはただ「好きになる」だけではダメで、恋をしなければわからないことがある。恋をしない学者がなんと多いことか。優秀な学者の多くが社会不適応者に見えるのはそのためだろう。恋は人をアウトローにする。

サウスウエストとメキシコは文化を共有しているから、サウスウエスト・ラバーは自然とメキシコを訪れるようになる。先日、グアダルパーノス・バッグを手に現れた越川さんは「<グアダルーペの聖母>信者になるくらい褐色のマリアを求め歩いた」とおっしゃっていたが、僭越ながら私にもその気持ちはよくわかる。私は、2年前にマンハッタンの<グアダルーペの聖母>にお会いしたのがいまのところ最後の「デート」だ。

我々のようなサウスウエスト・ラバーはかなりの数に昇ると思われるが、それでも、実際に何度も訪れたうえに文学作品にまで目配りするという人はそれほどいるわけではない。サウスウエストに言及する人でも、5回程度ニューメキシコやアリゾナを訪れただけでは私はラバーとは呼びたくないし、サンタフェやタオスでインディアンのアクセサリーを買って終わりという人もラバーには遠く及ばない。

もちろん私は、エキゾティシズムが人を引きつける力を軽視する者ではない。それによって人は旅の一歩を踏み出すことになるからである。実際に海外の土地を踏むかどうかよりも、内面の旅の方がはるかに重要だろう。文学や音楽や写真は内面の旅を促す。そして、身体はあとからついてくる。ただ、異国情緒趣味で終わってはいけないとも思う。

サウスウエストからメキシコへのベクトルとは逆に、メキシコからサウスウエストへと北上し『ニューメキシコ』という興味深い書物を出版されたのが、加藤薫氏である。先日、貴重なお時間を割いてもらい、神奈川大学で3時間半ほどお話をお伺いすることができた。

アメリカで急増するブラジル系移民のお話や、チーチ・マリンが所有するチカーノ・アートのお話など、数時間があっという間であった。それとともに、平塚のディープな話がこれまた面白かった。また、来月に訪問させてもらう予定。

アメリカ文学からヒスパニックに関心を抱くようになった越川さんと、メキシコ美術からヒスパニックにたどり着いた加藤さんのお話を立て続けに拝聴することができ、私のなかではいい具合に知的刺激を受けることができた。お二人ともありがとうございました。


Raza and Japan Cultural Meeting 2006

http://www.m-camp.net/topics03.html#chicanostyle

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登録日:2006年 10月 25日 11:38:57

ワサップ!

ラテン系の俳優の活躍を称える第21回Imagen Awards授賞式開催 - 米国

【カリフォルニア/米国 21日 AFP】ラテン系の作品や俳優に贈られるImagen Awardsの授賞式が18日、ビバリーヒルズで開催された。
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(c)AFP/Getty Images David Livingston

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http://www.wassuprockers.net/

私の手元にはいま、ラリー・クラークが1971年に出した『タルサ』というタイトルのモノクロの写真集がある。ページを開くと「限定1000部」と小さな字で書かれていて、その横のページにはつぎのような彼の言葉が記されている。

俺は1943年オクラホマのタルサで生まれた。16でアンフェタミンを初めて打って、3年間、仲間と打ちまくった。そしてある日、街を出た。でもそのうちに、またタルサに舞い戻ってしまった。一度ハリが刺さると決して抜けないってことさ。(ラリー・クラーク)

その数ページあとに「死は生より完璧である」と書いてあるだけの、あとは注射と銃だらけの写真集である。

マーティン・スコセッシ監督はこの写真集を見て『タクシー・ドライバー』の着想を得たそうだ。スコセッシが『タルサ』のどういうところに影響を受けたのかは一目瞭然だろう。あえて言葉にするならば「孤独感と焦燥感が生む刹那的な連帯感」とでも呼んだらいいだろうか。

孤独感と焦燥感が生む刹那的な連帯感。

来年の1月に公開される『ワサップ』(wassup rockers)にも同様のテーマが流れている。登場するラティーノの少年たちは家族に見放されながらも仲間との一体感を何よりも大事にしていることがわかる。死と隣り合わせの血の共同体である。

ただ、クラーク作品にお決まりのドラッグの代わりに少年たちが病みつきになっているのはスケートボードだ。そのせいか、彼らはどこにいようとひたすら明るい。さらに、舞台がニューヨークではなくロサンゼルスであることも、この映画が抱えているバックグラウンドから陥りそうな絶望という深淵を隠している。

しかし、明るさと絶望を同時に生きざるを得ないのがラティーノたちなのであって、明るさのなかの翳りにこそラティーノの現実がある。

試写室の前で時間をとってくれたスローラーナーの四方さんによると、登場するスケボー野郎たちは、サウス・セントラルの現地でまさに映画のなかのような生活をしている実際の少年たちだそうだ。エルサルバドルとグアテマラからの移民の子供たち。映画の冒頭で射殺される少年の事故現場には「グアダルーペの聖母」が飾られていたのが印象的だった。

そのせいか、この映画はたしかに、ロサンゼルスのラティーノたちの生き様を観客のすぐ近くにまで引き寄せることに成功している。すべての場面はリアルでまるでドキュメンタリーのようだ。見るものはそこから感じとれるもののナマの感覚から考えていかなくてはならない。

メキシコ系がロサンゼルスの市長であるという政治的現実や、ヒスパニックが最大のマイノリティになったという数字だけではなく、地上に降り立って彼らのことをすぐ近くで見ていかなければ何もわからない。

この映画はそのための最高の契機となることは間違いないだろう。

来年になったら、是非、映画館に足を運んでほしい。

名代☆日々是メキシコ
http://koderiinu.blog6.fc2.com/blog-entry-212.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@席が花道寄りの一番前という特等席だったのもあるが、海老蔵と菊之助の曽我兄弟には心躍らされた。海老蔵の熱演で、歌舞伎座全体の気温が2度くらい上がったような気がした。

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登録日:2006年 10月 17日 01:25:23

後期の和光大学の授業

3人に1人がマイノリティー、非白人大統領誕生も間近か - 米国

【ワシントンD.C./米国 2日 AFP】米国の人口は10月中に3億人を超えるとみられている。
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(c)AFP/JIM WATSON

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学生たちにとっては前期のようにたまにゲストスピーカーをお呼びする方が刺激になるのだろうが、私も長年生きていると言いたいことは山のようにあるのでその点は少し我慢してもらい、後期は少しずつ(おそるおそる)井村ワールドを自由に展開させてもらっている。残念ながら来年は存在しない授業なので、おそらく私の暴走ぶりはさらに加速し(誰も止めなければ)、この教室を突き抜け妄想に彩られた異界へと入ることになるだろう。授業自体を異界に見立てた異界論である。

本来はチカーノ文学を講ずるべき場所であるはずなのに、私の口から出てくる人名はたとえば前回は、「夜回り先生」「江原啓之」「平田篤胤」「出口王仁三郎」「水木しげる」「京極夏彦」「スウェーデンボルグ」「シュタイナー」「柳田国男」「泉鏡花」「芥川龍之介」「本居宣長」「ベンヤミン」「ベルクソン」「ジミー・サンティアゴ=バカ」「サム・ペキンパー」「崎山多美」「村上春樹」「三島由紀夫」「中原昌也」などである。もちろん、私のなかでは何を語ろうとも問題意識は一貫している。

一方で、ソシュールやフーコーやデリダなどの現代思想の思想家の名前は意識的になるべく出さないようにしている。現代思想の叡智を「論理」を解する閉じた(?)楽しみのなかで終わらせたくないからだ。「フーコーによれば」と言った瞬間にこぼれ落ちてしまうものがあるような気が私はする。同じような内容をすでに存在する異なる言い回しによって提示し、論理よりも実際の文献やモノにまず接し、そのあとで、フーコーにあとづけしてもらえばいい。私たちが生きる世界を最初から西洋の思想家を通してわかろうとするところに、私たちが私たち自身を十分に捉えきれない陥穽があるのではないだろうか、とずっと考えてきた。さらに言えば、ヨーロッパの思想を通して「わかる」ことがわかることではないだろう。

そのような(教える者自身が)錯乱した見慣れないアプローチに、ある者はとまどい、ある者は歓喜し、ある者は沈思黙考し、ある者は逃げだし、あるものは反抗し、とリアクションがさまざまなのが面白い。いずれにしても身体の感度が高いなかなか優秀な学生さんたちである。いくつかの大学で話をした経験があるが、お世辞ではなく教えるものを刺激してくれる優秀なメンバーである。教える者が教えられる者をコントロールする以上に、教えられる立場にある者は教える者をコントロールすることができることを実感してほしい。少なくとも私の場合はそうである。しかし当初は「最後は一人になってもしゃべり続けるぞ」と思っていたのに、なんだかんだでお互いに楽しめているところはすごい。さすが和光大学、といったところか。

「チカーノ文学論」と銘打つことによって、チカーノの文学の歴史と代表的な作品を読んでいくというおきまりのパターンに倣うことほどチカーノ世界から縁遠いものはない。教え方と教えられ方のパターンが旧来のものを踏襲しているあいだは、その中身がいくら過激であろうとも伝えられることは限られている(以前私は「修士論文を小説で書きたい」と今福龍太に言って「まだそういう時代じゃないよ」と言われたことがある)。直線的で近代的な時間感覚ではなく「時間をアコーディオンのように」伸び縮みさせて捉えるユダヤ人のようにして、なるべく古今東西さまざまな「考え」を「この場所」に引き込みたいものである。もちろん、そのような発想はチカーノのものでもある。「チカーノを論ずる」とはそういうことだろう。

たとえば、小説を読む場合にも、固有名詞と場所の名前を代えただけの換骨奪胎した小説を読んで勝手にエキゾティシズムを感じ取るような縮小再生産された感性を養うようなことだけはしたくないと私自身は思っている。結構を代えずに時間の円環構造のなかで伝えようとする「物語」と、無数のプロットを永遠に生産しなければならない資本主義的な「小説」の形式のはざまに、チカーノ小説をおいてみること。さらに、「翻訳」の問題も避けて通ることはできない。

最近は、自分よりも若い人たちからしか知的刺激を受けられなくなっている。なぜだろう?

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登録日:2006年 10月 15日 08:13:59

アートで読み解くアメリカ社会

ラテン系の俳優の活躍を称える第21回Imagen Awards授賞式開催 - 米国

【カリフォルニア/米国 21日 AFP】ラテン系の作品や俳優に贈られるImagen Awardsの授賞式が18日、ビバリーヒルズで開催された。
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(c)AFP/Getty Images David Livingston

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以前この場所を借りてご紹介した、早稲田エクステンションセンターでの「チカーノアート講座」が始まり、初回を担当された加藤薫先生にお会いすることができた。言わずとしれた『チカーノ・アート』の作者であり『ニューメキシコ』『メキシコ壁画運動』『キューバ 現代美術の流れ』の著者でもある。もちろんすべて購入している。内容がすばらしいのは言うまでもないが、このようなタイトルで次々に著書を出されるところがすばらしい。チカーノについて部分的に語る人はいても、リファレンスに足るような総合的な本に取り組もうとする意気込みに感嘆してしまう。もちろんリファレンスという志向性がチカーノの有り様と相いれるかはまた別の話である。

講演後にサインをいただいてから、しばしお話を伺う。著書を読んでから作者にお会いして意外な印象を持つこともしばしばであるが、加藤先生の場合はそういうこともなく、きわめてフレンドリーに接していただき感謝している。スペイン語をやっている人同士はだいたい仲良くなれるというのが定説。もしかしたら「意外な印象」と思われているのはこの私自身かもしれなくて、数年前にもっと過度にデコレートされた文章を得意気に書いていたときに、私の文章を読んでから出会ってしまった人が「裏切られた」とつぶやいたことを覚えている。すいません。

「美術」という側面からチカーノに切り込む加藤先生のアプローチは、彼らを知るための最良にして最短の道だろう。活字まみれの私にとってはすべてのお言葉が刺激的であった。チカーノにとっては「文学」は上流階級の人びとが手にしている特権的なメディアであろうから、美術や音楽こそがもっともふさわしい表現媒体であることは間違いない。

音楽といえば、今週の「NHKTVスペイン語会話」で、宮田信さんも取材に協力したという「ケッツァル」が登場した。宮田さん曰く。「ラテン化したLAにいるとメキシコ人であることを忘れる・・・とありましたが、アメリカで暮らしていることを忘れているメキシカン&ラティーノも最近多いわけで、そんなパラドックスを意識している人がチカーノとしての心象や哲学を創っていくように思いました」とのこと(私信だけど印象深い言葉だったので勝手に引用)。

ついでに書くと、先週は「ラロ・アルカラス」! ラロの本も私はすべてもっていると思う。

話は戻るが、加藤先生は「エントラーダ」の時代に重点をおいて話をされて、それも私にとっては新鮮であった。じつは私自身もこの時代には昔から興味をもっていて「Entrada」という言葉が入っているタイトルの本をいくつかもっている。国境線がしのぎを削るような時代が訪れる前に、人は宗教的および個人的な欲望に動かされて土地をさまよった。そこには人間くさい冒険譚がいくつも存在した。アルバール・ヌニェス・カベサ・デ・バカの話にはスタバンスも序文を寄せていて、私はいまでも愛読している。

さまざまな角度からチカーノに取り組んでいる研究者がいて、この「チカーノ講座」を企画された佐藤さんもその一人で、そういう人びとが知識や方法論を共有できる日がいつかやってくるのだろうか? 先日の「アメリカ学会」で初めて開かれたラティーノの研究者による分科会も、私にとっては著書や訳書や論文を通してよく知っている方々ばかりで「なかなか狭い世界だなあ」と実感させられただけだった。「チカーノ」という枠組みになるとこれがさらに小さくなるわけで、まあ、それはそれでいいことである。「チカーノ学会」などができても、参加する気はあまりない、かなあ。

加藤先生とはまたお会いする約束をさせていただいた。楽しみである。



「はてな」や「mixi」の場を借りて吐き出していた日常の記録は無期限停止にしたので、そちらの側面もこちらに少しだけ書き残しておくことにする。

『クラッシュ』で少女が空砲で背中を撃たれる印象的な場面の父親を演じたマイケル・ペーニャは『ワールド・トレード・センター』でも重要な役所を任されているようだ。彼はどのような出自なのだろう? やはり、チカーノなんだろうな。『クラッシュ』で流される場面場面がいちいち私にはリアルで、泣かせる場面ではないところでも泣けて仕方がなかった。なぜだろう?

中秋の名月の日に和光大学関係者が集うという飲み会に参加させてもらった。場所はもちろん「大将」である。最初は切通理作さんとしっぽりと語り明かす予定だったのだが、これはこれで楽しかった。和光大学の約20数年前の昔話はすさまじいものがあって、私が通っていた大学とは別世界である。この雰囲気のなかで江原啓之や上野俊哉は過ごしたのかと思うと感慨深いものがある。

仕事場の同僚でいつもおしゃべりを楽しませてもらっている桜井進氏が、最近立て続けに本を出した。これからもすごいペースで出し続けるらしい。光文社新書からも出すらしい。印税生活間近か。この類い希なる数学者の著作は、文系の人にこそ読んでもらいたいとのこと。彼は一青窈の師匠でもある。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4396612729/ref=pd_sim_b_1/503-4930567-9624761?ie=UTF8

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4759309470/sr=8-2/qid=1160233619/ref=sr_1_2/503-4930567-9624761?ie=UTF8&s=books

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登録日:2006年 10月 08日 01:00:47

フロンティアとアストランの論理(前編)

政府、メキシコ国境沿いに「治安フェンス」を建設へ - 米国

【スコッツデール/米国 5日 AFP】ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)大統領は4日、07会計年度における国土安全保障省法案に署名した。同法案は、南西部のメキシコ国境沿いに治安フェンスを建設するための12億ドル(約1415億円)の予算案を含む。写真は、アリゾナ(Arizona)州スコッツデール(Scottsdale)で法案の署名式に臨むブッシュ大統領(中央)と、見守るジャネット・ナポリターノJanet Napolitanoアリゾナ州知事(左)および同州選出の米下院議員ら。(c)AFP/Jim WATSON

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 19世紀のアメリカ合衆国(以下アメリカ)は、西漸運動によってフロンティア が西へ西へと移動する時代だった。それは、人びとが移動するとともに彼らが携えている思想も移動し、荒涼とした大地を新しい社会によって塗りつぶしていく過程でもあった。フロンティアは先住民であるインディアン を籠絡しながら排除し、メキシコ人を一方的に戦争に巻き込みながら、最終的には1890年に西海岸に到達した。その後、フロンティアは太平洋を越え、1945年に日本にまでたどり着いたと考えることもできるかもしれない。いずれにしても、西洋の論理を普遍的なものとしてアメリカ国内はもとより世界中に当てはめようとするグローバリゼーションの動きは、フロンティアという西洋と非西洋の「国境地帯」ですでに行われていたのである。
 だからといって、西に向かってまっすぐに邁進するアメリカがその当時、インディアンやメキシコ人らへの多様な文化に対してとりわけ非寛容で人種差別的であったと断定することも早計にすぎる。トクヴィルの慧眼がすでに見抜いていたように、彼らは「多数者であるアングロ」の権限を必要以上に重く捉えすぎたと考えるべきだろう。『アメリカのデモクラシー』のなかでトクヴィルは「ある問題について一度多数が形成されるや、その歩みを止めるどころか、せめてこれを遅らせることのできる障害すらほとんど存在しない。多数派が抵抗を受けて、自らが踏み潰してきた人々の嘆きに暫し耳を傾ける時間を与えられることもない」 と書いた。アメリカの外交の根底に流れている精神を考える際において重要な指摘である。当時のアメリカにおいて「先住民」であるインディアンやメキシコ人が最初から少数者であったわけでは、もちろんない。しかし現実には、トクヴィルが書くように、アングロにとってインディアンやメキシコ人は「障害」ですらなく、したがって、彼らの苦しみに「耳を傾ける」ことさえなかった。現代にまで敷衍させて考えるならば、アメリカの理念を押し進めるためにベトナムやイラクの人たちは障害でさえなく、彼らの悲しみを自らのものとして受け止めることもなかったのだろうか。
 このような現代にまで続くアメリカの帝国主義性を考察するために、フロンティアの下で行われていた現実に目を向け、アメリカ南西部(以下サウスウエスト)の領土を獲得しながらフロンティアを通過させた時代についてもう一度考えることは大きな意味があると考えている。また、アメリカが初めて行った外国との戦争である米墨戦争についてもあらためて検討する必要があるだろう。この戦争の性質が示唆する影響は米西戦争などを経て現代のイラク戦争にまで及んでいると考えられるからだ。サウスウエストはアメリカ国内においてもこれまで十分に検討されているとは言えない。その理由の一つは、この土地にはアメリカが掲げる理念が忌避してきた歴史が凝縮されているからである。ジャン・ボードリヤールはそのことについて「アメリカは一度として暴力に欠けたことも、出来事や人物や思想に欠けたこともない。しかしそうしたものはすべて歴史となっていない」 と書いている。アメリカを他の国々と截然と分けているものは「歴史」であるとボードリヤールは述べているわけである。
 この文章は、アメリカを諸外国との対立や比較から相対化して理解するのではなく、アメリカ内部にありながら外部の性格をもつサウスウエストに堆積された「歴史」に焦点を当てることによって、アメリカを相対化する視点を提示することを目的としている。現代においても、各地で専制的な暴力を繰り広げるアメリカを理解するためには、その出自の一つであるヨーロッパとの対比や、対立を激化させる中東地域との比較だけではなく、アメリカが帝国主義的な振る舞いをし始めた北アメリカにおける初期の衝突という原点に立ち戻る必要がある。サウスウエスト地域における交渉の過程にこそ、いまのアメリカを理解するための鍵が隠されていると考えるからである。サウスウエストにはインディアンやスペイン人のコンキスタドール(征服者)、そしてメキシコ人らをはじめアングロが足を踏み入れる以前に多くの人々の足跡が残されている。21世紀になり、ヒスパニックがアメリカ最大のマイノリティとなったこの時期にこそ、ヒスパニックの半数近くを占めるチカーノの精神的な故郷であるサウスウエストに焦点を当てることは大きな意味があるはずだ。

第1章 交差するアストランとフロンティア
 カリフォルニア州やアリゾナ州、ニューメキシコ州を中心とするサウスウエストは、アメリカにおいては、文化的に固有の意味空間として認識されている。「固有の意味空間」とは、ある土地が一定の特徴をもち他の土地とはその特徴において判別することができることを指している。実際「サウスウエスト」のリーダー(選集)が2001年に出版されたこともそれを裏打ちする一つの例としてあげることができる 。ただ、サウスウエストが具体的にどこからどこまでを指しているのかについては、直線で引かれたメキシコとアメリカの国境線や州境ほどには明らかにされていない。1971年にすでに『サウスウエスト』 というタイトルの本を出版していたD.W.メイニグは、先のリーダのなかでつぎのように述べている。

 サウスウエストはアメリカ人の精神にとっては特別の意味をもった場所である。しかし、その場所を地図上で指し示すことはそう簡単ではない。誰もがサウスウエストはたしかに存在していることを知っているのに、どこにあるかについては意見の一致を見ていないのである

 つまり、アメリカ人にとっては、サウスウエストと呼ばれるある特徴をもった風景が存在するという主観的な事実の方が先行しており、どこからどこまでがサウスウエストに属しているのかという客観的な事実は曖昧なままなのである。ある地域を直線によって排他的に分断して理解するのではなく、心象風景のなかに存在する空間として理解するという点では、チカーノ(メキシコ系アメリカ人)の精神的な故郷であるアストランを私はすぐに想起することができる。アストランとは、アステカ族がメキシコへと南下する以前にもともと居住していたとされるアメリカ南西部の土地を指し、そのような正確には場所を確かめようのない想像上のホームランドを、チカーノはアイデンティティの源としていまも位置づけている。このアストランという概念は、詩人のアルリスタが個人的に使用していたことを除けば、1969年にデンバーで開かれた「チカーノ青年自由会議」で初めて公にされた。そこで採択された「アストラン精神計画」は、ロドルフォ・コーキー・ゴンサレスとアルリスタによって起草されたものであるが、『アストラン』を編集したルドルフォ・アナーヤとフランシスコ・ロメリはその多義的な意義を評価しつつ「アストランはチカーノに豊かな意味を与えてくれる。そして、私たちが私たち自身を名づけるさまざまな名前を包括するような一つの傘を作ってくれるのである」 と説明している 。メキシコ人が米墨戦争後の1848年に一瞬にしてアメリカ人になったときに、彼らは「メキシコ系」のアメリカ人として多くのマイノリティと横並びに捉えられるようになったが、もともとは自分たちの土地であったという歴史をもつ彼らにとっては納得できるものではなかった。その結果、いくつもの独自の名称を使用することによってによって自らを名指してきたのであった。バトやラ・ラサやパチューコなどの名称は、アストランという想像上の共同性を意識することによってお互いに結びつくことができたのである。10代の頃メキシコからアメリカに移ったチカーノであるアルリスタによれば、アストランの神話は3つの場所から構成されており、それぞれがひとりひとりのチカーノの「へその緒」とつながっているとされる。その場所は、ユカタン半島の東の沖合いにかつて浮かんでいたとされる島と、現在のメキシコのシティに当たるアステカ帝国の都テノチティトラン、そしてニューメキシコやアリゾナを中心としたアメリカの南西部地域である 。これらの時間的にも空間的にも超越した場所を体現するトポスを、チカーノは精神的な故郷として自ら選びとったのだった。さらに、彼らはアストランのような共同性の持ち方はチカーノだけのものではないと考えている。移動し混血し混在する人々の精神的な拠り所としての神話や共同性の持ち方は、すべての人々にとって有効な概念となりつつあると彼らは考えているようだ。アナーヤが「神話は、過去や共有している集合的記憶へとつながるへその緒である」 と述べていたように、過去との関係を建設的に構築しながら新たな共同性を模索しているすべての人々にチカーノの共同性の有り様は有益なのである。ラファエル・ペレス=トーレスはエルネスト・ラクラウから着想を得てアストランを「空虚なシニフィエ」(empty signifier) と位置づけたが、その背景には、チカーノが「起源」には重きをおかず、詩的なレトリックを駆使しながら歴史的な人物を称揚し呼び出すことによって一体感を得ようとする心性が関係している。したがって、アステカの人々が実際にサウスウエストに住んでいた物的な証拠があるかどうかはさして重要なことではない。どのようにしてチカーノがメキシコと一体になれるかどうかの方法論が重要なのだ。リチャード・グリスウォルド・デル・カスティーリョが書いているように「政治的シンボルとしてのアストランの創造は、不法に越境する人々にはそれだけの十分な理由があるとする精神的かつロマンティックな試みとなっている」 のである。現代の代表的な社会理論学者ジェラード・デランティが「私たちは、リアルなコミュニティと想像されるコミュニティの区別を放棄する必要がある」 と述べていることと直結していると言ってもいいだろう。アメリカが押し進めてきた境界線の論理ではなく、デランティが述べているような「帰属」の論理にシフトさせながらコミュニティを語るためには、アストランを巡る議論には多くの示唆が含まれている。
 アストランとともに、西部に位置するサウスウエストの地理的な条件から、いまはなきフロンティアが彷彿とさせる心象風景と結びつけて考えることはたやすい。アストランとフロンティアの心象風景はサウスウエストにおいて交差していると言える。フロンティアは東から来訪し、アストランはサウスウエストから南へと下り、そして再び北上しようとしている。北上するに際して目標となっているのはアストランであり、共同性を支えているいくつかの要素の一つは「グアダルーペの聖母」である。1999年の9月から12月にかけて「グアダルーペの聖母」のレプリカが初めて国境を越えてロサンゼルスに滞在した際は、衝撃をともなうニュースとして受け止められた。1531年にインディオのフアン・ディエゴの前に舞い降りたこの聖母は、いまでは路上や商品や祭壇などあらゆる場所に何度も姿を現しチカーノの身体にも刺青として刻み込まれている。チカーノの「移動する共同性」を考える際に偶像崇拝としてのグアダルーペの聖母は興味深い。
 一方、フロンティアは理念のなかにあった。アメリカ人の心のなかに存在する原風景としてのフロンティアは、未開の西部の荒野を開拓していくという勇猛果敢なイメージとともに語られ、アメリカ人の進取の気性を象徴する言葉となっている。もちろん、西部には実際にはじつにさまざまな風景が展開しているが、心象風景のなかでは西部は一様に無垢な大地なのであった。歴史的に見れば、フロンティアは、1890年に国務省によって消滅を宣言されているが、アメリカの独立宣言(1776年)からフロンティアの消滅までが114年、それから現在(2006年)まで116年しか経過していないことを考えると、アメリカ史におけるフロンティアの比重の大きさがわかる。フロンティアを多角的に論じた代表的な歴史家の一人であるフレデリック・ジャクソン・ターナーは、アメリカ西部の風景は一般に不毛で殺伐なものとして受け取られたとしながらも、観念的な民主主義の発展との関係から肯定的に捉えられた面もあるとしている。

 西洋の民主主義は、生まれた当初から観念的な性格が強かった。それゆえ、より高次の社会を求める人びとの闘争の物語のなかで、新しい章を書くための無垢で白紙のページとして表象される荒野は、人びとの心に強く訴えたのである

 新大陸において新たに社会を構築しようと考えていた者にとって、西部の広大無辺な大地は無垢なキャンバスに見えたはずだ。東海岸からの移民が西へと移り住むことによって成立したアメリカでは、人びとは父祖伝来の土地を有しないために慣習よりもまず理念先行の国家を築かざるを得なかった。理念によって想像された「白紙のページ」には先住民は存在しないものとされたのである。そして、理念偏重は「夾雑物」を観念的に無きものとした。したがって、西洋と非西洋がせめぎ合ったフロンティアにおいて、西洋から不毛な荒野であると見なされた土地の住人であるインディアンは駆逐され、その作業がすべて終了したあとに「帝国主義的ノスタルジー」のなかで懐かしがられ有用なものであったと回顧された 。換言すれば、理念で駆動するフロンティアは、東からの侵入者が罪悪感をもつことなく、いわば無意識のうちに国家を帝国主義的な状況にしてしまう装置であった。そして「マニフェスト・デスティニー(明白なる運命)」というスローガン(理念)がそれを後押しした。「明白なる運命」の内容を考えると、国務省によって宣言されたフロンティア消滅の年である1890年の最後(12月29日)に、ウーンデッドニーにおけるダコタ族の虐殺が行われた意味は自ずから明らかである。フロンティアの使命は、北アメリカの大地からインディアンを蹴散らして国土を膨張させることにあったからである。インディアンの西洋文化への屈服によりフロンティアの役割は終わり、インディアンと西洋との300年以上にわたる武力をともなう大規模な衝突は終了した。たとえば、西洋がインディアンを征服していくさまを克明に描写した『インディアン・フロンティア』という書物では、著者の筆致はインディアン征服前と後とではあからさまに変化している。

 当時19世紀のアメリカ人のほとんどが考えていたように、インディアンは荒野に存在するモノ、文明人が征服し変えていかなければいけないモノ以上だとは見なしていなかった。森林、山々、平原、あるいは野生動物と同じように、インディアンはアングロサクソンの文明の行く手を阻む障害物でしかなかったのである(中略:インディアン征服後)フロンティアにおける文化的越境が生んだ果実から、私たちは深遠な意味を受け取ることができるはずだ。最近になって、インディアンの精神的、政治的、経済的な復活が歓迎され奨励されているアメリカにおいて、インディアンが作り上げたもののアメリカ人の生活への豊かな貢献は、ますます強く認識されるようになっている

 西洋は、征服すべき不毛や野蛮という身勝手な概念を創出しつつ、自己を正当化しながら他者を征服した。そして、他者を境界線の向こう側へと囲い込んだあとには、その経緯を無意識に忘却し、自らは安全な場所に身をおきながら、すでに変容させられてしまった他者との関係を一方的に手をさしのべるようにして模索したのである。もちろん、文明と未開、あるいは西洋と非西洋という二項対立の分類の仕方自体が、西洋のパラダイムの投影でしかないことは言うまでもない。しかし、現代に生きる私たちは、境界線を引くことによって理解し、その二項対立をなかば自明のものとして受けとめているのも事実である。つまり、非西洋から西洋へというベクトルのなかにおかれてしまう装置としてのフロンティアの問題は、現代を生きる私たちと無関係ではあり得ないのである。フロンティアは太平洋を越えていまだに西漸運動を続けているかもしれないのだ。だとするならば、フロンティアの論理をもっとも苛烈に体験したサウスウエストの考察は、私たちの上を通ったであろうフロンティアの意味をより具体的に直接的に教えてくれるだろう。「フロンティアの論理が支配する時代」から「アストランの論理が支配する時代」への変化を理解するためにも、さらに多角的にフロンティアに焦点を当てていかなければならないだろう。

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登録日:2006年 10月 08日 00:50:03