2007年 01月
言葉は自身に合致する精神的本質を伝達する
【ロサンゼルス/米国 16日 AFP】ハリウッド外国人映画記者協会(HollywoodForeign Press Association、HFPA)会員の投票により選出される「第64回ゴールデングローブ賞(The 64th Annual Golden Globe Awards)」の授賞式が15日、ビバリー・ヒルトン・ホテル(Beverly Hilton Hotel)で開催され、映画「バベル(Babel)」が作品賞(ドラマ部門)を受賞し、監督賞には映画「ディパーテッド(The Departed)」のマーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)が輝いた。
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(c)AFP/Getty Images/Vince Bucci
私がギターを弾き始めた中学生のころは、いまでは信じられないことだが「はたして日本語はロックのリズムに乗るのか?!」というテーマが、素人のロッケンローラーにとっても最重要課題であった。当時、歌謡曲とツェッペリンを並行して聞いていたような私も「どうなんだ!」と真剣に考え、音楽雑誌もはっぴいえんどやサザンオールスターズや佐野元春らを引き合いに出しては盛んに「分析」したりしていた。
いつの時代も、過去はほのぼのと映るものである。
しかし、よく考えてみると、ロックに日本語を乗せようとしていた努力はいつの間にか変質し、ロックは日本語に吸収されてしまったのではないか、というのが私の考えである。日本語が元来もっている特性はいわゆるロックとはあいいれず、ロックの方を変えてしまったのではないだろうか。したがって、日本語でいかに優秀な楽曲が作られようともそれはもはやロックではなく、アメリカのようなロックが親しまれている地域に逆輸入されることもなかった。それが日本語で歌われているから受けいれられないのではなく、日本語で歌ったことによってそれはロックではなくなってしまったのである。
もちろん、日本語にロックを乗せることによって生まれた音楽はそれ自体で大きなジャンルを確立し、ミスチルやGLAYらはその流れのなかでいまでも重要な地位を占めている。彼らのメロディーを英語にして歌えるかどうかはもはや問題ではない。ベンヤミンが「言葉は何を伝達するのか?」という問いを立てて「言葉は自身に合致する精神的本質を伝達する。この精神的本質は自己を言語において(in) 伝達するのであって、言語によって(durch)ではない」と書いたことは、言葉に乗せられる内容だけではなく、メロディーにも当てはまるということである。
「王様」の歌詞を見てみれば、前者こそが当てはまるのは言うまでもないことだ。
言語と言語のはざまに生まれる音楽こそがおもしろい。新しい音楽はそこからしか生まれないのではないか、とさえ思う。いまでは、日本人が英語で歌うバンドも珍しくなくなり、外国人がメンバーに参加することも奇異なことではなくなってきたが、そういうことを現象面だけでおもしろがっても意味はないと私は思う。おそらく、これまでまともに英語のロックを聴いてこなかった者は、ELLEGARDENなどを聴いて新鮮に感じるのだろうが。
先日、恵比寿LIQUIDROOMで聴いた「OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUND」のウリは、スコットランド系アメリカ人MARTINのおとぼけのMCと超絶技巧のバイオリンだが、TOSHI-LOWとともに作る彼のメロディーと言語的な側面のおもしろさも私にとっては興味深い。歌詞カードには、英語で歌っているところは日本語の訳詞があり、日本語で歌っているところには英語の訳詞がついている。楽器編成からくる音楽ジャンル自体の解体とともに、言語構成の解体こそがそれに併走しなければならない。
それにしても、その次に登場した「SLY MONGOOSE」は、私にはまったく良さが感じられず(雑音としか感じられず)、それどころか聴いているうちに無性に腹が立ってきたので思わず外に出てしまった。ということで、私がもっとも楽しみにしていた米墨国境バンド「CALEXICO」は聴かずに帰ってしまったのであった。評価が極めて高い「SLY MONGOOSE」だが、私にとっておもしろくなければ、それはただのゴミと同じなのである。
OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUND
http://www.tc-tc.com/index2.html
CALEXICO
http://www.casadecalexico.com/
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登録日:2007年 01月 25日 14:24:01
honolulu, braS/Zil
【ブラジリア/ブラジル 7日 AFP】ルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバ(Luiz Inacio Lula Da Silva)大統領は6日、ブラジリア(Brasilia)の大統領府で就任後初の公職用の写真撮影に臨んだ。元左派党のリーダーであるダシルバ大統領は1日、向こう4年間の大統領として宣誓就任した。写真は同日、大統領のサッシュを身に着けるダシルバ大統領。(c) AFP/PRESIDENCIA/RICARDO STUCKERT
<管啓次郎>
管啓次郎さんからご著書を送っていただいた。タイトルは『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト)である。「ハワイ、ブラジル」でも「ホノルル、サンパウロ」でもなく『ホノルル、ブラジル』。口に出してみればわかるように、最後のタイトルがもっともしっくりくる。「ル」の脚韻が効いているのだろう。
私は、いままで管さんが定期的に世に送り出してきたエッセイ集はすべて読んでいるし、前回の『オムニフォン』は『現代詩手帖』に書評まで書かせていただいたが、今回の作品はもっとも気軽に読め、管啓次郎入門編としてお薦めできる。一編一編が短くて、どこからどのように読んでもいいようにできているので、通勤や旅のお供にも最適である。
処女作の『コロンブスの犬』から管さんの語り口は基本的に、ソフトでありつつ読者を著者の視線に強烈に引き込む文体で構成されており、読むという行為がすなわちトラベローグをヴィークルとしたトラベルになっている。
日常から切り離されたトラベルが自分との対話を促すように、管さんの文章は著者自身による自己との対話を通して、読者も自己との対話を促されてしまうところが最大の特色である。「で、オレはどうなんだろう?」と自問自答させる文章なのである。
私のような抽象的思考自体に快楽を求めてしまう認識マシーンは、世の中との「手触り」そのものから思想が生まれる瞬間を楽しむ管さんの文章に接することで、バランスをとろうとするのだった。
サブタイトルの「熱帯作文集」と港さんの写真が表紙のなかでうまく呼応している。
しかし、個人的には、管さんの海外での話以上に東京での話が好きだ。著者の「海外へ!」という欲望の根源が、当たり前のことだが、海外においては薄められてしまうからである。管さんがどうしてこれほどまでに「多言語、多文化」への欲望に呪縛されてしまうのかについて、私はいつも考える。
「あらゆる土地は、一度遠く離れてしまえば夢に似てくる」と、この本の中で書いているように、紀行文は結局、その人だけのものであると言っても過言ではない。私は他人の夢をのぞくよりも、なぜそのような夢を著者が見てしまうのかを知りたいのである。
<桜井進>
予備校の同僚の桜井進さんがテレビ(誰でもピカソ)に出演されたのを、今年に入ってやっと見ることができた。これまで何度も登場されていたのにタイミングが合わなかったのである。「数学の伝道師」のお話は予想以上に堂に入っていて、とてもテレビの素人に見えないところが驚きであった。私としては「出演される前にお話を聞き、出演後にお話を聞く」というのが楽しくて、来年度もご一緒できればと思っているのだがどうなるだろうか。
<切通理作>
最後の和光大学の日に、切通理作さんと二人の女性と一緒に、和光大学御用達の飲み屋「大将」で飲んだ。これから彼と毎週会えなくなるのは寂しいけれども、読書会などで会うことができるだろう。理作さん(そう読んでいるのは私だけだけど)と話すのはじつに楽しい。けっして、結論を早急に求めたり理論に走ったりしないので、「考える」とはどういうことかについて考えさせられるのである。
<イラン・スタバンス>
イラン・スタバンスが編集している『Lengua Fresca』はラティーノ文学関係の研究者は必読。文学だけを特権化するのは馬鹿げているというイランの考えを踏襲するならば、文学関係者以外も必読。しかし、イフエロスやアナーヤやピリ・トーマスなんかをいまでも後生大事に読んでいる人はやめた方がいいかもしれない。アンサルドゥーアもそう。ラティーノ研究の一番おいしいところはもうそういうところにはないと思う。混血であるとか周縁に棲んでいるとか、そういうどうでもいいことをウリにする時代はもう終わったのである。日系人やオキナワなんかをいつまでも特権化するなと言うことだ。チカーノがおもしろいのは混血や周縁の住人だからではない。
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登録日:2007年 01月 14日 21:14:16
有楽町で・・
【パリ/フランス 7日 AFP】パリの市街地に灯されたイルミネーションが、冬の夜景に鮮やかに浮かび上がっている。写真は6日に撮影されたエッフェル塔(Eiffel Tower)。(c)AFP/JOEL SAGET
先日、久しぶりの休みを迎えてホットカーペットの上で猫のようにぐだぐだしていたら風邪気味になってしまい「やはりオレは走り続けなければ体調を崩してしまう根っからの貧乏性な体質なのか・・」と天を仰ぐとともに「早く直さなければ!」と思って、有楽町の駅前のマツキヨに駆け込みお徳用のドリスタンを買って立て続けに4回飲んだら風邪の症状よりも悪化するほどに気分が悪くなってしまった、という失態を演じてしまった。昔から薬を飲む習慣があまりなかったので、たまに薬を飲むと効き過ぎるくらいに効いてしまうのである。まあ、そんなことはどうでもよくて、マツキヨというと思い出すのは、いまから10年以上も前に千葉の方では有名な塾で講師をしているときに、授業後、欠席をした生徒の家に電話をしたら生徒の妹らしき子供が出て「いまお母さんはマツモトキヨシにいます(で働いています)」と言われたことである。そのときは「マツモトキヨシ」がドラッグストアの名前であることを私は知らなくて(一般的にもあまり知られていなかったはずだ)「千葉のお母さんは不倫相手の名前まで子供に教えておくのか!」と勝手に感心したりしたものである。だが、そんなこともどうでもよくて、そもそもなぜ有楽町に降り立ったのかというと、新橋演舞場で劇団☆新感線の「朧の森に棲む鬼」を見るためにであった。たとえば、梅玉さんの脱力した澄んだ声が好きな私には、主演の市川染五郎のハスキーで変に力の入った声はあまり好きではなく、お目当てはやはりナマ阿部サダヲとナマ古田新太の方なのであった。私が大学生の頃に素人バンドを組んでいたことを知っている人は多いと思うが、「新劇」にはまっていて野田秀樹の芝居も何度か見ていたことを知っている人はそれほど多くないと思う。しかしすでに歌舞伎メインの私には現代劇はもう縁遠いものになっていたようで、それほど収穫のあるものではなかった。マイクを通した台詞回しの聞きづらさは彼らのせいではないにしても、いのうえひでのりの演出はもう少し期待していたのに子供だましにしか見えなかった。見えすぎる筋と見えすぎる台詞とあまりにもわかりやすい音楽に長い時間集中することなどできるはずもなく、客席を眺めるとさすがに歌舞伎の客層とは大きく違いカルチャー好きのカルイ感じの人たちで、私は「君たちはバカにされているぜ」と言いたいところであったが、終わってからみなさん満足しているようだったのでこんなものでもいいのかもしれない。サダヲも新太も逆に歌舞伎の舞台に立ってみたらどうだろう、などと考えていた。獅童がなんとかこなせるくらいなのだから、大丈夫だろう。演舞場の帰りに銀座のエルメス8Fの「木村伊兵衛のパリ」と題された写真展に立ち寄る。無印で買った安物のコートを堂々と着こなしている私にはエルメスも場違いとはならない。ドアマンに扉を開けてもらい一番奥のエレベーターまで脇目もふらずに進む。私はヨーロッパにしか興味のない奴など相手にしないことにしていて「若いときはラテンアメリカや東南アジアやアフリカへと旅立つべきだ」と主張している者であり、「欧米か!」を笑いのネタにできるまでに相対化する時間を経た日本においてはますますヨーロッパに行く意味など感じなくなっている。それでも、木村の切り取ったパリはすばらしく美しくて、それはおそらくもうどこにも存在しないパリなのだろうし、もしかしたら、当時のパリにもこんなパリはほとんど姿を見せなかったのではないか、と思わせるくらいに美しいパリであった。このような写真にほだされてパリに行くときっとバカを見るのだろう。21日まで。入場無料。
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登録日:2007年 01月 11日 12:20:08
コミックとロック
<AFIロサンゼルス国際映画祭>映画「American Visa」の上映会開催 - 米国
【ハリウッド/米国 9日 AFP】1日から12日まで開催される、第20回AFIロサンゼルス国際映画祭(AFI Los Angeles International Film Festival)で8日、メキシコ/ボリビア合作映画「American Visa」の上映会が開催され、出演者や監督らが登場した。
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(c)AFP/Getty Images Michael Buckner
カレンダーを見ると、前回ここに書き込んでからかなり間が開いてしまっているのに、私の心のなかの砂時計はあっという間に砂が下に落ちてしまったような気がする。一息ついていまは、年末年始にお会いした人びととの確とした砂粒のような記憶を通して、もう一度客観的な時間を取り戻しているところだ。
それにしても、年の瀬の最後の最後までいろいろな人に会ったなあ。しかし、仕事のことについて書いても仕方がないので、今回は、大晦日に「はしご」した「コミケ(コミックマーケット)」と「カウントダウンジャパン」について書いておこう。
@去年までのタイトルだった「ヒスパニック」の縛りが解けていきなり「漫画の同人誌」と「ロックフェス」というのもどうかと思うが、私の好奇心は既存のあらゆるディシプリンとは無縁なのである(なんちゃって)。
コミケの会場はおなじみ東京ビッグサイト。同じような年齢の同じような格好をした人びとがこれだけ一堂に会するのは壮観で、私が住んでいる街に週末ごとにやってくる競輪のおじさんたちとファッションが微妙に似ているところがいとをかし。みなさんお若いのに、あまりファッションには気をつかっているようには見えない。それはおそらく、彼ら一人一人がお互いに無関心だからだろう。彼らの関心は「人」にはないようだ。
しかし、みんながあるルールの下に行動しているので、この何万人もの人波の大移動のなかに放り込まれてもあまり人疲れがしない。不思議である。この閉所恐怖症で(小さな島に長期間逗留するのも嫌い)集団行動嫌いの私がそう思うのだから、本当に不思議なのである。
これはそのあとに訪れた幕張メッセのフェスの方にもいくらか当てはまって、数万人が狭い会場に集い、しかも昼間からアルコールが供されているというのにケンカがまったくないのが驚きである。彼らは黙々と音楽を楽しんでいる(ように見える)。あるルールの下で楽しんでいる。お互いへの関心を隠蔽しつつ集団としての「空気」を読んでいる。
若い時分に、昼間から喫茶店でケンカをしていたような私にはよく理解できない行動だ。「マナーに注意してこの催し物を成功させましょう」と主催者側がスクリーンで訴えかけるのはわかるとしても、参加している人たちがそれにきわめて従順なのがよくわからない。
そのフェス会場の片隅にあるブックス売り場で、鈴木あかねさんにお会いすることができた。言わずと知れた『現代ロックの基礎知識』の著者である。ロック好きのバイブルと呼んでもいいこの本から、ロックを考えるための無数のヒントを得ることができる。
その本の文体から導き出すことができる著者の性格をさらに5割増しにしたくらいに明るくて、さらに最新式のマシンガントークを装備しているあかねさんに対して、この私が(!)ほとんど言葉を差し挟むことができなかった。無念である。こちらが腰を抜かしそうなほど有名な外タレに山ほどインタビューしている彼女と、いつかじっくりお話ししたいものだ。
コミケの話に戻ると、いくつか目を通したエロ漫画や、コスプレ広場でのセクシーな女性たちも、妙に無機質で予定調和でエキサイティングな感じがしない。それでも、みな誰もがローテンションでうきうきしているので少しうらやましく、もう少し基礎知識を仕入れてからまた参与観察しようと決めた。
10代の男女をすさまじい勢いで動員しているこの二つのイベントを通して、コミックとロックは共通の土壌の上にあると感じた。それについて言葉にするにはもう少し時間がかかりそうだ。
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登録日:2007年 01月 06日 23:27:30
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