2007年 03月
アメリカス研究
<第79回アカデミー賞>外国語映画部門賞ノミネート作品のレセプション開催 - 米国
【ビバリーヒルズ/米国 25日 AFP】第79回アカデミー賞(The 79th Academy Awards)授賞式を2日後に控えた23日、外国語映画部門賞にノミネートされている5作品のレセプションがビバリーヒルズ(Beverly Hills)の米映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)で行われた。
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(c)AFP/Getty Images Michael Buckner
@ 学会誌「アメリカス研究」を「天理大学アメリカス学会」から送っていただく。北アメリカと南アメリカを同時に視野に入れていく「アメリカス」の視点からの論考はとても参考になる。私もこの号に寄稿しようと去年の今頃は考えていたのであるが、大学の紀要と論文集2冊に去年は3本書いたので(それ以外も短文をいくつか)、力尽きてしまったのであった。残念。またいつかお世話になれるだろうか。その論文集のなかの、吉澤静香さんによる「メキシコ系住民の代弁者:サンディエゴ市、チカノ・パークの壁画群」をとくにおもしろく読ませていただいた。チカーノ関係の論文を拝読しながらいつも思うのは「チカーノ」そのものや「チカーノムーブメント」や「アストラン」や「グアダルーペの聖母」など、チカーノに関する用語をいちいち定義しなければならないことである。もちろん、これらはすべて帰納的に語られる必要性のある用語ばかりであって「定義」には馴染まないとしても、一般的にはどれも人口に膾炙しているとは言えないので、最初に何かしらの意味づけが求められるのである。その分のページがもったいないといつも思う。いつかチカーノ研究だけの論文集が出版されるような夢のような時代がくれば、こういう状況も変わってくるのだろう。吉澤さんには、いつかゲストスピーカーとして来校していただき、インタビューされたという「ビクター・オチョーア」のお話を是非お伺いしたい。
@ 人は「嫌悪を感じる対象」を述べることで、自分が何者であるかを図らずも吐露してしまっていることに気づいていない。本人は「何が好きか」によって自分が何者かを表現しようとしているのだろうが、「好きなもの」を述べるときの口ぶりにはつねに演技が隠されている。はっきり言えば、かっこつけている。そこには、余裕がある。しかし「嫌いなもの」を述べるときの口調は多くの場合、余裕がなくて真剣である。私はその人が嫌いなものを知ることによって、その人に関する情報をもっとも効率的に仕入れるのである。自分とは正反対だったり、あるいはよく似ていたり、その他の多くの理由で、人は何か(誰か)を嫌いになる。だから、私はある時から「嫌悪を感じる対象」についてはなるべく口にしないようにしている。そして、いつの間にか、極端に嫌いなものがなくなっていることに気づくようになった。おそらく「無視する」という最高の処世術を覚えたからだろう。すべてを均等に見てしまうものは神経症になるしかない。あるいは、年齢を重ねることで、判断を急ぐことなくそこに胚胎する未知の可能性について考える余裕ができたからかもしれない。だから、研究者でありながら政治的判断を急ぐものは浅薄に見える。野家啓一が柳田国男のイデオロギー性ばかりあげつらう論者を揶揄しつつ「紋切り型の凡庸な「左翼」よりは、反面教師であることも含めて、優れた「右翼」から学ぶことの方がはるかに多い」と述べていて、笑いながら肯いてしまった。何かを学ぶ契機と駆動力は強力な嫌悪感でもいいが、結論ありきの好き嫌いで最後まで学問をしてはいけないと思うのである。
@ とはいえ、現代において、文学や芸術は政治に遠く及ばないと考えることもできる。人がいる限りつねに政治的な行動と決断が求められるからである。したがって、政治は劣化すれば腐敗していくだけだが、文学や芸術は消滅する。三島由紀夫の諦念はそういうところにあったのではないだろうか。
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登録日:2007年 03月 29日 23:40:04
歴史の語り方
<07/08年秋冬メキシコ・コレクション>レオン・フェリペ、新作を発表 - メキシコ
【メキシコシティ/メキシコ 17日 AFP】メキシコの首都メキシコシティにて07/08年秋冬メキシコ・ファッション・ウィーク(Mexico Fashion Week)が開催されている。16日、レオン・フェリペ(Leon Felipe)が新作を発表した。写真は新作を披露するモデル。(c)AFP/Alfredo ESTRELLA
国家にはかならず首都があるように、国家の歴史の語りも「ある場所」(多くの場合は首都)に視点をおいて語られる。京都の歴史や東京の歴史を「日本」の歴史としてありがたく私たち日本人はみな拝聴するのである。
つまり、歴史の語り方そのものが光と闇、文明と未開を生み、国家原理の属性自体が差別を生んでいる。そうやって「お国」の歴史が語られているあいだは、語りから漏れた「未開」の人びとは指をくわえて見ているしかない。
まあ、国家の中心から見たらそういう連中は「利用できるかできないか」くらいの基準でしか見られていないわけで、私たちは歴史に接すれば接するほどますます卑屈になってしまう。
やがて、そういう人たちが歴史に盛り込まれるようになっても、この構造自体は何も変わりはしない。「入れてもらっている」だけの歴史に愛着を感じようがない。
民俗学を語る視点がチカーノらの実践とオーバーラップしてくるのはこのような領域で、それを「比較文化」などと呼んでしまうと私はいきなりイヤ〜なきもちになってしまうのだが、それは、自分で境界線をせっせと設けておきながらそれを越えて「越境だ!」などと喜んでいる人たちを思い浮かべてしまうからである。
近代的で排他的な二律背反の境界線を自ら張り巡らせなければ何も考えることができなかったような者たちが、その境界線をおそるおそるちょびっと越えてすっきりしているような自慰行為に私は呆れる。
話を戻せば、もちろん、あらゆる土地を等価に語ることなど物理的には不可能である。「日本」の歴史のなかに、北海道と沖縄の歴史を併置しても同じことで、その語りの視点からはみ出してしまう場所(札幌や那覇以外など)はかならず出てきてしまう。
しかし、それでも、土地や時間に境界線を引きながら歴史を語る語り方そのものに問題が含まれていることに、私たちはなかなか気づかない。語り方そのものの相対化の可能性をそぎ落としていくのがいまの「教育」だからだろう。それ以外の語り方は国家にとっても都合が悪い。
いわゆる「歴史」は、遺跡や史料が何も残っていない「自然」だらけの土地に歴史があるとは考えない。「個人史から歴史を語ることはできないのだろうか」とも考えない。「歴史を語るとは文字で語る以外の方法もあるのではないだろうか」とか「何を語らないかは何を語るかと同じくらい意味があるのではないだろうか」と問うこともない。
現実には、人びとの営みのなかで、誰かが殺されたりしないと「歴史」(「ニュース」でもいい)にならないというのは異常だし、一部の人びとの権力闘争を歴史とするような歴史教育は、右翼と左翼の些末な争いよりもたちが悪いような気がする。
出来事の裏にあるさまざまな情状や矛盾にばっさりと境界線を引いて、白黒、正邪、善悪を決めるのは政治的判断であって、研究者の態度ではない。研究者はその白黒の間に分け入ってあらゆる可能性を引っ張り出してこなければならない。
確かに面倒な作業ではある。だから、多くの人びと人はイデオロギーに逃げ込もうとする。その方が勇ましくてなんとなくかっこいいし。しかし、研究者がイデオロギーに頼ってはダメだろう。ラクなのはわかるが。
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登録日:2007年 03月 24日 00:38:12
アメリカを内側から相対化するラティーノ
エバ・ロンゴリア、「インパクト・アワード」のプレゼンター務める - 米国
【ビバリーヒルズ/米国 24日 AFP】女優のエバ・ロンゴリア(Eva Longoria)が23日、ビバリーヒルズで開催された「インパクト・アワード(Impact Awards)」にプレゼンターとして出席した。同賞は、メディアを通してラティーノの地位向上を目指す非営利団体The National Hispanic Media Coalitionが主催している。写真はエバ・ロンゴリア。(c)AFP/Frazer Harrison
@ 「リアル社会で友達になる人数」と「ネットを通して知り合う人数」はどんどん近づいているような気がする。もちろん、後者の数が増えているということであり、知らない人からメールをもらったり、こちらから送ることもたまにあって、そうやって知り合うのはなかなか楽しいことである。
その際に、実際に顔を合わせる方がその人についての情報をより多く得られるはずなのに、ふだん私が文章ばかり読んでいるせいだろうか、文章を通しての方がよりその人の「真実」の周辺にあるものを読み取ってしまうのが困りものである。慇懃無礼な文章は、読み始めからすぐにわかってしまってイヤな思いをするし、軽そうに振る舞っていてもしっかりとした文章を書ける人は、逆に、私は全面的に信頼することにしている。
ということで、公開しているメールを使って私に質問をしてもいいが「Thank you, anyway.」とも書けないと自覚している人は、送られてもそういう雰囲気を私の方が感じとってしまってまともな返事はしないと思われますので、送らないでください。
「mixi」でしっかりした文章を書く若者からメールをもらったあとだったので、ますますそう思った今日この頃。
@ この一ヶ月はずっと論文を書いていた。少し長いので今回は全文をコピペすることはしない。「はじめに」と「おわりに」だけ載せておこう。題して「アメリカを内側から相対化するラティーノ:人種概念の溶解とチカーノ文化」。
<はじめに>
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の「チカーノ・スタディーズ研究所」から『アストラン』という名前の研究報告書が年二回出版されている。「アストラン」とはアメリカ合衆国(以下、アメリカ)南西部にあるとされるチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の精神的故郷の名称である。その最新号の二〇〇六年秋号に、同校の社会学の教授であるエドワード・テレスが「メキシコ系アメリカ人とアメリカ国家:ハンチントン教授への返答」というタイトルの論文を寄稿している。ハーバード大学教授のハンチントンが一貫して主張しているアメリカにおける「同化」という名の「WASP的な伝統の押しつけ」に対するチカーノからの反論である。そして、テレスの文章のすぐあとには、ロサウラ・サンチェスとベアトリカ・ピタの共作による『ラティーノ・ブロック』というタイトルの文章が載せられ、これもまた、ハンチントンの主張に抗するようにして、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「帝国」概念に影響を受けながら、マルチチュードの一つのモデルとしてのラティーノの実践を模索している。
マルチチュードとラティーノはどのように接続してゆくのだろうか。たとえば、一つの視点として、ネグリとハートの「戦争」についての文章を見てみよう。彼らは『マルチチュード』で次のように書いている。「戦争は空間的にも時間的にも不確定なものとなった。国民国家を相手にした旧来の戦争は(中略)空間的に明確に限定されており、降伏や勝利、あるいは当事国間の停戦協定によって終結するのが一般的だった。これに対して、ある概念や一連の慣習・実践を相手にした戦争は、いくらか宗教戦争にも似て、明確な空間的・時間的な境界をもたない。こうした戦争は、いつどこに拡大し、どのくらいの期間続くのかまったくわからない」。アメリカにおけるラティーノの異議申し立てとその実践を、アングロとラティーノのあいだの時空間の認識の相違という視点から捉え直すことの意義について考えてみたい。
また、同じ号の『アストラン』の巻頭言には、編集長のチョン・ノリエガが「ブラウン・スタディーズ、あるいは語法的な間違い」というエッセイを寄稿していて、これは十六世紀から連綿と続く「ブラウン研究」を歴史的にたどりながら、さらに、ブラウンという色に付随する多彩な意味合いを探り、最後は、エスニック集団の名称と現実が一致しないことの難しさについて述べている。これを読むと、ブラウンとは不思議な色だと考えさせられるとともに、集団に付与される名称や人種概念に政治的な意図が介在している理不尽さについても気づかせてくれる。チカーノは公民権運動の時代に「ブロンズ」という色を選び出してナショナリスティックな主張を掲げた時期があったが、ノリエガが「ブラウン」という色に焦点を当てた理由は、チカーノ作家のリチャード・ロドリゲスが二〇〇二年に『ブラウン』という名前の書物を出版して話題となり、さらに、その第二章のタイトルが「ブラウン研究において」であったことと関連している。ラティーノにおける人種や混血性に焦点を当てることで浮上するアメリカにおける境界線の相対化と無化についても考えてみたい。
ハンチントンやネグリらが俎上に載せる問題群とともに、リチャード・ロドリゲスらが提示する人種的な側面からのアプローチなど、世界中の血の坩堝とも言えるラティーノをめぐるいくつもの概念を手がかりにしてアメリカを相対化し、来るべきコミュニティのあり方を考察するのがこの論文の目的である。
<おわりに>
私がこれまで直接お会いしてきたラティーノたちの実践を振り返ってみると、文字だけに頼ることのない独自のアプローチを通してラティーノの世界を紹介しつつ、新たな可能性を切り開いていることがわかる。スタンフォード大学のラモン・サルディバルは、アメリコ・パレーデスに師事しながら、チカーノのアイデンティティを「コリード」という米墨国境地帯の伝統的な歌謡のなかに求め、カリフォルニア大学バークレー校のアルフレッド・アルテアーガは、理論的な著作をものしつつ、国家言語の垣根を取り払った難解な「詩作の実践」のなかに「チカーノとは何か」を体現しようとし、アムハースト大学のイラン・スタバンスは、小説を書きアンソロジーを編集する一方で、時空間を逸脱するという意味ではもっとも歴史が長い「ユダヤの教え」をラティーノの発想と結びつけ、キューバ系パフォーマンス・アーティストでコロンビア大学教授のココ・フスコは、私が「チカーノ文学について研究している」と言うと「Chicano don’t write!」とたしなめてから、元ボーイ・フレンドのゴメス=ペーニャと共演した「パフォーマンス」について語ってくれた。
ラティーノが相対化しようとしているのは、アメリカの理念や境界線や人種など多岐に渡るが、それを実現するための方法論もその必要に応じてバラエティに富んでいる。音楽、ポエトリー、小説、思想、パフォーマンス・・。しかし、どのような方法を選択するにしても、ラティーノの血のなかに世界中からの声の谺が反響しているのを聞くだろう。もちろん、そこには「日本」からの声も含まれる。無限の相対化による無化を通して世界中の人びとと接続していくための実践は、サバルタンだけではなく絶対的な権力者をも解放する。ラティーノをとば口として行われるアメリカの相対化は、マルチチュードを主役にした新しい世界へ移行するための契機となるかもしれない。イギリスの社会学者ジェラード・デランティは来るべき世界における共同体を次のように描写していた。
(ポストモダン・コミュニティとは)アイデンティティから差異へ、確定性から偶発性へ、閉鎖的コミュニティから統一性を超えたコミュニティ、すなわち開放的コミュニティへ、そして境界性の包含への移行である。ポストモダン・コミュニティは、日常生活の再魔術化の中に見られるのであり、もはや社会の周縁に見出せるのではない。というのも、ポストモダンの社会では、周縁性はどこにでも存在するからである。ポストモダン・コミュニティはノマディックで、移動性が高く、情緒的で、コミュニカティヴである
境界線の網の目のなかで形成されるコミュニティではなく、コミュニケーションを主軸とした帰属のコミュニティこそが人びとに安心感をもたらすようになる。アイデンティティ内部の差異とアイデンティティ同士の差異が人びとを多様に結びつけ、帰属は固定された空間や時間から切り放たれる。既存のシステムにとどまり、不安やパニックとともに生きるのか、あるいは、ラティーノらの実践から生まれつつある新たなコミュニティを受け入れ、日常生活を「再魔術化」して生きるのか。その決断はいま私たち自身に委ねられている。
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登録日:2007年 03月 10日 17:43:33
シラバス
「デスパレートな妻たち」のE・ロンゴリアさん、ラティーノの会合で講演 - 米国
【ワシントンD.C./米国 15日AFP】ワシントンD.C.のキャピトル・ヒルトン・ホテルで15日、ABCテレビの人気ドラマシリーズ、「デスパレートな妻たち(Desperate Housewives)」に出演中の女優、エヴァ・ロンゴリア(Eva Longoria)さんが、ラテン系アメリカ人リーダーらの会合で基調講演を行った。
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(c)AFP/TIM SLOAN
とりあえず、来年は、言語哲学を中心に据えつつ「民俗学」と「ヒスパニック」をやるつもりです。民俗学の方には、泉鏡花や夏目漱石や自然主義文学の作家たちが入ってくるだろうし、ヒスパニックの方は、あらゆる方向へと逸脱してゆく可能性をつねに孕みながらの講義になると思います。さて、デイヴィドソンとどうやって絡めていけばいいのだろう?
「言語・コミュニケーション論A」 (前期)
日本がいまのような「日本」になったのはそれほど昔のことではありません。むしろ、近代国家を確立したあとの現在のような姿は、日本の歴史のなかのごく最近のことでしかないと言えるでしょう。近代国家の枠組みが溶解していく時代のなかで、日本が長い間に培ってきた深層や土台に目を向ける必要性はいよいよ増してきています。前期は、民俗学者である柳田国男のおもに言語に関する考察をもとにして、日本とは何かについて考えていきます。合わせて、現代言語論の最新の成果についてもお話しします。
01 オリエンテーション
02 柳田国男とは誰か?
03 文学と民俗学(1)
04 文学と民俗学(2)
05 南島イデオロギー(1)
06 南島イデオロギー(2)
07 妖怪談義(1)
08 妖怪談義(2)
09 共同体論(1)
10 共同体論(2)
11 物語り論(1)
12 物語り論(2)
13 日本語の相対化(1)
14 日本語の相対化(2)
「言語・コミュニケーション論B」 (後期)
アメリカ合衆国は現代の国際社会において大きな影響力を維持し続けています。しかし、アメリカはけっして統合された意志のもとにある一枚岩の国家ではありません。国内にはさまざまな民族と宗教と言語が行き交っている「混沌とした国家」という側面があります。後期の授業では、このアメリカで急速に発言力を増しつつあるヒスパニックの言語と文化に焦点を当て、アメリカを言語の面からより深く理解していくことを目標にします。合わせて、現代言語論の最新の研究成果についてもお話しします。
01 オリエンテーション
02 アメリカ史のなかのヒスパニック
03 メキシコ系アメリカ人(1)
04 メキシコ系アメリカ人(2)
05 プエルトリコ系アメリカ人
06 キューバ系アメリカ人
07 アメリカ史のなかのスペイン語
08 メキシコ系アメリカ人の言語
09 メキシコ系アメリカ人の文学
10 現代アメリカにおけるヒスパニック(1)
11 現代アメリカにおけるヒスパニック(2)
12 クレオールについて(1)
13 クレオールについて(2)
14 ヒスパニックと日本
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登録日:2007年 03月 01日 02:54:03
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