2007年 04月

最近書いた論文の要旨

<米移民規制法案>不法移民は増加傾向 国境の町の風景 - 米国

【ボカ・チカ/米国 24日 AFP】ピュー・ヒスパニック・センター(Pew Hispanic Institute)の最新の報告書によると、米国の不法移民数は1千2百万人に増加、労働者20人に1人の割合となっている。
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(c)AFP/HECTOR MATA

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4月は生活パターンが変わり、しかも季節の変わり目でなんだか疲れます。ということで、最近書いた論文の要旨をまとめるように少し前に依頼されたので、それを貼り付けておきます。ここのブログは月に最低4本は書かなければいけないのですが、それで許してもらうことにしよう! 本当は「Cuture Clash」について書こうと思っていたのだけれども、いかせん時間不足と私の実力不足。




21世紀最初のセンサスでラティーノ(ヒスパニック)の数が黒人を抜かしたと報じられた。しかし、ラティーノは人種概念でも宗教概念でもなく「スペイン語またはラテンアメリカおよびカリブ海地域にアイデンティティの源をおくアメリカに住む集団」であり、この結果には多くの矛盾が含まれている。

つまり、人種や宗教の対立を過度に強調し国家の結束に利用してきた国家原理をラティーノは相対化しているのである。キリスト教とイスラム教、あるいはアングロとそれ以外のように、人と人のあいだに明確な境界線を引いて世の中を把握しようとする「文明の衝突」概念も、さまざまな人種と宗教を内に含んでいるラティーノに当てはめることはできない。

そこで「境界線の論理」という概念を持ち込むことによって見えてくるものがある。境界線の論理とは、排他的な境界線によって人間や土地や時間を分断して理解する方法論のことである。もちろん、現実には、均質な共同体は存在することはなく、ある土地や時代はその他の土地や時代との関係性のなかに位置づけられる。国民国家を再考するためには境界線の論理の再考が求められている。

たとえば、混血か否かに焦点を当てないラティーノは、国家原理の想像上の概念としての純血を必要以上に強調する国家原理の陥穽を突いている。混血であることについて、ラティーノのあり方は私たちに再考を迫るのである。ラティーノのような混血を不純と捉えてしまうのは、国家原理の発想自体に原因がある。

移民国家であるとともに侵略的な側面をもつ国家であるアメリカの特殊性は、このような国家原理の矛盾とつねに対峙し、隠蔽や歪曲を行ってきた歴史でもある。ラティーノはその影響をもっとも受けた集団の一つであり、彼らとアメリカを相対化することによって明らかになる矛盾は、アメリカおよび国家原理の本質を見るために有効である。

以上のような論点を、ラティーノやチカーノの具体的な例や実践に焦点を当てて論じた。

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登録日:2007年 04月 28日 23:33:59

Pan's Labyrinth

<第49回メキシコアカデミー賞>「パンズ・ラビリンス」が9部門を受賞 - メキシコ

【メキシコ/メキシコ 21日 AFP】今年で第49回を迎えるメキシコアカデミー賞(XLIX Annual Mexican Academy Awards)の授賞式が20日に開催された。12部門にノミネートされた映画「パンズ・ラビリンス(Pan’s Labyrinth、原題:El Laberinto del Fauno)」は最優秀作品賞など9部門の受賞を果たした。写真は、最優秀作品賞のトロフィーを掲げる主演女優のマリベル・ベルドゥ(Maribel Verdu)。(c)AFP/Luis ACOSTA

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監督・脚本・プロデューサー:ギレルモ・デル・トロと、プロデューサー:アルフォンソ・キュアロンのメキシコ人コンビによる新作『パンズ・ラビリンス』を、有楽町マリオンでの試写会で見た。会場に着いてみると大変なにぎわいで、人混みが嫌いな私は一瞬「帰ろうか」と思ったくらいである(帰らなくてよかった)。第79回のアカデミー賞で3部門(撮影賞、美術賞、メイクアップ賞)を受賞したとはいえ「ファンタジー」があまり好きではない(よくわからない)私はたいして期待していなかったというのが本当のところ。フランコ政権下の1944年のスペインという「現実の世界」と「不思議の国のアリスの(ような)世界」を「パン」という古代ギリシアの神によって結びつけるアクロバティックな試みがうまくいっているとはとても思えなかったからである。

この映画では冒頭から大量の血が流される。あらゆる場面でさまざまな理由によって血が流される。私たちは人間に宿る普遍的な「自然(血)」を媒介にして時間と空間を越え、そしてお互いに結びついていることを教えられる。映画を見ながらそんなことを考えさせられた。映画を見ながら「考える」なんて何年ぶりのことだろう。何度もグロいシーン(パン自体の形象が不気味だし、手に目玉がついている奴もグロすぎる)や、人が惨殺されるような残酷な映像が流れるのだが、それらは私たちを取り巻いている「自然」の一部としての残酷さであると不思議と納得してしまう。計算された論理と映像美に圧倒されながらそれらを受け入れてしまうのである。イギリスでは「R指定」だったこともたしかにうなずけるのだが、こういうグロさと残酷さが子どもたちの目にどのように映るのかにも興味がある。もしかしたら、こういうむき出しになった人間性と自然が備えている残酷さこそが芸術や文学の根底にあり、それらは子供のころにこそ接しておくべきものなのではないだろうか。子どもだけが幻想と現実のパラレルワールドを越境できることをこの映画も教えているではないか。

メキシコ人コンビだからこそこのような驚異的な映画が製作されたのだろうか。ハリウッド映画とはもちろん異なり、どんな映画とも何かが違っているこの映画を通して「メキシコ」の何たるかについて思いを馳せることができるかもしれない。だから、メキシコ研究者は必見の映画。デル・トロは『ミミック』『デビルズ・バックボーン』『ブレイド2・3』『ヘルボーイ』の監督として知られ、キュアロンは『天国の口、終りの楽園』『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』の監督である。『パンズ・ラビリンス』はスペイン内戦時代を描いているという点で『デビルズ・バックボーン』の続編とも言える。

なぜ内戦時代のスペインを舞台に選んだのか? パンフレットに掲載されているデル・トロの言葉。「ファシズムは究極の恐怖を象徴している。だから大人のためのおとぎ話を描きだすにはまさに理想的な題材だった。というのも、ファシズムというのは純血の曲解であり、子ども時代に繋がると考えているからだ」。「怪物」なのは、地底の奥深くに住む化け物ではなく、ファシズムにとりつかれた「大尉」の方なのであり、その一点において現実はファンタジーを凌駕する。通常は越えられない深淵に橋を架けることができるわけである。そうして、人間が生みだしてきた想像上の怪物が、人間性の過剰な露呈の化身として把捉される。

「闇」に包まれた「泥水」の映像を美しいと感じてしまうこの映画は、現実をラビリンスへと変えることに成功している。ラビリンスに迷い込んだ私は、なぜこのような映像と物語を見て自分が感動しているのかがわからなくなるのである。これが「ファンタジー」というものならば、私はファンタジーの大ファンだと自信をもって言うことができる。

今秋、恵比寿ガーデンシネマほかにてロードショー。
http://www.panslabyrinth.jp/main.html

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登録日:2007年 04月 26日 21:07:13

The Police

「無人島にもっていくロックグループのアルバムを選べ」と言われて、ぼんやりしていたら間違って「ポリス」をあげかねない私が『ポリス インサイド・アウト』を見るために川崎まで行ってきた。つねに無秩序に人が多い川崎は、家族連れからカップルからギャンブル帰りのおじさんまでがごった返しているのはいつものごとく(しかし、デートの場所で川崎を選ぶというのはどういう感性なんだ)。日本社会の縮図といった感じでうんざりしながら目眩がする。かつては、世界の縮図のマンハッタンでクリスマスイブに朝まで大騒ぎをしていたことを考えると「ワシも年をとったものじゃのお」と、いきなりおじいちゃんになってしまう。たとえば、原宿(若者)とか巣鴨(おばーちゃん)とか銀座(大人)とか、人の種類がある程度一定しているならば群れられても少しは気がラクで、だから、人口密度が高くても人の種類がコワイくらいに一定している年末の「コミケ」はある意味コワイながらも居心地がよかった。人の動きが予想できるからね。街ごとに特徴がなければあとはブツや店に楽しみを求めるしかなくて、それならば、どこに行こうが住もうが同じになってしまうのではなかろうか。シネプレックスとドトールとコンビニとユニクロと・・。もしかしたら新しくできる巣鴨の駅ビルにもスタバとか入っちゃうんだろうか。せめて「巣多婆」にしてくれるならば、最低限の街の雰囲気を保てるような気がする。でも大概のおしゃれ系の喫茶店はすでにおばさんらに占領されていて「おしゃれ系」とは名ばかりである。旦那さんの悪口と子供たちのお世辞に彩られたぜんぜんおもしろくない会話で盛り上がっているおばさんたちと闘いながら本を読んでいる私。と書いてすぐに思い出すのは、銀座の「ニューヨーカーズ・カフェ」で、場外馬券売り場の斜向かいにあるこの「おしゃれ系」カフェの店員たちとギャンブラーたちとのコンバットは注目に値する。おしゃれな名前のコーヒーしかおいてないのにカウンターで「ホット」と頼むなんていうのは日常茶飯事で、銀座では「ニューヨーカー」とは「深緑色のジャケットに野球帽をかぶりながら競馬新聞をにらみつけている」人たちのことを指しているのである。歌舞伎座へ行く前にここでコーヒーを調達するときの楽しみ。しかし、歌舞伎の演目はいったいどうやって決められているのだろうか。ファン投票で決めればいいのにといつも思う。ということで、ここ数回の歌舞伎の感想はなし。本題に戻れば、ポリスのデビュー曲「Fall Out」(アルバム未収録だが、むかしアマチュアバンドを組んでいたときにもっとも熱心に練習した)から始まる映像は一気に引き込まれた。しかし、私の聞きたい「No Time This Time」などのポリスらしい元気のいい曲はかからず、スチュアートが編集したマニアックな音源を楽しめる程度。映像もはっきり言って映りがよくないので、私のような思い入れが深い人間が見ないとほとんど楽しめないだろう。ふらっと迷い込んだ一般のお客さんのためにも、売れ線の曲をPVをはさみながらでいいから流せばいいのに、とこの映画につき合ってくれた友人のことを思いながら考えた。アンディがこのバンドの緩衝材になっていたことはよく伝わった。エネルギーがなければいいことも悪いこともできない(「元気があれば何でもできる」)のだが、スティングは何かが過剰に有り余っているように見える。スチュアートの映像にこだわらずに、さまざまな映像を盛り込んでレベルの高い「映画」にしてほしかったとも思った。そして、時代を超越できたビートルズと違って、ポリスの音楽にはその時代のアウラがこびりついていることを再確認した。この21世紀にもう一度聞きたいとは思わないのはそのせいだろうか。彼らの音楽をCDで買い直したことがないのもそのせいだろう。とはいえ、日本に来たらもちろん行く。ガンズに行くくらいだから。

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登録日:2007年 04月 10日 12:01:21

The OC

<ロデオ・ドライヴ・ウォーク・オブ・スタイル賞>授賞式会場にミーシャ・バートンが登場 - 米国

【カリフォルニア/米国 9日 AFP】ファッションとエンターテイメント業界に貢献したクリエイターに贈られるロデオ・ドライヴ・ウォーク・オブ・スタイル賞(Rodeo Drive Walk of Style)の授賞式が8日に開催された。
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(c)AFP/Getty Images Charley Gallay

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チャンネルを回していると(「回す」なんて言い方はもうしないのか)、たまに「The OC」というタイトルのアメリカ産のドラマにぶつかることがある。「OC」はオレンジ・カウンティの頭文字で、私の関心からいえば、その場所はラティーノの都でもある。
http://www.superdramatv.com/line/theoc/news/index.html

気が向けばそのままにして、見るとはなしに眺めたりしている。それが「青春群像」系のお話であることは、どの場面を見ても、そして、主役の一人のベンジャミン・マッケンジーのマイケル・J・フォックス風のお顔を拝見すればすぐにわかる。背があまり高くなくて繊細な役どころ。母性本能を刺激するキャラクター。
http://www.superdramatv.com/line/theoc/cast/cast2.html

さらに、マッケンジーの親友アダム・ブロディは、ホームページによると「ティーン雑誌の各誌で<彼氏にしたいNO.1>に輝く人気ぶり」とのこと。これだけでも、アメリカではかなりの人気ドラマであることがわかる。共演している女優のミーシャ・バートンの人気は言わずもがな。
http://www.superdramatv.com/line/theoc/cast/cast3.html

それにしても、マッケンジーもブロディもなよなよした感じの男の子で、どうしてそこまで人気があるのか私にはよくわからない。女の子たちの快活さと比べるとどことなく弱々しいイメージを与える。おそらく、いまどき、ぎらぎらした男性はもてないのだろう。

その反対に、ドラマのなかの刑務所のなかの人たちはとても「ぎらぎら」していて好ましい。無意味に元気で、本能丸出し。マッケンジーくんをいじめちゃうのである。彼らは坊主頭であちこちにタトゥーを入れていることからして、間違いなく、チカーノとして描かれている。一緒にいる黒人よりもはるかに元気がよくて、しかも悪そうなところが場所柄と時代を映し出している。

しかし、ドラマの舞台がオレンジ・カウンティであるにもかかわらず、彼らチカーノが登場するのはなんとこの塀の中だけ。画面のなかの99パーセントは、セレブな白人たちが豪奢な舞台セットのなかで、誰かと好きになったり嫌いになったり、くっついたり離れたりするお話。

あとはアダム・ブロディの暮らすお城のような家のお手伝いさんが(おそらく)ラティーナなのだが、彼女にはまったく台詞が与えられていない、見事なまでに。

たしかに、ラティーノが集中している地区はOCのなかでもサンタ・アナではあるが、アーヴァインにもハンチントン・ビーチにもアナハイムにもニューポート・ビーチにもラティーノはたくさんいるし、スペイン語の店は各地に山ほどあるのだから、ここまで脱色してドラマが作られているというのは違和感がある。

ちなみに、Wikipediaによると、オレンジ郡は「2000年現在の国勢調査で、この郡は人口2,846,289人。この郡の人種的構成は白人64.81%、アフリカン・アメリカン1.67%、先住民0.70%、アジア20.45%、太平洋諸島系0.31%、その他の人種14.80%、及び混血4.12%である。人口の51.26%がヒスパニックまたはラテン系である」。ここにも人口調査のまやかしが。

また「この郡は富裕な階層が数多く住むこと、および共和党の地盤であり政治的に保守的であることで知られているが、実はイメージに反して多くの貧困層(ヒスパニックなど)もいるうえそれほど政治的に保守的なわけでもない」。

そういう間違った「イメージ」をさらに助長しているのがこの「The OC」なのであった。この地域には日本人もたくさんいて、私の祖母も隣接するロングビーチに住んでいたから、懐かしい場所ではある。しかし、私の「イメージ」とも違っている。

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登録日:2007年 04月 07日 09:04:07