2007年 05月

民俗学とチカーノ

<第79回アカデミー賞>授賞式直前、助演女優賞ノミネートリスト - 米国

【カリフォルニア/米国 23日 AFP】25日(日本時間では26日)に行われる第79回アカデミー賞の助演女優賞(best supporting actress)ノミネートリストは以下の通り。
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(c)AFP

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昨日は高円寺で切通さんらと柳田国男の読書会。私が発表を担当させていただいた『山の人生』の10-12は「柳田山人論の到達点」(内田隆三)を凝縮したような部分で大変に勉強になった。

実証主義と神秘主義のあいだに横たわっている広大な荒野を旅した一人としての柳田国男の思想はここに比較的わかりやすく示されていると言ってもいい。私がチカーノについて学びながら「偽史としての民俗学」(大塚英志)に引かれてしまう理由もここに示されている。

と同時に、チカーノやメキシコを研究する際に陥りがちな隘路についても私は教えられる。「彼らを理解することなど本当にできるのだろうか?」と気づかせてくれるのである。つまり、近代化を進めることは、実証主義と神秘主義のはざまを架橋不可能な深淵へと変える側面があったからである。

柳田は真摯な筆致で明治の残滓を書きとめた。それらの文章は、私たち自身を知るための契機を与えてくれるとともに、前近代的な思想を理解するための糸口を提示してくれている。たとえば、天狗小僧寅吉について書かれた10章に続いて、次の章の冒頭で柳田は次のように記す。

「「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、何度となくこれを人に語り、かつ聴く者が毎に少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである.すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである」。

正直に言えば、アストランという想像上の故郷をもつチカーノたちの「実感」を私は共有することができない。それは「凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだ」というような異界のモノガタリへの欲求をいつか手放してしまったからに他ならない。

したがって、おそらく、柳田がここに込めようとした意図の大半を私たちは取り逃がしている。言葉で理解することと体感することはまた別の話である。実証主義と神秘主義のはざまを自在に泳ぐには、その両翼にある思想の偏りを凌駕するような膨大な知識に裏打ちされた相当の知力が求められ、そこで、私たちは柳田のような突出した人物の力を借りるのである。

その代償として彼のきわめて読みにくい「体液のような文体」(吉本隆明)と直面するのであるが、その読みにくさは時代を越えるための読みにくさであるとともに、はざまを旅するための体力をこちらに強いる痛みでもある。

時代を言語化する柳田という稀有なフィルターは、事実の記録かつ筆者の卓抜した思想の遍歴を鉱脈のような文章群のなかに流し込み、驚くべき実直さによって独特の文体を練り上げていった。しかし、その文体は橋を向こう側へと渡るための「訓練」でもある。

橋の向こう側に広がる荒野は、常民と山人が対峙している「あのときの日本」とは限らない。その荒野がサウスウエストの茫漠たる大地と繋がっていないとは誰も言えないのである。

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登録日:2007年 05月 28日 19:42:26

BABEL

<第79回アカデミー賞>助演女優賞候補で、一躍脚光を浴びる菊地凛子 - 米国

【ロサンゼルス/米国 24日 AFP】これまで日本では、ほとんど無名に近かった女優、菊地凛子(Rinko Kikuchi)が映画「バベル(Babel)」への出演を機に、ゴールデン・グローブ賞(Golden Golbe Awards)などの有名賞にノミネートされ、ついに第79回アカデミー賞(The 79th Academy Awards)助演女優賞候補に名前が挙がり、一躍脚光を浴びている。
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(c)AFP/HO/A

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地元のレイトでやっと『バベル』を見てきた。

公開されてから今日まで、何人かの人に「見ましたよ!」と言われて「どうだった?」と訊ねても「まあ、見てくださいよ・・」と言われたり、「よくわからな〜い」とか「あんまりおもしろくなかったっす」などの感想を、これまで<それなりに>映画を見てきただろう年齢の人からもたまにいただいたりして、<あまり期待しないで見た>というのが本当のところ。

監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは、常日頃から「映画言語」そのものについて言及することでよく知られている。「映画を見る」という行為が観客に喚起する「何か」についてとても意識的な監督だと言えるだろう。今回もパンフレットには次のようなセリフ。「映画に翻訳はいらない。なぜなら普遍的な人間の感情を引き起こすからだ。映画とは限りなくエスペラントに近いものだ」。じつに楽観的である。

しかし、今回『バベル』を見ての私の感想は「この映画は観客を選ぶ作品だなあ」ということ。はっきり言っておくが「つまらない」と感じた者は黙っていればいいのである。映画言語においても、ビギナーから達人までいるわけで、誰にでもわかる映画はそれなりの内容しか伝えられない。文章を読み取る力と同じように、ある程度訓練しなければ映画言語は身につかないということである。

人はそれぞれの視力の強度を通して世の中を見ているのだから「つまらない」と言うのではなく「わからない」と言えばいい。アレハンドロ自身は、人間が神から天罰を与えられる以前の言語として「映画」を位置づけたいのかもしれないが、実際にはこの『バベル』という映画を前にして人びとが好き勝手なことを言っているのは皮肉なことである。

最近はCGによって作りだされた映像を見て「おお〜!」と思うことは多々あるが、地球上に実際に存在する映像を目の前にして感動したのは久しぶりだった。モロッコは美しすぎる。東京も美しい。米墨国境はさらに美しい。ガエルとボーダー・パトロールとのやりとりの緊張感も、アドリアナが砂漠をさまようシーンの絶望感も真に迫っていた。「国境映画」とはただ国境を映像に収める映画のことではなく、国家間の境界線が生みだす問題点を浮き彫りにするような映画のことを言う。

性的な描写が多いのは、性こそ翻訳はいらないというメッセージだろうか。菊池凜子演じるチエコの行動を見るとそのようである。「バベル」というタイトルから私たちは、この映画が「言語」そのものについて述べている作品だと受け取りがちである。しかし、その「言語」が「国家言語」を意味しているとしたら、そのような捉え方は間違っている。「言語」は国家などによって作りだされた人工言語のことだけを指すのではない。人と人が解り合うためのすべてのツールのことを指す。したがって、同じ国家言語を話しているからといって分かり合えるわけではない。

つまり、言語がバラバラになったから私たちは解り合えなくなったのではなく、私たちはもともと「他者の好意さえも誤解する」ような世界に生きている。そのことを絶えず突きつけられる。この映画の最大のテーマもそこにある。その誤差を少しでも埋めるために言語は作られた。もちろん、それだけでは不完全である。性はその誤差をさらに埋めてくれるだろうか。

現実には、好きな者には拒否されるのに対して、身内の者に対して向けられる性は受け入れられるという矛盾(身内の者に裸体をさらす女性たち)。

死の問題についても、いくらでも考える糸口が与えられている。

恐るべし、いニャりとぅ! 

追伸:ガエルの鶏の絞め方が堂に入っていて「さすがメキシコ人!」と思った。

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登録日:2007年 05月 22日 02:30:59

Aztlan Literary Award

3人に1人がマイノリティー、非白人大統領誕生も間近か - 米国

【ワシントンD.C./米国 2日 AFP】米国の人口は10月中に3億人を超えるとみられている。
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(c)AFP/JIM WATSON

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ペーパーバック版が発売されたので、去年の「アストラン文学賞」(賞金は千ドル)について書いておこう。受賞者はメキシコのゲレーロ州で生まれたレイナ・グランデ(1975生)で、いまは息子とともにロサンゼルスに住んでいる。

今回の受賞作であり処女作でもある作品のタイトルは『Across a Hundred Mountains』。メキシコとアメリカの国境線を越える際の苦難を象徴的に表している表題を持つこの小説は、メキシコ生まれの女性とアメリカ生まれの女性の二人を中心に展開し、政治的、経済的な要素などを含めた多角的な視点が盛り込まれている。

しかし、その根幹にあるのは、メキシコ系アメリカ人の書く小説の伝統としての「移民小説」である。国境線を渡ることの意味について描かれたチカーノの小説群の蓄積に、また新たな小説が加わったわけである。作者のグランデ自身も9歳のときに両親とともに国境を越え、カリフォルニア州立大学サンタクルース校を卒業している。

アストラン文学賞は、1993年にルドルフォ・アナーヤ、パトリシア・アナーヤ夫妻によって設立され、ラティーノの新人の作家の二作目までの小説に与えられる。これまでの受賞者に、デニス・チャベス、パット・モーラ、アリシア・ガスパール・デ・アルバなどがおり、彼らはこの賞をきっかけに著名な作家へと成長していった。

「アストラン」という言葉について、前回紹介した本から冒頭部分だけを訳出してみる。

「アストラン」(ナワトル語で<白い場所>または<白鷺の場所>の意味)は、チカーノのアイデンティティと移動に関するもっともパワフルなシンボルで、たびたび援用される。チカーノがこの概念を使用するのは、神話的な故郷であるアステカの名前を文化的に取り込む意図が込められている。12世紀にアステカ族はこの場所から約束された土地を求めて南下した。そこは、サボテンの上で蛇を口にくわえた鷲の表象で象徴されている場所である。現存しているアステカの法典(象形文字のテクスト)によれば、アステカ人たちは約束された土地に定住し、1325年頃にいまのメキシコ・シティのあるテノチティトランに新しい首都を構えた。もともとアストランがあったとされる場所について歴史家たちの論争は続いているが、この言葉自体がチカーノたちの意識に上るようになったのは1960年代のことである。そのとき、アメリカ南西部のもう一つの名前としてアストランは使われるようになった。したがって、アストランはアメリカとメキシコの両国から距離をおいた固有の文化をもった地理学的空間であり、また、チカーノの新しい国家であるとも言えよう。(以下、省略)

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登録日:2007年 05月 13日 15:02:54

Ofrendas

メキシコの貧困地域で広がりつつある死神信仰 - メキシコ

【メキシコ市/メキシコ 2日 AFP】メキシコ市(Mexico City)の犯罪多発地域、テピート(Tepito)では、ギャングや麻薬密売人の世界でもてはやされてきた死神「サンタ・ムエルテ(Santa Muerte)」の信仰が主流となり、貧しい人たちの間に普及しつつある。
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(c)AFP/HECTOR MATA

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チカーノ文化に関するタームを手っ取り早く知るための本として『チカーノ・フォークロア』をかつて紹介したことがある。ここのAFPではなく、TLOが運営している(していた?)「ホセ・マッチョス日記」の方だったと思う。

今年になって『Key Terms in Latino/a: Cultural and Literary Studies』という本が出版されたので、これも紹介しておくことにしよう。作者のポール・アラストンは、シドニーでラティーノやスペインについて教えている大学教員。本の体裁がわかりやすく、文章も読みやすいのでお薦めである。

逆に言えば、これを読んだからといって、論文が書けるようなレベルの知識を得られるわけではない。チカーノだけではなく、プエルトリコ系やキューバ系の人びとに関する基本的なキーワードをおさえるための本である。

試みに、祭壇(Altars, Ofrendas)という項目を訳しておこう。

祭壇や聖堂は、メキシコ人やチカーノのコミュニティにおいては重要な民衆芸術となっている。そのルーツは、土着のメソアメリカ的な伝統とスペインのカトリシズムとの混淆体にある。

カリブを起源にもつラティーノコミュニティでは、祭壇はまさに日々の生活の一部であり、アフロカリビアンとカトリックの伝統が混淆した彼らの象徴的な形象としてある。

メキシコの死者の日に祝われる際に作られる祭壇は、おそらくもっともよく知られた形式だろうけれども、それらは、メキシコ人、チカーノ、その他のラティーノの家庭や店、公共空間(壁の奥まったところ、交通事故の現場、中庭、公共の建造物の入り口)でも見ることができる。

家庭の祭壇を作る人(アルタリスタ)は通常は女性で、その作成の過程はたいていの場合、終わりのない発展的な作業である。重要な家族の出来事(誕生、卒業、結婚、死)の写真が、家族の記憶の三次元的なパリンセプトとなっていく祭壇に、長期間にわたって付け加えられるのである。家庭の祭壇は、大きさはさまざまで、ある特定の部屋におかれるようになる。

メサ・ベインズは、祭壇の建設と管理はラティーナによって行われる多くの文化的実践の一つであり、造語である「ドメスティカーナ」は、女性の家庭での文化的労働に基づいた芸術的実践のことを意味している、と述べている。

メキシコ人とチカーノの祭壇は、グアダルーペの聖母像を中心とし、その他、聖人、灯明、カラベラ、花、紙張子の果物、紙の切り抜き、個人的に大事にしているものなどが置かれている。

祭壇の伝統は民間のカトリシズムに起源があるが、宗教的なものと世俗的なものを一緒にして像とモノをおいている家庭の祭壇もごく普通のことである。

メキシコの死者の日のお祝いと結びついた祭壇は、紙張子や石膏、アルミニウム、砂糖のような素材から作られたカラベラや頭蓋骨が陳列されるのが特色である。それらを通して、現世に迷いのある誰もが、いつかは死ぬべき運命にある人間の生と死のあわいに思いを馳せるのである。

家庭の祭壇のように、メキシコの(公共の)祭壇はグアダルーペの聖母やパトロンの聖人を表した人物を中心においている。しかし、死を思い出させ、死をあがめる文化的な伝統にそれらの役割が与えられているとはいえ、祭壇はまた、死んだ親戚や友達の写真によっても飾られている。そして、個人的な所有物、死者のパン、死者の魂を元気づけるアトレのようなとうもろこしの飲み物も置かれる。

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登録日:2007年 05月 08日 12:38:24