2007年 06月

コリード

ヒスパニック系住民が急増、ハリケーン・カトリーナ後のニューオーリンズ

【6月17日 AFP】2005年8月にハリケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)で大きな被害を受けたニューオーリンズ(New Orleans)で、ヒスパニック系住民が急増している。
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(c)AFP/Russell McCulley

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気がつけば月末。もう一本がノルマなので、気ままに書き始めてみることにする。ノルマや締め切りがないと動かない私。だから、ノルマと締め切りは欠かせない。人生は習慣がすべて。


まずは、コリードに関する「ある本」を読み始めたので、それについて書く。コリードとは、14世紀のスペインで生まれたロマンセという音楽様式が、コンキスタドールによって新大陸にもたらされ、米墨国境地帯で独自に発展したものである。

アングロに抵抗した民衆のヒーローである「グレゴリオ・コルテス」のバラッドに代表されるような共同性の創造や、あるいは情報の共有のためにコリードは利用された。

数年前に、スタンフォード大学のラモン・サルディバルが来日して、チカーノを紹介する講演を行った際に、その説明を「コリード」に全面的に依拠し、実際に何曲かを会場に流したことをいまでもよく覚えている。

「境界線」の存在や、「住民」の特質や、統治する「政府」によって演繹的にある共同体を代弁するのではなく、民衆が自然発生的に創り上げる「歌」を通して「チカーノとは何か」を示そうとしたその方法論に私は驚かされた。

方法論の選択そのものに結論が隠されていたわけである。

共同体の説明を安易に時間(歴史)や空間(地理)のなかへ流し込んでしまうクセを幼いころから学ばされている私たちにとって、歌のなかに共同体を透視する視力はきわめて弱い。

逆に言えば、歌謡曲の変遷を通して「日本人とは何か」というような方法論を採用するほど、私たちにとって口承芸術としての「歌」は大きな比重を占めているわけではない。いつか、領土や国民の境界線は自明のものとして受けとられるようになったからである。

だから、チカーノが何者であるかの定義を国家原理の内部で通用している用語で説明してもあまり意味がない。

去年、ラモンは、コリード研究の先駆者であるアメリコ・パレーデスの評伝を出版した。パレーデスは今福龍太のかつての指導教授であり、私がコリードという言葉にはじめて接したのは今福氏の『荒野のロマネスク』のなかの「アメリコ・パレーデスへの手紙」というエッセイであった。

真面目なサラリーマンだった私をこのような×××な世界に引きずり込んだ罪深い『荒野のロマネスク』・・。

さて、このような、米墨国境地帯のゆかしき伝統芸である「コリード」と、これまた地場産業のような「麻薬密売業者」が結びつき、1990年代に新しいコリード文化が誕生している、という本を読み始めたところである。

コリードに乗せて歌われる人物はどうしてみな、社会的なアウトローなのか。新しい世代の「センスのいい」チカーノ研究者は、怠け者の私の代わりにチカーノ文化のさまざまな側面についてさらに幅広く研究してもらいたい。


ここで、取り上げた本は「はてな」の方で紹介しておきます。

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登録日:2007年 06月 28日 23:37:44

戦後から遠く離れて

中川政調会長、参院選の自民公約は「憲法改正と年金改革」

【6月1日 AFP】自由民主党中川昭一政調会長は1日、安倍晋三首相が憲法改正問題を7月の参議院選挙の争点とすることに意欲を示しているとの見方を示した。
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加藤典洋が『論座』の6月号に寄稿している「戦後から遠く離れて:わたしの憲法「選び直し」の論」を読んだ。「『敗戦後論』から10年」がキャッチコピー。

私が勉強をリスタートさせたころに「カルチュラル・スタディーズ」が一世を風靡していたことを少し前に書いたが、加藤氏の『敗戦後論』も世の中をにぎわせていたことを思い出した。

加藤氏に対しては、偉大なるアマチュアリズムとして愚直に対象に接近し、思想を基盤から構築していく姿勢には共感することが多いとはいえ、その愚直さが私のような気の短い者には耐えられないことがある。

今回も「私は内田樹と同じ意見です」と周りの者におしゃべりすれば終わりのところを、わざわざ「編集部に申し出る形で書かせてもらった」そうである。きっと、飛ぶ鳥を落とす勢いの内田さんの意見に感銘を受けて書かれたのであろう。

しかし、結果的には、内田さんの理知的で引き締まった文章をだらだらと引き延ばしただけの間延びした文章になってしまい、私は読み通すのに5回くらい他の本に浮気してしまった。

しかも、内田さんの意見の紹介のあいまに、名古屋大学の学生の修士論文、鶴見俊輔、吉本隆明、ハーバート・ビックス、太田光などをつまみ食いして、人の意見を借りただけの「よく勉強しました」的な文章になってしまっているのが残念である(いつものことだが)。

さらに、対象(安倍首相や憲法9条など)について書かれた「評論」だけは人一倍読み込んでいるにもかかわらず、一方で、対象そのものが発信している薄っぺらな新書さえも目を通そうとしないことを読者は知らされる。

「『美しい国へ』は読んでいないので踏み込んだことは言えないが、新聞、テレビで見る限り、その意志はなかなかに強そうに見える」。

おそらく、人の意見を組み合わせて自分の意見を作り上げるのがこの人の芸当なのだろう。さらにたたみかけるようにして、その『美しい国』を支持する人を「知恵の足りない人」と形容しているところに遭遇して、読者は愕然とさせられることになる。

「「素晴らしい」ものとして語られている限りは、安倍首相の「美しい国」と一緒だ。どちらがよいか。筆者は、憲法9条の「素晴らしさ」を取る。しかし、それだけの比較であれば、「美しい国」を守る危害を取る<知恵の足りない人>も出てくるだろう」。

アフガニスタンで活動されている中村哲さんも、とてもふさわしいとは言えないようなコンテクストで言及され、しかもその内容も頓珍漢である。そして、吉本隆明さんの文章をわざわざわかりにくくパラフレーズしているところにも驚かされる。結局、最後の方で(最初からそうすればいいのに)内田樹の意見の紹介に終始してフィニッシュ。

朝日新聞の「文芸時評」もそうだが、この人が重宝されている理由が私にはいまひとつよくわからない。きっと文壇の政治力か何かが関係していて、私のような素人にはわからないことが起きているのだろう。しかし、だからといって「早稲田大学教授」のご意見を鵜呑みにするほど私ももう若くはないし<知恵が足りない>わけではない。

彼が頼りとしている内田樹のレトリックはたしかに卓抜なのであるが、9条という「世界遺産」にしたいくらいの「理念」をこちら(だけ)で高らかに掲げて自己満足できてしまう感覚が私にはどうしても納得できないのである。それなら、戦争マニア(?)の矢作俊彦の意見の方がはるかに現実的で説得力がある。

1月号の『すばる』誌上で、二人はさんざん意見が衝突したあげく(というよりも、矢作がしゃべりまくり)次のような会話にいたる。

内田:この曖昧なシステムで戦争を回避してきたという実績がある以上、今以上に戦争に巻き込まれるリスクの少ないシステムがあると言われても、日本人はにわかには同意しないですよ。
矢作:僕が言っているのは、この曖昧さを排除しないと、もう一回戦前と同じことが起こるということです。(略)たとえばノモンハン事件ね。関東軍には交戦規定がない。法務官がいない。軍隊を法的に組織として統制するものがない。関東軍というのは、ほとんどいまの社会保険庁みたいにグズグズの組織なんです(ちなみに、この対談は去年)。自衛隊もちゃんと法律のなかでがんじがらめにして、仕事はさせる、仕事じゃないことはさせない。そういうふうにしろと、僕は言ってるの。
(略)
内田:日本のシステムというのはもともと法律で縛って、原理原則で詰めるという質のものではないでしょう。日本の政策決定要因って、最後はいつだって人情じゃないですか。
矢作:あなたは間違っているよ。自衛隊に限らず日本人は法的にがんじがらめにしない限り危険ですよ・・・(以下、矢作しゃべりまくり)

この場には、高橋源一郎も同席しているのだが、発言の浮世離れ感が際だっていて感動的でさえある。石原慎太郎が知事に再選されて立ち直れないほどに意気消沈されている方々もそうであるが、彼らのこの浮世離れ感はどうしたものだろう? 石原慎太郎はクーデターでいまの地位についたわけではないし、あの頼りない対立候補を選ばなかった都民の方に「常識」があると私は思う。

加藤氏のエッセイの最後の結論はこうである。「左翼性からだけでなく、戦後からも遠く離れ、自分の理念の場所からではなく、ふつうの人のふつうの不安と希求の場所から憲法9条について考えることが、これを擁護するにあたり、必要なことである、と思う」。

文中で「ふつうの人」を連呼しているにもかかわらず、普段「ふつう」の人と接することなどほとんどないのだろうと察することができる。まるで「国民のみなさまのために」と連呼している国会議員のようではないか。人の意見を借りるだけでべつに言うことがないのなら黙っていればいいのに。

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登録日:2007年 06月 11日 20:04:07

チカーノになった日本人

危機にひんする文化遺産、「人間の活動が最大の脅威」

【6月7日 AFP】建築物や美術品の保存などを行っている非営利団体「世界記念物基金(The World Monuments FundWMF)」は6日、世界中で最も危機にひんしているとされる文化遺産100か所を掲載した2008年版監視リスト「World Monuments Watch List」を公表した。
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(c)AFP

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北海道大学の村田勝幸さんが『<アメリカ人>の境界とラティーノ・エスニシティ:「非合法移民」の社会文化史』(東京大学出版会)という本を出版される。6090円と少々値が張るが「買う」以外の選択はないでしょう。読んだらまた感想を書きます。



『KEI チカーノになった日本人』(東京キララ社)を読んだ。ここで名指されている「チカーノ」は、たとえば『アメリカン・ミー』や『ブラッド・イン・ブラッド・アウト』のような映画のなかで重要な場面の一部として描かれる<刑務所>とともに語られるチカーノである。いわば「典型的なチカーノ」と言ってもいい。

アメリカ社会に抵抗する主体としての存在をもっとも先鋭的に体現している人びとである。チカーノが歴史的にアングロ社会のなかで排除されながらも、その結束の強さからくる独特の共同体を構築していることが、塀の中のチカーノ性をさらに凝縮させているわけである。

著者は塀の向こうでチカーノのグループに認められ、10年近くをチカーノとして生きた。この得難い実体験からくる描写は生々しく衝撃的でもある。私はチカーノという存在をいつまでも塀の中の人びとと直結して語ることには違和感を覚えるが、それでも、それぞれのチカーノ共同体の真実の姿を教えてくれる情報からはつねに学んでいたいと思っている。そういう意味では大変勉強になるとともにおもしろかった。

この本の中でチカーノが登場するのは半分を過ぎたころで、そこまでは著者のヤクザ時代のこれまた凄まじい体験が語られる。この前半部分でのハードな経験があるからこそアメリカの刑務所を生き延びるタフさが身についたのだと読者は納得させられるだろう。

しかし、人がヤクザになるか国会議員になるか、あるいは、聖職者になるか犯罪者になるかの分岐点は、人生のある時点での小さなきっかけに過ぎないと思うし、著者はけっして、ヤクザだったことを得意げに語っているわけではない。

そして、チカーノとのつきあいを誇らしげに語っているわけでもない。淡々とした文体にのせて「何かを考えるきっかけになるだけでいい」と語る。「カラーギャングなど、チカーノの表面的な部分だけを真似する若者を危惧する」という文字も見える。

私は著者の思いとは裏腹に彼を神格化するような若者が現れるだろうと予想するし、それは仕方のないことだと思う。しかし、徐々にでも彼のメッセージを読み取れない者は「チカーノ」について語るべきではないだろう。

著者も何度も触れているように、チカーノは精神的な結びつきを最大の特徴とする。仲間意識や家族愛という内面のつながりがもっとも重要なのだ。それは抑圧のなかで生き延びるために必要だからである。だからこそ、遊び半分でギャングとなり、無意味に敵を作り、誰かを傷つけるような行為を著者は戒めるのである。

おそらく、私たちの社会にも「チカーノ性」は必要とされるようになるだろう。しかし、著者に倣って、私たちにとっての「敵」とは誰なのかを判断するくらいの常識と知性は持ち合わせていなければならない。

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登録日:2007年 06月 09日 01:40:12

考えることは抽象化することではない

カストロ議長、容態回復アピール

【5月25日 AFP】病気療養中のキューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)国家評議会議長(80)は、24日付の共産党機関紙グランマ(Granma)に寄稿し、順調な回復ぶりをアピールした。
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(c)AFP/Isabel Sanchez

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ある用事で急遽、品川を往復することになり、うちの本棚にあった本をとりあえず手にとって出かけたので、普段読まないような本を読むことができた。変に時間があると、チカーノ関係の洋書を読まなければという強迫観念に襲われてしまうので、たまにこうやって気ままに本を読むのはいいことだ。

というよりも、そういう本のなかにこそ、私にとってもっとも重要な示唆が含まれているはずである。趣味で買った本を積んでおき、そのなかから無意識に手にとった本との出会いから新しい発想は生まれる。

そもそも「チカーノ」は私のいわゆる「専門」ではない。大好きなサウスウエストに出かけるための言い訳であり趣味である(言い切りすぎか)。私は基本的には「外国趣味」だけから勉強することが嫌いなのである。「西洋への憧れ」のようなものを引きずって勉強をしたくはない。

傍観者の立場からくる脳天気さと無責任さは、個人的には「趣味」の範疇だと考えている。私がチカーノについて知りたいと思う理由の一つは、私たち自身をよく知るための発想を得るためにある。泉鏡花の小説を読むこととあまり変わらない。

出かける際に手に取った一冊目は、中村昇『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』で、もう一冊は、田中宏和『丸山真男の思想がわかる本』である。内田隆三『国土論』は分厚いのであきらめた。2冊とも読了することはできなかったが、大変おもしろかった。

この日は、帰りがけにユーロスペースで、オリバー・ストーン監督の『コマンダンテ』(フィデル・カストロのインタビュー)を見ようかと思っていたが、どうでもよくなってしまった。

やはり、本屋で見かけて少しでも気になったら、とりあえず買っておくのがよさそうだ。ネットを通して買う本の傾向と、リアル書店で買う本の種類は若干違うので、定期的に本屋へと足を運ぶ必要がある。本屋の方がアトランダムな出会いからくる「ぶれ」が大きく趣味に走りがちなところがいい。それでも、金額的には、前者と後者では9:1くらいの割合で、ネットの方が断然多いだろう。

小林秀雄については「初めてひとり暮らしをしたときに『小林秀雄全集』だけ持っていった」と以前書いたことがある。よく理解できないながらも直感的に10代の頃の私を引きつける「何か」があった理由は、この歳になってみるとよくわかる。

先述の『小林秀雄と〜』はそういう本である。小林秀雄の得も言われぬ「すごさ」を、こなれた読みやすい文体に載せて読者に知的興奮とともに届けてくれる。私が中学生のときに小林秀雄の文章をひたすら原稿用紙に書き写していたことの意味が少しわかったような気がした。

「大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない。見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである」(小林秀雄)

これは大変な労力をともなう作業である。
考えることは抽象化することではない! 
自らへの戒めの言葉としたい。

そういえば、小林秀雄の講演を収めたCDを聞いていたら「ハイカラなものばっかり読んでいてはダメです。柳田さんの本を読みなさい」と述べていたところがあって、私が柳田国男(それとベルクソン)を読むようになったのはほんの最近(それでも10年前か)のことだけれども、結局、小林秀雄が言及していたような人びとに戻ってくるところもなんだかおかしい。

もう一冊の『丸山真男〜』の方は、冒頭から「流行のものを追って勉強することの弊害」を指摘し「劣化しているのは大学生ではなくて教師の方ではないのか」というアピールから始まる熱い本である。私が10年ぶりにアカデミックな世界に戻ってきたときは「カルチュラル・スタディーズ」がはやり始めの頃で、著者の言わんとしていることは納得できる。

最後に掲げられている参考文献に対するコメントにも「ずらり並んだ駄論文集」などと書いてしまうのだが、逆に著者の誠実さを映し出していて清々しい。

「左翼」や「右翼」のような「ものいい」自体もそうだし、世の中がどちら寄りなのかも含めて、象牙の塔の内部と外部は別世界である、と私も思う。著者(1957年生)に言わせれば当時のキャンパスは一歩足を踏み入れれば「ソ連」だったというが、いまも状況はたいして変わっていない。大学教員の言葉にピンときている人びとは、世の中にそれほど多くいるわけではないことを知るべきだろう。もちろん、自戒を込めての言葉である。

しかし、無性に丸山真男が読みたくなる本だなあ。

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登録日:2007年 06月 05日 01:04:09