2007年 07月

奄美自由大学2007

ジェニファー・ロペスがスペイン語の新作アルバムについて語る - フランス

【パリ/フランス 27日 AFP】米歌手で女優のジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)初のスペイン語アルバム「Como ama una mujer」は「(自分の)ルーツであるラテンに戻る自然なもの」だと、ロペスは同アルバムが世界発売される27日の前日に語った。
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(c)AFP/MICHAEL KAPPELER

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今福龍太の世界に関心のある方、是非ともお問い合わせください! 



奄美自由大学2007 への誘い

デイゴ樹を揺らす大きな颱風(テーホ)の咆哮が私のまどろみを解き、ふと耳を澄ませば、揺ら めく不思議な音楽の谺が汀のあちこちに漂っています。道弾き三線の唄者が通りすぎてゆくとき のシマウタの気配とはちがう、もっとずっと遠い島からの呼びかけのようなくぐもった調べ・・・。 いかなる既成の「音楽」にも収束しえない、世界の響きそのものゆらぎを抱えたその音の群島は、 自らの名を私の耳元でそっとこう囁きました。「Ba、Bach・・・」

アフリカ系のダンスのようなシンコペーションのリズムがひそむこの「バッハ」の躍動的な響き に私は驚き、たちまち魅了されました。南島の風の舞踏と、驟雨のざわめきの音と、島人の八月 踊りの回転する律動と、なんとこのバッハの音はスリリングに共振していることでしょう・・・。

一八世紀ドイツ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽が、正統の西欧音楽史によって神話化 された技法と美学の大伽藍ではなく、植民地主義ヨーロッパが谺のようにして受けとめてきた周 縁世界、アジアやアフリカの舞踏リズムや旋律や代数学を無尽蔵に宿した響きの多様体であるこ とを示唆し、ピアノを媒介に実践してきたのが高橋悠治さんです。そもそも「Bach」とは、数 世代にわたって音楽家を輩出した特別の一家系の名ではなく、ロートヴェルシュRotwelsch と 呼ばれるドイツやスイスの旅職人や放浪者のあいだの隠語で「小銭」「あごひげ」「流し」といっ た意味をもつ言葉Bach(Bachen) に起源を持ち、おそらくは流れながら世界中の響きを拾い集 めて歩いた遍歴楽師を意味する集合的な名辞であったと考えられます。

人々の流れ歩きとともに唄の内実を豊かにしていった奄美シマウタの世界と、バッハはどこかで 深く通底しているのではないか・・・。この直観を支えに、完成や安定に至らない音の揺らめき の記憶を、奄美大島の素朴な木造教会の胎内に響かせ、中世からのバッハたちのように島の聖地 を彷徨するように巡礼してゆく・・・。この即興的なアイディアが、途方もない創造性と膂力を 持ったピアニストの体内の弦をたしかに弾(はじ)き、今年の奄美自由大学の通奏低音が鳴りは じめました。

6 年目を迎えたこの遊動型の学舎に、今年はとりわけ深く長い時間に帯電した音楽が響き渡りま す。特異な歴史を抱えた奄美のカトリック教会が生きてきた時間が、その音楽に倍音をつけ加え るでしょう。さらにその重層的な音が、島の旧盆の、死者が帰還するときの静謐な空気を震わせ て伝わるさまを、ぜひともに体験しようではありませんか。高橋悠治さんとともに辿る道行きの 途上で、例年の如く、ゴーゾーガナシの詩、さまざまな映像、歌や踊りが、場所と時を無意識に 選びながら即興的に生まれることでしょう。

たった一回きりの、バッハたちの島への、バッハたちの島からの挨拶。 多くの方々の参加を願っています。

                     奄美自由大学主宰 今福龍太





奄美自由大学2007 テーマ:放擲する愛「バッハたちの島へ」

巡礼行程
8月24日(金) 午後1時:奄美大島、学丸の浜にて集合* (*学丸は龍郷町手広海岸の西側にある奇岩の浜でかつての自然聖地・遺跡。参加者は車に分乗 して午後12時50分「ばしゃ山村」から出発) 午後3時30分:宇検村、平田(へだ)着。漁船で対岸にある奄美群島最大の無人島、枝手久 (えだてく)島へ。手漕ぎの小舟に乗り換えて上陸。請島・与路島島民の聖地であった海蝕洞窟 ムィジナーを探訪。 午後6時:平田漁港帰着。 午後8時:「ばしゃ山村」帰着。懇親会。夜は野外にて映像の饗宴。「ばしゃ山村」(一部「さ との家」)泊)

8月25日(土) 午前9時:笠利町、平(てーら)教会、手花部(てけぶ)教会、瀬留(せどめ)教会等を巡る。 午前10時:芦花部(あしけぶ)着。 芦花部カトリック教会内および裏の御嶽にて高橋悠治氏演奏のバッハとその谺を聴く。 午後12時:知名瀬教会着。昼食。 午後3時:大和村大棚着。大棚カトリック教会でふたたび高橋悠治氏によるバッハ「パルティー タ」および自作新曲「アフロアジア的バッハ」の演奏、その谺が幾重にも即興的に変奏される。 午後6時:大和村国直(くになお)着。国直の民宿「さんごビーチ」にて夕食、宿泊。

8月26日(日) 午前中、大和村の水脈をたどる小巡礼。国直、津名久の水神を巡る。 午前11時 龍郷町、秋名川で水浴。 午後1時:「ばしゃ山村」にて解散。


参加費用:基本的に、現地交通費・宿泊費・食費の実費および機材費などの諸経費・雑費。一人 30,000~35,000円程度。奄美大島までの往復は参加者各自で手配下さい。

** 参加申し込み:奄美自由大学事務局 濱田康作 kou@magma.jp Tel 0997-53-0151 (申込者多数の場合は40名にて参加登録を締め切りますので早めにご連絡ください)

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登録日:2007年 07月 27日 02:06:32

Chica@?

国境の町 エルパソ - 米国

【エルパソ/テキサス州 18日 AFP】3月に行われたメキシコ法務局機関の調査の結果、メキシコ側国境の町シウダフアレス(Ciudad Juarez)は、一人当たりの暴力件数が最も多い都市であるとされている。写真は15日、メキシコとの国境の町テキサス(Texas)州エルパソ(El Paso)通りを歩き買い物をする人々。エルパソには、国境を越えて電気製品や衣類などの数百の店舗が建ち並んでいる。(c)AFP/HECTOR MATA

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木曜日、鎌倉の鶴岡八幡宮で開運厄除けのお祓いをしてもらった。季節はずれのせいか、客(?)は私たち二人きりだった。いままで何度も歩いている小町通りはがらがらで、すべての店をゆっくり見ることができた。帰りは江ノ電で七里ヶ浜まで。そこから海沿いに江ノ島まで歩く。いつもは右斜め前に見える江ノ島を左斜め前から見る。空と海がもっとも美しい時間。ふたたび江ノ電に乗り込む前に、駅前の「備屋珈琲店」でビーフシチュー。2000円以上もするシチューは「何か」が違う。もしかしたら、こちらの「気分」が違うだけかもしれない。鎌倉も江ノ島もすべてが不思議に落ちついていた。世間さまが夏休みに入る前の静かで充実した午後を送れてよかった。

金曜日、大学で試験。試験の日は話ができないのでつまらない。辻堂のタリーズが閉店したのもショック。前期の内容は、抽象的な思考に終始した。高校まで、知識を仕入れることが勉強だと教えられてきた学生たちにとっては、とまどうことも多かったのではないだろうか。この時代、欲しい本をそれほど待たずに手もとに置くことができ、ちょっとした知識ならネットで居ながらにして手に入れられる。そういう時代にこそ、思考訓練は重要だ。かつて、本や知識がこちらに訪れるのを「待つ」あいだに人は自然と「考える時間」を持つことができた。映画が上映される前のあの何とも言えない濃密な時間のように。こちらの脳みそを柔軟にしておいた上で、知識を摂取しても遅くはない。お堅い頭に入ってくる知識は限られているから。後半は一転して、素材と知識のオンパレードです!

土曜日。ラテンアメリカ交流グループでお話をさせていただいた。ラティーノやチカーノに関するさわりの部分と、個人史を少々。若い方々もたくさん来てくれてよかった。というのも、チカーノ研究のもっともおもしろくて複雑な部分(反近代的で理解しがたい部分)に触れることなしに、既存のパラダイムのなかに情報を当てはめていくような「お勉強」に時間を費やすのはムダだからだ。勉強すればするだけ対象から遠のいていき、勉強のための勉強になってしまう。そして、初々しい感覚はなくなり、無意味な競争意識だけが残る。とはいえ、同じような関心を共有する者同士の居心地の良さをこれほど感じたことはなく、私を呼んでくれた後藤さんと寺本さんにはあらためて感謝したい。直接、話ができなかった人たちとは次の機会に。どれだけネットが発達しても、人と人が会うことの意味は減殺しない。私の話に触れて「なんだか、おもしろそうだ」と感じてくれた人が一人でもいてくれたらいいのだが。

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登録日:2007年 07月 22日 14:17:49

ボーダー文化論

<米移民規制法案>「クリスマスを家族とともに」、国外退去命一時停止を求めデモ - 米国

【ワシントンD.C./米国 22日 AFP】不法移民の家族らが21日、国外退去命令施行の一時的停止を求めてホワイトハウス(White House)前でデモを行った。国外退去命令が施行されると、米国籍を持つ子どもたちと、不法移民である両親がクリスマス前に引き離されることになる。写真は同日、子どもたちと共にデモに参加する不法移民ら。(c)AFP/Mandel NGAN


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去年あるところで越川芳明さんの講義を拝聴することができ、そのすぐあとにメールで「年末に新刊が出るから送ります」というありがたいお言葉をいただいたのだが、お忙しいなか忘れてしまわれたようで(こちらも忘れてしまい)、いまごろになって『トウガラシのちいさな旅:ボーダー文化論』(白水社)を手に入れて読んだ。

装丁と色彩が美しいのもあり、まずモノとして大変気持ちのいい本である。重要な参考文献や多彩な写真資料、読みやすい文体に乗せられた高度な内容。これから何度もページめくるような気がする。第三章の「タンジール:ポール・ボウルズと異世界への旅」以外は、米墨国境、ラテンアメリカ、オキナワ、と私のツボであった。

私が20年以上前に何の知識も目的もなくうろうろしていた地域(米墨国境地帯やメキシコなど)を、越川さんは十分な知識を吸収してから精力的に歩き回っている。なんだかうらやましい。私の場合は、あとになって「あのときのアレが<グアダルーペの聖母>かあ〜」と頭の中で反芻しながら、文字を通して意義を確かめるのに対して、越川さんは重武装した知識人として現地調査に出かけ「意味」を素早く見いだしている。効率的である。

おそらく、この本を読んで、日本で一番勉強になっているのは私ではないだろうか。

いまから10年近く前、まだほとんど誰も「崎山多美」について書いていないころ、私は沖縄旅行中に見つけた彼女の小説にいたく感激して、戻ってから早速論文に仕上げて、名古屋大学の研究論文集に載せてもらったことがある。それを、越川さんは、彼女自身に聞きたいことを自由にインタビューしているのである。うらやましい。

まあ、それでも、まるで新旧の道が交錯する「ルート66」のように、行き当たりばったりのでこぼこ砂利道オールド・ロードと、越川さんの進まれたぴかぴかでまっすぐのフリーウェイがときに併走しながら同じ方向を向いていることを確認できるのは嬉しいことである。

巻末の「私家版:ボーダー文化論入門書50」は「越川芳明を知るための50冊」と捉えることもできる。これまた、大変勉強になった。いつになったらこの境地に到達できるのか・・。

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登録日:2007年 07月 16日 01:17:12

Ramona

準決勝進出に沸くメキシコサポーター

【7月9日 AFP】サッカー、コパ・アメリカ2007(Copa America 2007)・準々決勝、メキシコvsパラグアイ。メキシコはパラグアイを6-0で降し準決勝進出を果たし、メキシコ市(Mexico City)ではサポーターが勝利に歓喜した。(c)AFP

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 以前、カリフォルニアのチカーノについての文章を載せ、その中でヘレン・ハント・ジャクソンの『ラモーナ』について触れた(下にその部分を再録)。

 主人公のラモーナはフィクションとはいえ、カリフォルニアにおける最初のインディアンとヨーロッパ人のあいだの混血だった。そう言い切っても構わないほどに、当時の人びとに絶大なる影響を与えたのである。

 その『ラモーナ』がこのたび松柏社から邦訳された。解説の亀井俊介さんは、20世紀間近のアメリカにおいてもっとも読まれた小説ベスト3は『ベン・ハー』『小公子』そしてこの『ラモーナ』であると紹介している。

 いまでも、もっと読まれていい作品であることがわかるだろう。とくに、メキシコ系アメリカ人を研究している人にとっては避けて通ることができない小説である。

 これを機会に、もう一度日本語で読んでみたいと思う。もしかしたら『ラモーナ』だけで論文が書けるかもしれない。



 

共同性に属しているという感覚は、一部の人のみが参加できる「文章」を介してというよりも、おもに日常の暮らしのなかで共有される「何か」を媒介にしている。その一つは日々の生活を包み込んでいる「風景」であろう。風景に対する新たな認識の獲得は、新たな「言葉」を手に入れることによって人びとに共有されるようになる。ゴールドラッシュの影響をあまり受けなかった南部のアルタカリフォルニアで、ヘレン・ハント=ジャクソンがヒスパニック文化が色濃く残る風景のなかで書き上げた『ラモーナ』(1884年)は、そこに住んでいる人びとの風景の見方を劇的に変えるきっかけとなった作品である 。インディアンとスコットランド人のハーフのラモーナが自分に流れているインディアンの血に目覚めながら、さまざまな恋愛や生と死、そして、新しい住人であるアメリカ人との相克に巻き込まれる。その過程のなかで、ヒスパニック文化の風景は言葉に変換され物語となり人びとに共有可能なものとなった。作者はこの作品を出版した10ヶ月後に胃癌で亡くなったが、初版で一万五千部を刷り、いまでも版を変えて何度も出版されている。早くも1887年にはホセ・マルティがスペイン語へと翻訳し、序文も彼自身がつけている。そこでマルティは、アメリカ帝国主義に侵略されたメキシコに思いを致し、この小説をラテンアメリカに住む者すべてにとっての「私たちの小説」とまで言って評価している 。

 グランド・ツアーの時代に入りつつあった当時の人びとは、ラモーナが生まれた場所や結婚した場所を現実の土地のなかに探すことによって、物語のなかの風景と現実の風景を結びつけ、目の前の風景の意味を解釈したのである。それどころか、ラモーナ・ルボという実在の女性まで見つけ出すほどに、フィクションとリアルは激しく交差したのだった。カリフォルニアにおけるヒスパニックおよびチカーノの風景がその後どのように変わろうとも『ラモーナ』が残した影響力に私たちを規定され続けるだろう。物語の力は雑然とした風景を故郷としての共同性を連想させる景観に作り替え、その上に私たちは新たな記憶を乗せていくからである。その始原の物語からもはや人は自由になることは難しい。ただ、始原は遠い昔と変わらない姿で存在しているのではなく「いま」この風景のなかにちりばめられ併存している。

 人は新しく移り住んだ土地に名前を付すことによってその土地を自分のものにしようとするが、そこに物語という網をかぶせることによって愛着さえ感ずることができるようになる。カリフォルニア南部を自らの「故郷」と捉えるきっかけとなったラモーナを、人びとは実在する女性と捉えたうえでゆかりのある各地を訪れ、小説の舞台となった土地に実在の風景を当てはめたのだった。目の前にある複雑で多様な現実をそのまま把握することができなくても、人は物語を通して風景に意味を持たせることができるのである。南カリフォルニアのヒスパニックの文化を描写した『ラモーナ』は、風景の面からカリフォルニアを国境線のくびきから解放しているという意味において、バハルタカリフォルニアの小説の嚆矢と位置づけられるだろう。つまり、チカーノが帰るべき場所としての文化的な風土をこの作品は確立したのである。

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登録日:2007年 07月 13日 23:46:00

最近読んだ本

メキシコの大富豪、ビル・ゲイツ抜き世界一に

【7月4日 AFP】金融情報Sentido Comunのウェブサイトが2日に報じたところによると、メキシコ通信産業界の大富豪カルロス・スリム(Carlos Slim)氏の資産が678億ドル(約8兆3000億円)となり、米マイクロソフト(Microsoft)のビル・ゲイツ(Bill Gates)会長を抜いて世界一になったことが明らかになった。(c)AFP

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日本語で出版されているヒスパニック/ラティーノ本はごくごく限られているので、村田勝幸さんが今回出された新刊『<アメリカ人>の境界とラティーノ・エスニシティ』は非常に意義がある。これから「この道」を目指す研究者にとっては必読本となるだろう。参考文献もとても充実している。読みながら何度も、著者の情報収集能力に驚かされた。しかし、もとは研究論文集(博士論文)であるからラティーノ初心者には向かないのもたしか。この本へ行くまでの橋渡しとなる書物がほしいが、そんな本を日本で出す余裕はないだろう。この国ではラティーノは流行らないのである。その理由はここでは述べない。また、村田さんと私の問題意識はかなり重なっているのに、ここまでキレイに「向いている方向が違う」のもおもしろいと思った。村田さんのこの本は整然とした「教科書」で、私の書くものは妄想爆発の「読み物」なのだろう。いずれにしても、社会学的な側面からの日本におけるラティーノ研究の成果としてお薦めしたい。この本の出版によって、ラティーノをテーマにした、さまざまな著者による論文集を作るくらいの気運が高まることを希望する。

内田樹『街場の中国論』を電車のなかで読了。内田さんのエッセイ本は電車読書に向いている。内田さんの「思いつき」が満載なので、いつでもどこでも止められるからである。しかし、一定のレベルは維持されつつも読み物としておもしろいのはいつものこと。ほぼすべてのページに傍線を引いてしまった。あとがきにある「素人の気楽さ」というのはかなりの謙遜で、中国の専門家は見習った方がよろしいのではなかろうか。一般的に、研究者は、中国バカ、アメリカバカ、メキシコバカ、チカーノバカのような専門バカに陥り、そうでもなければ「学術論文」など書けないのだろうが、それらの成果を専門ではない人びとにわかりやすく解説する義務もあるだろう。彼らが「〜バカ」になってしまう原因は大学機関のもつ蛸壺的な構造上の問題にあるとともに、研究者自身がそこから一歩出て、自らの立ち位置を相対化する努力を怠っているからではないか。というよりも、そもそも、テーマや地域に対する関心や興味がその内部で完結することなどあり得ないのであって、いまだ可視化されていない補助線や、星座を浮上させる線分はいたるところに隠れていることに気づくべきだ。

萱野稔人『国家とはなにか』を読み終わったが、すぐに2回目に突入。文体といい、参考文献のあげ方といい、専門書ではなく一般書。もちろん、こうやってわかりやすく書く方が難しいのは言うまでもない。チカーノ研究者は「チカーノバカ」にならずに、こういった理論書も併読した方がいいと思う。私が読了した本の余白には、たとえば「チカーノの成立はアメリカ国家の成立と裏返しである」とか「暴力のあり方をフロンティアの前線の状況で説明すること」とか「チカーノの歴史をアメリカ史のなかの暴力の歴史として捉え直す」とか「(シュミットの)ラウムをアストランとからめて!」などと書かれている。いまとなってはよくわからん。再読します。

吉本隆明『自著を語る』をさらっと読了。これを読んで彼の思想がわかるわけではないが、すでに慣れ親しんでいる人が読むととてもおもしろいと思われる。聞き手の渋谷陽一さんが専門家ではないところがいい(しかし、とても読み込んでいる)。だいたい、吉本さん自身が専門家ではなく「文芸評論家」だから、彼の文章には人を引きつける魅力がある。学術論文と文芸評論の違いは「人生に生きる意味を与えてくれるか否か」だ。本当の知識人は永遠の素人でなければならない。この本には続編があって、それは『SIGHT』に連載中である。阪神ファンでネコマニアで軍国少年だった吉本さん、長生きしてもらいたいものである。

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登録日:2007年 07月 10日 02:42:29

幻影の翼

ジェシカ・アルバ、映画『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』の記者会見&メキシコ・プレミアに登場

【6月22日 AFP】メキシコ市で21日、映画『ファンタスティック・フォー:銀河の危機(Fantastic Four:Rise of the Silver Surf)』の記者会見及びプレミア上映会が開かれた。会場には、出演女優のジェシカ・アルバ(Jessica Alba)と俳優ヨアン・グリフィズ(Ioan Gruffudd)が姿をみせた。(c)AFP

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こうしてネット上で本名と連絡先を無防備に公開していると、たまに「知らない人」や「忘れかけていた人(すいません)」からメールをいただくことがある。勝手に推測するに「有名人」はこのようなメールが毎日のように各方面から届くのだろう。そして、急に守銭奴のような親戚が増えたりするのだろう。私は有名人ではないのでたまにしかもらわないこともあり、いかなるメールも大歓迎である。大歓迎しつつも、人と人との出会いがこのような「便利なツール」によってどのように変化し、人びとの意識をどのように変化させているのだろうか、とよく思う。

律儀な郵便屋さんが運んでくれた紙媒体のラブレターから、メールでの即物的なラブレターへの怒濤の変遷のなかに身を置いてきた世代として。そして、屋内でのDVDによる無機質な鑑賞を味気ないと痛感するだけの体験を、名画座(私にとっては三鷹オスカーや下高井戸シネマ)での「匂い」と「待つという行為」のなかに見いだしてきた世代としても。さらに、たとえば、キングクリムゾンの「CD」を眺めつつ「ジャケ買いの意味は明らかに変わった」と嘆息する世代としても、そうである。

少し前に『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』についてちらっと触れたときに、出版元の春風社の編集者の方からメールをいただいた。大変ありがたいことである。春風社の本はどれもデザイン(内容は言うまでもなく)がすばらしいのでみなさん是非、本屋さんで手に取ってみてください。大いに宣伝しておく。いつか日か私の本も出していただきたい。編集者さんにメールをいただいたのと同時期に、『小林秀雄〜』の著者の「中村昇」氏の名前を見た私の友人が「彼は大学院のときの先輩です」とメールをくれた。世界は狭い。

講談社の『本』にその中村さんが文章を寄せているのを、たまたまうちのトイレで発見した。南方熊楠やベルクソンへの関心については「なるほど」と思っただけだったけれども「中学のときに禅僧の語録を読み込んだ」とあったときは少し立ち上がってしまった。私は小さいころからお坊さんになることを夢見ていて、うちが臨済宗だったこともあり「禅」に関してはかなり勉強したからである。中村さんはそのエッセイの後半で「西洋と東洋」や「分析と直感」のような「二重性」をどちらも受け止めてくれる哲学者として「ホワイトヘッド」をあげている。いま私は、彼の新刊『ホワイトヘッド』を読んでいるところで、編集者の方や友人がメールをくれなかったら、もしかしたらホワイトヘッドまではたどり着けなかったかもしれない。感謝。

中村氏と同じような関心をもってきた私なのに「二重性」という意識はまるでない。まったく、自己省察することなく、本能の赴くままに生きてきた40数年間。はたして、世界中の血を引き受けているラティーノに東洋や西洋の意識はあるのだろうか。直感と分析? 今福氏の師である山口昌男が築いてきた学問は道なき道を行く「直感」の連続だったかもしれないが、その直感は膨大な「知識」と「分析」に裏打ちされた直感であった。予定調和を乱す直感の破天荒さがなければ新しい学問など生まれない。それを体現できるのは「人間」という媒体だけだろう。世界は狭いが、知るべきことは山ほどある。

追伸:今日は、20数年前に塾で教えていた生徒からメールをもらった。この「便利なツール」がなければ、死ぬまですれ違うこともなかったはずだ。いずれ彼女とはお会いするだろうけれども、過去を片っ端から忘却の彼方へと追いやり、記憶を自分の都合のいいように改竄してしまう私の「歴史」は、いったいどのように再構築されてしまうのだろう。なんだかコワイ。「20数年前の<私>は他人だ」と言い切れるほど、頭でっかちの私ではない。

追伸パート2:『本の雑誌』の7月号で、ラテンアメリカ全域が舞台となっている話題のブライアン・グロジョーニ『幻影の翼』の「訳者あとがき」が掲載されている。表題の「幻影の翼」はケツァルコアトル(翼ある蛇)の翼を指しているらしい。本屋で立ち読みする価値あり、である。

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登録日:2007年 07月 04日 01:54:21