2007年 10月
異種格闘技戦
【10月11日 AFP】ボクシング、WBCフライ級タイトルマッチ12回戦。
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(c)AFP
私がメキシコを好きになったのは音楽でも文学でも料理を通してでもない。風土でもない。煙草をくゆらせながら「オアハカのあの独特な雰囲気にやられました・・」などとつぶやいても、それらはすべて「かっこつけ」のあとづけで、ただメキシカンボクサーが好きだったからである。「ボクシングをわからずしてはたしてメキシコを理解できるのだろうか?」。
10年前まではWBCとWBAのランキングはだいたい暗記していた。これまでタイとメキシコにだけなぜか突出して訪れているのはその両国がボクシング大国だからで、それ以外の理由は見あたらない。この10年のあいだ断続的にネット上に文章を書いてきたなかで(カフェクレオールやTLOや「はてな」やmixi)、「なぜチカーノにたどり着いたのか」はいつもボクシングとからめて説明してきた。私にとってボクシングは特別な存在なのである。
先日の「ラテンアメリカ交流グループ」でのお話しでの「祖母が日系アメリカ人だったからチカーノに近づけた」はやはり「あとづけ」で、もちろん、彼女がいなければこれだけたびたびロサンゼルスや国境地帯を訪れることはできなかっただろうが、第一の理由ではない。人はこうやって過去をその時の気分で都合のいいように捏造していくのである。
そもそも「体験した事実」や「人間の感情」は「言葉」に比べたら複雑すぎて、何を言ってもウソのように感じる。さらに、人は言葉に対して直接反応するので言葉を必要以上に過剰に使いがちである。言葉を覚えたての子どもが平気でシモネタを連発して大人を驚かせて喜ぶように。
だから、発言はその場の「空気」によっていかようにも変化し、逆に言えば、周囲を包む空気はその人の生き方さえ変える。空気がわからない者なら「負けたら切腹」と無責任に言うこともできるだろう。そして、彼は負けても切腹をしなかった代わりに、社会と自分との間に亀裂を作ってしまった。
高橋ジョージが国歌を斉唱し解説が佐藤修という学会員だらけのショーを私も見ることができた。正直、楽しませてもらった。「ヒールがいるとショーは盛り上がるなあ」と思った。もちろん、そのおもしろさはボクシングのおもしろさとは関係ない。内藤にはその覚悟があったと思うが、あれは通常のボクシングの試合ではない。亀田関係でこれまでボクシングの試合はなかったはずだ(ほとんど見ていない)。
内藤はボクシング以上の仕事をしなければならず、敵は亀田次男だけではなかった。金銭至上主義者らとの異種格闘技戦? ボクシングのおもしろさを微塵も理解しない者たちとの戦い。一方で、大衆は次から次へと関心を移してゆく。そのあとにボクシングは取り残される。もしかしたら、ボクシングが醸し出してきた熱狂も、じつは「昭和」が生んだ幻想だったのかもしれない。
今夜はアレクシス・アルゲリョのビデオでも見ることにしよう。
ニカラグア人だけど、まあいいか。
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登録日:2007年 10月 14日 03:28:15
チカーノ詩礼賛
メキシコの伝統祭り「死者の日」、ハリウッドで一足先に祝われる - 米国
【ロサンゼルス/米国 30日 AFP】メキシコの伝統祭り「死者の日(Dia de los Muertos)」が28日、ハリウッド・フォーエバー墓地(Hollywood Forever Cemetery)で、地元のメキシコ系住民によって祝われた。家族、親戚、友人らが一堂に集まるこの日、人々は死者を迎え入れて、共に歌や踊りや食事を楽しむ。本国メキシコでは11月1日~2日が「死者の日」にあたり、全土が祝日となって各地で盛大なイベントが行われる。(c)AFP Gabriel BOUYS
越川・ロベルト・芳明さんの新刊『ギターを抱いた渡り鳥:チカーノ詩礼賛』(思潮社)は、またまた愛らしくも美しい装幀でひときわ目を引く(装画は前作と同様、沢田としきさん)。『トウガラシのちいさな旅』の続編という位置づけであることがわかる。しかし、どちらも凝ったタイトルだなあ。
装幀のあまりの美しさに気がつくとふらふらっとレジへ。そして、帰りの電車のなかでパラパラっと斜め読みをする。私の書いた「ボーダーを溶解するチカーノという生き方」(『現代詩手帖』)が参考文献に入っているのを見てびっくり。名古屋での学会の帰り道、越川さんが「あれはよかったね」とおっしゃってくれたことを思い出した。
しかしすでにあれから2年。あの文章から私はもうかなり遠くまで来てしまっている。基本的に私は「哲学」が好きなのだなあ、と思うようになった。最近バリバリ書いている論文も越川センセにお送りしようか。
家に着いてからもパラパラ。チカーノについて興味のある方は必読の文献であると確信した。みなさん是非買いましょう。英語がある程度読める人なら基本的な知識は入手可能であるにしても、こうやって基礎知識をまとめてもらった上に、こなれた日本語でチカーノ詩を訳していただくのはとてもありがたい。さすが著名な「翻訳家」である。
越川さんのような勤勉さは、チカーノを「研究」している人には欠けている場合が多く、そもそもチカーノの作家や大学教授が驚くほどの快楽主義者なので、こちらもそうなってしまうのであろう。この本の全編を彩るトラベローグやロードノヴェルを拝読しても「越川さんって真面目な人なんだなあ」と感心してしまう。
彼のようにちゃんと働いてちゃんとまとめてくれるような稀有な人材は、日本のチカーノ研究には必要なのだとあらためて感謝してしまった。この本を読んだ若者から、また新た人材が生まれる予感。『荒野のロマネスク』のパレーデスの章を読んでチカーノ研究を始めた私や、アルゲダスの章を読んでペルー研究へと進んだ後藤さんのように。
しかしもっとも印象的だったのは、米墨国境地帯を十分に楽しんでいる描写から、越川さんのあの笑顔がページから立ち上がってくることだった。そう「ボーダーランズは楽しい!」のである。私は20代前半の若者にこそこういう旅をしてもらいたいと思う。しかも、もっとハチャメチャに。もっとアウトローに。もっと暴力的でエロティックに。
その際に、最初から著者のようにオールマイティにやろうとするのではなく<自分の好きな入り口>から入るのがいい。「音楽(映画・詩・小説・庶民の生活・政治・経済・・)がわからないとチカーノはわからない」のようなことを私も何度か言われたことがあるが、そんな人の意見は気にしてはいけない。私を含めた大半の人間は、自分の趣味を正当化するために人に「見せかけの正論」を押しつけてしまうものだから。
さて、最後に。「どうして<女性>詩人ばかりにこだわるの?」というテレサの質問はもっともである。私自身は「性」にこだわることの窮屈さを少々感じてしまった。あるのはただ「いい作品」と「悪い作品」だけではないだろうか。性にこだわることによって性は解放されなくなってしまうものである。
ただ、ラティーナ(女)が好きだからラティーノ研究をしている人を私は何人も上げることができる。それは悪いことではない。悪いことではないどころか「正統派」であると申し上げてもいいくらいである。
今月の玉三郎(男)は粋で色っぽくてすばらしいです!
今日の大学の授業は「rage against the machine」を取り上げました!
来年早々来日します!!
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登録日:2007年 10月 06日 02:55:30
ポストモダンを越えて
【6月29日 AFP】「人類による土地開発で、もはや地球上には未開の地はほとんど残っていない」とする米自然保護団体Nature Conservancyの研究結果が、米科学雑誌「サイエンス(Science)」に発表された。
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『文学界』(10月号)に掲載されていた田中和生の「ポストモダンを越えて:高橋源一郎氏に答える」を読んだ。私よりも10歳も若い田中氏が、2年前に出版した処女作『あの戦場を越えて』を、とてもおもしろく読んだ記憶があったからである(いま、本棚の奥から引っ張り出してみたら、やはり無数の傍線が引いてある)。
その本は、チカーノ文学の読解においても、とても参考になった。たとえば、作品の「舞台」と「固有名詞」を変えただけでエキゾチックな気分に浸っている人たちに対して「それは違うだろう!」と思っていた私を元気づけてくれたのである。
つまり、チカーノ文学とは、ローライダーやニューメキシコやホセが出てくればいいわけではなくて、むしろそのようなチカーノを表現する「記号」がなくても、チカーノ的な状況を浮き上がらせなければならない。エキゾチックに惑溺するだけではダメなのである。とはいえ、エキゾチックに感応する感性がなければ何も始まらないが。
さて、その著書でも「ポストモダン」と「高橋源一郎」はキーワードだった。高橋源一郎の小説を読んだことのなかった私は「この人は読まなければいけない作家なのか・・」と思い知らされたことをよく覚えている(が、いまだに読んでない)。
蛇足だがつけ加えておくと「若くして」という発想は私にはない。10代でピークを迎えるボクサーがいれば、30代で全盛期を迎えるボクサーがいるように、年齢を重ねて習熟する面と喪失する面が、ある。「書く」という行為においてもあると思う。
田中さんという人は「お若いのに」妙に器用な人で、(いやらしいくらいに)幅広く文献に目を通し(いやらしいくらいに)それらを咀嚼していることに驚嘆させられる。きっと読んだテクストは端から、頭のなかのきらびやかなマップに次々とバシッと布置されていくのだろう。
ただ、過剰に「器用」なところがあって、評論を読むというよりも「評論分野の芸術作品」を読んでいるような気分にさせられる。もちろんこれはほめ言葉で、内容よりも読むこと自体が楽しいなどという評論家はそれほど多くない(いや、ほとんどいない)。小説家なら「原りょう」みたいなものである
今回読ませてもらった文章も「あこがれの高橋源一郎」と戯れることができた喜びで、「論争」というよりも田中節全開の「器用さ」が前面に出ていて気持ちがよかった。これはもう一種の「芸」である。
ここまで書いてからちょっと気になったので、田中氏が『三田文学』の新人賞をとったときの選考座談会(荻野アンナ、室井光弘、巽孝之、武藤康史)を覗いてみた(これは押し入れの奥にあった)。いまから7年前の『三田文学』。ちなみに受賞作のタイトルは「欠落を生きる:江藤淳論」。
そこで荻野アンナがやはり彼の「器用さ」についてすでに述べていた。「この人は、自分のうまさをいかにして抑制していくかというところも今後の課題かなと思います・・スラッときまるはずの一行がまとまらずに苦しんで何十枚も書くというふうな苦しみ方を今後されると、さらに伸びていかれるだろうなと思います」。
もちろん、これだけ最初から完成度が高いものを読まされたら、このくらいのことしか言うことは残ってないんだろうけど。
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登録日:2007年 10月 05日 02:06:34
ミャンマーと暴力
ミャンマー反軍政デモで死亡の長井さん、 紛争地帯の取材に情熱
【9月28日 AFP】(9月30日写真追加)大規模な反軍事政権デモが続くミャンマーで27日に銃撃され死亡した日本人ジャーナリスト、長井健司(Kenji Nagai)さん(50)は、これまでにもイラクやアフガニスタンなど、世界各地の紛争地帯で取材に情熱を傾けてきた。
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(c)AFP
早大探検部出身の高野秀行さんによる『ミャンマーの柳生一族』を読んだ。同じく探検部出身の船戸与一御大との爆笑紀行。おもしろい上にとんでもなく勉強になるところがすごい。スー・チーさんの国内での立場なども含めて、ミャンマー情報を知りたい人には最適だと思う。高野氏曰く。「私はミャンマーに二年に一回くらいの割合で行っているが、最後に合法入国したのは1994年、それ以降はすべて非合法である」。こういう人の書く本がつまらないわけがない。しかし、それを可能にしているのはミャンマーがいまなお「江戸時代」だからなのであった。だから「柳生一族」が登場するのである。江戸時代でなければ不法入国は難しい。
この本のなかでとくにおもしろかったのは「政治的には鎖国しているミャンマーの国民は社交的で、外国人とも余裕綽々と会話する能力を持っている」という箇所。しかも、彼らは無償の親切を笑顔で提供してくれるそうである。『逝きし世の面影』の「善意の代価を受けとらぬのは、当時の庶民の倫理だった」と同じである。しかも、外国人に対して臆するところがないというところもよく似ている。やはり、ミャンマーは江戸時代なのであった。さらに「読書大国」で「一人当たりの年間読書量は世界一の可能性すらある」というところも江戸時代である。
自分も米墨国境を舞台に「こういう遊び心のある文章が書きたい!」と思ってしまった。私にもっと才能と金と時間と勇気と愛と下心があれば・・・(かなりのものが欠如してるなあ)。しかし、アメリカとメキシコは江戸時代を生きてはいないから不法入国は難しい。米墨国境を南から北に強行突破して(北から南はあっけないくらい素通り)「黒人」のボーダーパトロールにすごい顔でつかまった私が言うのだから間違いない(その後、恥ずかしながら菊の御紋のパスポートをそそくさと提示)。近代国家で「不法入国」は至難の業なのである。
その江戸時代のミャンマー。棒をもった兵隊が民衆を追い立てるテレビの映像を見ながら「国家は暴力装置である(最近の知識人のクリシェ)とはこういうことか」と変に納得してしまった。官憲による痛みをもって「国家の暴力」を知るわけであるなあ。もはや身をもって国家の暴力を知る機会など日本では滅多にない。国内では、相撲部屋や私立高校が暴力装置で、メディアは横綱や首相をいじめることもできる最大の暴力装置。言うまでもなく、これらの陰湿な「暴力」(「かわいがり」や「いじめ」という名の暴力)がミャンマーの「暴力」よりもお上品であるとはけっして言えない。相撲部屋や学校はミニ国家で、そこはある意味、ミャンマーよりも無秩序な暴力が横行している。国家の暴力がいかに横暴であると言っても、親方やいじめっ子の気ままな独裁ぶりにはかなうまい。そして、メディアは「お金」にしか興味がないので、お金が動きそうなところへしか取材に行かず、お金で解決する(儲かる)ならば不祥事もあえて表沙汰にしない。さらには、農閑期のように金になる話題がない季節には、自ら話題を作りだして売り上げを伸ばす。
問題は私たち国民の関心次第であることがわかる。もっとも重要なのは、権力と国家を監視すること。だが「国家の基盤となっているのは、暴力を背景にして他者を服従させながら富を徴収するという運動」(萱野稔人『国家とは何か』)であるからには、国家とはいわゆる国民国家のことではない。「暴力装置」を駆動させる「運動」それ自体を指す。私たちは執拗に、国家暴力の出先機関も監視しなければならない。話がどんどん大きくなってしまったが、ミャンマーの剥き出しの暴力を目の当たりにして「軍事政権をどうにかしろ」レベルの感想しか持たないのでは、亡くなった長井健司さんも浮かばれないだろう。いつでも言えるのは、絶対的に優れている国家体制など存在しないのだから、私たちはつねに暴力を監視する必要がある、ということだ。
私の周りにいる若者の外国への関心が薄れていくのを日々感じるなかで、高度な教養と驚異的な行動力をバランスよく兼ね備えていた長井さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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登録日:2007年 10月 02日 00:34:11
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