2007年 10月 14日
異種格闘技戦
【10月11日 AFP】ボクシング、WBCフライ級タイトルマッチ12回戦。
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(c)AFP
私がメキシコを好きになったのは音楽でも文学でも料理を通してでもない。風土でもない。煙草をくゆらせながら「オアハカのあの独特な雰囲気にやられました・・」などとつぶやいても、それらはすべて「かっこつけ」のあとづけで、ただメキシカンボクサーが好きだったからである。「ボクシングをわからずしてはたしてメキシコを理解できるのだろうか?」。
10年前まではWBCとWBAのランキングはだいたい暗記していた。これまでタイとメキシコにだけなぜか突出して訪れているのはその両国がボクシング大国だからで、それ以外の理由は見あたらない。この10年のあいだ断続的にネット上に文章を書いてきたなかで(カフェクレオールやTLOや「はてな」やmixi)、「なぜチカーノにたどり着いたのか」はいつもボクシングとからめて説明してきた。私にとってボクシングは特別な存在なのである。
先日の「ラテンアメリカ交流グループ」でのお話しでの「祖母が日系アメリカ人だったからチカーノに近づけた」はやはり「あとづけ」で、もちろん、彼女がいなければこれだけたびたびロサンゼルスや国境地帯を訪れることはできなかっただろうが、第一の理由ではない。人はこうやって過去をその時の気分で都合のいいように捏造していくのである。
そもそも「体験した事実」や「人間の感情」は「言葉」に比べたら複雑すぎて、何を言ってもウソのように感じる。さらに、人は言葉に対して直接反応するので言葉を必要以上に過剰に使いがちである。言葉を覚えたての子どもが平気でシモネタを連発して大人を驚かせて喜ぶように。
だから、発言はその場の「空気」によっていかようにも変化し、逆に言えば、周囲を包む空気はその人の生き方さえ変える。空気がわからない者なら「負けたら切腹」と無責任に言うこともできるだろう。そして、彼は負けても切腹をしなかった代わりに、社会と自分との間に亀裂を作ってしまった。
高橋ジョージが国歌を斉唱し解説が佐藤修という学会員だらけのショーを私も見ることができた。正直、楽しませてもらった。「ヒールがいるとショーは盛り上がるなあ」と思った。もちろん、そのおもしろさはボクシングのおもしろさとは関係ない。内藤にはその覚悟があったと思うが、あれは通常のボクシングの試合ではない。亀田関係でこれまでボクシングの試合はなかったはずだ(ほとんど見ていない)。
内藤はボクシング以上の仕事をしなければならず、敵は亀田次男だけではなかった。金銭至上主義者らとの異種格闘技戦? ボクシングのおもしろさを微塵も理解しない者たちとの戦い。一方で、大衆は次から次へと関心を移してゆく。そのあとにボクシングは取り残される。もしかしたら、ボクシングが醸し出してきた熱狂も、じつは「昭和」が生んだ幻想だったのかもしれない。
今夜はアレクシス・アルゲリョのビデオでも見ることにしよう。
ニカラグア人だけど、まあいいか。
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登録日:2007年 10月 14日 03:28:15
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