民俗学とチカーノ

<第79回アカデミー賞>授賞式直前、助演女優賞ノミネートリスト - 米国

【カリフォルニア/米国 23日 AFP】25日(日本時間では26日)に行われる第79回アカデミー賞の助演女優賞(best supporting actress)ノミネートリストは以下の通り。
≫続きを読む…
(c)AFP

AFPBB News


昨日は高円寺で切通さんらと柳田国男の読書会。私が発表を担当させていただいた『山の人生』の10-12は「柳田山人論の到達点」(内田隆三)を凝縮したような部分で大変に勉強になった。

実証主義と神秘主義のあいだに横たわっている広大な荒野を旅した一人としての柳田国男の思想はここに比較的わかりやすく示されていると言ってもいい。私がチカーノについて学びながら「偽史としての民俗学」(大塚英志)に引かれてしまう理由もここに示されている。

と同時に、チカーノやメキシコを研究する際に陥りがちな隘路についても私は教えられる。「彼らを理解することなど本当にできるのだろうか?」と気づかせてくれるのである。つまり、近代化を進めることは、実証主義と神秘主義のはざまを架橋不可能な深淵へと変える側面があったからである。

柳田は真摯な筆致で明治の残滓を書きとめた。それらの文章は、私たち自身を知るための契機を与えてくれるとともに、前近代的な思想を理解するための糸口を提示してくれている。たとえば、天狗小僧寅吉について書かれた10章に続いて、次の章の冒頭で柳田は次のように記す。

「「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、何度となくこれを人に語り、かつ聴く者が毎に少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである.すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである」。

正直に言えば、アストランという想像上の故郷をもつチカーノたちの「実感」を私は共有することができない。それは「凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだ」というような異界のモノガタリへの欲求をいつか手放してしまったからに他ならない。

したがって、おそらく、柳田がここに込めようとした意図の大半を私たちは取り逃がしている。言葉で理解することと体感することはまた別の話である。実証主義と神秘主義のはざまを自在に泳ぐには、その両翼にある思想の偏りを凌駕するような膨大な知識に裏打ちされた相当の知力が求められ、そこで、私たちは柳田のような突出した人物の力を借りるのである。

その代償として彼のきわめて読みにくい「体液のような文体」(吉本隆明)と直面するのであるが、その読みにくさは時代を越えるための読みにくさであるとともに、はざまを旅するための体力をこちらに強いる痛みでもある。

時代を言語化する柳田という稀有なフィルターは、事実の記録かつ筆者の卓抜した思想の遍歴を鉱脈のような文章群のなかに流し込み、驚くべき実直さによって独特の文体を練り上げていった。しかし、その文体は橋を向こう側へと渡るための「訓練」でもある。

橋の向こう側に広がる荒野は、常民と山人が対峙している「あのときの日本」とは限らない。その荒野がサウスウエストの茫漠たる大地と繋がっていないとは誰も言えないのである。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2007年 05月 28日 19:42:26

コメントを追加

Trackback

この記事に対するトラックバックURL: