コリード

ヒスパニック系住民が急増、ハリケーン・カトリーナ後のニューオーリンズ

【6月17日 AFP】2005年8月にハリケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)で大きな被害を受けたニューオーリンズ(New Orleans)で、ヒスパニック系住民が急増している。
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(c)AFP/Russell McCulley

AFPBB News


気がつけば月末。もう一本がノルマなので、気ままに書き始めてみることにする。ノルマや締め切りがないと動かない私。だから、ノルマと締め切りは欠かせない。人生は習慣がすべて。


まずは、コリードに関する「ある本」を読み始めたので、それについて書く。コリードとは、14世紀のスペインで生まれたロマンセという音楽様式が、コンキスタドールによって新大陸にもたらされ、米墨国境地帯で独自に発展したものである。

アングロに抵抗した民衆のヒーローである「グレゴリオ・コルテス」のバラッドに代表されるような共同性の創造や、あるいは情報の共有のためにコリードは利用された。

数年前に、スタンフォード大学のラモン・サルディバルが来日して、チカーノを紹介する講演を行った際に、その説明を「コリード」に全面的に依拠し、実際に何曲かを会場に流したことをいまでもよく覚えている。

「境界線」の存在や、「住民」の特質や、統治する「政府」によって演繹的にある共同体を代弁するのではなく、民衆が自然発生的に創り上げる「歌」を通して「チカーノとは何か」を示そうとしたその方法論に私は驚かされた。

方法論の選択そのものに結論が隠されていたわけである。

共同体の説明を安易に時間(歴史)や空間(地理)のなかへ流し込んでしまうクセを幼いころから学ばされている私たちにとって、歌のなかに共同体を透視する視力はきわめて弱い。

逆に言えば、歌謡曲の変遷を通して「日本人とは何か」というような方法論を採用するほど、私たちにとって口承芸術としての「歌」は大きな比重を占めているわけではない。いつか、領土や国民の境界線は自明のものとして受けとられるようになったからである。

だから、チカーノが何者であるかの定義を国家原理の内部で通用している用語で説明してもあまり意味がない。

去年、ラモンは、コリード研究の先駆者であるアメリコ・パレーデスの評伝を出版した。パレーデスは今福龍太のかつての指導教授であり、私がコリードという言葉にはじめて接したのは今福氏の『荒野のロマネスク』のなかの「アメリコ・パレーデスへの手紙」というエッセイであった。

真面目なサラリーマンだった私をこのような×××な世界に引きずり込んだ罪深い『荒野のロマネスク』・・。

さて、このような、米墨国境地帯のゆかしき伝統芸である「コリード」と、これまた地場産業のような「麻薬密売業者」が結びつき、1990年代に新しいコリード文化が誕生している、という本を読み始めたところである。

コリードに乗せて歌われる人物はどうしてみな、社会的なアウトローなのか。新しい世代の「センスのいい」チカーノ研究者は、怠け者の私の代わりにチカーノ文化のさまざまな側面についてさらに幅広く研究してもらいたい。


ここで、取り上げた本は「はてな」の方で紹介しておきます。

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登録日:2007年 06月 28日 23:37:44

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