なんだか近代日本を見ているような

与党の大統領選候補者に反発、100万人が集結 - トルコ

【イスタンブール/トルコ 29日 AFP】イスタンブール(Istanbul)のチャーラヤン(Caglayan)広場で29日、100万人以上の人々が世俗主義と民主主義を支持する集会を行った。
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(c)AFP/HOCINE ZAOURAR

AFPBB News


【美女たちが震えた石打ちの刑】
イスタンブールで、イスラム系大統領の選出に抗議する数十万人の集会がありましたね(4月29日)。国民の99%がイスラム教徒のトルコで、これだけ多くの人が「政教分離」を叫んで集まるなんて意外でした。
それよりも、その模様をテレビで見ていて、なぜか5年前のナイジェリア暴動を思い出したのが意外でした。
2002年11月、首都アブジャで開かれる予定のミス・ワールド世界大会に反対するイスラム教徒が、大会開催に賛成する新聞社を襲い、それが死者220人にのぼる大惨事に発展した事件です。

暴動の引き金になったのは新聞の論調でしたが、ことの起りはもっと先にさかのぼります。ナイジェリア北部カドゥナのイスラム法廷が、不倫の末に妊娠した女性に「石打ちの刑」を言い渡した。「石打ちの刑」というのは、群衆が受刑者に石をぶつけて殺す刑ですが、この残酷さにミス・ワールドの各国代表たちが怯え、アブジャ大会をボイコットする動きが広がりました。
ナイジェリアのイスラム教徒にしてみれば、異教徒の女どもがビキニ姿で集まってくるなんて、もともと許せない。しかも、女どもは神聖なイスラム法を残酷だといって非難している。ますます許せない、となったのです。
火に油をそそいだのは、地元新聞でした。「ムハンマドが生きていたら、ミス・ワールドに選ばれた美女を妻にしただろう」と、大会賛成の論説を掲載したのです。これで、イスラム教徒たちは完全にキレてしまい、イスラム法廷はこの新聞の編集者を逮捕し、死刑を宣告しました。これがナイジェリア暴動の発端です。

【ミス・ワールドはトルコ女性だった】
アブジャで予定されていた2002年のミス・ワールド世界大会は、けっきょくロンドンに会場を変更して開かれました。
それにしても、ぼくはなんで、イスタンブールの大集会から、2002年の大会を連想したのだろうか。しばらく思い当たるフシがなかったのですが、そうそう、あの大会でミス・ワールドに選ばれたのは、トルコ女性のアズラ・アキンAzra Akinさん(当時21歳)だった、と思い出したのです。
そこで5年前のメモ帳をめくってみたら、トルコの新聞の誇らし気なコメントが、いくつか書き込まれていました。
「トルコ生まれのアズラが世界一の美女」(ハリエット紙)
「アズラは私たちを誇りで満たしてくれた」(ミリエット紙)
「アズラのおかげで、トルコはEU加盟へ一歩踏み出した」(バタン紙)
このメモで見るかぎり、ナイジェリア暴動の際、トルコの人々はイスラム社会の怒りに同調しないで、西欧的気分にひたっていたようです。
「ヨシのズイから天井のぞく」みたいな話ですが、5年前のメモ書きからイスタンブールの大集会をのぞくと、イスラム教徒でありながら、西欧型社会に憧れるトルコ国民の思いが見えるような気がするのです。

【トルコに対するヨーロッパの思い込み】
トルコが正式にEU加盟を申請したのは、1987年です。しかし、経済開発レベルと人権意識の低さを理由に受理されませんでした。
トルコがEUに加盟できない表向きの理由は経済と人権です。でも、ヨーロッパの本音は「トルコはイスラム圏であって、欧州ではない」ということじゃないですか。
オスマントルコの「アルメニア人大虐殺」もそうですが、キリスト教の聖地を強奪したイスラム帝国の野蛮なイメージが、ヨーロッパ人の感情を支配し続けているのかもしれません。
1923年にケマル・アタチュルクがトルコ共和国を建てた。
これがトルコの国是である政教分離の始まりです。
アタチュルクはカリフ制を廃止し、イスラム法を捨ててスイス民法を範とする新しい法体系を国家の基礎に据えた。アラビア文字だったトルコ語をローマ字表記に換えて、非西欧的なイスラム文化を捨てた。
トルコはひたすら西欧型の近代化を進めてきたのです。
イスラム色の強い大統領を拒否する数十万人の大集会には、アタチュルクの遺志を守り続けようとするトルコ・モスレムの心情が表れている。
ぼくはそう思いましたが、欧州から見れば、アナトリア・ナショナリズムの表れにすぎないのかもしれませんね。
ちょうどアジアの日本民族が、いつまでたっても「大日本帝国」の悪のイメージから抜け出せないのと同じ状況が、欧州のキリスト教社会とトルコ民族の間にあるのではないか。だから、トルコ人のおかれている民族的立場が、身につまされて思えるのかもしれません。

【映画「ミッドナイト・エクスプレス」のトルコ】
ぼく自身、かなり長い間、トルコの人権感覚に嫌悪感を抱いていました。その理由は実に単純で、ただ「ミッドナイト・エクスプレス」という映画のせいなんです。
ニクソン政権下のアメリカと中東諸国の関係が険悪になってきた1970年代、イスタンブール空港でハシシ2キロを持っているのを発見されたアメリカ青年が、トルコの刑務所に投獄される話ですが、刑務所の身の毛もよだつ虐待の光景が、今でもトラウマみたいに残っています。
青年はやがて脱獄(ミッドナイト・エクスプレス)に成功し、歓喜に飛び跳ねながらギリシャ領に入っていくのですが、そこで描きだされた抑圧と自由のコントラストは、余りにも鮮烈でした。
ぼくがトルコ系とギリシャ系に分断されたキプロスの問題を考える時、どうしても「自由のギリシャ」「抑圧のトルコ」というステレオタイプにとらわれてしまうのは、きっとそのせいでしょう。
1974年7月、トルコがキプロスに侵攻し、この島はギリシャ系のキプロス共和国とトルコ系の北キプロス・トルコ共和国に分断されました。しかし、国際社会が国家として認めているのは、ギリシャ系の共和国です。
キプロス共和国は、1994年にEU加盟を許されました。でも、許されたのはギリシャ系で、トルコ系の共和国(1983年独立宣言)は、EUの意識に入っていないようです。

【キプロスで悪いのは誰だ】
キプロスで悪いのは、はたして侵攻したトルコだけなんでしょうか?
事実を見ると、必ずしもそうとばかりはいえないようですが。
1878年、イギリスはオスマントルコとの協定で、キプロスを租借します。
オスマントルコが第1次世界大戦に敗れたあと、ローザンヌ条約(1923年)でキプロスはイギリスの植民地になりました。
その後、ギリシャ正教会はキプロスをギリシャに併合する「エノシス」運動を進めます。そしてイギリスは「エノシス」に寛容なのに、トルコ系住民を弾圧しました。
1960年、キプロスはイギリスから独立し、ギリシャ系とトルコ系が共存する共和国になりますが、ギリシャ系住民はトルコ系住民襲撃計画を立てて103の集落を襲い、その結果、3万人のトルコ系住民が難民になったそうです。
1966年6月、ギリシャ系議員だけで構成するキプロス国会が「キプロス全域のギリシャ本国への併合という最終目的を達成するまで、襲撃を続ける」という決議を可決しました。
1974年7月、ニコス・サンプソンというギリシャ人将校が、クーデターでマカリオス大統領を追放し、キプロスの実権を握ります。サンプソン新大統領は、ギリシャ併合を目指してトルコ系住民の虐殺を続けるテロ組織「エオカ」の指導者でした。
トルコはトルコ系住民の安全を保障するため、イギリスとギリシャに協議を呼びかけたが、両国は応じなかった。だから、同胞を守るためキプロスに侵攻した。
というのがトルコの言い分です。
だいたい歴史で、どっちが正しいの悪いのいっても、答えなんか出ませんですよ。
イギリスだって、キプロスで得意の分割統治をしてきた。それがギリシャ系とトルコ系と分裂を深めた一因でしょう。外交の手管は巧みかもしれませんが、悪どさは誉められたものではないですね。

【トルコのアルメニア人虐殺】
2001年1月、フランス国民議会はオスマントルコによるアルメニア人虐殺を「ジェノサイド」とする決議を可決しました。虐殺は1915年4月15日に始まり、1922年まで続いたというのです。
なんで今さらそんな決議をするの? といいたいけれど、そんなことをいったら「日本人は水に流したがる民族だ」と決めつけられそうだから、やめておきます。
でも、そういうフランスだって、アルジェリアでは解放戦線のメンバーをずいぶん拷問していたようですよ。
ぼくは学生のころ、アルジェリア解放戦線の若い女性戦士がフランス軍に拷問された事実を書いた「ジャミラよ、朝は近い」という本を読んだことがあります。あの拷問の凄まじさはショックでしたね。
フランス国民議会のジェノサイド議決には、法的拘束力はないけれど、キプロスでトルコ系住民が虐殺されてきた事実は、これでかすんでしまうでしょうね。そういう効果はありますよ。
トルコ系住民を殺してきたキプロス共和国が、EU加盟を許されたのに、トルコは人権意識の低さを理由に加盟を許されない。不公平じゃないか。トルコ人の立場でいえば、そうなります。

【ヴァンデ戦争はジェノサイドだった】
日本には、フランス革命をありがたがる人がいますが、1793年の春から革命政府が「ヴァンデ」という地方で行った住民殺戮は、ひどいものだったそうですよ。
この年2月、革命政府が発した「30万募兵令」に反対して、ヴァンデ地方の住民が蜂起した。革命軍はこの戦争で一つの共同体の文化と伝統を破壊し、最後にヴァンデ軍の残党を老若男女問わず、8日間にわたって森の中で撃ち殺したり、沼に叩き込んで溺死させた。
その指揮にあたったヴェステルマヌという隊長が、パリの公安委員会に書き送った報告が、また凄い。
「諸君が私に与えてくれた命令に従って、私は彼らをサヴネの沼や森に埋めたばかりだ。私は子供らを馬の蹄で踏み殺した。少なくとも、これ以上に暴徒を二度と出産しないようにと、女たちを虐殺した。私を非難する捕虜はいない。私は皆殺しにした」(長谷川三千子『民主主義とは何なのか』から)
フランスの歴史学者の中には、この戦争を「ジェノサイド」と定義する人がいるそうです。
もちろん、こんなことは、いくらいい募ったところで、なんの意味もないことです。ただ、ぼくは、なんでトルコの人権や虐殺が、こんなふうに問題にされるのか分からないのです。
近代日本も西欧型国家を目指して、しゃにむに頑張ったけれど、白人クラブに入れてもらえなかった。それならいっそアジアの盟主になって、アジアを白人支配から解放してやろうなどという狂気にかられ、あげく南太平洋に沈められてしまった。
イスラム文化から脱却して、ヨーロッパになろうとするトルコを見ていると、そんな日本の昔が思われて、悲しいのですよ。

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登録日:2007年 05月 25日 01:32:49

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プロフィール
伊藤 延司
(男)
長野県生まれ。京都大学卒。
毎日新聞社ジュネーブ支局長、パリ支局長、学芸部長、出版局次長、英文毎日局長などを歴任。
主な訳書: 『アメリカの鏡・日本』(角川書店)、『壁の向こう側』(毎日新聞社)、『ブッシュ・ベイビーズ』(マーガレット・プライスとの共訳、毎日新聞社)、『犬たちをめぐる小さな物語』(日本放送出版協会)、『ダーティー・ハンズ』(都市出版)など。
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