麻薬と鬱に打ちのめされたカート・コバーンの未亡人【コートニー・ラブ Part.3】

<メルセデス・ベンツ・ファッションウィーク>コレクション・ベベが新作を発表 - 米国

【カリフォルニア/米国 28日 AFP】カルバーシティのスマッシュボックス・スタジオ(Smashbox Studios)を主会場に19日から23日まで開催されたメルセデス・ベンツ・ファッションウィーク(Mercedes-Benz Fashion Week)で23日、LAを拠点にするデザイナーのデヴィッド・カルドナ(David Cardona)が手掛けるブランド、コレクション・べべ(Collection Bebe)の2006年秋冬コレクションが発表され、多くの有名人たちが訪れた。
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(c)AFP/Getty Images Vince Bucci

AFPBB News


1991年にコートニー・ラブがニルヴァーナのカート・コバーンと交際し始めた頃、世間は彼女のことを「大ブレイクしたコバーンを利用しようとしている」と見下しました。

「ミュージシャンのコバーンが欲しかったから、自分もミュージシャンになり近づいた」とも言われます。

しかし、それは大間違いで彼女は彼と知り合うずっと前から音楽に目覚めており、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンと交際中も常にコバーンのことを思うなど、二人が恋人にいたるまでは本当に色々あったのでした。

今回の写真は、コートニーと、彼女がコバーンとの間に儲けた一人娘フランシス・ビーン。父親に似ている娘は幸せになると言いますが、そう願わずにはいられません。

***この記事はPart1: http://www.actiblog.com/juri/19296 と
Part2: http://www.actiblog.com/juri/19717 の続きです***

■有名になり鬱病悪化■
2年越しの恋を成就させ、カート・コバーンとの交際をスタートさせたコートニーでしたが、ニルヴァーナの人気が広まるにつれてカートは精神的に不安定になっていきました。

親に見捨てられ、友人も少なく引きこもりの学生時代をすごしたカートにとって、皆に注目され有名になるということは、それまで経験したことないことで不安で不安で仕方なかったのだそうです。また、自分のモットーを貫き通すことが出来ず、一般受けして売れるような音楽を作ってしまったという後悔など、色々な要素が重なり鬱病が悪化してしまいます。

カートは、不安な気持ちをかき消そうと摂取するドラッグの量を増やしていきます。コートニーは交際し始めた頃、ドラッグを止めていたのですが、カートに付き合い再び始めてしまいました。カートに夢中になっていたコートニーはバンド活動を休止して彼とべったり過ごすようになります。そして、二人で麻薬漬けの日々を送るようになっていったのです。

■コートニーの口が災いを呼ぶ■
1992年1月12日。ニルヴァーナのアルバム売り上げが全米1位をマークした記念するべき、この夜にカートは麻薬を多量摂取して昏睡状態になり病院に運ばれます。これが、彼にとって最初の「致死量レベルの麻薬多量摂取」でした。

この事件の数週間後、コートニーは自分の身体の変化に気が付きます。妊娠したのです。この妊娠はカートも喜び、二人は1992年2月24日にハワイで結婚したのでした。

注目を浴びるようになったコートニーは嬉しさのあまり、米Vanity Fair誌のインタビューで色々なことを話してしまいます。インタビューでは「妊娠中に麻薬をやっていたか?」とも聞かれたのですが、何とコートニーは「ええ、ヘロインをしていたわ。妊娠が分かる妊娠数週間までだけど」と素直に答えてしまい、これが後に大問題を起こすことになるのです。

ちなみに、コートニーはこの妊娠で麻薬をきっぱりと断つことに成功しています。

■壮絶な出産■
1992年8月、コートニーとカートはLAにあるCedars-Sinai Medical Center に二人揃って入院します。

コートニーはもちろん出産のため。父親になるカートは60日間の薬物依存治療のために入院したのです。

8月18日、陣痛が始まったコートニーは点滴をつけたままカートの病棟へ行き、「私1人で産ませる気なの!?」と治療途中でボロボロ状態のカートを分娩室まで引きずるようにつれてきて、無事に女の子を出産しました。

生まれたばかりの我が子フランシス・ビーンを抱くカートの写真を見たことのある人は、何で彼がこんなに嬉しくなさそうな、気が抜けた表情を浮かべているのだろうと思われたことでしょうが、こういう事情があったからなのでした。

治療途中で思考回路が正常でなかったカートは、娘が誕生した翌日病院を抜け出し、ドラッグ・ディーラーを連れて再びコートニーの病室を訪れます。

そして、何とコートニーにピストルを突きつけて「もう死にたい。お願いだから一緒に死んでくれ」と祈願し始めたのです。唖然とするコートニーですが、パニック状態のカートに「わかった。自分が先に死ぬからピストルを頂戴」と言い、銃を取り上げ、ドラッグ・ディーラーとカートを病室から叩き出したのでした。

しかし、コートニーはこの件を伏せることにします。実は、この時米Vanity Fair誌が発売され、彼女が「妊娠中にヘロインをやっていた」という記事が大きな波紋を呼び、児童福祉から「赤ん坊を養育できる資格がない」と言われ始めていたのです。

州は二人に養育権利を与えるべきかの裁判を起こし、ごたごたあったものの最終的には定期的に報告するなどの条件つきでの養育権を獲得。

親に見捨てられた二人にとって、親と同じ道を歩むということは耐え難いことであり、「自分は親とは違う」ということを証明するかのように裁判で必死に戦っていたのが印象的でした。

■カート最初の自殺未遂■
1994年1月、シアトルに豪邸を購入し移り住んだ三人でしたが、カートはますます麻薬にのめりこむようになり、いつまで経っても麻薬を止めない彼にコートニーも少し距離を置くようになります。

そんな彼でしたが、ニルヴァーナの人気は全世界に広まり波に乗っていました。カートはしぶしぶヨーロッパツアーに参加しますが、ヘロインが止められずツアーを中止しなければならない状態にまで陥ってしまいます。

コートニーは急いでローマに飛びましたが、カートは彼女が彼の元を去っていくのではないかとの不安に駆られ、最初の自殺未遂を起こしてしまいます。

ヘロインなどの麻薬を大量に摂取した上で、向精神薬ロヒプノールを60錠飲みほし、遺書を残し、ホテルの床で冷たくなっているカートを最初に発見したのはコートニーでした。すぐに病院に運ばれ、カートは奇跡的ともいえる回復を見せます。

■二人で麻薬断ちを決意するものの・・・・・・■
コートニーはこの頃から、麻薬を再びするようになります。

1994年3月、珍しくカートがコートニーに二人で麻薬断ちしようと誘います。彼女が麻薬を断つのなら自分もそうすると言い出したのです。

3月25日、娘の養育権を剥奪されるのを恐れたコートニーは、麻薬リハビリセンターには入らず、LAのホテルに専門医と二人缶詰状態となり薬物依存治療を開始します。

同じ夜、カートもLAの麻薬リハビリセンターに入所。

しかし、4月1日コートニーに「忘れないでくれ、これから何が起こっても俺はお前を愛している」という電話をかけた直後、カートはリハビリセンターから脱走し行方不明となってしまうのです。


*****記事が長くなってしまったので、ここで再び切ります。次回で【コートニー・ラブ】に関する記事は最終回とします!*****

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登録日:2006年 11月 13日 12:37:58

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プロフィール
堀川 樹里
(女)
■フリーライター・トランスレーター
■経歴:海外ドラマを中心に海外エンターテイメントに関する記事を公式サイトや雑誌で執筆、翻訳。豪州→中東→東南アジア→米国を経て現在台湾在住。海外在住歴19年目
■得意ジャンル:海外エンターテイメント(ドラマ・映画・音楽・TV番組)
■ひとこと: "ちょっと"の知識があれば"もっと"面白くなる海外エンタメ!トリビア情報満載のブログを目指します。
■連絡先:juri1210@hotmail.com
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