ゴールデングローブにもノミネートされていた【コートニー・ラブ】Part4

<2006ビルボード・ミュージック・アワード>授賞式開催 - 米国

【ラスベガス/米国 5日 AFP】音楽チャート誌「ビルボード(Billboard)」が主催する米4大音楽賞の一つ「2006年ビルボード・ミュージック・アワード(2006 Billboard Music Awards)」が4日、MGMグランドガーデン・アリーナ(MGM Grand Garden Arena)で開催され、アーティストを始め多くの関係者が出席した。
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(c)AFP/Getty Images Ethan Miller

AFPBB News


何回かに分けてご紹介してきたコートニー・ラブのストーリー。

カート・コバーンの死に関しては色々な説があり、その中にはコートニーがヒットマンを雇い殺害したというものもあります。

このブログは、あくまで双方の広報らにより公式に発表された内容とコートニー自身がインタビューなどで語った内容を取り集めたものです。

***この記事は
Part1: http://www.actiblog.com/juri/19296 
Part2: http://www.actiblog.com/juri/19717 
Part3: http://www.actiblog.com/juri/20195  の続きです***

■カートの命を奪ったのは308ドルの銃だった■
リハビリセンターから脱走(とはいっても警備はとても緩いもので、そこまで大げさなものではありませんでしたが)したカートはLA空港に直行しシアトルの豪邸に戻ってきてしまいます。

コートニーは麻薬を抜く治療の真っ只中だったので動くことが出来ず、警察、私立探偵、友人や子供のナニーに頼み、皆が必死でカートを探したもののカートは見つかりませんでした。

カートは今回LAへリハビリに行く前に、シカゴのダウンタウンストアーでショットガンを購入していました。$308.37のこの銃を購入したとき、彼は恐らく死を決意していたのでしょう。シアトルの自宅に戻ったのは、銃がそこにあったからのです。

1994年4月2日、カートは何度もコートニーの滞在しているホテルに電話をかけます。麻薬を抜く治療のためにホテルに滞在しているため、マスコミ対策として、コードネームを言わなければコートニーの部屋には電話がつながれないようになっていましたが、カートはそのコードネームが思い出せないほど精神的に錯乱していました。そのため、コートニーと話をすることは出来なかったのです。

彼は最後に何を彼女に伝えたかったのか。遺書は残されているものの、もっと言いたいこと、伝えたいことがあったのではないでしょうか。

1994年4月5日、ヘロインを大量に摂取したカートは、銃を持ちグリーンハウスに向かいます。そして、自らの命を絶ったのした。

カートの遺体は死後72時間経ってようやく発見。もちろんこの家も捜索されたものの、誰もグリーンハウスは探さなかったのです。カートの死を聞いて、コートニーは「楽な道を選びやがって!」と激怒していたとのこと。そして、泣き崩れてしまいました。

■次々と襲う悲劇■
1994年4月10日、1万人ものファンが詰め掛けたカートの葬儀でコートニーがベッドで録音したメッセージが流され、翌日の11日にはコートニーのバンド、ホールは「Live Through This」が予定通りリリースされます。

あまりのタイミングにマスコミは「コートニーは犠牲者なのか、それとも死まで利用しようとしているのか」と騒ぎ出します。

5月に入り、コートニーはニューヨークでチベットの仏教式の葬儀をカートのために行い、少しずつ落ち着きを取り戻したかのように見えましたが、翌月6月13日に再び麻薬がらみの悲劇に襲われます。

ホールのバンドメイトだったクリスティーンがヘロインの過剰摂取で死んでしまったのです。元彼だったビリー・コーガンの勧めですぐにメンバーは補助できたものの、コートニーの落ち込みようは相当なものだったといいます。

■女優としての道へ■
カートの死の翌年、コートニーはバンドから離れ女優としての仕事を入れるようになります。キアヌ・リーヴス とキャメロン・ディアス主演の映画『フィーリング・ミネソタ 』で注目を集めたコートニーは、1996年『The People vs. Larry Flynt』に出演するために演技コーチをつけ役者としての特訓を受けます。そのかいあって見事採用。

しかし、リハーサルに平気で遅れてくるコートニーにウディ・ハレルソンが激怒。取っ組み合いの大喧嘩までしたものの、これがきっかけで二人は腹を割って話せる仲になり、スタッフが一丸となりよい映画を作ろうとモチベーションが上がりました。ちなみに、コートニーも二度と遅刻をすることはなくなりました。

映画ではストリップシーンなどもあり、 本物のラリー・フリントが絶賛するほどだったのだとか。そして、1996年10月に映画はプレミア公演され絶賛を浴び、映画は大ヒットしたのでした。

この映画でコートニーは、ゴールデングローブを含む多くの映画賞にノミネートされることになります。女優しても認められたのです。

しかし、メディアのコートニーの扱いは酷いもので、女優としてステップアップしていく彼女の足を引っ張ることしかしませんでした。

■裁判沙汰■
コートニーは1999年1月にサンダス映画祭に出展された「カート&コートニー」というドキュメンタリータッチの映画に自分の曲が使われていると激怒。映画監督を訴えています。コートニーは勝ち、映画から彼女の曲は全てはずされたものの、コートニーは映画自体がたまらない存在だったのでしょう。

同年、元彼のビリー・コーガンも参加し制作した「セレブリティ・スキン」は大ヒットしましたが、レコード会社とのいざこざもありました。2000年、レコード会社とのいざこざで大いにもめ裁判沙汰になりました。お互いを告訴する泥沼となったものの、結局は和解して収まっています。

また、カートが生前残した歌詞や音源などを巡り、ニルヴァーナのメンバー2人と対立。裁判は長期化したものの2002年に決着がついています。

ほかに裁判沙汰ではないですが、1999年に「セレブティ・スキン」が売れて、マリリン・マンソンの前座を勤めることになったものの、2週間で契約を破棄してしまいます。さすがのコートニーでも、マンソンの聖書を破ったりするパフォーマンスが受け入れられなかったのです。


■ダニー・デヴィート大絶賛■
アーティストとしてのコートニーは、その歌詞に共感するという女性支持者が多く、ライブは彼女の脱ぎっぷりのよさにつられてやって来た男性観客が多いことで知られています。

女優としてのコートニーも、マスコミから叩かれるものの、彼女の才能をかう関係者は多く、1999年に公開された『Man on the Moon』で共演、監督したダニー・デヴィートもその一人です。監督して、彼女の女優としての姿勢も、感性も大きく評価しています。

2000年には『24』のキーファー・サザーランドと『Beat』で共演しています。

■ホールの解散■
2002年5月ホールは解散。コートニーはソロで売れるほどの才能はないとして、バンドにこだわりますが、にっちもさっちもいかない状態が続きます。2003年2月、ロンドンのヒュースロー空港で飛行中の態度が原因で逮捕されたりもしていました。

しかし、6月にヴァージン・レコードとソロアーティストとしての契約を結び、その夏はソロアルバムを制作し、10月に発売!となる予定だったのですが、元交際相手の家に不法侵入、薬物過剰摂取により緊急入院するなどスキャンダルが続き、愛娘の養育権を剥奪される騒ぎにまで発展していってしまいます。

結局アルバム「アメリカズ・スイートハート」は2004年2月に発売され、大ヒットとなったのでした。


今は、何よりも薬物リハビリによる体重増加と整形に注目が集まっていますが、過去を隠すことなく自分に正直に生きているコートニー・ラブの女優として、歌手としての今後に大いに期待したいところです。

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登録日:2006年 12月 22日 13:35:09

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プロフィール
堀川 樹里
(女)
■フリーライター・トランスレーター
■経歴:海外ドラマを中心に海外エンターテイメントに関する記事を公式サイトや雑誌で執筆、翻訳。豪州→中東→東南アジア→米国を経て現在台湾在住。海外在住歴19年目
■得意ジャンル:海外エンターテイメント(ドラマ・映画・音楽・TV番組)
■ひとこと: "ちょっと"の知識があれば"もっと"面白くなる海外エンタメ!トリビア情報満載のブログを目指します。
■連絡先:juri1210@hotmail.com
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