2007年 01月 14日

インド・ムンバイで消えゆくパン屋 - 文化は思想の発現

ムンバイで消えゆくパン屋さん - インド

【ムンバイセブ/インド 14日 AFP】インド西部の都市ムンバイ(Mumbai)の旧市街にあるパン屋「Yazdani Bakery and Restaurant」で働くTirandaaz Iraniさんは、日々ほとんど変らない朝をむかえ、変わらぬ仕事をしている。
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(c)AFP

AFPBB News


 鎖国思想にあって、島津→琉球経由→外国は公認されたルートである。これは幕府自体が島津→琉球→広東船→諸外国というルートを認めていた次の事実でも明らかなことである。

 徳川時代、新井白石は潜入宣教師シドゥティの処分で、島津に命じて琉球に送らせ、そこから広東船に乗せてマニラに送り返し、これに、「再び宣教師を潜入させるなら、これを水際で処刑するから全く無駄であり、以後絶対に送り込まないように」と記した手紙を持たせてやるのが上策である旨を述べている。

 しかしこのルートは幕府の財政には寄与することはなかった。というのも、このルートで中国まで輸入されたのが「昆布」と「硫黄」だったからである。「硫黄」は火山の少ない中国では火薬と医薬の原料であり貴重品だった。
 
 そのほかに日本刀と馬がある。これは松山藩と薩摩藩の収入になったものの幕府の収入にはならない。

 さらに薩摩藩は、この頃、薩摩木綿の反物の生産に乗り出していた。これを日本国内に売り出そうとすれば、唐木木綿は競争商品になってしまう。そのため薩摩藩は唐木綿は輸入しなかった。

 今でも日本は諸外国、特にアメリカから「関税撤廃」を要求されることが多い国だし、アメリカの言い分は「もっともだな」と思われるほど、お役人は「日本商品を大事にする」のだかが、それはともかく、最大の輸入品の国内自給と海外移出は薩摩藩が事始めである。

 ところで「昆布」の輸出は、琉球料理を作った。この料理には今でも昆布が多く用いられるが、これは中継貿易の結果である。したがって琉球料理を背景にある思想とは、鎖国思想による中継貿易による食材の活用と言い得る。そのため明治以降、中継貿易の地とはなり得ない時点をもって「琉球料理」の展開は終わったと見るべきだろう。

 私たち人間の系譜は、文化史的にのみその歴史を辿り得る。その中心にあるのは「思想」である。料理も人間のみの営みであり、火の調整と食材の組合せをするのは人類のみであって、動物はそれをしない。従ってある「食材の組合せ」がどのように成されたのかを知ることは、私たちの文化=思想を語ることでもあり、その思想を成立させているものが日常生活に根ざしている限り、その文化ないしはその担い手はそこに居ると言える。この意味で「琉球料理」は過去の文化としては存在しているが、その文化の担い手は存在していないと言えるだろう。



 




 
 


 

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登録日:2007年 01月 14日 21:03:57

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