キャンペーン(政略運動)が達成した形としての自殺

松岡農水相 死亡

【5月28日 AFP】28日首吊り自殺を図った松岡利勝農水相が同日午後2時、搬送先の病院で死亡したと警察が発表した。松岡氏は資金管理団体の事務所費や光熱水費をめぐり厳しい追及を受けていた。(c)AFP

AFPBB News


 日本の政治家は精神力が弱くなったようである。自殺しなければならない動機はない。社会的対面が自殺の全てであろう。

 日本人は伝統的に非常に世評に弱いから、昨今の松岡農水相をめぐる世評は彼にとっては自殺するに値するものだったのだろう。こうなるのは「良い子、良い子」で育てられるからであり、「良い子でいたい」と思っているのに、世間に顔向けができないとか、後ろ指を指されることに弱いからすぐ自殺へ走る。

 その心は、言動の基準が常に、「悪く言われまい」「「よく思われたい」であり、従って罵詈讒謗に実に弱く今回のように自殺するわけである。
 
 松岡農水相もまた、社会や社会的評価という言葉を「唯一絶対神」とし、その方にだけ顔を向ける狂信的「俗世間」信者であったのであろう。


 またある意味、今回の自殺は与野党問わず、「辞任」への「キャンペーン(政略運動)」が、思わぬ形で実現したものである。これによってどのような変化が政局に生じるかは知らない。しかし猿山に大きな変化がないであろうことは確かであろう。その分析には動物行動学を使うのが最も良い。

 日本の伝統的政治文化は、基本を地盤(地縁)に置きつつ、人脈(擬制血縁)でこれに組織的機能を付与すると言う行き方である。この行き方からは、自己の選挙区に国庫金を注ぎ込む者を代議士とし、代議士は自己の政治資産となる選挙区への国庫金分捕りをのみ考え、従って民主制政治の基礎である「法の創出」とは縁遠い政治組織を、明治以降現在に至るまで日本は不幸にも持ち付けることになってしまった。

 自己の選挙区へ国庫金を注ぎ込むのは日本の伝統的政治文化である。つまり超保守的政治なのである。これを自覚せず、時にはそれが進歩的だと錯覚している御仁もいるから始末に悪い。今の日本の政界である。

 もちろん、どのような政治文化を選択するか、政治思想を選択するかは、その人の自由である。ただそときは、沖縄人のように「交付金は当たり前」式の「超保守政治思想」を「政治意識の変革」であるとか「生活の視座」であるとかの誤魔化しをするのではなく、素直に「沖縄県民は、日本の政治文化の超保守的思想を選択している」と自覚し、自分は日本の最も保守的な思想を断乎として生きていると明言してほしい。
    
 政界は沖縄人の真似事をしてはならないだろう。自覚していればこそ、思想的転換も回心もあり得るのである。つまり制度の改革が可能になるのである。しかし無自覚に呪縛されていては、動物同様にそれは不可能であり、動物行動学を援用すれば最もよく解明できる社会、沖縄人と同じものとななってしまう。

 しかし残念なことに、日本社会は全体として、その動物社会へ大きく前進してようである。

 最後に亡くなった松岡利勝氏へのご冥福を祈って終わりとしよう。

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登録日:2007年 05月 29日 03:06:37

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