小泉首相の靖国参拝(中)-入試にも出た石橋湛山の靖国神社廃止論-

小泉首相の靖国参拝に、香港でも抗議活動 - 香港

【香港 15日 AFP】小泉純一郎首相が中国と韓国の警告を無視するかたちで、終戦記念日の15日に靖国神社を参拝したことを受け、香港でも市民が抗議運動を行った。中韓両国は、靖国神社をかつての日本の帝国主義の象徴と捉えており、小泉首相の参拝を理由に首脳会談を拒んできた。靖国神社には、250万人の戦没者のほか、第2次世界大戦のA級戦犯14人が合祀されている。写真は15日、香港の日本領事館の前で小泉首相の写真と風刺画を掲げて抗議をする人たち。(c)AFP/Laurent FIEVET

AFPBB News


写真は香港の業務地区、中環(セントラル)の交易広場(エクスチェンジ・スクェアー)にある日本総領事館の前で、抗議集会を開いている香港市民たち。プラカードには「小泉の恥知らず!」の文字が見える。「工連会」の文字から見て、写真の女性たちは地元左派ローカルセンターの労働組合員だ。

香港ではこのほか、戦時中使用を強制された軍票(軍用手票)の被害者団体、香港索償協会の老人たちや民主建港港進連盟(左派政党)のグループ。神州青年服務社のグループ、さらに民主党、維護二戦史実連席会議(超党派、民主派主導)、保釣行動委員会などもこの日のうちに日本総領事館前で抗議行動を行い、紙で作られた旭日旗(旧日本軍旗)が踏んづけられ、燃やされている。15日の香港ATVテレビ(亞洲電視)は10数分を割いて小泉首相の靖国参拝強行をめぐるニュースを報じていた。

AFP-BBニュースの写真には、北京の日本大使館前でも愛国者同盟の市民たちによる30人規模の抗議デモが行われたことを紹介している。抗議デモをすべて押さえ込むことは、逆に数万人規模の抗議デモが勃発しかねない。窮余の策として、当局が一部の団体に「代表」させる形で、わずか30人という、抑制された抗議デモを容認したのだ。

韓国ではその日のうちに大がかりな抗議デモが起こった。AFP-BBニュースの写真を観察すると、大伸ばしされた小泉首相の肖像写真に火がつけられようとしている。別な写真では、軍服姿の小泉人形が用意され、日本刀に模した竹刀で処刑されていた。

残念ながら今の日本国民には、これほどまでにアジアの人々を怒らせた小泉首相の行動を管理できない。中国、韓国の公安当局にはお手を煩わせるが、かくも「危険」な小泉純一郎があなたたちの前に立ち現れて悪事を働かないよう、「戦犯」として、ICPO(国際刑事警察機構)に「国際手配」するようお勧めしたい。まもなく退任する小泉首相だが、自由の身を得た小泉首相が「平成の妖怪」として暗躍することだけは、避けなければならない。

ところで日本の総理大臣経験者のなかには、小泉首相とは対照的に、「靖国神社廃止」を唱えた保守政治家もいる。自由民主党2代目総裁、石橋湛山だ。

◆大学入試にも出た「靖国神社廃止ノ儀」

今からら20年前のことだが、1986(昭和61)年春の立教大学文学部を受験した学生たちは、日本史の出題に度肝を抜かれたことだろう。
「靖国神社廃止の儀」で始まる史料問題が出題されたからだ。

甚だ申し難い事である。時勢に対し余りに神経過敏なりとも、或いは忘恩とも不義とも受取られるかも知れぬ。併し記者は深く諸般の事情を考え、敢て此の提議を行うことを決意した。謹んで靖国神社を廃止し奉れという、それである。

史料中の記者とは、当時『東洋経済新報』の主幹だった石橋湛山。史料は「東洋経済新報』の社論(社説)として1945年10月13日号に掲載されたもの。湛山は自由主義の立場から、第一次世界大戦期には「青島は断じて領有すべからず」(1914年11月15日社説)では、火事場泥棒的な中国介入を戒めた。ロシア革命に介入したシベリア出兵にも反対し、革命ソ連との早期国交樹立を唱えている。第一次世界大戦後も、「一切を棄つるの覚悟」(1921年7月23日)で植民地放棄論を唱えるなど、「小日本主義」に立つラジカルな国際協調主義に特徴がある。

入試問題となった「靖国神社廃止ノ儀」は敗戦後の1945年10月13日の『東洋経済新報』に掲載された「社論」。もっとも、湛山の代表的な論説を集めた松尾尊允編の『石橋湛山評論集』(岩波文庫)収録の39編からは割愛されている。入試問題には、『湛山全集』からの引用であることが示されているから、東洋経済新報社の『石橋湛山全集』が典拠だ。今では『石橋湛山評論選集』(東洋経済新報社、1990)でも読むことができる。そもそも、知る人ぞ知る論説ではあった。
現在でこそいくつかのブログで紹介され、なかには全文引用されているサイトもある。その多くは、高橋哲哉著『靖国問題』(ちくま新書、2005)のあとがきで知ったにちがいない。

湛山は主張する。

靖国神社は言うまでもなく明治維新以来軍団の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、その祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程、我が国にとっては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や、疑わざるを得ざるに至った。殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し、其の武功を讃えることは、我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。(中略)精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が、何と之を見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態が発生したら、却って戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益は莫大であろう。

「国民周知の事態」とは、敗戦のことだ。湛山は「大東亜戦争」の戦没者を「英霊」として祀ること自体が許されない情勢と認識している。さらに湛山は論をすすめる。

又、右の如き国際的考慮は別にしても、靖国神社は存続すべきものなりや否や。前述の如く、靖国神社の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にして、殊にその大多数は日清・日露戦役及び今回の大東亜戦争の従軍者である。然るに今、其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として、国家を殆ど亡国の危機に導き、日清・日露両戦役の戦果も亦、全く一物も残さず滅失したのである。遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても、之れを祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。(以下、一部引用略)

ここで湛山は「大東亜戦争」は日本を破局に陥れ、明治維新以来の戦果を全て失ったのだから、「聖戦」とは言い難いと主張する。そして、戦後日本のあり方について、以下のように主張する。

言うまでもなく我が国民は、今回の戦争が何うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを、飽まで深く掘り下げて検討し、その経験を生かさなければならない。併しそれには、何時までも怨みをこの戦争に抱くが如くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは、恐らく此の戦争に敗けた真因を明らかにすることを得ず、更生日本を建設することはむずかしい。我々は玆で全く心を新にし、真に無武装の平和日本を実現すると共に、引いては其の功徳を世界に及ぼすの大願を立てるを要する。それには此の際、国民に永く怨みを残すが如き記念物は、仮令如何に大切なものと雖も、之を一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し、或は戦没者自身の立場に於て考えても、斯かる怨みを蔵する神として祭られることは、決して望む所でないと判断する。(後略)

新鮮に響くのが、「無武装の平和日本」という言葉だ。この「社論」が発表されたのは1945(昭和20)年10月13日だから、戦争放棄条項を持つ「日本国憲法」(1946年11月3日公布、47年5月3日施行)は、まだまだ先のこと。のちにGHQによって全面拒否される幣原内閣のもとでの憲法問題調査委員会(松本蒸治委員長)の「憲法改正要綱」の起草作業も始まったばかり。「日本国憲法」をその成立経緯から、「押しつけ憲法」とする論議があるが、石橋は早くもこの段階で、「無武装」というラジカルな立場を表明していた。

◆靖国神社の本質を鋭くえぐった良問

入試問題として出題されたのだから、当然設問も存在する。

「靖国神社の前身は、1869年に創建された神社であった」。その神社の名を選ぶ問題には選択肢があり、「護国神社、伊勢神宮、明治神宮、招魂社」が挙げられていた。
昨今の新聞報道などで、これが「招魂社」であることにはたどりつけるかも知れないが、これはまだまだ序の口。

次は、「靖国神社の性格を正しく説明しているもの」を、選択肢から2つ選ぶ正誤問題。5つとももっともらしい文章が並んでいるから、これは難問だろう。

a.靖国神社には、戊辰戦争や西南戦争での官軍だけでなく、賊軍とされた戦没者もひとしく神としてまつられている。
b.靖国神社には、少数の文官や民間人も祭神としてまつられているが、大多数は軍人、軍属の戦役者で、太平洋戦争中の空襲や原爆による民間犠牲者はまつられていない。
c.靖国神社には、天皇が参拝し、天皇の名による戦争の戦没者は、靖国神社に神としてまつられることによって、天皇と国家への忠誠き 模範として、最高の栄誉を与えられた。このことは国民に絶大な教育的効果を及ぼした。
d.靖国神社は、別格官幣社として特別の扱いを受けたが、氏子が戦没者の遺族に限られていた点でも、一般神社と異なっていた。
e.靖国神社の特殊性の1つには、戦没者の増大によって無限に祭神がふえつづけるという性格があった。このため、日中戦争以後、戦死者が激増したので、主神を将校の戦没者に限ることにした。

多くの読者が「判断に迷う」と思われるが、少しでも「判断に迷う」ということは、靖国神社の本質、性格をよく見抜いていない証拠でもある。逐一、検討してみよう。

まずaは、賊軍戦没者は祀られていない。つまり、新撰組や白虎隊、西郷隆盛などは天皇に逆らったのだから、絶対にまつられない。

bは、靖国に祀られるのは、戦闘死、餓死を問わず、戦地で無くなった兵士に限られるのですぐ判る。太平洋戦争の日本人犠牲者の大多数は、実際には日本政府の戦争終結工作が遅れるなかで、米軍の本土爆撃や広島・長崎原爆で亡くなった犠牲者だ。これらの人々は戦死者ではないから、ぜったいに靖国神社には合祀されない。

cは、靖国神社の本質をよく示した文章。靖国神社はがんらい天皇の国家と結びつき、戦没者家族を国家に忠誠を誓わせる求心力を求める装置として機能した。戦後、自民党が画策して失敗した「靖国神社国家護持法案」も、麻生外相や日本遺族会会長の古賀誠議員らが口にし始めている「分祀論」も、同じ文脈。天皇の公式参拝を可能にする「国立靖国神社」への方向性をもって、いまなお繰り返し提起されている。

dはそのとおり。そもそも神道は、日本在来の祖先を祀る固有信仰に由来し、中国、朝鮮半島で発展、伝来した北伝仏教や、儒教、道教などの教義を摂取しつつ、しだいに宗教としての教義を確立していった。しかし、「八百万の神」というように、その教義は多岐にわたり、信仰の形態もまちまち。明治維新ののち、神道国教化政策の失敗を経て、国家神道としての再編が行われた。明治末期から大正初期にかけて行われた神社統廃合政策(神社合祀政策)では、官幣社、国幣社から、村社、郷社にいたる神社の国家的序列が人工的に形づくられた。いっぽう、この政策のもとで、いままで地方で民間の信仰を集めていた神主や禰宜のいない小さな社、祠は整理の対象となり、神社数はほぼ半減してしまう。戦前、「神道は宗教にあらず」として、神社は公的行事など国民生活の隅々に有無をいわせず入り込んできたが、そもそも国家神道は近代に整備されたもの。神前結婚式も大正天皇の婚礼に始まったものだ。

eは、「将校の戦没者に限る」というところが誤り。天皇陛下のために戦って亡くなった兵士であれば、戦犯(法務死)であろうが、キリスト教徒、朝鮮人、台湾人であろうと、ひとしく合祀される。合祀は厚生省から靖国神社に戦没者名簿が提供されることで行われる。遺族の意向は無視されるから、日本各地の裁判所で合祀取り消し訴訟が提訴されている。

さて、つづく設問は「連合国の日本に対する宗教政策の方針が示されているもの」を2つ選ぶ問題。選択肢には「民法改正、『政教分離』に関する指令、ポツダム宣言、ヤルタ協定、公職追放令」の5つ。
これは比較的平易で、「政教分離」と「ポツダム宣言」を選べばよい。「ポツダム宣言」の十項には、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」とある。

つづく設問は小論述。史料を踏まえ、「『国際的考慮』以外の湛山の靖国神社廃止論の意図」を、40字以上60字以内でまとめさせる。これは日本史というより、史料の読解力がものを言う。史料の後段のエッセンスから該当箇所を要約すれば正解に至る。

そのつぎの設問は湛山の業績の問題。「石橋湛山は1911年に東洋経済新報社に入社して、同社の急進的自由主義の伝統を受け継ぎ、大正デモクラシー運動の思想的指導者の1人となった」という説明があり、「1920年代末までの時期に湛山が主張したもの」を5つの選択肢のなかから2つ選ばせる問題。日頃の受験勉強の成果が一番出やすい問題だ。
選択肢には、「大日本帝国憲法の廃止、植民地放棄論、治安維持法批判、金解禁の早期実現、天皇機関説」の5つ。
設問は「1920年代末まで」とヒントを付けてくれているから、これは前述の「一切を棄つるの覚悟」を唱えた「植民地放棄論」と、経済記者の本領を発揮した金解禁の早期実施で決まり。湛山は新平価での金解禁論者で、戦後政界入りしてからも、通産大臣など、経済閣僚を歴任している。

◆9割の高校生が、湛山を共産党員とみなした!

さて、最後は記述式。
「石橋湛山は戦後政界に入り、1956年にある政党の第二代総裁となり、首相となったが、病気のため2カ月で辞任し、進退のいさぎよさが世論の賞賛をよんだ」。とあり、「⑴この政党名、⑵この政党の初代総裁の姓名、⑶石橋湛山辞任後に首相になった人物の姓名」の3点を記述させる問題。

この入試問題が出題されたのは、冒頭で示したように1986年。前年の8月15日には、時の中曽根康弘首相が靖国神社に公式参拝していた。それから21年もの間、同日に靖国神社を参拝した首相は小泉純一郎が初めて。じつにタイムリーな出題だった。
当時、高校の教壇で糊口していた龍眼はこの入試問題に衝撃を受け、高校生がどのくらい解けるものかと、受け持ちの3年生のクラスに、この問題を解かせてみたことがある。もっとも、入試問題の原形のままでは現役生には少し難しいかと思い、記述式問題には、逐一選択肢を加えた。

⑴の政党名には、「自由民主党、民主社会党、公明党、日本社会党、日本共産党」の5つの選択肢を用意したが、結果は惨々だった。9割の生徒が湛山を「日本共産党」と答えたのだ。残りの1割の生徒が「日本社会党」を選び、正解の「自由民主党」にいたっては皆無だった。子どもたちが使っている山川出版社の『詳説日本史』には、社会党の左右合同と保守合同の経緯がきちんと書かれているし、「鳩山内閣のあとをついだ石橋湛山内閣は、首相の病気で短命に終わり、1957年に成立した岸信介内閣は…」という本文の叙述もある。

もう一度、問題文をよく読んで欲しい。湛山は「首相となった」のだから、いくらなんでも、「日本共産党」はないだろう。「日本社会党」と書いた人は少しばかり考えたのかも知れないが、戦後、湛山は社会党の誘いを断って、吉田茂に請われ自由党から政界入りしている。
1955年末の保守合同で成立した自由民主党。日ソ国交樹立を果たした⑵の鳩山一郎内閣の後をうけて、自民党総裁選挙で岸信介と争い、湛山は石井光次郎と組んで決戦投票で逆転勝利。自民党2代目総裁となり、石橋内閣(1956.12~57.2)を組閣した。

病気のためわずか2カ月の短命に終わった石橋内閣だが、おりしも中国政府は中国国内の日本軍戦犯裁判をこの時期に集中させ、「労働改造の結果、本人が反省した」として、寛大な判決で、戦犯をつぎつぎと日本に帰した。これがのちに「戦争の語りべ」となる中国帰還者連絡会の人々だ。日ソ復交のあとは日中国交正常化。当時の中国政府は石橋内閣に期待して、このようなシグナルを送っていたのだ。

もはやおわかりであろうが、⑶の最後の設問の答えが、「昭和の妖怪」とも言われ、永く政界に君臨した岸信介。いまの日本は自民党総裁選挙の真っ只中だが、小泉首相退陣後の自民党総裁候補の最右翼に挙げられているのが、安倍晋三官房長官。
かつて石橋湛山と争った岸信介の遺伝子を、最も色濃く受け継いでいる政治家である。

カテゴリー[ 日本 ], コメント[2], トラックバック[0]
登録日:2006年 08月 16日 05:52:16

コメント

赤紙一枚で、前途洋々たる日本男児を犬死させる役割を果たした、許せない靖国神社。そんな靖国を繰り返し参拝する小泉純一郎総理大臣。海外での抗議を反日行動と決め付ける日本のメディア。それに刺激される、日本の排外主義。龍眼さんの記事を転載させていただきました。日本人よ、目覚めよ!

仲村あきら @ 2006年 11月 13日 07:46:39

僕は彼のファンで評論集も読んでいましたが、神社に対する論評は知りませんでした 感謝します
 質問ですが、設問bはどこが間違っているのでしょうか。広田は文官だし、引き上げてきた船に乗っていた学童も祭られていると聞きましたが、民間人にあたるのでは
 本文中に解説を加えていただければうれしいのですが
           山崎 浩

憂える浩 @ 2006年 12月 02日 14:48:12

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龍眼
(男)
本名和仁廉夫。 ジャーナリスト。高校、予備校の教壇生活を経て現職。1990年代から香港問題に関わり、マカオ、台湾、中国、華僑華人世界の持つ多様な観点を紹介してきた。著書に、『旅行ガイドにないアジアを歩く・香港』(梨の木舎)、『香港返還狂騒曲』、『歴史教科書とアジア』、『東アジア・交錯するナショナリズム』(社会評論社)など。自称の「龍眼」とは、中国南部で広く食されるライチに似た果物。淡い茶褐色で、食味はジューシィ。そもそも「龍」とは、中華世界の幻の神獣。「龍眼」はその「龍の眼」に由来している。
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