小泉首相の靖国参拝(下)-戦時下キリスト教系学校の受難-

小泉首相が靖国神社参拝、「内閣総理大臣」と記帳 - 東京

【東京 15日 AFP】9月に退陣を控えた小泉純一郎首相は終戦記念日の15日、近隣アジア諸国の強い反発があったにもかかわらず、東京・九段北の靖国神社を参拝した。
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(c)AFP/KAZUHIRO NOGI

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2006年の8月は小泉首相の靖国参拝に振り回された年として、歴史に記銘されるだろう。

龍眼は依然として、首相のいう「心の問題」、「個人の自由」という言葉にこだわっている。なぜなら、東京都では、入学式、卒業式などで「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱への服従が学校長の職務命令として義務づけられ、これに反対して従わなかった多くの教師たちが、東京都教育委員会から重い処分を受けている現実があるからだ。処分された教師たちは、給与、昇進などで、生涯にわたって不利益を甘受しなければならない。これは、日本国憲法が保障するところの「思想、信条の自由」、「法の下の平等」には抵触しないのだろうか?公人たる小泉首相は「心の問題」や「個人の自由」を語るが、彼ら教師の「心の問題」はどうなるのか? 彼らには、「思想、信条の自由」や「個人の自由」はないとでもいうのだろうか? 教師、生徒、児童らの「心の問題」は、どうなってしまうのだろうか?

本シリーズの前回では、大学入試にも出題された石橋湛山の靖国神社廃止論」を紹介した。これがなぜ、1986年の立教大学文学部で出題されたのだろうか? 大学入試とは、けっして出題者個人の思いつきではない。社会的な存在である大学が、いかなるスタンスで学問、教育にあたってきたかを表明する重要な機会でもある。当然、極秘のブロジェクト・チームで慎重に吟味、検討が重ねられてきたはずた。前回、本ブログで紹介した入試問題、「靖国神社廃止の儀」は、じゅうぶんに考えぬかれ、出題されるべくして出題されたものだと考えている。

8月の締めくくりは、やはり靖国問題でなければならない。記録しておきたいのは、戦時中、天皇制国家に屈伏したキリスト教私立学校の痛ましい記憶である。

*本稿を出稿するにあたって、本シリーズ前作の「入試にも出た石橋湛山の靖国神社廃止論」を「小泉首相の靖国参拝」の(下)から(中)に改訂し、本稿を同シリーズの(下)としました。

◆日本遺族会から分裂した平和遺族会

東京九段の靖国神社から、靖国通りを挟んで向かいの日本武道館側に、昭和館という7階建ての建物がある。政府が123億円かけて建設したもので、「戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後時代の人々に伝えていこうとする国立の施設」(同館HP)として、1999年3月27日にオープンした。管理運営は日本遺族会に委託されており、年間5億4千174万円(2004年の数字)が国庫から支出されている。

靖国神社の遊就館が「前線」に赴いた皇軍兵士たちの戦争博物館だとすれば、昭和館の展示構成は、「銃後」の暮らしの博物館。「銃後」とは、家族を兵士として戦地に送り出した家族の、戦争協力で貫かれた日々の生活をさす言葉だ。いわゆる「大東亜戦争」は、一億玉砕の総力戦だったから、この時代は生活万端が戦争に結びついていた。昭和館は、昭和10年代から昭和20年代の戦前戦後の暮らしを見せてくれる。

昭和館の常設展示は7階の戦前・戦中のくらしと、6階の戦後の暮らしからなる。

エレベーターで7階に登ると、導入部分のテーマは「家族への想い」、「家族の別れ」。いきなり視界に飛び込んでくるのが千人針。千人針とは、出征する兵士の「武運長久」を祈願して行われたもので、1メートル程の長さの白布に、一人一針ずつ赤い糸で縫い、結んでいく。兵士たちはこれを腹巻のように巻いて、護符とした。護られているという心理的な安心感もさることながら、戦地ではかえってノミやシラミの巣窟となり、不衛生だとして、嫌がられたとも聞く。

  このフロアーでは、「昭和10年代の家庭」、「統制下の暮らし」、「戦中の学童、生徒」、銃後の備えと空襲」という4つの単元で、戦前・戦中の日本人の暮らしを見ていく。そして、日本が敗戦を迎えた「昭和20年8月15日」を階段室に配置し、6階の戦後の暮らしへとつなぐ仕掛けだ。

 敗戦の修羅場を表現した階段室を抜けて、6階の展示は、「戦火を越えて」という導入に始まる。このフロアーの構成は、「廃墟からの出発」、「遺された家族」、「子どもたちの戦後」、「復興に向けて」の4単元からなり、これらの学習内容の擬似追体験を意図した「体験ひろば」を経て、最後は「慰霊の旅」と、「移りゆく世相」で閉めくくる構成。

このように、昭和館は太平洋戦争を挟んで戦前から戦後にかけての日本人の生活文化を回想、追体験するにはすぐれた展示ではある。だが、根本的に欠けているのは、「なぜ、太平洋戦争がおきたのか?」、「 戦争を避ける道はなかったのか?」そして、「そもそも誰が戦争を発動したのか?」という政治的、社会的背景の説明を避けていることだ。

  ましてや、日本軍に兵士、軍属として動員、強制連行された韓国・朝鮮、台湾の人々や、日本軍の軍靴に蹂躙され、最も重大な被害を蒙った中国や東南アジアの人々の暮らしに対する思いは微塵もない。

 昭和館の展示は、戦争をあたかも地震や台風のような自然現象のように捉えることで、戦争を発動した国家や軍隊、政治指導者、言論界の責任問題、批判を封印してしまっている。そもそも日本が「大東亜建設」をかたり、アジアを戦場にした戦争なのに、日本人だけの体験で、「ひもじかった」、「大変だった」と戦争を語ることの傲慢さ。

 昭和館もまた、遊就館に通底する「靖国史観」に大きく傾斜してしまっている。しかもこれが、国立の施設というのだから、はるかに罪深い!

昭和館を管理運営している日本遺族会は、戦没者遺族の相互扶助を目的に、1947年に組織された日本遺族厚生連盟がその前身。1948年3月11日に現在の名称になった。

 サンフランシスコ平和条約(日本に対する講和条約)により独立した翌年の1953年にはじめて「英霊の顕彰」を目的化。靖国神社との蜜月関係を深めるとともに、系列の政治団体「日本遺族政治連盟」を通じて保守政界との接近を強めた。

 1962年には、A級戦犯だった賀屋興宣衆議院議員が会長に就任。その後も歴代会長は自民党議員から選出されるようになり、首相として靖国神社に公式参拝した橋本龍太郎、中曽根康弘、小泉純一郎も会長をつとめた。現在の会長は、『昭和天皇メモ』(2006年7月20日『日本経済新聞』)発表以後、A級戦犯分祀に大きく傾いている古賀誠衆議院議員。

分祀、非宗教法人化により、天皇の靖国参拝に道をつける方向に魅力を感じているようだ。

  しかし、戦没者遺族たちの間には、「英霊の顕彰」を掲げ、靖国神社や保守政界と癒着した日本遺族会を「右傾化した」という批判が、当初からあった。日本遺族会が首相の公式参拝をめざしていることには、政治的理由だけでなく、キリスト教信徒や、仏教徒の間からも批判が噴出している。

 靖国神社国家護持法案が初めて国会に提出された1969年6月にキリスト者遺族の会が組織されたのを手始めに、82年7月には北海道で旭川平和遺族会が発足。日本遺族会からの分離独立を宣言した。この動きは近隣の滝川市にも波及。滝川支部が成立したほか、86年までに、東京都、神奈川県などでも平和遺族会が結成された。

 この年には仏教徒にも同様の動きがあり、浄土真宗西本願寺派の若手僧侶、信徒たちが1月に真宗遺族会を結成。これらさまざまな動きが糾合し、7月には平和遺族会全国連絡会が発足した。戦没者を無差別に靖国神社に合祀することには反対し、首相の靖国神社参拝にも反対の姿勢を貫いている。

平和遺族会の中核を占めるのがキリスト者の人々だ。日本キリスト教協議会やカトリック正義と平和協議会の人々は、帝国日本の発動した侵略戦争を正当化する靖国神社の戦争観に反対し、宗教上の理由からも、戦没者の靖国神社合祀に反対してきた。 その背景には、戦前、戦中を通じて、キリスト者が天皇制国家の弾圧、迫害のなかで、妥協、屈伏し、侵略戦争に加担してきた屈辱の歴史があった。

◆戦前、戦中の日本キリスト教
 1868年3月15日、明治維新(御一新)とともに高札の形で示された『五榜の掲示』には、徳川時代の宗教政策を引き継ぐキリシタンの禁止が示されていた。実際、1872年にはフランス人神父に信仰を告白した隠れキリシタンが弾圧された浦上信徒弾圧事件がおこり、欧米列強の抗議で、ようやく1873(明治6)年に禁教が解かれた。
   
 1890(明治23)年2月11日に下賜(かし)された『大日本帝国憲法』の28条には、信教の自由が明記されている。もっとも、「安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限り」という条件付きであり、ひとたび危険視されれば、弾圧の口実には事欠かなかった。

  実際、近代日本のキリスト教布教は、長くつづいた徳川時代以来の偏見もあり、簡単ではなかった。したがって、欧米にくらべて遅れていた医療、社会福祉の分野や、教育分野で貢献することで、しだいに教線を広げるという形をとった。内村鑑三に感化を与えた札幌農学校(今日の北海道大学)のクラーク、ローマ字を考案した明治学院のヘボンが有名だが、このほかにも、青山学院、立教、東洋英和、同志社、関西学院などの学校が創立。わが国の近代教育の普及に大きく貢献してきた。

  内村鑑三の教育勅語不敬事件を見るまでもなく、天皇制国家とキリスト教との間にはつねに緊張関係があり、しばしば衝突している。とくに条約改正交渉の進捗にともない、1899年に外国人内地雑居が話題にのぼると、この年の8月3日に「私立学校令」と抱き合わせで「文部省訓令12号」が出され、私立学校での宗教教育が禁じられた。このとき多くのキリスト教学校は、信仰を選ぶか、学校経営を取るかの存続の危機に直面した。

 文部省の態度が硬いと見るや、立教中学や東洋英和(男子)はキリスト教学校の看板を下ろした。この時の東洋英和の後身が、現在の麻布中学(麻布高校)である。いっぽう、たとえ学生が一人になっても聖書の教授と礼拝は学院の本領として、キリスト教教育を放棄しなかった明治学院は、私立中学校としての特権を返上。悲壮な覚悟で学校経営にあたらなければならなかった。翌年、文部省の態度が緩和され、訓令に従わなかった諸学校にも徴兵猶予の特権と上級学校への入学資格が認められたが、政府とキリスト教諸学校の緊張関係は、その後のしばしば表面化している。

  満州事変の翌年の1932年5月、配属将校(軍事教官)に引率されて靖国神社遊就館を見学した上智大学学生二人が、靖国神社への参拝を拒んだ。このときは大きな問題にならなかったが、その後10月になって新聞の報ずるところとなり、事態が表面化した。

「今春、満蒙・上海事変(引用者注:満州事変と第一次上海事変)没の将士を『合祀』のため挙行された靖国神社の大祭に、都下各学校生徒が軍事教官や担任の先生に引率されて護国の英霊として衷心より神前に参拝した中に、麹町区内のカトリック系の某学校(特に校名を秘す)学生中、同派(引用者注:上智はイエズス会)に所属する一部が軍事教官の命を拒否して頑として礼拝せず、なお同派に所属する九段の某宗教関係の学校の先生もその際同様な態度を示し、更に長崎の某宗教関係の中学でも同様な事件で陸軍省派遣の軍事教官が学校当局に詰問したが、煮え切らぬので、陸軍省に報告したので、軍部の人々も伝え聞いて激昂し出したので、右学校の当局は危険を感じ出し責任転嫁論を考えた結果、「神社は宗教なりや否や、文部省として確固とした解釈の訓令を一般的に発せられたし」と鳩山(一郎)文部大臣に宛てて申請してきた」(「靖国神社礼拝を学生が拒否」『報知新聞』1932年10月1日、読みやすくするため、読点を追加した)。

カトリック東京教区のシャンボン大司教は、カトリック信徒の学生らが神社や招魂社への参拝・敬礼を強要されることについて、文部省に対して宗教的行為ではないことを明らかにするよう求めた。文部省はこれらの行為の宗教性について直接の回答を避けたが、「学生生徒児童を神社に参拝せしむは教育上の理由に基づくものにして、此の場合に学生生徒児童の団体が要求せらるる敬礼は、愛国心と忠誠を現はすものに外ならず」(『文部省雑宗』140号、1932年9月30日)と回答した。

カトリック側はこれを、「神社は宗教に非ず」とする政府見解の表明と受け止めた。

かくして、上智側が折れた。
学長、神父、学生全員が全校をあげて謹慎した末、全学をあげて靖国神社に参拝。靖国神社に参拝することは、「国民としての公の義務」であって、各自の信仰とは別個であると了解したと、文部省に報告した。これは上智側の全面屈伏である。

盧溝橋事件で日中全面戦争の火蓋がきられた翌年の1938年、「挙国一致」、「尽忠報国」のスローガンのもとに、すべての物的・人的資源を国家の統制・管理下におく国家総動員法が成立した。このため、各宗教団体にも政府の戦争政策への同調が求められた。

政府のテコ入れのもと、1941年6月にはプロテスタント32教派が統合され、日本基督教団が成立した。教団統理者の富田満は、太平洋戦争の開始を、「我国の自衛並びに東洋永遠の平和確立のためにやむ終えざるに出たもの」と擁護。「和協一致して愛国の赤心を高揚すべし」(『統理者の示達』1941年12月9日)と信徒に呼びかけた。

そもそも近代天皇制は、伊藤博文の憲法構想にも明らかなように、「天皇-臣民」の関係は、キリスト教世界の「イエスキリスト-信徒」という縦の関係をモデルにしたものだ。戦時下にあたり、日本のキリスト教各派の指導者たちは、天皇制国体イデオロギーと接続した「日本的キリスト教」を発明することで、自存する道を選んだのである。

実際、戦時下のキリスト教学校は、受難の日々であった。太平洋戦争の開始とともに、青山学院では、在勤の宣教師に帰国命令が出され、1943年には60年余りの歴史を有した神学部を閉鎖。政府の「教育に関する戦時非常措置方策」によって、青山学院専門部と関東学院高等商業学部は明治学院に合併させられた。学校経営は行き詰まり、窮余の策として1944年に青山学院工業専門学校を創立している。

いっぽう、統合したほうの明治学院の道のりも平坦ではなかった。明治学院は1928年から軍事教練を受け入れていたが、教練はキャンパス内での実習から、やがて習志野の下志津や富士裾野への行軍演習へと過酷さを増した。学生たちは南京虫に苦しんだという。38年には天皇陛下の肖像写真である御真影(ごしんえい)を奉戴。太平洋戦争開戦を目前にした41年には学友会(学生会)に解散が命じられ、かわって報国隊が組織されるなど、しだいに戦時色が強化された。翌42年には学院特別防護団も編成され、43年には学徒動員のための繰り上げ卒業が行われている。

◆香港に赴いた鮫島盛隆牧師
先述した日本基督教団の戦争加担のひとつに、南方派遣宣教師があった。戦線の拡大とともに政府内に東亜局が設けられ、その指導のもとで、日本基督教団が宣教師を南方占領地に派遣し、現地基督教信徒を監視、統合しつつ、大東亜共栄圏に恭順させようとする宣撫工作であった。

「我らは祈る。キリストの恩恵、父なる神の愛、聖霊の交際、我らがその実現の一日も早からんことを望みて止まざる大東亜共栄圏の凡ての兄弟姉妹の上にあらんことを。アアメン」(日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡』(1944年発表)。


富田満の名で出されたこの文章は、日本基督教団が1943年6~8月におこなった懸賞論文に応募した75編の作品がたたき台になっていた。もっとも、懸賞論文の1等に該当作はなく、関西学院宗教主事だった鮫島盛隆牧師の論文が2等1席に選ばれた。だが、この文章は鮫島論文ではない。44年、鮫島牧師は教団本部から、「あなたの論文は2等第1席であったが、ある都合により、採用されぬようになりましたから、あしからず諒承してください」と、言われたという(鮫島盛隆『香港回想記-占領下の教会に召されて-』創元社1970年、中国語版は香港基督教出版社)。

戦後数十年を経て、『書簡』は日本キリスト教団の戦争加担を示す証拠文書として、再び脚光を浴びた。鮫島牧師はこのときには沈黙を守っていたが、『香港回想記』を読むかぎり、これは鮫島牧師の作品ではないようだ。教団が侵略戦争の片棒を担いだのは間違いないが、教団本部のいう「ある都合」とは、政府か軍部筋の圧力を想像させる。75編の応募作品が『書簡』のヒントとなったことは察するに難くないが、1等に該当作がなかったことといい、実際の『書簡』は、何かしらの政治が働いた結果と考えたほうがよさそうだ。
   
 さて、その鮫島盛隆牧師は、1943年から敗戦まで日本軍占領下の香港に赴いた。
実際、関西学院宗教主事の仕事はやりにくくなっていた。配属将校からは、「チャペルで述べた説教の内容が不穏当だから謝罪せよ。謝罪しなければ憲兵隊に申告する」(鮫島、前掲書)と脅迫されていた。「鮫島さんは危ないそうですよ」と注意してくれる友人もいた(同左)。鮫島牧師はそんな日本国内の息苦しさに嫌気がさしていた。

 すでに鮫島牧師の勤める関西学院の釘宮辰生牧師や神戸女学院の畠中博牧師は、警察当局に呼び出され、天皇現人神説とキリスト教の神観や、キリスト教の戦争と平和に対する理念などについて、厳しい訊問を受けていた。鮫島牧師の身辺にも危険が迫っていた。「もはや日本では牧師としての働きは出来にくい」。そう考えた鮫島牧師は、日本基督教団の募集に応じ、軍政下で礼拝も伝道も困難に直面している香港に、香港基督教会最高顧問として赴任する道を選んだのだった。
  
鮫島牧師の軍政上の地位は、香港占領地総督部嘱託。「敵性宗教」である中国人信徒たちを掌握し、軍政に協力させる役割があった。もっとも、鮫島牧師個人の立場はちがう。あくまでも軍政の圧迫から中国人信徒をまもり、彼らの信仰生活を維持することに身を粉にしたのである。

実際、日本軍政下の香港キリスト教もまた苦難の日々だった。
赤柱で通訳の仕事をしていた鄭宗樑さんは、スパイの嫌疑をかけられたセルウィン・クラーク博士の事件に連座して、一カ月以上を中区警察署の監獄で過ごした。戦後も香港キリスト教界の重鎮として活躍された鄭さんは、この時鮫島牧師から差し入れられた『聖書』を、終生大切にしていたという。張祝齢牧師も親英分子の嫌疑だけで、数日間中区警察署に留置された。

教会そのものの存立も危うかった。香港の離島、長洲島では、便以利會長洲堂が憲兵隊に接収され、分遣隊長の居宅兼倉庫になった。のちに龍眼が東明護老院(老人ホーム)で当時の漁民たちから聞いたところによると、教会を失った水上居民(蛋民)たちは、毎日船上から祈りを捧げていたという。九龍城のパブテスト教会も慰安所にされそうになったが、総督部副官だった菅波参謀長が、「教会を女郎屋にするなら焼いてしまえ!」と猛反対。危うく難を逃れた。教会のなかには、軍馬をつなぐ小屋になったり、十字架を切り取られたところもあったという。

日本の敗色が濃くなると共に、中国人信徒たちの食糧問題も深刻になった。巷では犬、猫、鼠はおろか、子どもを殺して食するという人肉食まで囁かれるようになった。

ある朝、…ゲストハウスの庭の隅に、肉をえぐり取られた嬰児の無残な死体が棄ててあるのを見たのである。…私たちは皆庭に出て、そのむごたらしい死体を見たのであるが、全く身の毛のよだつ思いをした。同居の婦人たちはまっさおになって自分の部屋にかけこんだ(鮫島、前掲書)。

敗戦と共に、鮫島牧師は香港基督教会最高顧問の任をとかれ、敗戦国の民として、九龍公園、赤柱のセント・スティーブンス・カレッジにあった収容所に収監された。もっとも、鮫島牧師は英語が出来たため、戦後もしばらく香港島にあった陸軍病院に駆り出され、通訳をつとめている。

特にあわれを極めたのは、発狂者となって豚小屋のような病室に閉じ込められた者達である。病院の隔離室には、驚くほど沢山の狂人がいた。わけのわらぬことをしゃべるもの、吠えるような叫びをあげる者。自分のシャツもズボンもずたずたにやぶってまっぱだかでいる者、泣きじゃくっている者など。これらのさまざまな精神病者達、彼らは到底生きて故国に帰ることの出来ない人である。此のただ一つの香港陸軍病院だけでもこれだけの狂人がきるとすれば、全戦線の病院には一体どれほどの狂人がいることだろう。彼らの狂った精神は恐らくもとに戻らないであろう。そして廃人として異境の地で死に果てるであろう。しかし故国の家族はその愛する者が狂人となって狂って死ぬことなど夢にも知らないし、又知らせてもいけない事なのだ。私の胸は痛かった。(鮫島、前掲書)


 「名誉の戦死」とか、「英霊」とかもてはやされるが、藤原彰一橋大学名誉教授(故人)によると、太平洋戦争の日本軍死者の9割以上は餓死者であったという。戦争とは、決して「カッコいい」ものではない。 

鮫島牧師が兵庫県西宮の関西学院構内にある自宅に戻ったのは1946年1月23日。まもなく関西学院宗務主事の職に復し、いっときはキリスト精神による日本の独立、復興を掲げて参議院選挙に出馬したが、泡沫に終わった。47年には賀川豊彦牧師らの援助を得て小豆島に内海教会を創立。ここの牧師を兼任した。51年より長崎県諫早市の鎮西学院長となり、その後創立した鎮西学院短期大学の初代学長となった。

◆私たちの「心の問題」はどこに?

戦前、戦中には敵性宗教として弾圧されたがために、戦時下のキリスト教指導者は国家の戦争政策にすすんで協調する選択をしてしまった。そして戦後数十年を経て、日本キリスト教団では戦争責任問題が浮上。激しい論争を経て、戦争責任告白が行われた。
こうした経験は、その後の靖国神社への合祀拒否や、首相の靖国神社参拝に反対する平和運動につながっている。

龍眼が強調したいのは、五年間続いた小泉首相の靖国参拝という「わがまま」の結果、いくたびも踏みつけられたアジアの人々の「心の問題」であり、靖国神社に複雑な思いを抱く、日本国内の人々の「心の問題」である。これらの人々の「心の問題」を無視したことで、日本はあまりにも独善的な国家になり下がってしまったのではないか?
戦後、平和憲法の制定で世界の信頼をかちとった日本。だが、この五年間で壊したものはあまりにも大きく、修復にどれだけの時間と努力が必要か、計り知れない。

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登録日:2006年 08月 31日 13:26:59

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龍眼
(男)
本名和仁廉夫。 ジャーナリスト。高校、予備校の教壇生活を経て現職。1990年代から香港問題に関わり、マカオ、台湾、中国、華僑華人世界の持つ多様な観点を紹介してきた。著書に、『旅行ガイドにないアジアを歩く・香港』(梨の木舎)、『香港返還狂騒曲』、『歴史教科書とアジア』、『東アジア・交錯するナショナリズム』(社会評論社)など。自称の「龍眼」とは、中国南部で広く食されるライチに似た果物。淡い茶褐色で、食味はジューシィ。そもそも「龍」とは、中華世界の幻の神獣。「龍眼」はその「龍の眼」に由来している。
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